戦国時代の日本において、宗教勢力が一大政治・軍事権力として歴史の表舞台に登場した例は少なくありませんが、その中でも浄土真宗本願寺教団は特異な存在でした。元亀元年(1570年)に始まる織田信長との10年にも及ぶ石山合戦は、本願寺が単なる宗教団体ではなく、全国に張り巡らされた門徒組織を動員しうる巨大な武装勢力であったことを天下に知らしめました 1 。法主・顕如の指導の下、各地の一向一揆は反信長包囲網の重要な一翼を担い、天下統一を目指す信長の前に立ちはだかったのです 1 。
この本願寺の広域ネットワークの中でも、北陸地方、とりわけ加賀国は最重要拠点でした。守護大名であった富樫氏を門徒の力で追放し、約100年にわたり「百姓の持ちたる国」と呼ばれる事実上の自治国家を築き上げていた加賀は、本願寺にとって最大の地盤であり、対織田戦略における人的・経済的資源の供給源として不可欠な存在でした 1 。
しかし、その強大な力は、本願寺中央にとって両刃の剣でもありました。各地の一向一揆は、門徒たちの自律的な信仰エネルギーを原動力としていましたが、そのエネルギーは必ずしも本願寺中央の意図通りに動くとは限りませんでした。このため本願寺は、一揆を教団の統制下に置き、戦略目標に沿って動かすべく、「上使(じょうし)」と呼ばれる法主の代理人を現地に派遣しました 7 。上使は、法主の絶対的な権威を背景に、現地の軍事指揮や統治を行い、時には門徒の粛清さえも断行する絶大な権限を与えられていました。本稿で詳述する七里頼周(しちり よりちか)もまた、この「上使」の一人として、激動の時代にその名を刻んだ人物です。
頼周の生涯を追うことは、単に一人の武将の伝記をなぞることに留まりません。彼の栄光と挫折の軌跡は、本願寺教団が巨大化の過程で必然的に抱え込むことになった構造的な矛盾を、極めて象徴的に映し出しています。それは、法主の権威を振りかざす「中央の論理」と、在地社会の現実に根差した「一揆の論理」との間の深刻な乖離と衝突です。本願寺は在地一揆の力を利用して勢力を拡大しましたが 6 、その力を制御しようと上使を派遣するという中央集権的な手法を取ったことで 7 、内部に深刻な軋轢を生みました。頼周が越前で見せた強権的な統治や、それに対する門徒の激しい反発は 7 、この構造的矛盾が表面化した典型例でした。そして、この内部対立こそが、強力な外部の敵である織田軍の侵攻に対し、あれほど強大に見えた一向一揆勢が驚くほど脆く崩壊した根本的な原因であったと考えられます。七里頼周という一人の坊官の生涯は、この巨大宗教組織が内包した根源的なジレンマを解き明かすための、またとない鍵となるのです。
年(西暦/和暦) |
七里頼周の動向 |
本願寺・一向一揆の動向 |
外部勢力(織田・上杉等)の動向 |
典拠 |
1517年(永正14年) |
誕生 |
|
|
8 |
1570年(元亀元年) |
|
石山合戦が始まる。 |
織田信長、石山本願寺と開戦。 |
2 |
1573年(天正元年) |
加賀一向一揆の指導者として派遣される。「加州大将」と称される。 |
顕如、頼周を加賀に派遣。 |
織田信長、朝倉義景を滅ぼす。 |
8 |
1574年(天正2年)1月 |
越前の一揆衆の要請を受け、大将として招聘される。 |
越前で土一揆が蜂起。 |
富田長繁、桂田長俊を討つも、一揆衆と対立。 |
8 |
1574年(天正2年)2月 |
富田長繁を討伐。越前府中辺の郡司に任命される。 |
下間頼照が越前守護として派遣される。杉浦玄任が大野郡司、下間和泉が足羽郡司に。 |
富田長繁、討死。 |
6 |
1574年(天正2年)2月以降 |
軍律違反を理由に門徒を処刑するなど強権的な統治を行い、門徒の反発を招く。 |
派遣坊官による統治に在地門徒が不満を抱く。 |
|
7 |
1575年(天正3年)8月 |
織田軍に大敗し、加賀へ敗走する。 |
下間頼照、杉浦玄任らが戦死。越前の一向一揆支配が崩壊。 |
織田信長、大軍を率いて越前を平定。 |
1 |
1576年(天正4年) |
加賀の司令官を解任される。松任城主・鏑木頼信と対立し、粛清を図る。 |
下間頼純が加賀司令官に着任。対上杉謙信外交へ転換し、和睦・同盟を模索。 |
上杉謙信、頼周と鏑木頼信の内紛を仲介。 |
7 |
1577年(天正5年)? |
上杉謙信の指揮下に入り、御幸塚城を守備。織田軍との戦闘で敗退し、討死したか。 |
謙信との同盟(越賀一和)が成立。 |
上杉謙信、能登へ侵攻。手取川で織田軍を破る。 |
8 |
1580年(天正8年) |
(異説)この頃まで生存し、金沢御堂陥落時に処断されたか。 |
顕如、信長と和睦し石山を退去。教如は抗戦を主張(本願寺分裂の遠因)。金沢御堂が織田軍に落ちる。 |
柴田勝家、加賀を平定。 |
7 |
七里頼周の生涯は、永正14年(1517年)に始まるとされていますが 8 、その出自や前半生については史料が乏しく、謎に包まれている部分が多くあります。一般的には、もとは本願寺に仕える下級武士階層である「青侍(あおざむらい)」であったと伝えられています 8 。青侍は、本願寺の警護や雑務を担う存在でしたが、その中から頼周は法主・顕如に直接その武才を見出され、一向一揆の指揮を任される坊官へと異例の抜擢を受けたとされます 8 。
この抜擢の背景には、七里一族が本願寺中枢と浅からぬ関係にあった可能性が指摘されています。顕如の父である第10世法主・証如の日記『天文日記』には、証如の外出に供奉する者として「七里」の姓が散見され、また一族の者が証如から直接盃を授かって得度する場面も記録されています 7 。これらの記述から、七里氏は単なる下級武士ではなく、代々法主に近侍する家臣団の一員であり、頼周自身も顕如の側近として信頼を得るに足る家柄であったことが窺えます。
頼周が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、天正元年(1573年)、顕如の命により加賀一向一揆の指導者として現地に派遣されてからのことです 8 。当時、本願寺は織田信長との全面戦争(石山合戦)の真っ只中にあり、最大の拠点である加賀の統制強化は喫緊の課題でした。頼周は門徒を巧みに指揮して織田方との戦闘で武功を重ね、一向門徒から「加州大将」と尊称されるほどの信頼と武名を確立していきます 1 。
彼の功績の中でも特筆すべきは、織田信長に呼応して権力奪還を企てた旧守護・富樫氏の末裔である富樫晴貞の挙兵を鎮圧したことです 1 。当時の加賀は、守護を追放して以来、約100年にわたり門徒が支配する「百姓の持ちたる国」でしたが、その内実は指導権を巡る内紛が絶えない不安定な状態でした 1 。頼周が富樫氏の反乱を打ち破ったことで、加賀における本願寺の支配体制は盤石となり、彼の「加州大将」としての地位は不動のものとなったのです。
「加州大将」として北陸にその名を轟かせた頼周の次なる舞台は、隣国・越前でした。天正元年(1573年)に織田信長が朝倉義景を滅ぼした後の越前は、深刻な権力闘争の渦中にありました。信長は越前の統治を、元朝倉家臣で寝返った前波吉継(後に桂田長俊と改名)に任せましたが、彼の圧政は国人や民衆の激しい反発を招き、国内は一触即発の状態でした 8 。
この不満を巧みに利用し、天正2年(1574年)正月に反乱の狼煙を上げたのが、府中(現在の福井県越前市)の領主・富田長繁でした。長繁は民衆の土一揆を扇動して桂田長俊を討ち果たし、一時的に越前の実権を掌握します 12 。しかし、彼の野心は留まるところを知らず、敵対していなかった有力国人・魚住景固一族を宴席に招いて謀殺するなど、無軌道な殺戮と権力闘争に明け暮れました 8 。このような暴走は、彼を担いだはずの一揆衆の間に深刻な不信感を生み、両者の関係は急速に悪化。一揆衆は長繁と袂を分かつことを決意します。
指導者を失い、混乱の極みにあった越前の一揆衆は、その多くが本願寺門徒であったことから、隣国で「加州大将」として武名を馳せていた七里頼周に白羽の矢を立てました。彼らは加賀に使者を送り、頼周を新たな大将として招聘したのです 8 。この時点で、越前の土一揆は、本願寺の反信長戦略の一翼を担う「一向一揆」へと、その性格を決定的に変貌させました。
頼周は、同じく加賀から派遣された坊官・杉浦玄任らと共に一揆軍を率いて越前に入り、富田長繁勢と対峙します。長繁は数で劣りながらも奮戦しますが、最終的には味方の裏切りに遭い、合戦の最中に鉄砲で撃たれて討死しました 14 。
こうして越前の在地勢力を一掃した本願寺は、この地を完全に掌握。石山本願寺から惣大将(事実上の守護)として下間頼照を送り込み、本格的な統治体制を構築します。この新体制において、頼照の下で七里頼周は府中辺の郡司、杉浦玄任は大野郡司、頼照の子である下間和泉は足羽郡司にそれぞれ任命されました 6 。これは、加賀で確立された坊官による分割統治体制を越前にも導入するものであり、頼周は越前支配の中核を担う存在となったのです。
越前の支配者の一人となった七里頼周ですが、彼の統治は早々に破綻をきたします。彼の生涯を考察する上で極めて重要なのは、有能な軍事指揮官としての側面と、未熟な統治者としての側面が同居していたという点です。「加州大将」としての実績が示す通り、戦場における彼の指揮能力は疑いようもありません 1 。しかし、多様な利害が渦巻く占領地を治める政治家としては、その手腕は著しく欠けていたと言わざるを得ません。
頼周の統治者としての未熟さを象徴するのが、彼が越前に入って間もなく起こした門徒処刑事件です。『朝倉始末記』などの記録によれば、一揆衆が敵対する国人・黒坂氏一族を討ち取り、その首を頼周のもとへ持参したところ、頼周は彼らを賞賛するどころか、「自分の命令もなく勝手に武士を殺すことは軍律違反である」と激怒し、首を持参した門徒を処刑してしまいました 8 。
この行為の背景には、本願寺中央が在地武士層も反信長勢力として取り込もうとしていたという戦略的意図があった可能性も考えられます 9 。しかし、頼周のやり方はあまりに硬直的かつ一方的でした。旧支配者である武士階級を自らの手で打倒することに蜂起の正義と意義を見出していた一揆衆にとって、この処置は到底受け入れられるものではありませんでした。頼周は「軍律の遵守」という狭い視野に囚われるあまり、一揆を構成する門徒たちの心情を全く理解できず、より大局的な目標である「反信長勢力の結集」という視点を見失っていたのです。この一件は、頼周ら派遣坊官と在地門徒との間に、修復不可能な亀裂を生じさせる決定的な出来事となりました。
頼周や越前惣大将の下間頼照ら派遣坊官による支配は、在地の人々にとって「他所から来た者たち」による抑圧的なものでした 14 。彼らは、一揆を成功に導いた在地門徒を対等な協力者として遇するのではなく、「家臣のように」 23 、あるいは「下人のごとく」扱い、重い軍役を課しました。当時の記録には、いつ誰の密告によって失脚させられるか分からない「一種の恐怖政治」が行われていたことを示唆する記述も見られ 7 、門徒たちの不満は日増しに高まっていきました。
ついに頼周の専横に耐えかねた加賀・越前の門徒たちは、前代未聞の行動に出ます。彼らは連名で、石山本願寺の重鎮であり、法主・顕如の側近でもある坊官・下間頼廉に対し、頼周の非道と悪政を訴える弾劾状を送りつけたのです 7 。これは、単なる不平不満の表明ではありません。本願寺の地方支配を担う上使が、その支配対象であるはずの門徒たちから、本願寺中央に対して公然と告発されるという異常事態でした。この弾劾状は、越前における本願寺支配が、外部からの攻撃を待つまでもなく、内部から崩壊しつつあったことを示す、何より雄弁な証拠と言えるでしょう。
越前一向一揆が深刻な内部対立を抱えているという情報は、天下統一の障害となる本願寺勢力の殲滅を狙う織田信長の耳にも、当然のことながら届いていました 8 。信長はこの内紛を、越前を再奪取する絶好の機会と捉えます。天正3年(1575年)8月、信長は柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀といった織田軍の主力を総動員した大軍を、満を持して越前に進攻させました 18 。
迎え撃つ一向一揆勢でしたが、その抵抗は驚くほど脆いものでした。指導者である下間頼照や七里頼周は、前述の通り在地門徒からの人望を完全に失っており、彼らの下に門徒が一致団結して戦うことはありませんでした 23 。在地勢力の十分な協力を得られなかった一揆軍は、織田軍の組織的かつ圧倒的な軍事力の前に全く統率の取れた抵抗ができず、各地で一方的に蹂躙されていきました 1 。
越前の玄関口である木ノ芽峠や鉢伏城といった国境の防衛拠点は、織田軍の猛攻の前に次々と陥落 18 。大野郡を任されていた杉浦玄任は、この時、鉢伏城で討死したと伝えられています 18 。そして、越前支配の最高責任者であった惣大将・下間頼照は、観音丸城から海路での逃亡を図るも、かねてから敵対していた真宗高田派の門徒に発見され、その首を討たれました 18 。
指導部が次々と討たれ、あるいは逃亡し、一揆勢が阿鼻叫喚の地獄絵図と化す中、七里頼周は辛うじてこの死地を脱出することに成功します。彼は命からがら故地である加賀へと敗走しました 7 。しかし、この惨めな敗走によって、彼がかつて誇った「加州大将」の威光は完全に地に堕ち、その後の彼の運命を大きく暗転させることになったのです。
越前から敗走した頼周は、加賀における本願寺の拠点・金沢御堂(後の金沢城) 25 に戻りますが、大敗の責任は免れませんでした。天正4年(1576年)、本願寺中央は頼周を加賀方面の司令官から事実上解任し、後任として新たに下間頼純を派遣しました 8 。頼周は、かつて自身が君臨した地で、その権威を大きく失墜させることになったのです。
この頃、越前という重要拠点を失った本願寺は、対織田戦略の抜本的な見直しを迫られていました。そして、これまで敵対することもあった越後の上杉謙信との和睦・同盟へと大きく舵を切るという、重大な外交方針の転換に踏み切ります 7 。この本願寺と上杉の接近は、北陸におけるパワーバランスを激変させ、頼周の運命にも決定的な影響を及ぼすことになりました。
自身の権威が揺らぐ中、頼周は再び内部に敵を作ります。彼は、加賀の有力な門徒旗本であり、松任城主でもあった鏑木頼信に謀叛の疑いありと一方的に断じ、その粛清を強行しようとしました 7 。これは、越前での統治失敗に何ら学ぶことなく、自身の権威を回復せんがために、再び専横的な手法に訴えた結果でした。この行動は、かねてから頼周に反発していた他の加賀の旗本衆との対立を決定的なものにします 7 。
この内紛は、もはや本願寺内部の論理だけでは解決不可能な段階に達していました。最終的に、この地域への政治的影響力を強めていた上杉謙信が仲介に入るという形で事態は収拾され、鏑木頼信らは赦免されることになります 7 。この出来事は、本願寺法主の権威(法義)が、もはや在地一揆の内部対立に対して絶対的な効力を持たなくなったこと、そして謙信の政治力が加賀の門徒社会にまで深く浸透していたことを示す、象徴的な事件でした 7 。頼周が起こした内紛は、結果として本願寺の権威の低下を露呈させ、上杉氏の介入を招くという皮肉な結末を迎えたのです。
鏑木頼信との内紛が上杉謙信の仲介で収拾された後、七里頼周は謙信の指揮下に入ることになります 8 。これは単なる軍事的な配置転換として片付けられる問題ではありません。越前で大敗し、加賀でも内紛を起こした頼周は、本願寺中央にとって統制困難な厄介な存在となっていました。一方で、本願寺は対織田戦略上、上杉謙信との同盟関係を是が非でも維持する必要がありました 7 。この状況下で、頼周を謙信の指揮下に置くことは、本願寺にとって内部の不和を解消すると同時に、同盟相手である謙信への恭順の意を示すという、一石二鳥の高度な政治的判断であったと推測されます。頼周は、本願寺と上杉の同盟を円滑にするための「外交の駒」として、事実上、最も危険な場所へと送られたのです。
天正5年(1577年)8月、織田軍の北進の報を受けた謙信は、頼周に能美郡の御幸塚城(ごこうづかじょう)の守備を命じます 31 。この城は、現在の石川県小松市今江町にあった今江城の別名とされ、加賀南部における対織田防衛ラインの要衝でした 33 。織田軍との正面衝突が避けられない、文字通りの最前線です。
頼周の最期については諸説ありますが、最も広く知られているのは、この御幸塚城での討死説です。複数の記録によれば、頼周は謙信の将として御幸塚城で織田軍と交戦し、敗退。その撤退の過程で討ち取られたとされています 8 。これが事実であれば、かつて「加州大将」とまで呼ばれた男の、あまりに寂しい最期であったと言えます。
しかしながら、頼周の最期を直接的かつ詳細に伝える確実な一次史料は現存しておらず、その死には不明な点が多く残されています 7 。異説として、天正8年(1580年)に柴田勝家によって金沢御堂が陥落させられた際に処断された、あるいは自害したとする見方もあります 18 。
頼周の名が確認できる最後の確実な史料は、天正8年4月に、織田信長との和睦を巡って意見が対立した法主・顕如(和睦派)と、その子・教如(抗戦派)から、それぞれ内容の異なる指令の書状を受け取ったという記録です 7 。本願寺中枢が分裂するこの混乱の直後に、頼周もまた歴史の舞台から姿を消します。このことから、和睦か抗戦かの選択を迫られる中で、織田方によって殺害されたか、あるいは自害したと見るのが妥当とする研究も有力です 7 。いずれにせよ、彼の最期は、本願寺そのものが分裂へと向かう激動の中で迎えたものでした。
七里頼周の生涯を振り返るとき、その評価は功罪相半ばするものとならざるを得ません。
彼の功績は、紛れもなくその軍事指揮官としての能力にあります。「加州大将」として加賀・越前で一揆を率い、本願寺の勢力圏を一時的にせよ拡大させた手腕は高く評価されるべきです 1 。しかしその一方で、彼の罪過は、その権威を振りかざした強権的で未熟な統治手法が、在地門徒の深刻な離反を招いた点にあります。結果として、彼は越前一向一揆の内部結束を自ら破壊し、織田軍による早期平定を許す最大の要因を作ってしまいました 8 。彼の行動は、本願寺教団が抱える中央と地方の構造的矛盾を、誰の目にも明らかな形で露呈させたのです 7 。
では、彼は単なる「非道で粗暴な武将」だったのでしょうか。見方を変えれば、法主の絶対的な権威を代行するという重圧と、自律的で統制の難しい一揆集団を率いるという困難な任務の間で引き裂かれた、悲劇的な「中間管理職」としての側面も浮かび上がってきます。彼の行動は、個人の資質の問題としてのみならず、彼が置かれた「上使」という立場の構造的問題からも多角的に考察されるべきでしょう。
彼の死後、その墓所や子孫に関する確実な史料は見つかっていません 7 。筑後国(現在の福岡県)の万行寺が頼周を開基とする伝承を残していますが、これも後世に同寺の権威を高めるために、たまたま伝来していた頼周関連文書を利用して創作された可能性が極めて高いと指摘されています 7 。史実としての記録以上に、彼の劇的な生涯が後世の人々の創作意欲を掻き立てる、象徴的な存在であったことが窺えます 37 。
結論として、七里頼周の生涯は、石山合戦という巨大な宗教戦争の渦中、本願寺の北陸方面司令官として華々しく登場し、やがて内部対立と時代の大きなうねりの中で悲劇的な最期を遂げた一人の坊官の物語です。そしてそれは同時に、巨大な宗教組織が世俗権力と化していく過程で必然的に生じる、理想(法義)と現実(統治)の間の埋めがたい葛藤と矛盾を、現代の我々に生々しく問いかけているのです。