三好長逸は三好三人衆の筆頭。長慶の死後、若年の義継を補佐し、松永久秀と対立。永禄の変で将軍義輝殺害に関与。織田信長に抵抗したが、消息不明となった。行政官としても有能だった。
三好長逸(みよし ながやす)。この名を聞いて多くの人が想起するのは、「三好三人衆の筆頭格として主君をないがしろにし、松永久秀と権力闘争を繰り広げた挙句、織田信長に敗れて歴史の闇に消えた武将」という、やや否定的な人物像であろう。確かに、彼の行動が三好家、ひいては畿内情勢の混乱の一因となったことは事実である。しかし、この評価は彼の生涯の一側面に過ぎない。
三好長逸は、主君・三好長慶の時代には松永久秀と並び称される政権の「双璧」であり、長慶からの信頼も厚い、名実ともに三好家の中枢を担う人物であった 1 。長慶亡き後、畿内の政治・軍事を動かす中心人物の一人として、約10年もの間、歴史の表舞台で重要な役割を演じ続けた 2 。彼の生涯は、織田信長に先行する「天下人」三好長慶が築いた政権の構造、その維持と崩壊の過程、そして室町幕府の終焉という、戦国時代の大きな転換点を理解する上で不可欠な鍵を握っている。
本稿では、従来の断片的なイメージを越え、謎に満ちた出自から、三好政権の重鎮としての活躍、三人衆を率いての畿内争乱、そして織田信長との熾烈な抗争を経て消息を絶つまでの全生涯を、一次史料や近年の研究成果に基づいて徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。
三好長逸の生涯を語る上で、まず直面するのがその出自の不確かさである。彼の前半生は多くの謎に包まれているが、断片的な記録から、彼が三好一族の中でいかにして重きをなすに至ったかを窺い知ることができる。
三好長逸の系譜については諸説紛々としており、決定的なものはない。三好氏は清和源氏小笠原氏の末裔を称し、阿波国三好郡を本拠とした一族である 3 。長逸もこの一族の連枝であることは間違いないが、その具体的な血縁関係は複数の説が提示されている。
生年もまた不明であるが、永正17年(1520年)の等持院の戦いで祖父・之長と父とされる長光(あるいは長則)が戦死していることから、それ以前の生まれであることは確実視される 1 。一部の資料では永正13年(1516年)生まれとするものもある 1 。
また、彼は生涯で何度か名を変えており、初めは長縁(ながより)、後に長逸と名乗り、出家してからは北斎宗功(ほくさいそうこう)と号した 8 。通称は父・長光と同じ「孫四郎」とされることが多いが、長逸自身が孫四郎を名乗ったことを示す確実な史料はなく、むしろ初期の活動記録から「弓介(きゅうすけ)」を名乗っていた可能性も指摘されている 2 。
出自の謎とは裏腹に、三好長慶が台頭してからの長逸の活動は史料上でも明確になる。彼は三好一族の年長者として、若き当主・長慶を支える重鎮であった 1 。長慶の父・元長は飯盛山城の戦いで非業の死を遂げ、一族の多くは細川家の内紛で命を落としていた。さらに元長の仇である三好政長とは敵対関係にあり、長慶にとって頼れる一族の重鎮は限られていた。その中で長逸は、長慶から絶大な信頼を寄せられる存在となっていく 1 。
彼の役割は、単なる武将に留まらなかった。長慶政権下で、彼は松永久秀と共に訴訟の取次や裁許を行うなど、政権運営の中枢を担った 1 。特に、主君の発給する文書に副状(そえじょう)を添え、その命令の正当性を補強・補完する「取次」としての役割は重要であった 2 。この権限は、三好政権下では長逸と久秀のみに許されており、彼が長慶の片腕としていかに重要な地位にあったかを示している 9 。その活動範囲は山城、摂津、河内、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に及び、所領安堵や年貢の督促など、広範な行政実務を担った 1 。
軍事面でも長慶の勢力拡大に大きく貢献した。
これらの功績により、長逸は山城国の飯岡城主に任じられ、山城南半分の統治を担った 1 。彼の地位の高さを象徴するのが、官位である。永禄3年(1560年)、長逸は従四位下に叙せられた。これは、長慶の嫡男・義興(永禄4年叙任)や、当時すでに絶大な権勢を誇っていた松永久秀(同)よりも早いものであった 1 。この事実は、この時点での長逸が三好家中で長慶に次ぐ地位にあったことを物語っている。永禄4年(1561年)に将軍・足利義輝が三好邸を訪問した際の席次を見ても、長慶、義興、久秀に次ぐ席が与えられており、彼とその子・長虎の地位の高さが窺える 1 。
三好長慶の死は、三好政権、そして長逸自身の運命を大きく変える転換点となった。長慶という絶対的な求心力を失った三好家は、新たな統治体制を模索し始める。その中で長逸は、三人衆の筆頭として畿内政治の主役へと躍り出ることになる。
永禄7年(1564年)に長慶が病死すると、その跡を継いだのは長慶の甥で養子の三好義継であった。しかし義継はまだ若年であり、政権を単独で率いる力はなかった。そこで、義継を後見する集団指導体制が形成される。これが、三好長逸、三好宗渭(そうい、政康とも)、岩成友通(いわなり ともみち)による「三好三人衆」である 1 。
この「三人衆」という呼称は後世のものではなく、『言継卿記』や『多聞院日記』といった同時代の記録にも見られるものであり、当時から一つの政治集団として認識されていたことがわかる 6 。長逸が一族の長老格であったのに対し、三好宗渭は長慶死後に頭角を現した人物、岩成友通は三好一族ではないものの、その能力を高く評価され一門に準じる扱いを受けていた武将であった 10 。
この新体制が最初に行った大事業が、永禄8年(1565年)5月19日に引き起こされた第13代将軍・足利義輝の殺害、すなわち「永禄の変」である 1 。この事件は、松永久秀の嫡男・久通も加わっており、当初は三人衆と松永氏が共同で行ったものであった 13 。長逸自身も襲撃に直接参加し、義輝の正室である近衛家の女性を保護して近衛邸まで送り届けるという役割を果たしている 1 。
この将軍殺害の動機については、単なる権力欲や暴走と片付けることはできない。近年では、三好氏による幕府権力の回復を警戒した義輝と、三好政権の主導権を維持しようとする義継および三人衆との間の政治的対立が頂点に達した結果とする見方が有力である 15 。義輝を排除し、傀儡としやすい新たな将軍を擁立することで、三好家主導の政治体制を盤石にしようという、極めて政治的な判断があったと考えられる 10 。長逸が義輝の正室を丁重に扱ったことは、この事件が単なる殺戮ではなく、朝廷や公家社会との関係を考慮した上での計算された行動であったことを示唆している 15 。
永禄の変で協調した三人衆と松永久秀の関係は、しかし長くは続かなかった。間もなく両者は三好家内の主導権を巡って激しく対立し、畿内は新たな戦乱の時代に突入する 10 。
対立の直接的な契機は、永禄8年(1565年)8月に久秀の弟で丹波方面の司令官であった内藤宗勝(松永長頼)が戦死したことにあるとされる 19 。この敗北は松永氏の軍事力を大きく削ぎ、三人衆が久秀を政権から排除する好機と捉えた可能性が高い。同年11月、三人衆は突如として松永方の飯盛山城を攻撃し、当主・三好義継を確保して河内の高屋城へ移した 13 。これは、義継を擁することで三好宗家の正統性を掌握し、久秀を孤立させるための決定的な行動であった 15 。
当初は三人衆の側にいた義継であったが、傀儡としての扱いに不満を抱いたのか、永禄10年(1567年)2月、三人衆のもとを出奔して宿敵であったはずの松永久秀に合流する 8 。当主を失った三人衆と、当主を新たに迎えた松永氏との対立は、ここに決定的となった。
この対立のクライマックスが、同年10月の「東大寺大仏殿の戦い」である。三人衆は大和の有力国人・筒井順慶と結び、大軍を率いて久秀の居城・多聞山城に迫った 18 。三人衆・筒井連合軍は奈良市中に陣を敷き、東大寺を本陣とした 18 。数ヶ月にわたる膠着状態の後、10月10日夜、兵力で劣る久秀軍が東大寺に陣取る三人衆軍に奇襲を敢行した 21 。
この戦いの最中、世界最大級の木造建築であった東大寺大仏殿が炎上し、大仏も首が溶け落ちるという悲劇が起こる。この事件は長らく松永久秀の三大悪行の一つとして語られてきた。しかし、『多聞院日記』などの一次史料を詳細に検討すると、戦闘中の失火であった可能性が高いことが指摘されている 18 。三人衆側が武器庫として利用していた堂宇に保管されていた火薬に、いずれかの軍勢の鉄砲の火が引火したという説が有力であり、久秀の計画的な放火と断定することはできない 22 。いずれにせよ、この戦いは久秀軍の劇的な勝利に終わり、三人衆は大敗を喫して大和からの撤退を余儀なくされた 21 。
東大寺での敗北は三人衆にとって大きな痛手であったが、彼らの闘争は終わらなかった。畿内の覇権を巡る争いは、新たなプレイヤーの登場によって、さらに大きな局面へと移行する。それが、足利義昭を奉じて上洛する織田信長であった。
永禄11年(1568年)、織田信長は将軍・義輝の弟である足利義昭を擁立し、大軍を率いて京へと進撃した 8 。これに対し、三人衆は阿波公方の足利義栄(義輝の従兄弟)を第14代将軍として擁立し、信長に対抗しようとした 13 。しかし、信長の圧倒的な軍事力の前に三人衆は為す術もなく、摂津・山城の諸城は次々と陥落。長逸ら三人衆は本拠地である四国の阿波へと敗走を余儀なくされた 8 。一方、彼らの宿敵であった松永久秀と三好義継は、いち早く信長に降伏し、その支配下に入ることで命脈を保った 13 。
阿波に逃れた三人衆であったが、彼らは決して屈服したわけではなかった。畿内奪回を目指し、執拗な反攻作戦を展開する。
永禄12年(1569年)1月、三人衆は阿波から畿内に再上陸し、京都にいた将軍・足利義昭の宿所(本圀寺)を急襲する(本圀寺の変)。これは失敗に終わるものの、彼らの抵抗の意志の強さを示すものであった 8 。
そして元亀元年(1570年)8月、三人衆は再び摂津に上陸し、淀川河口の中洲にあった野田城・福島城に8,000の兵で立てこもった 8 。これに対し、信長は3万ともいわれる大軍で包囲するが、城は容易に落ちなかった(野田城・福島城の戦い)。この戦いは、やがて「第一次信長包囲網」と呼ばれる、信長生涯最大の危機へと発展していく。
9月12日、戦況は劇的に変化する。これまで信長に協力的であった石山本願寺が、突如として三人衆に味方し、信長軍の背後を襲ったのである 27 。本願寺が三人衆に与した背景には、三人衆の一人・岩成友通が以前から本願寺門徒に便宜を図るなど良好な関係を築いていたことや 27 、信長の圧迫に対する本願寺自身の危機感があった 30 。さらに、この動きに呼応して近江の浅井・朝倉連合軍が南下を開始。信長は完全に挟撃される形となり、摂津からの撤退を余儀なくされた 29 。この戦いは、三好三人衆が単なる残党勢力ではなく、信長を窮地に陥れるほどの力を持つ、反信長勢力の中核であったことを証明した。
信長包囲網の形成に成功した三人衆であったが、その後の戦局は彼らにとって厳しいものとなっていく。元亀2年(1571年)には、信長と対立した松永久秀が三人衆と和解し、再び共闘関係を結ぶという離れ業も見られた 8 。しかし、元亀4年(1573年)、信長最大の脅威であった武田信玄が病死すると、信長は反撃に転じ、包囲網を一つずつ切り崩していく。
同年、三人衆の一人・岩成友通が山城国の淀城で細川藤孝(幽斎)に敗れ、戦死 33 。もう一人の三好宗渭(政康)は高屋城を開城して信長に降伏した 33 。これにより、三好三人衆という政治・軍事集団は事実上崩壊した。
筆頭格であった三好長逸の最期は、さらに謎に包まれている。彼は摂津で織田軍に最後まで抵抗したが、敗北し、その後の足取りは歴史上からぷっつりと途絶える 8 。天正元年(1573年)の敗走を最後に、彼に関する確実な記録は存在しない 2 。一説には中国地方へ逃れたともいわれるが、定かではない。こうして、三好政権の栄枯盛衰を体現した武将は、その最期を誰にも知られることなく歴史の舞台から姿を消した。
戦乱に明け暮れた生涯を送った三好長逸だが、その人物像は多面的であり、単純な「梟雄」や「反逆者」という言葉では捉えきれない。
長逸の最も重要な側面は、優れた行政官であったという点である。三好長慶政権下において、彼は松永久秀と共に政権を運営する双璧と称され、訴訟の取次や裁許といった司法・行政の根幹を担った 1 。特に、主君の命令を補完する副状の発給権限を持っていたことは、彼が単なる武将ではなく、政権の意思決定に深く関与する中枢の吏僚であったことを示している 2 。永禄3年(1560年)に松永久秀や三好義興に先んじて従四位下の官位に叙されたことは、彼の政治的地位が非常に高かったことの証左である 1 。彼は、武力と統治能力を兼ね備えた、三好政権を支える大黒柱であった。
彼の冷徹な政治家としての一面とは対照的な姿を伝えているのが、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録である。フロイスは、松永久秀との抗争の最中、京都から堺へ追放されることになった宣教師たちを、長逸が護衛をつけて無事に送り届けたという逸話を記し、彼を「生来善良な人、教会の友人」と好意的に評価している 8 。戦乱の最中にあっても、異国の宗教家に対して配慮を見せるこの行動は、彼の人間性の一端を垣間見せる貴重な記録である。また、堺に豪邸を構え、「天下四人の執政の一人」と称されていたことも記されており、当時の彼が畿内において絶大な影響力を持っていたことがわかる 8 。
従来、三好長逸は三好長慶や松永久秀の陰に隠れ、三好家衰退期の混乱を象徴する人物として描かれることが多かった。しかし、天野忠幸氏をはじめとする近年の研究の進展により、その評価は大きく見直されつつある 36 。
再評価の要点は以下の通りである。
三好長逸の生涯は、謎に満ちた出自から始まり、織田信長に先行する最初の天下人・三好長慶の下で権力の中枢に上り詰め、主君の死後は三人衆の筆頭として畿内の覇権を巡って激しい闘争を繰り広げ、最後は歴史の表舞台から忽然と姿を消すという、まさに戦国乱世を体現したものであった。
彼は、利用者が当初抱いていた「家中に混乱を招いた人物」という一面的な評価には収まらない、極めて複雑で多面的な人物である。忠実な家臣であり、有能な行政官であり、冷徹な政治家であり(永禄の変)、そして信長に最後まで屈しなかった不屈の武将でもあった。
彼の行動、特に三人衆としての活動は、一見すると内紛と混乱に見えるかもしれない。しかしそれは、長慶が築き上げた「三好の天下」という政治秩序を、内部崩壊と外部からの圧力の中でいかに維持するかという、壮大かつ困難な課題に対する彼らなりの解答であった。結果として彼らは敗れたが、その抵抗は織田信長の天下統一への道を決して平坦なものにはしなかった。
三好長逸という人物を通して我々が見るのは、室町幕府体制が崩壊し、新たな統一権力が生まれる過渡期のダイナミズムそのものである。彼は三好政権の栄光と没落の双方を知る生き証人であり、その名は、松永久秀や織田信長といった巨星の影に隠れがちながらも、戦国史の転換点において決定的な役割を果たした重要人物として、記憶されるべきであろう。