最終更新日 2025-06-10

上村頼孝

「上村頼孝」の画像

戦国武将 上村頼孝の実像:相良氏におけるその生涯と一族の変遷

1. はじめに

本報告書の目的と対象

本報告書は、戦国時代の肥後国球磨郡を拠点とした武将、上村頼孝(うえむら よりよし/よりたか)の生涯と、彼を取り巻く相良氏一族の動向について、現存する史料に基づき詳細に記述し、考察を加えることを目的とする。特に、相良本家との関係性、主君であり甥でもある相良義陽への反乱に至る経緯、そしてその最期と一族のその後を明らかにすることに重点を置く。その際、不自然な英単語の使用や、一部のみのマークダウン記述は避けるよう留意する。

上村頼孝という人物の概要

上村頼孝は、肥後南部の戦国大名である相良氏の庶流、上村氏の第14代当主である 1 。相良氏第17代当主・相良晴広の実弟であり、晴広の子で第18代当主となった相良義陽の叔父という、本家に極めて近い血縁関係にあった 1 。しかしながら、甥である義陽の家督相続に対して不満を抱き、弘治3年(1557年)に反乱を起こした結果、永禄10年(1567年)に悲劇的な最期を遂げることとなる 2 。その生涯は、戦国時代の武家の栄光と没落、忠誠と反逆が交錯する複雑な様相を呈している。

史料について

本報告書の記述は、主に相良氏の歴史を伝える『八代日記』や、江戸時代に編纂された『球磨郡誌』、『南藤蔓綿録』といった記録、及び関連する近年の研究成果を参照して構成される。これらの史料は、上村頼孝の事績や当時の社会状況を理解する上で不可欠であるが、記述内容に若干の異同が見られる場合もある。例えば、頼孝の名の読みについては、「よりよし」が有力とされ、本報告書でもこれを採用するが 1 、史料によっては「頼吉」という字が当てられている事例も存在する 1 。可能な限り、こうした異同についても言及し、多角的な視点からの分析を試みる。

2. 上村頼孝の出自と上村氏

相良氏の庶流としての上村氏

上村氏は、鎌倉時代に肥後国人吉荘の地頭となって以来、戦国大名へと発展した相良氏の有力な庶流である 3 。その祖は、人吉相良氏初代当主・相良長頼の四男である頼村とされ、代々相良本家を軍事面や政治面で支える重責を担ってきた 4 。上村頼孝は、この上村氏の第14代当主として、一族を率いる立場にあった 1

父・上村頼興とその時代背景

頼孝の父は、上村氏第13代当主の上村頼興(よりおき)である 1 。頼興は、自身の長男・亀千代(後の相良晴広)を相良本家の養子として送り込み、相良氏第17代当主として家督を継がせるなど、当時の相良氏において絶大な影響力を行使した人物であった 4 。この事実は、上村氏が単なる庶家の一つという立場を超え、時には相良本家の家督問題にさえ深く関与し得るほどの勢力を有していたことを示している。

しかし、頼興はその権勢を維持するために、冷徹な手段も辞さない謀略家としての一面も持ち合わせていた。天文4年(1535年)には実弟である上村長種を 5 、また時期は不明ながら岡本城主であった岡本頼春をも謀殺し、岡本城には自身の四男・稲留長蔵を送り込んでいる 4 。このような頼興の強引な手法や、本家に対する強い影響力の行使は、相良氏内部における上村氏の立場を特異なものにしたと考えられる。頼興が築き上げた権勢とその維持、あるいはそれに対する周囲の反発といった複雑な要因が、頼孝の世代にも影響を及ぼし、後の彼の行動の背景に潜んでいたと推察される。頼興自身が謀略を駆使して一族内の対立者を排除していたという事実は、頼孝を含む子供たちに、権力闘争の厳しさや非情さを肌で感じさせたであろう。頼孝が甥の義陽の家督相続に不満を抱いたのは 2 、父・頼興の時代には上村氏が本家に対して強い影響力を持っていたことの裏返しであり、その影響力が義陽の代になって相対的に低下することへの危機感の表れであったのかもしれない。

上村長種の悲劇

上村長種は頼興の実弟であり、頼孝から見れば叔父にあたる人物である 5 。長種は相良氏の武将として、享禄2年(1529年)に犬童一族が起こした反乱の鎮圧において、佐敷城や湯浦城を攻略するなど、数々の武功を挙げた 5 。しかし、その有能さ故か、兄・頼興との間に確執が生じたと見られ、天文4年(1535年)4月8日、頼興は奉行の相良長兄らと謀り、長種を八代の鷹峯城に呼び出し、刺客の蓑田長親に命じて暗殺させた。享年41であった 5 。さらに、長種の娘(大隅国の有川氏に嫁いでいた)は、父の死後に離縁され、天文6年(1537年)に餓死した後、有川氏を祟ったという伝承も残されており、その鎮魂のために宝現大明神(隈媛神社)が建立されたという 5

頼興による実弟・長種の謀殺は、上村氏一族内に深刻な亀裂を生んだ可能性があり、頼孝の世代にも暗い影を落としていたかもしれない。一族内の不信感や権力闘争の激しさを物語るこの事件は、単なる権力闘争に留まらず、後々まで語り継がれるほどの怨恨を残したことを示唆している。頼孝が後に起こす反乱も、こうした一族内の不和や、力による支配が常態化した環境から生まれた側面があったと考えることもできよう。

3. 上村頼孝の生涯

生誕と家督相続

上村頼孝は、永正14年(1517年)に上村頼興の次男として生を受けた 1 。父・頼興が弘治3年(1557年)に死去すると、頼孝は上村氏の家督を継承し、上村城主となった 2 。この時点で、相良本家の当主は、頼孝の実兄である相良晴広の子、すなわち頼孝の甥にあたる相良義陽であった。

弘治3年(1557年)の反乱

背景

実兄・相良晴広の死後、その子である相良義陽が相良氏の家督を継いだことに対し、叔父である頼孝は強い不満を抱いていた 2 。義陽が若年であったこともあり、その後見人を務めていた父・頼興が死去したことを好機と捉え、頼孝は弟たちと共に反乱を決意するに至る。

経緯

弘治3年(1557年)6月、頼孝は弟の上村頼堅(豊福城主)、稲留長蔵(岡本城主、頼興の四男 4 )と共に、相良義陽に対して兵を挙げた 2

結果

反乱軍は当初こそ勢いがあったものの、義陽方の反撃により劣勢に立たされる。まず、弟の上村頼堅が豊福城で敗れ、福善寺へ逃れたところを捕らえられ、同月13日に斬首された 2 。頼孝は水俣近郊の久木野城に籠城し、菱刈氏当主・菱刈重任や日向の北原氏から500余名の援軍を得て抵抗を試みたものの、義陽軍によって撃退される 2 。同年9月20日(『八代日記』によれば8月13日ともされる 2 )、頼孝は北原氏を頼り、その所領である日向国飯野(現在の宮崎県えびの市 1 )へと逃亡した 2 。相良義陽は、この反乱鎮圧にあたり薩摩の島津氏からも増援を得ており、大畑城、上村城、岡本城といった反乱側の拠点を次々と攻略し、反乱を完全に鎮圧した 6 。稲留長蔵もまた、頼孝と同様に日向飯野へと逃れた 6

頼孝の反乱は、単なる個人的な不満に起因するものに留まらず、より深い要因が絡んでいたと考えられる。頼孝の父・頼興は、相良本家を実質的に後見するほどの強い立場にあった 2 。その頼興の死によって上村氏の影響力が低下し、若き当主・義陽を中心とする新たな支配体制への移行が進む中で、頼孝が疎外感や危機感を覚えたことは想像に難くない。また、この反乱に菱刈氏や北原氏といった外部勢力が関与したことは、当時の肥後南部における複雑な勢力関係を如実に反映している。これらの勢力は、相良氏としばしば対立したり同盟したりする関係にあり 7 、頼孝が彼らに援助を求めたことは、この反乱が相良氏内部だけの問題ではなく、周辺勢力との連携を視野に入れたものであった可能性を示唆する。さらに、義陽が鎮圧にあたって島津氏の援軍を得たという事実は 6 、この反乱が相良氏の存続に関わる重大事と認識され、外部の有力大名の力を借りてでも早期に鎮圧する必要があったことを物語っている。

北原氏への亡命と帰参

日向飯野に逃亡した頼孝は、永禄3年(1560年)までの約3年間、亡命生活を送った 2 。その間、相良義陽は無量壽院の住職であった正阿弥(本名は東出羽守)を派遣し、巧みな言葉で頼孝を説得した 2 。頼孝は義陽からの帰国赦免の申し出を信じ、同年7月29日、士卒700余名を率いて相良領内に帰還し、水俣城下に居住した 2 。弟の稲留長蔵も、頼孝に続いて帰参したと記録されている 6

しかし、義陽が頼孝を帰参させたのは、本心からの赦免ではなく、周到に計画された偽計、すなわち謀略であった可能性が極めて高い。史料には「これは偽計で、ほとぼりの冷めた永禄10年(1567年)に共に攻撃されて切腹を強いられた」と明記されており 6 、一度は大規模な反乱を起こした有力者を完全に赦免することの難しさと、戦国武将の非情な一面を物語っている。戦国時代の常識から考えても、一度主君に弓を引いた人物を、数年後に無条件で許し、元の勢力圏近くに住まわせることは極めてリスクの高い行為である。頼孝が700名もの士卒を率いて帰参したという事実は 2 、彼が依然として一定の武力を保持しており、義陽にとって潜在的な脅威であり続けたことを示している。義陽が頼孝の帰参を許したのは、彼を監視下に置き、機を見て確実に排除するための策略であったと見るのが自然であろう。

永禄10年(1567年)の最期

帰参から7年後の永禄10年(1567年)、相良義陽はついに頼孝討伐の断を下す。奉行である蓑田信濃守と高橋駿河守に兵を与え、頼孝が居住する水俣へと差し向けた 2

この討伐の報を聞いた深水長智(当時の名は宗方、相良氏の執政 2 )の子、深水源八郎長則は、同じ相良一族である頼孝に対し、討手側に一人の死者も出さずに一方的に討ち取るのは武士の礼に反すると考えた。長則は父・宗方に訴え、自らが頼孝と一騎打ちをして相討つ役目を志願し、これが許された 1

頼孝と源八郎長則は、対峙する前に互いに酒を酌み交わしたと伝えられる。その後、両者は槍を合わせて壮絶に戦い、頼孝は源八郎長則を突き殺した 1 。しかし、多勢に無勢であり、もはやこれまでと覚悟を決めた頼孝は、自ら切腹して果てた。享年51。法名は本山蓮光と伝えられる 1

この時、頼孝の嫡子である上村四郎頼辰(満菊丸とも)も父に殉じ、24歳の若さで切腹した。頼孝の近習たちもまた、主君の後を追い、ことごとく殉死を遂げたとされる 1 。頼孝の他の子供たちは、幼少であることを理由に助命された 2

深水源八郎長則の行動は、戦国武士の複雑な倫理観や美意識を象徴していると言える。主君の命令には従いつつも、敵対する相手(しかも同じ一族の者)への最低限の敬意を失わず、自らの命を賭して「礼儀」を尽くそうとしたその姿は、特筆に値する。源八郎の父・深水宗方(長智)は相良氏の重臣であり、その息子がこのような行動を取ることは、相良家中における一定の合意形成や、義陽による暗黙の了解があった可能性を示唆する。単に討ち取るのではなく、一騎打ちという形を取ることで、頼孝に武士としての名誉ある死に場所を与えたとも解釈できる。これにより、頼孝の旧臣や彼に同情的な勢力の反発を和らげる狙いがあったのかもしれない。また、酒を酌み交わすという行為 1 は、敵対関係にありながらも、互いの立場を理解し、死を覚悟した者同士の儀礼的な意味合いを持つものであり、頼孝の最期を単なる粛清ではなく、ある種の儀式的なものとして演出し、相良氏内部の動揺を最小限に抑える効果も意図されていた可能性がある。

表1:上村頼孝 関連年表

年代

出来事

出典

永正14年(1517年)

上村頼孝、上村頼興の次男として生誕。

1

天文24年(1555年)

実兄・相良晴広死去。甥・相良義陽が相良氏17代当主として家督相続。

2

弘治3年(1557年)

父・上村頼興死去。頼孝、上村氏家督相続(14代当主)。同年6月、弟の上村頼堅、稲留長蔵と共に相良義陽に対し反乱。久木野城に籠城後、敗れて日向飯野へ逃亡。

2

永禄3年(1560年)

7月29日、相良義陽の説得に応じ、士卒700余名を率いて水俣へ帰参。

2

永禄10年(1567年)

4月1日、相良義陽の命により討手を差し向けられる。深水源八郎長則と戦い、これを討ち取った後、切腹。享年51。法名・本山蓮光。嫡子・頼辰(24歳)も殉死。

1

この年表は、上村頼孝の生涯における主要な出来事を時系列で整理したものである。彼の行動の変遷や、相良氏内部の情勢変化との関連を理解する一助となる。特に、反乱から最期までの期間が10年と比較的長いこと、一度帰参を許されながらも最終的には排除されたという経緯が明確になる点は重要である。

4. 上村頼孝に関わる主要人物

上村頼孝の生涯を理解する上で、彼を取り巻く人物たちとの関係性を把握することは不可欠である。以下に主要な関連人物を挙げる。

  • 相良晴広(さがら はるひろ):
    頼孝の実兄。上村頼興の子として生まれたが、相良氏第16代当主・相良義滋の養嗣子となり、相良氏第17代当主の座に就いた 1。頼孝との具体的な関係性を示す史料は乏しいが、兄弟でありながら本家と庶家の当主という異なる立場にあったことは、両者の間に複雑な感情や力関係を生じさせた可能性がある。
  • 相良義陽(さがら よしひ):
    頼孝の甥(相良晴広の子)であり、相良氏第18代当主 2。叔父である頼孝が起こした反乱を受け、これを鎮圧。その後、帰参を許したものの、最終的には永禄10年(1567年)に頼孝を討伐(事実上の謀殺)した 2。一方で、頼孝の遺児である上村長陸を許し、自身の妹・亀徳を娶らせて奥野の地頭に任じるなど、懐柔策ともとれる処置も行っている 10。義陽のこれらの行動は、叔父を謀殺する冷徹さと、その子を許して取り立てる政治的判断力を併せ持つ、戦国大名らしい複雑な人物像を浮かび上がらせる。頼孝の反乱は義陽の支配体制にとって大きな脅威であり、その排除は権力基盤の安定に不可欠であった 2。他方で、長陸を登用し、自らの妹を嫁がせたこと 10 は、上村氏の残存勢力を懐柔し、自らの支配体制に組み込むための高度な政治的判断と言える。これにより、無用な遺恨を残さず、人材を活用しようとした可能性が考えられる。
  • 深水源八郎長則(ふかみ みなもとはちろう ながのり/ちょうそく):
    相良氏の家臣。執政であった深水宗方(後の深水長智)の子 1。上村頼孝の最期において、一族としての礼節を重んじ、自ら頼孝と槍を合わせ、討ち死にしたと伝えられる 1。深水長智(宗方)の嫡子・摂津介頼則は天正14年(1586年)に高森城攻囲戦で戦死している記録があるが 9、源八郎長則がこの頼則と同一人物であるか、あるいは別の男子であったかについては、提供された資料からは断定できない。いずれにせよ、深水一族の武士としての気概を示す人物と言えよう。
  • 上村頼興(うえむら よりおき):
    頼孝の父。上村氏第13代当主であり、相良晴広の実父。詳細は「2. 上村頼孝の出自と上村氏」にて記述済み。
  • 上村頼堅(うえむら よりかた)、稲留長蔵(いなどめ ながくら):
    いずれも頼孝の弟。頼孝と共に相良義陽に対して反乱を起こした 2。頼堅は豊福城主であったが、反乱の初期に敗れて討死した 2。稲留長蔵は岡本城主であり、頼孝と共に日向飯野へ逃亡した後、帰参したが、頼孝とほぼ同時期(永禄10年)に八代奉行らによって殺害されたとされる 6。

表2:上村頼孝 関係人物一覧

人物名

続柄・役職など

出典

上村頼興

父、上村氏13代当主、相良晴広の実父

1

母(上村長国娘)

1

相良晴広

実兄、相良氏17代当主

1

上村頼堅

弟、豊福城主、頼孝と共に反乱し敗死

2

稲留長蔵

弟、岡本城主、頼孝と共に反乱、後に殺害

2

相良義陽

甥(晴広の子)、相良氏18代当主、頼孝を討伐

2

上村頼辰(四郎/満菊丸)

嫡子、父と共に自刃(享年24)

1

上村長陸

次男、後に相良氏に仕える

2

上村利行

三男

2

女子(菱刈美濃守室)

長女

2

女子(東頼乙室)

次女

2

深水源八郎長則

頼孝最期の相手、深水宗方(長智)の子

1

深水宗方(長智)

源八郎長則の父、相良氏執政・家老

1

この表は、上村頼孝を中心とした人間関係を簡潔に示したものである。彼の立場や行動に影響を与えた人物、そして彼の影響を受けた人物が一目でわかる。特に家族関係と、対立関係にあった相良義陽、そして最期に深く関わった深水親子との関係が、彼の生涯を理解する上で重要となる。

5. 上村頼孝の子孫と一族のその後

嫡子・上村頼辰(四郎)の殉死

永禄10年(1567年)4月1日、上村頼孝が相良義陽の討伐軍と戦い、深水源八郎長則を討ち取った後に切腹した際、その嫡男である上村四郎頼辰(幼名・満菊丸、頼吉とも記される)も父と共に殉じた 1 。頼辰はこの時24歳であり、父の非業の最期に際し、武士の子として潔く殉じたのである。これにより、頼孝の直系による上村氏の家督継承は一旦途絶える形となった。

次男・上村長陸の処遇とその後

頼孝の他の子供たちは、父の死の時点ではまだ幼かったため、相良義陽によって助命された 2 。その一人である次男の上村長陸(ながみち)は、成人すると義陽に許され、相良氏に再び仕えることとなった 10 。義陽は長陸に対して、自身の異母妹(あるいは別腹の妹)で、かつて島津義弘と離縁していた亀徳(きとく/かめとく)を娶らせ、さらに球磨郡内の奥野(現在のあさぎり町奥)の地頭にも任じるという、破格とも言える処遇を与えた 10

相良義陽が、かつて自らに反旗を翻した頼孝の子である長陸を登用し、さらに自身の妹を与えるという厚遇ともとれる処置をした背景には、複雑な政治的意図があったと考えられる。これは、反乱を起こした上村氏の残党勢力を懐柔し、完全に自らの支配下に組み込むための戦略であった可能性が高い。父を殺した相手の息子を登用し、近親者を嫁がせるというのは、戦国時代における和睦や勢力再編の常套手段の一つである。また、上村氏は相良氏にとって重要な庶流であり 4 、その血筋を完全に絶やすことは、将来的な人材確保の観点からも得策ではなかったという判断もあったのかもしれない。亀徳が島津義弘と離縁していたという事実は 10 、当時の相良氏と島津氏の微妙な関係性を示唆しており、そのような経歴を持つ女性を長陸に与えることにも、何らかの政治的配慮(例えば、島津氏への配慮、あるいは亀徳自身の立場を相良氏内部で安定させるためなど)があった可能性も否定できない。

しかし、長陸の妻となった亀徳の晩年は、必ずしも幸福なものではなかった。『南藤蔓綿録』によると、長陸の死後、亀徳は尼となり原城(現在の熊本県天草郡苓北町)の下原に住んだが、当時相良家の家老として権勢を振るっていた犬童頼兄(いんどう よりもり/よりえ)に疎略に扱われ、貧しい生活を強いられた挙句、元和年間(1615年~1624年)に餓死したと伝えられている。その法名は「西津良意」とされる 10

亀徳のこのような悲劇的な晩年は、頼孝の反乱から数十年が経過した後も、上村氏の縁者が相良家中枢から必ずしも厚遇されていたわけではない可能性を示唆している。犬童頼兄は江戸時代初期の人吉藩において大きな力を持ち、藩政を主導したが、後にその専横が問題視され失脚する人物である 11 。彼の時代に、藩主・相良義陽の妹であり、上村氏ゆかりの人物である亀徳が冷遇され、餓死に至ったという記録 10 は、尋常ではない事態であり、藩政内部に何らかの混乱や対立があったことをうかがわせる。上村頼孝の反乱の記憶が、亀徳の出自(頼孝の息子の妻)と結びつけられ、彼女が冷遇される一因となった可能性も否定できない。これは、かつての敵対勢力に対する潜在的な警戒心が、相良氏内部に根強く残っていたことの現れかもしれない。

その他子女について

上村頼孝には、殉死した嫡男・頼辰、後に相良氏に仕えた次男・長陸の他に、三男として利行という息子がいたことが記録されている 2 。また、娘も二人おり、一人は菱刈美濃守に、もう一人は東頼乙(ひがし よりおつ)に嫁いだとされる 2 。これらの子女の具体的な動向やその後の消息については、提供された資料からは詳細を明らかにすることはできなかった。

上村一族のその後

上村氏は、頼孝の代で反乱を起こし、当主とその嫡子が討死するという危機に瀕したが、次男・長陸の系統によって家名は存続した。史料によれば、上村氏は初代頼村から長陸まで16代続いたとされており 4 、この記述から、頼孝が14代、父と共に死んだ頼辰が15代(ただし父と同時死のため実質的な統治期間はなし)、そして助命された長陸が16代当主として数えられている可能性が考えられる。上村一族はその後も相良氏の家臣として続いたと推察されるが、頼孝の反乱がその後の上村氏の藩内における立場や影響力にどのような影響を与え続けたかについては、さらなる史料調査が必要である。

6. 上村氏の拠点と菩提寺

上村城(うえむらじょう)

上村城は、現在の熊本県球磨郡あさぎり町上南に存在した山城である 4 。麓の集落の南、谷水薬師寺の西に聳える標高約270メートルの山に築かれていた 4 。別名として麓城(ふもとじょう)、あるいは亀城(かめじょう)とも呼ばれていたことが記録されている 13

築城年代は明確ではないが、古くから上村氏によって築かれ、代々の居城であったと伝えられている 4 。上村頼孝もこの城の城主であり、弘治3年(1557年)に相良義陽に対して反乱を起こした際には、この城も戦場となり、最終的には義陽軍によって攻め落とされた 6

現在は城跡として残り、曲輪や土塁、堀切といった遺構が確認できる 4 。遊歩道が整備されており、特に紅葉の名所としても知られ、多くの人々が訪れる 4 。あさぎり町の指定史跡となっており 13 、「上村相良氏関連遺跡」の一つとして、日本遺産「人吉球磨-相良700年が生んだ保守と進取の文化~日本でもっとも豊かな隠れ里-」の構成文化財にも認定されている 16

菩提寺・谷水薬師寺(たにみずやくしじ)

谷水薬師寺は、上村城の東麓、現在のあさぎり町上南に位置する寺院である 4 。正式には谷水山東円寺と号し、応永32年(1425年)に弘尊上人によって創建されたと伝えられている古刹である 15

この寺院は上村氏の菩提寺であり、参道の脇には上村一族の墓所が存在する 4 。本尊は薬師如来で、日本七大薬師の一つに数えられるとも言われている 15

谷水薬師寺は、その歴史の中で幾度も盛衰を繰り返してきた。特に、弘治3年(1557年)の上村氏の没落(上村頼孝の反乱失敗とそれに伴う一族の凋落)の際には兵火にかかるなど、幾度も焼失の憂き目に遭ったが、その都度、信仰心の篤い人々によって再建されてきたと記録されている 15 。また、山門に立つ仁王像に、自分の体の悪い部分と同じ箇所に噛んだ紙つぶてを投げつけ、それがうまく付着すると病が治癒するというユニークな信仰も伝わっている 15

谷水薬師寺が上村氏の盛衰と共に何度も焼失と再建を繰り返したという事実は、寺院が単なる信仰の場であるだけでなく、その地域の領主一族の権勢や運命と深く結びついていたことを示している。菩提寺とは、先祖代々の墓があり、その冥福を祈る寺のことであるから、上村氏にとって谷水薬師寺は、一族のアイデンティティや結束を象徴する極めて重要な場所であったと考えられる。 15 に「弘治3年(1557年)の上村氏の滅亡など幾度も焼失した」とあるのは、上村氏が戦乱に巻き込まれたり、勢力を失ったりした際に、その影響が菩提寺にも直接的に及んだことを意味する。それでもなお再建が繰り返されてきたのは、単に信仰の篤さだけではなく、上村氏の子孫や関係者、あるいは地域住民にとって、この寺院が精神的な支柱として、かけがえのない存在であり続けたからであろう。

7. 考察

上村頼孝の行動原理と戦国武将としての評価

上村頼孝の行動原理を考察すると、そこには複数の要因が複雑に絡み合っていたことが推察される。まず、相良氏の有力庶家である上村一門の長としての自負心、そして父・頼興が築き上げた本家に対する強い影響力を維持したいという執着があったと考えられる。それに加え、若年の甥・相良義陽が当主となり、新たな支配体制が構築されていく中で、自らの立場が相対的に低下することへの不満や警戒心も、反乱へと踏み切らせた大きな動機であったろう。

弘治3年(1557年)の反乱に際して、弟たちと連携し、菱刈氏や北原氏といった外部勢力からの援軍を得ようとした動きを見る限り、頼孝の行動は単なる感情的な暴発ではなく、一定の戦略的思考に基づいたものであったことがうかがえる。しかし、結果として義陽軍に敗北し、自身は逃亡、弟の頼堅は討死、そして一族を危機に晒したという点では、戦国武将としての力量には限界があったと評価せざるを得ない。

永禄10年(1567年)の最期に見せた潔さや、深水源八郎長則との一騎打ちの逸話は、武士としての意地や覚悟を示すものとして後世に語り継がれている。しかし、その一方で、この「名誉ある死」とも言える結末は、相良義陽による周到な計画と、帰参を許した後の7年間という時間をかけた準備の結果もたらされたものであり、頼孝が義陽の掌の上で踊らされていた側面も否定できない。

頼孝の反乱は、個人的な野心や不満のみならず、戦国時代における庶家の立場、家督相続の不安定さ、そして中央集権化を進めようとする本家と、それに抵抗する伝統的な力を持つ庶家の間に生じる構造的な緊張関係の現れと捉えることができる。相良氏は、鎌倉時代以来の古い家柄であり、多くの庶家を抱えていた 3 。これらの庶家は、本家を支える存在であると同時に、潜在的な競争相手でもあった。戦国時代は実力主義の時代であり、家督相続は必ずしも長子相続が保証されるわけではなく、しばしば内紛の原因となった 18 。頼孝の父・頼興自身も、実子を本家の養子に入れるなど、家督相続に深く関与していた 4 。義陽の時代に、より強固な当主中心の支配体制を築こうとする動きがあったとすれば、それに伴い、かつて大きな影響力を持った上村氏のような庶家の権限が縮小されることへの反発が生じるのは、戦国時代の力学から見て自然な流れであったと言えよう。

相良氏内部における上村氏の位置づけとその変遷

上村氏は、相良氏の数ある庶流の中でも特に有力な家の一つであり、特に頼孝の父・上村頼興の代には、時には相良本家をも凌ぐかのような強い影響力を持った時期もあった。頼興が実子・晴広を本家の当主に据えたことは、その最たる例である。

しかし、上村頼孝が起こした反乱とその失敗は、上村氏の勢力を大きく削ぐ結果となった。相良義陽は、叔父である頼孝を排除することで、自身の当主としての権威を確立し、相良家中における支配力を強化することに成功した。この事件は、他の有力家臣や庶家に対する見せしめとなり、義陽の権力基盤を固める上で重要な契機となった可能性がある。戦国大名が領国支配を安定させる過程で、しばしば見られる内部権力闘争の一環と位置づけることができる。戦国大名は、家臣団の統制と領国の一元支配を目指すため、独立性の高い有力庶家や国人の力を抑制する必要があった( 20 21 は肥後国衆一揆の例であるが、領主権強化の文脈は共通する)。頼孝という、当主の叔父であり、かつて強大な権力を持った上村氏の当主を排除することは、他の誰であっても当主に逆らえば同様の運命を辿るという強力なメッセージとなったはずである。相良氏の歴史には、家督や領地をめぐる骨肉の争いが散見されるが 18 、義陽は、こうした不安定な要素を排除し、より安定した支配体制を築こうとしたと考えられる。

頼孝の子・長陸が後に取り立てられ、義陽の妹を娶るなど厚遇されたものの、その妻・亀徳が晩年に悲劇的な最期を遂げたという伝承は、上村氏が完全に元の影響力を回復するには至らなかった可能性を示唆している。頼孝の反乱は、上村氏の相良氏内部における地位を大きく変動させ、その後の歴史に長く影響を及ぼしたと言えるだろう。

8. おわりに

総括

上村頼孝の生涯は、戦国時代の武家にしばしば見られる栄光と悲劇、忠誠と裏切り、そして非情な権力闘争の様相を色濃く反映している。相良氏という一地方勢力の中で、本家との複雑な血縁と力関係に翻弄され、自らの信念と野心の間で揺れ動き、最終的には悲劇的な結末を迎えた。彼の行動は、単なる個人的な野心の発露に留まらず、戦国期における主家と庶家の関係性、権力構造の変化といった、より大きな歴史的文脈の中で捉える必要がある。

頼孝が起こした反乱は、結果として鎮圧され、彼自身も命を落とすことになったが、この事件は相良氏内部の権力構造に大きな影響を与え、その後の上村氏の運命をも左右する重要な転換点となった。彼の存在と行動は、肥後国南部の戦国史を語る上で、無視できない意義を持っている。

今後の研究課題

本報告書は、現時点でアクセス可能な史料に基づいて上村頼孝についてまとめたものであるが、いくつかの研究課題が残されている。

第一に、『八代日記』や『南藤蔓綿録』といった編纂史料だけでなく、相良氏関連の一次史料(古文書など)のさらなる調査・分析によって、頼孝の具体的な行動や、相良義陽とのより詳細な関係性、反乱の具体的な経緯や規模について、新たな事実が明らかになる可能性がある。

第二に、頼孝の兄弟姉妹や、助命された長陸以外の子供たちのその後の動向についても、より詳細な追跡調査が望まれる。彼らが相良氏の中で、あるいは他の地域でどのような生涯を送ったのかを明らかにすることは、上村氏一族の全体像を理解する上で重要である。

第三に、頼孝の反乱が、当時の肥後国南部のみならず、隣接する薩摩の島津氏や日向の伊東氏・北原氏といった諸勢力に与えた具体的な影響についても、より広い視点からの研究が期待される。この反乱が、周辺地域の勢力図にどのような変化をもたらしたのか、あるいは他の勢力の動向にどのように利用されたのかといった点を明らかにすることで、戦国時代の地域史研究に新たな知見を加えることができるであろう。

引用文献

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  2. 上村頼孝とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E9%A0%BC%E5%AD%9D
  3. 相良氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F
  4. 肥後 上村城[縄張図あり]-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/higo/uemura-jyo/
  5. 上村長種 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E9%95%B7%E7%A8%AE
  6. 上村頼興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E9%A0%BC%E8%88%88
  7. 菱刈氏 https://www.nmiee.org/geocities/Old-Street/HishikariShi.htm
  8. 北原氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E6%B0%8F
  9. 深水長智 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E6%B0%B4%E9%95%B7%E6%99%BA
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  11. F040 相良周頼 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/F040.html
  12. 犬童頼兄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84
  13. 【麓城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_43502af2170018759/
  14. あさぎり町 わが街いいトコ!!|熊本県|地域情報サイト「CityDO!」 https://www.citydo.com/prf/kumamoto/asagiri/
  15. 谷水薬師尊堂一棟並びに仁王門一棟(あさぎり町・町指定有形文化財) https://ameblo.jp/com2-2-2/entry-12796552758.html
  16. 49.上村相良氏関連遺跡 - 日本遺産 人吉球磨 https://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/story1/uemurasagarashi/
  17. 谷水薬師堂 - 人吉球磨ガイド https://hitoyoshikuma-guide.com/2019/12/12/tanimizuyakushido/
  18. 相良家のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/family/33/
  19. 相良家重臣同士の内乱が起こっ - 熊本県 https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/31650.pdf
  20. 肥後国衆一揆 - ふるさと山鹿の歴史 https://furusato-yamaga.jp/detail/14/
  21. No.043 「 肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき) 」 - 熊本県観光連盟 https://kumamoto.guide/look/terakoya/043.html