三好政長は細川晴元政権を支えた武将。三好本家と対立し、江口の戦いで敗死。茶人「宗三」としても知られ、名刀「宗三左文字」の最初の所有者。
戦国時代の武将、三好政長(みよし まさなが)は、一般に「三好長慶の宿敵」として、また摂津江口の戦いで敗死した悲運の人物として記憶されている。しかし、その生涯を丹念に追うと、彼が単なる敗者ではなく、管領・細川晴元を二十年以上にわたって支え、戦国期中盤の畿内政治を動かした中心人物の一人であったという、より複雑で奥行きのある実像が浮かび上がってくる。
本報告書は、この三好政長の生涯を、現存する史料に基づき包括的に解明することを目的とする。彼の出自から、細川晴元政権下での権力掌握の過程、三好本家との宿命的な対立、そして文化人としての一面、さらにはその悲劇的な最期と子孫の行方までを徹底的に検証する。
政長の歴史的役割は、しばしば三好長慶の台頭を促した「触媒」としてのみ語られがちである。しかし、彼を細川晴元政権の「共同運営者」あるいは「実務上の最高責任者」と捉え直すことで、より正確な歴史像が立ち現れる。彼の行動原理は、単なる個人的な野心や一族内の確執に留まらず、常に内外の脅威に晒されていた脆弱な晴元政権をいかに維持するかという、一貫した政治的意志に貫かれていた。その政治手法は、時に権謀術数を駆使し、同族の宗主さえも死に追いやる非情なものであったが、それは彼の権力基盤が晴元個人の信任に全面的に依存していたことの裏返しでもあった 1 。
したがって、政長の生涯を追うことは、細川京兆家による中央統治体制の維持と崩壊、そしてそれに続く三好政権の誕生という、時代の大きな転換点を理解する上で不可欠な作業である。彼を単なる歴史の敗者として切り捨てるのではなく、時代のダイナミズムの中で権力を求め、守り、そして失っていった一人の政治家として多角的に分析することで、戦国期中央政権の権力構造の複雑性と、個人の行動が歴史に与えた深刻な影響を明らかにすることを目指す。
政長の生涯は、目まぐるしい合戦、同盟、裏切りに満ちている。読者が複雑な出来事の連続を正確に追跡できるよう、以下に詳細な年表を記す。
年号 |
西暦 |
政長の年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
永正5年 |
1508 |
1歳 |
三好政長、生まれる(『堺鑑』による説)。 |
3 |
大永6年 |
1526 |
19歳 |
細川晴元方の先陣として、兄の勝長らと共に堺に着岸。畿内での活動を開始する。 |
3 |
大永7年 |
1527 |
20歳 |
柳本賢治と合流し、桂川原の戦いで細川高国軍に勝利する。 |
2 |
享禄5年 |
1532 |
25歳 |
細川晴元と共に一向一揆を扇動し、三好本家の当主・三好元長を堺の顕本寺で自害に追い込む(飯盛山城の戦い)。 |
4 |
天文3年 |
1534 |
27歳 |
木沢長政と共に細川晴国方の嵯峨城を攻撃。また、幕府奉行人奉書により、摂津芦屋荘における政長の競望が停止される。 |
3 |
天文7年 |
1538 |
31歳 |
細川晴元の命により、山城国上郡で段銭を徴収。本願寺証如と初めて音信を交わす。 |
3 |
天文8年 |
1539 |
32歳 |
三好長慶(当時、利長)が河内十七箇所の代官職を求め、政長と対立。六角定頼の仲介で和睦する。 |
6 |
天文11年 |
1542 |
35歳 |
太平寺の合戦にて、細川晴元・三好長慶らと共に、木沢長政を討ち取る。 |
3 |
天文16年 |
1547 |
40歳 |
天王寺東の合戦で畠山勢と戦い勝利するも、篠原盛家らが戦死。 |
3 |
天文17年 |
1548 |
41歳 |
娘婿の摂津国人・池田信正が晴元に誅殺される。これを政長の讒言と見た摂津国人衆が長慶支持に傾く。 |
2 |
天文18年 |
1549 |
42歳 |
1月、池田市場を焼き討ち。2月、武野紹鷗らを招き茶会を催す。6月11日、江口城に布陣。6月24日、江口の戦いで三好長慶軍の総攻撃を受け敗死。 |
3 |
三好氏は、その出自を清和源氏小笠原氏の庶流と称し、鎌倉時代に阿波国守護となった阿波小笠原氏の末裔とされている 4 。阿波国三好郡(現在の徳島県三好市周辺)を本拠としたことから三好の姓を名乗り、鎌倉時代後期にはその名が史料に見えるようになる 4 。
この三好氏が阿波の一国人から畿内政治を左右する一大勢力へと飛躍するきっかけを作ったのが、三好之長(ゆきなが)である。之長は管領・細川政元に仕え、その養子・澄元を支えて各地を転戦し、三好氏の畿内における影響力の礎を築いた 4 。
三好政長は、この之長の家系、すなわち三好氏の宗家(本家)の出身ではない。彼は、之長の弟とされる三好長尚(ながなお、勝時とも)の子として生まれた、傍流(分家)の一員であった 2 。三好長慶の父・元長が之長の孫であるため、政長は長慶の父の従兄弟にあたる。この「本家」と「分家」という関係性は、彼の生涯を通じて、三好元長・長慶親子との間に横たわる複雑な緊張関係の根源となった。
政長の生年については、『堺鑑』の記述から逆算して永正5年(1508)とする説が有力であるが、彼の子である為三(ためぞう)が大永2年(1522)生まれとされる記録もあり、それに基づけば政長の生年はさらに数年遡る可能性も指摘されている 3 。幼名は伝わっていないが、仮名(通称)は神五郎、あるいは甚五郎と称した 2 。
政長と元長・長慶との血縁関係、および本家と分家の構造を理解するため、以下に簡略化した系図を示す。この関係性が、彼らの対立を単なる個人的な確執ではなく、一族内の構造的な問題として捉える上で重要となる。
三好長之
┃
┏━━━┻━━━┓
三好之長 三好長尚(勝時)
┃ ┃
三好長秀 ┃
┃ ┣━━━┳━━━┓
三好元長 新五郎 勝長 三好政長
┃ ┏━━━┻━━━┓
三好長慶 三好宗渭 三好為三
(政勝) (一任)
2
三好政長が歴史の表舞台に明確に姿を現すのは、大永6年(1526)から大永7年(1527)にかけてのことである 3 。当時、畿内では管領・細川政元の死後に始まった細川京兆家の後継者争い、いわゆる「両細川の乱」が最終局面を迎えていた。政元の養子の一人であった細川澄元は既に亡く、その子・晴元が家督を継いで、もう一人の養子である細川高国と管領の座を巡って争っていた 2 。
大永6年12月、政長は兄の三好勝長らと共に、主君・晴元を擁する軍勢の先陣として阿波から堺に上陸 3 。翌大永7年2月には、同じ晴元方の有力武将であった柳本賢治と合流し、桂川原の戦いで高国軍を破る軍功を挙げた 2 。この勝利により、高国は将軍・足利義晴を伴って近江へ逃れ、晴元は入京を果たした。
この一連の軍事行動を通じて、政長は晴元政権の樹立に貢献し、主君からの信頼を獲得していった。しかし、彼のキャリアの出発点には、単なる軍功だけではない、より構造的な要因が存在した。分家出身の政長が畿内で成り上がるためには、阿波に強固な地盤を持つ本家の威光に頼るのではなく、主君からの直接的かつ強力な引き立てが不可欠であった 2 。一方で、若くして家督を継いだ晴元にとって、政権基盤は極めて脆弱であった。彼は、阿波の軍事力を背景に持つ三好本家の当主・元長の力を借りなければ高国に対抗できない一方、その強大すぎる影響力を常に警戒するというジレンマを抱えていた 11 。
そこに、軍事的に有能でありながら、元長のように独立した権力基盤を持たない政長が登場した。晴元にとって政長は、元長を牽制し、自身の直轄戦力として意のままに動かせる、まさに理想的な側近であった。こうして、政長が畿内で立身出世を求める野心と、晴元が政権の安定を求める政治的計算とが合致し、両者の間には当初から強固な相互依存関係が形成された。この構造こそが、後に政長を晴元政権の中枢へと押し上げ、同時に三好一族の悲劇的な内紛へと導く伏線となったのである。
細川晴元が畿内の支配権を確立すると、三好政長は主君の側近として急速に台頭した。彼は同じく晴元の寵臣であった木沢長政らと共に「御前衆」と呼ばれる側近グループを形成し、政権の中枢で大きな影響力を行使するようになる 2 。
一方で、晴元政権樹立の最大の功労者は、三好本家の当主・三好元長であった。元長は卓越した軍事指導者であり、阿波の強力な軍事力を背景に晴元を支え、堺に亡命政権(堺公方)を樹立するなど、その功績は誰の目にも明らかであった 6 。しかし、その圧倒的な実力と声望は、主君である晴元にとっては潜在的な脅威とも映った。
さらに、元長と政長・晴元との間には、政権運営を巡る路線対立が存在した。元長は、宿敵であった細川高国と和睦することで細川京兆家を統一し、幕政を安定させるという大局的な構想を抱いていた 2 。これに対し、政長や柳本賢治は、高国を完全に排除し、晴元を唯一の管領として幕府を掌握することを目指した 2 。彼らにとって、高国との和睦は自らの権力基盤を危うくするものであり、到底受け入れられるものではなかった。
この対立は、大永8年(1528)に表面化する。元長が六角定頼の仲介で進めていた高国との和睦交渉を、政長と柳本賢治が晴元に讒言して頓挫させ、元長を孤立させて阿波への帰国に追い込んだのである 11 。これは、分家出身の政長が、宗家の当主である元長を政治的に凌駕した最初の事件であり、両者の亀裂が決定的となった瞬間であった。
一度は阿波に退いた元長であったが、柳本賢治が暗殺されるなどして晴元政権が窮地に陥ると、再び畿内に呼び戻される。しかし、政長や木沢長政ら側近グループと元長との対立関係は解消されるどころか、さらに深刻化していった。
決定的な対立の引き金となったのは、晴元の寵臣・木沢長政の存在であった。もともと河内守護・畠山氏の家臣であった長政は、主家を軽んじて晴元に接近し、その重臣となっていた 10 。これを危険視した本来の主君・畠山義堯と、彼と連携する三好元長は、享禄5年(1532)、長政の居城である飯盛山城を攻撃した 4 。
自らの側近が攻撃されたことに激怒した晴元と、これを好機と見た政長は、元長を排除するための非情な謀略に打って出る。彼らは本願寺の法主・証如に協力を要請し、摂津・河内・和泉の門徒を扇動して大規模な一向一揆を蜂起させたのである 4 。
同年6月、数万とも十万ともいわれる一向一揆勢は、元長の背後を襲い、まず飯盛山城を包囲していた畠山義堯を自刃させた。そして、その矛先を堺に向け、元長が立てこもる法華宗の顕本寺を包囲した 4 。完全に追い詰められた元長は、もはやこれまでと覚悟を決め、一族郎党と共に自害して果てた 5 。
これは、政長が自らの政治的地位を守るために、同じ三好一族の宗主を、宗教勢力を利用した謀略によって死に追いやった決定的な事件であった。この一件により、元長の嫡男・三好長慶との間には、決して埋めることのできない「父の仇」という宿縁が刻み込まれることになった 13 。
元長の排除は、政長にとって権力闘争における短期的な勝利を意味した。彼は晴元政権内における最大のライバルを消し去り、主君の側近としての地位を不動のものとした。しかし、この勝利は極めて大きな代償を伴うものであった。第一に、三好一族の結束を根底から破壊し、阿波の三好本家家臣団から消えることのない恨みを買ったこと。第二に、一向一揆という制御困難な宗教勢力を安易に軍事利用したことで、畿内の秩序を著しく混乱させ、政権担当者としての正当性に大きな傷をつけたことである 5 。政長はこの謀略によって最大のライバルを排除したが、それは同時に、より危険で、かつ復讐という大義名分を持つ新たな敵、三好長慶を生み出すという、自らの首を絞める呪いの始まりでもあった。
三好元長の死後、細川晴元政権内における三好政長の地位は絶対的なものとなった。彼は晴元の唯一無二の側近として、軍事・行政の両面で辣腕を振るい、その権勢は頂点に達した。
政長は摂津の榎並城を自らの拠点として改修・整備し、ここから畿内各地に影響力を及ぼした 1 。かつて元長が保持していた河内十七箇所の代官職をはじめとする多くの利権も、その手中に収めたと見られている 2 。彼の権力は、単に主君の威光を借りただけのものではなく、具体的な統治行動によって裏付けられていた。
例えば、天文3年(1534)には、北野社領であった摂津国芦屋荘の領家職を巡る問題に介入し、その競望を停止させるよう幕府奉行人奉書が発給されている 3 。また、天文7年(1538)には、晴元の名代として山城国上郡で段銭(臨時税)の徴収を指揮するなど、政権の財政実務にも深く関与していた 3 。さらに、畿内各地の寺社に対して、軍勢による乱暴狼藉を禁じる禁制を自らの名(宗三、あるいは政長)で発給しており、彼が地域社会の秩序維持を担う統治者として機能していたことがわかる 3 。これらの活動は、政長が単なる武将ではなく、行政能力にも長けた政治家であったことを雄弁に物語っている。
政長が権勢を謳歌する一方、阿波では父・元長の非業の死を乗り越え、家督を継いだ三好長慶(当初は利長、のち範長)が着実に力を蓄えていた 17 。若年ながらも卓越した器量を持つ長慶は、父の旧臣たちをまとめ上げ、晴元政権下で戦功を重ねることで、徐々にその存在感を高めていった。
そして天文8年(1539)、両者の対立はついに公然のものとなる。長慶は、父の旧領であった河内十七箇所の代官職を晴元に要求した。この職は元長の死後、政長が掌握していたため、長慶の要求は政長に対する直接的な挑戦であった 2 。晴元が政長を支持してこの要求を拒否すると、激怒した長慶は挙兵も辞さない構えを見せた。畿内は三好一族の内戦勃発寸前の危機に陥ったが、近江守護・六角定頼の懸命な仲介により、辛うじて武力衝突は回避され、両者は一時的に和睦した 2 。
この事件は、両者の対立がもはや個人的な感情論ではなく、畿内の利権を巡る政治闘争であることを天下に示す最初の出来事となった。以後、両者は太平寺の合戦(対木沢長政戦)や北白川城攻め(対足利義晴戦)などで、晴元政権下の同僚として共同作戦に参加することもあったが 3 、それはあくまで表面的な協力関係に過ぎず、水面下では互いへの不信と憎悪の念が渦巻き続けていた。
政長と長慶の対立の本質は、畿内、とりわけ戦略的要衝である摂津国の支配権を巡る、「旧体制」と「新興勢力」の構造的な闘争であった。政長の権力は、細川晴元という「中央」の権威を背景に、上から地方に及ぼすトップダウン型のものであった。一方、長慶は、父から受け継いだ阿波の軍事力と、畿内の国人衆との個別的な連携という、ボトムアップ型の支持基盤を築き上げていった 8 。
この二つの権力モデルが激突した象徴的な出来事が、天文17年(1548)に起こった「池田信正事件」である。摂津の有力国人であった池田信正は、政長の娘婿であったにもかかわらず、晴元の屋敷で突如切腹させられた 2 。これは政長の讒言によるものと強く疑われている。さらに、信正の跡を政長の外孫である池田長正が継いだことで、池田家に対する政長の政治介入は決定的となった 8 。
この強引な手法は、伊丹氏をはじめとする他の摂津国人衆に深刻な危機感を抱かせた。彼らにとって、主君の権威を笠に着た政長の介入は、自らの独立性を脅かす許しがたい行為であった。その結果、彼らは一斉に政長を見限り、国人たちの利害の代弁者として振る舞う長慶の支持に回ったのである 2 。政長は自らの権力拡大を急ぐあまり、足元である摂津の国人ネットワークという、最も重要な政治基盤を自らの手で破壊してしまった。この時点で、来るべき決戦における彼の敗北は、すでに運命づけられていたのかもしれない。
池田信正事件を契機に、摂津国人衆の広範な支持を確保した三好長慶は、ついに最後の行動に出る。天文17年(1548)8月、長慶は主君・細川晴元に対し、三好政長・政勝父子の誅殺を正式に要求した 8 。しかし、晴元にとって政長は自らの権力を支える最後の柱であり、この要求を拒絶。ここに、主君と家臣の関係は完全に破綻した。
長慶は直ちに晴元を見限り、かねてから晴元に敵対していた同族の細川氏綱を新たな主君として擁立。これにより、長慶の軍事行動は単なる反乱ではなく、「正統な管領を擁立するための正義の戦い」という大義名分を得た 6 。
長慶は岳父である河内守護代・遊佐長教らと連携し、同年10月には政長の嫡男・政勝が籠る摂津榎並城を包囲した 1 。榎並城は堅固で、戦線は膠着状態に陥った。これに対し、晴元は岳父である近江の六角定頼に援軍を要請すると共に、自らも丹波経由で摂津へ出陣。政長も居城の伊丹城から打って出て尼崎に放火するなど、長慶軍の後方をかく乱し、榎並城の包囲を解かせようと試みた 8 。戦況は一進一退を続け、畿全域を巻き込む全面戦争の様相を呈していった。
天文18年(1549)6月、戦局を打開するため、三好政長は一つの賭けに出る。晴元軍や、やがて到着するであろう六角軍と合流し、長慶軍を挟撃するため、子の政勝に榎並城を任せ、自らは主力を率いて淀川を渡り、北岸の江口城に布陣したのである 3 。
しかし、この動きは長慶に絶好の機会を与える結果となった。長慶は、政長が友軍から地理的に孤立したことを見抜くと、即座に弟の安宅冬康と十河一存に別働隊を率いさせ、江口城と晴元がいる三宅城との間の連絡路を遮断させた 3 。これにより、政長は完全に包囲され、敵地の真っただ中に孤立無援で取り残されることになった。
政長は江口城で必死に援軍を待ったが、頼みの六角定頼の軍はついに現れなかった。絶望的な状況の中、彼は一首の和歌を詠んだと伝えられている。
「川舟を 留て近江の 勢もこそ 問んともせぬ 人を待かな」 3
(江口の川舟を留めて待っているのに、近江の軍勢は来るのだろうか。音沙汰もない人を待ち続けることよ)
この歌は、援軍が来ないことへの焦燥と、自らの運命を悟ったかのような諦念を漂わせている。
そして6月24日、長慶軍は江口城に総攻撃を開始した。城内では長慶方に内通する者が出たとも、内紛が発生していたとも伝えられ 20 、政長軍は組織的な抵抗もできずに瞬く間に壊滅した 19 。政長は乱戦の中で討ち取られたとも、淀川に身を投じて水死したともいわれる 2 。『堺鑑』によれば、享年42であった 3 。
江口における政長の敗死は、単なる一合戦の勝敗に留まらなかった。それは、戦国期の中央政権のあり方を根底から覆す、歴史的な転換点となったのである。
政長の死の報せを受けた細川晴元は、完全に戦意を喪失。長慶の追撃を恐れ、将軍・足利義輝を伴って京を捨て、近江の坂本へと逃亡した 6 。これにより、応仁の乱以降、細川政元、高国、そして晴元へと受け継がれてきた細川京兆家による中央政権(細川政権)は、事実上崩壊した 21 。
一方、勝利した三好長慶は、自らが擁立した傀儡の管領・細川氏綱と共に入京し、畿内の実権を完全に掌握した。ここに、織田信長に先駆ける「最初の天下人」とも評される三好政権が樹立されたのである 4 。
江口の戦いにおける長慶の勝利は、単なる軍事的な優越性によるものではなかった。それは、敵内部の情報を的確に掴み、総攻撃の好機を逃さなかった「情報戦」の勝利であり、敵対する主君に代わる新たな権威(細川氏綱)を擁立することで政治的正当性を確保した「政治戦」の勝利でもあった。三好政長の死は、一個人の武運が尽きた結果ではなく、主君への個人的な忠誠と旧来の権威に依存した政治家が、より現実的で広範な支持基盤を持つ新しいタイプの権力者に、軍事、政治、戦略のあらゆる面で完敗したことを象徴する出来事であった。
三好政長は、権謀術数に長けた冷徹な政治家・武将として知られるが、その一方で、当代一流の文化人としての一面も持ち合わせていた。彼の人物像を深く理解するためには、この多面性に光を当てる必要がある。
政長は、武将としてだけでなく、茶人としても高名であり、「宗三(そうさん)」あるいは「半隠軒宗三(はんいんけんそうさん)」と号した 2 。彼の文化人としての活動は、史料からも具体的に確認できる。
天文18年(1549)2月、江口の戦いを目前に控えた緊迫した状況下で、彼は武野紹鷗や津田宗達といった、当時を代表する堺の茶人たちを招いて茶会を催している 3 。これは、彼が単に茶の湯を嗜むだけでなく、堺の町衆が形成する先進的な文化人サークルと深い交流を持ち、その中心的な人物の一人であったことを示唆している。
さらに、彼が天下三肩衝の一つに数えられる大名物茶入「新田肩衝(にったかたつき)」を一時所持していたことも、彼の文化人としての地位を物語っている 1 。新田肩衝のような最高級の茶道具(名物)を所有することは、莫大な財力と共に、それを評価し使いこなす高度な審美眼(目利き)がなければ不可能であった。この事実は、政長が単なる茶の湯の愛好家ではなく、文化のパトロンともなりうる大名茶人であったことを示している。彼の人物像は、武辺一辺倒の武将というイメージからはほど遠く、武と文を兼ね備えた、戦国期の為政者に典型的な教養人であったことが窺える。
三好政長の名を後世に最も知らしめているのが、名刀「宗三左文字」の逸話であろう。現在、建勲神社(京都市)に所蔵され、重要文化財に指定されている打刀「義元左文字」は、もともと政長(宗三)が所持していたことから「宗三左文字」の別名で呼ばれている 1 。
この刀の伝来に関する通説は、まさに戦国史の縮図のようである。政長が所持していた刀は、何らかの経緯で甲斐の武田信虎に贈られ、その後、信虎の娘が駿河の今川義元に嫁ぐ際の引き出物として今川家へ渡ったとされる 23 。そして永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、義元が佩いていたこの刀は戦利品として信長の手に渡った。信長はこの刀を大いに気に入り、自らの所持を示す銘を刻ませたという 23 。本能寺の変の後、豊臣秀吉が焼け跡から見つけ出し、さらにその死後は徳川家康の所有となった。こうして、信長、秀吉、家康という天下統一を成し遂げた三英傑の手を経たことから、この刀は「天下取りの刀」とも呼ばれるようになった 9 。
しかし近年、この華麗な伝来の物語に対して、歴史学者の馬部隆弘氏によって学術的な疑義が呈されている 26 。馬部氏は、史料を精査した結果、以下の点を指摘している。第一に、畿内で活動する政長が、遠く離れた甲斐の武田信虎と交渉を持ち、刀を贈答するほどの政治的必然性が見いだせないこと。第二に、本能寺の変で焼失したはずの刀が、再び秀吉の手に渡るまでの経緯が不分明であること。第三に、信長が銘を入れたとされる永禄3年当時、彼の公式な官途名は「尾張守」ではなく「上総介」であり、銘と事実が整合しないことである 26 。これらの点から、この伝来は後世に創られた物語である可能性が高いと結論づけられている。
この学術的再検討は、名物道具の伝来が持つ歴史的物語性と、史料に基づいた実証的研究の重要性を我々に示してくれる。たとえ「宗三左文字」の伝来が後世の創作であったとしても、人々が「天下取りの刀」の来歴を語る上で、その最初の所有者として三好政長=宗三という人物を位置づけたという事実そのものが、彼の歴史上のインパクトの大きさを物語っている。この伝説は、彼を単なる「長慶の敵役」から、「天下人の物語の起点に立つ人物」へと昇華させ、その歴史的評価に複雑な彩りを与える役割を果たしてきたのである。
三好政長は、三好長慶を主人公とする物語において、しばしば権力欲に駆られた「悪役」として描かれてきた。しかし、本報告書で検証してきたように、その実像はより複雑である。彼は紛れもなく、細川晴元政権を20年以上にわたって実質的に主導した、戦国期畿内における屈指の政治家であった。
彼の権力基盤は、主君・細川晴元からの個人的な信任という、極めて属人的な関係性の上に成り立っていた。その脆弱な基盤を守るため、彼は権謀術数を駆使し、ついには同族の宗主である三好元長を謀殺するという非情な手段に訴えた。しかし、この行為が結果として、復讐という強力な動機を持つ三好長慶という最大の敵を生み出すことになった。彼の生涯は、旧来の権威に依存した属人的な権力がいかに脆く、また、いかに危険な対立構造を生み出すかを示す、戦国時代の好例と言える。
天文18年(1549)の江口での彼の死は、単なる一武将の敗北ではなかった。それは、室町幕府以来続いてきた管領家が中央権力を担うという統治体制(管領体制)の事実上の終焉であり、実力者が新たな秩序を構築する時代の到来を告げる、画期的な出来事であった。皮肉なことに、三好政長は、自らが守ろうとした旧体制と共に滅びることで、新しい時代の扉を開けるという歴史的役割を果たしたのである。
天下を巡る権力闘争に敗れた政長の死後、その血脈がどうなったのかを追うことは、戦国乱世の無常と、時代の変化に対応する武士の多様な生き残り戦略を知る上で興味深い。
政長の嫡男であった三好宗渭(そうい、政勝とも)は、父の死後、三好長慶に降伏した 28 。その後は三好政権下で一門として遇され、長慶の死後は三好三人衆の一人として、織田信長らと戦うなど活動を続けた記録があるが 29 、その後の消息は定かではない。
一方、もう一人の子であった三好為三(いさん、実名は一任(まさとう)とされる)は、父とは対照的に、激動の時代を巧みに生き抜いた 30 。彼は父の仇である三好長慶の死後、織田信長に仕え、本能寺の変後は豊臣秀吉に属した。そして、天下分け目の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に従軍したのである 30 。
その功績が認められ、為三の家系は江戸幕府の直参、すなわち旗本として存続を許された 4 。畿内の覇権を握り、天下人とも称された三好本家が歴史の波の中に消えていったのとは対照的に、権力闘争の敗者であったはずの政長の血脈が、徳川の治世下で武士としての家名を保ち続けた。
この結末は、戦国時代から近世への移行期における、武士の二つの異なる生存戦略を象徴している。父・政長は、室町幕府という旧体制の中で権力の頂点を目指し、そして敗れ去った。一方、子・為三は、天下統一という新たな秩序形成の流れを的確に読み、新たな支配者に臣従することで、家の存続を第一とする現実的な道を選んだ。政長の悲劇的な死と、その子の堅実な成功は、一族の物語として表裏一体を成しており、戦国という時代の終焉と、新たな時代の始まりを鮮やかに示している。