最終更新日 2025-08-01

三村宗親

備中三村宗親は、戦国黎明期に鶴首城を築き、八幡宮を勧請。中央政争を利用し勢力を拡大、子・家親の飛躍の礎を築いた。その戦略は、後の三村氏の最盛期に繋がる。

備中の雄、三村宗親の実像 ― 戦国黎明期における国人領主の戦略と台頭

序論

本報告書は、戦国時代の備中国(現在の岡山県西部)に実在した武将、三村宗親(みむら むねちか)の生涯と、彼が生きた時代を徹底的に解明することを目的とします。ユーザーが提示された「備中の豪族」「八幡宮の勧請」「鶴首城の築城」といった断片的な情報を出発点とし、その人物像を歴史の文脈の中に立体的に再構築します。

三村宗親は、その子である三村家親(いえちか)や孫の元親(もとちか)ほどには、歴史の表舞台で語られる機会は多くありません。しかし、彼らの時代に三村氏が備中最大の国人勢力へと飛躍するための確固たる基盤を築いた、極めて重要な人物であったことは疑いようがありません [1, 2, 3]。宗親の活動を丹念に追うことは、応仁の乱後の守護体制の崩壊から、国人領主が自らの実力で勢力を伸張させていく「戦国時代」という時代の転換点を、備中という一地域から具体的に理解する上で不可欠な作業となります。

本報告書は、まず第一章で三村氏の出自と系譜をたどり、第二章では宗親が活動した時代の政治的背景を概観します。続く第三章では、宗親自身の具体的な活動とその背後にあった戦略を詳細に分析し、第四章で彼が次代に遺したものが如何にして三村氏の飛躍に繋がったのかを考察します。最終的に、これらの多角的な分析を通じて、これまで漠然と「家親の父」としてのみ語られがちであった宗親の、歴史的実像とその意義を明らかにすることを目指します。

第一章:備中三村氏の出自と系譜

三村宗親という人物を理解するにあたり、まず彼が属した三村一族がどのようなルーツを持ち、いかにして備中の地に根を下ろしたのかを明らかにすることは、全ての議論の前提となります。

第一節:清和源氏小笠原氏の庶流

備中三村氏は、その本姓を源氏とし、清和源氏の一流である甲斐源氏・小笠原氏の庶流を称しています [4, 5]。伝承によれば、鎌倉時代に信濃の雄族であった小笠原長経の三男・長時が、常陸国筑波郡三村郷(現在の茨城県つくば市周辺)に移り住み、その子である親時(ちかとき)の代から「三村」の姓を名乗るようになったとされています [5]。

その後、一族は信濃国筑摩郡洗馬荘(せばのしょう、現在の長野県塩尻市周辺)の地頭となり、その分流が鎌倉時代後期に備中国小田郡星田郷(現在の岡山県井原市美星町)の地頭職を得て、この地に移住しました。これが備中三村氏の歴史の始まりです [1, 5]。これは、鎌倉幕府の政策によって東国の御家人が西日本の所領へ移住した、いわゆる「西遷御家人」の一例と考えられます。

この備中三村氏と信濃の三村氏が同族であることは、単なる伝承に留まらず、いくつかの状況証拠によって強く裏付けられています。第一に、両家が「丸に三つ柏」などの家紋を共通して用いていること。第二に、代々の当主が「親(ちか)」という字を通字(諱の一字として代々用いる文字)として共有していること。第三に、備中三村氏の初期の本拠地である星田郷の周辺に、信濃の「洗馬」に通じる「洗場(せば)」という地名が現存すること。そして第四に、後代の当主である三村家親が、わざわざ信濃国から八幡宮を勧請している事実が挙げられます [5, 6]。これらの点から、両三村氏は同流の一族であったと見て間違いないでしょう。

戦国時代という実力主義の世にあって、権威ある家系の出自を称することは、自らの支配の正統性を内外に示す上で極めて重要な意味を持ちました。守護の権威が揺らぎ、国人領主が乱立する中で、三村氏が「清和源氏小笠原氏流」という名門の系譜を標榜したことは、他の在地勢力との格の違いを際立たせ、領民や他の武士に対する求心力を高めるための、高度な政治的・社会的戦略であったと考えられます。家親による信濃からの神社勧請も、この出自を再確認し、一族の結束と権威を高める意図があったと解釈できるのです。

第二節:宗親に至るまでの系譜

星田郷に移住してから、三村宗親が歴史の記録に現れるまでの約200年間、三村氏の具体的な動向を示す史料は乏しく、その足跡は必ずしも明確ではありません。しかし、南北朝時代の明徳四年(1393年)に管領・斯波義将が備中守護・細川満之に宛てた書状の中に、「三村信濃入道が成羽庄を侵している」との旨が記されており、この頃には既に、古くからの本拠地である星田から、成羽(現在の高梁市成羽町)方面へと勢力を拡大しようとする動きがあったことが窺えます [7]。

各種の系図によれば、宗親の父は時親(ときちか、盛親とも)、祖父は親隆(ちかたか)とされています [5, 8]。彼らの代に、星田郷の一地頭という立場から、備中において無視できない力を持つ有力な国人領主へと、着実に成長を遂げていった過程があったと推測されます。


表1:三村氏略系図(小笠原氏〜元親の代まで)

世代

氏名

備考

小笠原長経

信濃小笠原氏当主

(三村)長時

長経の三男。常陸国三村郷へ移住

三村親時

長時の子。三村氏を称す

(数代略)

信濃から備中星田郷へ移住

三村親隆

三村時親

別名:盛親

三村宗親

本報告書の主題人物

三村家親

宗親の嫡男。備中松山城主となり最盛期を築く

三村親成

宗親の次男(または三男)。兄・家親を補佐

三村親頼

宗親の三男(または親成の弟)

庄元祐

家親の長男。庄氏へ養子

三村元親

家親の次男。家督を継ぐも毛利氏に滅ぼされる

三村元範

家親の三男

三村実親

家親の四男

鶴姫

家親の娘。上野隆徳室

注:系図には諸説あり、ここでは代表的なものを基に作成 [5, 8, 9]。


三村氏が備中土着の勢力ではなく、鎌倉幕府の命によって東国から移住してきた「西遷御家人」であったという事実は、彼らの行動原理を理解する上で重要な示唆を与えます。在地社会においては「よそ者」であったが故に、在地勢力との間に一定の緊張関係を抱えていた可能性があり、それが逆に、常に中央政権の動向に注意を払い、それを自らの勢力拡大に利用するという、したたかな生存戦略を育んだのかもしれません。宗親の代に見られる中央の細川高国との連携 [3] は、こうした一族の歴史的背景と無関係ではないと考えられるのです。

第二章:宗親が生きた時代の備中 ― 権力の真空地帯

三村宗親が台頭した15世紀末から16世紀初頭にかけての備中は、旧来の支配秩序が崩壊し、新たな権力が生まれる前の、混沌とした「権力の真空地帯」でした。宗親の行動を正しく理解するためには、この時代の特異な政治状況を把握することが不可欠です。

第一節:室町幕府権威の失墜と守護細川氏の動揺

応仁・文明の乱(1467-1477)は、室町幕府の権威を決定的に失墜させました [10, 11]。乱後、幕府の実権は管領・細川政元が掌握しますが、彼が将軍を意のままに廃立する「明応の政変」(1493年)を引き起こしたことで、中央政局は細川京兆家(本家)の内部抗争を中心に、さらなる混迷を深めていきました [12, 13]。

この中央の混乱は、地方の支配体制にも深刻な影響を及ぼしました。備中の守護職は、細川氏の分家である備中守護家が世襲していましたが [14, 15, 16]、その支配基盤は極めて脆弱でした。その理由として、第一に、備中には京兆家や阿波守護家といった、より有力な細川一門の所領が点在し、守護家の支配権が及ばなかったこと、第二に、守護代の庄(しょう)氏をはじめとする有力な国人たちの力が強く、その統制が困難であったことが挙げられます [15]。

この不安定な状況を象徴するのが、延徳三年(1491年)に勃発した「備中大合戦」です [14, 17]。これは、備中守護であった細川勝久と、中央の細川政元の意を受けた守護代・庄元資(もとすけ)との間で起こった大規模な武力衝突でした。中央の細川一門の内紛が、備中の国人(庄氏)を巻き込んで在地化したこの戦いは、守護の権威が名目だけのものとなり、国人たちが自らの判断で行動する時代の到来を告げるものでした。

勝久の死後、備中守護職は阿波細川家や野州細川家(細川高国の実家)の間を転々とし、在地における求心力を完全に喪失します [15, 18]。こうして備中は、事実上の「権力の真空地帯」と化していったのです。三村宗親の台頭は、彼個人の才覚もさることながら、こうした時代の大きな構造変動によって可能になった必然であったと言えます。彼は、古い権威が失墜し、新たな支配者が定まらない過渡期に、最も効果的に立ち回った国人の一人でした。

第二節:国人たちの胎動と周辺大国の影響

守護権力の弱体化は、備中の国人領主たちにとって自立と勢力拡大の好機となりました。守護代であった庄氏や石川氏をはじめ、三村氏、さらには伊達氏、多治部(たじべ)氏といった国人たちが、それぞれ領地の確保と拡大を巡って、互いに鎬を削るようになります [1, 14]。


図1:16世紀初頭の備中周辺勢力関係図

Mermaidによる関係図

graph TD %% 外部勢力 subgraph "中国地方の外部勢力" Ouchi["大内氏 (周防)"] Amago["尼子氏 (出雲)"] Uragami["浦上氏 (播磨)"] Hosokawa_K["細川京兆家 (中央)"] end %% 備中国内の主要国人 subgraph "備中国内の主要国人" Mimura["三村氏 (成羽)"] Sho["庄氏 (猿掛)"] Ishikawa["石川氏 (幸山)"] Ueno["上野氏 (松山)"] Tajibe["多治部氏"] Date["伊達氏"] end %% 連携・対立関係はsubgraph外で記述 Hosokawa_K --- Sho Hosokawa_K --- Mimura Hosokawa_K -- 永正期に連携 --> Mimura Amago --- Ueno Ouchi --- Uragami Mimura -. 対立 .-> Sho Mimura -. 対立 .-> Ueno Sho -. 対立 .-> Ueno style Ouchi fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width: 4.0px style Amago fill:#9cf,stroke:#333,stroke-width: 4.0px style Uragami fill:#f96,stroke:#333,stroke-width: 4.0px style Hosokawa_K fill:#cc9,stroke:#333,stroke-width: 4.0px

注:この図は16世紀初頭の大まかな勢力関係を示したものであり、連携・対立関係は時期によって変動します。

中でも、備中南部の猿掛城(さるかけじょう)を本拠とする庄氏は、守護代の地位を利用して備中最大の勢力に成長していました [14, 19]。彼らは中央の細川京兆家と深く結びついており [20, 21]、三村氏をはじめとする他の国人にとっては、乗り越えるべき最大の壁でした。

さらに16世紀に入ると、備中を巡る情勢は一層複雑化します。西からは周防の大内氏、北からは出雲の尼子氏、そして東からは播磨の赤松氏(実権は守護代の浦上氏が掌握)が、それぞれ備中への影響力を強めようと、国人たちに盛んに働きかけを行いました [22, 23, 24, 25]。備中の国人たちの争いは、単なる領地争いではなく、その背後にある大内・尼子・浦上といった大勢力の思惑が絡んだ「代理戦争」の様相を呈していたのです。備中の国人たちは、これら外部勢力のいずれかと結びつくことで、自らの生き残りと勢力拡大を図るという、極めて困難な舵取りを迫られていました。

第三章:三村宗親の生涯と戦略

混沌とした時代背景の中、三村宗親は具体的にどのような行動を取り、一介の国人から有力な領主へと成長していったのでしょうか。現存する断片的な史料を繋ぎ合わせ、彼の戦略を分析します。


表2:三村宗親関連年表(15世紀末~16世紀初頭)

西暦 (和暦)

備中・三村氏の動向

中央・周辺諸国の動向

1491 (延徳3)

「備中大合戦」勃発。守護・細川勝久と守護代・庄元資が争う [14]。

1493 (明応2)

細川政元が「明応の政変」を起こし、将軍・足利義材を追放 [12]。

1494 (明応3)

三村宗親 、成羽に八幡宮を勧請 [26]。

1508 (永正5)

宗親 、大内義興の上洛軍に参加か [20]。

大内義興、前将軍・足利義稙(義材)を奉じて上洛。細川高国と連携 [12]。

1517 (永正14)

宗親 、多治部氏・伊達氏と共に新見庄へ侵攻 [1]。

1521 (大永元)

浦上村宗が主君・赤松義村を殺害。浦上氏が播磨・備前・美作の実権を握る [27]。

1533 (天文2)

子の家親、鶴首城を大改修 [7, 28]。

庄為資が備中松山城主の上野氏を滅ぼし、入城 [29]。


第一節:勢力基盤の確立(1490年代~)

宗親の代における最も重要な功績の一つは、三村氏の勢力基盤を確立したことです。その具体的な行動として、拠点の移転と宗教的権威の確立が挙げられます。

宗親の時代に、三村氏は古くからの本拠地であった星田から、より戦略的な要地である成羽(なりわ)へと主たる拠点を移したと考えられています [1, 2]。成羽は、備中中部を東西に貫流する成羽川流域の交通の要衝であり、ここを抑えることは、経済的にも軍事的にも大きな意味を持ちました。そして、成羽の町を見下ろす鶴首山には、拠点城郭として鶴首城(かくしゅじょう)が築かれました [26]。この城の正確な築城者や年代には諸説ありますが [7, 30]、宗親の代に三村氏の拠点として本格的に整備され、子の家親が天文二年(1533年)に堅固に改修したと見るのが妥当でしょう [7, 28]。宗親にとって鶴首城は、成羽支配の核となる重要な軍事拠点でした。

そして、この成羽支配を確固たるものにするため、宗親は巧みな一手を打ちます。明応三年(1494年)、彼は成羽の地に氏神として八幡宮を勧請したのです [26]。八幡神は武家の守護神であり、これを自らの氏神として丁重に祀ることは、武家としての権威を高め、領内の人心を掌握するための、極めて有効な宗教的・政治的パフォーマンスでした。この行為は、単なる信仰心の表れに留まりません。新たに支配下におさめた土地に自らの守護神を祀ることは、その土地に対する恒久的な支配権を神意によって宣言する「領有宣言」に他なりませんでした。また、神社という恒久的な施設を建立し、祭祀を執り行うことは、領民に対して三村氏が単なる軍事力による支配者ではなく、地域の安寧と繁栄を保障する君主であることを示す効果もありました。これは、軍事力だけでなく、宗教的権威をも巧みに利用した、宗親の優れた領国経営術の表れと言えます。

第二節:中央政争への介入と勢力拡大(1500年代~1520年代)

宗親の戦略の巧みさは、在地での基盤固めに留まらず、中央の政治動向を的確に捉え、それを自らの勢力拡大に利用した点にあります。

永正年間(1504-1521)、中央では細川政元の死後、その養子である細川澄元と細川高国の間で家督を巡る激しい争いが繰り広げられていました(永正の錯乱)。この争いの中で、宗親は高国方に与して活動します [3]。高国は、西国一の大大名であった周防の大内義興と連携し、前将軍・足利義稙(よしたね)を奉じて京を制圧するなど、当時の有力な政治ブロックを形成していました。宗親は、この巨大な権威に自らを結びつけることで、備中における自らの行動を正当化しようとしたのです。

この戦略は、小勢力が大勢力間の争いを利用して生き残り、成長していく戦国武将の典型的な生存戦略、いわば「虎の威を借る狐」の戦術でした。宗親自身の兵力だけでは、備中全体を制圧することは困難であり、ライバルである庄氏や上野氏も手強い存在でした。そこで彼は、細川高国という「虎」の陣営に加わることで、その権威(虎の威)を借り、備中における自らの軍事行動を正当化したのです。

その具体的な軍事行動として記録に残っているのが、永正十四年(1517年)の新見庄(現在の新見市)への侵攻です [1]。この時、宗親は単独で行動したのではなく、同じく高国方であった備中の国人、多治部氏や伊達氏と共同で、敵対勢力が支配する新見庄へ攻め込んでいます。これは、高国方の「備中方面軍」の一翼を担う形での、政治的な意味合いの強い軍事行動でした。この行動により、宗親は単なる侵略者ではなく「公的な軍務」を遂行しているという大義名分を得ることができ、他の国人からの反発を抑えつつ、実利(勢力圏の拡大)を得ることに成功したのです。

この一連の動きの中で、宗親は備中松山城主の上野氏など、敵対ブロックに属する国人たちと対立を深めていきました [3]。また、一族内の分流である石蟹(いしが)氏との対立も記録されており [31]、勢力拡大の過程で、一族内部の統制にも苦心していた様子が窺えます。

第三節:宗親時代の三村氏の到達点

宗親の数十年にわたる地道な活動の結果、三村氏は備中において飛躍的な成長を遂げました。ある史料は、この頃の三村氏を「守護代衆と比肩できうる力」を持つに至ったと評価しています [1]。これは、名目上の支配者である守護や、その代理人である守護代(庄氏など)を凌駕するほどの実力を蓄えたことを意味し、もはや一介の国人ではない、備中を代表する有力領主へと成り上がったことを示しています。

また、宗親が「新左京亮(しんさきょうのすけ)」という官途名を名乗っていたことも、その地位向上を物語っています [1]。左京亮は本来、朝廷の官職ですが、戦国期には武士が自称する名誉的な称号として用いられました。この称号を名乗ることは、彼が単なる在地の豪族ではなく、中央とも通じる一定の格式を持つ武将であることを内外に示すものでした。

第四章:宗親の遺産と三村氏の飛躍

三村宗親の真の歴史的評価は、彼自身が成し遂げたことだけでなく、彼が次代に何を遺し、それがどのように三村氏の未来に影響を与えたかによって測られるべきです。この章では、宗親の死後、彼が築き上げた基盤が如何にして三村氏の最盛期に繋がっていったのかを検証します。

第一節:家督の継承

宗親の没後、その跡は嫡男の家親(いえちか)が継ぎました [32]。家親は、父・宗親が築き上げた成羽の拠点と、周辺国人との関係性、そして巧みな政治戦略という無形の財産を、そのまま引き継ぐことになります。

また、宗親には家親の他にも、親成(ちかしげ)という優れた息子がいました(家親の甥という説もある [9, 33])。親成は、兄・家親の腹心としてその勢力拡大を補佐し、後には家親が備中松山城へ移った後の鶴首城主を任されるなど、三村家の重鎮として極めて重要な役割を果たしました [7, 9]。宗親は、息子たちによる強固な協力体制の基礎も築いていたと考えられます。

さらに、宗親が始めた「婚姻による同盟強化」という戦略も、家親の代に発展的に継承されました。宗親の妻は、同じく小笠原氏の分流を称していた阿波の三好氏の出身であったとされますが [1, 32]、家親はこの戦略をさらに推し進め、備中内の有力国人である石川氏や上野氏と積極的に姻戚関係を結び、勢力圏の内部を安定させていきました [32, 34, 35]。

第二節:三村氏の最盛期と宗親の影

家親の時代、三村氏はその最盛期を迎えます。そして、その成功の裏には、常に父・宗親の影がありました。

宗親が選択した「外部の大勢力と結ぶ」という基本戦略は、家親によってさらに洗練され、大きな成果を生みます。家親は、連携相手を、もはや旧勢力となった細川氏から、中国地方で急速に台頭していた安芸の毛利元就へと、時代に合わせて巧みに切り替えました。そして、毛利氏の強力な支援を背景に、長年のライバルであった庄氏を破り、永禄四年(1561年)、ついに備中の中心地である備中松山城を奪取します [32, 36, 37]。これにより、三村氏は名実ともに備中の覇者となったのです。これは、宗親が細川高国と結んだ戦略の、いわば発展的成功モデルと言えます。

家親が毛利氏と対等に近い形で同盟を結び、備中統一という大事業を成し遂げることができたのは、ひとえに宗親の代に三村氏が「守護代と比肩しうる」だけの確固たる実力と、成羽という戦略的・経済的拠点を確立していたからに他なりません [1, 2]。父が築いた盤石な基盤があったからこそ、子は更なる飛躍を遂げることができたのです。宗親の地道な努力がなければ、家親の栄光はあり得ませんでした。

第三節:宗親の法名と菩提

宗親が後世の一族からどのように見なされていたかは、彼の法名と、彼に由来する寺院の名前に端的に表れています。

宗親の法名は「源樹大居士(げんじゅだいこじ)」と伝えられています [1]。そして永禄九年(1566年)、孫の三村元親は、備前・宇喜多直家の謀略によって暗殺された父・家親の菩提を弔うため、本拠地である成羽に一宇の寺院を建立しました。その寺院は「曹洞宗 源樹寺(げんじゅじ)」と名付けられました [38]。

父の菩提寺を建てるにあたり、元親が祖父・宗親の法名である「源樹」を寺の名に冠したという事実は、極めて示唆に富んでいます。「源」は一族の源流や始まりを意味し、「樹」は天に向かって大きく育つ大木を連想させ、家の繁栄を象徴します。つまり、「源樹寺」という名前には、「我が三村家の源流であり、大樹の如き繁栄の礎を築いた祖父・宗親公」への深い敬意と、「その遺志を見事に継いだ父・家親公」への追悼という、二重のメッセージが込められていると解釈できます。これは、三村家内部において、宗親がいかに「家の中興の祖」として認識され、尊敬されていたかを示す、何よりの証拠と言えるでしょう。

結論

本報告書を通じて行ってきた分析の結果、三村宗親は、単に「三村家親の父」という血縁上の存在に留まらない、戦国史において重要な役割を果たした人物であることが明らかになりました。

宗親は、守護権力が崩壊し、新たな秩序が模索される戦国黎明期という時代の転換点において、第一に、巧みな政治戦略で中央政争の力学を利用し、在地における自らの行動を正当化しました。第二に、拠点の整備や宗教的権威の活用といった着実な領国経営によって、勢力の基盤を固めました。そして第三に、これらの有形無形の資産を次代に継承することで、三村氏の飛躍の礎を築きました。彼は、先見性のある優れた「戦略家」として再評価されるべきです。

宗親のように、必ずしも著名ではないものの、時代の転換期に重要な役割を果たした人物を研究することは、歴史の深層を読み解く上で大きな意義を持ちます。彼の生涯は、備中という一地域において、中世的な権威が崩壊し、実力主義の戦国時代へと社会が移行していくダイナミズムを、私たちに鮮やかに示してくれます。

備中三村氏が、一時は戦国大名として歴史にその名を刻むことができたのは、家親や元親の華々しい活躍によるものです。しかし、その輝かしい舞台を整え、壮大な物語の脚本の第一稿を書き上げたのは、紛れもなく三村宗親その人であったと言えるでしょう。彼の存在なくして、三村氏の栄光はあり得なかったのです。

引用文献

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  32. 三村家親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E5%AE%B6%E8%A6%AA
  33. 三村親成 Mimura Chikashige - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/mimura-chikashige
  34. 石川久智 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%B9%85%E6%99%BA
  35. 常山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%B1%B1%E5%9F%8E
  36. 備中松山城の沿革 - 高梁市公式ホームページ https://www.city.takahashi.lg.jp/site/bichu-matsuyama/enkaku.html
  37. 備中松山城略史 - 高梁市公式ホームページ https://www.city.takahashi.lg.jp/site/bichu-matsuyama/nenpyou.html
  38. 備中 三村家親・元親の墓(源樹寺) - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/sokuseki/okayama/mimura-genjyuji-bosho/