本報告書は、戦国時代という激動の時代を生きた摂関家の当主、一条房通(いちじょう ふさみち)の生涯とその活動、さらには彼が果たした歴史的役割について、多角的な視点から詳細に検証することを目的とする。房通は、伝統的権威が揺らぎ、武家勢力が台頭する困難な時代に、公家の最高位である摂関家の当主として、また、地方に勢力基盤を持つ土佐一条家の後見役として、複雑な立場に置かれながらも、政治、文化の両面にわたり重要な足跡を残した人物である。
戦国時代における公家、とりわけ摂関家の立場は極めて厳しいものであった。室町幕府の権威は失墜し、各地で武家勢力が実力をもって覇を競う時代にあって、公家は古来からの伝統と格式を保持しつつも、その実質的な政治力や経済的基盤は著しく弱体化していた 1 。五摂家と称される近衛、九条、二条、一条、鷹司の各家は、依然として朝廷における最高の家格と官位を独占し、天皇を補佐して儀式や政務を司る立場にあったが 2 、その権威の行使は、しばしば有力な武家勢力の意向や財政的支援に左右される状況にあった。例えば、天皇の即位式のような国家の最重要儀式ですら、戦国大名からの献金に頼らざるを得ないほど、朝廷と公家の財政は逼迫していたのである 3 。このような、形式的な権威と実質的な力の乖離は、一条房通をはじめとする当時の公家の行動様式や戦略を規定する大きな要因となった。彼らは、伝統的権威を維持しつつも、現実の政治状況に対応し、家門の存続を図るという困難な課題に直面していたのであり、房通の生涯もまた、この時代の公家が置かれた状況を色濃く反映していると言えよう。
一条房通は、永正6年(1509年)に誕生した 5 。父は、土佐国幡多郡に拠点を置いた土佐一条氏の第二代当主、一条房家(いちじょう ふさいえ)である 5 。母は、源惟氏(みなもとの これうじ)の娘と伝えられている 5 。房通の出生順については、多くの史料が「次男」としているが 5 、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』など一部では「三男」と記すものもあり 6 、若干の異同が見られる。本報告では、より多くの史料で一致する「次男」説を主として採用する。
房通の生家である土佐一条氏は、応仁・文明の乱(1467年-1477年)の戦火を避けるため、房通の曾祖父にあたる一条教房(いちじょう のりふさ)が、家領であった土佐国幡多荘中村に下向したことに始まる家系である 8 。教房は前関白という高い地位にありながら土佐に土着し、その子孫は幡多郡を中心とする在地領主たちの支持を得て、一種の地域権力としての性格を強めていった 9 。このように、中央の公家が地方に下向し、限定的ながらも武家的な領域支配を行う事例は戦国時代において特異な存在であり、「公家大名」とも称されることがある。しかし、その権力基盤は、伝統的な公家としての高い家格や文化的権威と、在地勢力との協調関係に大きく依存しており、純粋な武力によって領国を支配した戦国大名とは本質的に異なる側面も有していた 9 。土佐一条氏は、京都の一条本家とは密接な関係を維持しつつ、独自の勢力を築いたのであり、この土佐との繋がりは、後に房通自身の行動にも大きな影響を与えることとなる。
房通は、実家である土佐一条家ではなく、京都にある一条本家の家督を継承することになる。房通の大叔父(祖父・教房の弟)にあたる一条冬良(いちじょう ふゆよし)は、当時の一条本家の当主であったが、彼には実子がいなかった 7 。そのため、房通が冬良の婿養子となり、その後継者として迎えられたのである 5 。
養父となった冬良は永正11年(1514年)に死去しており 7 、房通はこの冬良の没後に養子縁組が正式に確定し、一条本家の第11代当主の座を相続したとみられる 6 。この相続により、房通は五摂家の筆頭格である一条家の宗家を率い、朝廷における重責を担う立場となった。戦国時代の公家社会において、家名の存続と血脈の維持は最重要課題であり、実子に恵まれなかった冬良にとって、近親である房通を養子に迎えることは、名門一条家の断絶を防ぐための必然的な選択であったと言える。一方、房通にとっては、この養子縁組が中央政界での活動基盤を得る大きな機会となった。これは、公家が家格と伝統を維持するために、婚姻や養子縁組を戦略的に活用した典型的な事例であり、土佐一条家と京本家の連携を強化するという意味合いも含まれていた可能性が考えられる。
一条房通の主要な家族構成は以下の通りである。
房通の血縁と養子縁組の関係をより明確に理解するために、以下に略系図を示す。
表1:一条房通 略系図
Mermaidの家系図
注:上図は主要な人物の関係を示すものであり、全ての家族・親族関係を網羅するものではない。特に一条房基は房通の実兄・房冬の子であり、兼定はその子であるため、系図の表現には簡略化が含まれる。
この系図からも見て取れるように、房通は京の本家と土佐の分家、双方に深く関わる立場にあった。この複雑な血縁と家督の継承関係は、房通の生涯における行動や意思決定に大きな影響を与えたと考えられる。
一条房通は、一条本家の当主として、若くして朝廷に仕え、順調に官位を昇進させていった。その活動は、後柏原天皇、後奈良天皇の二代にわたる。
房通の官歴は、早熟な昇進によって特徴づけられる。永正14年(1517年)4月30日、わずか9歳で元服し、正五位下に叙せられた。同年中には従四位上、右近衛少将、左近衛中将へと昇進している 7 。翌永正15年(1518年)には10歳で従三位に叙任され、公卿の仲間入りを果たした 6 。この若さでの公卿昇進は、五摂家という最高の家格に加え、養父・冬良亡き後の一条家を担う後継者としての期待、そして彼自身の資質の高さが総合的に評価された結果であろう。蔭位の制により、高位の公家の子孫は初位から高い位階を与えられる慣習があったが 1 、それにしても房通の昇進の速さは際立っている。
その後も昇進を重ね、天文11年(1542年)には左大臣に就任 6 。そして天文14年(1545年)6月2日、ついに人臣の最高位である関白に就任した 5 。これは養父・冬良も務めた職であり、土佐一条氏の血を引く者としては、土佐一条氏の祖である一条教房が関白を務めて以来の快挙であった 5 。関白の職は天文17年(1548年)12月27日まで務めた 7 。最終的な官位は従一位に至り、内覧の宣旨も受けている 5 。さらに天文20年(1551年)には准三宮の待遇も受けるなど 6 、名実ともに朝廷の最高実力者の一人としての地位を確立した。
房通の主要な官位叙任の経緯は以下の通りである。
表2:一条房通 官位叙任年表
年月日 |
年齢 |
官位・役職 |
典拠 |
永正14年(1517年)4月30日 |
9歳 |
元服、正五位下 |
7 |
永正14年(1517年)中 |
9歳 |
従四位上、右近衛少将、左近衛中将 |
7 |
永正15年(1518年) |
10歳 |
従三位 |
6 |
天文11年(1542年) |
34歳 |
左大臣 |
6 |
天文14年(1545年)6月2日 |
37歳 |
関白 |
5 |
天文17年(1548年)12月27日 |
40歳 |
関白辞任 |
7 |
天文20年(1551年) |
43歳 |
准三宮 |
6 |
没時(弘治2年) |
48歳 |
従一位、内覧 |
5 |
一条房通は、後柏原天皇(在位1500年-1526年)、そしてその後を継いだ後奈良天皇(在位1526年-1557年)の二代にわたって朝廷に仕えた 5 。特に後奈良天皇の治世は、皇室が経済的に最も困窮を極めた時期として知られている。朝廷の財政基盤であった荘園制が実質的に崩壊し 13 、皇室の収入は激減した。その結果、後奈良天皇は践祚(せんそ、皇位を継承すること)から10年後の天文5年(1536年)になってようやく、大内義隆や朝倉孝景といった戦国大名からの献金を得て即位の礼を挙げることができたほどであった 3 。
このような厳しい財政状況下で、関白や左大臣といった朝廷の最高職を務めた房通の役割は、単に伝統的な儀式や政務を執行するに留まらなかったと考えられる。朝廷の権威を維持し、その運営を円滑に行うためには、財政的な裏付けが不可欠であった。具体的な献金活動に関する記録は提供された史料からは確認できないものの、摂関家の当主として、房通が朝廷の財政的支援や、武家勢力との交渉に深く関与し、苦心したことは想像に難くない。天皇自身の即位式すら困難な時代にあって、摂関家は、朝廷の存続そのものを支えるための資金調達や、時には武家勢力との折衝といった、より実際的で困難な役割を担わざるを得なかったのである。房通もまた、その重責の一端を担い、朝廷の権威と秩序の維持に努めたと考えられる。
戦国時代の公家は、必ずしも無力な存在ではなかった。自らの権益や京都の秩序が脅かされた際には、断固とした対応をとることもあった。その一例が、天文15年(1546年)に起こった細川国慶(ほそかわ くにちか)による地子銭(じしせん、土地税)強制徴収問題への一条房通の対応である。
当時、管領細川氏の家督を争っていた細川氏綱(ほそかわ うじつな)の命を受けた細川国慶は、軍費を確保する目的で、京都市中の町々から地子銭を強制的に徴収しようと試みた 5 。これは、公家や寺社の荘園収入だけでなく、町衆(ちょうしゅう、都市民)の経済活動にも大きな影響を与えるものであった。この事態に対し、当時関白であった一条房通は、中御門宣胤(なかみかど のぶたね)や山科言継(やましな ときつぐ)といった他の有力公家と共に、この不当な要求に対して、必要であれば武力を用いてでも抗議することを計画したのである 5 。
この計画は、室町幕府の奉公衆(将軍直属の武士団)や一般民衆の支持も得たと伝えられている 5 。この事件は、戦国期の公家が単に伝統的権威にのみ頼るのではなく、自らの経済基盤や京都の秩序を守るためには、時には武力行使も辞さない強い意志と行動力を持ち合わせていたことを示す重要な事例である。さらに、この動きは、公家が利害を共有する他の勢力、特に経済的に力をつけつつあった町衆と連携して、武家勢力の不当な収奪に対抗しようとした可能性を示唆しており、戦国期京都における複雑な権力関係の一端を垣間見せるものと言えよう。房通のこのような断固たる態度は、摂関家当主としての責任感と、京都の秩序維持への強い意志の表れであったと考えられる。この事件の詳細は、山科言継の日記である『言継卿記』などに記されている可能性がある 12 。
一条房通の生涯において、実家である土佐一条家との関わりは極めて重要な意味を持つ。京の一条本家の当主でありながら、彼は土佐の分家の安定のため、自ら現地に赴くという行動をとっている。
房通が土佐へ下向する背景には、土佐一条家が抱えていた内部事情があった。房通の実兄にあたる一条房冬(いちじょう ふさふゆ、土佐一条氏三代当主)は天文10年(1541年)に死去しており 15 、その後を継いだ房冬の子・一条房基(いちじょう ふさもと)も若年であったか、あるいは早世したとみられ、その子である一条兼定(いちじょう かねさだ)が幼くして家督を継承するという状況が生じていた 5 。このように幼少の当主が相次ぐことは、土佐一条家の領国経営や家中の統制において、大きな不安定要素をもたらす可能性があった。
房通は、京の本家当主であると同時に、土佐一条家の血を引く者として、この分家の危機的状況を座視することはできなかった。戦国時代において、地方に下った公家(土佐一条氏など)は、中央の権威(京の本家)を後ろ盾として在地での影響力を維持しようとし、逆に京の本家は地方の分家からの経済的支援や情報網を期待するという、一種の相互依存関係にあった。土佐一条家の当主が幼少であることは、この本家と分家の間の微妙なバランスを崩しかねず、本家当主である房通による直接的な介入と後見が必要とされたのである。土佐一条氏が宗家との関係を常に保ち、宗家当主が後見役などを務めたという記録もあり 9 、房通の行動もこの文脈の中に位置づけられる。
このような背景のもと、一条房通は天文12年(1543年)、土佐国に下向した 5 。この時、土佐一条家の当主であった一条兼定はまだわずか1歳であり、房通は兼定の代理当主として、土佐の政務を執ることになった。この下向の直接的な目的は、幼い兼定を補佐し、土佐一条家の家政の安定化を図ることであった。具体的には、家臣団の統制を強化し、在地領主たちとの関係を調整し、さらには当時勢力を伸張しつつあった長宗我部氏などの周辺勢力との外交関係を適切に処理することなどが期待されたと考えられる 16 。
房通が下向した天文12年(1543年)当時、彼は既に朝廷において左大臣の職にあり 6 、公家社会の最高幹部の一人であった。そのような高位の人物が、長期間にわたり地方に下向して直接政務を執ることは、戦国時代においても異例のことであったと言える。これは、土佐一条家の安定が京の本家にとっても極めて重要であり、房通自身がその任に当たるしかないという強い危機感と戦略的判断があったことを示している。土佐の幡多荘は一条家にとって重要な経済基盤の一つであり 8 、その維持と安定は本家の経済力や影響力にも直結していたため、房通が自ら赴く価値は十分にあったと言えよう。
一条房通が土佐において具体的にどのような政務を行ったかについての詳細な記録は、提供された史料からは多くを読み取ることはできない。しかし、幼い当主・兼定の後見人として、家臣団の掌握、領内統治の安定化、そして周辺勢力との外交政策などを指導したものと考えられる。房通は、京の公家としての高い学識や教養、そして中央政界での経験を活かし、土佐の在地勢力とは異なる視点から統治に関与した可能性もある。
房通の在国は、土佐一条家の権威を高め、一時的にせよ領国の安定に寄与したことは想像に難くない。中央の最高位の公家が直接統治に関わることは、土佐国内の諸勢力に対しても大きな影響力を持ち得たであろう。しかし、房通が土佐を離れ、京都に戻った後(天文14年(1545年)には京都で関白に就任しているため 7 、土佐滞在は比較的短期間であった可能性が高い)、兼定が成長する過程で、在地武士である長宗我部元親が急速に台頭し、土佐一条家は次第にその勢力に圧迫されることとなる 9 。最終的に土佐一条家は長宗我部氏によって滅ぼされる運命を辿る。
房通のような中央の高位の公家が下向し、その権威をもって統治に関与したとしても、在地武士の力が日々強大化していく戦国時代の地方において、中央の権威のみで永続的な安定を築くことは極めて困難であった。房通の土佐における努力も、大きな時代の趨勢を変えるには至らず、その影響は限定的なものに留まったと言わざるを得ない。これは、戦国時代においては、伝統的な権威よりも実力が支配を左右するという厳しい現実を反映している。
一条房通は、政治家としての側面だけでなく、当代随一の文化人としての顔も持っていた。特に有職故実(ゆうそくこじつ)に関する深い学識は、彼の文化的貢献の中核をなすものであった。
有職故実とは、朝廷における儀式、制度、官職、法令、装束、年中行事などに関する先例や典故、およびそれらを研究する学問のことである 18 。平安時代中期以降、公家社会において極めて重視され、鎌倉時代以降、宮廷が形式的な儀礼の府となる中で、故実の知識は特定の家柄によって専門的に継承されるようになった 18 。
一条房通は、この有職故実に深く通暁しており、その学識を背景として、天文13年(1544年)に有職故実書である『唯心院装束抄(ゆいしんいんしょうぞくしょう)』を著した 20 。書名の「唯心院」は、房通の法号(死後に贈られる仏教上の名)である 6 。この著作は、『装束唯心院御抄』など複数の呼び名で伝えられている 20 。
国文学研究資料館所蔵の『唯心院装束抄』の奥書には、「斯壱冊当家着用装束以下之事旧記等取用祓之極秘重宝誠以雖不可出篋底依三中将殿房基卿御懇望令加書写所造□之也/天文十三年六月日 唯心院関白房通公 左丞相 在判」との記述が見られる 20 。これによれば、この書物は一条家において代々着用されてきた装束に関する旧記などを取りまとめて祓い清めた、極めて秘伝性の高い重宝であり、本来は箱の底から容易に出すべきものではないが、三位中将であった房基卿(土佐一条家の一条房基と考えられる)の懇望により、特別に書写して与えたものであることがわかる。この奥書が記された天文13年6月当時、房通は関白であり、かつ左丞相(左大臣)の地位にあった。
戦国時代の混乱期にあっては、こうした伝統文化や専門知識の維持・継承自体が困難になっていた。房通による『唯心院装束抄』の編纂は、単に失われつつあった公家文化の貴重な知識を記録し、保存するという学術的意義に留まらない。それは同時に、一条家がその深遠な知識を独占的に保持し、必要に応じてそれを伝授する立場にあることを内外に示すことであり、摂関家としての文化的権威を再生産する試みであったと言える。特に、土佐の分家である一条房基にこの秘伝書が与えられたという事実は、中央の高度な文化を地方の分家にも伝え、一条家全体の文化的結束と家格の高さを維持しようとする房通の明確な意図がうかがえる。武力を持たない公家にとって、有職故実の知識は自らの存在意義と権威を示す重要な手段であり、房通のこの著作は、その象徴的な成果であった。
一条房通自身が和歌に長けていたという直接的な記述は、提供された史料の中には多く見られない。しかし、彼の長男である一条兼冬は、和歌や絵画に巧みであったと伝えられており 11 、一条家全体が文化的に高い水準の環境にあったことは想像に難くない。公家にとって和歌は必須の教養であり、房通も摂関家の当主として相応の素養は持ち合わせていたと考えられる。 24 には屏風和歌の例が挙げられているが、これが房通自身の作であるかは定かでない。
房通の文化活動としては、やはり有職故実への傾倒が最も顕著であったと言える。戦国期の公家は、和歌、書道、有職故実など、多岐にわたる文化資本を継承していたが、個々の公家によってその強みや専門分野は異なっていた可能性がある。房通の場合、特に有職故実という専門的で、かつ家の権威に直結する知識体系が、彼の文化的アイデンティティの中核を成していたと考えられる。これは、彼の政治的地位や家格を補完するものであり、あるいはそれ自体が他者への影響力となりうる「知」の力であったと言えよう。彼の学識は、単なる個人的な趣味の域を超え、一条家の権威維持という戦略的な意味合いをも帯びていたのである。
一条房通の生涯を振り返る時、史料から浮かび上がるいくつかの側面を統合することで、その人物像と歴史的意義を考察することができる。
一条房通の行動や業績からは、以下のような人物像が推察される。
第一に、 責任感の強い指導者 であった点である。京の一条本家の当主として朝廷の重職を歴任する一方で、実家である土佐一条家の幼い当主の後見人として、わざわざ土佐まで下向し、現地の政務を執ったことは 5 、彼が双方の家の安定と繁栄に対して強い責任を感じていたことの表れと言えよう。
第二に、 剛直な交渉者としての一面 も持ち合わせていた。天文15年(1546年)の細川国慶による地子銭強制徴収問題においては、他の公家と連携し、武力行使も辞さないという強硬な姿勢を示した 5 。これは、公家の権益と京都の秩序を守るためには、相手が有力な武家勢力であっても断固として行動する意志の強さを示している。
第三に、 学識豊かな文化人 であったことは疑いない。『唯心院装束抄』という専門的な有職故実書を編纂した事実は 20 、彼が単に伝統を墨守するだけでなく、それを体系化し、次代に伝えようとする知的好奇心と文化の継承者としての自負を持っていたことを物語っている。
これらの側面を総合すると、一条房通は、困難な時代にあって、自らの家と公家社会の存続のために、政治的手腕と文化的力量を駆使して奮闘した、多才かつ行動的な人物であったと評価できる。 25 や 26 が示唆するように、歴史上の人物の評価は一面的ではなく、表には現れにくい複雑な内面や動機が存在しうることを考慮すれば、房通についてもさらなる多角的な分析が求められる。
一条房通の生涯は、戦国時代の動乱期において、摂関家という最高の家格を持つ公家が、いかにしてその権威と実質を維持し、家門を存続させようとしたかを示す貴重な一例である。彼が展開した京における政治活動、土佐への下向による地方経営への関与、そして有職故実を中心とした文化的活動は、いずれもそのための多角的な戦略であったと考えられる 1 。
房通は、摂関家としての伝統的権威を最大限に活用しつつも、現実の力関係が支配する戦国という時代状況に巧みに適応しようとした。地子銭問題で見せた武家勢力への対抗姿勢や、土佐一条家の後見としての実際的な統治への関与は、伝統に安住するのではなく、能動的に現実政治に関わろうとする意志の表れである。また、『唯心院装束抄』の編纂は、武力によらない文化的な権威によって一条家の存在価値を高めようとする試みであった。
しかしながら、一個人の才覚や努力だけでは、武家勢力の台頭とそれに伴う社会構造の変革という、時代の大きな流れに抗うことは極めて困難であった。公家の影響力は、戦国時代を通じて相対的に低下していく傾向にあり、房通の奮闘も、その流れを完全に押しとどめるまでには至らなかった。特に、彼が後見した土佐一条家が、彼の死後、長宗我部氏によって滅亡へと追いやられた事実は 9 、戦国期における公家の置かれた立場の限界を象徴的に示していると言えよう。房通の生涯は、まさにこの伝統的権威と現実の力との狭間で、公家としてのアイデンティティを保ちつつ、実際的な影響力を行使しようとした苦闘の軌跡として捉えることができる。
一条房通は、戦国時代の公家の中でも、中央政界での高い地位と地方における具体的な政治行動、そして顕著な文化的業績を併せ持つ、注目すべき人物である。彼の活動は、戦国期における公家の多様な生き方と、彼らが果たした複雑な役割を理解する上で、多くの示唆を与えてくれる。
特に、彼が編纂した『唯心院装束抄』は、失われつつあった宮廷の装束に関する知識を集成した貴重な史料として、後世の有職故実研究にとって重要な典拠の一つとなっている 20 。これは、房通の学識が単に一代のものではなく、文化遺産として後世に大きな影響を与えたことを示している。
政治的には、関白として朝廷を運営し、また土佐一条家の後見として地方政治にも関与するなど、その活動範囲は広かった。彼の努力が、戦国時代の大きな趨勢を覆すには至らなかったとしても、混乱期における公家社会の維持と、一条家そのものの存続に貢献したことは間違いない。
一条房通は、弘治2年10月30日(西暦1556年12月1日)、48歳でその生涯を閉じた 5 。彼の死後、次男の一条内基が京の一条家を継承し、近世においても摂関家としての高い地位を保ち続けた。房通の生涯は、戦国という時代に翻弄されながらも、自らの家と文化を守り抜こうとした一人の公家の生き様を鮮やかに示している。
一条房通は、永正6年(1509年)に土佐一条房家の子として生まれ、大叔父である京一条冬良の養子となり、摂関家一条本家の当主となった。9歳で元服して以降、順調に昇進を重ね、天文14年(1545年)には関白に就任するなど、朝廷の最高位を歴任した。その一方で、実家である土佐一条家の当主が幼少であったことから、天文12年(1543年)には土佐に下向し、後見役として現地の政務を執った。また、有職故実に深く通じ、天文13年(1544年)には『唯心院装束抄』を著すなど、文化的にも大きな足跡を残した。弘治2年(1556年)に48歳で没するまで、政治・文化の両面で精力的に活動した。
彼の生涯は、戦国という激動の時代において、伝統的権威を保持する公家、特に摂関家の当主が、いかにしてその立場を維持し、家門の存続を図ろうとしたかを象徴している。武家勢力が台頭し、旧来の秩序が崩壊していく中で、房通は京の中央政界における役割と、地方の分家に対する責任を同時に果たそうと努めた。細川国慶の地子銭問題に見られるような断固たる政治的行動、土佐への下向という実際的な地方経営への関与、そして有職故実書の編纂という文化的権威の再生産は、すべてがこの困難な時代における彼の生き残り戦略の一環であったと言える。房通の活動は、戦国期の公家が決して無力な存在ではなく、時代の変化に対応しつつ、自らの存在意義を模索し続けたことを示している。
一条房通に関する研究は、今後さらに深化する余地がある。特に以下の点が注目される。
第一に、房通が土佐に下向していた期間の具体的な統治内容や、その政策が土佐一条家の領国経営に与えた影響については、さらなる史料の調査と分析が求められる。『土佐物語』のような後代の軍記物だけでなく、一次史料に近い古文書や記録類の発掘が期待される。
第二に、房通と当時の他の有力武家勢力、例えば細川氏や三好氏などとのより詳細な関係性である 21 。彼が関白として、また摂関家の当主として、これらの武家勢力とどのような交渉や協力、あるいは対立関係にあったのかを明らかにすることは、戦国中期の畿内政治史を理解する上で重要である。
第三に、史料批判の観点から、『惟房公記(これふさこうき)』という記録 21 が、一条房通自身の日記であるのか、あるいは彼に近しい別の人物による記録であるのかについての確定も、今後の研究課題となりうる。もし房通自身の日記であれば、彼の内面や当時の公家社会の実情を知る上で、第一級の史料となるであろう。
これらの課題に取り組むことを通じて、一条房通という人物、そして彼が生きた戦国時代の公家社会の姿が、より一層明らかにされることが期待される。