ウィリアム・アダムス、日本名を三浦按針。彼の名は、日本の歴史、特に徳川幕府初期の対外政策を語る上で、特異かつ極めて重要な位置を占める。1600年、一隻のオランダ船の航海士として日本の豊後国に漂着したこのイングランド人は、単なる異邦人として生涯を終えることはなかった。彼は、戦国乱世の終焉と江戸という新たな時代の幕開けという歴史の転換点において、航海士、造船技術者、通訳、そして外交顧問という複数の役割を担い、徳川家康という当代随一の権力者の懐刀として活躍したのである 1 。
彼の生涯は、後世、「青い目の侍」という、ある種の神話的なイメージとともに語られてきた 3 。しかし、その英雄的な物語の背後には、故国に残した家族への想いと日本で築いた新たな家庭との間で揺れ動く一人の人間としての苦悩、そして激動する国際情勢と幕府内部の政治力学の中で翻弄される複雑な実像が存在する。近年では、オランダで発見された新史料や、彼の墓所とされる場所から出土した人骨の科学的分析など、その実像に迫る新たな研究が進展している 6 。
本報告書は、これらの最新の知見を含む膨大な一次・二次史料を統合的に分析し、ウィリアム・アダムスという一個人の生涯をその誕生から死、さらには後世への影響に至るまで徹底的に追跡することを目的とする。そして、単なる伝記の記述に留まらず、彼が徳川家康に見出された理由、旗本として果たした具体的な功績、そして彼の存在が黎明期の徳川幕府の対外政策形成に与えた触媒的な役割を、当時の日本と世界が置かれた歴史的文脈の中に位置づけ、その多層的な影響を解き明かすことを目指すものである 9 。
西暦 (和暦) |
出来事 |
場所 |
歴史的意義・関連事項 |
1564年 (永禄7年) |
9月24日、ウィリアム・アダムス、洗礼を受ける(誕生日は不明)。 |
イングランド、ケント州ジリンガム |
港町に生まれ、幼少期から海と船に親しむ環境で育つ 10 。 |
1576年頃 |
12歳でロンドンの船大工ニコラス・ディギンズに弟子入り。 |
イングランド、ロンドン |
12年間の修業で造船技術、航海術、天文学を学ぶ。これが後の日本での洋式帆船建造の礎となる 2 。 |
1588年 (天正16年) |
イギリス海軍の輸送艦艦長としてアルマダの海戦に参加。 |
イギリス海峡 |
当時の最強国スペインの軍事力と戦略を実体験。この経験が後に家康への進言に説得力を持たせる 11 。 |
1589年 (天正17年) |
メアリー・ハインと結婚。後に二子を儲ける。 |
イングランド、ロンドン |
日本漂着後も、このイングランドの家族への送金を続けた 10 。 |
1598年 (慶長3年) |
オランダのロッテルダム会社(ハーゲン船団)に主任航海士として参加し、極東へ向け出航。 |
オランダ、ロッテルダム |
航海の目的は貿易とスペイン船・拠点の略奪を兼ねていた 11 。 |
1600年 (慶長5年) 4月19日 |
航海の末、乗船リーフデ号が豊後国臼杵湾に漂着。 |
日本、豊後国(大分県臼杵市) |
生存者は24名。天下分け目の関ヶ原の戦いの半年前であった 13 。 |
1600年 (慶長5年) 5月 |
大坂城にて徳川家康と引見。 |
日本、大坂 |
イエズス会の讒言を退けた家康は、アダムスの知識と人柄を高く評価。彼の運命が大きく転換する 3 。 |
1600年 (慶長5年) 10月21日 |
関ヶ原の戦い。 |
日本、美濃国(岐阜県関ケ原町) |
リーフデ号に積まれていた大砲や弾薬が家康軍によって使用されたという説がある 3 。 |
1604年 (慶長9年) |
家康の命により、80トン級の西洋式帆船を建造。 |
日本、伊豆国伊東(静岡県伊東市) |
日本で初めての本格的な洋式帆船建造事業。アダムスの造船技術が発揮される 5 。 |
1605年 (慶長10年) |
旗本に取り立てられ、三浦郡逸見に250石の領地と「三浦按針」の名を与えられる。 |
日本、相模国(神奈川県横須賀市) |
外国人として異例の待遇。「青い目の侍」の誕生 5 。 |
1607年 (慶長12年) |
120トン級の大型帆船「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」を建造。 |
日本、伊豆国伊東(静岡県伊東市) |
この船は後に太平洋を横断し、日本の対外交易に貢献した 15 。 |
1609年 (慶長14年) |
按針の仲介により、オランダが平戸に商館を設立。 |
日本、肥前国平戸(長崎県平戸市) |
日蘭貿易の開始。ポルトガル・スペインの貿易独占が崩れる 12 。 |
1613年 (慶長18年) |
按針の尽力により、イギリスが平戸に商館を設立。 |
日本、肥前国平戸(長崎県平戸市) |
日英貿易の開始。按針は15年ぶりに同国人と再会する 3 。 |
1614年 (慶長19年) |
朱印船貿易家としてシャム(タイ)などへ航海を開始。 |
東南アジア |
幕府の顧問であると同時に、独立した貿易商人としても活動した 18 。 |
1616年 (元和2年) |
徳川家康が死去。 |
日本、駿府 |
最大の庇護者を失い、按針の幕府内での影響力に陰りが見え始める 15 。 |
1620年 (元和6年) 5月16日 |
平戸にて病没。享年55。 |
日本、肥前国平戸(長崎県平戸市) |
遺言により、財産はイングランドと日本の家族に折半された 2 。 |
1623年 (元和9年) |
イギリス商館が閉鎖され、日本から撤退。 |
日本、肥前国平戸(長崎県平戸市) |
オランダとの競争に敗れ、日英の公式な関係は幕末まで途絶える 22 。 |
2017年-2020年 |
平戸の伝・按針墓から出土した人骨の科学的分析が行われ、按針本人のものである蓋然性が極めて高いと発表される。 |
日本、肥前国平戸(長崎県平戸市) |
400年の時を経て、科学が歴史上の人物の実在性を裏付けた 25 。 |
ウィリアム・アダムスは、1564年にイングランド南東部のケント州に位置する港町ジリンガムで生を受けた 2 。この町は古くから漁港や貿易港として栄え、16世紀には造船業も盛んであった 11 。彼の洗礼記録は同年9月24日付でジリンガム教区の教会に残されている 11 。船員であった父を早くに亡くしたアダムスは、12歳で故郷を離れ、ロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り住むと、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズの下で12年間にわたる徒弟修業に入った 2 。この期間に彼が習得した造船術、そして航海に不可欠な天文学や航海術の知識は、単なる船乗りとしての技能にとどまらず、後に遠い異国である日本において、徳川家康の命による日本初の洋式帆船建造という歴史的事業を成し遂げるための直接的な技術基盤となったのである 5 。
1588年、徒弟奉公の年限を終えたアダムスは、イングランド海軍に入隊する 11 。同年、スペインの無敵艦隊がイングランド侵攻を試みた「アルマダの海戦」において、彼はフランシス・ドレークの指揮下にあったイギリス艦隊に所属し、食糧や弾薬を運ぶ輸送艦リチャード・ダフィールド号の艦長として参戦したと記録されている 11 。この経験は、彼に当時のヨーロッパ最強国であったスペインの海軍力と、その戦略思想を実地で学ぶ貴重な機会を与えた。この知見こそが、後に徳川家康と対峙した際、先行していたポルトガルやスペインといったカトリック勢力の脅威と、それに対抗するプロテスタント国家イングランドの立場を、リアリティをもって語ることを可能にした説得力の源泉となった 12 。
海軍を離れた後は、北アフリカ沿岸との貿易を行うバーバリー商会に舵手として勤務した 11 。この時代、国家間の紛争が絶えなかったヨーロッパの海では、貿易と私掠行為(敵国の船を拿捕し積荷を奪う、国家公認の海賊行為)の境界は曖昧であった。アダムスもまた、この期間に貿易の傍らで私掠行為に従事していた可能性が学術的に指摘されており、彼が当時のヨーロッパにおける熾烈な海洋覇権争いの実態を知る当事者であったことを示唆している 12 。彼の経歴は、単なる「航海士」という一言では括れない。船を造る「船大工」、船を指揮する「海軍軍人」、そして富を求めて海を駆ける「貿易商人」という、複数の専門性を複合的に有していた。この多才さこそが、後に家康にとってのアダムスの価値を、それまで日本が接触してきたイエズス会宣教師たちとは全く異なる、唯一無二のものとしたのである。
1589年、アダムスはロンドンでメアリー・ハインという女性と結婚し、娘のデリヴァレンスと息子のジョンという二人の子供を儲けた 10 。しかし、バーバリー商会での航海やアフリカへの探検など、彼の生活は常に海と共にあり、家族と過ごす時間は極めて限られていたという 11 。日本に漂着し、帰国が叶わぬ身となった後も、彼は故国に残したこの家族のことを終生忘れず、手紙を書き送り、東インド会社を通じて生活費を送金し続けたのである 10 。
16世紀末、ヨーロッパは大航海時代の熱狂の只中にあった。スペインとポルトガルが切り開いた新航路に、新興のプロテスタント国家であるオランダやイギリスが割り込もうと、熾烈な競争を繰り広げていた 1 。このような時代の空気の中、アダムスはオランダのロッテルダムを拠点とする貿易会社(後の東インド会社の前身の一つである「ハーゲン船団」)が、極東を目指す航海のために経験豊富な航海士を求めているという話を聞きつける 11 。彼は、より大きな富と冒険を求め、1598年に弟のトマスと共にオランダへ渡り、この東洋遠征隊に志願した 11 。当時のイングランドとオランダは、カトリックのスペインという共通の敵を持つプロテスタント国家として友好的な関係にあり、イングランド人であるアダムスがオランダ船団の主任航海士という要職に就くことは、何ら不思議なことではなかった 11 。
アダムスが参加したハーゲン船団は、ホープ号、ヘローフ号、ブレイデ・ボードスハップ号、トロウ号、そしてアダムスが航海士として乗り組んだリーフデ号の5隻で構成されていた 12 。この航海の目的は、単なる平和的な交易ではなかった。その任務には、マゼラン海峡を横断し、南米大陸沿岸で敵国であるスペインの船や拠点を襲撃・略奪すること、そしてアジアで香辛料などの商品を買い付け、喜望峰経由でヨーロッパへ帰還することが明確に含まれていた 12 。これは、当時のヨーロッパ諸国間の戦争が、そのまま世界中の海に拡大していたことを示す典型的な事例である。したがって、日本に漂着したアダムス一行は、単なる遭難した商人ではなく、世界規模で展開される紛争の当事者であった。この文脈を理解することは、後に日本でイエズス会が彼らを「海賊」と讒言した背景と、家康がその報告を鵜呑みにせず、彼らから直接ヨーロッパの情勢を聞き出そうとした戦略的判断の重要性を理解する上で不可欠である。
アダムスが乗船したリーフデ号は、排水量300トン、18門の大砲を備えたオランダ製のフリュート船であった 14 。この船は元々、ルネサンス期を代表する人文主義者であり、カトリック教会を痛烈に批判したデジデリウス・エラスムスにちなんで「エラスムス号」と名付けられていた。船尾にはエラスムスの木像が飾られていたが、カトリック教徒が影響力を持つ地域での航海や、最終目的地である日本での活動を考慮し、船名をオランダ語で「愛」を意味する「リーフデ」に変更し、像は船倉に隠されたとされる 14 。
1598年6月24日、110名ほどの乗組員を乗せた5隻の船団はロッテルダムを出航した 11 。しかし、その航海は初めから困難を極めた。大西洋を南下し、マゼラン海峡を通過する過程で、船団は激しい嵐や壊血病、そして仲間内の争いによって次々と数を減らし、離散していった 1 。太平洋に出た後、リーフデ号は僚船のホープ号と一時合流するも、ホープ号もまた太平洋上で消息を絶ってしまう 30 。
残されたリーフデ号は、食料も水も尽きかけ、乗組員のほとんどが病に倒れるという絶望的な状況の中で、日本を目指し続けた。そして、オランダ出航から1年10ヶ月という長きにわたる地獄のような航海の末、慶長5年(1600年)4月19日、ついに日本の陸影を捉える。もはや自力での帆走能力すら失いかけていたリーフデ号は、豊後国臼杵湾の黒島沖(現在の大分県臼杵市佐志生)に漂着した 13 。出航時に110名ほどいた乗組員は、この時わずか24名にまで激減しており、その生存者たちも、栄養失調と病気で自力で歩くことすらままならない、まさに満身創痍の状態であった 15 。この漂着は、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する、わずか半年前の出来事であった 15 。
豊後の海岸に打ち上げられた異形の船と衰弱しきった乗組員。この報は、当時五大老の筆頭として大坂城にあり、天下の覇権を掌握しつつあった徳川家康の元にもたらされた。家康の命により、比較的健康状態が良かったウィリアム・アダムスを含む生存者たちは、大坂城へと護送されることとなった 3 。彼らを待ち受けていたのは、絶体絶命の危機であった。当時、日本におけるヨーロッパとの窓口は、カトリック国であるポルトガルとスペインが独占しており、その尖兵であるイエズス会の宣教師たちは、大名たちと深い関係を築き、大きな影響力を持っていた 3 。
プロテスタント国家であるオランダとイングランドは、彼らにとって不倶戴天の敵であった。宗教的な対立に加え、日本の貿易利権を脅かす競争相手の出現を恐れたイエズス会の宣教師たちは、家康に対し、アダムスたちが海上の略奪を常とする「海賊」であると執拗に讒言し、直ちに十字架にかけて処刑するよう強く求めたのである 1 。アダムス自身も、殺されることを覚悟して家康との引見に臨んだ 3 。
しかし、家康は老獪な政治家であった。彼はイエズス会からの情報が、カトリック側の偏見と利害に満ちている可能性を見抜いていた。家康は宣教師たちの言い分を一方的に信じることなく、アダムス本人と直接対面し、自らの耳でその言い分を聞くことを決断する 3 。
大坂城での引見において、家康は通訳を介し、アダムスに来日の目的、たどってきた航路、そして彼の母国イングランドとスペイン・ポルトガルとの関係について、様々なことを問い質した 3 。絶望的な状況の中、アダムスは臆することなく、全ての質問に正直かつ理路整然と答えた。自分たちの目的は平和的な通商であり、イングランドはスペインやポルトガルとは戦争状態にあるものの、世界の他の国々とは友好関係を望んでいると堂々と述べたのである 3 。
家康は、アダムスの率直で誠実な態度と、その理知的な応答に感銘を受けた 41 。それ以上に、彼がもたらす情報の価値に、計り知れない可能性を見出した。家康は、このイングランド人航海士が、それまでイエズス会を通じてしか得られなかったヨーロッパ情勢について、全く異なる視点からの情報を提供できる貴重な存在であると即座に理解した。さらに、アダムスが語る地理学、数学、天文学といった航海術に基づく科学知識は、海外への強い関心を持つ家康の知的好奇心を大いに刺激した 3 。
家康の判断は、単なる個人的な好意や好奇心によるものではなかった。それは、天下統一後の国家経営を見据えた、極めて高度な戦略的判断であった。彼は、ポルトガルとスペインによる貿易の独占状態を打破し、オランダやイギリスといった新たなプレイヤーを参入させることで、日本の外交・貿易関係を多角化し、国家としての交渉力を高めることを目論んでいた 40 。アダムスは、その壮大な構想を実現するための、まさに天佑とも言うべき「駒」であった。家康はアダムスを処刑するどころか、保護し、自らの側近として重用することを決断した。この瞬間、一介の漂着航海士ウィリアム・アダムスの運命は、日本の歴史と分かちがたく結びつくことになったのである。
徳川家康の庇護下に入ったウィリアム・アダムスは、その知識と才能を高く評価され、外国人としては前代未聞の待遇を受けることになる。家康は彼を単なる助言者として遇するだけでなく、将軍直属の家臣である「旗本」の身分に取り立てたのである 3 。これは、アダムスを幕府の正式な組織内に組み込み、その類稀な能力を独占し、他の大名に利用されることを防ぐという戦略的な意図があった。家康にとってアダムスは、幕府が管理・活用すべき「国家的資産」だったのである。
この旗本への登用に伴い、アダムスは相模国三浦郡逸見村(現在の神奈川県横須賀市)に、農民約90名を支配する250石の知行地を与えられた 3 。さらに、武士の魂である大小の刀を帯びることを許され、名実ともに「侍」となった 5 。この一連の厚遇は、アダムスに日本社会への強い帰属意識を植え付け、安易な帰国を防ぐという家康の深謀遠慮の表れでもあった。事実、アダムスはその後何度も故国への帰還を願い出たが、家康はその能力を惜しんで決して許さなかったと伝えられている 3 。
旗本となるにあたり、家康はアダムスに「三浦按針」という日本名を与えた 5 。この名は、彼の新たな身分と役割を象徴するものであった。姓の「三浦」は、彼に与えられた領地である三浦郡に由来する 19 。そして、名の「按針」は、彼の専門職であった水先案内人(航海士)を意味する当時の言葉である 17 。羅針盤の針を按(あん)じて船の進むべき方向を定める者、という意味を持つこの名は、家康がアダムスに対し、これからの日本の外交や貿易という未知の航海において、その進路を指し示してくれる良き導き手としての役割を期待したことを雄弁に物語っている 5 。
領地である三浦郡逸見のほかに、アダムスは江戸城下の中枢である日本橋(現在の東京都中央区日本橋室町一丁目付近)にも広大な屋敷を拝領した 5 。この屋敷は、彼が外交顧問として将軍に仕えるための拠点であった。彼の存在がいかに江戸で知られていたかは、この一帯が昭和初期まで「按針町(あんじんちょう)」という公式な町名で呼ばれていたことからも窺い知れる 48 。現在、その地名こそ失われたものの、「按針通り」という通り名が、400年の時を超えて彼の記憶を今に伝えている 49 。
アダムスが家康の信頼を勝ち得た要因は、彼自身の知識や人柄だけではなかった。彼が乗ってきたリーフデ号に積まれていた「物」もまた、決定的に重要な役割を果たした。その積荷とは、カノン砲をはじめとする最新式の大砲19門、火縄銃500丁、そして大量の火薬や弾薬といった、当時としては最先端かつ強大な軍事装備であった 3 。アダムスは家康との引見において、これらの積荷の存在を正直に報告した。まさに天下統一の最終局面を迎え、強力な軍備を欲していた家康にとって、これはまさに喉から手が出るほど欲しいものであった 3 。
アダムスが日本に漂着したのは、慶長5年(1600年)4月。徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した「天下分け目の戦い」、関ヶ原の合戦が起こるわずか半年前のことである 15 。この絶妙なタイミングは、歴史の偶然とはいえ、家康に大きな幸運をもたらした。
リーフデ号から陸揚げされたこれらの強力な兵器が、関ヶ原の戦いにおいて家康の東軍によって実際に使用されたという説は根強く存在する 3 。国会図書館に残る当時の宣教師の記録にも、リーフде号に驚くべき量の武器が積まれていたことが記されている 16 。もしこの説が事実であれば、アダムスの漂着は、単に外交上の新たな選択肢を家康にもたらしただけでなく、日本の歴史を決定づけた一大決戦の帰趨に、物理的な影響を与えた可能性を意味する。彼の存在は、日本の政治地図を塗り替える上で、間接的ながらも無視できない触媒として機能したと言えるかもしれない。
徳川家康は、日本の海上輸送能力の向上と、海外との直接交易の可能性を探るため、外洋航海に耐えうる大型船の保有を渇望していた。彼は、アダムスがイングランドで船大工としての修業を積んだ経験があることを見抜き、日本初となる本格的な西洋式帆船の建造という、前代未聞の事業を彼に命じた 5 。アダムスは建造の適地として、良質な木材を産出する天城山系に近く、腕の良い船大工が多く集住していた伊豆国の伊東(現在の静岡県伊東市)を選定した 5 。
アダムスは設計・監督者として、幕府の船手頭(海軍司令官)であった向井忠勝の配下にあった日本の船大工たちと緊密に協力し、1604年(慶長9年)、まず80トン級の帆船を見事に完成させた 5 。この建造には、伊東の松川河口にあった砂州を利用した、ユニークな工法が採用された。これは、砂浜に大きな穴(ドック)を掘り、その中に丸太を敷き詰めて船台とし、そこで船体を組み立てる。そして船が完成すると、川を堰き止めて水位を上げ、その水圧を利用して船を海へと進水させるという、「砂ドック方式」と呼ばれる画期的なものであった 15 。家康自らもこの完成した船に試乗し、その性能と出来栄えに大いに満足したと伝えられている 15 。
最初の成功に気を良くした家康は、さらに大型で、太平洋を横断できるほどの航洋能力を持つ船の建造をアダムスに命じた 5 。アダムスはこれに応え、翌1605年から建造に着手し、1607年には120トン級の本格的なガレオン船を完成させた 5 。この船は後に、スペイン語で「幸運」を意味する「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と名付けられた 20 。この船は、1610年に前フィリピン総督ドン・ロドリゴをメキシコ(当時ノビスパン)まで送り届けるために実際に太平洋を横断し、日本の造船技術の高さを世界に示すとともに、その後の日本の対外交易においても重要な役割を果たした 5 。
アダムスによるこれらの造船事業は、日本の造船史における特筆すべき業績である。しかし、この先進技術が日本全国に広く普及することはなかった。建造された船は、向井忠勝のような幕府直属の専門家集団によって厳格に管理・運用された 54 。これは、幕府がこの強力な海上軍事力となりうる技術を独占し、諸大名に拡散させないことで、自らの軍事的優位を維持しようとした戦略の表れと考えられる。アダムスによる技術移転は、日本全体の技術水準を底上げするというよりも、あくまで徳川幕府の権力基盤を強化するという、限定的な目的のために行われたのであった。
外交顧問としての三浦按針の最初の大きな功績は、オランダとの国交樹立であった。彼は家康に対し、ポルトガル・スペインといったカトリック勢力とは異なる、プロテスタント国家であるオランダと交易することの利点を説いた。この進言を受け入れた家康の意向のもと、按針はオランダ側との交渉を仲介した。1609年(慶長14年)、オランダ東インド会社の使節が駿府城で家康に謁見した際、按針がその間を取り持った結果、オランダは日本国内のいかなる場所においても貿易を行うことを許可する朱印状を獲得した 12 。この許可に基づき、同年に肥前国平戸にオランダ商館が設立され、以後200年以上にわたる日蘭貿易の歴史が幕を開けたのである 12 。
按針は、自身の母国であるイングランドとの貿易関係樹立も強く望んでいた。彼は日本での自らの境遇と、日本が有望な貿易相手国であることを知らせる手紙を、オランダ船などを通じて故国に送っていた 3 。この手紙がイングランドの東インド会社の目に留まり、日本との貿易への関心を喚起するきっかけとなった。1613年(慶長18年)、ジョン・セーリスが率いるイギリス東インド会社のクローブ号が、国王ジェームズ1世の親書を携えて平戸に来航した 3 。
按針はこの15年ぶりの同国人との再会を喜び、彼らのために全面的に協力した。駿府の家康、江戸の二代将軍・秀忠との謁見を成功させるため、通訳を務めるだけでなく、贈答品の選定や日本式の宮廷作法に至るまで、細やかな助言を与えた 3 。彼の献身的な尽力の結果、イギリスもオランダと同様の通商許可を得て、平戸に商館を設立することができた 15 。これにより、按針は日英両国間の公式な関係を築く上で、まさに「架け橋」としての役割を果たしたのである。
三浦按針の活動は、幕府の外交顧問という公的な役割に留まらなかった。家康は彼の貿易に関する知識と経験を高く評価し、彼自身にも朱印状を与えた 18 。これにより、按針は幕府公認の貿易商人として、自らの船を仕立て、シャム(現在のタイ)やコーチシナ(現在のベトナム南部)といった東南アジアの国々との間で、活発な朱印船貿易を展開した 4 。
この事実は、按針の立場が非常に複合的であったことを示している。彼は幕府とヨーロッパ諸国との間を取り持つ「仲介者(ブローカー)」であると同時に、自らの利益を追求する独立した「商人(プレイヤー)」でもあった。この二重の立場は、彼に富と自由な活動をもたらしたが、同時に、特にイギリス商館との関係において、複雑な利益相反を生む原因ともなった。彼は単なる幕府の忠実な家臣でも、イギリス商館の献身的な従業員でもなく、自らの才覚と築き上げた人脈を最大限に活用して、激動の時代を生き抜こうとする、極めて自立した個人であったと評価できる。
1613年に設立された平戸イギリス商館であったが、その滑り出しは順風満帆とは言い難かった。その大きな原因の一つが、商館の設立に尽力したはずの三浦按針と、初代商館長ジョン・セーリスとの深刻な不和であった 18 。セーリスは、13年もの長きにわたり日本で生活してきた按針が、あまりにも「日本化」してしまい、イングランド人としての忠誠心や価値観を失っているのではないかと強く疑った 60 。彼は按針を「単なる船乗り」と見下す傾向があり、その助言を軽んじた。
特に、商館の立地を巡る意見の対立は決定的であった。按針は、主要な消費地である江戸や大坂に近い浦賀を拠点とすべきだと強く主張した。これは、貿易の効率性を最優先に考えた、実務家としての合理的な判断であった 61 。しかし、セーリスは按針の助言を退け、競争相手であるオランダ商館を監視しやすいという理由で、辺境の地である平戸に商館を設置することに固執した 22 。この人間関係の悪化と相互不信は、後に按針が待望の帰国の機会を得ながらも、「彼(セーリス)から受けた様々な侮辱的行為」を理由に、その船に乗ることを拒否する一因となったのである 18 。
セーリスの後任として商館長に就いたリチャード・コックスと按針の関係は、セーリスとのものよりはるかに良好であった。二人の間には協力関係が築かれ、コックスは按針の日本人妻や子供たちの存在も知るなど、個人的な信頼関係も窺える 60 。按針の死後、その遺言執行を忠実に務めたのもコックスであった 62 。
しかし、彼らの関係も単純なものではなかった。コックスが残した詳細な日記からは、両者の間に存在した緊張関係も読み取れる。按針はイギリス商館の従業員として高給を得ていたが、同時に幕府から朱印状を得た独立商人でもあった 23 。そのため、商館の利益よりも、幕府の意向や彼自身の貿易上の利益を優先するかのような行動をとることがあり、コックスをやきもきさせることがあった 23 。例えば、按針が持つ朱印状を商館が自由に使えないことへの不満や、按針が日本人船員側に立って商館員と対立したことなどが記録されており、彼の複雑な立場が、時として摩擦を生んでいたことがわかる 23 。
結局のところ、平戸のイギリス商館は、設立からわずか10年後の1623年に閉鎖され、日本から撤退することになる 22 。その敗因は複合的であった。第一に、強力な資本力と組織力を持つオランダ東インド会社との熾烈な価格競争に敗れたこと 22 。第二に、イングランドから送られてくる毛織物などの商品が、日本の気候や需要に合致せず、売れ行きが極めて悪かったこと 23 。そして第三に、セーリスが按針の助言を無視して辺鄙な平戸に拠点を構えたという、初動の戦略的失敗が最後まで響いたことである。按針の死からわずか3年後、彼の尽力によって開かれた日英間の公式な貿易関係は、幕末の開国まで2世紀以上にわたって途絶えることとなったのである 22 。
日本に永住することになったウィリアム・アダムスは、この地で新たな家庭を築いた。彼が江戸の日本橋に屋敷を拝領した頃、日本人女性と結婚したとされる 10 。妻となった女性は、江戸大伝馬町の名主であった馬込勘解由の娘と伝えられている 10 。彼女の名前は「おゆき」として広く知られているが、この名は後世の小説や歌舞伎作品に由来するものであり、当時の史料で確認できるものではない 10 。確かなことは、彼がこの日本人妻との間に、息子のジョセフと娘のスザンナという二人の子供をもうけたことである 5 。さらに、朱印船貿易の拠点として長く滞在した平戸においても、別の女性との間に婚外子がいたことが記録から示唆されている 10 。
日本で新たな家族を持ち、旗本として高い地位を得た按針であったが、その心から故国イングランドへの想いが消えることはなかった。彼の故郷ジリンガムには、妻メアリー・ハインと、娘デリヴァレンス、息子ジョンが彼の帰りを待っていた 10 。按針は、日本からオランダ船やイギリス船の便りを介して、妻に宛てた手紙をせっせと書き送り、自身の境遇を伝え続けた。また、東インド会社を通じて定期的に生活費を送金するなど、遠く離れた家族に対する責任を果たそうと努めた 10 。
彼の書簡からは、日本での成功を誇る一方で、故郷の土を再び踏みたいという切実な望郷の念が滲み出ている。彼は長年にわたり、最大の庇護者であった徳川家康に帰国を願い出たが、家康はその類稀な才能と知識が日本から失われることを惜しみ、決して許可しなかった 3 。後に家康から帰国が許可された際も、前述のイギリス商館長ジョン・セーリスとの深刻な対立などが原因で、その好機を逸してしまった 18 。
彼の決断は、単に「帰れなかった」という悲劇としてのみ語られるべきではないかもしれない。20年近くの歳月を経て、日本には旗本としての確固たる地位、妻子、そして自身のビジネスという、失い難い生活基盤が築かれていた。一方で、もし帰国が実現したとしても、変わり果てたであろう故国で彼を待っていたのは、不確かな未来だけだった可能性もある。彼は、イングランド人「ウィリアム・アダムス」であると同時に、日本の武士「三浦按針」でもあった。この引き裂かれたアイデンティティの中で、彼は最終的に日本での実利と生活という、現実的な選択をしたと見ることもできる。望郷の念は本物であっただろうが、それ以上に、日本での人生が彼にとっての「現実」となっていたのである。
1616年(元和2年)、三浦按針にとって最大の庇護者であり、彼の運命を切り開いた徳川家康が駿府で死去した 15 。この出来事は、按針の日本における立場に微妙かつ決定的な変化をもたらした。家康は按針の能力そのものを純粋に評価し、幕府のシステムに不可欠な存在として組み込んだ。しかし、二代将軍・徳川秀忠にとって、按針はあくまで「父の代の寵臣」であり、その関係性は家康とのそれとは本質的に異なっていた。
秀忠政権下で幕府の対外政策が次第にキリスト教禁教と貿易管理の強化へと舵を切る中で、按針が活躍できる場は着実に狭まっていった 24 。貿易は平戸と長崎の二港に限定され、かつてのように将軍に自由に謁見し、外交政策に直接影響を及ぼすことも困難になった 23 。彼の価値は、その能力そのものだけでなく、「家康の寵臣」という絶大な付加価値に大きく依存していた。その最大のパトロンを失ったことで、彼の政治的価値は相対的に低下せざるを得なかったのである。これは、特定の権力者との個人的な信頼関係にキャリアを依存する人物が、権力構造の変化の中で直面する普遍的な運命を象徴している。
幕府内での影響力に陰りが見え始めたとはいえ、按針は朱印船貿易家としての活動を精力的に続けた。彼は自らの船を駆って、シャムやコーチシナ(交趾)へと航海し、貿易に従事した 18 。しかし、長年の航海と異郷での生活は、彼の体を蝕んでいた。1620年5月16日(元和6年4月24日)、按針は貿易の拠点であった長崎県の平戸において、病のためにその波乱に満ちた55年の生涯を閉じた 2 。
按針は死に際して遺言状を残しており、その執行は平戸イギリス商館長のリチャード・コックスに託された 62 。彼の遺言によれば、日本で築いた財産は、故国イングランドに残した妻メアリーと子供たち、そして日本で家庭を築いた妻とジョセフ、スザンナの二人の子供に、それぞれ折半して分与されることになっていた 67 。この遺言は、彼が最期まで二つの家族に対して愛情と責任を感じていたことを示す、感動的な証左である。コックスは、時に複雑な関係にあったこの同国人の最期の願いを、誠実に果たしたと記録されている 62 。
父ウィリアム・アダムスの死後、日本で生まれた息子ジョセフは、父の知行地と家督を相続し、「三浦按針」という名を公式に継いだ 10 。彼は父から受け継いだ朱印状を用いて、平戸を拠点に東南アジアとの貿易活動を継続した 10 。しかし、彼の活動した時代は、幕府が「鎖国」体制へと大きく傾斜していく過渡期であった。キリスト教の禁教が強化され、日本人の海外渡航や貿易が厳しく制限される中で、ジョセフの活躍の場も次第に失われていった。彼の活動が確認できるのは寛永13年(1636年)頃までであり、その後の消息は不明である 71 。彼に子孫がいたという記録はなく、これにより、日本における三浦按針の直系は途絶えたと考えられている 10 。
ウィリアム・アダムスは平戸の外国人墓地に埋葬されたと伝えられるが、その後のキリスト教弾圧の過程で墓地が破壊されたため、正確な埋葬地は長らく謎に包まれていた 11 。しかし、1931年、平戸で通詞を務めた家の末裔が「按針墓」として密かに守り伝えてきた墓所から、遺骨の一部が発掘された 11 。
そして2017年、この伝承の墓が平戸市によって再発掘され、出土した人骨片に対して、最先端の科学技術を駆使した多角的な分析が行われた 27 。この分析は、歴史学が新たな局面に入ったことを示す象徴的な出来事であった。DNA分析からは、人骨がヨーロッパ系の集団に特徴的なハプログループを持つことが判明し、彼の出自を裏付けた 25 。また、骨コラーゲンを用いた炭素・窒素安定同位体比分析により、その人物が生前の長期間にわたって、米や魚介類を主とする日本的な食生活を送っていたことが明らかになった 25 。
これらの科学的データ、すなわち「1590年から1620年の間に死亡」「ヨーロッパ系の壮年男性」「長期間の日本的な食生活」という特徴は、ウィリアム・アダムスの経歴と驚くほど正確に一致する 25 。この結果、この人骨が三浦按針本人のものである蓋然性が極めて高いと結論付けられた 25 。これは、伝承や伝説の人物であった「三浦按針」を、科学的に実在した個人として証明する画期的な成果である。歴史学はもはや文献の中だけで完結する学問ではなく、考古学、人類学、遺伝学といった異分野との協業によって、新たな地平を切り拓くことができる。按針の物語は、400年の時を経て、最新の科学によって新たな章が書き加えられたのである。
アダムスの歴史的評価は、時代と場所によって様々に変遷してきた。生前、彼の日本での活躍を伝える書簡はヨーロッパで出版され、彼はある程度の知名度を持つ存在であった 58 。日本では、徳川幕府初期の外交と貿易に多大な貢献をした重要人物として、特に彼とゆかりの深い地域で高く評価されている 15 。一方で、彼の母国イギリスや、彼が乗ってきた船の母国オランダでは、その功績は必ずしも正当に評価されてきたとは言えない側面もある 74 。しかし近年、国家間の関係史を超え、異なる文明や文化の交流を重視するグローバルヒストリーの視点が広まる中で、二つの世界の架け橋となった彼の特異な役割が、改めて国際的に再評価されつつある。
三浦按針の記憶は、死後400年以上を経た現代においても、様々な形で生き続けている。それは、彼が足跡を残した各地での顕彰活動と、国境を越えて享受されるフィクションの世界という、二つの側面において顕著である。
これらの活動は、歴史上の人物が特定の「場所」の記憶と結びつき、地域のアイデンティティや文化振興の一部として、極めてローカルな形で継承されていく過程を示している。
このように、三浦按針という一人の歴史上の人物は、日本の地域史の中に深く根を下ろして生き続けると同時に、グローバルなポップカルチャーの題材として語られるという、ローカルとグローバルの二重の存在となっている。ドラマの世界的ヒットが、ゆかりの地の観光振興に繋がるという現象は 56 、この二つの流れが現代において相互に影響を与え合っていることを示す好例と言えよう。三浦按針の物語は、400年の時を超え、今なお新たな文脈の中で語り継がれているのである。