16世紀の日本、戦乱と変革の渦中にあったこの国を、一人のヨーロッパ人の眼が冷静かつ克明に記録していた。その人物の名は、ルイス・フロイス。ポルトガル出身のイエズス会宣教師である。彼の遺した膨大な記録、特に大著『日本史』は、単なる布教活動の報告を超え、戦国・安土桃山時代の政治、社会、文化を映し出す比類なき歴史資料として、今日我々に多大な恩恵をもたらしている。しかし、フロイスを単なる宣教師、あるいは記録者としてのみ捉えることは、その人物像の本質を見誤るだろう。彼の視座は、その特異な経歴――ポルトガルの宮廷官僚としての経験、イエズス会という組織の一員としての使命感、そして異文化に対する鋭敏な感受性――によって形成された、多層的かつ複雑なものであった。本稿は、ルイス・フロイスという人物の生涯を徹底的に追跡し、彼が如何にして戦国日本という巨大な対象と向き合い、それを記録したのか、その眼差しの深層に迫ることを目的とする。
ルイス・フロイスは1532年、大航海時代の栄華を極めるポルトガルの首都リスボンに生を受けた 1 。彼の前半生において特筆すべきは、宗教家としての道を歩む以前の経歴である。フロイスは9歳(一説には14歳)という若さで、ポルトガルの宮廷、すなわち王立事務局に書記として仕え始めた 4 。これは単なる少年期の仕事ではなかった。宮廷という権力の中枢における書記の任務は、彼に厳格な記録管理の技術、公文書作成の作法、そして何よりも権力構造と宮廷儀礼の機微を肌で学ばせる絶好の機会となった。
この宮廷での経験こそが、後の「記録者フロイス」の礎を築いたと言っても過言ではない。宣教師の多くが神学や説教の訓練に特化していたのに対し、フロイスは早くから官僚的で体系的な思考法と、事象を客観的に整理し、記述する能力を養っていた。この特異な経歴が、彼を他の宣教師とは一線を画す存在にした。後に彼が日本の封建的な権力構造や複雑な人間関係を驚くほど的確に分析し得たのは、ポルトガル宮廷で培われた、権力者たちの動向を冷静に観察し、記録するという素養があったからに他ならない。イエズス会が後に彼を日本布教史の公式な記録者として選任したのは、決して偶然ではなく、彼のこの類稀な文筆家としての能力を高く評価した必然的な結果であった 1 。
宮廷での将来が有望視されていたであろうフロイスは、1548年、16歳で大きな転機を迎える。彼は俗世のキャリアを捨て、当時、カトリック世界で最もダイナミックな活動を展開していた修道会、イエズス会に入会したのである 3 。イグナチオ・デ・ロヨラによって創設されたこの修道会のモットー、「神のより大いなる栄光のために(Ad Majorem Dei Gloriam)」は、以後、フロイスの生涯を貫く行動原理となった 9 。
入会後まもなく、彼はポルトガルのアジア経営の拠点であり、海外布教の最前線であったインドのゴアへと派遣される 5 。ゴアの聖パウロ学院で宣教師としての神学教育や養成を受けたフロイスであったが、彼の真価が発揮されたのは、ここでもまた学問の場においてではなかった。彼の卓越した文筆能力と語学の才能はすぐに上長の知るところとなり、彼はアジア各地の布教拠点から送られてくる膨大な書簡や報告書を整理し、ヨーロッパのイエズス会本部へ送付するための公式報告書を編集するという、極めて重要な書記の役職を任されることになった 1 。
このゴアでの経験は、彼の日本への道筋を決定づける上で計り知れない意味を持った。彼は日本に足を踏み入れるより遥か以前から、フランシスコ・ザビエルやコスメ・デ・トーレス、ガスパル・ヴィレラといった先人たちが日本から送った報告書をすべて読み込み、分析する立場にあった 4 。これにより、フロイスは日本という国が直面している政治的混乱、仏教勢力との根深い対立といった布教上の困難、そして同時に、特定の戦国大名との連携や南蛮貿易がもたらす好機といった、日本宣教の光と影を詳細に把握していた。彼は白紙の状態で日本に来たのではない。いわば、ゴアの情報集積地において、日本に関する「アームチェア・エキスパート(書斎の専門家)」となっていたのである。この事前の深い知識が、彼の来日後の迅速な適応と、他の宣教師には見られない観察の鋭さ、分析の的確さを可能にした。彼はゼロから日本を学び始めたのではなく、頭の中にあった巨大な知識の地図を、自らの眼で検証し、修正し、そして深化させていくという、極めて高度な次元からその活動を開始することができたのであった。1561年、彼はゴアで司祭に叙階され、未知の国、日本への渡航の時を待つこととなる 11 。
フロイスの運命を決定づけたのは、ゴアにおける一人の人物との出会いであった。その人物こそ、日本に初めてキリスト教を伝えた使徒、フランシスコ・ザビエルである。フロイスは、日本での布教を終え、次なる目的地である中国へ向かう直前のザビエルと、その日本人協力者であったヤジロウに直接会う機会を得た 3 。
ザビエルがヨーロッパに送った書簡の中で、日本人は「きわめて理性的で、探究心に富み、名誉を重んじる」「他のいかなる異教国民よりも優れており、キリスト教の教えを受け入れるに最もふさわしい国民である」と絶賛されていたことは、当時のイエズス会内で広く知られていた 12 。ザビエルが描いたこの理想的な日本人像は、フロイスの中に日本という国に対する強烈な憧憬と、そこで福音を説くことへの燃えるような使命感を植え付けた。
このザビエルとの邂逅は、単なる精神的な感化に留まらなかった。それはフロイスの中に、一つの「理想化された日本」のイメージを形成した。ザビエルの報告は、イエズス会内部に「日本は、アジアにおける他のどの布教地とも比較にならないほど有望な土地である」という、半ば神話的なナラティブを創り出していた。フロイスの後の著作、特に『日本史』は、この来日前に抱いた理想と、彼自身が30年以上にわたって体験した日本の生々しい現実との間の、絶え間ない対話の記録として読むことができる。彼は、日本人の子供の早熟さや礼儀正しさにザビエルの言葉の正しさを確認する一方で 3 、戦国の世の凄惨な暴力や、彼の価値観からは相容れない道徳観に直面し、理想と現実の乖離に苦悩する 3 。フロイスが遺した記録の全体は、この受け継がれた理想が、日本の大地で得た生の経験と衝突し、より複雑で、より人間的な理解へと昇華されていく過程そのもののドキュメントなのである。
1563年(永禄6年)、ルイス・フロイスは31歳にして、ついに念願の日本の土を踏んだ 8 。彼が第一歩を印したのは、肥前国(現在の長崎県)の横瀬浦であった 6 。しかし、彼の前に立ちはだかった最初の、そして最大の壁は、日本語という未知の言語であった。
当時のヨーロッパ人宣教師にとって、日本語の習得は困難を極めた。その文法構造、敬語体系、そして表記法の複雑さは、ラテン語系の言語を母語とする彼らの理解を遥かに超えており、ある宣教師は日本語を「悪魔が宣教師を挫折させるために創り出した言語」とまで評したという 12 。多くの同僚が日常会話もおぼつかない中で、フロイスはゴアで発揮したのと同じ、驚異的な語学の才能を見せる。彼は九州での数年間で日本語の学習に没頭し、やがては複雑な神学論争や権力者との交渉において通訳を務めるほどの完璧な言語能力を身につけた 7 。この類稀な能力こそが、彼を単なる一宣教師から、日本の社会と文化の深奥を覗き込み、それを記録する特権的な観察者へと押し上げた最大の要因であった。
フロイスが横瀬浦で布教活動を開始するにあたり、その庇護者となったのが、日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠であった 3 。純忠はフロイスらを歓迎し、領内での布教を許可した。しかし、フロイスがこの地で目の当たりにしたのは、信仰が常に純粋な動機から生まれるわけではない、という戦国時代の冷厳な現実であった。
大村純忠のキリスト教保護は、個人的な信仰心もさることながら、ポルトガル船がもたらす莫大な富、すなわち南蛮貿易の利益を自らの港に独占するための、極めて戦略的な判断に根差していた 16 。当時の日本の大名たちにとって、ポルトガル船(ナウ船、通称「黒船」)の来航は、生糸や絹織物といった奢侈品だけでなく、鉄砲や火薬といった最新の軍事技術を手に入れることを意味した。イエズス会は、この貿易ルートに対して強い影響力を持っており、しばしば友好関係にある大名の港へポルトガル船を誘導する役割を果たした 17 。
したがって、布教の許可と貿易の利益は、いわば表裏一体の関係にあった。大名は貿易のためにキリスト教を保護し、宣教師は布教のために貿易の仲介役を担う。フロイスは、この「十字架と商業の共生関係」とも言うべき構造を、大村純忠のもとで深く理解した。この経験は、布教活動が単なる精神的な営みではなく、現地の政治経済の力学と不可分に結びついた、高度に政治的な活動であるという認識を彼に植え付けた。この初期の学びが、後の織田信長や豊臣秀吉といった天下人との交渉における、彼の現実的な立ち回りの基礎となったのである。
九州での活動を経て、1565年(永禄8年)1月、フロイスはついに日本の中心地、京都へと足を踏み入れた 6 。彼は、先輩宣教師であるガスパル・ヴィレラや、卓越した弁論で知られた日本人修道士ロレンソ了斎らと共に、畿内での布教活動を開始する 3 。しかし、彼らの活動は、この地に深く根を張る既存の仏教勢力との間に、避けられない激しい対立を引き起こした。
この対立は、単なる教義上の論争に留まるものではなかった。それは、信徒という人的資源と、彼らがもたらす布施や寄進という経済的基盤をめぐる、地域の精神的支配権を賭けた闘争であった。仏僧たちは、突如現れた異国の教えを説く宣教師たちを、民衆を惑わす危険な存在と見なした。彼らはフロイスらを「天竺から来たペてん師(詐欺師)」と呼び、その教えは「狐」や「狸」が人を化かすようなまやかしであると説いて回った 19 。
一方、フロイスもまた、その著作の中で仏教に対して極めて厳しい批判を展開している。彼は日本の諸宗派を「悪魔の教え」と断じ、特に僧侶たちが戒律を破り、世俗的な権力や富を貪っている姿を「堕落」として容赦なく糾弾した 12 。この神学的対立が最も激しい形で現れたのが、日蓮宗の僧侶、朝山日乗との論争であった。日乗は信長の側近でもあり、一貫して反キリスト教の立場から宣教師たちを攻撃し続けた。フロイスは日乗を、古代ギリシャの雄弁家デモステネスになぞらえてその弁舌の巧みさを認めつつも、その存在を「日本のアンチキリスト(反キリスト)」「肉体に宿りたるルシフェル(堕天使ルシファー)」とまで呼び、最大の敵として憎悪を込めて記録している 21 。
京都での布教活動において、フロイスらが大きな期待を寄せていたのが、時の室町幕府第13代将軍、足利義輝からの保護であった。義輝は宣教師たちに好意的であり、彼らの活動の強力な後ろ盾となる可能性を秘めていた。しかし、その期待は1565年(永禄8年)5月、突如として打ち砕かれる。義輝が、家臣であった松永久秀らの軍勢に御所を襲撃され、殺害されるという「永禄の変」が勃発したのである 3 。
この事件は、フロイスら宣教師にとって、戦国時代の政治がいかに不安定で、予測不可能な暴力に満ちているかを痛感させる、強烈な教訓となった。イエズス会の戦略は、他のあらゆる政治勢力と同様、最高権威者からの庇護を取り付けることにあった。京都における最高権威者とは、紛れもなく将軍その人であった。その将軍が、一夜にして家臣に討たれるという現実は、いかなる権威も盤石ではなく、頼みとする同盟関係がいかに脆いものであるかを白日の下に晒した。
政治的な後ろ盾を完全に失ったフロイスらは、身の危険を感じて京都からの撤退を余儀なくされる。彼らが避難先として選んだのは、商人の自治によって栄える国際都市、堺であった 3 。この経験は、フロイスに重要な戦略的思考を植え付けた。すなわち、一つの権力に依存することの危険性と、生き残るためには常に変化するパワーバランスを読み解き、複数の、時には異なる種類の権力基盤(例えば、堺の商人たちの経済力)との関係を築くことの重要性である。この永禄の変で得た手痛い教訓は、やがて現れる新たな覇者、織田信長と対峙する際に、彼がより柔軟で老練な交渉を行うための礎となったのである。
堺での雌伏の時を経て、フロイスの運命は1568年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長の登場によって劇的に転回する。そして1569年(永禄12年)、フロイスは歴史的な会見の機会を得る。場所は、信長が将軍義昭の居城として普請を進めていた二条城の建設現場であった 3 。
フロイスが記録するその情景は、極めて異例なものであった。信長は、完成した御殿ではなく、騒々しい工事現場の濠に架けられた橋の上で、自らフロイスを出迎えた。その服装は、権力者の威儀を示す豪華なものではなく、腰に虎の皮を巻いただけの簡素なものであったという 24 。この型破りな会見の様子自体が、信長という人物の既成概念に捉われない性格を雄弁に物語っていた。
信長はフロイスに対し、まるで堰を切ったかのように質問を浴びせ始めた。年齢はいくつか、ポルトガルから日本までどれほどの日数を要したか、ヨーロッパの王はどのように統治しているのか、神の教えが日本に広まらなければ国へ帰るのか――その好奇心は、単なる宗教の教義に留まらず、地理、政治、文化、科学技術といった西洋世界全般に及んだ 24 。フロイスは、この男が他の日本の支配者たちとは全く異なる知性と関心を持っていることを見抜いた。一方、信長もまた、フロイスという人物が、単なる宗教家ではなく、ヨーロッパの知識と情報を体現した貴重な情報源であることを即座に理解した。この相互の認識が、二人の間に特別な関係を築く礎となった。信長は、当時対立していた比叡山延暦寺をはじめとする旧来の仏教勢力を快く思っておらず、その牽制のためにも、フロイスら宣教師に畿内での布教活動を公式に許可したのである 3 。
フロイスが遺した『日本史』の最大の功績の一つは、織田信長という人物を、他のいかなる日本側史料にも見られないほど詳細かつ立体的に描き出した点にある 26 。フロイスの眼に映った信長は、単純な善悪の二元論では到底捉えきれない、矛盾に満ちた巨大な存在であった。
彼の記述によれば、信長は中肉中背で体つきは華奢、髭は少なく、声はよく通る甲高いものであったという 27 。その精神は、驚くほど合理的であった。神仏や異教の占いを軽蔑し、霊魂の不滅や来世の賞罰といった形而上学的な概念を信じないと公言していた 27 。生活は極めて自制的で、酒はほとんど飲まず、食事も質素を好み、早起きであった。邸宅は常に清潔に保たれ、遅刻や冗長な前置きを嫌った。戦術の天才であり、いかなる困難な状況においても大胆不敵、その決断力は並外れていた。また、身分の低い家臣とも分け隔てなく親しく話す気さくな一面もあった 12 。
しかし、その同じ人物が、恐るべき残忍さと傲慢さを併せ持っていた。フロイスは、信長が「すべての者を見下し」「家臣の進言にはほとんど耳を貸さない」絶対君主であったと記す 27 。自らを侮辱し、あるいは意に逆らう者に対しては、容赦のない懲罰を加えた。その苛烈さは、比叡山焼き討ちや、敵対した一向一揆門徒の虐殺といった行為に象徴される。家臣たちは信長に畏敬の念を抱くと同時に、常にその怒りを恐れていた 32 。
この信長像がなぜこれほどまでに鮮烈なのか。それは、ルネサンス期ヨーロッパの価値観を持つフロイスが、日本の封建的な枠組みを超えた、ある種の「近代的独裁者」の姿を信長の中に見出したからである。フロイスは、信長の合理主義や迷信の否定といった側面に、自文化のヒューマニズムと通底する精神を感じ取った 27 。同時に、聖なる仏像を城の石垣の材料として平然と用いるような、神をも恐れぬ傲慢さ(ヒュブリス)を記録した 27 。フロイスはこれらの矛盾を無理に統合しようとはせず、偉大な「カピタン(司令官)」が持つ光と影として、ありのままに描き出した。日本の主従倫理の枠外にいたからこそ可能となったこの客観的な視点が、信長の不滅の心理的肖像を後世に伝えることになったのである。
織田信長がなぜ、異教であるキリスト教を保護したのか。この問いに対する最も一般的な説明は、当時強大な政治的・軍事力を持っていた仏教勢力、特に石山本願寺の一向一揆や比叡山延暦寺を牽制するための、高度な政治的戦略であったというものである 33 。事実、信長はフロイスとの会見の席で、群衆の中にいた僧侶を指さし、「彼らは庶民を誑かす詐欺師だ」と大声で罵ったと記録されており、その敵意は明らかであった 24 。
しかし、信長の動機はそれほど単純なものではなかった。南蛮貿易がもたらす経済的利益と、鉄砲をはじめとする軍事技術への渇望も、極めて重要な要因であった 33 。フロイスら宣教師は、信長にとって、ヨーロッパの進んだ文化や技術、そして世界の情勢を知るための、かけがえのない窓口であった。信長がフロイスを幾度となく安土城などに招き、長時間にわたる会見を好んだのは、その知的好奇心が満たされることを楽しんでいたからに他ならない 24 。
一方で、信長自身がキリスト教の教義に深く帰依することは、ついになかった。フロイスは、信長が「霊魂の不滅、来世の賞罰などはない」と見なし、「禅宗の見解に同意」していると分析している 27 。彼は、あらゆる宗教を、自らの天下統一事業を推進するための道具として、冷静かつ合理的に評価し、利用した。その意味で、信長は信仰者ではなく、究極の現実主義者であり、フロイスの眼には、ある種の無神論者に近い存在として映っていたのである 30 。
1582年(天正10年)6月、日本の歴史を揺るがす大事件が起こる。本能寺の変である。この時、フロイス自身は九州にいたが、事件直後の京都に滞在していたオルガンティノ神父らからの詳細な報告書を受け取り、その衝撃的な顛末を『日本史』に記録した 36 。彼の記述は、事件直後の京の混乱と、人々の動揺を生々しく伝えており、第一級の史料的価値を持つ。
フロイスの筆は、謀反の首謀者である明智光秀に対して、極めて辛辣である。彼は光秀を「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては攻略を得意とし、忍耐力に富むが、裏切りや密会を好み、その才覚を悪用する人物」として、徹底的に否定的に描写している 31 。フロイスの記述において、光秀の動機は、信長への個人的な怨恨や政策上の対立といった複雑なものではなく、単純な野心と、彼の邪悪な本性によるものとして断罪されている 39 。
この一方的なまでの光秀への非難は、フロイスの個人的な感情を抜きにしては理解できない。織田信長は、イエズス会日本布教団にとって、最大の理解者であり、最も強力な保護者であった。その死は、布教活動の根幹を揺るがす壊滅的な打撃を意味した。対照的に、光秀はキリスト教に対して冷淡、あるいは敵対的でさえあるとフロイスは認識していた 38 。したがって、フロイスの記述は、中立的な報告というよりも、敬愛する後援者を失った悲しみと、その偉業を破壊した暗殺者への怒りに満ちた、一種の告発状としての性格を帯びている。彼の記録は、事件が同時代の人々、特に宣教師たちにどのように受け止められたかを知る上で貴重な証言であるが、光秀の動機を多角的に理解するためには、日本側の史料が提示する様々な説(怨恨説、野望説、信長非道阻止説など)と慎重に比較検討する必要がある 40 。フロイスの記録は、彼の信長への忠誠心の証であると同時に、その史料的限界を明確に示す好例とも言えるのである。
本能寺の変の後、明智光秀を討ち、織田信長の実質的な後継者として天下統一への道を突き進んだのが、豊臣秀吉であった。当初、秀吉は信長の対キリスト教政策を継承し、宣教師たちに対しては好意的な態度を示していた。彼は布教活動を公に許可し、大坂城に宣教師を招いて歓待するなど、その関係は良好であった 3 。フロイスの記録によれば、秀吉は九州のキリシタン大名・大友宗麟に宛てた書状の中で、長崎の地を教会の所領として与えることさえ明言していたという 2 。宣教師たちにとって、秀吉は信長に代わる新たな保護者となるかに見えた。
しかし、この蜜月関係は長くは続かなかった。1587年(天正15年)、九州を平定し、その権勢が頂点に達しようとしていたまさにその時、秀吉の態度は突如として豹変する。
九州平定の拠点であった博多において、秀吉は天下に衝撃を与える法令を発布する。世に言う「伴天連(バテレン)追放令」である 8 。この法令は、宣教師の国外退去とキリスト教の布教禁止を命じるものであり、イエズス会にとっては青天の霹靂であった。フロイスは、この突然の心変わりの原因を、自身の報告書の中で多角的に分析している。彼によれば、その背景には複数の要因が複雑に絡み合っていた。
第一に、秀吉個人の感情を害する事件があった。フロイスが記すところによれば、好色で知られた秀吉が、有馬のキリシタンの貴婦人を自らの側室として差し出すよう命じた際、彼女たちが信仰を理由にこれを断固として拒絶した。これに秀吉は激怒し、個人的な侮辱と受け取ったという 44 。
第二に、軍事的な警戒心があった。当時の日本準管区長であったガスパル・コエリョが、秀吉を博多沖に停泊していたポルトガルの軍艦(フスタ船)に招待した際、その大砲の威力などを誇示し、秀吉の機嫌を取ろうとした。しかしこれは完全に裏目に出た。秀吉は、宣教師たちが海外の軍事力と結びついていることを知り、将来的な侵略の野心を抱いているのではないかと強い疑念を抱いたのである 44 。
第三に、ポルトガル商人による日本人奴隷売買の問題があった。当時、一部のポルトガル商人が、日本人を奴隷として購入し、マカオや東南アジアへ輸出するという非人道的な行為を行っていた。秀吉はこの実態を知り、激しい嫌悪感と怒りを覚えたとされる 46 。
そして第四に、そしておそらく最も根本的な理由として、キリスト教という組織そのものに対する政治的な脅威があった。九州平ていの過程で、キリシタン大名たちが信仰を紐帯として強く結束している様を目の当たりにした秀吉は、この集団がかつて信長を苦しめた一向一揆のように、自らの支配を脅かす「国家内国家」を形成する危険性を察知した 46 。
究極的に、天下統一を成し遂げ、絶対的な中央集権体制の確立を目指す秀吉にとって、キリスト教は看過できない脅威であった。革命家であった信長は、旧来の権力構造(仏教勢力)を破壊するための道具としてキリスト教を利用した。しかし、統一者であり、秩序の構築者であった秀吉にとって、キリスト教は自らの絶対権力に従わない、危険な外来思想に他ならなかった。キリシタンたちの忠誠は、日本の支配者である秀吉ではなく、遠くローマにいる教皇と、天にいる唯一神に向けられている。これは、秀吉の政治思想とは根本的に相容れないものであった。コエリョの軽率な行動や、側室要求の拒絶といった個々の事件は、あくまで引き金に過ぎなかった。その根底には、秀吉の世俗的絶対主義と、教会の精神的絶対主義という、二つの相容れない権力思想の衝突があったのである。
伴天連追放令を境に、フロイスの秀吉に対する評価は決定的に辛辣なものとなる。彼が『日本史』の中で描く秀吉像は、愛憎半ばする複雑な感情が込められた信長像とは対照的に、終始一貫して侮蔑と非難に満ちている 48 。
フロイスは秀吉を、その軍事的才能や策略家としての優秀さは認めつつも、「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」と、その人格を激しく攻撃する 50 。また、その出自の低さを常に意識し、「幸運にも信長の後継者になるに及び、あらゆる方法で自らを装い、引き立たせようと全力を傾けた」成り上がり者として、その権威の正統性を疑問視した 49 。信長が持つ、フロイスの目にはある種の気高さとして映ったカリスマ性に対し、秀吉には支配者にふさわしい「気品」が欠けていると断じている 50 。
この秀吉への痛烈な批判は、単にキリスト教を迫害した為政者への反発というだけでは説明がつかない。そこには、フロイス自身のヨーロッパ的な、ある種の貴族主義的価値観が色濃く反映されている。彼は、その欠点にもかかわらず、信長の中に革命的な指導者としての偉大さと、ある種の貴族的な精神を見出していた。それに対し、農民から天下人に駆け上がった秀吉は、その狡猾さや、フロイスの目には下品と映る振る舞いによって、正当な支配者とは認めがたい存在であった。フロイスの筆は、自らの信仰を迫害し、敬愛した英雄(信長)の遺産を簒奪した男の権威を、失墜させるための武器となった。この信長と秀吉の対比的な描写は、『日本史』全体の中でも、フロイス自身の心理と偏見が最も赤裸々に表れた部分であり、極めて興味深い人間記録となっている。
1583年(天正11年)、フロイスの生涯における最大の事業が開始される。当時、イエズス会東インド巡察師として日本を訪れていた上長アレッサンドロ・ヴァリニャーノの厳命により、フロイスは布教の第一線を退き、日本におけるイエズス会の全活動を記録するという壮大な歴史編纂事業に専念することになったのである 1 。
この事業は、フロイス個人の回顧録や見聞録として計画されたものではなかった。それは、1549年のフランシスコ・ザビエル来日をもって始まり、以後数十年にわたるイエズス会の日本布教のすべてを網羅する、公式な歴史書(Historia de Japam)として構想されていた 1 。フロイスはこの大任を担うに最もふさわしい人物であった。彼の卓越した日本語能力、長年にわたる日本での経験、そして何よりも宮廷仕込みの几帳面な記録作成能力は、他の誰にも代えがたいものであった。
執筆作業は困難を極めた。フロイスは日本各地を巡り、膨大な書簡や報告書を渉猟し、関係者からの聞き取り調査を行った。その情熱は凄まじく、1日に10時間以上も執筆に没頭することもあったと伝えられている 37 。このライフワークは10年以上にわたって続けられ、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての激動の歴史が、一人の宣教師の視点を通して、克明に綴られていった。
この『日本史』が持つ歴史資料としての価値は、計り知れない。特に、織田信長、豊臣秀吉といった天下人との直接的な交流に基づく記述は、彼らの政策や思想、さらには肉声や人柄までもを現代に伝える、比類なき一次史料である 3 。しかし、その価値を正しく評価するためには、史料としての限界もまた認識しておかねばならない。フロイスの記述は、徹頭徹尾、イエズス会宣教師という立場から書かれており、キリスト教の栄光を記すという明確な目的を持っている。そのため、キリスト教に好意的な人物は称賛され、敵対する仏教勢力は「悪魔の手先」として描かれるなど、強い思想的バイアスがかかっている 6 。また、彼自身が直接見聞していない事件については、伝聞や噂に基づいている部分も少なくない 6 。したがって、『日本史』は、それ単体で歴史の真実を語るものではなく、常に日本側の史料(例えば『信長公記』など)と突き合わせ、批判的に比較検討することによって、初めてその真価を発揮する史料であると言える 53 。
フロイスが後世に遺したもう一つの重要な遺産が、『日本史』の執筆と並行してまとめられたとされる『日欧文化比較』(ヨーロッパ文化と日本文化)である。これは、16世紀の日本の社会、文化、風俗、価値観を、ヨーロッパのそれと逐一比較対照する形で記述した、驚くべき文化人類学的、あるいは民俗誌的な記録文書である 1 。
その観察眼は、驚くほど微細かつ広範囲にわたっている。食事の作法、衣服の素材や着こなし、家屋の建築様式といった日常生活の基本から、男女の恋愛観、夫婦関係、子供の教育方法、さらには死者の埋葬方法や名誉の概念(切腹)といった、社会の深層にある価値観に至るまで、あらゆる事象がヨーロッパとの「差異」というレンズを通して鮮やかに切り取られている 3 。
この著作の真の価値は、単に16世紀日本の珍しい風俗を紹介している点にあるのではない。それは、日本の姿を映すことを通して、同時に16世紀ヨーロッパの姿をも浮き彫りにする「反射する鏡」としての機能を持つ点にある。フロイスが「日本の女性は離別しても名誉を失わず、容易に再婚できる」と驚きをもって記すとき 3 、我々は同時に、当時のヨーロッパ社会において離婚や女性の再婚がいかに強い社会的スティグマを伴うものであったかを逆照射される。彼が「日本の子供は3歳で箸を使いこなし、10歳にして50歳のような分別を持つ」と称賛するとき 3 、それは暗にヨーロッパの子供たちの自立の遅さや行儀の悪さを批判しているのである。
このように、『日欧文化比較』は、日本という他者を通して、ヨーロッパ人(そして現代の我々)が自らの文化を客観的に見つめ直すことを強いる。それは、自文化の慣習が唯一絶対のものではないことを示し、洗練されたもう一つの生き方の存在を提示することで、文化相対主義的な視点を提供する、時代を遥かに先取りしたテキストであった。以下の表は、その観察の鋭さを示す一端である。
カテゴリー |
ヨーロッパの習慣 (われわれ) |
日本の習慣 |
典拠 |
身体・容姿 |
大きな目を美しいとする。鼻は高い。 |
大きな目を恐ろしいとし、涙の出る部分が閉じているのを美しいとする。鼻は低い。 |
14 |
|
女性の化粧は、それと分からぬようにするのが良いとされる。 |
女性は白粉を重ねるほど優美とされる。 |
54 |
食事・作法 |
食事中に音を立てるのは卑しい。手で食べるため食前食後に手を洗う。 |
音を立てて食べるのは立派なこととされる。箸を使うので手を洗う必要がない。 |
56 |
|
甘い物を好み、塩辛いものをあまり食べない。 |
塩辛いものを好み、甘いものをあまり食べない。 |
58 |
家族・女性観 |
未婚女性の貞操は最高の栄誉。離別は最大の不名誉。 |
処女の純潔を少しも重んじない。離別しても名誉を失わず再婚できる。 |
3 |
|
女性が文字を書くことは一般的ではない。 |
高貴な女性は文字が書けないと価値が下がるとされる。 |
3 |
宗教・死生観 |
動物を殺すことは平気だが、人を殺すことは恐ろしい。 |
動物を殺すのを見ると肝を潰すが、人殺しはありふれたことである。 |
56 |
|
自殺は極めて重い罪。死者は顔を上に向けて横たえる。 |
力尽きた時に切腹するのは勇敢なこと。死者は座らせて葬る。 |
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豊臣秀吉による伴天連追放令の後、宣教師たちの活動は著しく制限された。フロイスもまた、京都を追われ、九州、特に長崎の地を最後の活動拠点とせざるを得なくなった 2 。迫害の嵐が吹き荒れる中、老いたフロイスは、日本におけるキリスト教の歴史が最も悲劇的な一章を迎えるのを、その眼で目撃することになる。
1597年(慶長元年)、秀吉の命令により、京都や大坂で捕らえられたフランシスコ会宣教師6名と日本人信徒20名が、見せしめとして長崎で処刑されるという事件が起こった。これが「日本二十六聖人殉教事件」である。フロイスは、長崎の西坂の丘で彼らが十字架にかけられ、殉教を遂げる様を間近で目撃し、その詳細かつ感動的な報告書をローマのイエズス会総長宛てに書き送った 2 。殉教者たちの信仰の強さと、その最期の様子を克明に記録したこの文書は、ヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃を与えた。そして、これがフロイスが生涯を捧げた記録者としての、最後の公式な仕事となった。
二十六聖人の殉教報告書を書き終えた同年の1597年、ルイス・フロイスは長崎にあったイエズス会のコレジオ(大神学校)にて、65歳の生涯を静かに閉じた 2 。彼は、34年間にわたる日本での滞在中、その大半を激動の時代の目撃者、そして記録者として過ごした。
しかし、皮肉なことに、彼が心血を注いで書き上げた畢生の大著『日本史』の原稿は、その死後、彼の遺志に反する運命を辿る。フロイスは、この原稿が一切の短縮や改変を受けることなく、そのままの形でローマの本部に送られることを強く望んでいた 37 。だが、当時のイエズス会内部の事情や政治的混乱により、その願いは叶えられなかった。彼の原稿はローマへは送付されず、中継地であるマカオの聖パウロ天主堂の書庫に保管されたまま、いつしかその存在を忘れ去られてしまったのである 3 。
自らの生涯を、イエズス会の日本での活動が歴史から忘れ去られないように記録を創造することに捧げた人物が、その最大の成果物もろとも、歴史の片隅に埋もれてしまった。この事実は、歴史の記憶がいかに脆いものであるかを物語っている。最も献身的な記録者でさえ、後世の偶然と気まぐれにその運命を委ねるしかない。フロイスの不滅の遺産は、彼自身の努力によってではなく、数世紀後の偶然の再発見によって、かろうじて救い出されることになったのである。
忘れ去られていた『日本史』が再び光を浴びるのは、18世紀になってからであった。マカオでその写本が作成され、ヨーロッパの研究者たちの間でその存在が知られるようになった 3 。しかし、その全容が解明され、日本の研究者や一般の読者がその価値を広く知るようになるのは、20世紀に入ってからのことである。特に、歴史学者の松田毅一と、言語学者の川崎桃太による共同研究は画期的であった。彼らは世界中に散逸していた写本を渉猟し、長年にわたる丹念な努力の末、そのほぼ完全な形での校訂と日本語への翻訳を成し遂げた 3 。この偉業によって、フロイスの声は400年の時を超えて、現代の我々の元に届けられることになった。
今日、ルイス・フロイスの著作は、そこに内在する宣教師としてのバイアスを十分に考慮した上でなお、日本の戦国・安土桃山時代を研究する上で絶対に欠かすことのできない、第一級の歴史資料として確固たる地位を占めている 1 。それは、単なる歴史的事実の羅列ではない。そこには、権力者たちの生々しい人間性、庶民の日常の息遣い、そして一つの文化が別の文化と出会った時の驚き、誤解、対立、そして理解のすべてが刻まれている。ルイス・フロイスが遺した記録は、激動の時代を生きた一人のヨーロッパ人の眼を通して、我々に当時の日本の姿を鮮やかに、そして多角的に見せてくれる、類い稀な「時間の窓」なのである。彼の眼差しを通して、我々は自らの歴史を再発見し、異文化を理解することの複雑さと豊かさを、改めて学ぶことができるのである。