一柳直盛(ひとつやなぎ なおもり)は、永禄7年(1564年)に生を受け、寛永13年(1636年)に没した、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である 1 。その生涯は、戦国の終焉と徳川幕藩体制の確立という、日本の歴史における一大転換期と完全に重なる。豊臣秀吉に仕えた兄・直末の急逝により歴史の表舞台に登場した直盛は、豊臣政権下で尾張黒田城主となり、天下分け目の関ヶ原の合戦では徳川家康率いる東軍に与して戦功を挙げた 2 。その功により伊勢神戸藩主となり、35年という長期にわたる安定した治世を築いた後、最晩年には伊予西条藩の初代藩主となるも、新領地へ赴くことなくその生涯を閉じた 3 。
彼の生涯は、秀吉子飼いの勇将として名を馳せた兄・一柳直末の影から始まり、自らの武功と時勢を見極める確かな政治感覚によって、一族を近世大名へと押し上げた軌跡そのものである。本報告書は、断片的に伝わる直盛の事績を丹念に繋ぎ合わせ、彼の出自、豊臣政権下での活躍、関ヶ原における決断の背景、そして徳川の世における大名としての統治と、その人物像を多角的に検証することで、激動の時代を堅実に生き抜き、一柳三藩の礎を築いた武将の実像を明らかにすることを目的とする。
年代(西暦) |
年齢 |
主な出来事 |
典拠 |
永禄7年(1564) |
1歳 |
美濃国厚見郡にて、一柳直高の次男として生まれる。 |
1 |
天正6年(1578)頃 |
15歳頃 |
兄・直末に呼び寄せられ、その被官となる。 |
5 |
天正7年(1579) |
16歳 |
因幡国「宿毛塚城」攻めで初陣を飾る(天正10年説あり)。 |
3 |
天正11年(1583) |
20歳 |
賤ヶ岳の戦いに「先懸衆」の一人として参陣。秀吉に賞賛される。 |
3 |
天正13年(1585) |
22歳 |
紀州征伐の千石堀城攻めで一番乗りの功を挙げる。 |
3 |
天正18年(1590) |
27歳 |
小田原征伐で兄・直末が戦死。家督を継ぎ、尾張黒田城主3万石となる。 |
1 |
天正19年(1591) |
28歳 |
従五位下・監物に叙任される。豊臣秀次に属し検地奉行を務める。 |
3 |
文禄元年(1592) |
29歳 |
豊臣秀次より5000石を加増され、3万5000石となる。 |
3 |
慶長5年(1600) |
37歳 |
関ヶ原の合戦で東軍に属す。岐阜城攻めなどで戦功を挙げる。 |
7 |
慶長6年(1601) |
38歳 |
論功行賞により1万5000石を加増され、伊勢神戸藩5万石に転封。 |
1 |
慶長15年(1610) |
47歳 |
名古屋城築城の天下普請に従事。 |
3 |
慶長19年(1614) |
51歳 |
大坂冬の陣に参戦。 |
3 |
元和元年(1615) |
52歳 |
大坂夏の陣に参戦。 |
3 |
寛永6年(1629) |
66歳 |
領内の石薬師寺を再建・完成させる。 |
3 |
寛永13年(1636) |
73歳 |
6月、1万8000石余を加増され、伊予西条藩6万8000石余への転封が決定。8月19日、任地へ向かう途中、大坂にて病没。 |
1 |
一柳氏の家伝によれば、その出自は伊予国(現在の愛媛県)の名門守護大名・河野氏の庶流とされている 7 。『寛政重修諸家譜』などの江戸時代の記録によれば、河野弾正少弼通直の子とされる一柳宣高が、大永年間(1521-1528年)に父の死をきっかけに伊予を離れ、美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市)に移り住んだことに始まるとされる 9 。宣高は、衰微した身で祖先の名を名乗ることを潔しとせず、美濃の「土岐の郡司」に相談したところ、庭に生えていた一本の柳の木にちなんで「一柳」の姓を授けられたという逸話が伝えられている 11 。
この伝承の史実性については、いくつかの観点から検討が必要である。新井白石は『藩翰譜』において、尾張国愛知郡にあった伊勢神宮領「一楊御厨(いちやなぎのみくりや)」との関連性を指摘しており、河野氏との血縁関係は後世の権威付けのための仮冒ではないかとの見方も存在する 11 。しかし、戦国から江戸初期にかけて、大名家が自らの家の格を高めるために名門の系譜に連なることを主張するのは一般的なことであった。重要なのは、一柳家自身がこの「伊予河野氏の末裔」という物語をアイデンティティの中核に据えていたという事実である。
この家系の物語は、単なる過去の栄光を語るに留まらなかった。それは、直盛の生涯の最終盤における極めて重要な決断、すなわち伊予国への転封希望を正当化する、戦略的な意味合いを帯びていたのである 4 。70歳を超えた老齢の直盛が、35年も統治して慣れ親しんだ伊勢神戸の地を離れ、縁もゆかりも薄い伊予への国替えをなぜ望んだのか。その理由は、家伝が語る「父祖の地」への回帰という物語によって説明される 4 。これは、彼の功績の集大成を「故郷への凱旋」という形で飾り、一族の永続的な繁栄の礎を築こうとする強い意志の表れであった。幕府にとっても、旧蒲生領の再編という政治的実利と、長年忠勤に励んだ老臣の願いを「物語」をもって聞き入れるという名分が両立する、双方にとって都合の良い人事であったと推察される。
直盛の青年期は、常に兄・一柳直末の存在と共にある。直末は、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がまだ織田信長の一武将であった元亀元年(1570年)から仕えた、いわゆる「子飼いの家来」であった 5 。天正元年(1573年)の小谷城攻めなどで武功を重ね、秀吉の精鋭親衛隊である「黄母衣衆(きぼろしゅう)」の一人に抜擢されるほどの勇将であった 5 。
直盛は、兄・直末が播磨国で2500石の知行を得た天正6年(1578年)頃、美濃から呼び寄せられ、その被官(家臣)として武将としてのキャリアを開始した 4 。天正7年(1579年)、秀吉の因幡攻めに従軍し、16歳にして「宿毛塚城」の戦いで初陣を飾ると、武名を挙げたと記録されている(『朝日日本歴史人物事典』では天正10年(1582年)の備中宿毛塚城攻めとする) 3 。以後、鳥取城攻め、備中高松城攻め、そして天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いへと、兄と共に秀吉軍の中核として各地を転戦した 3 。
特に賤ヶ岳の戦いでは、直末が軍奉行を務める中、直盛は「先懸衆(さきがけしゅう)」の一人として最前線で戦った 3 。この時の活躍は目覚ましく、秀吉自らから「兄にも劣るまじき者なり」と賞賛されたと『一柳家記』は伝えている 4 。この評価は、直盛のその後の運命を考える上で極めて重要である。当初、彼はあくまで「一柳直末軍団」に所属する一武将、すなわち「兄の家臣」という立場であった 5 。しかし、秀吉のこの賞賛は、彼が単に兄の威光に頼る存在ではなく、独立した武将として個人の武勇と能力を認められたことを示す転換点であった。この秀吉からの直接的な評価が、数年後に兄が不慮の死を遂げた際、直盛がその後継者として指名される強力な伏線となったことは想像に難くない。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げである小田原征伐が開始された。この戦役が、一柳直盛の運命を劇的に変えることになる。兄・直末は、秀吉の甥である豊臣秀次率いる軍勢の先鋒として、北条方の重要拠点である伊豆山中城の攻略にあたった 4 。山中城は激しい抵抗を見せ、直末は自ら将兵の先頭に立って猛攻を仕掛けたが、その最中に敵の銃弾を受け、壮絶な戦死を遂げた 17 。
秀吉子飼いの寵臣であり、一城の主であった直末の死は、豊臣軍に大きな衝撃を与えた。その訃報に接した秀吉は、「関東を得る喜びも失われてしまった」と深く嘆き、3日間ほとんど口を利かなかったと伝えられるほど、その死を悼んだ 18 。この逸話は、直末が秀吉個人にとっていかに重要で信頼された武将であったかを物語っている。
兄の死後、一柳家の家督相続が問題となった。直末には松千代という幼い嫡男がいたが、秀吉は特別な計らいをもって、弟である直盛に家督を継がせることを命じた 4 。直盛は兄の部隊を引き継いで戦功を挙げ、その功績と秀吉の配慮により、尾張国黒田に3万石を与えられ、黒田城主として大名への道を歩み始めた 1 。この家督相続は、単なる兄弟間の継承という私的な出来事ではない。秀吉が、亡き功臣への個人的な情愛を示すと同時に、一柳家が率いる精強な軍団を戦闘能力を落とさずに維持するという、極めて政治的な判断を下した結果であった。すでに武将としての実績が証明されていた直盛を後継とすることで、一柳軍団という「戦力」を豊臣政権の基盤として維持する狙いがあったのである。
尾張黒田城主となった直盛は、大名としての第一歩を確かなものにしていく。彼の知行は、後に豊臣秀次からの加増を受け、3万5000石となった 1 。関ヶ原の合戦後、伊勢神戸へ転封されるまでの約10年間、この地を本拠とした。関ヶ原後も短期間ながら黒田城を拠点としていたため、この時期の一柳領を「黒田藩」として扱う見解もある 3 。直盛は領主として黒田城に大規模な改修を施し、城の構えを大きくしたと考えられている 20 。
また、直盛は領地経営においてもその手腕を発揮した。特に、戦国時代の混乱で荒廃していた黒田の白山神社(現在の愛知県一宮市木曽川町)の社殿を再建し、祭礼を復興させた 3 。さらに、氏子が暮らす町の町並み整備も行ったことから、彼が転封した後も、地域の人々は江戸時代を通じて「一柳様」と尊崇し、祭礼では直盛の鎧を中心に練り歩いたという 3 。このことからも、彼が善政を敷き、領民から慕われる領主であったことがうかがえる。また、同市門間の伊冨利部神社には、直盛が着用したと伝わる甲冑が奉納されており、現在、一宮市の文化財に指定されている 3 。
天正19年(1591年)、直盛は従五位下・監物に叙任された 3 。この頃、秀吉の後継者として関白に就任した豊臣秀次が尾張清洲城主となると、直盛はその麾下(きか)に属し、各地で検地奉行として活動した記録が残っている 1 。文禄元年(1592年)には、秀次から5000石を加増されており、両者の関係が良好であったことがわかる 3 。
同年に始まった文禄の役(朝鮮出兵)において、直盛は多くの大名と異なり直接朝鮮半島へ渡海せず、日本国内で軍船の造船などに従事したとされる 8 。
文禄4年(1595年)、豊臣政権を揺るがす「秀次事件」が起こる。秀吉との間に確執が生じた秀次は謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹。その妻子や側近、多くの配下大名が粛清されるという悲劇に見舞われた 24 。秀次の直属ともいえる立場にあった直盛にとって、これは自身のキャリア、ひいては生命をも脅かす最大の危機であった。しかし、彼はこの粛清の嵐に巻き込まれることなく、連座を免れている。この事実は、直盛の巧みな政治的立ち位置を示唆している。彼が秀次と個人的に深入りしすぎず、あくまで尾張・美濃地域における行政官僚として実務に徹していたこと、あるいは兄・直末以来の秀吉との直接的な繋がりが、彼の身を守る盾となった可能性が考えられる。この危機を乗り越えた経験は、彼の政治的バランス感覚を一層磨き上げ、後の関ヶ原における重大な決断へと繋がっていくのである。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権は内部分裂の様相を呈し始める。徳川家康を中心とする勢力と、石田三成を中心とする勢力の対立が先鋭化し、慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の合戦へと至る。秀吉や秀次から恩顧を受けた豊臣恩顧の大名である直盛にとって、どちらの陣営に与するかは、一柳家の存亡を賭けた極めて重大な決断であった。
結論から言えば、直盛は徳川家康率いる東軍に与することを明確にした 1 。石田三成からの味方になるよう求める招きには応じなかった 7 。西軍方は、直盛の妻子を人質として大坂城に入れるよう強圧的な姿勢で迫ったが、直盛はこれを毅然と拒絶し、使者を追い返したと記録されている 25 。このエピソードは、彼の東軍参加の意志がいかに固いものであったかを物語っている。
豊臣恩顧の直盛が東軍を選んだ背景には、複数の要因が絡み合った、極めて戦略的な判断があったと考えられる。第一に、彼の本拠地である尾張黒田が、東軍の主要な進軍ルート上に位置するという地理的要因である。西軍につけば、真っ先に東軍の攻撃に晒されることは必至であった。第二に、豊臣政権内部の対立構造である。秀吉死後の政権運営を主導する石田三成ら文治派に対し、多くの武断派大名が反発していたように、直盛もまた三成のやり方に不満や疑念を抱いていた可能性は高い。そして第三に、家康が築き上げるであろう次代の天下の形を見通し、その将来性に賭けたという現実的な判断である。彼にとって、兄・直末が忠誠を誓った秀吉個人への恩義と、三成が主導する豊臣政権は、もはや別個のものと捉えられていたのかもしれない。彼の決断は、過去の恩義よりも、自らの一族と領地の未来を守り、次代の覇者を見極めるという、戦国武将としての冷徹なリアリズムが上回った結果であった。
東軍への参加を決意した直盛は、関ヶ原の前哨戦において重要な役割を果たした。彼は会津征伐に向かう家康に従い、その留守中に西軍方が挙兵すると、東軍の主力として行動を開始する 9 。
彼の最大の功績の一つが、織田秀信(信長の孫)が守る美濃国岐阜城の攻略に参加したことである 7 。福島正則や池田輝政らと共に岐阜城を攻め落とし、東軍の東海道筋における優位を決定づけた。
さらに、直盛は戦略的にも極めて重要な任務を遂行している。彼は美濃国長松(現在の岐阜県大垣市周辺)に要害を構え、西軍の主力が集結する大垣城と、石田三成の居城である近江国佐和山城との間の連絡路を遮断した 7 。これにより、西軍の連携を分断し、兵站を脅かすという大きな戦果を挙げた。これらの前哨戦における活躍が評価され、関ヶ原の本戦には直接参加することなく、その役目を終えている。
関ヶ原の合戦は、徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わった。戦後、直盛の功績は高く評価され、慶長6年(1601年)、1万5000石の加増を受け、合計5万石の大名として伊勢国河曲郡神戸(かんべ、現在の三重県鈴鹿市神戸)へ転封となった 1 。これにより、約10年間本拠とした尾張黒田藩は廃藩となり、伊勢神戸藩が新たに立藩された 19 。
一方で、直盛は戦後処理において、情誼に厚い一面も見せている。彼の義兄にあたる小川祐忠(すけただ)は西軍に与したため、改易の処分を受けた。直盛は、徳川四天王の一人である井伊直政を通じて、祐忠の助命を嘆願した 3 。結果としてこの嘆願は、祐忠の子が三成と格別に懇意であったことが家康に忌避され、認められることはなかったが、敗者となった縁者を見捨てない彼の人間性を示す逸話として注目される。
慶長6年(1601年)の伊勢神戸入封から、寛永13年(1636年)に没するまでの35年間は、一柳直盛が武将としてだけでなく、領主・統治者としての能力を最も発揮した時期であった 4 。この長期にわたる安定した治世は、彼が豊臣恩顧の外様大名から、徳川幕府にとって「信頼できる実務家大名」へと完全に変貌を遂げたことを示している。
幕府への忠勤は多岐にわたった。慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣、翌年の夏の陣には、当然のことながら徳川方として参戦し、戦功を挙げている 2 。平時においても、慶長15年(1610年)の名古屋城築城の天下普請への参加 3 、慶長16年(1611年)の伯耆国米子城の守衛、寛永10年(1633年)には九鬼久隆が転封した後の志摩国鳥羽城の守衛を命じられるなど、幕府からの軍役を忠実にこなした 3 。特に、海防上の要衝である鳥羽城の守衛を任されたことは、幕府からの厚い信頼を得ていた証左である。さらに、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の上洛や日光社参にも度々供奉し、将軍家への忠誠を形として示した 3 。
内政面では、領民の安寧と教化に心を配った。特筆すべきは、戦国時代の兵火によって荒廃していた領内の古刹・石薬師寺(現在の三重県鈴鹿市石薬師町)の再建事業である。直盛はこの大事業を推進し、寛永6年(1629年)に本堂を完成させた 3 。これは、領民の精神的な支柱である寺社を復興することで民心を掌握し、藩内の安定を図るという、巧みな統治術の一環であった。また、鈴鹿市神戸町にある龍光寺を自らの一柳家の菩提寺と定め、兄・直末の二十三回忌にあたる慶長17年(1612年)には門を寄進している 3 。
このように、直盛は派手さはないものの、普請、城番、供奉といった地道な役務を長年にわたって着実に実行した。この忠勤の積み重ねが、彼個人の評価を高め、一柳家の安泰を確固たるものにした。そして、この35年間で築き上げた幕府との信頼関係こそが、彼の生涯の最終章を飾る、異例の「伊予転封」という願い出が聞き入れられる下地となったのである。
寛永13年(1636年)、直盛は73歳という高齢に達していた。この年、彼は三代将軍・徳川家光に対し、一柳家のルーツとされる伊予国への転封を願い出るという、当時としては異例の行動に出た 4 。驚くべきことに、この願いは幕府に聞き入れられた。
この転封の背景には、いくつかの要因が考えられる。一つは、一柳家の家伝や『一柳家史紀要』が記すように、高齢となった直盛が、正室・常法院殿(寛永11年没)を亡くしたこともあり 3 、自らの祖先の地で生涯を終え、その地を子孫に長く伝えたいという強い「望郷の念」を抱いたという個人的な動機である 4 。
もう一つは、当時の伊予国における政治的状況である。直盛が転封を願い出た頃、伊予では松山藩24万石の藩主であった蒲生忠知が嗣子なく急死し、蒲生家は改易となっていた 4 。これにより広大な領地が空き、幕府はその再編を進めていた。後任として家康の甥にあたる松平定行が15万石で松山に入封したが、西条周辺の領地はまだ配分先が決まっていなかった 4 。長年にわたり幕府に忠勤を尽くしてきた老臣・一柳直盛を、加増の上でこの地に入れることは、幕府の西国支配戦略にも合致する、時宜を得た人事であった。
結果として、直盛は1万8000石余を加増され、合計6万8000石余の大名として伊予国西条への転封が決定した 1 。
しかし、念願であった父祖の地への「凱旋」は、実現することなく終わる。寛永13年(1636年)8月19日、新領地である伊予西条へ赴く途中、旅宿としていた大坂の屋敷で病に倒れ、73年の生涯を閉じた 1 。
その遺体は、大坂上寺町(現在の中央区谷町)にある大仙寺に葬られた 3 。また、長年過ごした伊勢神戸の菩提寺・龍光寺には遺髪が納められた髪塚が築かれ 3 、これから治めるはずであった西条の常福寺には位牌が安置された 30 。
直盛の死後、その広大な遺領は、幕府の許可のもと、彼の3人の息子たちによって分割相続されることになった 1 。これは、大名の遺領相続が幕府の厳格な管理下に置かれていた当時において、直盛と一柳家に対する幕府の評価の高さを物語っている。彼が生前に分割の意向を示していた可能性も高く、息子たちそれぞれに大名としての地位を確保し、一族の未来を盤石にしようとした親心と、長期的な視点がうかがえる。この分割が、後に一柳家の血脈を二つの大名家として明治の世まで伝える礎となった。
相続者 |
藩名 |
石高 |
主要な領地 |
典拠 |
長男・一柳直重 |
伊予西条藩 |
3万石 |
伊予国新居郡、宇摩郡、周敷郡の一部 |
3 |
次男・一柳直家 |
伊予川之江藩 → 播磨小野藩 |
2万8600石余 |
伊予国宇摩郡・周敷郡の一部(1万8600石余)および播磨国加東郡(1万石) |
1 |
三男・一柳直頼 |
伊予小松藩 |
1万石 |
伊予国周敷郡、新居郡の一部 |
3 |
一柳直盛の人物像は、兄・直末のような華々しい武勇伝に彩られているわけではない。しかし、その生涯を丹念に追うと、堅実で信頼に足る実力派の武将としての姿が浮かび上がってくる。
青年期には、賤ヶ岳の戦いや紀州征伐の千石堀城攻めで一番乗りの功名を挙げるなど、確かな武功を立て、豊臣秀吉からも「兄にも劣るまじき者なり」と直接評価されている 3 。関ヶ原の合戦では、冷静な判断力で自家の存続を確実なものにし、江戸時代に入ってからは35年間にわたる藩の統治能力と、幕府への地道な忠勤ぶりで、その実務能力の高さを証明した。縁故者を大切にし、西軍に与した義兄の助命を嘆願したり、家中で大きな揉め事を起こさなかったとされることから、情誼に厚く、人望のある人物であったと推測される 3 。
彼の遺品とされるものもいくつか現存している。愛知県一宮市の伊冨利部神社には、彼が黒田城主時代に奉納したと伝わる甲冑が大切に保管されており、市の文化財に指定されている 3 。また、刀剣の世界では「一柳安吉」の名で知られる重要文化財の短刀は、元は直盛が所持していたもので、後に前田家に伝わったとされる 3 。これらの品々は、彼が生きた時代の息吹を今に伝えている。
直盛の生涯最後の事業ともいえる伊予転封と遺領分割は、結果として一柳家の血脈を三つの藩として分立させ、その後の歴史を大きく左右した。
直盛の決断は、結果的に宗家が改易されるという悲運に見舞われながらも、二つの分家を大名として存続させることに成功した。これは、戦国の動乱を生き抜き、徳川の世に一族の安泰な未来を築こうとした彼の生涯の、確かな結実であったと評価できる。
一柳直盛の生涯は、戦国時代の華やかな英雄譚とは一線を画す。しかし、そこには、時代の激しい変化の波を巧みに乗りこなし、一族の繁栄の礎を築き上げた、一人の武将の堅実な生き様が刻まれている。
秀吉子飼いの勇将であった兄・直末の死という悲劇と逆境を乗り越え、彼は自らの武功と、時勢を見極める冷静な判断力をもって歴史の表舞台に立った。豊臣政権下では実務能力に長けた領主として頭角を現し、天下分け目の関ヶ原では、過去の恩義に囚われることなく、未来を見据えた的確な政治判断で徳川方につき、自らの家を存続へと導いた。
江戸時代に入ると、彼は幕府の信頼篤い、忠実で有能な大名として35年もの長きにわたり伊勢神戸を治め、領内の安定に尽力した。そして最晩年には、自らのルーツとされる父祖の地への「凱旋」という壮大な夢を抱き、それを実現させるだけの政治的地位を築き上げた。その夢の実現を目前にして道半ばで没したものの、息子たちに未来を託すという最後の事業を成し遂げ、一柳家を明治の世まで続く大名家として歴史に刻み込むことに成功した。
一柳直盛の生涯は、派手な成功物語ではない。だが、それは激動の時代を生き抜くための知恵と忍耐、そして一族の繁栄を願う強い意志に貫かれた、近世大名創設者としての確かな足跡であり、その歴史的意義は高く評価されるべきである。