上杉定正は扇谷上杉家当主。家宰太田道灌を暗殺し、山内上杉家との長享の乱で活躍。しかし、傲慢さから孤立し、伊勢宗瑞の台頭を招き、関東戦国時代を本格化させた。
西暦/和暦 |
上杉定正・扇谷上杉家の動向 |
上杉顕定・山内上杉家の動向 |
古河公方(足利成氏・政氏)の動向 |
伊勢宗瑞(北条早雲)の動向 |
中央(室町幕府)の動向 |
1443 (嘉吉3) |
上杉持朝の三男として誕生 1 。 |
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1455 (享徳3) |
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足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害。享徳の乱が勃発 3 。 |
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1467 (応仁元) |
父・持朝が死去。甥の上杉政真が家督を継承 4 。 |
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応仁の乱が勃発(~1477) 6 。 |
1473 (文明5) |
甥・政真が五十子の戦いで戦死。太田道灌らに擁立され家督を相続 7 。 |
関東管領として古河公方と対峙。 |
五十子の戦いで上杉政真を破る 7 。 |
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1477 (文明9) |
家宰・太田道灌が長尾景春の乱を鎮圧。扇谷家の威勢が高まる 4 。 |
家宰・長尾景春が反乱を起こす。 |
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応仁の乱が終結。 |
1482 (文明14) |
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山内家主導で古河公方との和睦(都鄙和睦)が成立。定正はこれに不満を抱く 5 。 |
両上杉家と和睦。享徳の乱が終結 5 。 |
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1486 (文明18) |
7月26日、相模糟屋館にて家宰・太田道灌を暗殺 5 。 |
定正に道灌の讒言をしたとされ、暗殺を喜ぶ 9 。 |
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1487 (長享元) |
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道灌暗殺を口実に扇谷領へ侵攻。長享の乱が勃発 5 。 |
当初は定正を支援 9 。 |
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1488 (長享2) |
実蒔原、須賀谷原、高見原の戦いで山内軍に連勝 11 。 |
関東三戦で定正に敗北を喫する。 |
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1493 (明応2) |
伊勢宗瑞と軍事同盟を締結 13 。 |
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明応の政変に乗じ、伊豆へ侵攻(伊豆討ち入り) 13 。 |
明応の政変。将軍・足利義材が廃される。 |
1494 (明応3) |
10月5日、伊勢宗瑞と共に高見原へ出陣するも、荒川渡河中に落馬し死去 7 。 |
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定正の傲慢さに嫌気がさし、山内方へ支持を転換 9 。 |
定正の要請を受け、援軍として関東へ初出兵 13 。 |
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1495 (明応4) |
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小田原城を奪取。関東支配の足掛かりを築く 16 。 |
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室町時代後期、京都における応仁の乱(1467-1477)が幕府の権威を根底から揺るがす一方で、関東ではそれに先んじて「戦国」の様相が色濃く現れていた 6 。鎌倉公方・足利持氏が幕府に反旗を翻して敗死した永享の乱(1438年)の後、その遺児・成氏が下総国古河を拠点として「古河公方」を称し、幕府が任命する関東管領・上杉氏との間で約30年にも及ぶ「享徳の乱」が繰り広げられた 14 。この長い戦乱は関東の社会構造を大きく変容させ、旧来の権威は失墜し、実力主義の風潮が蔓延する混沌の時代を現出させた。
上杉定正(うえすぎ さだまさ)は、まさにこの激動の時代に扇谷(おうぎがやつ)上杉家の当主として歴史の表舞台に登場した人物である。彼の名は、後世において主に「江戸城を築いた名宰相・太田道灌を暗殺した愚かな主君」という、極めて否定的な文脈で語られることが多い 2 。確かに、道灌の暗殺は彼の生涯における最大の汚点であり、その後の扇谷上杉家の衰退を決定づけた愚行であったことは否定できない。
しかし、彼の生涯を丹念に追うと、その人物像は単なる「愚君」という一言では到底片付けられない複雑な様相を呈してくる。道灌という天才を失った後も、彼は自ら軍を率いて、本家である山内上杉家との熾烈な内乱「長享の乱」において幾度も勝利を収めるなど、優れた軍事指揮官としての一面も持ち合わせていた 9 。この「有能な武将」としての顔と、「猜疑心に駆られて国家の柱石を自ら砕いた組織の長」としての顔。この二面性こそが、上杉定正という人物の悲劇性を際立たせ、関東戦国史における彼の特異な立ち位置を形成している。
本報告書は、上杉定正をめぐる断片的な史実や逸話を体系的に整理し、彼の行動原理を当時の複雑な政治力学と人間関係の中に深く位置づけることを目的とする。太田道灌暗殺という一点のみで評価されがちな彼の生涯を、その出自から予期せぬ家督相続、同族との抗争、新興勢力との連携、そして非業の最期に至るまでを多角的に検証することで、誇りと猜疑心の間で揺れ動き、結果として関東の戦国時代を本格的に到来させる「触媒」の役割を果たしてしまった、一人の武将の深みのある実像を再構築することを目指すものである。
上杉氏は、藤原氏北家勧修寺流を祖とする名門であり、室町幕府の成立に大きく貢献したことで、幕政において重きをなした一族である 19 。関東においては、鎌倉公方を補佐する関東管領の職を世襲する山内(やまのうち)上杉家が本家として君臨していた。これに対し、上杉定正が属する扇谷上杉家は、山内家から分かれた分家であり、主に相模国の守護を務めていた 6 。両家は「両上杉」と称され、享徳の乱では協力して古河公方・足利成氏と戦ったが、その内には常に関東の覇権をめぐる潜在的な緊張関係をはらんでいた。
上杉定正は、嘉吉3年(1443年)または一説に文安3年(1446年)に、当時の扇谷上杉家当主であった上杉持朝の三男として生を受けた 1 。父・持朝は、享徳の乱の長期化に対応するため、家宰の太田道真(道灌の父)・道灌父子に命じて河越城や江戸城を築城させるなど、扇谷家の軍事力と領国支配の基盤を飛躍的に強化した有能な当主であった 14 。
しかし、定正は三男であり、当初は家督を継承する立場にはなかった。扇谷家の家督は、持朝の嫡男であった兄・顕房、そしてその子で定正から見れば甥にあたる上杉政真へと継承されるのが既定路線であった 22 。定正の次兄・三浦高救は相模の名族・三浦氏へ養子に出されており、これもまた彼が扇谷家の後継者候補から外れていたことを示している 22 。定正の人生は、この時点では一族の有力な一武将として生涯を終える可能性が高かった。
定正の運命を大きく変えたのは、文明5年(1473年)に起きた一つの事件であった。当時、扇谷上杉家は本家の山内上杉家と共に、武蔵国北部の五十子(いかっこ、現在の埼玉県本庄市)に陣を構え、古河公方・足利成氏と長期間にわたる対陣を続けていた。この「五十子の戦い」の最中、若き当主であった甥の上杉政真が、古河公方軍との激戦の末に討ち死にしてしまったのである 7 。
若くして戦死した政真には、当然ながら跡を継ぐべき子がいなかった。扇谷上杉家は、当主を失うという未曾有の危機に直面する。この緊急事態を受けて、家宰の太田道灌をはじめとする家中の重臣たちによる評定が開かれ、後継者問題が協議された 1 。その結果、白羽の矢が立ったのが、故・政真の叔父にあたる上杉定正であった。こうして、本来ならば家督とは無縁であったはずの定正が、予期せぬ形で扇谷上杉家の当主として擁立されることになったのである 7 。
この後継者選定は、定正個人の器量や実績が傑出していたからというよりも、血縁と年齢に基づく極めて現実的な、あるいは消去法的な選択であったと推察される。戦時下において一族をまとめ、軍を率いるためには、血統的な正統性を持ち、かつ即戦力となる「成人の男子」が不可欠であった。兄・高救は既に他家の人間であり、一族の中でその条件を満たす最も有力な人物が定正だったのである。
彼は「待望された後継者」ではなく、「危機的状況下で選ばれた現実的な選択肢」として当主の座に就いた。この事実は、彼の権力基盤が必ずしも盤石ではなかったことを示唆している。そして、この出自こそが、後に絶大な功績を挙げる家宰・太田道灌に対して、彼が複雑な感情、すなわち劣等感や猜疑心を抱くことになる遠因の一つとなった可能性は、決して無視できないであろう。家督相続後、定正は直ちに関東管領・上杉顕定と共に五十子陣に入り、古河公方との戦いを継続するという、極めて困難な状況下でその治世をスタートさせた 7 。
上杉定正の治世前半は、家宰・太田道灌の目覚ましい活躍によって支えられていた。道灌は、父・道真の代から扇谷上杉家に仕える譜代の重臣であり、当代随一と評されるほどの軍才と知略を兼ね備えた人物であった。彼は享徳の乱や、その末期に発生した山内上杉家の家宰・長尾景春の反乱において、縦横無尽の活躍を見せる 4 。江戸城や河越城といった戦略拠点を巧みに運用し、扇谷上杉家の勢力を飛躍的に拡大させ、ついには本家である山内上杉家を凌駕するほどの威勢を誇るに至らしめた 4 。扇谷上杉家の栄光は、まさしく道灌の双肩にかかっていたと言っても過言ではなかった。
しかし、このあまりに輝かしい成功が、主君と家宰の関係に致命的な亀裂を生じさせる。悲劇の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。
第一に、山内上杉家当主で関東管領の上杉顕定による策謀である。分家である扇谷家の急成長は、関東における上杉一門の宗主たる山内家にとって、看過できない脅威であった 4 。顕定は、扇谷家の力の源泉が道灌の存在にあることを見抜き、定正と道灌の君臣関係を裂くことで、扇谷家を内側から弱体化させようと画策した 9 。様々な史料が、顕定が定正に対し「太田道灌に謀反の心あり」という根も葉もない讒言を吹き込んだと伝えている 2 。
第二に、主君である定正自身の猜疑心である。前章で述べたように、定正の権力基盤は絶対的なものではなかった。そのような彼にとって、自らの名声をはるかに凌ぎ、家中内外から絶大な人望を集める道灌の存在は、誇りであると同時に、自らの地位を脅かしかねない恐怖の対象でもあった 2 。顕定の讒言は、定正が元来抱いていたであろう劣等感や猜疑心という土壌に蒔かれた毒の種となり、彼の心の中で急速に芽吹いていった 7 。
第三に、道灌自身の言動も、この亀裂を深める一因となった可能性がある。道灌は自らの功績に強い自負を持っており、その評価が正当になされていないことへの不満を隠そうとしなかった。彼が山内家の家臣に宛てたとされる書状(通称『太田道灌状』)には、「山内家が武蔵・上野の両国を支配できているのは、私の功績のおかげである」という、自己の功績を誇示する言葉が記されている 3 。こうした強烈な自負と自己顕示欲は、周囲には傲慢と映り、主君を軽んじているとの印象を与えかねないものであった 3 。結果として、道灌のこうした態度は、定正の疑念を深め、顕定の讒言に信憑性を与える格好の材料となってしまったのである。
君臣間の不信が頂点に達した文明18年(1486年)7月26日、悲劇は現実のものとなる。定正は、扇谷上杉家の本拠の一つであった相模国の糟屋館(かすややかた、現在の神奈川県伊勢原市)に道灌を招き寄せた 8 。そして、主君からの勧めを疑いもせずに入浴した道灌を、湯殿から出てきた無防備な状態で、配下の曽我兵庫(そがひょうご)らに襲わせ、暗殺したのである 5 。稀代の名将は、あまりにも無残な最期を遂げた。死に際に道灌は「当方(とうほう)、滅亡せん(我が主家は、これで滅びるであろう)」と叫んだと伝えられており、それは自らの死が扇谷上杉家にもたらすであろう破滅的な未来を予言する言葉となった 3 。
この暗殺事件が扇谷上杉家に与えた衝撃は、計り知れないものであった。道灌の嫡子・太田資康はもちろんのこと、道灌の武威と人望を慕って扇谷家に服属していた多くの国人や地侍たちが、功臣を謀殺した主君・定正に愛想を尽かし、敵対する山内上杉家へと雪崩を打って寝返った 5 。扇谷上杉家は、この一日で、その軍事力を支える頭脳と、領国経営を支える人望という、二つの最も重要な柱を同時に失ったのである。道灌暗殺は、単なる一個人の死に留まらず、関東の勢力バランスを根底から覆す、時代の大きな転換点となった。
太田道灌の暗殺は、山内上杉顕定に、扇谷上杉家を打倒する絶好の口実と機会を与えた。暗殺の翌年、長享元年(1487年)、顕定はこれを好機と捉え、扇谷家の領地へと侵攻を開始する 9 。これにより、本家と分家、二つの上杉家による18年間にも及ぶ骨肉の争い、「長享の乱」の火蓋が切って落とされた 4 。
道灌という比類なき将を失った扇谷軍の劣勢は、誰の目にも明らかであった。しかし、ここからの上杉定正の戦いぶりは、彼が単なる猜疑心に満ちた暗君ではなかったことを雄弁に物語っている。彼は自ら軍の先頭に立ち、卓越した軍事指揮官としての才能を発揮したのである 9 。
この乱の初期において、両軍が激突した主要な三つの合戦は「関東三戦」と称されている 11 。
これらの勝利は、上杉定正が戦場の状況を的確に読み、大胆な戦術を敢行できる有能な指揮官であったことを証明している。彼は道灌亡き後の扇谷家を、その軍才によって辛うじて支えていたのである。
しかし、戦場での戦術的な勝利は、必ずしも戦争全体の戦略的な勝利には結びつかなかった。定正は、軍事面での成功とは裏腹に、政治・外交面で致命的な過ちを犯す。
当初、古河公方・足利政氏(成氏の子)は、父の代からの宿敵である山内上杉家の勢力を削ぐため、扇谷方の定正を支援していた 9 。この同盟は、扇谷家にとって軍事的な後ろ盾であると同時に、その戦いの正当性を担保する重要な意味を持っていた。
ところが、連戦連勝に気を良くした定正は、次第に驕り高ぶり、傲慢な態度が目立つようになる 9 。当時の家臣が定正に対し、その言動を慎み、各方面との和解に努めるよう諫言した書状が現存していることからも、彼の傲慢さが相当なものであったことが窺える 9 。
この態度が、最大の同盟者であった足利政氏の離反を招く。政氏は定正の増長に愛想を尽かし、長年の敵であったはずの山内顕定支持へと立場を転換してしまったのである 9 。これにより、扇谷上杉家は関東三戦に勝利しながらも、外交的には完全に孤立し、戦略的に極めて不利な状況へと追い詰められていく。
上杉定正は、戦場の指揮官としては一流であったかもしれないが、同盟関係を維持し、大局的な利害を調整する政治家・戦略家としては二流であったと言わざるを得ない。彼の軍才という長所が、傲慢さという短所を助長し、結果として自らを破滅の淵へと導いていった。この軍事と政治のアンバランスこそが、彼の生涯を貫く悲劇の核心であった。
長享の乱が泥沼化し、扇谷上杉家が外交的孤立を深める中、関東の政治地図を根底から塗り替える新たなプレイヤーが登場する。伊勢宗瑞(いせ そうずい)、後の北条早雲である。
明応2年(1493年)、京都では将軍・足利義材が管領・細川政元によって追放されるというクーデター「明応の政変」が勃発した 13 。この中央政界の動乱は、遠く離れた関東にも波及する。当時、駿河国の今川氏に身を寄せていた客将・伊勢宗瑞は、この政変を絶好の機会と捉えた。彼は、政変で新たに将軍となった足利義澄(堀越公方・足利政知の子)の威光を借り、義澄の兄であり母と弟の仇であった足利茶々丸(当時の堀越公方)を討伐するという大義名分を掲げて、伊豆国へと電撃的に侵攻した 14 。この「伊豆討ち入り」によって、宗瑞は伊豆国を平定し、韮山城を拠点とする新たな戦国大名として、歴史の表舞台に躍り出たのである 13 。
古河公方にまで離反され、山内上杉家との戦いで疲弊しきっていた上杉定正にとって、伊豆に突如として現れたこの新興勢力は、まさに渡りに船であった。山内上杉家という共通の敵を持つ宗瑞は、定正にとってこれ以上ないほど魅力的な同盟相手に映った。
両者の連携は早くから始まっていたと考えられ、宗瑞の伊豆討ち入りそのものに、定正が何らかの形で手引きをしていたという見方も根強い 14 。明応2年(1493年)頃、定正と宗瑞は正式に軍事同盟を締結する 13 。これにより、定正は山内上杉家に対抗するための新たな力を手に入れた。
しかし、この同盟は極めて危険な賭けであった。定正は、目先の敵である同族の山内顕定を倒すために、将来、自らを脅かすことになるであろう、より大きな脅威を関東平野に自ら招き入れたのである。
定正は宗瑞を、自らの戦略のために利用できる「便利な傭兵」程度に考えていたのかもしれない。だが、旧来の関東の秩序(公方―管領体制)に何ら恩義も利害も持たない宗瑞にとって、上杉家の内紛は、関東へ進出し、自らの領国を切り取るための絶好の機会に他ならなかった 16 。彼は定正を、関東進出の足がかりとなる「梯子」としか見ていなかったであろう。両上杉家が争い、共倒れになることこそが、宗瑞にとって最大の利益となる「漁夫の利」の構造がそこにはあった。
定正の同盟戦略は、あまりにも近視眼的であったと言わざるを得ない。彼は、山内顕定という「見知った敵」との憎悪に満ちた争いに固執するあまり、伊勢宗瑞という「未知の脅威」が持つ本質と、その野心を見抜くことができなかった。この同盟は、扇谷上杉家の短期的な延命策であると同時に、後に関東の覇者となる後北条氏という、いずれ自らを滅ぼすことになる勢力を呼び込む「トロイの木馬」を、自らの手で城内に引き入れる行為に等しかったのである。
伊勢宗瑞という新たな同盟者を得た上杉定正であったが、彼に残された時間は長くはなかった。明応3年(1494年)、扇谷家を支えてきた重臣の大森氏頼や三浦時高が相次いでこの世を去り、家中の弱体化が進行する 7 。この状況を打開すべく、定正は宗瑞からの援軍を得て、再び山内上杉家の拠点である鉢形城を攻略するため、武蔵国高見原へと最後の出陣を果たした 7 。
しかし、決戦の火蓋が切られることはなかった。同年10月5日、軍を率いて荒川を渡河しようとした際、定正の乗っていた馬が突如として暴れ出し、彼は川中に落馬してしまう 7 。この事故が原因で、定正は陣中にて急死した 1 。享年は諸説あるが、52歳であったとされる 2 。長年にわたる同族との争いの決着を見ることなく、その生涯はあまりにも唐突に、そして戦場での名誉とは程遠い形で幕を閉じた。
この劇的すぎる最期は、人々の想像力を掻き立てた。やがて、「定正の落馬は、彼に無念の死を遂げさせられた太田道灌の亡霊が祟りをなした結果である」という伝説が生まれ、後世にまで語り継がれることになった 7 。この伝説は、道灌暗殺という事件が、当時の人々にいかに衝撃的に受け止められ、定正の運命と分かちがたく結びつけて考えられていたかを物語っている。
定正の死は、関東の勢力図に決定的な変化をもたらした。まず、扇谷上杉家は強力な指導者を失い、養子の上杉朝良が跡を継いだものの、求心力は著しく低下し、弱体化の一途を辿った 12 。これにより、長享の乱の潮目は完全に山内上杉方へと傾いた 31 。
そして何よりも重大な影響は、定正が自ら招き入れた伊勢宗瑞の動向であった。定正という提携相手を失った宗瑞は、もはや扇谷上杉家のコントロールを完全に離れ、独自の勢力拡大を開始する。定正の死の翌年、明応4年(1495年)には、扇谷家の重臣であった大森氏が守る小田原城を計略をもって奪取し、相模国支配の橋頭堡を築いた 16 。これは、後北条氏による関東支配の輝かしい第一歩であり、同時に、上杉氏の時代の終わりを告げる弔鐘でもあった。
上杉定正という人物を再評価するならば、彼は決して無能なだけの暗君ではなかった。道灌亡き後の扇谷家を支え、関東三戦で連勝を収めたその軍事的能力は、正当に認められるべきである。しかし、その成功がもたらした傲慢さが、為政者としての彼の視野を曇らせた。猜疑心から国家の柱石たる功臣を殺害し、外交の失敗から重要な同盟者を離反させた。彼は、人の上に立つ者としての器量に、致命的な欠陥を抱えていた。
結果として、彼の生涯は、意図せずして関東の旧秩序を破壊し、本格的な戦国時代の到来を告げる「触媒」の役割を果たしたと言える。彼の猜疑心が道灌を殺して上杉家の内紛を激化させ、彼の戦略眼の欠如が伊勢宗瑞を関東に招き入れた。自らの行動が、自らの一族と、自らが守るべき秩序の崩壊を加速させたのである。上杉定正は、誇りと猜疑の間で揺れ動いた末に自滅への道を歩んだ、悲劇的かつ関東戦国史において極めて重要な人物として、歴史にその名を刻んでいる。
彼の墓所は、神奈川県厚木市の広沢寺や徳雲寺に伝えられており 7 、その名はまた、曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』に登場する同名の人物のモデルともなっている 1 。