本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、一栗高春(いちくり たかはる/ひとつくり たかはる)の生涯と事績について、現存する資料に基づき詳細に明らかにすることを目的とします。特に、大崎家臣としての活動、葛西・大崎一揆における役割、最上家への仕官、そしてその最期に至る経緯を重点的に扱います。
一栗高春は、大崎氏の家臣であり一栗城主を務め、葛西・大崎一揆の際には居城(または佐沼城)に籠城し、最後まで奮戦したと伝えられています。一揆鎮圧後は最上家に仕え、鶴岡城番などを務めましたが、最終的には謀叛の疑いにより誅殺された、あるいは内訌に巻き込まれて討死したとされています。彼の生きた天正年間から慶長年間は、豊臣秀吉による奥州仕置、関ヶ原の戦いを経ての所領再編、そして大坂の陣へと至る徳川幕藩体制の確立期にあたり、奥羽地方にとってまさに激動の時代でした。高春の生涯は、このような時代の大きな転換期に翻弄されつつも、武士として生きようとした一人の人物の軌跡を映し出しています。
しかしながら、一栗高春に関する史料は断片的であり、特にその出自や最期については異なる記述も見られます。これは、高春のような地方の武将に関する記録が、中央の正史に比べて限られていること、また、立場によって記録の内容が左右されることがあるためです。本報告書では、これらの情報を比較検討し、多角的な視点から人物像に迫ることを試みます。
本報告書の構成は、まず一栗氏の出自と高春自身について述べ、次に大崎家臣としての活動、葛西・大崎一揆における動静、最上家への仕官、そして最期について詳述します。最後に、関連史料と高春の評価についてまとめます。
以下に、一栗高春の略年表を示し、本報告の理解の一助とします。
表1:一栗高春 略年表
和暦(元号・年) |
西暦(おおよその年) |
出来事(高春の行動、関連事件) |
関連人物 |
関連場所 |
備考 |
生年不明 |
不明 |
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永禄10年 |
1567年 |
主君・大崎義隆より一栗の領地を安堵される(当時「千増丸」か) 1 |
大崎義隆 |
一栗 |
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天正18年 |
1590年 |
奥州仕置により主家・大崎氏改易 2 。葛西・大崎一揆勃発 2 。 |
豊臣秀吉、木村吉清 |
大崎領 |
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天正18年~19年 |
1590年~1591年 |
葛西・大崎一揆に祖父・放牛と共に参加。佐沼城に籠城し奮戦 3 。 |
一栗放牛、伊達政宗 |
佐沼城、一栗城(異説あり) |
佐沼城落城前に脱出 3 。放牛は討死 4 。 |
天正19年以降 |
1591年以降 |
出羽へ落ち延び、最上義光に仕える 3 。知行千石、添川楯主、鶴岡城番を務める 4 。 |
最上義光 |
出羽国、添川楯、鶴岡城 |
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慶長19年 |
1614年 |
最上義光死去(正月) 6 。最上家親が家督相続。 |
最上家親 |
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慶長19年(6月1日説あり) |
1614年 |
最上家内訌に関連し、謀叛(または大坂方内通嫌疑)により誅殺、あるいは討死 4 。 |
清水義親、志村光惟、新関久正 |
鶴岡城下、添川楯 |
複数の説が存在。 |
一栗高春の人物像を理解する上で、まず彼が属した一栗氏の背景と、彼自身の名や呼称について整理する必要があります。
「一栗」の読み方については、現在では「いちくり」と読むのが一般的ですが、かつては「ひとつくり」であったという説があります 3 。特に『岩出山町史』では「ひとつくり」とされている点が注目されます 3 。この読み方の違いは、時代や地域による発音の変化、あるいは記録上の揺れを示している可能性があります。
一栗氏の本姓は氏家(うじいえ)氏であったとされています 1 。史料には「氏家(一栗)兵部隆春」との記述が見られ 3 、「一栗氏は本姓氏家で、兵部本人は義隆から重用された経歴の持ち主であった」との指摘もあります 1 。戦国時代の武士は、所領の地名を名字(苗字)としつつ、古来からの氏族名を本姓として持つことが一般的でした。「一栗」という名字は、彼らの本拠地であった玉造郡一栗(現在の宮城県大崎市岩出山下一栗) 6 に由来すると考えられ、氏家という本姓を持つことは、より広範な血縁的・政治的ネットワークに属していた可能性を示唆します。大崎義隆から高春が重用された背景には、この氏家氏としての側面も影響していたかもしれません。
高春の祖父とされるのが、一栗放牛(いちくり ほうぎゅう、または ひとつくり ほうぎゅう)です。放牛も大崎氏の家臣であり、陸奥国一栗城主であったとされます 5 。放牛は法名(仏門に入った者の名)であり、葛西・大崎一揆の際には、孫の高春と共に一揆方として佐沼城に籠城し、奮戦の末に92歳という高齢で討死したと伝えられています 4 。この高齢での戦死は、一栗氏の武門としての気風を象徴するものと言えるでしょう。『岩出山町史』によれば、一栗城の西館には隠居していた放牛がいたとされ 3 、一族の長老として重んじられていたことがうかがえます。
高春の諱(いみな、実名)は「高春」の他に「隆春」とも記されることがあります 3 。この表記の揺れは、当時の記録の特性によるものか、あるいは何らかの意図があった可能性も考えられます。特に「隆春」の「隆」の字は、彼の主君である大崎義隆の諱の一字と同じであり、もしこれが偏諱(主君が家臣に諱の一字を与えること)によるものであれば、高春が義隆から特別な信頼や期待を寄せられていた証と解釈できます。
官途名(朝廷の官職に由来する通称)としては、「豊後守(ぶんごのかみ)」を称し、後に「兵部(ひょうぶ)」を称したとされています 4 。大崎家臣時代には主に「兵部」を名乗っていたと考えられ、これは軍事を司る兵部省に関連する官職名であることから、彼の武人としての役割と合致しています 1 。これらの官途名の変遷、あるいは併用は、彼のキャリアにおける地位の変化や役割の変遷を示している可能性があり、その時々の立場を反映していたものと考えられます。
一栗高春は、陸奥国の名族である大崎氏の第12代当主・大崎義隆に仕えた武将です 6 。大崎氏は足利一門斯波氏の流れを汲み、奥州探題を世襲した家柄でしたが、戦国時代には伊達氏などの周辺勢力に圧迫され、その勢力はかつてほどではありませんでした 10 。
そのような状況下で、高春(兵部)は主君・義隆から重用されたと記録されています 1 。特筆すべきは、永禄10年(1567年)に大崎義隆が家督を相続した際、高春(当時は千増丸という幼名または元服前の名であった可能性あり)に対して、一栗の領地を安堵する旨の証文がわざわざ出されていることです 1 。家督相続直後という重要な時期に所領安堵を受けることは、その家臣が新当主の体制においても引き続き重要な存在と認識されていたことを意味します。これは、一栗氏(本姓氏家氏)が先代から大崎氏にとって重要な家臣であり、その忠誠と能力、そして家格が評価されていたことを示唆しています。「元来、大崎氏は慣例を重んじ」たという記述 1 からも、この安堵は先例に倣いつつも、義隆が高春個人および一栗家の将来に期待を寄せていた証と考えることができます。
高春の居城は、玉造郡一栗(現在の宮城県大崎市岩出山下一栗)にあった一栗城(ひとつくりじょう/いちくりじょう)でした 3 。この城の正確な築城年代は不明ですが 3 、一説には高春の祖父・一栗放牛によるものとも伝えられています 8 。『岩出山町史』には、城の具体的な構成についての記述があり、それによれば中館に城主である氏家兵部(高春)、東館に家来の千田雅楽之丞、西館に隠居していた放牛、そして小館に家来の半田土佐守がそれぞれ居住していたとされています 3 。この記述は、一栗城が単なる軍事拠点ではなく、高春を中心とする一栗氏とその家臣団の生活および統治の中心地であったことを示しています。
一栗城の構造は、谷を囲むようにコの字形に尾根が走り、大きく4つの曲輪群で構成されていたようです。それぞれの曲輪は堀切によって巧みに遮断され、高い切岸(きりぎし、人工的な急斜面)や虎口(こぐち、城の出入り口)も確認できることから、本格的な防御機能を備えた山城であったことがうかがえます 3 。このような城郭の構造は、高春が在地領主として一定の軍事力を保持し、大崎氏の領国支配体制の中で、一栗周辺地域の防衛と統治を担っていたことを物語っています。
高春と地域との結びつきを示すものとして、宮城県大崎市岩出山下一栗宿にある樹林寺の存在が挙げられます。この寺は、氏家兵部隆春(高春)を開基としており、境内にはその供養塔が現存するとされています 3 。開基であるということは、高春がこの寺院の創設や再興に深く関与したことを意味し、彼が領主として軍事・統治だけでなく、地域の信仰や文化にも影響力を持っていた可能性を示しています。これは、戦国武将が領地支配において、寺社との関係を通じて民衆掌握や地域秩序の維持を図っていたことを示す一例と言えるでしょう。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業の一環として奥州仕置が断行されると、一栗高春の運命は大きく揺らぎ始めます。彼の主君であった大崎義隆は、小田原征伐に参陣しなかったことを理由に、長年支配してきた領地を没収され、改易という厳しい処分を受けました 2 。これにより、大崎氏は戦国大名としての歴史に幕を閉じることになります。
大崎氏の旧領には、新たに木村吉清・清久親子が領主として入部しましたが、彼らが行った検地や刀狩などの急進的な統治政策は、旧葛西・大崎両氏の家臣団や在地領主、さらには農民たちの強い反発を招きました 2 。その結果、同年10月、旧大崎・葛西領の各地で大規模な一揆、すなわち葛西・大崎一揆が勃発するに至ります 2 。この一揆は、豊臣政権による新たな支配体制に対する、旧領主層を中心とした最後の組織的な抵抗運動の一つでした。
主家を失った一栗高春は、この葛西・大崎一揆に身を投じます。彼が一揆に加担したことは、旧体制(大崎氏支配)への強い帰属意識の表れであり、新しい支配者に対する抵抗の意思を示すものでした。高春の籠城地については情報に錯綜が見られます。ユーザー様から提供された情報や一部の資料 8 では、高春は自らの居城である一栗城に一族と共に籠城し、伊達政宗軍の攻撃を受けて落城したとされています。
しかしながら、より複数の史料で具体的に言及されているのは、佐沼城(さぬまじょう、現在の宮城県登米市)での籠城です。これらの史料によれば、一栗高春は祖父の一栗放牛と共に一揆の中心拠点の一つであった佐沼城に入り、伊達政宗を主力とする鎮圧軍を相手に激しく戦いました 3 。佐沼城には数千人規模の一揆勢が立て籠もったとされ 12 、鎮圧軍による攻城戦は熾烈を極めました。天正19年(1591年)7月、佐沼城はついに落城し、城内の武士500人、百姓など2000人余りが討ち取られるという徹底的な殲滅戦が展開されたと記録されています 12 。この凄惨な戦いの中で、祖父・一栗放牛は城を枕に討死しましたが 3 、高春は落城寸前に辛くも城を脱出することに成功したと伝えられています 3 。
籠城地に関する情報の違いは、いくつかの可能性が考えられます。例えば、一揆の初期段階では本拠地である一栗城で抵抗し、その後、戦況の変化に伴い主要拠点である佐沼城へ移って合流したのかもしれません。あるいは、佐沼城での奮戦が特に大規模で著名であったため、その記録が中心的に残ったということもあり得ます。いずれにせよ、彼が伊達政宗が率いる大軍に対して徹底抗戦を貫いたという事実は、複数の情報源で一致しており 6 、その武勇と戦術眼、そして武運の強さがうかがえます。
葛西・大崎一揆の鎮圧後、佐沼城から脱出した高春は、追われる身となり、出羽国(現在の山形県および秋田県の一部)へと落ち延びました 6 。この一揆での経験と、そこで示した武勇が、彼のその後の運命を大きく左右することになります。
葛西・大崎一揆で敗れ、旧領を追われた一栗高春でしたが、その武名は広く知れ渡っていたようです。出羽国へ落ち延びた後、高春はその武勇を高く評価した出羽の大名・最上義光(もがみ よしあき)に召し抱えられました 3 。最上義光は、葛西・大崎一揆の際には豊臣政権側に立ち、間接的にではあれ一揆鎮圧軍の一翼を担う立場にありました。そのような敵対関係にあったにも関わらず、義光が一揆軍の将であった高春を登用したという事実は、戦国武将の能力主義的で実利的な人材登用観を示すと同時に、高春の武勇がいかに卓越していたかを物語っています。
最上家に仕えた高春は、知行千石を与えられたと記録されています 3 。これは当時の武士としては破格の厚遇であり、最上家中でも相当な高位の家臣に匹敵するものでした。このことからも、義光が高春の能力に大きな期待を寄せていたことがうかがえます。義光は、高春の武勇だけでなく、彼が旧大崎家臣団に対して持つ影響力や、奥羽地方の地理・情勢に通じている点なども評価したのかもしれません。
最上家における高春の具体的な役職としては、まず田川郡添川楯主(そえかわたてぬし)に任じられたとされています 3 。添川楯は現在の山形県鶴岡市添川にあったと推測され、庄内地方における軍事的な要衝であったと考えられます。さらに、高春は鶴岡城(山形県鶴岡市)の城番も務めたと伝えられています 4 。鶴岡城は、最上氏が庄内地方を支配する上での中心拠点であり、その城番を任されるということは、義光からの信頼が極めて厚かったことを示しています。
大崎氏の旧臣である高春は、最上家にとっては外様の家臣という立場でした。そのような彼が、最上氏にとって戦略的に重要な庄内地方の守りという枢要な役職に就いたことは、義光が家柄や出自よりも実力を重んじる人物であったこと、そして高春の武勇と経験が即戦力として高く評価されたことを明確に示しています。しかしながら、外様であるが故に、主君の代替わりや家中の政争といった局面においては、より複雑で不安定な立場に置かれやすかった可能性も否定できません。この厚遇と信頼が、後の彼の運命に皮肉な影を落とすことになります。
最上義光の下で厚遇され、重用された一栗高春でしたが、その安定は長くは続きませんでした。慶長19年(1614年)正月、英傑として知られた最上義光が死去すると 6 、最上家は大きな転換期を迎えます。義光の跡は、子の最上家親(いえちか)が継ぎましたが、この家督相続を巡って家中には不穏な空気が流れ、やがて深刻な内訌へと発展していったとされています 6 。
この最上家の混乱の中で、一栗高春は非業の最期を遂げることになります。しかし、その死に至る経緯については複数の説が存在し、真相は必ずしも明らかではありません。
説1:家督相続への不満と重臣襲撃事件
一つの説では、高春は最上家親の家督相続に異を唱えたとされています 6。そして慶長19年(1614年)、鶴岡城下の新関因幡守(にいぜき いなばのかみ)の邸宅において、亀ケ崎城(現在の酒田市)主の志村光惟(しむら みつただ/みつよし、名は光清とも 3)と大山城(尾浦城、現在の鶴岡市大山)主の下次右衛門(しも つぐえもん)という最上家の重臣二人を襲撃し、殺害したとされます。その後、高春は自らの拠点である添川楯に立て籠もりましたが、間もなく鎮圧軍に攻められ討死した、というものです 6。この説に従えば、高春の死没年は慶長19年(1614年)となります。
説2:最上騒動と清水義親の関与
別の説では、この事件の背景に最上義光の子であり家親の弟にあたる清水義親(しみず よしちか)の存在が示唆されています 3。いわゆる最上騒動(家親と義親の対立が主軸とされる家中の権力闘争)の中で、高春は清水義親の意を受け、あるいは連携して志村光清(前述の光惟と同一人物か、あるいは近親者と考えられます)を殺害したものの、結果として高春自身も討たれた、とされています 3。
説3:大坂方内通嫌疑による誅殺
さらに異なる説として、高春の死は、同年の大坂冬の陣直前の出来事として語られています 4。この説によれば、高春は最上義光の三男である清水義親と共に、豊臣方(大坂方)に内通しているとの嫌疑をかけられ、新関久正(にいぜき ひさまさ、前述の新関因幡守と同一人物または関連人物の可能性があります)によって誅殺されたとされています 4。この場合の没日は慶長19年6月1日(西暦1614年7月7日)と具体的です。ユーザー様から提供された情報にある「謀叛を起こして誅せられた」という内容は、この説に近いものと言えます。
これらの説を比較検討すると、いくつかの共通点と相違点が見えてきます。説1と説2は、高春が志村氏を殺害し、その後自身も命を落とすという点で一致しており、その背後に清水義親の影が見え隠れする点が重要です。志村光惟(光清)や下次右衛門は、家親派の重臣であった可能性が高く、彼らを襲撃したのであれば、それは清水義親派によるクーデター未遂、あるいは家親派への先制攻撃の一環であったと解釈できます。
一方、説3は、高春の死の直接的な理由を「大坂方への内通嫌疑」とし、戦闘による「討死」ではなく計画的な「誅殺」であったとしている点が大きく異なります。慶長19年(1614年)という年は、まさに大坂冬の陣が勃発した年であり、全国の諸大名は徳川方につくか豊臣方につくかの選択を迫られ、家中の路線対立が先鋭化しやすい緊迫した状況でした。清水義親が実際に大坂方と通じようとしていたのか、それとも家親派が彼を排除するための口実として内通の嫌疑をかけたのかは定かではありませんが、高春がこれに連座した、あるいは巻き込まれたという構図は、当時の政治状況と照らし合わせても不自然ではありません。もしこの説が事実であれば、高春は旧主大崎氏の滅亡(豊臣政権による)を経験し、最終的には豊臣方への与望を抱いた(あるいはそのように疑われた)結果、新しい支配者である徳川体制の確立過程で命を落としたことになり、彼の生涯は時代の大きな転換点と深く結びつくことになります。「誅殺」という言葉は、正規の戦闘による死ではなく、計画的な殺害(暗殺や処刑)を意味し、事件の背後にある政治的な謀略の強さを感じさせます。
高春が清水義親と結びついた背景には、最上義光から受けた恩顧への思いや、家親の新体制に対する何らかの不満があったのかもしれません。あるいは、外様家臣としての立場から、家中の権力闘争において特定の派閥に与することで自らの地位を保とうとした可能性も考えられます。
これらの諸説が存在することは、一栗高春の最期に関する一次史料が乏しいか、あるいは異なる立場からの記録が断片的に残存していることを示しています。これは、特定の「正史」が存在しにくい戦国末期から江戸初期の地方史研究においてしばしば見られる現象であり、歴史像が一面的ではないことを物語っています。
一栗高春の生涯や事績を明らかにする上で参照される史料は限られていますが、いくつかの記録からその人物像を垣間見ることができます。
特に重要な地方史料として『岩出山町史』が挙げられます。この史料には、一栗氏の読み方(「ひとつくり」)、一栗城の具体的な構造や城内の居住者(高春本人や祖父・放牛を含む)に関する記述が見られ 3 、高春研究における基礎的な情報を提供しています。また、『日本城郭大系〈第3巻〉山形・宮城・福島』も、一栗城に関する専門的な情報源として参考にされています 3 。これらの地方史料や城郭研究の成果は、中央の記録には残りにくい、高春のような在地領主の具体的な活動を知る上で不可欠です。
仙台藩が編纂した『貞山公治家記録』には、大崎氏に関する記述が含まれており、高春が生きた時代の奥羽地方の情勢や大崎氏の動向を理解する上で、間接的ながら手がかりとなる可能性があります 15 。
近年では、インターネット上の情報として、Wikipediaの記事などが存在しますが 4 、これらの二次情報源は既存の研究や伝承をまとめたものであり、利便性が高い一方で、元となる一次史料の裏付けが必ずしも十分ではない場合があることに留意が必要です。実際に、高春やその祖父・放牛に関するWikipediaの記事については、参考文献や出典の不足が指摘されており 4 、情報の取り扱いには慎重さが求められます。
高春の武勇については、複数の記録が一致して高く評価しています。葛西・大崎一揆における佐沼城での奮戦ぶり 6 や、後に最上義光が高春の「武勇を買った」という記述 4 から、彼が当代において優れた武将として広く認識されていたことがうかがえます。また、祖父の一栗放牛も92歳という高齢で佐沼城に籠城し、奮戦の末に討死したとされており 4 、一栗氏が武門の家柄としての気風を持っていたことを示唆しています。
後世に一栗高春の存在を伝える痕跡として、宮城県大崎市岩出山下一栗の樹林寺に、開基・氏家兵部隆春(高春)の供養塔が現存すると伝えられていることは特筆に値します 3 。この供養塔の存在は、高春がその故地において単なる武力支配者としてではなく、信仰や地域共同体と結びついた存在として記憶され、後世の人々によって弔いの対象とされてきたことを示しています。「開基」とされていることから、彼が樹林寺の創設や再興に重要な役割を果たしたと考えられ、領主としての一面を伝える貴重な手がかりです。
これらの史料や伝承を総合すると、一栗高春は、困難な時代にあって武勇をもって名を上げ、主家や地域と深く関わりながら生きた武将であったと評価することができます。
一栗高春の生涯は、まさに戦国乱世の終焉から江戸初期へと至る、奥羽地方の激動期を象徴するものでした。大崎氏の忠実な家臣として、旧体制の中でその武勇を発揮し、主家の滅亡という悲運に見舞われた後も、新興大名である最上氏にその才を認められて仕官を果たしました。しかし、最終的には主家の内訌という抗いがたい時代の大きなうねりの中で、謀叛の嫌疑、あるいは政争の犠牲となり、非業の最期を遂げました。その生涯は、武士としての矜持を貫き通そうとしながらも、個人の力だけではどうすることもできない時代の奔流に翻弄された、波乱に満ちたものであったと言えます。
彼の生き様は、奥羽地方における在地領主層が、豊臣政権による中央集権化、そして徳川幕藩体制の確立という歴史的変革の中で、いかにして生き残りを図り、また、どのように変容を迫られたかを示す一つの典型例として捉えることができます。旧主への忠誠、新たな主君への奉公、そして自らの家と領民を守るという使命感の間で、高春は困難な選択を迫られ続けたことでしょう。
一栗高春のような地方武将に関する研究は、中央中心の歴史観だけでは見えてこない、より細やかで多層的な歴史像を明らかにする上で極めて重要です。彼の最期に関する諸説のさらなる検証、一栗氏(本姓氏家氏)の系譜や他の氏家氏との関連、大崎氏および最上氏の家臣団における具体的な位置づけや役割など、未だ解明されていない点も多く残されています。これらの課題については、今後の新たな史料の発見と、より詳細な研究によって明らかにされていくことが期待されます。一栗高春という一人の武将の生涯を丹念に追うことは、奥羽の戦国史、ひいては日本近世成立史の理解を深める上で、ささやかながらも確かな光を投じるものと信じます。