扇谷上杉朝良は太田道灌謀殺後の混乱で家督を継ぎ、山内上杉家と戦う。伊勢宗瑞と同盟し立河原で勝利。和睦後は永正の乱で調停役を務め、知略で激動の時代を生き抜いた。
15世紀後半の関東地方は、長期にわたる戦乱の時代にありました。応仁の乱に先立つこと10年以上、享徳3年(1455年)に勃発した「享徳の乱」は、鎌倉公方・足利成氏と関東管領・山内上杉氏との対立を軸に、関東全域を巻き込む約30年にも及ぶ大乱となりました 1 。この乱は関東の政治秩序を根底から揺るがし、鎌倉公方は本拠地を下総古河に移して「古河公方」となり、関東管領上杉氏との対立構造は固定化されました。これにより、関東は幕府の権威が直接及ばぬ、さながら独立した戦国時代へと突入していったのです。
この混沌とした状況の中で、関東管領を世襲する宗家格の山内上杉家に対し、分家である扇谷上杉家が急速に勢力を伸長させました。もともと上杉氏は複数の分家に分かれていましたが、上杉禅秀の乱(1416年)を経て、関東では山内家と扇谷家が二大勢力として並び立つようになります 4 。両家は享徳の乱では協力して古河公方と戦いましたが、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌の比類なき軍事的才能と政治的手腕により扇谷家の威勢が高まると、両家の関係には次第に亀裂が生じます 4 。山内上杉家当主・上杉顕定は、扇谷家の躍進を自らの権威を脅かすものとして強く警戒し、両家の対立はもはや避けられないものとなっていました 8 。
本報告書が主題とする上杉朝良(うえすぎ ともよし)は、まさにこの両上杉家が全面対決に至る「長享の乱」の渦中で、扇谷上杉家の家督を継いだ人物です。彼は、養父・上杉定正が名将・太田道灌を謀殺したことによる家中の混乱という、極めて困難な状況下で家の舵取りを任されました。さらにその治世は、伊勢宗瑞(後の北条早雲)に代表される新興勢力の台頭や、古河公方家の内紛(永正の乱)といった、関東の勢力図が根底から塗り替わる激動の時代と完全に重なります。
従来、上杉朝良は「文弱」と評され、新興勢力・北条氏の台頭を許し、名門・扇谷上杉家を衰退に導いた当主として、ややもすれば否定的に評価されてきました。しかし、本報告書では、彼を単なる「敗者」や「無能な君主」として断じるのではなく、既存の権威が崩壊していく未曾有の動乱期にあって、一門の存続という重責を背負い、苦渋に満ちた現実的な選択を迫られ続けた政治家として、その生涯を多角的に再検討することを目的とします。彼の決断の一つ一つが、いかに関東の政治・軍事状況に影響を与え、また彼自身が時代の大きな潮流にいかに翻弄されたのか。その実像に、史料に基づき徹底的に迫ります。
西暦(和暦) |
朝良の年齢(推定) |
上杉朝良の動向 |
関東の主要な出来事(山内上杉家、古河公方家、伊勢氏など) |
1473年(文明5年)? |
0歳 |
上杉朝昌の子として誕生(生年には異説多数) 9 。 |
享徳の乱が継続中。 |
1486年(文明18年) |
14歳 |
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扇谷上杉定正が家宰・太田道灌を謀殺 4 。 |
1487年(長享元年) |
15歳 |
伯父・上杉定正の養子となる 10 。 |
山内上杉顕定と扇谷上杉定正の対立が激化し、「長享の乱」が勃発 11 。 |
1494年(明応3年) |
22歳 |
養父・定正が陣没し、家督を相続。河越城主となる 10 。伊勢宗瑞・今川氏親と連携を開始 12 。 |
上杉定正、荒川渡河中に落馬し急死 13 。古河公方足利政氏が山内方に転じる 15 。 |
1495年(明応4年) |
23歳 |
伊勢宗瑞の小田原城奪取を事実上容認 9 。 |
伊勢宗瑞(北条早雲)が扇谷家臣・大森藤頼の小田原城を奪取 16 。 |
1504年(永正元年) |
32歳 |
今川・伊勢連合軍の支援を得て、武蔵立河原の戦いで山内上杉顕定に大勝 1 。 |
立河原での敗報を受け、越後守護・上杉房能が援軍を派遣。長尾能景が扇谷領に侵攻 11 。 |
1505年(永正2年) |
33歳 |
顕定・能景軍に河越城を包囲され降伏。長享の乱が終結 12 。江戸城に隠居するも実権は維持 18 。 |
両上杉家が和睦。朝良の家臣・太田六郎右衛門尉が中野陣で誅殺される 19 。 |
1507年(永正4年) |
35歳 |
|
山内・扇谷両家の同盟が復活。越後で長尾為景が上杉房能を討つ政変が発生 11 。 |
1510年(永正7年) |
38歳 |
古河公方家の内紛調停に乗り出す 18 。伊勢宗瑞と敵対関係に入る 20 。 |
山内上杉顕定が越後で戦死。山内家・古河公方家で内紛(永正の乱)が勃発 21 。 |
1512年(永正9年) |
40歳 |
伊勢宗瑞の相模侵攻に対し、山内上杉家と連携して対抗 18 。 |
伊勢宗瑞が三浦義同を攻撃し、相模統一を開始 20 。 |
1516年(永正13年) |
44歳 |
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伊勢宗瑞が三浦氏を滅ぼし、相模を平定 6 。 |
1518年(永正15年) |
46歳 |
4月21日、江戸城にて死去 12 。晩年に実子・藤王丸を寵愛し、後継者問題の火種を残す 10 。 |
養子の朝興が家督を継ぐが、家中に内紛が生じる。伊勢宗瑞(早雲)も翌年死去。 |
勢力 |
主要人物 |
関係性の概要 |
扇谷上杉家 |
上杉朝良 |
本報告書の主人公。定正の養子。山内家との抗争、伊勢宗瑞との同盟と敵対、公方家の調停など、激動の時代を生きた。 |
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上杉定正 |
朝良の養父。太田道灌を謀殺し、長享の乱を招いた。合戦中に陣没 4 。 |
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上杉朝昌 |
朝良の実父。扇谷上杉家の一門衆として高い地位にあった 22 。 |
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上杉朝興 |
朝良の甥であり養子。朝良の死後、家督を継ぐ 10 。 |
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太田道灌 |
扇谷上杉家家宰。名将として家の勢力を拡大させたが、主君・定正に謀殺される 4 。 |
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太田資康 |
道灌の子。父の死後、一時山内方に奔るが、後に扇谷家に復帰。朝良との関係は複雑で、誅殺説も存在する 23 。 |
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大森藤頼 |
扇谷上杉家臣、小田原城主。伊勢宗瑞に城を奪われる。山内方への内通説がある 9 。 |
山内上杉家 |
上杉顕定 |
関東管領。扇谷家と長享の乱で18年間争った朝良の最大の宿敵。越後で戦死 11 。 |
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上杉憲房 |
顕定の養子。顕定死後、もう一人の養子・顕実と家督を争う。後に朝良の妹を娶り同盟を結ぶ 11 。 |
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長尾景春 |
山内上杉家家宰職を巡り反乱。後に扇谷方に加わり、長年にわたり顕定と敵対した 6 。 |
古河公方家 |
足利政氏 |
古河公方。当初は扇谷方を支援するが、後に山内方に転じる。永正の乱では子・高基と対立し、晩年は朝良を頼った 15 。 |
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足利高基 |
政氏の子。父と対立し、伊勢宗瑞らと結ぶ。永正の乱における主要人物の一人 27 。 |
伊勢氏(後北条氏) |
伊勢宗瑞(北条早雲) |
駿河今川氏の客将から身を起こした新興勢力。朝良の同盟者として関東に進出、後に最大の敵となる 1 。 |
その他 |
今川氏親 |
駿河守護。宗瑞の後見人であり、宗瑞と共に関東に介入し、朝良を支援した 1 。 |
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三浦義同(道寸) |
相模の有力国衆。扇谷家と山内家の間で揺れ動いたが、最終的に伊勢宗瑞に滅ぼされる 11 。 |
上杉朝良の出自は、関東における名門、扇谷上杉家の直系に連なります。彼の父は、扇谷上杉家当主・上杉持朝の子である上杉朝昌(ともまさ)です 10 。父・朝昌は、一時は僧籍にあったものの、後に還俗して扇谷上杉家の一翼を担い、相模国七沢城(現在の神奈川県厚木市)を拠点としました 22 。彼は扇谷上杉家の当主とは別に、室町幕府の将軍足利義政・義尚父子へ進物を献上するなど、独自に幕府とのパイプを持つほどの有力な一門衆であり、その政治的地位の高さがうかがえます 22 。このような有力な一門の出身であることは、朝良が扇谷上杉家の後継者候補として白羽の矢を立てられる上で、極めて重要な背景となりました。
当時、扇谷上杉家の家督を継いでいたのは、朝良の伯父(父・朝昌の兄)にあたる上杉定正でした 30 。定正には男子がおらず、家の断絶を防ぐため、甥である朝良を養子として迎え入れました 10 。血縁の近い甥を養子とすることは、家の血筋と権力を維持するための、この時代の武家社会ではごく一般的な相続形態でした。これにより、朝良は扇谷上杉家の次期当主としての地位を約束されたのです。
上杉朝良の人物像を語る上で、必ずと言ってよいほど引用されるのが、「文弱であったため、養父・定正から武芸に励むよう度々注意された」という逸話です 10 。この記述は、彼に武勇に乏しい、いくさ人らしくない君主という印象を与え、後の扇谷上杉家衰退の一因と結びつけられがちです。しかし、この「文弱」という評価を、彼の生涯にわたる行動と照らし合わせて慎重に検討する必要があります。
この評価は、彼の個人的な気質や武勇を指すものであった可能性が高いと考えられます。実際に彼が家督を継いでからの行動を見ると、単に「文弱」という言葉では到底説明できない、したたかで現実的な政治家・戦略家としての一面が浮かび上がってきます。彼は、宗家・山内上杉家との10年以上にわたる大規模な戦争(長享の乱)を指導し続けました。劣勢に立たされれば、伊勢宗瑞や今川氏親といった関東外部の強力な軍事勢力と外交交渉を行い、同盟を締結するという大胆な戦略的判断を下しています 10 。その結果、永正元年(1504年)の立河原の戦いでは、自らが総大将として山内上杉軍に壊滅的な打撃を与える大勝利を収めています 1 。
さらに、長享の乱終結後に勃発した永正の乱においては、かつての宿敵であった山内上杉家と連携し、分裂した古河公方家の調停役を務めるなど、極めて高度な政治的バランス感覚を発揮しました 18 。これらの行動は、武力一辺倒ではなく、外交や権謀術数を駆使して乱世を生き抜こうとする、知略型の君主像を想起させます。後世の軍記物、例えば『甲陽軍鑑』などが武勇を絶対的な価値基準として彼を低く評価した可能性も否定できません 34 。したがって、「文弱」というレッテルは、彼の政治家としての能力を測る上で、むしろ一面的でミスリーディングな評価であると結論づけられます。
朝良が次期当主としての日々を送っていた頃、扇谷上杉家は外見上の勢力とは裏腹に、深刻な内部分裂の危機にありました。その元凶は、養父・定正が文明18年(1486年)に断行した、家宰・太田道灌の謀殺です 4 。道灌は、享徳の乱や長尾景春の乱で比類なき武功を挙げ、扇谷家の勢力を宗家・山内家に匹敵するまでに高めた最大の功労者でした 4 。しかし、その功績と名声が逆に主君・定正の猜疑心を煽り、讒言を信じた定正によって、道灌は相模国糟屋の館で非業の死を遂げたのです 8 。
扇谷上杉家の屋台骨であった道灌の死は、家中に計り知れない衝撃と動揺をもたらしました。道灌を支持していた多くの家臣が定正を見限り、離反が相次ぎました 9 。この扇谷上杉家の内部崩壊という絶好の機会を、宿敵である山内上杉顕定が見逃すはずはありませんでした。顕定はこれを好機と捉え、扇谷家への軍事行動を開始。長享元年(1487年)、ここに18年にもわたる両上杉家の存亡をかけた全面戦争、「長享の乱」の火蓋が切って落とされたのです 6 。上杉朝良は、まさにこの、家が内と外から崩壊しかねない最悪の状況下で、次代の家督を担う運命にあったのです。
長享の乱は、一進一退の攻防を続けながら長期化しました。そして明応3年(1494年)10月、戦局を大きく揺るがす事件が起こります。山内上杉顕定との決戦のため、高見原(現在の埼玉県小川町)に進軍していた扇谷上杉軍の総大将・上杉定正が、荒川を渡る際に乗っていた馬から落ち、それが原因で急死してしまったのです 6 。総大将の突然の死は、扇谷上杉軍に致命的な混乱をもたらしました。この危機的状況のなか、養子である朝良は武蔵国の本拠地・河越城(現在の埼玉県川越市)に入り、急遽、扇谷上杉家の家督を継承することになりました 10 。22歳(推定)の若き当主は、父の復讐を誓うと同時に、崩壊寸前の家を立て直すというあまりにも重い責務を背負うことになったのです。
家督を継いだ朝良が直面した現実は、あまりにも過酷でした。大黒柱であった定正を失い、さらにそれまで扇谷方を支援していた古河公方・足利政氏までもが山内上杉方へと寝返ったため、扇谷上杉家は軍事的にも政治的にも完全に孤立し、劣勢に立たされました 8 。この窮地を打開するため、朝良は極めて大胆な一手に出ます。関東内部の勢力だけでは山内上杉家に対抗できないと判断し、後背の駿河国守護・今川氏親と、その叔父(または客将)であり、当時伊豆国を平定し頭角を現していた伊勢宗瑞(後の北条早雲)に支援を要請したのです 1 。これは、旧来の関東の枠組みにとらわれない、朝良の現実主義的な戦略眼を示すものでした。
この同盟関係の構築過程で、関東の戦国史を大きく左右する事件が起こります。伊勢宗瑞による小田原城の奪取です 9 。従来、この事件は、宗瑞が鹿狩りを装って油断させ、扇谷上杉家の家臣・大森藤頼が守る小田原城をだまし取った、戦国的下剋上の象徴的な謀略として語られてきました。しかし、この通説には近年、有力な異論が提示されています。特に歴史学者・黒田基樹氏の研究によれば、当時、小田原城主の大森氏はすでに主家である扇谷上杉家を裏切り、敵対する山内上杉方に内通していた可能性が高いと指摘されています 9 。この説に立てば、宗瑞の小田原城攻撃は、単なる謀略ではなく、裏切り者である大森氏を討つという名目で、主君である朝良の了解、あるいは黙認のもとで行われた軍事行動であったと解釈できます。朝良が、結果として宗瑞の小田原城領有を事実上容認した 9 のは、単に無力であったからではなく、裏切り者への制裁を同盟者に代行させ、同時にその強力な同盟軍を自領と敵地との緩衝地帯に置くという、高度な戦略的判断があったからかもしれません。
しかし、この決断が持つ長期的な意味合いは、朝良にとって極めて皮肉なものでした。目先の脅威である山内上杉家に対抗するために引き入れた伊勢宗瑞という「狼」は、単なる援軍ではありませんでした。彼は自らの野心に基づき領土拡大を目指す、独立した戦国大名でした 14 。朝良が宗瑞の小田原城領有を認めたことは、結果的に、この新興勢力に関東進出のための確固たる足がかりを与えてしまうことになりました 16 。扇谷上杉家は、目先の危機を乗り越える代償として、将来的に自らを滅ぼすことになる勢力を、まさに自らの手で関東に招き入れ、その成長を助けてしまったのです。この一点において、朝良の選択は、戦国時代における旧秩序の崩壊と新秩序の台頭という、抗いがたい力学を象徴する悲劇的なものだったと言えるでしょう。
伊勢・今川という強力な援軍を得た朝良は、反撃に転じます。そして永正元年(1504年)9月27日、両軍は武蔵国立河原(現在の東京都立川市)で激突しました 17 。この「立河原の戦い」において、上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞の連合軍は、山内上杉顕定・古河公方足利政氏の連合軍に圧勝。顕定方は2,000人以上もの戦死者を出すという壊滅的な敗北を喫しました 10 。これは、長きにわたる長享の乱において、扇谷上杉家が収めた最大の軍事的勝利であり、朝良の名声を一時的に高めました。
ところが、この戦術レベルでの大勝利は、皮肉にも戦略レベルでの完全な敗北を招く引き金となりました。立河原での大敗の報は、顕定の実家である越後国に伝わります。兄の危機を知った越後守護・上杉房能は、ただちに守護代の長尾能景を総大将とする大規模な援軍を関東へ派遣することを決定しました 11 。今川・伊勢の連合軍がそれぞれの本国へ引き上げた後、守りが手薄になった扇谷上杉領に、この精強な越後軍が襲いかかったのです。越後軍の参戦により、兵力バランスは完全に逆転。扇谷上杉家はたちまち窮地に追い込まれました。
この一連の出来事は、当時の関東の紛争が、もはや関東内部だけでは完結せず、越後をも巻き込む広域的な連動性を持っていたことを明確に示しています。そして、朝良にとって最大の勝利であったはずの立河原の戦いが、かえって敵の総力を結集させる呼び水となり、自らの首を絞める結果となってしまったのです。この勝利の逆説こそ、朝良の悲劇性を象Mする象徴的な出来事と言えます。
永正2年(1505年)、越後からの援軍を得て勢いを盛り返した上杉顕定の軍勢に、本拠地・河越城を完全に包囲された朝良には、もはや抗う術はありませんでした 12 。同年3月、彼は降伏を表明。これにより、文明18年の太田道灌暗殺から18年間にわたって続いた長享の乱は、扇谷上杉家の敗北という形で、ついに終結の日を迎えました 17 。
和睦交渉は武蔵国中野の陣中で行われました 11 。勝利者である顕定は当初、朝良に出家を強要し、その上で朝良の甥にあたる上杉朝興を新たな当主に据えるという、極めて屈辱的な条件を提示しました 11 。これは、扇谷上杉家を事実上、山内上杉家の傀儡としようとする意図の表れでした。しかし、この一方的な処置に対し、扇谷上杉家の家臣団は猛反発します。主家の存続さえ危うくなるこの条件を、彼らは受け入れることができませんでした。家臣団の強い抵抗を前に、顕定もそれ以上の強要を断念せざるを得ず、結果として朝良は当主の座に留まることができました 9 。この事実は、朝良が戦争に敗れたとはいえ、扇谷上杉家が依然として無視できない政治力と、家臣団の強い結束を維持していたことを物語っています。
一方で、この和睦交渉の裏では、不穏な動きもありました。『年代記配合抄』などの史料によれば、和睦が成立したのと同じ年、同じ中野の陣中で、朝良は家臣の「太田六郎右衛門尉」なる人物を誅殺しています 19 。この人物が、かつて父・道灌の死後に山内方へ奔り、後に扇谷方へ復帰した太田資康と同一人物であるとする説は有力です 24 。もしこれが事実であれば、この誅殺は、和睦の条件を巡る家中の激しい意見対立や、敗戦の責任を特定の人物に負わせるためのスケープゴートであった可能性が考えられます。いずれにせよ、この事件は、長享の乱の終結が、扇谷上杉家内部に新たな亀裂と遺恨を残したことを示唆しています。
長享の乱の終結が関東にもたらした平和は、あまりにも短いものでした。永正4年(1507年)、山内・扇谷両家の同盟が復活した矢先、山内上杉顕定の片腕ともいえる弟の越後守護・上杉房能が、守護代の長尾為景によって討たれるという政変が越後で勃発します 11 。これに激怒した顕定は、為景討伐のために大軍を率いて越後へ出兵しますが、永正7年(1510年)、返り討ちにあい戦死してしまいました 20 。
関東管領という絶対的な権力者の突然の死は、関東の政治情勢を再び混沌の渦に突き落としました。山内上杉家では、顕定の二人の養子、上杉憲房と上杉顕実が次期関東管領の座を巡って骨肉の争いを始めます。時を同じくして、古河公方家でも、当主・足利政氏とその嫡男・高基が、山内家の家督争いへの対応や台頭する伊勢宗瑞への姿勢を巡って深刻に対立。関東の諸勢力は、この二つの内紛を軸に、再び敵味方に分かれて争い始めました。この一連の大規模な動乱は「永正の乱」と呼ばれています 21 。
この新たな大乱に際して、上杉朝良は意外な役割を担うことになります。彼は、山内上杉家と古河公方家、この二つの名門の内紛を収拾すべく、調停役として積極的に動き始めたのです 18 。これは、関東全体の秩序が崩壊すれば、自家である扇谷上杉家の存続も危うくなるという、極めて現実的な政治判断に基づくものでした。かつて18年もの間、死闘を繰り広げた宿敵・山内上杉家と連携し、古河公方家では足利政氏の立場を支持しつつ、対立する高基方との融和を模索しました 18 。しかし、各勢力の利害は複雑に絡み合い、それぞれの思惑が渦巻く中で、朝良の調停努力は実を結ぶことなく、関東の混乱はさらに深まっていきました。
朝良の調停が失敗に終わった大きな理由の一つが、伊勢宗瑞の存在でした。古河公方家の内紛において、足利高基方が伊勢宗瑞と手を結んだため、政氏を支持する朝良は、必然的に宗瑞と敵対関係に入ることになったのです 18 。かつて、山内上杉家に対抗するために自ら引き入れた同盟相手は、今や関東の覇権を争う最大の敵となっていました。宗瑞は、両上杉家や古河公方家が内紛で疲弊する隙を巧みに突き、相模の有力国衆であった三浦氏を滅ぼし(1516年)、相模一国を完全にその手中に収めます 6 。そして、その勢いのまま武蔵国への侵攻を開始し、扇谷上杉家の領国を脅かし始めました 13 。朝良は、内紛の調停という政治的課題と、宗瑞の侵攻という軍事的脅威への対処という、二つの困難な問題に同時に直面することになったのです。
永正の乱は、最終的に足利高基方の勝利に終わります。内紛に敗れた父・政氏は古河城を追われ、各地を流浪する身となりました。その失意の政氏が最後に頼ったのが、一貫して彼を支持し続けた上杉朝良でした 26 。朝良は政氏を武蔵国久喜の館に迎え入れ、その晩年を庇護しました 39 。これは、朝良が最後まで、古河公方という旧来の権威との関係性を重視し、自らを関東の秩序維持者の一人として位置づけようとしていたことを示しています 18 。しかし、その公方の権威自体が失墜していく時代の大きな流れの中で、彼のこうした行動が持つ政治的影響力は、もはや限定的なものとなっていたこともまた、紛れもない事実でした。
上杉朝良の生涯は、彼を取り巻く様々な人物との複雑な関係性によって形作られています。彼の決断と行動を理解するためには、これらの人物との関係を個別に分析することが不可欠です。
顕定は、朝良の治世前半における最大の宿敵でした。両者の争いは、単なる領土争いにとどまらず、関東管領という最高の権威を巡る、上杉一門の宗家と分家の構造的な対立でした 6 。顕定は、分家である扇谷家の勢力拡大を上杉一門の秩序を乱すものとして決して容認せず、太田道灌の死を機に、その打倒に乗り出しました。18年間にわたる長享の乱は、両者の執念がいかに深かったかを物語っています。しかし、その顕定が越後で不慮の死を遂げると、朝良は今度は顕定亡き後の山内家の内紛を調停するという皮肉な立場に立たされます。この関係性の変化は、戦国期の関東における敵味方の関係がいかに流動的であったかを示しています。
伊勢宗瑞は、間違いなく朝良の生涯において最も重要な影響を与えた人物です。その関係は、戦国時代における「利用と被利用」「同盟と裏切り」のダイナミズムを凝縮したものでした。当初、朝良は宗瑞を、山内上杉家に対抗するための強力な「駒」として利用しようとしました 1 。しかし、宗瑞は朝良の思惑をはるかに超える器量と野心を持った人物でした。彼は朝良の支援要請を関東進出の絶好の機会と捉え、同盟者として扇谷上杉領に足場を築くと、そこを拠点に自らの勢力を着実に拡大していきました 40 。永正の乱が始まると、両者の利害は完全に対立し、かつての同盟相手は最大の敵へと変貌します 20 。朝良が旧来の権力秩序の中で生きようとしたのに対し、宗瑞はそれを破壊することで新たな秩序を築こうとしました。この根本的な思想の違いが、両者の最終的な決裂を決定づけたと言えるでしょう。
古河公方・足利政氏との関係は、朝良の政治的立場を象徴しています。朝良は、長享の乱の初期に政氏に裏切られるという苦い経験をしながらも、永正の乱では一貫して政氏を支持し続け、内紛に敗れた彼を最後まで庇護しました 18 。これは、朝良が、たとえ形骸化しつつあっても、古河公方という伝統的な権威を尊重し、その権威を借りることで自らの行動の正統性を担保しようとしたことを示しています。彼は、旧秩序の維持者として振る舞うことで、新興勢力である伊勢宗瑞との差異化を図り、関東における自らの存在意義を確立しようとしたのかもしれません。
朝良にとって、弱体化した家臣団の統制は常に大きな課題でした。太田道灌の謀殺は、家中に深刻な亀裂と不信感をもたらしました。道灌の子・資康は、父の死後、一時山内方へ離反しましたが、後に扇谷家に復帰しています 23 。しかし、その資康(あるいは同名の別人)が、長享の乱終結時に朝良によって誅殺されたという説 19 は、主君と重臣の間の緊張関係が最後まで解消されなかったことを示唆しています。また、武蔵国の有力国衆であった大石氏は、もともと山内上杉家の家臣筋ですが、扇谷上杉家とも婚姻関係を結ぶなど複雑な関係にありました 10 。相模の三浦氏もまた、両上杉家の間で揺れ動き、朝良の対応を困難にさせました 23 。これらの有力家臣や国衆との関係をいかに維持し、統制していくか、それは朝良の治世を通じての大きな悩みであり続けました。
永正2年(1505年)の長享の乱終結後、和睦の条件として朝良は江戸城へ隠居したとされています 10 。しかし、これはあくまで形式的なものでした。山内上杉顕定が提示した、甥の朝興への家督移譲という要求は、扇谷上杉家臣団の強い反発によって頓挫しました 9 。その結果、朝良は隠居後も「大殿」として扇谷上杉家の実権を掌握し続け、政治・軍事の最終的な意思決定に関与していたと考えられています 18 。これは、彼が敗戦の将でありながらも、当主としての責任と権威を最後まで放棄しなかったことを示しています。
しかし、その晩年、朝良は扇谷上杉家の未来に、致命的ともいえる亀裂を生じさせる決断を下します。彼に待望の実子・藤王丸が誕生したのです。朝良はこの実子を異常なまでに寵愛し、既に養子として後継者に定めていた甥の上杉朝興を廃嫡し、藤王丸に家督を継がせようと考え始めました 10 。
この後継者問題は、扇谷上杉家が置かれていた状況を考えると、極めて深刻な意味を持っていました。当家は、長享の乱での敗北と、伊勢宗瑞(北条氏)の急速な台頭という、深刻な外的脅威に常に晒されていました。このような危機的状況下で最も必要とされるのは、家中の固い結束と、次代への安定した権力継承体制の確立です。しかし、朝良は一族の未来よりも、実子への個人的な情を優先させてしまいました。この動きは、当然ながら、すでに家中の支持を得ていた養子・朝興とその支持者たちとの間に、深刻な対立と不信感を生み出しました。
このお家騒動の火種は、朝良の存命中はかろうじて抑えられていましたが、彼の死と共に一気に燃え上がることになります。外的脅威がすぐそこに迫っているにもかかわらず、扇谷上杉家は内側から崩壊の危機を迎えつつありました。朝良の治世は、外的脅威への対応に追われる一方で、自らの手で次代の内紛の種を蒔き、安定した継承体制の構築に失敗したという点で、まさに悲劇的なものであったと言わざるを得ません。
永正15年(1518年)4月21日、上杉朝良は動乱の生涯を江戸城で閉じました 12 。彼の死後、家督はひとまず養子の朝興が継承します。しかし、朝良が残した藤王丸を巡る家中の対立は収まらず、扇谷上杉家の結束力は著しく削がれていきました 10 。この内紛に乗じたのが、伊勢宗瑞の子・北条氏綱でした。氏綱は扇谷上杉家の内情を見透かすように武蔵への侵攻を本格化させ、大永4年(1524年)には江戸城を奪取。朝興は本拠地・河越城への撤退を余儀なくされます 13 。そして、その河越城も、朝興の子・朝定の代、天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏康に奪われ、当主・朝定は戦死。ここに、名門・扇谷上杉家は完全に滅亡することになるのです 1 。その遠因が、朝良の晩年の判断にあったことは否定できません。
上杉朝良に対する後世の評価、特に江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』などの軍記物における評価は、概して厳しいものです。これらの書物では、彼は大勢力を率いながらも、新興の北条氏に敗れ、家を衰退・滅亡に導いた凡庸な、あるいは文弱な君主として描かれています 34 。これは、戦国時代の武勇を尊ぶ価値観や、扇谷上杉家が最終的に滅亡したという結果から遡ってその原因を求めた、結果論に基づいた評価が色濃く反映されていると言えるでしょう。
これに対し、黒田基樹氏をはじめとする近現代の歴史研究者たちは、一次史料の丹念な分析を通じて、上杉朝良の再評価を試みています 43 。彼らは、朝良の行動を、当時の複雑で流動的な政治力学の中での、極めて現実的な選択の連続として捉え直します。例えば、伊勢宗瑞との同盟は、孤立無援の状況を打開するための唯一の活路であった可能性があり、また、宗瑞の小田原城奪取を黙認した背景には、裏切った家臣への制裁という合理的な判断があったという新説も提示されています 9 。さらに、永正の乱における彼の調停者としての動きは、関東全体の秩序維持に腐心する、大局的な視野を持った政治家としての一面を示しています。これらの研究により、朝良は単なる「文弱な敗者」という一面的な人物像から、より複雑で多面的な、苦悩する政治家として理解されるようになりつつあります。
上杉朝良は、関東における旧来の権威、すなわち鎌倉公方と関東管領が支えてきた政治秩序が音を立てて崩壊し、伊勢宗瑞(北条氏)に代表される、実力のみを頼みとする新たな戦国大名が台頭する、まさに時代の大きな転換期に扇谷上杉家を率いました。彼は、旧秩序の維持者として、また名門・扇谷上杉家の当主として、家の存続という重責を背負い、最後まで奮闘しました。しかし、彼の前には、山内上杉家との同族間の争い、伊勢宗瑞という規格外の新興勢力の挑戦、そして古河公方家の内紛という、あまりにも多くの難題が同時に山積していました。
彼の生涯は、これらの巨大な外的圧力に対応する一方で、自らが引き起こした家中の後継者問題という内的要因によって、その努力が蝕まれていくという悲劇の連鎖でした。彼は時代の大きな潮流に抗うことができず、結果として扇谷上杉家は滅亡への道をたどります。しかし、その過程で見せた彼の外交手腕や政治的判断には、見るべきものが少なくありません。上杉朝良の生涯は、激動の時代の中で、家の存続という至上命題を背負い、理想と現実の狭間で苦渋の選択を続けた、一人の悲劇的な、しかしながら紛れもなく現実主義的な政治家の姿を、現代の我々に示していると言えるでしょう。