本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、丹後国(現在の京都府北部)に勢力を有した守護大名一色氏の最後期における当主、一色満信(いっしきみつのぶ)について、その生涯と一色氏滅亡の経緯を詳細に検討するものである。満信は、一般には一色義定(いっしきよしさだ)の名で知られ、また義俊(よしとし)、義有(よしあり)、あるいは通称として五郎(ごろう)とも呼ばれた 1 。これらの呼称の錯綜は、彼の生涯を研究する上での一つの課題となっている。本報告書では、現存する史料、特に軍記物語である『一色軍記』の記述を批判的に検討しつつ、系図や寺社伝承などの断片的情報を繋ぎ合わせることで、可能な限りその実像に迫ることを目的とする。
一色義定(満信)に関する記述は、江戸時代に成立したとされる軍記物語『一色軍記』に比較的多く見られるものの、同時代の一次史料による確証が乏しいという問題点が長らく指摘されてきた 1 。このため、その存在自体が架空のものである可能性も一部で示唆されてきた。しかしながら、愛知県知多市の慈光寺や大興寺に残る一色氏の系図、あるいは宮津市の上宮津盛林寺に伝わる位牌など、複数の史料に「義定」あるいは「満信」の名が確認できることも事実である 1 。
近年の歴史研究においては、これらの断片的な史料を丹念に収集・分析し、戦国末期における丹後国の地域権力としての実態を解明しようとする試みが進められている 4 。特に、一色氏が織田信長の勢力拡大、そしてその後の豊臣秀吉による天下統一という激動の中で、いかにしてその地位を失っていったのかという過程は、戦国期地方勢力の興亡を理解する上で重要な事例と言える。本報告書も、これらの研究成果を踏まえつつ、多角的な視点から一色満信(義定)の生涯を論じるものである。
なお、史料を扱う上で注意すべき点として、本報告で対象とする一色満信(義定、別名に義有を含む)は、主に天正年間(1573年~1592年)に活動し、天正10年(1582年)頃に没したとされる人物である 1 。これとは別に、長享元年(1487年)に生まれ、永正9年(1512年)に26歳で病死した一色義有という同姓同名の人物が丹後守護として存在するが 9 、時代も活躍時期も全く異なるため、両者を混同しないよう留意が必要である。
一色義定(満信)の研究は、史料の断片性と軍記物語への依存という二重の課題を抱えていると言える。これは、中央の著名な大名に比して史料が乏しい戦国期の地方武将の研究においてしばしば見られる困難さであり、その実像を明らかにするためには、性質の異なる諸史料を慎重に比較検討し、事実を一つ一つ積み重ねていく地道な作業が求められる。
一色満信(義定)の生年は不明である 1 。没年については、天正10年9月8日(西暦1582年9月24日)とする説が有力視されているが、これにも異説が存在し、詳細は後の章で述べる 1 。
諱(いみな)としては「義定」が最も一般的に用いられており、多くの史料で確認できる 1 。しかし、その他にも「満信」、「義俊」、「義有」といった別名が伝えられている 1 。通称は「五郎」であったとされる 1 。官位としては左京権大夫を称した記録がある 1 。
特に「満信」という名に関しては、丹後国宮津の上宮津盛林寺に残る位牌に「一色満信」と明記されていることから注目される 1 。この「満」の字は、かつて一色氏の祖先である一色満範が室町幕府3代将軍足利義満から偏諱(へんき、主君などが臣下に自身の諱の一字を与えること)を受けて「満範」と名乗った事例がある 11 。義定(満信)の時代には、足利将軍家の権威は大きく失墜していたものの、名門意識の高い一色氏が何らかの形でこの「満」の字を重視し、用いた可能性が考えられる。例えば、祖先の栄光にあやかるため、あるいは一族内の特定の系譜を示すためといった理由が推測されるが、確たる証拠はない。「満信」の「信」の字の由来についても不明であり、当時の有力者であった織田信長などからの偏諱とは考えにくい。むしろ、一族内部の命名規則や、何らかの願いを込めて名付けられた可能性が指摘できる。盛林寺の位牌にこの名が記されているという事実は、「満信」という呼称が単なる通称ではなく、公的な場面や宗教的な文脈、あるいは死後において用いられた正式な名の一つであった可能性を示唆している。
一色満信(義定)の父親が誰であったかについては諸説あり、未だ確定を見ていない。
最も有力視されているのは、一色義道(いっしきよしみち)の子とする説である 1 。この一色義道は、織田信長の命を受けた細川藤孝(幽斎)による丹後侵攻に激しく抵抗し、天正7年(1579年)に居城の八田城(建部山城とも)を落とされ、但馬国への逃亡途中に中山城で自害したと伝えられる人物である 10 。
一方で、一色義員(いっしきよしかず)の子とする説も存在する 1 。ある史料によれば、この義員は室町幕府15代将軍足利義昭に与したため織田信長に攻められ、中山城で自刃したとされており 15 、その最期が義道と酷似している。このことから、義道と義員が同一人物である可能性も考えられるが、両者の関係や活動時期については更なる検討が必要である。
また、愛知県知多市西屋敷にある臨済宗の法音山慈光寺や龍雲山大興寺に残されている一色氏の系図には、一色義遠(いっしきよしとお)の末裔で、一色左京大夫義員の子として「義定」の名が見えるとされる 1 。これらの系図の信憑性については慎重な吟味が必要であるが、義定という人物の実在性や、その父系に関する手がかりの一つとして注目される。
このように、満信(義定)の父系に関する情報が錯綜している事実は、一色氏の末期における家督継承の混乱や、度重なる戦乱による記録の散逸を反映している可能性が高い。特に、義道と義員が同一人物であったのか、それとも別人であったのか、そしてそれぞれが義定とどのような関係にあったのかという問題は、一色氏滅亡前夜の内部状況を理解する上で極めて重要な論点となる。当主の系譜が不明確であることは、その勢力の求心力や安定性にも影響を与えた可能性が考えられる。
一色氏は、清和源氏足利氏の支流であり、三河国吉良荘一色(現在の愛知県西尾市一色町)を名字の地とする名門武家であった 15 。室町幕府においては、京極氏・山名氏・赤松氏と共に将軍に次ぐ家格とされた四職家(ししきけ)の一つに数えられ、侍所所司(さむらいどころしょし、警備や刑事裁判を司る役所の長官)を世襲するなど、幕政の中枢で重きをなした 16 。
丹後国の守護職は、一色詮範の子である一色満範の代(14世紀末から15世紀初頭)に獲得して以降、戦国時代に至るまで約190年間にわたり世襲された 4 。しかし、その道のりは平坦ではなく、例えば6代将軍足利義教の治世下では、当主の一色義貫が将軍の怒りに触れて誅殺されるという事件も起こり、一族の勢力は一時的に大きく後退した 16 。その後、応仁・文明の乱などを経て丹後における支配は回復するものの、中央政界での影響力は次第に低下し、その勢力範囲も丹後や若狭、三河の一部など、限られた地域へと収斂していく傾向にあった。
戦国時代に入ると、丹後国内においても一色氏の支配は盤石とは言えなかった。隣国の若狭武田氏とは領土を巡って度々抗争を繰り広げ 14 、また、丹後国内では守護代であった延永氏が実力を蓄えて守護の権威を脅かすなど、いわゆる下克上の動きも見られた 21 。一色義幸(その実在性については議論がある 20 )の時代などを経て、満信(義定)の父とされる義道の代には、織田信長による急速な勢力拡大という、新たな外部からの脅威に直面することになるのである。
天正年間に入り、織田信長による天下統一事業が本格化すると、丹後国もその戦略的対象となった。天正7年(1579年)、信長の命を受けた細川藤孝(幽斎)・忠興父子、そして明智光秀の軍勢が丹後への侵攻を開始した 10 。
この侵攻に対し、一色満信(義定)の父とされる一色義道(あるいは義員)は激しく抗戦した。当初、義道は丹後守護所の詰城であった建部山城(現在の舞鶴市)などに拠って防戦したが、織田方の調略によって丹後国内の国人衆が次々と離反し、戦況は一色氏にとって極めて不利となった 13 。『宮津市史』によれば、義道は「義理無道にして国人順わず」と評されるほど人望を失っていたとも伝えられ、これが国人離反の一因となった可能性も指摘されている 14 。
追い詰められた義道は、但馬国(現在の兵庫県北部)の山名氏を頼って亡命を試みた。その途中、丹後国中山城(現在の舞鶴市東雲付近)に立ち寄ったが、城主であった沼田幸兵衛(ぬまたこうべえ、後に勘解由と称す)が織田方に内応し、裏切ったため進退窮まり、自害したと伝えられている 10 。この沼田幸兵衛の裏切りは、単なる個人的な変節というよりも、織田信長の中央集権化と細川氏の丹後進出という大きな時代の趨勢の中で、地方国衆が自らの生き残りをかけて下した現実的な判断と見ることができる。一方で、『細川家譜』などの細川家側の記録には、義道は丹後平定戦の最中に病死したと記されている 12 。
父・義道の死(あるいは自害する前)に際して、満信(義定、史料によっては義俊とも記される)が一色家の家督を継承したとされる 1 。
家督を継いだ一色満信(義定)は、父の無念を胸に、残存兵力を率いて丹後国与謝郡の弓木城(ゆみきじょう、現在の京都府与謝野町岩滝)に籠城し、細川藤孝・忠興父子が率いる織田軍に対して徹底抗戦の構えを見せた 1 。弓木城は、元々は一色氏の家臣であった稲富氏の居城であり、阿蘇海に面した丘陵上に築かれた堅固な山城であった 22 。
弓木城に立てこもった一色勢の抵抗は激しく、細川軍は攻めあぐね、攻略に多大な時間を要したと伝えられる 14 。この籠城戦においては、稲富流砲術の祖として知られる稲富祐直(いなとみすけなお、一夢とも)がその鉄砲術を駆使して活躍した可能性も指摘されている 24 。
織田信長としても、丹後平定の遅延は望ましい状況ではなかった。このような状況下で、細川藤孝と姻戚関係にあり、また丹波・丹後方面の軍事指揮官であった明智光秀が仲介(あるいは助言)に入り、一色氏と細川氏の間で和議が成立することとなった 1 。
和睦の条件として、一色満信(義定)は細川藤孝の娘である伊也(いや、菊の方、あるいは菊御前とも伝えられる)を正室として迎えることになった 1 。この政略結婚により、丹後国は一時的に、一色氏と細川氏(当時は長岡氏を称していた)によって分割統治されるという形がとられた。しかし、この和睦は、実質的には細川氏による丹後支配を既成事実化する過程であり、両者の力関係の不均衡を内包した、極めて不安定なものであったと言わざるを得ない。
和睦成立後、一色満信(義定)は丹後国のうち、中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる奥丹後地域(現在の京丹後市を中心とする丹後半島北部)の支配を認められた 1 。そして、引き続き弓木城を居城とし、この地から領国経営を行った 1 。
この時期、満信(義定)は織田政権下における丹後守護として位置づけられていたと考えられている。その証左として、天正9年(1581年)2月に京都で行われた織田信長による大規模な軍事パレードである京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)には、丹後国の代表として参加している 1 。さらに同年、織田氏が甲斐国(現在の山梨県)の武田勝頼を滅ぼした甲州征伐にも、舅である細川藤孝と共に参陣した記録が残っている 1 。これらの活動は、満信(義定)が織田政権の軍事動員体制に組み込まれ、その指揮下にあったことを明確に示している。
一方で、満信(義定)は、隣国である但馬国の山名堯熙(やまなあきひろ、氏政とも)と親しい関係にあったと伝えられている 1 。山名氏も一色氏と同じく足利一門の名家であり、かつては広大な勢力を誇った旧守護大名であった。織田政権に従属しつつも、伝統的な守護家としての矜持を保ち、他の旧守護家との連携を通じて何らかの活路を見出そうとしていた可能性も考えられる。これは、新興勢力である織田信長と、旧体制の権威である足利幕府や守護大名との間で揺れ動く、戦国末期の武将の複雑な立場を反映していると言えるかもしれない。
天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺において明智光秀が主君・織田信長を討つという衝撃的な事件(本能寺の変)が勃発した。この未曾有の事態に際し、一色満信(義定)は、直接の上役であり、また細川藤孝との和睦を仲介した恩義もある明智光秀に味方することを決断した 1 。
満信(義定)が光秀に与した背景には、いくつかの要因が考えられる。まず、光秀は丹波・丹後方面の軍事を統括しており、織田政権下における満信(義定)の直属の上官であった可能性が高い。また、前述の通り、弓木城での籠城戦の後、満信(義定)と細川藤孝との和睦を斡旋したのは光秀であり 1 、一色氏にとっては恩人とも言える存在であった。このような経緯から、光秀の挙兵に対して同調、あるいは協力せざるを得ない立場にあったと推測される。
一方、満信(義定)の舅である細川藤孝・忠興父子は、明智光秀からの再三の協力要請を拒絶し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)方に与することを表明した 1 。これにより、婚姻関係によって一時的に結ばれていた一色氏と細川氏は、再び明確な敵対関係へと転じることとなった。
本能寺の変後、明智光秀は山崎の戦い(天正10年6月13日)において羽柴秀吉に敗れ、敗走中に落命した。これにより、光秀に与した一色満信(義定)の立場は急速に悪化し、極めて危険な状況に追い込まれた 1 。
中央の覇権を掌握しつつあった羽柴秀吉の承認と支援を背景として、細川藤孝・忠興父子は丹後国全域の完全支配を確立しようと画策した 31 。細川家側の史料である『綿考輯禄』などによれば、この時期、満信(義定)に謀反の企てがあったとの情報が細川氏にもたらされ、これを危険視した細川父子が先手を打って満信(義定)を排除したとされている 1 。
そして、天正10年9月8日(西暦1582年9月24日)、一色満信(義定)は細川氏の居城である宮津城(現在の京都府宮津市)に招かれ、饗宴の席で細川藤孝・忠興父子によって謀殺されたと伝えられている 1 。この謀殺の具体的な様子については、細川忠興が自ら「浮きもも」という名の刀を振るって満信(義定)を斬り殺したといった生々しい記述も存在するが 33 、これらは後世の軍記物などによる脚色の可能性も考慮する必要がある。この際、満信(義定)に従って宮津城に来ていた家老の日置主殿助(ひおきとのものすけ)をはじめとする家臣の多くも、細川方の手によって討ち取られたとされる 1 。
この謀殺の日付に関しては、いくつかの説が存在する。『丹州三家物語』や、前述の上宮津盛林寺に残る「一色満信」の位牌には、天正10年9月8日と記されており、これが通説に近いものとされている 1 。しかし、一方で『一色軍記』においては、満信(義定)は本能寺の変よりも前の同年2月に殺害されたと記されており、大きな相違が見られる 1 。
この謀殺事件の正当性については、慎重な史料批判が求められる。特に、細川家側の記録である『綿考輯禄』などは、満信(義定)に「謀反の企て」があったと強調することで、細川氏の行動を正当化する意図が強くうかがえる。戦国時代において「謀反」の嫌疑は、敵対勢力を排除するための常套句として用いられることも多く、その真偽については慎重な判断が必要である。むしろ、本能寺の変後の混乱に乗じ、丹後国の完全掌握を目指す細川氏が、潜在的な競争相手であり、かつ明智光秀に与した満信(義定)を積極的に排除しようとしたと解釈する方が、当時の状況としては自然であるかもしれない。
一色満信(義定)が宮津城で謀殺された後、細川軍はただちに満信(義定)の居城であった弓木城を攻撃し、これを陥落させた 1 。城代であった稲富祐直は、弓木城の落城後、細川氏に降伏して仕えることになった。稲富祐直は、その卓越した鉄砲術の技術を豊臣秀吉にも認められ、細川忠興に召し抱えられるよう推挙されたと伝えられている 32 。その後、稲富祐直は細川家を離れ、徳川家康の庇護を受けるなどし、砲術家としてその名を後世に残すこととなる 5 。彼の処世術は、主家滅亡後の家臣が取り得る多様な生き残り戦略の一例として注目される。専門的な技術を持つ者は、新たな主君にその能力を認められ、活躍の場を得ることができたのである。
満信(義定)の死後、その叔父とされる一色義清(いっしきよしきよ、越前守)が残党を率いて細川氏への抵抗を試みたが、これもやがて討ち取られた 1 。これにより、丹後国において長らく守護大名として君臨した一色氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消すこととなった。
本能寺の変という中央政権の激変は、一色氏のような地方勢力の運命をも大きく左右した。満信(義定)の明智光秀への加担という選択と、それに対する細川藤孝の羽柴秀吉への接近という選択が、両者の明暗を劇的に分けたと言える。この出来事は、戦国末期の権力闘争のダイナミズムと、個々の武将が下す決断の重要性を如実に示している。
一色満信(義定)の事績を伝える主要な文献として、軍記物語である『一色軍記』が挙げられる。この書物は、一色氏の視点から丹後国の戦乱を描いており、満信(義定)の武勇や、父・義道と共に細川藤孝の侵攻を何度も退けたといった活躍が記されている 1 。しかし、『一色軍記』の成立は江戸時代と考えられており、軍記物語に特有の文学的な脚色や創作、あるいは一色氏を顕彰する意図が含まれている可能性が高い 1 。
実際に、一部の研究では、満信(義定)が『一色軍記』にしか登場せず、同時代の一次史料ではその存在を確認できないことから、架空の人物である可能性も指摘されている 1 。しかしながら、近年の郷土史研究などでは、『一色軍記』に登場する「当火(あてひ)」や「姫御前(ひめごぜん)」といった地名が現在も丹後地方に残っていることや、細川藤孝の娘で満信(義定)に嫁いだとされる菊姫(伊也)を祀る菊丘神社が京丹後市大宮町に現存することなどから 30 、『一色軍記』が何らかの史実や伝承を反映している可能性も示唆されている。
したがって、『一色軍記』の記述を史実として鵜呑みにすることはできないものの、一色氏側の伝承や、当時の丹後地方における出来事に関する何らかの記憶を留めている可能性があり、史料批判を慎重に行った上で、他の史料と照合しながら利用する必要があると言える 35 。
一方、一色氏を滅ぼした細川家側にも、満信(義定)に関する記録が残されている。その代表的なものが、熊本藩細川家の公式な藩史として編纂された『綿考輯禄(めんこうしゅうろく)』である 5 。
『綿考輯禄』における一色満信(義定)の記述は、彼を「謀反を企てた危険人物」として描き、細川藤孝・忠興父子による謀殺を、丹後の平和と秩序を維持するための不可避な行動であったかのように正当化する傾向が見られる 1 。これは、勝者側の歴史記述として当然予想されるバイアスであり、その内容をそのまま史実と見なすことはできない。
『綿考輯禄』自体も、その成立過程や編纂意図から、特に細川藤孝・忠興二代の事績に関する記述については、史実性や信憑性に疑問が呈される部分も指摘されている 38 。したがって、『一色軍記』と同様に、細川家側の立場や主張を理解するための一史料として捉え、他の史料との比較検討を通じて、より客観的な事実関係を明らかにする努力が求められる。
『一色軍記』や『綿考輯禄』といった物語性の強い史料とは別に、一色満信(義定)の実在を示唆する手がかりとして、各地の寺社に伝わる伝承や系図の存在が挙げられる。
前述の通り、愛知県知多市西屋敷にある臨済宗の法音山慈光寺や龍雲山大興寺には、一色氏の系図が残されており、そこには一色義遠の末裔で一色左京大夫義員の子として「義定」の名が見えるとされる 1 。これらの寺院が一色氏とどのような縁故を持っていたのか、また系図の成立時期や信憑性については更なる調査が必要であるが、義定という人物の存在を裏付ける可能性のある史料として重要である。
さらに、丹後国宮津(現在の京都府宮津市)の上宮津盛林寺には、「一色満信」と記された位牌が現存しており、その命日が天正10年9月8日とされている 1 。この盛林寺は、元々は一色氏の重臣であった小倉播磨守の菩提寺として天正5年(1577年)に創建されたと伝えられており 3 、一色氏との関連が深い寺院である。この位牌の存在は、満信(義定)の別名が「満信」であったこと、そしてその没年月日を特定する上で極めて貴重な史料と言える。
これらの寺社伝承や系図は、それぞれ異なる成立背景を持つものの、複数の史料が「義定」あるいは「満信」という名の人物の存在を示唆している点は注目に値する。これらは、『一色軍記』の記述を補強し、満信(義定)が単なる架空の人物ではなく、実在した戦国武将であった可能性を高めるものである。
一色満信(義定)の別名とされる「満信」の由来については、現時点では明確な定説はない。前述の通り、一色氏の祖先である一色満範が室町幕府3代将軍足利義満から偏諱を受けて「満」の字を賜った事例があるが 11 、満信(義定)の時代に足利将軍家から偏諱を受ける可能性は極めて低い。
考えられる可能性としては、一族内で「満」の字が何らかの特別な意味を持って代々受け継がれていたか、あるいは当時の他の有力者(例えば、もし一色氏と連携関係にあったとすれば、毛利輝元など。ただし、現存史料ではそのような連携を示す明確な証拠は見当たらない 41 )との関係で名乗ったということも完全には否定できない。また、足利義昭が近臣の唐橋在通に偏諱を与えて一色昭孝と名乗らせた例もあるが 19 、これは「昭」の字であり、「満」とは異なる。
現状の史料では「満信」という名の正確な由来を特定することは困難であるが、上宮津盛林寺の位牌にこの名が記されているという事実は、この呼称が本人あるいはその近親者によって認識されていた正式な名の一つであったことを強く示唆している。あるいは、特定の時期や状況においてのみ使用された名であった可能性も考えられ、その背景を探ることは今後の研究課題と言える。
一色満信(義定)の時代の丹後一色氏を理解する上で、隣国である但馬国の守護大名山名氏との関係も無視できない。一部の記録によれば、満信(義定)は但馬国の山名堯熙(氏政)と親しい関係にあり、旧守護家同士として親交を深め、さらには姻戚関係にあったとも言われている 1 。
また、満信(義定)の父とされる一色義道も、細川軍に追われた際に山名氏を頼って但馬国への亡命を企てている 12 。これらの事実は、織田信長や細川藤孝といった新興勢力の圧迫に対抗するため、一色氏が伝統的な守護大名家である山名氏との連携を模索していた可能性を示唆している。しかしながら、両者の具体的な連携の内容や、その実態を示す一次史料は現在のところ確認されておらず 1 、この点についても今後の研究が待たれる。
一色満信(義定)は、室町時代から続く名門守護大名であった丹後一色氏の末期を象徴する人物と言える。彼の生涯は、織田信長による中央集権化の推進、そして本能寺の変という全国規模の動乱の中で、丹後という一地方勢力がいかに翻弄され、そして最終的に淘汰されていったかを示す典型的な事例である。
父・義道の横死を受けて家督を継承し、弓木城に籠城して細川藤孝の軍勢に抵抗したものの、明智光秀の仲介による和睦と、細川藤孝の娘・伊也(菊の方)との婚姻は、戦国時代の政略の常とはいえ、結果的にはより強大な勢力に取り込まれていく過程の一コマであった。本能寺の変に際して明智光秀に与したことは、彼の運命を決定づけることとなり、最終的には舅である細川父子によって宮津城で謀殺されるという悲劇的な最期を迎えた。
一色満信(義定)の滅亡は、単に一個人の悲劇に留まらず、丹後国における守護領国制の終焉と、織豊政権下における新たな支配体制への移行を意味するものであった。彼の存在は、下克上が常態化し、旧来の権威が失墜していく戦国時代から、より中央集権的な統一政権へと向かう時代の大きな転換期において、地方の伝統的権力が如何に脆弱であったかを物語っている。
一色満信(義定)に関する一次史料は極めて乏しく、その実像の多くは、後世に編纂された『一色軍記』や、対立関係にあった細川家側の記録(『綿考輯禄』など)、そして断片的に残る寺社伝承や系図に頼らざるを得ないのが現状である。これらの史料に対しては、それぞれの成立背景や編纂意図を考慮した徹底的な史料批判を行い、より客観的かつ多角的な視点から人物像を再構築していくことが、今後の重要な研究課題となる。
具体的には、「満信」という名の正確な由来の解明、諸説ある父系の確定、そして宮津城での謀殺に至る詳細な政治的背景や経緯など、未だ解明されていない点が多く残されている。
さらに、一色満信(義定)の動向を、単に彼個人の問題として捉えるのではなく、当時の丹後国全体の社会経済構造や、他の国人領主(例えば、沼田氏や稲富氏など)との関係性、あるいは日本海交易における丹後国の地政学的重要性 18 といった、より広範な文脈の中で捉え直す視点も求められる。丹後という地域社会の視点から一色氏末期の動向を再検討することで、中央の権力闘争の余波という側面だけでなく、地域内部の要因がその運命にどのように影響したのかを明らかにすることができるであろう。
そのためには、未発見の地方史料(古文書、日記、系図など)の発掘と丹念な分析が不可欠であり、今後の研究の進展が大いに期待される。一色満信(義定)の研究は、戦国末期における地方権力の動態を解明する上で、依然として多くの可能性を秘めていると言えよう。