三刀屋久扶は出雲の国人領主。尼子・大内・毛利と主家を変え、巧みな政治手腕で乱世を生き抜いた。しかし、毛利輝元の政策により本領を追放され、京都で死去。
日本の戦国時代は、数多の武将たちが己の知力と武力を頼りに、一族の存亡を賭けて戦い抜いた時代です。その中で、大大名の華々しい活躍の陰には、自らの領地と家名を死守すべく、複雑な政治情勢の波間を巧みに泳ぎ渡った「国人領主(国衆)」と呼ばれる在地勢力が無数に存在しました。本報告書が主題とする三刀屋久扶(みとや ひさすけ)は、まさしくこの国人領主の典型であり、その生涯は戦国時代の地方武士が直面した過酷な現実を色濃く映し出しています。
出雲国(現在の島根県東部)に根を張った三刀屋氏は、中国地方の覇権を争う尼子氏、大内氏、そして毛利氏という三大勢力の狭間で、翻弄されながらも巧みな政治判断を下し続けました。久扶の生涯は、主家を幾度となく変えながらも、それは単なる裏切りや日和見主義ではなく、自立性を保持しつつ大勢力と渡り合うための、計算され尽くした生存戦略であったと評価できます。
しかし、彼の終焉は、戦国時代の終焉と近世大名による中央集権的な権力確立という、より大きな歴史的転換点と密接に結びついていました。久扶の没落は、一個人の失敗というよりも、毛利氏の権力構造の変化という時代の必然が生んだ悲劇であり、彼の生き様は戦国という時代の複雑さと、近世へと向かう日本の社会構造の変化を理解する上で、極めて示唆に富む事例と言えるでしょう。
本報告書は、現存する古文書や研究成果を基に、三刀屋久扶の出自からその最期、そして子孫の行く末までを徹底的に詳述し、彼の生涯を多角的に分析・評価することを目的とします。まず、彼の生涯と時代の流れを俯瞰するため、関連年表を以下に示します。
西暦/和暦 |
三刀屋久扶の動向 |
関連勢力・人物の動向 |
主な出来事/合戦 |
備考 |
1221年 (承久3年) |
(祖先)諏訪部扶長が出雲国三刀屋郷の地頭職に補任される 1 。 |
北条義時が地頭職を補任。 |
承久の乱。 |
三刀屋氏の出雲における歴史の始まり。 |
1528年 (享禄元年) |
父・頼扶より家督を継承したとされる 2 。 |
尼子経久が相続を安堵。 |
- |
ただし、より確実な史料では1555年。 |
1540年 (天文9年) |
尼子晴久に従い、安芸国・吉田郡山城攻めに参加 3 。 |
尼子晴久が毛利元就を攻撃。 |
吉田郡山城の戦い。 |
- |
1541年 (天文10年) |
尼子軍の敗走に伴い、出雲へ撤退。その後、大内氏に一時降伏 5 。 |
大内氏の援軍により毛利元就が勝利。 |
- |
国人領主の現実的な生存戦略。 |
1555年 (天文24年) |
尼子晴久より父の跡職相続を正式に安堵される 7 。 |
尼子晴久が出雲国内の統制を強化。 |
- |
「三刀屋文書」に見える確実な家督継承の記録。 |
1557年 (弘治3年) |
尼子義久より偏諱を受け、「久」の字を拝領 3 。 |
尼子義久が家督を継承。 |
- |
尼子氏への再帰順と忠誠の証。 |
1562年 (永禄5年) |
三沢為清らと共に毛利氏に帰順 3 。 |
毛利元就が出雲侵攻を本格化。 |
八畔峠の戦い。 |
尼子氏の有力家臣・熊野入道を討ち取る大功を挙げる。 |
1563年 (永禄6年) |
地王峠にて尼子方の立原久綱を撃退 3 。 |
尼子氏が三刀屋城を攻撃。 |
地王峠の戦い。 |
- |
1565-66年 |
毛利方の小早川隆景配下として月山富田城攻めに参加 3 。 |
毛利氏が尼子氏の本拠地を包囲。 |
第二次月山富田城の戦い。 |
尼子氏の滅亡に直接関与。 |
1573年 (天正元年) |
天台座主補任問題に関与し、朝廷より毛氈鞍覆等の使用を許可される 5 。 |
将軍・足利義昭の側近、一色藤長と書状を交わす 7 。 |
- |
中央政界との独自のパイプを構築。 |
1578年 (天正6年) |
毛利氏に従い、上月城の戦いに参加 5 。 |
織田信長と毛利氏が対立。 |
上月城の戦い。 |
尼子再興軍の壊滅を見届ける。 |
1586年 (天正14年) |
豊臣秀吉の九州平定に従軍。小倉城の戦いに参加 3 。 |
豊臣秀吉が九州を平定。 |
九州平定。 |
子・孝扶と共に肥後国人一揆の鎮圧にも参加。 |
1588年 (天正16年) |
毛利輝元により本領を没収され、出雲から追放される 1 。 |
毛利輝元が家臣団の統制を強化。 |
- |
通説では家康との面会が原因とされるが、輝元の中央集権化政策が本質的な理由と考えられる。 |
1591年 (天正19年) |
10月20日、京都の四日市村にて死去 2 。 |
- |
- |
戒名は寛光院殿忠誉真大禅門。 |
三刀屋久扶の行動原理を理解するためには、彼が背負っていた一族の歴史と、彼が生きた時代の出雲国が置かれた状況をまず把握する必要がある。三刀屋氏は、戦国時代に突如現れた新興勢力ではなく、鎌倉時代から続く由緒ある家柄であり、その在地性と家格こそが、久扶の判断の根底に流れる重要な要素であった。
三刀屋氏の起源は、清和源氏満快流を称する信濃源氏の一族、諏訪部氏に遡る 4 。一族の伝承によれば、鎌倉時代初期の承久3年(1221年)に起こった承久の乱において、幕府方として戦功を挙げた諏訪部扶長(すわべ すけなが)が、執権・北条義時によって出雲国飯石郡三刀屋郷(現在の島根県雲南市三刀屋町)の地頭職に補任されたことが、その始まりとされる 1 。これは、三刀屋氏が単なる在地土豪ではなく、鎌倉幕府の権威を背景に成立した武士団であったことを示している。
鎌倉時代中期以降、多くの御家人が幕府の置かれた鎌倉を離れ、自らの所領がある地方へ下向する動きが活発化する中で、諏訪部氏もまた三刀屋の地を本拠として土着化していった 4 。彼らは、斐伊川とその支流である三刀屋川が合流する交通・戦略上の要衝に拠点を構え、地域の支配者としての地位を固めていった 9 。
南北朝時代の動乱期には、出雲国の守護であった塩冶氏や、その後勢力を伸ばした山名氏に属して戦乱を生き抜いた 4 。この頃から、一族は本来の姓である「諏訪部」に代わり、本拠地の地名に由来する「三刀屋」を名字として名乗るようになったと考えられている 7 。当初の居城は、三刀屋じゃ山城(石丸城)であったが、戦国時代に入ると、より利便性の高い支城であった三刀屋城(尾崎城)へと本拠を移した 11 。こうして三刀屋氏は、300年以上にわたり同じ土地を治める、地域に深く根差した領主としてのアイデンティティを確立したのである。
室町時代後期になると、出雲国の守護であった京極氏の権威は失墜し、その守護代であった尼子経久が下剋上によって実権を掌握、月山富田城を拠点に戦国大名への道を歩み始めた 5 。当初、三刀屋氏は幕府から発せられた経久追討令に従い、これと敵対した 5 。しかし、謀略をもって再起した経久の圧倒的な力の前に、やがてその軍門に降ることとなる。
三刀屋久扶の父・頼扶の代には、三刀屋氏は尼子氏の主力部隊として安芸国や石見国を転戦し、多くの軍功を挙げた 5 。これにより、久扶が家督を継承する頃には、三刀屋氏は尼子家臣団の中で、その武勇と戦略的拠点(三刀屋城)の重要性から、欠くことのできない有力国衆としての地位を確固たるものにしていた。久扶は、この父祖伝来の土地と家名を背負い、戦国の荒波へと漕ぎ出すことになったのである。
三刀屋久扶の武将としてのキャリアは、中国地方の覇者として君臨していた尼子氏の家臣として始まった。彼は尼子氏の主力として武功を挙げる一方で、大勢力の狭間で翻弄され、国人領主としての厳しい現実に直面することになる。
久扶が父・頼扶から家督を継承した時期については、享禄元年(1528年)とする説が一般的である 2 。しかし、より信頼性の高い一次史料である「出雲三刀屋家文書」によれば、天文24年(1555年)に、主君である尼子晴久から父の跡職相続を正式に安堵する旨の文書が発給されている 7 。この年代のずれは、非公式な家督の継承と、主君による公式な承認との間に時間差があったことを示唆しているのかもしれない。
いずれにせよ、久扶は尼子氏の「惣侍衆」として、三刀屋本領6,785石の知行を安堵され 2 、尼子氏の防衛網の要である「尼子十旗」の一角を担う三刀屋城主として、その軍事体制において重要な役割を果たした 8 。
天文9年(1540年)、尼子晴久は安芸国で勢力を拡大する毛利元就を討伐するため、自ら大軍を率いて元就の居城・吉田郡山城へと侵攻した。久扶もこの戦いに尼子軍の主力として参加する 3 。しかし、毛利軍の頑強な抵抗と、救援に駆けつけた大内義隆軍の猛攻の前に尼子軍は大敗を喫し、晴久と共に命からがら出雲へと敗走した 2 。
この敗戦は中国地方の勢力図を大きく塗り替えた。尼子氏の権威は揺らぎ、代わって大内氏が覇権を握ると、久扶は時勢を読み、一時的に大内氏に降伏する 5 。これは、特定の主君への忠誠よりも、自領と一族の存続を最優先する国人領主の現実的な生存戦略の現れであった。
その後、大内義隆が自ら大軍を率いて行った出雲侵攻が失敗に終わると、中国地方のパワーバランスは再び変動する。この機を捉え、久扶は再び尼子氏の麾下へと復帰した 5 。
一度は離反した有力国衆を再び繋ぎ止めるため、尼子氏も懐柔策を講じた。弘治3年(1557年)、尼子晴久の子・義久は、久扶に対して自らの名の一字である「久」の字を与える「偏諱」を行った 3 。これにより、久扶は「久祐」とも名乗るようになる。偏諱の授与は、単なる名誉ではなく、主君と家臣の間に擬制的な主従関係や親子関係を構築し、家臣団への統制を強化しようとする戦国大名の常套手段であった。久扶がこれを受け入れたことは、彼が一度離反したにもかかわらず、再び尼子家臣団の中核に返り咲いたことを象徴する重要な出来事であった。それは、尼子氏にとって三刀屋氏の持つ軍事力と戦略的価値がいかに大きかったか、そして久扶にとっても尼子氏の権威を後ろ盾とすることが自らの地位を安定させる上で不可欠であったという、両者の緊張感をはらんだ相互依存関係を示している。
尼子氏の権勢に陰りが見え始めると、久扶は一族の存続を賭けた大きな決断を迫られる。それは、長年仕えた尼子氏を見限り、西から迫る新興勢力・毛利氏へと帰順することであった。この転身は、彼の武将としての評価を決定づけるとともに、国衆としてのしたたかな自立性を浮き彫りにする。
永禄3年(1560年)、尼子氏を一代で中国地方の覇者へと押し上げた英主・尼子晴久が急死すると、家中の動揺は隠せなかった 4 。この好機を毛利元就は見逃さなかった。彼は石見国を完全に平定すると、永禄5年(1562年)には出雲国への本格的な侵攻を開始する 4 。
この情勢を冷静に分析した久扶は、もはや尼子氏に未来はないと判断。同じく出雲の有力国衆であった三沢為清らと歩調を合わせ、毛利氏への帰順を決断した 3 。この動きを裏付けるように、同年6月28日付で毛利氏が久扶の所領安堵を認める文書が発行されており、この時期に彼の帰順が確定したことがわかる 7 。
久扶の決断は孤立したものではなく、尼子氏の求心力低下と毛利氏の圧力を受けた出雲国人衆全体の大きな潮流の一部であった。
国人領主名 |
本拠地 |
永禄5年(1562年)頃の帰属 |
毛利氏からの処遇 |
備考 |
三刀屋久扶 |
三刀屋城 |
毛利方へ帰順 |
所領安堵 |
八畔峠の戦いで旧主・尼子軍を撃破。 |
三沢為清 |
三沢城 |
毛利方へ帰順 |
所領安堵 |
久扶と歩調を合わせて帰順 3 。 |
赤穴盛清 |
赤穴城 |
毛利方へ帰順 |
本領安堵、天役・郡役の免除 14 。 |
三刀屋久扶の仲介により降伏 14 。 |
本城常光 |
山吹城(石見) |
毛利方へ帰順 |
- |
彼の降伏が石見の尼子方勢力瓦解のきっかけとなった 13 。 |
宍道隆慶 |
宍道城 |
尼子方に留まる |
- |
尼子氏滅亡まで忠誠を尽くした。 |
この表が示すように、毛利氏は武力による制圧だけでなく、有力国衆の所領を安堵し、ある程度の自立性を認めることで、巧みに勢力下へと取り込んでいった。久扶が赤穴氏の降伏を仲介した事実は、彼が単なる降将ではなく、他の国衆を調略するエージェントとしての役割を毛利氏から期待されていたことを示している。
毛利方に転じたことで、三刀屋城は山陰と山陽を結ぶ毛利軍の兵站拠点という極めて重要な役割を担うことになった。当然、旧主である尼子氏にとって、この補給路の遮断は急務であり、三刀屋城は真っ先に攻撃目標とされた 4 。
永禄5年、尼子氏の重臣・熊野入道西阿が率いる1,500の軍勢が三刀屋城に迫った。対する三刀屋勢は毛利からの援軍を含めても寡兵であった。久扶は、八畔峠(八畦峠)を越えられては不利と判断し、600騎を率いて密かに峠に先回りすると、夜陰に乗じて尼子軍の陣に奇襲を仕掛けた 10 。不意を突かれた尼子軍は混乱に陥り、大将の熊野入道も討ち取られるという劇的な勝利を収めた 4 。この戦いは、久扶の毛利氏への揺るぎない忠誠と、優れた軍事的能力を内外に証明する絶好の機会となった。
八畔峠の戦い以降も、久扶は毛利方の中核として戦い続けた。白鹿城攻めや、尼子氏の最後の拠点である月山富田城の攻防戦にも参戦。特に第二次月山富田城の戦いでは、毛利家の重鎮・小早川隆景の軍に属し、菅谷口の攻略を担当するなど、尼子氏滅亡に直接的な役割を果たした 3 。
しかし、毛利氏の家臣となりながらも、久扶は完全な従属を受け入れたわけではなかった。尼子氏滅亡後も、彼は毛利氏の首脳である吉川元春らに対し、複数回にわたり忠誠を誓う「起請文」を提出している 4 。一見するとこれは従順さの証に見えるが、その裏には、彼が毛利氏にとって完全な譜代家臣ではなく、依然として一定の自立性を保持した「国衆型家臣」であったという事実が隠されている。毛利氏側は彼の忠誠を常に確認する必要があり、久扶側も自らの立場と所領を保証させるために誓紙を差し出すという、対等に近い契約関係が存在したのである。事実、毛利氏からの軍事動員要請に対し、自領周辺の情勢不安を理由にこれを拒否した可能性を示唆する史料も存在しており 7 、彼の国衆としての高い自立性を裏付けている。
毛利氏の家臣となった後も、三刀屋久扶の活動は出雲一国に留まるものではなかった。彼は毛利軍の武将として各地を転戦する一方、一地方領主の枠を超え、京の朝廷や中央政界と直接的な繋がりを構築していく。この独自の動きは、彼の非凡な政治感覚を示すと同時に、後の没落の遠因ともなった。
尼子氏が滅亡した後も、山中幸盛(鹿介)らを中心とする尼子再興軍が執拗に抵抗を続けた。久扶はこれに同調することなく、一貫して毛利方として再興軍と戦った 5 。天正6年(1578年)、播磨国で繰り広げられた上月城の戦いにも参加し、尼子勝久の自刃と再興軍の壊滅という、旧主家の完全な終焉を見届けている 5 。
やがて織田信長が倒れ、豊臣秀吉が天下統一事業を推し進めると、毛利氏もその麾下に入った。久扶も毛利氏の武将として、秀吉の事業に動員される。天正14年(1586年)には、九州平定の一環である小倉城の戦いに参加。さらにその後の肥後国人一揆の鎮圧にも、嫡男である孝扶と共に従軍している 2 。これらの戦歴は、彼が毛利家臣団の一員として、その軍事行動に忠実に貢献していたことを示している。
久扶の真骨頂は、単なる武辺者ではなかった点にある。彼は毛利氏という巨大な権力を介さず、自らの力で中央の権威と繋がるという、高度な政治戦略を展開した。
その最も顕著な例が、天正元年(1573年)の天台座主の補任問題への関与である 6 。彼は、曼殊院覚恕(まんしゅいん かくじょ)が天台座主に就任するにあたり、多額の献金を行うなど積極的に支援した。この功績は中央にも認められ、正親町天皇(あるいは上皇)から、武士にとって非常に名誉な「毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)」と「弓袋」の使用を個人的に許可されている 5 。これらは、大名格の武将にのみ許される特別な装飾品であり、この下賜は久扶の「格」を毛利家中で際立たせる効果があった。
さらに、当時の室町幕府将軍・足利義昭を庇護していた毛利氏との関係とは別に、久扶は義昭の側近であった一色藤長と直接書状を交わすなど、幕府中枢とも独自のパイプを築いていたことが確認されている 7 。
これらの行動は、彼が毛利氏の単なる「部品」として埋没することを拒否し、独立した政治主体としてのアイデンティティを保とうとしたことの証左である。中央の最高権威と直接繋がることで、自らの地位を相対的に高め、毛利家中にあっても特別な存在として認めさせようとしたのである。この類稀な政治手腕と自立性の高さこそが、三刀屋久扶という武将を特徴づけるものであった。しかし皮肉なことに、この彼の最大の強みこそが、新しい時代を迎えようとしていた主君・毛利輝元の猜疑心を招き、自らを破滅へと導く最大の弱点ともなってしまったのである。
長年にわたり、巧みな政治手腕と武勇で乱世を生き抜いてきた三刀屋久扶であったが、その生涯は突如として終焉を迎える。天正16年(1588年)、彼は主君・毛利輝元によって何の前触れもなく本領を没収され、360年以上にわたって一族が治めてきた三刀屋の地から追放されたのである 1 。この劇的な失脚の背景には、通説として語られる逸話と、より本質的な時代の構造変化が存在した。
久扶が改易された理由として、最も広く知られているのが「徳川家康との面会」説である。天正16年、輝元の上洛に久扶も同行した際、豊臣政権下で台頭していた徳川家康と独断で面会したことが輝元の逆鱗に触れ、謀反の疑いをかけられて追放された、という筋書きである 2 。
しかし、この通説には大きな疑問符が付く。久扶がこの上洛に同行したことや、家康と面会したことを直接証明する一次史料は、現在のところ確認されていない 4 。後世の軍記物などによって広まった可能性が高く、改易という重大な処分の理由としては、やや信憑性に欠けると言わざるを得ない。
久扶改易のより本質的な理由は、当時の毛利氏が直面していた内部の権力構造の変化に求めるべきである。久扶の主君・毛利輝元は、祖父・元就が築き上げた、独立性の高い国人領主たちの連合体という、いわば「同盟の盟主」としての体制から脱却しようとしていた 15 。豊臣政権下で五大老の一人として他の大大名と伍していくためには 17 、大名が領国を直接的かつ強力に支配する、近世的な中央集権体制への移行が不可欠であった。
その政策の一環として、輝元は領内の統一的な支配を目指し、太閤検地に呼応する形で領国全域の検地(指出検地)を実施した 19 。これは、国人領主たちが伝統的に保持してきた所領の支配権を大名の管理下に置き、その経済的基盤を揺るがすことで、彼らの自立性を削ぐ狙いがあった。
この輝元が進める中央集権化の文脈において、三刀屋久扶はまさに格好の標的であった。彼は、
これらの要素は、元就の時代には毛利氏の勢力拡大に貢献する「強み」であったが、輝元の時代には、大名の直接支配を阻む「障害」へとその意味合いを変えていた。輝元にとって、久扶のような強力で統制の難しい国衆を排除し、その所領を没収して直轄地や信頼できる側近に与えることは、自身の権力基盤を盤石にする上で避けては通れない道であった。家康との面会説は、この政治的粛清を実行するための、後付けの口実に過ぎなかった可能性が極めて高い。久扶の失脚は、個人的な失策の結果ではなく、毛利氏が戦国大名から近世大名へと脱皮する過程で必然的に生じた、権力闘争の犠牲となった事件だったのである。
先祖代々の地を追われた久扶は、京に上り隠棲したと伝わる 2 。徳川家康がその才を惜しみ、8,000石で召し抱えようとしたが、これを固辞したという逸話も残るが、これも真偽は定かではない。そして天正19年(1591年)10月20日、京都の四日市村にて、その波乱に満ちた生涯の幕を閉じた 2 。
三刀屋久扶の死は、一個人の生涯の終わりであると同時に、出雲国に深く根を張った三刀屋氏という一族の歴史における大きな転換点でもあった。彼の追放後、残された子孫は流転の道を歩むこととなるが、その中で武士としての家名を繋ぎ、一族の誇りを後世に伝えていった。
父・久扶が改易された後も、嫡男の三刀屋孝扶(たかすけ)は毛利氏に仕え続け、文禄・慶長の役では毛利軍の一員として朝鮮半島へ渡り、戦功を挙げたとされる。しかし、父の旧領である三刀屋の地を回復することは叶わず、やがて毛利家を退去する 5 。
その後、孝扶は細川家に仕官。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に包囲された細川幽斎(藤孝)が籠る丹後国・田辺城での籠城戦に加わり、武名を知られた 5 。関ヶ原の戦いの後、最終的には3,000石という厚遇で紀州徳川家に仕え、武士としての家名を安定させることに成功した 5 。
孝扶の子である扶明(すけあき)の代になると、一族は大きな決断を下す。それは、名字を本拠地の地名に由来する「三刀屋」から、一族の祖である鎌倉御家人の姓「諏訪部」へと戻すことであった 4 。これは、三百数十年間にわたって統治した三刀屋の地を完全に失ったことで、地名を名乗る意味が薄れ、一族の源流である清和源氏の系譜に連なる誇りを後世に伝えようとしたものと解釈できる。
この紀州藩士・諏訪部扶明が所蔵していた一族伝来の古文書群は、後に水戸藩が『大日本史』を編纂する際に書写され、今日「三刀屋文書」として伝わっている 4 。もし彼らが歴史の荒波の中で断絶していれば、三刀屋久扶の具体的な活動を今に伝える貴重な史料は永遠に失われていたかもしれない。
三刀屋久扶の生涯は、激動の戦国時代を生き抜いた国人領主の典型的な姿を見事に映し出している。彼は、尼子・大内・毛利という巨大勢力の狭間で、卓越した軍事的能力と、時代の潮流を読む鋭い政治感覚を駆使し、一族の存続を図った。その巧みな処世術は、一地方領主でありながら中央政界にも影響を及ぼすほどの地位を一時的に築き上げるに至った。
しかし、皮肉にも、彼が拠り所としていた「国衆としての高い自立性」そのものが、時代の変化によって否定されることになる。主君への絶対的な忠誠と、大名による一元的な支配を求める近世的な価値観が台頭する中で、彼の存在はもはや許容されなかった。彼は、権力集中を目指す主君によって排除された、いわば時代の転換期の犠牲者であった。
三刀屋久扶は、最終的には故郷を追われた敗者であったかもしれない。しかし、その生き様は、個人の能力だけでは抗うことのできない歴史の大きなうねりと、中世から近世へと移行する日本の社会構造の変化を鮮やかに体現している。彼の生涯を丹念に追うことは、戦国という時代の複雑さと奥深さを理解する上で、我々に多くの示唆を与えてくれるのである。