日本の戦国期における地方史、特に武士団の権力構造と民俗・伝承の関係性を専門とする歴史研究者
本報告書は、阿波国(現在の徳島県)の戦国武将、七条兼仲(しちじょうかねなか)について、史料に基づきその歴史的実像を再構築するとともに、彼をめぐる伝説が地域社会においていかに形成され、継承されてきたかを文化的な側面から深く掘り下げることを目的とする。
七条兼仲という人物は、二重の性格を持つ存在として我々の前に現れる。一方では、天正年間の阿波国に生きた国人領主として、特定の時代と場所に根差した歴史上の人物である 1 。そしてもう一方では、「怪力無双」の英雄として、その死後400年以上にわたり地域共同体の記憶の中に生き続ける伝説上の人物である 2 。この史実と伝説の二重性こそ、七条兼仲という特異な武将を理解する上で極めて重要な鍵となる。彼の生涯を追うことは、戦国末期の阿波国の政治的動態を解明する手掛かりとなるだけでなく、一人の敗将がいかにして地域の英雄へと昇華し、その記憶が祭りや伝承という形で現代にまで生き続けるのか、という文化人類学的な問いをも我々に投げかける。
本論考を進めるにあたり、まず一点、明確にすべき留意事項がある。本報告書が対象とするのは、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した阿波の武将・七条兼仲である。これとは別に、鎌倉時代後期に公家として活動し、貴重な日記『勘仲記(かんちゅうき)』を遺した勘解由小路兼仲(藤原兼仲)という同名の人物が存在するが、両者は時代も身分も全く異なる別人である 4 。研究史上、この二名を混同しないことが、七条兼仲の実像に迫るための第一歩となる。
本報告書は、第一部で史料に基づき武将としての兼仲の実像を、第二部で伝説上の英雄としての兼仲像を、そして第三部で彼の記憶が刻まれた歴史的景観を分析し、多角的な視点からこの阿波の豪傑の全体像を明らかにすることを試みるものである。
七条兼仲という一個人の生涯を理解するためには、まず彼が属した「七条氏」という武士団の出自と、戦国期阿波国における政治的・経済的立ち位置を把握する必要がある。彼らは単なる一豪族ではなく、複雑な権力構造と豊かな経済基盤の中に存在していた。
戦国時代の武士にとって、自らの「家」の系譜は、単なる血統の証明に留まらず、その支配の正統性と権威を担保する極めて重要な政治的資源であった。七条氏の出自に関する記録には複数の系統が見られ、これは彼らが自らの家格を高めるために、いかに戦略的に系譜を構築し、利用していたかを示唆している。
第一に、最も広く知られているのが、清和源氏の名門・小笠原氏の支流であるとする説である 2 。この説によれば、七条氏は阿波守護であった小笠原氏の一族であり、阿波で一大勢力を築いた三好氏や高志氏とも同族ということになる 7 。源氏という武家の棟梁たる系譜に連なることは、在地における武門としての権威を何よりも雄弁に物語るものであった。特に、現実の支配者である三好氏と「同族」であると主張することは、政治的に極めて有効な戦略であったと考えられる。
一方で、阿波国の古記録である『故城記』や『阿波国旧士姓氏録抄』には、七条氏は「藤原氏」と記載されている 9 。藤原氏は言うまでもなく朝廷における最高の家格を持つ氏族であり、この系譜を称することは、武家の権威とは異なる、より伝統的で文化的な権威との繋がりを示唆するものであった。さらに、東京大学史料編纂所が所蔵する「七条氏系図」などの文書では、伊予から来住した久米氏との同族関係も示されている 2 。
これらの複数の、一見矛盾する系譜の存在は、記録の混乱と見るべきではない。むしろ、中央の権威が揺らぎ、実力が全てを支配する戦国乱世において、在地領主がいかにして自らの存在を正当化し、権威付けようとしたかを示す好例と解釈すべきである。状況に応じて小笠原氏(武家の名門)、三好氏(現実の支配者)、藤原氏(伝統的権威)といった異なるカードを使い分ける、したたかな生存戦略がそこにはあった。武士のアイデンティティが、固定的で単一なものではなく、流動的かつ戦略的に構築されるものであったことが、七条氏の系譜から浮かび上がってくる。
また、家紋についても『故城記』は「鶴丸藤丸」と伝えており 9 、これは小笠原氏の「三階菱」とは異なる。この家紋が、藤原姓の主張と何らかの関連を持つ可能性も考えられるだろう 11 。
七条氏は、阿波国における在地領主、すなわち「国人(こくじん)」であった 1 。国人とは、その土地に深く根を張り、独自の勢力を持つ武士を指す。彼らは、室町幕府や守護大名といった中央の権力に従属しつつも、在地社会において実質的な支配を担う存在であった。
七条氏の場合、阿波守護であった細川氏、そしてその細川氏に取って代わった三好氏の支配下に置かれていた 14 。彼らの居城である七条城は、三好氏の本拠・勝瑞城(現在の徳島県板野郡藍住町)の西方を防衛する重要な支城の一つとして位置づけられていたことが記録からわかる 17 。これは、七条氏が三好氏の軍事戦略において、単なる動員対象ではなく、防衛網の重要な一角を担う信頼された存在であったことを示している。彼らは中央の巨大な権力構造に組み込まれながらも、その最前線で地域の安寧に直接的な責任を負っていたのである。
七条兼仲の武勇や、彼を支えた七条氏の軍事力を考える上で、その経済的基盤を見過ごすことはできない。七条城が位置した板野郡は、四国三郎と称される大河・吉野川の下流域に広がる肥沃な沖積平野にあり、古くから阿波国の農業生産の中心地であった 19 。
特に、この地域の経済を飛躍的に発展させたのが「阿波藍」である。中世後期から吉野川流域では藍の生産が盛んとなり、その染料は全国に出荷され、莫大な富をもたらした 21 。この阿波藍は、畿内で一大勢力を築いた三好氏にとっても重要な財源であり、その経済力が彼らの軍事行動を支えていた 22 。七条氏もまた、この巨大な経済圏の中に組み込まれた在地領主として、藍作から得られる富の恩恵を受けていた可能性が極めて高い。兼仲の「怪力無双」という武勇伝は、個人の資質のみならず、彼を支えた七条氏の豊かな経済力、そしてそれを生み出した吉野川流域の地理的・経済的条件というマクロな文脈の中に位置づけることで、より立体的に理解することができる。長宗我部元親との戦いもまた、単なる武士の意地や領土争いという側面だけでなく、この豊かな土地の支配権を巡る経済戦争という側面を色濃く持っていたのである。
七条兼仲の具体的な生涯については、断片的な記録しか残されておらず、その全体像を詳細に描き出すことは困難である。しかし、残された史料を丹念に読み解き、比較検討することで、戦国武将として生きた彼の実像に迫ることができる。
兼仲の生涯を語る上で、まず直面するのが生年の問題である。複数の資料において、彼の父は七条敏仲とされ、その没年は天文21年(1552年)と記録されている 2 。一方で、兼仲自身の生年を天文23年(1554年)とする記録も存在する 2 。これは明らかに矛盾しており、父の死後に子が生まれることはあり得ない。
この矛盾は、後世に編纂された系図や記録が必ずしも正確ではないことを示す典型的な事例である。史料を扱う際には、その成立時期や背景を考慮し、批判的な視点を持つことが不可欠となる。他の史料では、兼仲は天正10年(1582年)に29歳で討死したとされており 9 、ここから逆算すると生年は天文23年(1554年)となる。このことから、父・敏仲の没年か、兼仲の享年のいずれかに誤記がある可能性が高い。いずれにせよ、兼仲が天文年間(1532年~1555年)の後半に生まれ、戦国末期の動乱の中で青年期を過ごした武将であったことは確かであろう。
兼仲は、通称として孫次郎、あるいは求馬と名乗ったと伝えられる 1 。彼は阿波国板野郡七条(現在の徳島県上板町七条)に位置する七条城の城主として、この地を治めていた 1 。七条城は平地に築かれた城館であり、発掘調査や地誌によれば、石垣や井戸の遺構が確認されている 24 。
彼の具体的な統治内容を示す一次史料は乏しいが、前述の通り、七条城が三好氏の本拠・勝瑞城の支城であったことから 18 、三好政権下において軍役の義務を負い、有事の際には兵を率いて参陣する役割を担っていたことは確実である。彼の日常は、在地領主として領内の民を治めつつ、常に戦に備えるという、戦国武将の典型的な姿であったと想像される。
兼仲を語る上で最も際立つ特徴は、その武勇である。複数の資料が一致して、彼を「怪力無双の勇将として知られ、数々の合戦で武勇を馳せた」と評している 2 。この評価は、単なる後世の脚色ではなく、同時代においても彼の武名が広く知れ渡っていたことを示唆している。特に、敵対することになる長宗我部氏の陣営にまで、その勇名は轟いていた可能性が高い。この「怪力」というキーワードが、史実としての評価と、後に第二部で詳述する伝説の形成とを結びつける重要な接点となっている。
【表1:七条兼仲に関する基本情報の史料別比較】
項目 |
『七条氏系図』等 |
『故城記』等 |
Wikipedia及びその引用元 |
各種解説サイト |
氏名 |
七条兼仲 |
七條殿 |
七条兼仲 |
七条兼仲 |
別名 |
孫次郎 |
- |
孫次郎、求馬 |
孫次郎、求馬 |
父 |
敏仲 |
- |
七条敏仲 |
七条敏仲 |
生年 |
不明(天文23年説との矛盾を指摘) |
不明 |
不明(天文23年説を矛盾として記載) |
不明(天文23年説を矛盾として記載) |
没年 |
天正十年(1582) |
天正十年(1582) |
天正10年(1582年) |
天正10年(1582年) |
享年 |
29歳 |
- |
不明 |
29歳 |
居城 |
七条城 |
七条城 |
七条城 |
七条城 |
出自(伝) |
小笠原氏支流、久米氏同族 |
藤原氏 |
阿波小笠原氏支流、三好・高志氏と同族 |
阿波小笠原氏支流 |
家紋(伝) |
- |
鶴丸藤丸 |
- |
- |
出典: 1 に基づき作成。
この表は、七条兼仲に関する情報が単一の確定したものではなく、複数の史料や伝承によって重層的に構成されていることを示している。特に生年と享年、そして出自に関しては情報が錯綜しており、史料批判の重要性を物語っている。
七条兼仲の生涯は、天正10年(1582年)に勃発した中富川の戦いによって、そのクライマックスと終焉を迎える。この戦いは、単に一武将の運命を決しただけでなく、四国全体の勢力図を塗り替える歴史的な転換点であった。
この年の6月2日、京で本能寺の変が起こり、天下統一を目前にしていた織田信長が横死した。この事件は、遠く四国の地にも巨大な波紋を広げた。信長は三男・信孝を総大将とする四国方面軍を編成し、土佐の長宗我部元親の討伐を計画していたからである 27 。この織田氏の圧力が消滅したことで、元親にとっては四国統一を達成するための千載一遇の好機が訪れた。
一方、信長という強力な後ろ盾を失った阿波の三好氏は、急速に窮地に立たされる。元親はこの機を逃さず、同年8月、2万3千と号する大軍を率いて阿波への本格的な侵攻を開始した 27 。その目標は、三好方の拠点である勝瑞城の攻略と、阿波一国の完全制圧であった。
長宗我部軍の侵攻に対し、阿波・讃岐の兵を束ねる三好方の総大将・十河存保(そごう まさやす)は、約5千の兵力でこれを迎え撃つこととなった 27 。両軍は、勝瑞城の目前を流れる中富川(現在の徳島県藍住町)を挟んで対峙した。
天正10年8月28日、決戦の火蓋が切られた 27 。三好方は、中富川を自然の要害とし、矢上城の矢上虎村、板東城の板東清利といった阿波の国人領主たちが防衛線を固めた 29 。七条兼仲もこの防衛線の一翼を担い、三好方の中核武将として最前線で戦ったと考えられる 27 。
しかし、兵力において4倍以上の差がある長宗我部軍の猛攻は凄まじく、三好方は奮戦むなしく各所で防衛線を突破された 28 。この野戦における決定的な敗北により、三好方は多くの有力武将を失い、勝瑞城の運命も事実上決した。
この中富川の戦いにおける七条兼仲の最期については、二つの説が伝えられている。
第一は、 野戦討死説 である。これは、中富川の河畔で行われた激戦の最中、奮戦の末に討ち死にしたとするもので、合戦の経過を考えれば最も自然な解釈である 2 。
第二は、 籠城戦戦死説 である。これは、中富川での敗戦後、自らの居城である七条城に退いて籠城し、追撃してきた長宗我部軍との攻防の末に戦死した、あるいは自刃したとする説である 2 。この説は、主家のために最後まで抵抗を続けた忠臣としての兼仲像を際立たせる物語的要素を含んでいる。
いずれの説が真実であったかは定かではないが、彼がこの戦いで命を落としたことは確実視されている。その証左として、徳島市国府町にある金泉寺の奥の院・愛染院には、この戦いで戦死した赤沢信濃守ら他の三好方武将と共に、七条兼仲の墓と伝わるものが祀られている 33 。これは、彼の死が地域の人々によって記憶され、供養の対象となってきたことを示している。
歴史の大きな流れの中で見れば、七条兼仲は紛れもなく「敗者」であった。彼は圧倒的な敵の前に敗れ、自らの命と共に一族の支配地も失った。しかし、逆説的なことに、この悲劇的な敗北こそが、彼を単なる一地方武将から、後世に語り継がれる「英雄」へと昇華させる原点となったのである。中央の歴史叙述では無名の敗将に過ぎない人物が、地域共同体の「集合的記憶」の中では、その悲劇性ゆえに記憶され、その武勇が理想化されていく。兼仲の死は、単なる一個人の軍事的敗北ではなく、外部の強大な力によって故郷が蹂躙されたという地域社会の記憶の象徴となり、その悲劇性こそが、彼を伝説の英雄として語り継がせる土壌を育んだと言えるだろう 35 。
七条兼仲という人物の探求は、史実の追求だけでは完結しない。彼の存在は、死後、阿波の地に根付いた豊かな伝説群の中で、より大きな意味を持つに至った。ここでは、彼の記憶がどのようにして文化的な装置となり、現代にまで継承されているのかを、文化人類学的な視点から分析する。
兼仲の伝説の中でも最も有名で、かつ現代にまでその命脈を保っているのが、徳島県上板町の大山寺に伝わる「力餅」の行事である。この行事は、単なる余興ではなく、兼仲の記憶を共同体で再生産するための洗練された儀礼として機能している。
伝説によれば、兼仲は来るべき戦に備え、己の武運とさらなる力を得るために、古くから霊山として信仰を集めていた大山寺の観音菩薩に一心に祈願したという 26 。これは、神仏の加護を求めるという、中世武士の普遍的な信仰心の発露である。
その祈願は聞き届けられ、兼仲は超人的な怪力を授かった。そして、その霊験に感謝した兼仲は、巨大な鏡餅と九重の石塔をたった一人で山上の寺まで背負い上げ、奉納したと伝えられている 38 。この「祈願」と「奉納」という一連の行為が、伝説の核を形成している。
この兼仲の故事に因み、江戸時代に入ると、阿波を治めた徳島藩主蜂須賀家が、家臣たちに大鏡餅を担がせてその力を競わせる行事を催すようになった 38 。これにより、兼仲という一個人の伝説は、藩の権威と結びついた公的な儀礼へと昇華された。武士の武勇を称揚するこの行事は、藩の秩序を維持する上でも象徴的な意味を持っていたと考えられる。
この伝統は、藩政時代が終わった後も途絶えることなく、地域住民の祭りとして継承された。現在では、毎年1月の第3日曜日に大山寺の境内で「力餅大会」として盛大に開催されている 41 。男性は餅と三方(さんぽう)を合わせて約169kgにもなる重量物を 3 、女性や子供もそれぞれに応じた重さの餅を抱え、どれだけ長い距離を歩けるかを競い合う 41 。400年以上にわたり、この行事が連綿と続けられてきた事実は、兼仲の記憶がいかに深くこの地に根付いているかを物語っている。
この「力餅」行事は、文化人類学の視点から見れば、単なる昔話の再現ではない。それは、モーリス・アルヴァックスが提唱した「集合的記憶」を、儀礼という身体的実践を通じて再生産する社会的装置である。参加者は、常人には持ち上げることすら困難な餅を担ぐという極めて具体的な身体行為を通じて、兼仲の「怪力」を追体験する。そして、その姿を見た観衆は歓声を上げ、驚嘆の声を共有することで、共同体の一員としてその記憶と価値観を再確認する。祭りは、過去の出来事を単に思い出す場ではない。毎年、七条兼仲という英雄の存在を共同体のただ中に「現在化」させ、その記憶に新たな生命を吹き込むのである。伝説は、書物の中で語られるだけでなく、人々の身体を通じて感じられ、体験されることで、より強固で永続的な文化的記憶として定着していくのである 46 。
兼仲の怪力伝説を語る上で、もう一つ欠かせないのが「飛地蔵(とびじぞう)」の説話である。この物語は、英雄が超自然的な存在から試練を与えられ、それを克服することでその力を公に認められるという、世界各地の神話や伝説に見られる普遍的な構造を持っている。
伝説のあらましはこうである。まだ若かりし頃の兼仲は、さらなる力を授からんものと、毎夜丑の刻に大山寺へ参詣し、熱心に祈願を続けていた。満願成就の夜、いつものように山道を登っていると、道の真ん中に巨大な牛のような化け物が寝そべり、行く手を阻んでいた。兼仲が避けようとしても、化け物は頑として動こうとしない。ついに怒りを爆発させた兼仲は、自慢の太刀を抜き放ち、一刀のもとにその首を斬り落とした。そして何事もなかったかのように参詣を済ませた。しかし、後にその化け物の正体が、兼仲の力を試そうとした道端の地蔵菩薩であったことがわかるのである 49 。
この物語は、神仏が姿を変えて人間を試すという、日本の説話文学における典型的な類型の一つに分類できる 51 。主人公は、常人ならば恐れおののくような試練に直面する。しかし、兼仲は臆することなく、むしろ怒りをもって化け物(=地蔵)を斬りつけるという、常識を超えた行動に出る。この行為こそが、彼が常人ではないことの証明であり、試練を克服した証として、その力は公に認められ、英雄としての地位が確立されるのである。
この説話には、日本古来の信仰と仏教が融合した「神仏習合」の様相が色濃く表れている。本来、地蔵菩薩は地獄の苦しみから人々を救う慈悲の仏であり、武勇を試すような武神とは性格を異にする。しかしこの伝説では、地蔵が武神的な役割を担っており、仏教が日本の土着的な価値観や信仰と結びつく中で、その性格を柔軟に変化させていった過程が見て取れる 54 。
この伝説が持つ文化的な意味は、兼仲の怪力を「正当化」することにある。彼の力は、単なる生まれつきの粗暴な腕力ではなく、地域の聖地である大山寺への篤い信仰心によってもたらされ、さらに地蔵菩薩という聖なる存在による試練を経て公認された「祝福された力」であると物語られている。
ここには、英雄伝説が持つ「聖と俗」の両義性という、民俗学的に興味深いテーマが潜んでいる。地蔵を斬るという行為は、一見すれば神仏を恐れぬ冒涜的な「俗」なる行為である。しかし、物語の中ではそれが力を証明するための「聖」なる試練へと転化する。兼仲は、仏を敬うという社会の規範を超越するほどの、規格外の存在として描かれる。彼の暴力的な行為は、結果として彼の聖性を証明する儀式となるのである。英雄とは、しばしば既存の秩序を破壊し、新たな価値を創造するトリックスター的な側面を持つ。この飛地蔵伝説は、七条兼仲が単なる「善良で強い武将」としてではなく、常識の枠を超えた、畏怖すべき力を持つ存在として地域社会に記憶されていたことを雄弁に物語っている 57 。
七条兼仲の記憶は、伝説や祭りだけでなく、彼が実際に生きた土地の景観の中にも深く刻み込まれている。城跡や神社といった「場所」は、物理的な存在を超えて、地域共同体の集合的記憶を呼び覚まし、歴史を現在に繋ぎとめる役割を果たしている。
七条兼仲の居城であった七条城は、現在の徳島県板野郡上板町七条を流れる宮川内谷川のほとりに築かれた平城であった 24 。この宮川内谷川は、阿波国の母なる川・吉野川の支流であり、城は吉野川水系を利用した水運の要衝に位置していたことが推察される 62 。
しかし、城郭としての七条城の姿を今日に偲ぶことは難しい。城の主要部分は、度重なる河川の氾濫やその後の改修工事によって、宮川内谷川の川底に沈んでしまったと考えられている 17 。それでも、城の記憶は完全に消え去ったわけではない。堤防の周辺には、往時のものと伝わる古い石垣や井戸の跡が点在しており 24 、失われた城郭の断片を今に伝えている。
そして、1974年(昭和49年)に上板町の文化財(史跡)に指定されたことを受け、川の北岸堤防の外側には「七条城跡」を示す石碑が建立された 24 。この石碑は、物理的に失われた城の記憶を、景観の中に象徴的に留めようとする現代の試みであり、歴史を未来へ継承しようとする地域社会の意志の表れである。
七条城は、単独で存在する城ではなく、より大きな防衛システムの一部として機能していた。当時、阿波国を支配していた三好氏の本拠・勝瑞城の西方に位置し、その外郭を防衛する重要な支城網の一角を担っていたのである 17 。特に、土佐から阿波西部へ侵攻してくる長宗我部氏の脅威に対し、吉野川北岸に点在する他の支城群と連携し、多層的な防衛ラインを形成していたと考えられる 65 。七条兼仲は、この防衛システムの最前線を担う指揮官として、常に緊張の中にあったことが想像される。
城という物理的な建造物が失われた後も、その「場所」が持つ意味は、人々の信仰と記憶の中で生き続ける。七条城跡周辺には、城主であった兼仲が神として祀られた痕跡が残されており、彼の存在が地域共同体にとって特別なものであり続けたことを示している。
かつて、七条城跡から数十メートル南方の地には、七条兼仲その人を祭神とする「若宮神社」が存在したと伝えられている 25 。これは、城が廃され、七条氏による支配が終わった後も、地域の旧領主であった兼仲が、共同体の守護神として信仰の対象となり、神格化されていたことを示す何よりの証拠である。戦で非業の死を遂げた武将の霊を鎮め、その武威にあやかって地域の安寧を願うという信仰は、日本各地に見られるものである。
この若宮神社は、1912年(大正元年)に近隣の松島神社に合祀された 25 。神社の合祀は、物理的な社の消滅を意味するが、信仰の対象としての記憶が、より大きな神社の枠組みの中に吸収され、継承されていった過程と見ることができる。さらに、この神社の取り壊しの際には、「兼仲祖父 七条孫大夫隼人介 永正十六年(1519年)卒…」と刻まれた墓石が発見されたという 64 。これは、七条氏一族がこの地に深く根を下ろし、代々この地で生きてきたことを裏付ける貴重な物証である。
これらの事実は、都市計画史家ドロレス・ハイデンが提唱した「場所の力(The Power of Place)」という概念によって、より深く理解することができる。場所とは単なる物理的な空間ではなく、そこに住まう人々の「集合的記憶」が刻み込まれた歴史的景観である 69 。七条城跡の場合、城そのものは失われたが、城址碑、若宮神社の伝承、そして少し離れた大山寺の「力餅」行事といった要素が、見えないネットワークを形成している。これらの要素が相互に作用し合い、物理的な城郭が失われた後も、この一帯が「七条兼仲の場所」としての強いアイデンティティを維持・強化しているのである。景観が人々の記憶を呼び覚まし、人々の記憶が景観に意味を与える。このダイナミックな相互作用こそが、歴史を風化させずに未来へと伝えていく「場所の力」に他ならない 71 。
本報告書では、阿波国の戦国武将・七条兼仲について、史実と伝説という二つの側面から多角的に考察を試みた。その結果、一人の武将の生涯が、いかにして地域の歴史となり、文化となり、そして現代にまで生き続ける記憶となったかの過程が明らかになった。
史料によって確認できる「歴史上の人物」としての七条兼仲の姿は、阿波の一国人領主として三好氏に仕え、天正10年(1582年)の中富川の戦いで、四国統一を目指す長宗我部元親の圧倒的な軍勢の前に敗れ、討ち死にした、というものである。その生涯は、戦国の世に散った数多の武将の一人として、比較的短い記録の中に留まる。しかし、まさにその短い生涯と悲劇的な最期が、彼の死後に豊かな伝説を生み出す肥沃な土壌となった。史実としての彼の死が、伝説としての彼の誕生の瞬間であったと言える。
歴史の勝者である長宗我部元親ではなく、敗者であった兼仲が、なぜこれほどまでに地域の英雄として記憶され続けたのか。それは、彼の壮絶な最期が、外部の強大な力に蹂躙された地域共同体の記憶と深く共鳴し、その圧倒的な武勇が理想化され、語り継がれてきたからに他ならない。彼の伝説は、単なる娯楽や昔話ではなく、地域の誇りやアイデンティティを形成し、確認するための重要な文化的装置として機能してきた。「力餅」や「飛地蔵」の物語は、七条兼仲という象徴を通じて、共同体の価値観(力への憧憬、聖なるものへの畏敬、郷土への愛着)を世代から世代へと伝達する役割を担ってきたのである。
七条兼仲の探求は、今なお多くの可能性を秘めている。『上板町史』や『徳島県中世城館跡総合調査報告書』といった、より専門的な地方史資料を渉猟することで、七条氏の具体的な知行高(石高)や、他の国人領主との姻戚関係といった、在地領主としての社会経済的な実態をさらに明らかにすることができるだろう 24 。また、兼仲の伝説を、日本各地、あるいは四国内の他の武将たちの伝説と比較研究することで、英雄伝説が生まれる普遍的なメカニズムや、阿波国ならではの地域的特質を浮き彫りにすることも可能である。
七条兼仲という一人の武将の物語は、歴史学、民俗学、文化人類学といった学問領域を横断する、極めて魅力的な研究テーマであり続ける。彼の記憶は、これからも阿波の地で、そして我々の知的好奇心の中で生き続けるであろう。