最終更新日 2025-07-15

三好咲岩

三好咲岩(康長)は三好長慶の重臣。織田信長に徹底抗戦後降伏し、織田・豊臣政権下で四国方面の担当官として重用された。
三好咲岩

戦国時代の生存戦略家、三好咲岩(康長)の実像に関する総合的考察

【表】三好咲岩(康長) 関連年表

西暦(和暦)

康長の推定年齢

関連する出来事

康長の役職・所属・立場

主な居城・活動拠点

関連史料

不詳(永正6年/1509年以前?)

0歳?

誕生。通説では三好長秀の子、元長の弟とされるが、異説も存在する。

三好一族

阿波国

1

1532年(享禄5年)

不詳

兄・三好元長の命で京都に出陣。元長が自害し、甥の三好長慶が家督を継ぐ。

三好元長配下

京都

3

1558年(永禄元年)

不詳

長慶と足利義輝の対立において、主君・三好実休の軍勢の先鋒として上洛。

阿波三好家(三好実休配下)

畿内

3

1562年(永禄5年)

不詳

3月、久米田の戦いで主君・実休が戦死。5月、教興寺の戦いで畠山高政軍に大勝。

阿波三好家重臣

河内国

3

1562年(永禄5年)

不詳

教興寺の戦いの功績により、河内国の要衝・高屋城主に任じられる。

三好長慶配下、高屋城主

河内国・高屋城

4

1564年(永禄7年)

不詳

三好長慶が死去。この頃、茶人として「咲岩」の号を使用し始める。

三好義継配下

高屋城

3

1565年(永禄8年)

不詳

三好三人衆と松永久秀の内紛が激化。康長は三人衆に同調する。

三好三人衆派

高屋城

3

1568年(永禄11年)

不詳

織田信長が上洛。三人衆と共に敗走し、阿波へ撤退。

反織田勢力

摂津、阿波

3

1569年(永禄12年)

不詳

本圀寺の変。足利義昭を襲撃するも敗北し、再度阿波へ逃れる。

反織田勢力

京都、阿波

3

1570年(元亀元年)

不詳

野田・福島の戦い。石山本願寺と連携し、織田軍と戦う。

反織田勢力

摂津国・野田城

3

1573年(天正元年)

不詳

阿波の篠原長房が自害し、三好義継が若江城で滅亡。畿内での孤立が深まる。

反織田勢力

高屋城

3

1575年(天正3年)

不詳

高屋城の戦い。信長に包囲され、松井友閑を通じて降伏。

反織田勢力→織田政権配下

高屋城

8

1575年(天正3年)

不詳

名物茶器「三日月」を信長に献上。河内半国の支配を安堵される。

織田家臣、河内半国守護

河内国

10

1576年(天正4年)

不詳

天王寺の戦い。塙直政の与力として本願寺勢と戦うが、直政は戦死し敗走。

織田家臣(対本願寺)

摂津国・天王寺

3

1578年頃(天正6年頃)

不詳

「康慶」と改名。対四国方面の担当官として、調略活動を開始。

織田家臣(対四国担当)

畿内

3

1581年(天正9年)

不詳

阿波に渡り、実子・三好康俊(岩倉城主)を織田方へ寝返らせる。

織田家臣(対四国担当)

阿波国・岩倉城

3

1582年(天正10年)

不詳

四国征伐の先鋒として阿波で戦う。本能寺の変が勃発し、遠征は中止。

織田家臣(四国征伐軍)

阿波国

3

1582年(天正10年)

不詳

本能寺の変後、羽柴秀吉に接近。秀吉の甥・信吉(後の豊臣秀次)を養子に迎える。

羽柴秀吉配下

畿内

10

1585年(天正13年)

不詳

四国平定後、降伏した長宗我部元親を秀吉・秀次へ取り次ぐ。

豊臣家臣

畿内

3

1585年以降

不詳

消息不明となる。この頃に死去または隠遁したとみられる。

-

-

15

序章:三好咲岩とは何者か ― 乱世を渡り歩いた老将

日本の戦国時代、数多の武将が星の如く現れては消えていった。その中で、「三好咲岩(みよし しょうがん)」という人物は、一般的な知名度こそ高くないものの、その生涯は時代の激動をまさに体現するものであった。咲岩とは彼の号であり、本名は三好康長(みよし やすなが)、後年には康慶(やすよし)とも名乗った 2 。通称は孫七郎、官途名は山城守である 2

彼の生涯は、三好家が「天下人」と称されるほどの権勢を誇った時代から、その没落、織田信長の台頭と畿内制圧、そして豊臣秀吉による天下統一事業に至るまで、日本の歴史が最もダイナミックに動いた時期と完全に重なっている 16 。彼は単なる傍観者ではなく、常にその渦中に身を置き、時には時代の潮流を作り、時にはそれに抗い、そして最終的には巧みに乗りこなした、稀有な人物であった。

三好長慶の死後、三好三人衆、松永久秀、三好義継といった三好一族の主立った人物が次々と戦乱の中で非業の死を遂げていく中、康長は信長への最後の抵抗者として戦い抜いた末に降伏し、新たな支配者の下でその能力を認められ、重用されるという特異な道を歩んだ 3 。彼の生き様は、武勇や愚直な忠誠心だけでは生き残れない戦国乱世において、状況を冷静に分析し、時には自らの矜持を捨ててでも実利を取るという、卓越した政治感覚と交渉力がいかに重要であったかを物語っている。その処世術は、信貴山城で爆死するという劇的な最期を遂げた松永久秀の「破滅的美学」とは対極に位置する、「現実主義的生存戦略」の極致とも言えるだろう。本報告書は、断片的な情報として語られがちな三好咲岩こと康長の生涯を、史料に基づき多角的に検証し、戦国時代屈指の「生存者(サバイバー)」としての彼の実像を明らかにすることを目的とする。

第一章:出自をめぐる謎 ― 「長慶の叔父」説の再検討

三好康長の人物像を理解する上で、まず彼の出自が重要な論点となる。一般的に、彼は三好長慶の叔父、すなわち長慶の父である三好元長の弟とされている 2 。これは多くの系図に記されている通説であり、利用者様が事前に持たれていた情報とも合致する。この説に立てば、康長は三好本宗家に極めて近い血筋の生まれであり、一族内での重鎮としての地位は、ある程度生まれながらにして保証されていたと見なすことができる。

しかし、近年の研究、特に歴史学者・天野忠幸氏によって、この通説に有力な疑問が呈されている。その根拠は主に二点ある。第一に、年齢の矛盾である。康長の父とされる三好長秀は永正6年(1509年)に戦死している 2 。もし康長が長秀の子(元長の弟)であるならば、彼は1509年以前の生まれということになる。ところが、彼が史料上で明確な活動を見せ始めるのは永禄年間(1558年以降)であり、永禄2年(1559年)の時点でもまだ「三好孫七郎」という若々しい通称で呼ばれている 2 。この時の活躍ぶりから逆算すると、当時すでに50歳を超えているとは考えにくく、せいぜい30歳前後と推測するのが自然である 2

第二の根拠は、彼が名乗った「山城守」という官途名である 1 。この官途は、三好宗家の祖である三好之長の弟・三好一秀の系統が用いたものであり、康長が本宗家ではなく、この一秀の系統に連なる子孫である可能性を示唆している 1

この出自をめぐる論争は、単なる系図上の問題に留まらない。それは、康長が「血筋によって重んじられたエリート」であったのか、それとも「実力で地位を築き上げた叩き上げ」であったのかという、彼の人物像の根幹を問い直すものだからである。もし新説の通り、彼が分家の出身であったとすれば、彼の生涯はより一層、個人の才覚と努力によって切り拓かれた物語として浮かび上がる。主君・三好実休の重臣として頭角を現し、後述する教興寺の戦いでの大功によって河内の要衝・高屋城主に抜擢されるという彼の経歴は、「実力でのし上がった」人物像と強く合致する。

いずれの説が正しいにせよ、彼のキャリアの出発点において重要なのは、直接の主君が畿内を支配した三好長慶ではなく、その弟で阿波国を本拠とした三好実休(義賢)であったという事実である 2 。これは、当時の三好政権が、長慶が率いる畿内の「三好本宗家」と、実休が率いる四国の「阿波三好家」という二元的な統治体制であったことを示している。康長の権力基盤と人脈は、元来この「阿波」に深く根差していた。そして、この阿波との強固な繋がりこそが、後に彼の運命を大きく左右し、織田信長が彼を重用する最大の理由となっていくのである。

第二章:三好政権の重鎮として ― 河内国支配の確立

三好康長の武将としての評価を決定づけたのは、三好政権下での活躍、特に河内国における軍事行動であった。兄・元長が享禄5年(1532年)に非業の死を遂げた後、甥の三好長慶が家督を継ぐと、康長は一族の重鎮としてこれを支えた。彼の主たる活動舞台は、当初、三好氏の本貫地である阿波であり、長慶の弟・三好実休の配下として、篠原自遁らと共に「阿波三好家」の中核を担った 2

康長の名を畿内に轟かせたのが、永禄5年(1562年)5月の「教興寺の戦い」である。この直前の3月、主君である三好実休が畠山高政との「久米田の戦い」で討死するという、三好家にとって最大の危機が訪れていた 4 。勢いに乗る畠山軍は、三好長慶の居城である飯盛城にまで迫り、三好政権は崩壊の瀬戸際にあった。この窮地に際し、康長は阿波から援軍を率いて駆けつける。永禄5年5月10日、彼は篠原長秀ら阿波の精鋭と共に尼崎に上陸し、三好義興(長慶の嫡男)や松永久秀らの畿内勢と合流した 4

5月20日、現在の大阪府八尾市教興寺周辺で両軍は激突した。この戦いで三好軍は、主君を失った悲憤を力に変え、畠山軍に圧勝する 4 。この劇的な勝利は、畠山氏の勢力を河内・大和から完全に駆逐し、三好政権の危機を救った。この戦いにおける康長の功績は絶大であり、戦後、長慶は彼を河内支配の拠点である高屋城の城主に任じた 4 。これにより、康長は阿波だけでなく、畿内においても確固たる地盤を築き、三好家中の重鎮としての地位を不動のものとした。なお、一部の創作物では康長がこの戦いで討死したと描かれていることがあるが 18 、これは明確な誤りである。『多聞院日記』をはじめとする同時代の史料には、これ以降も彼の活発な政治・軍事活動が詳細に記録されており 14 、歴史的事実として彼はこの戦いを生き延び、むしろキャリアの大きな飛躍点としたのである。

永禄7年(1564年)に三好長慶が病死すると、三好家は後継者・三好義継を補佐する三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)と、独自路線を歩む松永久秀との間で深刻な内紛状態に陥る。この家中分裂において、康長は三人衆と協調する道を選んだ 3 。彼は高屋城を拠点とし、阿波の軍事力を背景に三人衆を後方から支えるという、極めて重要な役割を担った。この時期、彼の立場は単なる一武将ではなく、三好政権の行方を左右する有力な政治勢力の一つとなっていた。

第三章:織田信長への徹底抗戦と降伏

永禄11年(1568年)、尾張から足利義昭を奉じて織田信長が怒涛の勢いで上洛すると、畿内の政治情勢は一変する。三好三人衆をはじめとする三好勢力は、信長の圧倒的な軍事力の前に次々と駆逐されていった。三人衆が敗走し、あるいは降伏する中で、三好康長は信長への抵抗を諦めなかった 3 。彼は本拠地である阿波と畿内の高屋城を連携させ、ゲリラ的に出兵を繰り返すなど、信長にとって極めて厄介な存在として立ちはだかった 10

三好本宗家の当主・三好義継が天正元年(1573年)に若江城で信長に攻め滅ぼされ、三好三人衆も壊滅状態に陥ると、康長は高屋城に籠城し、畿内における三好一族の最後の抵抗者となった 3 。彼は当時、信長と激しく対立していた石山本願寺と連携し、「信長包囲網」の重要な一翼を担い続けた。

しかし、その抵抗も限界に達する。天正3年(1575年)4月、信長はついに康長を屈服させるべく、自ら大軍を率いて高屋城を包囲した(高屋城の戦い) 20 。徹底的な包囲と周辺の支城の攻略により、高屋城は完全に孤立。万策尽きた康長は、ついに降伏を決意する。この時、彼が降伏の仲介役として選んだのは、武将ではなく、信長の側近であり茶人としても知られた松井友閑であった 9

この降伏交渉の過程は、康長のしたたかな戦略性を如実に示している。単なる軍事的な降伏であれば、武将同士の交渉でも事足りるはずである。しかし、文化人である松井友閑が介在したことは、この降伏が単なる白旗ではなく、高度な政治交渉であったことを物語っている。康長自身も、堺の津田宗及らと頻繁に茶会を催す当代一流の茶人であった 15 。彼は、自らが持つ「阿波三好家」という名門のブランドと、長年培ってきた四国における人脈や影響力という「無形の資産」を、交渉の切り札として使ったと考えられる。

彼は「ただ命を助けてほしい」と乞うのではなく、「私を家臣にすれば、貴殿がこれから直面するであろう厄介な四国平定において、必ずや役に立つ」という自らの価値を、文化的なパイプを通じて信長側に提示したのである。結果として、信長はこの申し出を受け入れ、康長を赦免した 8 。この降伏は、畿内における三好家の組織的抵抗の完全な終焉を意味すると同時に、康長にとっては、敗北ではなく、新たな支配者の下でキャリアを切り開くための、極めて戦略的な「転身」であった。彼は自らの市場価値を正確に把握し、最適な仲介者を通じて最高の条件を引き出すことに成功した、老練な政治家だったのである。

第四章:織田政権下の「四国方面担当官」

降将に対する信長の扱いは苛烈なことが多い中で、三好康長への処遇は異例のものであった。彼は命を助けられただけでなく、河内半国の支配を安堵され、さらに織田政権の重要課題であった「対四国方面の攻略担当官」という重責を任されたのである 3 。これは、信長が康長の能力と価値を極めて高く評価したことの証左に他ならない。

信長が買ったのは、康長の武勇以上に、彼が長年培ってきた「三好ブランド」という無形の価値であった。信長にとって、三好家の本拠地である阿波・讃岐を中心とする四国は、直接支配の及ばない未知の領域であった。一方、康長は長年にわたり阿波の軍勢を率いて畿内と四国を往復しており、その航路、兵站のノウハウ、そして何よりも現地の国衆との複雑な人間関係を熟知していた 2 。信長の合理的な思考からすれば、武力で一から全てを制圧する莫大なコストを払うよりも、康長という「生き字引」を味方に引き入れ、その知見と人脈を活用する方が遥かに効率的であった。康長は、信長にとってまさに「四国に介入するための唯一無二の切符」であり、他の誰にも代えがたい存在だったのである 2

織田家臣となった康長は、早速その価値を証明し始める。まず、長年三好家の水軍の中核を担ってきた淡路の安宅信康(かつての同僚・安宅冬康の子)を説得し、織田方へ寝返らせることに成功した 3 。そして、その手腕が最も発揮されたのが、天正9年(1581年)の阿波における調略である。康長は自ら阿波に渡り、当時、四国で勢力を拡大していた長宗我部元親に属していた実子・三好康俊を説得。康俊を居城の岩倉城ごと織田方へ寝返らせたのである 3 。これは、信長に降伏した後も、康長の阿波における影響力が全く衰えていなかったことを示す象徴的な出来事であった。

天正10年(1582年)、信長は四国の完全制圧を決断。三男の神戸信孝を総大将とする四国征伐軍を編成し、康長はその先鋒として再び阿波に渡り、長宗我部方の諸城を次々と攻略していった。この時、信長は康長に対し、四国平定の暁には阿波一国を与えることを約束し、さらに総大将の信孝を康長の養子とすることまで内定していたという 3 。これは、康長が織田政権内で最高の待遇を受けていたことを示している。しかし、同年6月2日、京都で本能寺の変が勃発。信長の横死により、この壮大な計画はすべて白紙となり、康長は攻略の途上で急ぎ兵をまとめ、畿内へと引き返さざるを得なくなった。

第五章:本能寺の変後の動向と豊臣政権への帰属

本能寺の変は、三好康長の運命を再び大きく揺るがした。信長という絶対的な後ろ盾を失い、四国では好機と見た長宗我部元親が失地回復に乗り出し、一気に勢力を拡大した 24 。阿波で孤立した康長の立場は、極めて危険なものとなった。この新たな危機に対し、康長は驚くべき速さで次の一手を打つ。彼は、山崎の戦いで明智光秀を討ち、信長の後継者として最も有力な存在となった羽柴秀吉に、即座に接近したのである。

この時期、康長は彼の政治的キャリアの集大成ともいえる行動に出る。秀吉の甥であり、将来を嘱望されていた三好信吉(後の関白・豊臣秀次)を、自らの養子として迎えたのである 10 。この養子縁組が成立した正確な時期については、信長存命中の天正7年(1579年)であったとする説や、本能寺の変直後に清洲会議の決定などを経て行われたとする説など諸説あるが 3 、いずれにせよ、信長の死によってこの関係が極めて重要な政治的意味を持つようになったことは間違いない。

この養子縁組は、康長の究極の生存戦略であった。本能寺の変後の激しい権力闘争の中で、康長のような旧勢力の重鎮は、いつ切り捨てられてもおかしくない不安定な立場にあった。しかし、次代の天下人の最有力候補である秀吉の甥を養子に迎えることで、康長は単なる家臣ではなく、秀吉の「親族」という極めて強固で安全な地位を手に入れた。これは、自身の安全保障であると同時に、三好家が持つ名門の家格と四国への影響力という、自らが持つ最後の政治的資産を、秀吉に「譲渡」する形で行われた、高度な政治的取引であった。秀吉側にとっても、名門・三好家の名を甥に継がせることで、自身の出自の低さを補い、将来の四国統治における正当性を高めるという大きな利点があった。康長は、自らが持つ「家名」という最後のカードを最も効果的なタイミングで切り、激動の権力移行期を乗り切るための最強の保険を手に入れたのである。

その後、康長は養子となった信吉(秀次)と共に紀州攻めに参加するなど、豊臣政権下でも一定の役割を果たした 3 。史料上で確認できる最後の活動は、天正13年(1585年)、秀吉による四国平定後に降伏した長宗我部元親を、秀吉と秀次のもとへ取り次ぐという大役であった 3 。これは、彼が豊臣政権においても「四国の専門家」として重用されていたことを示している。この記録を最後に彼の消息は途絶え、まもなく死去または隠遁したものと推測されている 15 。また、晩年にはキリスト教に帰依したという記録も残されている 3

第六章:文化人「咲岩」の横顔 ― 茶の湯と政治の交錯

三好康長を理解する上で、彼の武将としての側面だけでなく、文化人としての横顔を見過ごすことはできない。彼は「咲岩」と号し、堺の豪商であり当代随一の茶人であった津田宗達・宗及親子らと頻繁に茶会を催す、一流の文化人でもあった 15 。戦国時代において、茶の湯は単なる趣味や教養ではなく、武将たちの政治・外交活動と密接に結びついた、重要なコミュニケーションツールであった。

康長の文化人としての一面を象徴するのが、名物茶器「三日月」をめぐる逸話である。天正3年(1575年)に信長に降伏した際、彼は和睦の証として、所有していた葉茶壺「三日月」を献上した 10 。この「三日月」は、かつて彼の主君であった三好実休が所持し、「天下無双ノ名物」と謳われた逸品であった。戦乱の中で六つに割れてしまったものを、後に千利休となる千宗易が継ぎ合わせて修復したという、数奇な来歴を持っていた 29

信長は、この「三日月」を、松永久秀から献上された「九十九髪茄子」や、石山本願寺から贈られた名物などと共に、自らが主催する茶会で盛んに披露した 11 。信長にとって茶の湯は、家臣の序列を定め、外交儀礼を行い、自らの権威を可視化するための高度な政治ツール、すなわち「御茶湯御政道」であった 28 。名物茶器の献上は、信長への完全な服従を意味する、極めて重要な政治的儀式だったのである。

康長は、この信長が作り上げた「ゲームのルール」を熟知していた。彼が「三日月」を献上した行為は、単なる敗者の貢物ではなく、信長の政治システムに自らを主体的に組み込むための、能動的な意思表示であった。彼は、信長の「御茶湯御政道」において、単なる支配される客体ではなく、その価値と構造を深く理解し、自らの文化資本を政治資本に転換させることで、積極的に関与するプレイヤーだったのである。彼が堺の商人や茶人たちに顔が利いたことは、信長政権にとって、兵站や経済の面でも大きな利用価値があった 2 。康長の文化人としての一面は、彼の武将としての生存戦略と不可分に、そして巧みに結びついていたのである。

終章:結論 ― 激動の時代を生き抜いた生存戦略

三好咲岩こと三好康長の生涯を俯瞰する時、我々は一人の武将の人生を通して、戦国時代そのものの劇的な変転を目の当たりにする。彼の人生は、三好家が畿内に覇を唱えた全盛期を支える重臣として始まり、絶対的な権力者であった織田信長への徹底抗戦、そして絶体絶命の状況からの降伏と新時代への適応という、まさに波瀾万丈の連続であった。彼は、家門や旧主への忠誠といった「旧時代の価値観」と、実力と合理性を重んじる「新時代の価値観」が激しく交錯する時代の転換点を、その身一つで生き抜き、体現した人物と言える。

同じく三好家から身を起こし、信長に仕え、そして反逆した松永久秀と比較する時、康長の人物像はより一層鮮明となる。久秀が「創造的破壊」と「劇的な滅亡」という、歴史に名を刻む華々しい道を歩んだのに対し、康長は「現実主義的適応」と「巧みな交渉による生存」という、地味ながらも確実な道を選択した 31 。乱世を生き抜く処世術という観点に立てば、康長の方が一枚上手であったと評価することも可能であろう。

三好康長は、単なる三好家の残党ではない。彼は、三好政権という「旧体制」の知見と人脈を保持し、それを織田・豊臣政権という「新体制」へと橋渡しする、極めて重要な「ブリッジ・パーソン」として再評価されるべき存在である。彼の存在と、降伏後に織田政権下で見せた活躍なくして、信長の四国政策や、豊臣政権初期の四国統治は、より困難なものとなっていた可能性が高い。時代の変化を敏感に察知し、自らが持つ有形無形の資産価値を冷静に分析し、それを最大限に利用して次代へと生き残った三好康長。彼は、戦国時代が生んだ、最もしたたかで老練な政治的生存者の一人として、記憶されるべきである。

引用文献

  1. 三好康長Miyoshi Yasunaga - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/kinki/miyoshi-yasunaga
  2. なぜ織田信長は三好康長(康慶)を重用し続けたのか? https://monsterspace.hateblo.jp/entry/nobunaga-yasunaga
  3. 三好康長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
  4. 教興寺の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%88%88%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  5. 【教興寺の戦い】 - ADEAC https://adeac.jp/tondabayashi-city/text-list/d000020/ht000120
  6. 三好長逸―中央政権の矜持を抱き続けた「三人衆」の構想者 https://monsterspace.hateblo.jp/entry/miyoshinagayasu
  7. 岩成友通 - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/tag/%E5%B2%A9%E6%88%90%E5%8F%8B%E9%80%9A
  8. 三好の畿内奪還の戦いで信長軍と対峙した讃岐武士 - ビジネス香川 https://www.bk-web.jp/post.php?id=2511
  9. 高屋城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  10. 三好康長 織田信長に反抗しまくったのに許された阿波三好氏の重鎮 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=6i3xwCJhbZY
  11. 1575年 – 77年 長篠の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1575/
  12. 長宗我部元親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
  13. 三好氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%B0%8F
  14. 三好氏居所集成・三好康長編 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』 https://monsterspace.hateblo.jp/entry/kyosho-miyoshiyasunaga
  15. 三好長慶会―三好家 名将紹介 http://www.miyoshichokeikai.net/report_1.html
  16. 「三好康長(笑岩/咲岩)さんが有終の美を飾った週刊ビジュアル戦国王(100)」総監修:小和田哲男さん(ハーパーコリンズ・ジャパン) - 肝胆ブログ https://trillion-3934p.hatenablog.com/entry/2018/05/25/002147
  17. https.monsterspace.hateblo.jp/entry/nobunaga-yasunaga
  18. 教興寺の戦い - 六芒星が頂に〜星天に掲げよ!二つ剣ノ銀杏紋〜(嶋森航) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054897753837/episodes/1177354054906800988
  19. 歴史の目的をめぐって 三好康長 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-32-miyosi-yasunaga.html
  20. 高屋城の戦い http://tenkafubu.fc2web.com/miyosi/htm/takaya.htm
  21. 高屋城の戦い - FC2WEB http://tenkafubu.fc2web.com/miyosi/htm/takaya01.htm
  22. 和田惟政| 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/tag/%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%83%9F%E6%94%BF
  23. 織田信長の合戦年表 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84754/
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  25. 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
  26. 三好吉房 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%90%89%E6%88%BF
  27. 「豊臣秀次」豊臣政権2代目関白、切腹事件の謎を読み解く! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/562
  28. 御茶湯御政道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%8C%B6%E6%B9%AF%E5%BE%A1%E6%94%BF%E9%81%93
  29. 三日月葉茶壺 みかづき はちゃつぼ - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2025/04/29/184100
  30. 葉茶壷「三日月」 - 戦国日本の津々浦々 http://proto.harisen.jp/mono/takara/chaki-mikazuki.html
  31. 松永久秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
  32. 松永久秀はなぜ、織田信長に裏切りの罪を許されたのか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7738?p=1
  33. 日本史上最悪の男?~松永久秀 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/matsunagahisahide/