本報告書は、戦国時代の出雲国(現在の島根県東部)にその勢力を張った有力国人領主、三沢為清(みさわ ためきyo)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に追跡し、その歴史的意義を分析するものである。彼の生きた16世紀中葉は、中国地方の覇権が守護大名たる尼子氏から、西国の雄・大内氏へ、そして安芸の一国人から台頭した毛利氏へと、目まぐるしく移り変わる激動の時代であった。
三沢為清は、この三大勢力の狭間で、ある時は恭順し、ある時は離反し、またある時は忠誠を貫くという絶妙な政治的判断を繰り返しながら、自らの一族と所領を守り抜いた。彼の生涯は、単なる一地方武将の興亡史に留まらない。それは、戦国時代という過酷な環境下に置かれた「国人」と呼ばれる在地領主層が、いかにして自らの存続を図ったかという、普遍的な生存戦略の縮図である。為清の決断の一つ一つは、当時の中国地方全体のパワーバランスの変動を敏感に映し出す鏡であり、彼の生涯を丹念に追うことは、尼子氏の衰退、大内氏の限界、そして毛利氏の台頭という、より大きな歴史のうねりをミクロの視点から具体的に理解する上で、極めて重要な意味を持つ。
本報告書では、為清個人の動向のみならず、その一族の出自、経済的基盤、そして彼の子孫がたどった数奇な運命にまで光を当てる。父の戦死という悲劇から始まった彼の当主としての道程、二大勢力の間で揺れ動いた苦渋の選択、そして最終的に毛利氏の家臣として生き残る決断が、後世にどのような影響を及ぼしたのか。その軌跡を解明することで、戦国乱世を生き抜いた一人の国人領主の実像と、その歴史的評価を明らかにすることを目的とする。
西暦(和暦) |
三沢為清の動向 |
三沢一族の動向 |
関連勢力の動向 |
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1536年(天文5年) |
出雲国仁多郡三沢にて誕生。幼名は才童子丸 1 。 |
父は三沢為幸。 |
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1540年(天文9年) |
家督相続 。 |
父・為幸が「吉田郡山城の戦い」における青山土取場の合戦で毛利軍に討たれる 1 。 |
尼子晴久、毛利元就の吉田郡山城を攻めるも大敗を喫する(吉田郡山城の戦い) 3 。 |
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1541年(天文10年) |
尼子氏の敗戦を受け、大内義隆に属する 1 。 |
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尼子氏の勢力が後退し、多くの国人が大内氏に靡く 3 。 |
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1542年(天文11年) |
大内義隆の出雲侵攻(第一次月山富田城の戦い)に大内方として従軍 1 。 |
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大内義隆、毛利元就らを率いて尼子氏の本拠・月山富田城へ侵攻 6 。 |
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1543年(天文12年) |
4月、大内軍の敗色が濃厚になると、吉川興経らと共に 尼子方へ帰参 。月山富田城に入城する 1 。 |
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大内軍、国人衆の離反と兵站の困難により月山富田城から敗走。養嗣子・大内晴持が事故死 7 。 |
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時期不詳 |
尼子晴久の娘を正室に迎える(政略結婚) 10 。 |
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尼子晴久、一度離反した有力国人を婚姻政策で懐柔し、支配を固める 12 。 |
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1562年(永禄5年) |
6月、毛利元就の出雲侵攻に際し、 毛利氏に降伏 。本領および横田荘を安堵される 1 。11月、本城常光が毛利氏に謀殺され多くの国人が離反する中、 |
毛利方に留まる 1 。 |
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毛利元就、石見を平定し出雲へ侵攻開始 5 。有力国人・本城常光を謀殺 14 。 |
1566年(永禄9年) |
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毛利氏、月山富田城を攻略し尼子氏が滅亡。 |
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1568年(永禄11年) |
毛利氏の北九州出兵に従軍 1 。 |
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尼子再興軍(尼子勝久・山中幸盛ら)が挙兵し、出雲に侵攻 15 。 |
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1569年(永禄12年) |
8月、帰国し、尼子再興軍に包囲された月山富田城の救援に従軍 1 。 |
嫡男・為虎も父と共に尼子再興軍と戦う 15 。 |
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1570年(永禄13年) |
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父子で布部山の戦いに参陣し、尼子再興軍の撃破に貢献 11 。 |
毛利軍、布部山の戦いで尼子再興軍に大勝。 |
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1574年(天正2年) |
隠居 。家督を嫡男・為虎に譲り、亀嵩城に移る 1 。 |
嫡男・ 三沢為虎が家督を相続 。 |
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1578年(天正6年) |
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為虎、上月城の戦いに従軍し、尼子氏の最期を見届ける 15 。 |
織田軍に攻められた上月城が落城し、尼子勝久が自害。尼子再興運動が終焉。 |
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1588年(天正16年) |
53歳で死去 1 。 |
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毛利輝元、同僚国人の三刀屋久祐を追放 17 。 |
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1589年(天正17年) |
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為虎、毛利輝元により 三沢の所領を没収 され、長門国厚狭郡へ移封(1万石) 19 。 |
毛利輝元、豊臣政権下で領内の国人領主の解体・再編を推進 15 。 |
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1600年(慶長5年) |
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関ヶ原の戦後、為虎は長府藩主・毛利秀元の 家老 となり2700石を知行 15 。 |
関ヶ原の戦いで西軍が敗北。毛利氏は防長2ヶ国に減封される。 |
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17世紀初頭 |
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為虎の子・為基が長府藩を出奔し、 仙台藩伊達家に仕官 21 。 |
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17世紀中葉 |
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為基の子・清長の娘、 三沢初子 が仙台藩主・伊達綱宗の側室となり、後の藩主・伊達綱村らを産む 21 。 |
三沢氏の血筋が伊達家に繋がる。 |
三沢為清の行動原理を理解するためには、彼が背負っていた一族の歴史と、その勢力の源泉をまず把握する必要がある。三沢氏は、鎌倉時代から出雲国仁多郡に根を張る旧来の国人領主であり、その出自と本拠地には、戦国を生き抜くための力が秘められていた。
三沢氏の出自については、二つの異なる伝承が残されている。これは、戦国時代の武家が自らの権威と正統性をいかに構築しようとしたかを示す興味深い事例である 20 。
第一の説は、源平合戦の悲劇的英雄として名高い木曾義仲の孫、木曾為仲を始祖とするものである 10 。この伝承によれば、義仲の討死後、その遺児が信濃国に落ち延び、その子孫が三沢氏の祖となったとされる 10 。木曾義仲という全国的な知名度を持つ武将に連なる系譜は、武門としての名誉と権威を高める上で大きな意味を持っていたと考えられる。戦国武家にとって、輝かしい祖先を持つことは、単なる家柄の誇り以上に、他の国人領主や支配者に対して自らの存在を誇示するための重要な「ブランド」戦略であった。
しかしながら、より具体的で信憑性の高いものとして、第二の説が存在する。それは、清和源氏片切氏の流れを汲む、信濃国(現在の長野県)の国人・飯島氏を祖とする説である 20 。この説によれば、承久3年(1221年)に起こった承久の乱において、信濃国飯島城主であった飯島為光が幕府方として戦功を挙げた 20 。その恩賞として、出雲国三沢郷の新たな地頭職に補任され、この地に移り住んだのが三沢氏の始まりとされる 19 。この飯島氏説は、後に三沢氏の子孫が長府藩に仕えた際に提出した公式な史料にも記されており 21 、一族が自らの公式なルーツとして認識していたことを示している。
この二つの伝承の併存は、三沢氏が自らのアイデンティティを、木曾義仲という「物語的な英雄性」と、承久の乱の功績と地頭職補任という「歴史的な正統性」の両面から構築しようとしていたことを示唆している。それは、武門としての箔付けと、在地領主としての権利の源泉を共に主張するための、巧みなアイデンティティ戦略であったと言えよう。
なお、一族の家紋としては「丸に三つ引」や「抱き柏」が伝わっており、これらもまた一族の長い歴史を物語る象徴となっている 26 。
三沢氏の力を支えたのは、その出自の権威だけではない。彼らの本拠地である三沢城と、その周辺地域がもたらす経済力が、独立性を保つための物理的な基盤となっていた。
三沢城は、嘉元3年(1305年)、飯島氏から改姓した三沢為仲によって、出雲国仁多郡の要害山(別名:鴨倉山)に築かれたと伝わる山城である 25 。標高419mという比較的低い山ながら、その山容は周囲から際立っており、仁多郡全域を一望できる戦略的要衝に位置していた 25 。城の西側と南側は阿井川が天然の堀をなし、急峻な崖が防御を固める天然の要害であった 25 。
城の縄張り(設計)は、山全体を要塞化したもので、山頂の本丸を中心に、各尾根筋に複数の曲輪(平坦地)が設けられ、それらを堀切(尾根を断ち切る堀)や土塁で巧みに連結・防御していた 28 。大手門跡には巨大な石を組んだ石垣が現存しており、その堅固な普請を今に伝えている 30 。この優れた防御構造を持つ三沢城は、中世山城の代表的な遺構として高く評価され、島根県の史跡に指定されている 25 。
この軍事拠点としての価値から、三沢城は戦国大名・尼子氏の支配下において、本拠・月山富田城を防衛する支城網「尼子十旗」の一つに数えられた 30 。『雲陽軍実記』などの軍記物によれば、三沢氏は尼子十旗の中でも「第二の城」とされ、松田氏の白鹿城に次ぐ重要な地位を占めていたと記されている 1 。
しかし、三沢氏の影響力の源泉は、単なる軍事力に留まらなかった。彼らの本拠地である奥出雲地方は、古来より良質な砂鉄の産地として知られており、三沢氏はこの地で「野タタラ」と呼ばれる製鉄業を営むことで、莫大な富と経済力を蓄えていた 29 。鉄は、武器や農具の生産に不可欠な戦略物資であり、その生産を掌握することは、戦国時代において絶大な力を意味した。三沢氏が尼子氏や毛利氏といった大勢力と渡り合い、時には独立した行動をとることができた背景には、この堅固な「三沢城」という軍事力と、鉄生産がもたらす強大な「経済力」という二本柱が存在したのである。この経済基盤こそが、彼らの巧みな外交戦略を裏打ちする力の源泉であった。
16世紀中葉、中国地方の勢力図が大きく塗り替わる中で、三沢為清は若くして一族の命運を背負うこととなる。父の死、主家の敗北、そして二大勢力の狭間で下される決断は、彼のその後の人生を決定づける試練の連続であった。
三沢為清の当主としてのキャリアは、輝かしい勝利ではなく、主家の敗北と父の戦死という最悪の状況から始まった。天文9年(1540年)、当時中国地方の最大勢力であった出雲の尼子晴久は、約3万の大軍を率いて安芸の国人・毛利元就の居城である吉田郡山城へと侵攻した 2 。為清の父、三沢為幸も尼子軍の主要な武将としてこの戦いに参陣していた 1 。
しかし、毛利元就は巧みな籠城戦とゲリラ戦術で尼子の大軍を翻弄する。同年10月11日、戦局を打開しようとした尼子誠久の部隊が吉田郡山城に攻めかかった際、元就は伏兵を用いた奇襲作戦を実行した。この「青山土取場の戦い」と呼ばれる戦闘で、尼子軍は壊滅的な打撃を受け敗走し、三沢為幸は奮戦の末、他の約500人の将兵と共に討死を遂げた 1 。
この知らせは、三沢氏にとって計り知れない衝撃であった。父の死により、当時まだ5歳、幼名を才童子丸と称していた為清が、混乱の渦中で家督を継承することになったのである 1 。主家の敗戦という逆風の中、幼くして一族の存亡をその双肩に担うことになったこの経験は、彼のその後の現実主義的で慎重な判断形成に、決定的な影響を与えたと考えられる。理想や忠義だけでは生き残れないという戦国の非情さを、彼はキャリアの黎明期に骨身に沁みて学んだのであった。
吉田郡山城の戦いでの敗北は、尼子氏の権威を大きく揺るがした。安芸・備後地方の国人領主たちは次々と尼子氏から離反し、西国の雄・大内義隆になびいていった 3 。この時代の潮流の中で、若き当主・三沢為清もまた、一族の存続のために苦渋の決断を迫られる。彼は他の多くの国人と同様に、勢いを増す大内義隆に従属した 1 。
そして天文11年(1542年)、大内義隆は尼子氏を完全に滅ぼすべく、毛利元就らを率いて出雲への大遠征を開始する。これが「第一次月山富田城の戦い」である 5 。為清はこの戦いに、大内方の一員として従軍した 1 。しかし、尼子氏の本拠・月山富田城は、天然の要害に守られた天下の堅城であった。大内軍は数に勝りながらも攻めあぐね、戦いは長期化し、兵站は伸びきり、将兵の士気は著しく低下していった 7 。
この戦況を、為清は冷静に見極めていた。そして天文12年(1543年)4月、彼は突如として行動を起こす。大内方の敗色が濃厚になったと判断するや、同じく戦況を読んでいた吉川興経、三刀屋久祐、本城常光といった出雲・安芸の国人たちと共に、一斉に大内方を離反。再び尼子方に帰順し、籠城する月山富田城へと入城したのである 1 。
この国人衆の集団離反は、大内軍にとって致命傷となった。背後を突かれることを恐れた大内義隆は全軍撤退を命じるが、その過程で大混乱に陥り、多くの将兵を失う大敗北を喫した 7 。為清のこの行動は、一見すると単なる「裏切り」に見える。しかし、それは自らの領地と一族の保全を最優先事項とする国人領主にとって、戦況を冷静に分析し、リスクを計算した上での極めて合理的な生存戦略であった。この決断は、主家への忠誠よりも自家の存続を優先する、戦国国人領主の典型的な行動様式を示すものであり、為清の政治的リアリズムを如実に物語っている。
第一次月山富田城の戦いで大内軍を撃退し、危機を脱した尼子晴久は、一度は自らを見限った出雲の国人衆を再び統制下に置く必要に迫られた。特に、その離反が大内軍敗走の決定打の一つとなった三沢氏のような有力国人を、いかにして繋ぎとめるかは喫緊の課題であった。
そこで晴久が用いたのが、戦国時代の常套手段である婚姻政策であった 12 。晴久は、為清の力を評価し、かつその動向を制御下に置くため、自らの娘を為清の正室として嫁がせたのである 10 。
この政略結婚は、双方にとって重要な意味を持っていた。尼子晴久にとっては、有力国人である三沢氏を姻戚関係という強固な絆で縛り、その軍事力と経済力を自らの支配体制に組み込むための懐柔策であった。一方、三沢為清にとっても、主君・尼子氏の娘婿となることは、一度離反したにもかかわらず、その罪を許され、尼子家中における自らの地位を安定させる絶好の機会であった。これにより、彼は他の国人衆に対する優位性を確保し、一族の安泰を図ることができた。
この婚姻は、短期的な政治的安定をもたらす「鎖」であると同時に、将来にわたる一族の安全を保障する「保険」でもあった。そして、この時に結ばれた血の繋がりが、100年以上の時を経て、三沢氏の血脈を奥州の雄・仙台伊達家、さらには四国の宇和島伊達家へと繋ぐという、当時は誰も予想し得なかった壮大な未来への伏線となるのである 23 。為清の現実的な政治判断が、結果として一族の運命を劇的に変える、遠大な布石となった瞬間であった。
尼子氏が一時的に勢力を回復したのも束の間、中国地方の勢力図は再び大きく動く。大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれ(大寧寺の変)、その陶晴賢を毛利元就が厳島の戦いで破ると、中国地方の覇権は急速に毛利氏へと傾いていった。そしてついに、毛利の矛先は尼子の本拠地、出雲に向けられる。この歴史の転換点において、三沢為清は再び一族の存亡を賭けた重大な決断を下すことになる。
永禄5年(1562年)、毛利元就は石見銀山を掌握し、石見国を完全に平定すると、満を持して出雲国への本格的な侵攻を開始した 1 。毛利軍が国境を越え、出雲南部の赤穴に進駐すると、出雲の国人衆は震撼した。
この時、三沢為清の政治的嗅覚が再び冴えわたる。彼は、もはや尼子氏に往時の勢いはなく、毛利氏の圧倒的な力の前に抵抗することは無益であると即座に判断した。そして、同じく戦況を冷静に見ていた三刀屋久祐、赤穴盛清といった有力国人たちと共に、いち早く毛利氏への降伏を決断したのである 13 。
この早期の降伏は、極めて戦略的な一手であった。抵抗して滅ぼされるリスクを回避するだけでなく、戦いが本格化する前に恭順の意を示すことで、より有利な条件を引き出す狙いがあった。毛利元就もまた、出雲攻略を円滑に進めるために、有力国人の懐柔を重視していた。その結果、為清の降伏は受け入れられ、彼の先祖代々の本領である三沢の地はもちろんのこと、かつて尼子氏に没収されていた横田荘の所領までもが安堵されるという、破格の条件が提示された 1 。これは、為清の決断が単なる無条件降伏ではなく、自家の利益を最大限に確保した上での、巧みな政治交渉の産物であったことを示している。為清のこの行動は、尼子氏の没落と毛利氏の台頭という、もはや抗うことのできない時代の大きな流れを正確に読み切った、優れた国人領主としての判断であった。
毛利氏への帰順を果たした三沢為清であったが、その忠誠心はすぐに厳しい試練に晒されることとなる。同年11月、毛利元就は、その武勇と度重なる寝返りの経歴から将来を危険視していた石見の国人・本城常光を、出雲の陣中において謀殺するという挙に出た 1 。常光は毛利の石見平定に大きく貢献した人物であり、その彼をだまし討ちにしたこの事件は、毛利に降ったばかりの出雲の国人衆に大きな衝撃と動揺を与えた。
「明日は我が身か」という恐怖と毛利氏への不信感が広がり、松田誠保をはじめとする多くの国人たちが、再び尼子方へと離反する事態となった 14 。出雲国内は、毛利方と尼子方が入り乱れる混乱状態に陥った。
この状況で、三沢為清は生涯における最大の賭けともいえる決断を下す。彼は、周囲の動揺や同調圧力に流されることなく、一貫して毛利方に留まり続けることを選択したのである 1 。これは極めて高度な政治的計算に基づいていた。第一に、彼はもはや尼子氏に逆転の可能性はないと完全に見切っていた。第二に、そしてより重要な点として、他の国人たちが離反するこの機にこそ毛利への忠誠を貫くことで、自らの価値を最大限に高めることができると考えた。多くの者が毛利を裏切る中で「動かざる」ことは、毛利氏に対して「三沢為清こそが信頼に足る人物である」という強烈な印象を与える絶好の機会であった。
この「不動」の選択は、他の国人から孤立するリスクを伴う危険な賭けであったが、結果的に大成功を収める。為清は目先の恐怖に屈せず、長期的な視点で自らの立場を有利にすることを優先した。この一件を通じて、彼は毛利家中で他の出雲国人衆とは一線を画す、確固たる信頼と地位を築き上げることに成功したのである。
毛利家臣団の中での信頼を勝ち取った三沢為清は、単に所領を安堵されただけの存在ではなかった。彼は毛利軍の重要な一翼として、新たな主君のために各地を転戦し、その忠誠を軍功という形で証明していく。
永禄11年(1568年)、毛利氏が北九州の大友氏と戦うために主力を派遣すると、為清もこれに従軍した 1 。しかし、毛利の主力が九州に釘付けになっている隙を突き、山中幸盛らに擁立された尼子勝久が「尼子再興軍」を率いて隠岐から出雲に上陸、瞬く間に勢力を拡大した 15 。この報を受け、為清は急ぎ出雲へ帰国。翌永禄12年(1569年)には、尼子再興軍に包囲された月山富田城の救援戦に参加し、旧主の残党と刃を交えることとなった 1 。
さらに永禄13年(1570年)、尼子再興軍との決戦となった「布部山の戦い」においても、為清は嫡男の為虎と共に毛利軍として参陣。この戦いで毛利軍は大勝し、尼子再興軍に壊滅的な打撃を与えたが、三沢父子もその勝利に大きく貢献した 11 。
これらの戦いは、為清にとって精神的に複雑なものであったに違いない。かつて仕えた尼子の一族と戦うことは、戦国の習いとはいえ、断腸の思いがあったかもしれない。しかし、それは同時に、新たな主君である毛利氏に対して、自らの武勇と忠誠を具体的に示す絶好の機会でもあった。彼は言葉や誓紙だけでなく、戦場での「軍功」という最も分かりやすい形で自らの価値を証明し、毛利家臣団の中に確固たる居場所を築いていったのである。その功績により、出雲・隠岐・伯耆の内に合計2400貫もの給地を宛がわれるなど、毛利家から高い評価を受けていたことが窺える 11 。
毛利氏の家臣として確固たる地位を築いた三沢為清は、戦国の世が織田・豊臣によって統一へと向かう新たな時代を迎える。彼自身は穏やかな晩年を送るが、その一族は時代の大きな変革の波に乗り、国人領主から近世大名の家臣へ、そして更なる運命の転変を遂げていく。
尼子氏が完全に滅亡し、毛利氏の中国地方支配が盤石になると、出雲にも比較的平穏な時期が訪れた。長年にわたる激動の時代を乗り越えてきた三沢為清も、ようやく安息の時を迎える。
天正2年(1574年)、為清は家督を嫡男の為虎に譲り、第一線から退くことを決意した 1 。彼は新たに仁多郡亀嵩(かめだけ)の地に亀嵩城を築き、そこを隠居所とした 1 。そして、天下統一が目前に迫った天正16年(1588年)、為清はその波乱に満ちた生涯を53歳で閉じた 1 。
戦場で命を落とした父・為幸とは対照的に、為清は家督を無事に息子へと継承させ、畳の上で天寿を全うすることができた。これは、彼の生涯を通じて貫かれた、冷静な状況分析と大胆かつ現実的な決断の数々が、最終的に一族の安泰と自身の平穏な晩年という形で結実したことを示している。彼の死は、激動の時代を生き抜いた国人領主の、一つの成功物語の結末であったと言えよう。
父・為清から家督を継いだ三沢為虎は、毛利氏の忠実な家臣としてそのキャリアを歩み始めた。天正6年(1578年)の尼子再興軍最後の拠点であった上月城の戦いや、天正10年(1582年)の羽柴秀吉との備中高松城の戦いにも従軍し、武将としての経験を積んでいった 15 。
しかし、豊臣秀吉による天下統一が成り、毛利氏がその支配体制下に組み込まれると、領国内の統治構造も大きく変化する。毛利輝元は、中央集権的な支配体制を確立するため、領内に割拠する国人領主たちの在地性を解体し、直接的な家臣団へと再編成する政策を強力に推し進めた。三沢氏と同じく尼子十旗に数えられた三刀屋久祐は、徳川家康と面会したことを咎められて追放されるなど 17 、国人衆への風当たりは厳しくなっていった。
三沢為虎もその例外ではなかった。天正17年(1589年)、輝元は為虎を安芸国へ呼び出すと、そのまま彼を幽閉し、先祖代々の所領である出雲国三沢の地を没収したのである 19 。これは、三沢氏が独立した領主として存在した歴史の終焉を意味した。
しかし、為虎は父譲りの才覚を持っていた。その有能さと、毛利一門である宍戸元続の娘を妻としていた縁もあって、彼は処刑されることなく、長門国厚狭郡に1万石の所領を与えられて移封された 20 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長二カ国に大減封されると、輝元の従弟・毛利秀元を藩主とする長府藩が新たに立藩される。この時、為虎はその家老に抜擢され、2700石を知行する上級家臣となった 15 。
為虎の生涯は、戦国時代の独立領主(国人)が、その在地性を奪われ、近世大名の家臣団に組み込まれていく過程を象徴している。先祖代々の土地を失うという屈辱を味わいながらも、彼は自らの能力を武器に、新たな支配体制の中で「家老」という高い地位を確保した。これは、三沢氏が「在地領主」から、主君から俸禄(給与)を得て仕える「俸禄武士」へと完全に変質した瞬間であり、戦国時代の終焉と近世の始まりを告げる画期的な出来事であった。
三沢氏の物語は、長府藩家老職で終わらなかった。為清の決断がもたらした血脈は、さらに数奇な運命をたどることになる。
為虎の子である三沢為基は、何らかの理由で長府藩を出奔し、遠く離れた奥州の地で、仙台藩主・伊達家に仕官するという道を選んだ 21 。そして、この為基の子・清長の代に、一族の運命を再び大きく変える出来事が起こる。清長の娘である初子(三沢初子)が、その美貌と才気を見出され、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の正室・振姫(徳川秀忠養女)付きの侍女として伊達家に入ったのである 40 。
やがて初子は3代藩主・伊達綱宗の目にとまり、その側室となった。そして彼女は、後の4代藩主となる伊達綱村、さらには分家である伊予宇和島藩の5代藩主となる伊達宗贇(むねよし)らを産んだのである 21 。
ここに、三沢為清が尼子氏との間で結んだ政略結婚が、100年以上の時を超えて驚くべき形で結実する。為清が自らの生き残りのために娶った尼子晴久の娘の血が、為虎、為基、清長へと受け継がれ、その末裔である初子を通じて、奥州の雄・伊達家、さらには四国の伊達家の藩主の血統へと繋がったのである。これは、為清の生涯にわたる決断がもたらした、最も遠大で、かつ予期せぬ成果であった。後に伊達騒動を題材とした歌舞伎の名作『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』に登場する忠義の乳母・政岡のモデルの一人とされる三沢初子の逸話は 40 、この一族がたどった数奇な運命を象徴している。
三沢為清は、領土を飛躍的に拡大した英雄でも、天下にその名を轟かせた名将でもない。彼の生涯は、むしろ絶え間ない危機への対応の連続であった。父の急死による突然の家督相続、主家の敗北に伴う所属勢力の変更、二大勢力の狭間での離反と帰参、そして同盟者の謀殺を目の当たりにしながらの忠誠の維持。これらの数々の試練を、彼は冷静な状況分析、大胆な決断力、そして国人領主としてのリアリズムに徹した巧みな政治手腕によって乗り越えていった。
彼の最大の功績は、武力による征服や華々しい軍功ではなく、激動の時代において自らの一族を「存続」させたこと、その一点に尽きる。彼のプラグマティックな選択の連続は、目先の危機を回避するだけでなく、結果として三沢氏の血脈を近世大名の家臣として、さらには他藩の藩主の血統として未来永劫に繋いでいくという、壮大な道を開いた。
三沢為清の生涯は、忠義や名誉といった理想論だけでは生き残れない戦国乱世において、国人領主がいかにして自らの存在を維持し、次代へとバトンを渡していったかを示す、最も優れた成功例の一つとして高く評価されるべきである。彼は、時代の変化を読み、リスクを計算し、時に非情な決断を下すことで、自らの手で一族の運命を切り拓いた、真の「生存戦略家」であったと言えよう。