江戸時代に講談や浮世絵を通じて形成された「武田二十四将」は、戦国最強と謳われた武田家臣団の勇名を今に伝える象徴的な存在である 1 。その一人として名を連ねる三枝昌貞(さいぐさ まささだ)は、駿河花沢城攻めにおける「一番槍」の武功や、長篠の戦いでの悲劇的な最期によって、武田信玄・勝頼の二代に仕えた勇将として知られている 3 。しかし、その知名度は山県昌景や馬場信春といった「武田四天王」に比べると限定的であり、その具体的な人物像は、しばしば後世に創られた逸話の中に埋没しがちである。
本報告書を作成するにあたり、まず取り組むべきは、彼の諱(いみな)に関する問題である。長らく軍記物である『甲陽軍鑑』や、江戸幕府が編纂した『寛永諸家系図伝』の記述に基づき、「守友(もりとも)」の諱で知られてきた 3 。しかし、近年の歴史研究の進展により、信頼性の高い同時代の一次史料、すなわち彼自身が署名した起請文などの古文書において、一貫して「昌貞(まささだ)」という実名が用いられていることが確認されている 3 。この事実は、単なる呼称の違いに留まらない。後世の物語的な伝承と、同時代史料に基づく客観的な史実とを峻別し、人物の実像に迫る上で極めて重要な視点を提供する。したがって、本報告書では、この学術的見解に基づき、彼の名を「三枝昌貞」で統一する。
本報告書の目的は、利用者が提示した概要の枠を大きく超え、昌貞個人の生涯を詳細に追うことはもちろん、彼を育んだ三枝一族の歴史的背景、武田家臣団内での複雑な人間関係、そして彼の死が一族と武田家、ひいては戦国の世に与えた影響を多角的に検証することにある。断片的な逸話や武功を繋ぎ合わせ、一人の武将の実像を立体的に再構築することで、武田の「若獅子」と評された男の真の姿に迫ることを目指す 7 。
年代(西暦) |
年齢 |
主要な出来事 |
天文6年(1537年) |
1歳 |
三枝虎吉の嫡男として生まれる 3 。 |
弘治年間(1555-1558年) |
19-22歳 |
武田信玄の勘気を被り、一時蟄居したと伝わる 3 。 |
永禄4年(1561年) |
25歳 |
第四次川中島の戦いに際し、信濃における活躍で知行を与えられる(文書上の初見) 3 。 |
永禄6年(1563年) |
27歳 |
叔父・三枝守直(新十郎)の死後、その遺児の後見を信玄から命じられる 3 。 |
永禄11年(1568年)頃 |
32歳 |
寄親である山県昌景の娘婿(後に猶子)となり、「山県勘解由左衛門尉」を称し始める 3 。 |
永禄12年(1569年) |
33歳 |
甲斐国塩後郷(現在の甲州市塩山)の代官を務めるなど、行政官としても活動 3 。 |
永禄13年(1570年) |
34歳 |
駿河・花沢城攻めにおいて「一番槍」の武功を立て、信玄から感状を受ける 4 。 |
元亀3年(1572年) |
36歳 |
三方ヶ原の戦いで奮戦。その戦いぶりを山県昌景に「若獅子のようだ」と賞賛される 7 。 |
天正3年(1575年) |
39歳 |
5月21日、長篠の戦いにおいて、鳶ヶ巣山砦の支砦である姥ヶ懐砦を守備中、酒井忠次隊の奇襲を受け、弟の守義・守光と共に戦死 3 。 |
三枝昌貞という武将を理解するためには、彼が背負っていた一族の歴史を遡る必要がある。彼の行動原理の根底には、名族としての誇りと、一度は没落した家を再興するという強い意志が存在したと考えられるからである。
三枝氏は、甲斐源氏が甲斐国の主役となる以前からこの地に根を張っていた、極めて古い家柄の豪族であった 5 。その起源は古代にまで遡り、平安時代には朝廷から派遣された国司のもとで地方行政の実務を担う「在庁官人」として、国衙で権勢を振るっていた 5 。これは、武田家臣団の多くが甲斐源氏の支流や新興の国衆であった中で、三枝氏が特異な由緒を持つ名族であったことを示している。
しかし、その栄華は永くは続かなかった。平安時代末期の応保2年(1162年)、甲斐守・藤原忠重が、熊野本宮大社の荘園であった八代荘(現在の山梨県笛吹市八代町)へ軍兵を差し向けた際、在庁官人として軍務を担っていた三枝守政もこれに従った 5 。彼らは荘園の境界を示す標識を抜き取り、年貢を強奪するなどの乱暴狼藉を働いた。これに対し、熊野神社側は朝廷に提訴。裁判の結果、神社側が勝訴し、藤原忠重や中原清弘と共に三枝守政も処罰されることとなった 5 。この「八代荘停廃事件」は、三枝氏が甲斐国における中心的地位を失い、歴史の表舞台から一時姿を消す直接的な原因となった。この事件を境に、甲斐国では三枝氏に代わって甲斐源氏が勢力を伸長させ、後の武田氏の台頭へと繋がる歴史的な転換点となったのである 5 。
その後、三枝氏は長い雌伏の時を過ごす。鎌倉時代の史料に寄進者として名が見えるなど、家名自体は細々と保たれていたようだが、かつての勢いを取り戻すことはなかった 5 。そして戦国時代、武田信虎が甲斐国を統一した頃、三枝の宗家は断絶してしまったと見られている 5 。この名家の断絶を惜しんだ信虎は、三枝氏の支族であった石原守綱(いしわら もりつな)という人物に名跡を継がせることを命じた。この守綱こそが、三枝昌貞の祖父にあたる人物である 4 。
この一族の再興は、単なる名跡の継承以上の意味を持っていた。それは、武田氏という新たな主君の庇護のもとで、一族が再び歴史の表舞台に立つ機会を得たことを意味する。かつての名族としての誇りと、没落の記憶。そして、主君の恩顧によって再興を果たしたという経緯。これら全てが、昌貞の代における武田家への強い忠誠心と、一族の栄光を取り戻そうとする並外れた武功への渇望を育んだ土壌となったことは想像に難くない。彼の生涯は、まさにこの「再興の物語」を体現するものであった。
Mermaidによる関係図
再興された三枝家に生まれた昌貞は、父・虎吉と共に武田信玄に仕え、その類稀なる才能を若くして開花させる。彼のキャリアは、信玄直属の側近として始まり、やがて一軍を率いる将へと成長していくが、その道程は決して平坦なものではなかった。
昌貞は元服後、早くから信玄にその才覚を見出され、主君の側近くに仕えるエリート集団「奥近習衆(おくきんじゅうしゅう)」の一員に抜擢された 4 。奥近習衆は、単なる身辺警護の役目だけでなく、信玄の意を汲んで諸将に伝令する使番(つかいばん)や、時には機密性の高い任務もこなす、まさに信玄の手足となるべき集団であった。ここで昌貞は、後に知略で名を馳せる真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)や、同じく信玄の側近として重用された曽根昌世ら、錚々たる俊英たちと肩を並べ、切磋琢磨しながら信玄から直接の薫陶を受けた 4 。軍記物『甲陽軍鑑』には、信玄が彼ら側近を指して「わが両眼の如し」と評したという逸話が残されており、その期待の高さが窺える 12 。これは、信玄が若き才能を見出し、側近として手元に置いて直接育成し、将来の家臣団の中核を担う人材へと育て上げるという、彼独特の人材育成術の一端を示すものである。
順風満帆に見えた昌貞の経歴だが、試練も経験している。『寛永諸家系図伝』によれば、弘治年間(1555年~1558年)、昌貞は信玄の勘気を被り、一時的に蟄居(ちっきょ)を命じられたという 3 。その具体的な理由は定かではないが、この種の厳しい処遇は、信玄が家臣の忠誠心や器量を試すために用いた手法の一つとも考えられる。実際に、昌貞に関する文書には、信玄が直筆で叱責したとされるものや、加増を躊躇するような記述も見られ、彼らの関係が単なる主従という言葉だけでは片付けられない、より人間的な、時には愛憎の入り混じった複雑なものであったことを示唆している 5 。特に、永禄8年(1565年)に信玄の嫡男・義信が謀反の疑いで廃嫡された「義信事件」の後、昌貞が度々忠誠を誓う起請文を提出していることから、彼が義信に近い立場にあった可能性も指摘されており、信玄からの厳しい視線は、こうした政治的な背景も影響していたのかもしれない 5 。
数々の試練を乗り越えた昌貞は、その忠誠と能力を改めて証明し、信玄の信頼を勝ち取っていった。彼は奥近習の立場から、実戦部隊を率いる「足軽大将」へと昇進を果たす 3 。『甲陽軍鑑』によれば、昌貞が指揮したのは騎馬30騎、足軽70人からなる部隊であった 3 。これは、信玄の直轄部隊として、戦況に応じて迅速に投入される機動部隊であり、その指揮官に任命されたことは、昌貞の軍事的能力が高く評価されていたことの証左である。
昌貞の才能は、戦場での武勇だけに留まらなかった。永禄6年(1563年)、叔父の三枝守直(新十郎)が亡くなると、信玄は昌貞にその遺児の養育と後見を命じている 3 。これは、彼が三枝一族内において、信玄の代理人として采配を振るうことを公に認められたことを意味し、一族の中心人物としての地位を確立した出来事であった。さらに永禄12年(1569年)には、甲斐国塩後郷(現在の山梨県甲州市塩山)の代官に任じられている 3 。代官は、年貢の徴収や地域の統治を担う重要な役職であり、昌貞が武勇のみならず、統治や行政といった内政面でも優れた実務能力を持っていたことを物語っている。信玄の薫陶を受けた若きエリートは、こうして武田家の軍事と行政の両面を支える、不可欠な人材へと成長していったのである。
三枝昌貞の生涯を語る上で、武田四天王随一の猛将と謳われた山県昌景との関係は欠かすことができない。二人の間には、戦国時代の武家社会に見られた「寄親・寄子」という主従関係を超えた、極めて強固な絆が存在した。この結びつきは、昌貞個人の地位を飛躍的に高めると同時に、三枝一族の運命にも大きな影響を与えた。
戦国期の武田家臣団では、組織の結束力を高めるため、有力な譜代家老などが「寄親(よりおや)」となり、比較的小規模な国衆や武士を「寄子(よりこ)」として自身の指揮下に組み込む制度が広く用いられていた。寄子は寄親の指揮下で軍事行動を共にする一方、寄親は寄子の所領安堵や家中での地位向上を後援する、一種の相互扶助的な関係であった。この制度において、再興されたばかりの三枝氏は、家中で絶大な影響力を持つ山県昌景を寄親としていた 3 。これは、三枝氏が武田家臣団の中で確固たる地位を築く上で、極めて重要な意味を持つものであった。
昌景は、寄子である昌貞の非凡な才能を早くから見抜き、単なる主従として以上の期待を寄せていた。その証として、昌景は自身の娘を昌貞の正室として嫁がせたのである 3 。これにより、二人は血縁で結ばれた姻戚関係となり、その結びつきは一層強固なものとなった。
さらに昌景は、昌貞を猶子(ゆうし)として迎えた。猶子とは、家督相続を前提としないものの、実の子に準ずる者として親子同様の関係を結ぶことであり、昌景からの最大限の信頼と愛情の表現であった 3 。この関係に基づき、昌貞は「山県善右衛門尉」を名乗ることを許され、永禄11年(1568年)頃の文書では「山県勘解由左衛門尉」という署名が確認されている 3 。寄親の姓を名乗ることは、その一門として認められたことを意味し、昌貞の家中における地位と名誉を著しく高めるものであった。
昌景の昌貞への評価は、具体的な逸話にも色濃く残っている。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いにおいて、徳川軍を相手に奮戦する昌貞の姿を見た昌景は、感嘆のあまり「若獅子のようだ」と激賞したと伝えられている 7 。そして、その武勇を称え、自身の佩刀であった名刀「吉光」を授けたという 5 。武田軍最強の将からのこの賛辞と下賜品は、昌貞にとってこの上ない栄誉であり、二人の間に師弟のような、あるいは実の親子のような深い信頼関係が築かれていたことを物語っている。
山県昌景と三枝氏の関係は、昌貞個人に留まらなかった。昌貞の弟である昌次(まさつぐ)は、昌景の養子(家督相続を前提とした養子)となり、山県昌次を名乗っている 3 。これにより、三枝一族は当主の昌貞が娘婿・猶子、その弟が養子という形で、山県昌景の一門と二重三重に深く結びつくことになった。この強力な後ろ盾は、昌貞自身の活躍と相まって、再興から間もない三枝氏が武田家臣団の中で急速にその存在感を高めていく大きな原動力となった。この関係は、昌景にとっては有能な若手指揮官を自らの派閥に組み込むことで軍団を強化する利点があり、昌貞にとっては名門の威光と実利を得ることで出世の道を確実にするという、双方にとって戦略的な意味合いを持つものであった。そしてこの緊密な関係は、皮肉にも長篠の戦いにおいて、共に死地へ赴くという悲劇的な運命へと二人を導くことになる。
信玄の近習として、また山県昌景の猶子として、その才能を磨き上げた三枝昌貞は、武田氏の領土拡大戦争の最前線でその実力を遺憾なく発揮する。特に、永禄11年(1568年)から始まる駿河侵攻と、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いは、彼の武名を不動のものとした重要な戦歴である。
永禄11年(1568年)、武田信玄は長年の同盟国であった今川氏との関係を破棄し、駿河国への大規模な侵攻を開始した(駿河侵攻) 18 。今川義元の死後、弱体化していた今川領国は武田軍の猛攻の前に次々と拠点を失っていく。しかし、全ての拠点が容易に降ったわけではなかった。
永禄13年(元亀元年、1570年)正月、武田軍は今川氏の旧臣・大原資良(おはら すけよし)が籠城する花沢城(現在の静岡県焼津市)に攻めかかった 18 。花沢城は高草山の支峰に築かれた天然の要害であり、城兵は熱湯や大石を落として激しく抵抗、武田軍は多大な損害を出して攻めあぐねた 20 。戦いは長期化し、信玄自らが出馬するほどの難戦となった 18 。
この膠着した戦況を打破するきっかけを作ったのが、三枝昌貞であった。彼はこの花沢城攻めにおいて、全軍の先駆けとなって敵陣に突入する「一番槍」の武功を立てたのである 4 。一番槍は、個人の武勇を示す最高の名誉であり、一歩間違えば命を落とす危険極まりない役割であった。この昌貞の勇猛果敢な突撃が突破口となり、武田軍はついに花沢城を陥落させることに成功した。この功績により、昌貞は信玄から直々に感状(感謝と賞賛の意を示す公式な書状)を授与されたと伝えられている 5 。この一件によって、三枝昌貞の名は、単なる信玄の側近ではなく、武田軍を代表する若き猛将として、家中に広く知れ渡ることとなった。
元亀3年(1572年)、信玄は生涯最後の大規模な軍事行動となる西上作戦を開始する。その過程で、徳川家康の居城・浜松城を敢えて素通りすることで家康を挑発し、遠江国の三方ヶ原台地へと誘き出すことに成功した 22 。世に言う「三方ヶ原の戦い」である。
この戦いにおいて、武田軍は徳川軍を一方的に蹂躙し、家康生涯最大の敗北と言われるほどの圧勝を収めた。この戦場で、昌貞もまた目覚ましい活躍を見せた。彼の部隊は勇猛に徳川軍に襲いかかり、その戦いぶりは寄親である山県昌景を深く感嘆させた。前述の通り、昌景はこの時の昌貞の姿を「若獅子のようだ」と絶賛し、その武功を称えて名刀「吉光」を授けたとされる 7 。
花沢城での一番槍が、昌貞の「勇猛さ」と「度胸」を証明した功績であるとすれば、三方ヶ原での活躍と、あの山県昌景からの最大級の賛辞は、彼が単なる猪武者ではなく、大軍団同士が激突する大規模な会戦においても冷静に部隊を指揮し、確実に戦果を挙げることができる、信頼性の高い指揮官へと成長したことを示すものであった。信玄の近習としてキャリアをスタートさせた若者は、数々の実戦経験を経て、名実ともに関東最強と謳われた武田軍の中核を担う、欠くことのできない将へと飛躍を遂げたのである。
数々の武功を重ね、武田家臣団の中核を担う存在となった三枝昌貞。しかし、彼の武運は、主君・信玄の死からわずか二年後、日本の合戦史を塗り替えたとされる長篠の戦いで、あまりにも突然に尽きることとなる。彼の死は、設楽原で繰り広げられた本戦の序章であり、武田家滅亡への転換点となる悲劇の幕開けであった。
天正3年(1575年)5月、武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて徳川方の長篠城を包囲した 10 。これに対し、織田信長は3万、徳川家康は8千の連合軍を率いて長篠城の救援に向かい、設楽原に鉄壁の防御陣地を構築する 24 。武田軍は、設楽原の連合軍本隊と対峙しつつ、長篠城への牽制と監視を続ける必要があった。そのために、長篠城の南方に位置し、城内を一望できる戦略的要衝・鳶ヶ巣山(とびがすやま)に別働隊を配置した 25 。
この重要な別働隊の総指揮官は、信玄の異母弟であり、勝頼の叔父にあたる河窪信実(かわくぼ のぶざね、武田信実とも)であった 4 。部隊は、鳶ヶ巣山を中心に築かれた5つの砦(鳶ヶ巣山砦、君ヶ臥床砦、姥ヶ懐砦、中山砦、久間山砦)に分かれて駐留していた 10 。三枝昌貞は、この別働隊に配属され、5つの砦の一つである「姥ヶ懐(うばがふところ)砦」の守備を任された。彼のもとには、実の弟である三枝源左衛門守義(もriyoshi)、三枝甚太郎守光(morimitsu)も配属されており、兄弟でこの死地を守ることとなった 3 。
設楽原で両軍が睨み合う中、戦局を大きく動かす作戦が、徳川方から進言された。徳川の重臣・酒井忠次は、連合軍本隊から兵を分け、武田軍の背後を大きく迂回して鳶ヶ巣山砦を奇襲することを織田信長に提案する 26 。信長はこの策を密かに採用し、5月20日深夜、酒井忠次は約4,000の兵(鉄砲隊を含む)を率いて密かに出陣した 10 。この奇襲作戦の成否は、長篠の戦い全体の帰趨を決定づける、極めて重要な鍵を握っていた。
5月21日の払暁、夜陰と雨に紛れて武田軍の背後に回り込んだ酒井隊は、一斉に鳶ヶ巣山砦群に襲いかかった 10 。完全に意表を突かれた武田の守備隊は狼狽する。昌貞らが守る姥ヶ懐砦は、高所からの攻撃と、自軍を遥かに上回る兵力差という、絶望的な状況に陥った 5 。それでも三枝兄弟とその配下の兵たちは果敢に防戦したが、衆寡敵せず、戦況は一方的に悪化していく。さらに、隣の君ヶ伏床砦を陥落させた松平清宗らの部隊が増援として加わるに及び、ついに砦は突破された 3 。奮戦の末、三枝昌貞は弟の守義、守光と共にこの地で討死。享年39(満38歳)であった 3 。
この酒井忠次の奇襲により、河窪信実をはじめとする将兵の多くが討たれ、鳶ヶ巣山の5つの砦はことごとく陥落した 10 。これにより、武田軍は長篠城の包囲網を維持できなくなったばかりか、背後を敵に脅かされるという最悪の事態に陥った。退路を断たれることを恐れた勝頼は、設楽原の堅固な陣城に対する無謀な正面攻撃を決断せざるを得なくなり、これが武田軍の壊滅的な敗北へと繋がった。昌貞の死は、武田軍全体を襲う大悲劇の、最初の犠牲の一つとなったのである。現在、愛知県新城市乗本の旧姥ヶ懐砦跡地には、この地で散った昌貞ら三兄弟の魂を弔う「三枝兄弟の墓碑」が静かに佇んでいる 3 。
砦の名称 |
主な守将 |
結果(酒井忠次隊の奇襲による) |
鳶ヶ巣山砦(主砦) |
河窪信実(総大将)、小宮山信近 |
陥落。河窪信実ら主だった将が戦死 27 。 |
姥ヶ懐砦 |
三枝昌貞 、三枝守義、三枝守光 |
陥落。三枝兄弟3名が全員戦死 3 。 |
君ヶ臥床砦 |
和田兵部 |
陥落。守備隊は壊滅 3 。 |
中山砦 |
名和無理之助、五味与惣兵衛 |
陥落。守将は戦死 10 。 |
久間山砦 |
浪合民部 |
陥落。守将は戦死 10 。 |
長篠の戦いは、武田家の命運を決定づけただけでなく、三枝一族にとってもその存亡を揺るがす未曾有の悲劇であった。しかし、一族は絶望的な状況から立ち直り、新たな時代を生き抜いていく。その背景には、昌貞が生前に築き上げた武名と功績が、無形の遺産として大きな役割を果たしたと考えられる。
天正3年5月21日は、三枝一族にとって悪夢のような一日となった。まず、早朝の鳶ヶ巣山砦への奇襲で、当主である昌貞、そして弟の守義、守光の三兄弟が相次いで戦死した 3 。さらに、同日午後に行われた設楽原での本戦において、山県昌景の養子となっていたもう一人の弟・山県昌次も、寄親である昌景と共に壮絶な討死を遂げた 5 。父・虎吉の子息五人のうち、実に四人までが一日のうちに命を落とすという、壊滅的な人的損害を被ったのである。
一族の柱となるべき兄弟たちが次々と斃れる中、唯一生き残ったのが四男の三枝昌吉(まさよし)であった 3 。当主・昌貞の嫡男であった守吉は、この時まだ幼少であったため、叔父にあたる昌吉が陣代(じんだい、名代)として家督を代行し、混乱する一族を懸命に取りまとめた 3 。この時点で父の虎吉もまだ存命であり、昌吉と共に一族の再建に尽力した 3 。
天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡する。主家を失った三枝一族であったが、父・虎吉と弟・昌吉は、甲斐国を新たに支配した徳川家康に帰属した 3 。家康は武田家の旧臣を積極的に登用する政策を採っており、三枝氏もその対象となった。特に昌吉は、第一次上田合戦、小田原征伐、関ヶ原の戦い、大坂の陣といった徳川家の主要な合戦に従軍し、武功を重ねた 5 。その結果、三枝氏は江戸幕府の旗本として確固たる地位を築き、家名を後世に伝えることに成功した。また、昌貞の嫡男・守吉も成長後に分家を興し、その子孫は近江国(現在の滋賀県)に移って同じく旗本となっている 3 。
三枝昌貞は、信玄・勝頼の二代にわたって忠誠を尽くした勇将であり、特に武田家屈指の重臣・山県昌景から「若獅子」とまで評された、家臣団の中核を担うべき逸材であった。彼の生涯は長篠で悲劇的に幕を閉じたが、その存在が忘れ去られることはなかった。花沢城での一番槍や三方ヶ原での奮戦といった彼の輝かしい武功は、敵方であった徳川家康の記憶にも強く刻まれていた可能性が高い 5 。
武田氏滅亡後、三枝一族が徳川家から厚遇され、旗本として存続できた背景には、生き残った昌吉の尽力はもちろんのこと、昌貞が生前に築き上げた武名と、長篠での壮絶な死がもたらした「忠臣」としての評価が、無形の資産として機能したことは想像に難くない。彼は自らの命と引き換えに、一族が新たな時代を生き抜くための礎を築いたのである。その意味で、三枝昌貞は単なる悲劇の武将ではなく、その死をもって一族の未来を切り開いた、武田家臣団を代表する名将の一人として、歴史にその名を刻んでいる。