最終更新日 2025-05-25

上条政繁

日本の戦国時代における上条政繁の徹底的調査

序章:上条政繁という武将

本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代前期にかけてその名を歴史に刻んだ武将、上条政繁(じょうじょう まさしげ)の生涯と事績、そして彼を取り巻く様々な説について、現存する史料と近年の研究成果に基づき、多角的に詳述することを目的とします。特に、その出自の謎、主君であった上杉謙信および上杉景勝との関係性の変遷、能登畠山氏の遺児である畠山義春との複雑な関わり、そして上杉家からの出奔という重大な決断に至った理由、さらには晩年に至るまでの波乱に満ちた経歴を明らかにしていきます。

上条政繁の生涯は、単なる一個人の歴史に留まらず、当時の上杉家の内情、戦国大名間の複雑な権力闘争、そして武士たちが旧体制から近世へと移行する激動の時代をいかに生き抜こうとしたか、あるいは翻弄されたかを映し出す貴重な鏡と言えます。彼の一生を丹念に追うことは、上杉謙信亡き後の上杉家の権力構造の変化、家臣団内部の力学、さらには豊臣政権、徳川幕府といった中央政権との関わりの中で、地方武士がどのような立場に置かれていたのかを理解する上で、重要な示唆を与えてくれます。本報告を通じて、一人の武将の軌跡から、より広範な戦国・近世移行期の歴史的背景への理解を深めることを目指します。

第一部:上条政繁の出自と上杉家への登場

第一章:生い立ちと家系を巡る諸説

上条政繁の生涯を理解する上で、まずその出自と上杉家における初期の立場を明らかにする必要があります。しかし、彼の生い立ちに関しては複数の説が存在し、いまだ確定を見ていない点が少なくありません。

  • 生没年に関する記録
    政繁の生年については、天文12年(1543年)とする説 1、あるいは天文14年(1545年)とする説 2 などがあり、正確な年は特定されていません。没年に関しても、寛永20年(1643年)とする説が有力視されていますが 1、これも後述する畠山義春との関係性の中で異説が存在し、慎重な検討を要します。これらの生没年に関する不確かさは、政繁の生涯、特に後半生を追う上での一つの大きな課題となっています。
  • 父・上杉定実と上条上杉家
    一般的に、政繁は越後守護であった上杉定実の子、あるいは舎弟(弟)とされています 1。その出自から、八条上杉家の流れを汲むとも、上条上杉家の一族であったとも言われています 1。上条上杉家は、かつて越後の名門でしたが、長尾為景との対立を経て一時的に没落していました 1。このような家系背景は、後に政繁が上杉家中で一定の地位を占める上で重要な意味を持ったと考えられます。
  • 畠山氏出身説の検討
    近年、政繁の出自に関して注目すべき説が提示されています。歴史研究者の片桐昭彦氏や田嶋悠佑氏の研究により、政繁が能登畠山氏の出身である可能性が指摘されているのです 1。具体的には、永禄年間(1558年~1570年)に上杉謙信の人質として越後に送られた「宮王丸」という人物が、後の政繁ではないかという見解です 1。また、『七尾市史』においては、政繁を能登畠山氏の当主であった畠山義続の子として記述しています 5。
    この畠山氏出身説は、政繁の生涯を理解する上で非常に重要な論点です。もしこの説が事実であれば、上杉謙信が彼を養子(あるいは上条家の後継者)として取り立てた背景には、能登に対する戦略的意図や、名門畠山氏の権威を利用しようとする政治的計算があった可能性がより濃厚になります。さらに、後に政繁が畠山氏の遺児である畠山義春を養子に迎えるという行動とも、深い関連性を持つことになります。政繁のアイデンティティに関わるこの根本的な問題は、彼のその後の行動原理を解き明かす鍵の一つと言えるでしょう。上杉定実の子であれば上杉家内の血縁者としての立場が、畠山氏出身であれば外部からの有力者、あるいは人質としての側面がそれぞれ強調されることになり、謙信との関係性の解釈にも影響を与えます。謙信の養子政策は血縁のみならず政治的・軍事的意図が強く働いていたことを考慮すると、畠山氏出身説は謙信の能登戦略の一環として政繁を位置づけることを可能にします。

第二章:上杉謙信への臣従と初期の活動

上条政繁が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、上杉謙信の時代です。没落していた上条上杉家の再興と、謙信政権下での彼の役割は、その後の政繁の運命を大きく左右することになります。

  • 上条上杉家の家督相続
    元亀2年(1571年)、上杉謙信の計らいにより、上条政繁は一時廃絶していた上条上杉家の家督を相続したと見られています 1。これにより、彼は越後国上条城主としての地位を得ました 2。この家督相続は、謙信による上杉一門の再編と勢力強化策の一環として行われたものと考えられ、政繁が謙信から一定の信頼と期待を寄せられていたことを示唆しています。
  • 『天正三年上杉家軍役帳』に見る政繁
    天正3年(1575年)に作成された『天正三年上杉家軍役帳』には、上杉家の主要な家臣とその軍役数が記録されており、当時の上杉家中の序列や軍事力を知る上で非常に重要な史料です。この軍役帳において、政繁は「上条殿」として記載され、96人の軍役を負担し、上杉一門の中で第四位という高い序列に位置づけられています 1。その軍役の内訳は、鑓(やり)63人、手明(てあき、予備兵か)15人、鉄砲2挺、大小旗6本、馬上(騎馬武者)10騎と記録されています 8。
    この記録は、謙信政権下における政繁の軍事的・政治的地位の高さを具体的に示すものです。一門第四位という序列は、彼が単なる名目上の家督相続者ではなく、実質的な戦力として謙信に期待されていたことを物語っています。96人という軍役数は、他の主要な一門衆、例えば山浦国清の250人 8 などと比較すると少ないものの、上条家が一度没落していたことや、政繁が客将的な立場であった可能性を考慮すれば、謙信による厚遇と見ることもできます。興味深いのは鉄砲の数が2挺と少ない点であり、これは当時の上杉軍全体の兵装の特徴(例えば騎馬突撃を重視した戦術)を反映しているのか、あるいは政繁が担当した戦域や任務が鉄砲を多用するものではなかった可能性などが考えられます。
  • 謙信政権下での軍事行動
    史料によれば、政繁は謙信に仕えていた期間、上野国(現在の群馬県)や越中国(現在の富山県)など各地を転戦したと記録されています 3。具体的な戦功に関する詳細な記録は乏しいものの、謙信の主要な軍事活動に随行し、その指揮下で戦っていたことがうかがえます。これらの経験は、政繁の武将としての能力を磨き、上杉家中での彼の立場を形成する上で重要な役割を果たしたと考えられます。

第二部:謙信死後の動乱と政繁の役割

軍神と称された上杉謙信の急死は、上杉家に大きな動揺をもたらしました。跡目争いである御館の乱、そして強大化する織田信長勢力との熾烈な攻防は、上杉家の存亡を揺るがす危機であり、上条政繁もまた、この激動の時代に翻弄されつつ、自身の役割を果たそうとしました。

第一章:御館の乱と政繁の立場

天正6年(1578年)、上杉謙信が後継者を明確に定めないまま急死すると、養子であった上杉景勝と上杉景虎の間で家督を巡る激しい内乱、すなわち御館の乱が勃発しました。この上杉家の分裂は、周辺勢力にとっても介入の好機となり、越後は戦火に包まれました。

  • 景勝方への加担とその背景
    この御館の乱において、上条政繁は上杉景勝方に加担しました 1。謙信の養子の一人であり、上条上杉家という名跡を継ぐ上杉一門の重鎮として、政繁の動向は乱の行方に決して小さくない影響を与えました。景勝方には、同じく謙信の養子であった山浦国清も加わっており、これは景勝の正統性を補強する重要な要素となりました 9。
    政繁が景勝を支持した背景には、いくつかの要因が考えられます。一つには、彼の妻が景勝の父である長尾政景の娘(すなわち景勝の姉妹にあたる)であったという姻戚関係が挙げられます 3。この血縁的な繋がりは、景勝支持への自然な流れと見ることができます。しかし、戦国時代の武将の行動原理は、単に血縁だけで決定されるものではなく、自家の存続や将来の利害、そして何よりも「勝ち馬に乗る」という現実的な判断が大きく作用します。
  • 乱における具体的な貢献
    御館の乱における政繁の具体的な戦功に関する詳細な記述は、提供された資料からは限定的です 9。しかし、景勝を援けて戦功を挙げたと総じて評価されています 6。謙信死後、いち早く春日山城の本丸と金蔵を確保し、先手を打った景勝側にとって、政繁のような上杉一門の重鎮からの支持は、他の家臣たちの動向を決定づける上で極めて重要な意味を持ちました。彼の加担は、景勝方の結束を固め、軍事的な安定をもたらす一助となったと考えられます。
    御館の乱における政繁の選択は、単なる個人的な判断を超え、当時の上杉家中の複雑な力関係や、謙信の遺志(あるいはその解釈)を巡る家臣団の思惑を反映していた可能性があります。彼の決断は、上杉家の将来を左右する大きな岐路において、重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

第二章:織田信長勢力との攻防

御館の乱を制し上杉家の家督を継いだ上杉景勝でしたが、その前途は多難でした。西からは織田信長が急速に勢力を拡大し、越中、能登へとその手を伸ばし、上杉領国は常に脅威に晒されることになります。この対織田戦線において、上条政繁もまた重要な役割を担いました。

  • 越中松倉城主としての活動
    天正9年(1581年)、越中における上杉方の重要拠点であった松倉城の城主、河田長親が病没すると、その後任として上条政繁が同城に入りました 1。当時の書状によれば、上条宜順(政繁の入道名)は、黒金景信ら現地の諸将と共に越中の経営にあたることを、上杉景勝の側近である樋口兼続(後の直江兼続)に伝えています 15。これは、政繁が対織田戦線の最前線である越中の維持という重責を任されたことを意味し、景勝政権下においても依然として彼が軍事的に信頼されていたことを示しています。
  • 手取川の戦いへの関与
    天正5年(1577年)、上杉謙信が織田信長軍を破ったとされる手取川の戦いの後、謙信は政繁を遊佐盛光と共に能登に配置したという記録があります 16。能登は畠山氏の旧領であり、畠山氏と縁故がある(あるいは畠山氏出身説のある)政繁を配置することは、能登平定後の統治と織田勢力への備えとして適切と判断された可能性があります。一部のゲーム関連資料では「大手柄武将」として名前が挙げられていますが 17、史実としての手取川の戦いにおける具体的な戦闘への参加記録は、提供されている資料からは明確には確認できません 12。
  • 魚津城の戦いとの関連
    天正10年(1582年)、織田軍の猛攻により越中魚津城で繰り広げられた魚津城の戦いでは、上杉景勝が派遣した救援軍の諸将の一人として上条政繁の名前が挙げられています 21。しかし、実際に魚津城に籠城し、壮絶な玉砕を遂げた「魚津在城十三将」の中には彼の名は含まれていません 21。この戦いにおける政繁の具体的な行動については不明です。
    織田勢の圧力が日増しに強まる中、越中・能登方面の防衛は上杉家にとって文字通り死活問題でした。政繁が松倉城主や能登の抑えといった重要任務を担ったことは、景勝政権下でも彼が依然として重臣として扱われていたことを示します。しかしながら、魚津城の戦いでの具体的な役割が見えない点は、当時の上杉方が置かれていた極めて苦しい戦況や、あるいは政繁の立場に何らかの変化が生じ始めていた可能性も考えさせられます。彼が救援軍に名を連ねながらも籠城衆に含まれなかったのは、後方支援や別働隊としての役割があったのか、それとも既に景勝との間に何らかの意見の相違が生じ、最前線の指揮から外されていたのか、史料からは判断が難しいところです。

第三章:新発田重家の乱

御館の乱による混乱が収まらぬうちに、上杉家は新たな内憂に直面します。乱の論功行賞に不満を抱いた重臣・新発田重家が、織田信長と結び、天正9年(1581年)頃から上杉景勝に対して反乱を起こしたのです。この新発田重家の乱は長期にわたり、上杉家の領国経営に深刻な影響を与えました。

  • 鎮圧への参加と戦功 上条政繁も、この新発田重家の乱の鎮圧戦に参加しました。史料によれば、上杉政繁(上条弥五郎)が浦村城を、城主が不在であった隙を突いて乗っ取り、さらに真木山の大室源次郎と共に新発田重家軍を攻撃し、景勝軍本隊も奮戦して勝利に貢献したとされています 25 。また、別の戦場では、斎藤朝信や竹俣慶綱といった上杉家の宿将らと共に、主君・景勝を守って勇猛に戦う政繁の姿が描かれています 26 。 これらの記録は、政繁が依然として上杉家の中核を担う武将であり、内乱鎮圧においても重要な役割を果たしていたことを示しています。新発田重家の乱は、御館の乱で疲弊した上杉家にとって、まさに屋台骨を揺るがす危機であり、政繁の奮戦は景勝政権の安定に貢献したと言えるでしょう。 しかしながら、この乱の長期化と、その後の政繁の上杉家出奔という出来事との間には、何らかの関連性があった可能性も否定できません。新発田重家の乱は天正15年(1587年)まで続きましたが、政繁の出奔は天正14年(1586年)とされています。つまり、政繁は乱の終結を見ることなく上杉家を去ったことになります。出奔の理由として挙げられる景勝との対立や直江兼続の讒言説が、この長期にわたる内乱への対応や、それに関わる恩賞問題を巡って顕在化した可能性も考えられます。さらに、政繁が新発田重家と親しかったという説 1 が事実であれば、彼は乱の鎮圧に参加しつつも、内心では複雑な思いを抱えていたのかもしれません。

第三部:上杉景勝との確執と出奔

上杉謙信の時代から上杉家に仕え、御館の乱や対外戦争、国内の反乱鎮圧に貢献してきた上条政繁でしたが、主君・上杉景勝との関係は次第に悪化し、最終的には上杉家を出奔するという道を選ぶことになります。この背景には、景勝政権の確立に伴う権力構造の変化や、側近・直江兼続の台頭が大きく影響していたと考えられます。

第一章:信濃海津城主就任と景勝との関係変化

天正12年(1584年)、信濃国における上杉家の重要拠点である海津城の城主、山浦景国が失脚すると、その後任として上条政繁が任命されました 1 。海津城は、甲斐の武田氏や尾張の織田氏といった南方勢力に対する最前線基地であり、その城主に任じられることは、景勝からの一定の信頼を示すものでした。実際、天正10年(1582年)3月1日付の記録では、景勝が信濃の情勢に関して上条宜順政繁に指示を出し、政繁がこれを承諾しており、この時点ではまだ両者の間に協力関係が維持されていたことがうかがえます 28

しかし、政繁の海津城主としての期間は長くありませんでした。翌天正13年(1585年)には、須田満親にその職を交代させられています。この更迭が、政繁と景勝との対立を決定的にした一因とされています 1。

海津城主という要職への任命からわずか1年での更迭は異例であり、両者の間に深刻な亀裂が生じたことを物語っています。この背景には、信濃統治の方針を巡る意見の対立があった可能性が考えられます。須田満親は信濃国衆であり、現地の事情に明るい人物を起用するという名分があったかもしれませんが、政繁にとっては納得しがたい処遇であったことは想像に難くありません。

さらにこの時期、上杉景勝政権内では、直江兼続が急速にその頭角を現し、政治・軍事両面で中心的な役割を担うようになっていました 12。兼続を中心とする新しい権力構造が形成される中で、謙信時代からの重臣であった政繁のような人物の影響力が相対的に低下し、両者の間に摩擦が生じたとしても不思議ではありません。海津城主更迭は、こうした上杉家内部の権力バランスの変化を象徴する出来事であったのかもしれません。

第二章:上杉家出奔の真相

信濃海津城主を更迭された翌年の天正14年(1586年)、上条政繁は長年仕えた上杉家を出奔し、当時天下人としての地位を固めつつあった豊臣秀吉の麾下に加わりました。秀吉は政繁に対し、河内国高安郡津田・保谷(現在の大阪府八尾市域か)に5百石の知行を与えたと記録されています 1 。上杉家の宿老であった政繁の出奔は、当時の上杉家にとって小さくない衝撃であったと考えられます。

政繁が出奔に至った理由については、諸説が伝えられています。

  • 上杉景勝との対立 : 最も直接的な理由として、信濃統治の方針などを巡る景勝との意見の対立が挙げられます 1 。景勝政権が安定化し中央集権化を進める過程で、謙信以来の独立性の高い重臣であった政繁の立場が微妙になり、その進言が容れられなくなるなど、両者の間に溝が深まっていった可能性があります。
  • 直江兼続の讒言説 : 『寛政重修諸家譜』などの後世の編纂史料には、景勝の側近である直江兼続の讒言(事実無根の悪口を告げて陥れること)によって政繁が追い詰められたという記述が見られます 1 。兼続が新しい上杉家の体制を構築する上で、政繁のような旧来の重臣の存在が障害になると判断し、排除しようとしたという見方です 12
  • 新発田重家との親交 : 当時、上杉景勝に対して反乱を起こしていた新発田重家と政繁が親しい関係にあったため、景勝から謀反の疑いをかけられた、あるいは立場が悪くなったという説もあります 1 。この説が事実であれば、政繁が反主流派と見なされる危険性をはらんでおり、これが讒言の材料にされた可能性も否定できません。

これらの理由は単独ではなく、複合的に作用した結果、政繁は上杉家に見切りをつけ、新たな活躍の場を求めて秀吉の下へ走ったと考えられます。出奔という選択は、当時の武将が主家との関係が悪化した場合に取る行動パターンの一つであり、より大きな権力への接近を意味していました。政繁の出奔は、戦国末期から近世初頭にかけての武士の生き方や価値観を反映した出来事と言えるでしょう。

第四部:政繁の後半生と畠山義春

上杉家を出奔した後の上条政繁の足跡は、史料の錯綜もあり、謎に包まれた部分が多く存在します。特に、彼が養子とした畠山義春との関係は、政繁の後半生を理解する上で避けては通れない複雑な問題です。

第一章:豊臣政権下、そして徳川政権下での政繁

上杉家を出奔し豊臣秀吉に仕えた政繁ですが、その後の具体的な活動については記録が乏しく、異説も存在します。

  • 出奔後の活動に関する記録と異説
    『寛政重修諸家譜』など一部の史料では、政繁は上杉家出奔後まもなく死去したとされています 4。しかし、この記述は後述する養子・畠山義春の事績と混同されている可能性が非常に高いと考えられています。もし政繁と義春が別人であると仮定した場合、政繁自身の出奔後の詳細な動向は、現在のところ不明瞭な点が多いと言わざるを得ません。秀吉から河内国に5百石の知行を与えられたという記録 1 が政繁自身のものであれば、少なくともある程度の期間は豊臣政権下で活動していたことになりますが、その後の具体的な足取りを示す確実な史料は限られています。
  • 文禄・慶長の役、関ヶ原の戦い、大坂の陣への関与の可能性
    文禄・慶長の役(朝鮮出兵)への参陣、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの東軍への参加、さらには慶長19年(1614年)からの大坂の陣への関与といった説 1 も存在しますが、これらは主に畠山義春に関する記述、あるいは政繁と義春を同一人物とする説に基づいたものです。政繁本人がこれらの戦役に関与したか否かは、義春との別人説を前提とするならば、慎重な再検討が必要です。
  • 江戸幕府への出仕と最期
    寛永20年(1643年)に死去したという説 1 も、畠山義春の没年と一致しており、これが政繁自身の最期であるとは断定できません。
    政繁の出奔後の確実な史料が乏しい現状では、彼が豊臣政権下でどのような役割を果たし、徳川の世になってからどのような生涯を送ったのか、その詳細は依然として歴史の闇に包まれています。畠山義春の経歴が政繁のものとして誤伝された結果、政繁自身の後半生が覆い隠されてしまった可能性も否定できません。

第二章:上条政繁と畠山義春 ― 同一人物か、別人か

上条政繁の生涯を語る上で最も重要な論点の一つが、彼と養子の畠山義春との関係です。長らく同一人物とする説が流布してきましたが、近年の研究では別人説が有力となっています。

  • 史料間の矛盾と研究史の整理
    江戸幕府が編纂した大名・旗本の系図集である『寛政重修諸家譜』には、畠山義春は上条政繁が後に改名した名であると記載されています 1。これが長らく通説として扱われてきました。
    しかし、上杉家側の史料である『上杉家御書集成』や『上杉家御家年譜』、そして政繁自身が「宜順(ぎじゅん)」という入道名を名乗って活動していた時期と、畠山義春が弥五郎などの名で活動していた時期が重なることなどから、両者は別人であるとする説が提唱されるようになりました 1。畠山義春の生没年についても、永禄6年(1563年)生まれ、寛永20年(1643年)没、享年81歳とする記録があり 1、これは『寛政重修諸家譜』が記す政繁=義春の享年99歳という不自然な長寿とは異なります。
    研究者の中では、今福匡氏が早くからこの別人説を唱え、『寛政重修諸家譜』の記述の矛盾点を指摘しています 36。また、田嶋悠佑氏は別人説を前提とした上で、畠山義春の諱(実名)を「義明」とし、享年95歳(天文18年(1549年)生~寛永20年(1643年)没)とする新たな説を提示しています 1。
  • 別人説の有力な根拠
    別人説を支持する主な根拠は以下の通りです。
  1. 号の使用時期の重複 : 上条政繁が「宜順」と号して活動していた記録と、畠山義春が「弥五郎」などの名で活動していた記録が同時代に存在すること。
  2. 上杉家側史料の区別 : 『上杉家御年譜』など、上杉家側の史料では両者が別人として扱われていること。
  3. 年齢の矛盾 : 『寛政重修諸家譜』における政繁=義春の享年99歳という記述は、当時の平均寿命から考えても極めて不自然であり、義春の享年81歳(あるいは95歳)の方が妥当性が高いこと。

これらの点から、現在では上条政繁と畠山義春は別人であり、義春は政繁の養子であったとする説が学術的には主流となっています。

以下に、両説の比較をまとめます。

項目

同一人物説(主に『寛政重修諸家譜』に基づく)

別人説(主に『上杉家御年譜』、近年の研究に基づく)

呼称

上条政繁=畠山義春

上条政繁(宜順)と畠山義春(弥五郎、義明)は別人

生没年

政繁の生年不詳、義春として寛永20年(1643)没、享年99歳

政繁の生没不詳(出奔後まもなく死去説あり)。義春は永禄6年(1563)生~寛永20年(1643)没、享年81歳 36 。または天文18年(1549)生~寛永20年(1643)没、享年95歳(田嶋説 1 )。

養子関係

畠山氏(義続の子か)から謙信の養子となり、後に上条家を継ぎ政繁と名乗り、その後義春と改名

政繁が謙信の命で畠山氏の遺児・義春を養子とした

主な史料根拠

『寛政重修諸家譜』 3

『上杉家御年譜』 36 、『上杉家御書集成』、政繁の「宜順」号使用の史料、今福匡氏・片桐昭彦氏・田嶋悠佑氏らの研究 1

矛盾点・問題点

享年の不自然さ、同時代史料との齟齬

政繁の出奔後の詳細な動向が不明瞭になる点

この政繁と義春の混同は、後世の系図編纂における誤解や、上条上杉家の名跡継承の複雑さに起因する可能性が高いと考えられます。『寛政重修諸家譜』は幕府の公式な系図集でありながら、必ずしも全てが正確ではない事例の一つと言えるでしょう。本報告書も、近年の研究動向を踏まえ、両者を別人として扱うことを基本とします。

第三章:子孫と上条上杉家の後裔

上条政繁自身の直接の子孫に関する情報は乏しいものの、彼が再興した上条上杉家の名跡は、養子である畠山義春の系統によって近世にも引き継がれ、江戸幕府の下で一定の地位を保ちました。

畠山義春の次男である上杉長員(ながかず)が、上条上杉家の家督を継承し、江戸幕府の旗本となりました。特に、幕府の儀礼や典礼を司る高家(こうけ)の職に就き、その知行は1,490石であったと伝えられています 1 。高家は、朝廷との交渉や勅使饗応など、幕府の威信に関わる重要な役目であり、上条上杉家がこの職に就いたことは、その家格が評価されていたことを示しています。

一方、畠山義春の三男である義真(よしざね)は、実家の畠山姓を名乗り、こちらも高家畠山家として幕府に仕えました 35 。これにより、上条政繁の養子である畠山義春を通じて、上条上杉家と能登畠山家の両方の名跡が、形を変えつつも江戸時代に存続したことになります。

上条上杉家はその後、残念ながら男系の血筋が途絶えてしまいますが、親戚筋にあたる高家畠山家(義春の三男・義真の系統)や、伊予吉田藩伊達氏から養子を迎えることで家名を存続させました 44 。これは、戦国時代から江戸時代にかけての武家の家名が、必ずしも血縁のみに頼るのではなく、養子縁組という手段を通じて維持されていく典型的な事例と言えます。上条政繁の一連の行動、すなわち上条家の再興と畠山義春の養子縁組は、結果的にこれらの家名を近世へと繋げる上で大きな役割を果たしたと評価できるでしょう。

結論:上条政繁の歴史的評価

上条政繁の生涯を概観すると、戦国乱世の激動の中で翻弄されつつも、武将として、また上杉一門の一員として、その時代を精一杯生き抜いた人物像が浮かび上がってきます。

  • 戦国武将としての実績と限界
    上条政繁は、上杉謙信・景勝の二代にわたり上杉家に仕え、一門の重臣として軍事・統治の両面で一定の役割を果たしました。特に謙信政権下では、『天正三年上杉家軍役帳』に見られるように高い軍役を負担し、その信頼を得ていました。謙信死後の御館の乱においては、景勝方に加担し、その勝利に貢献したことも特筆すべき実績です。
    しかし、景勝政権が確立するにつれて、政繁の立場は次第に微妙なものとなり、最終的には上杉家を出奔するという結果に至りました。これは、戦国末期から近世初頭にかけての権力構造の大きな変化の中で、謙信時代からの旧来の重臣たちが必ずしも安泰ではなかったことを示す一例と言えます。新しい秩序の形成過程で、彼の経験や立場が、景勝やその側近である直江兼続らと相容れない部分が生じたのかもしれません。
  • 史料解釈の難しさと今後の研究課題
    上条政繁の生涯、とりわけ養子とされる畠山義春との関係や、上杉家出奔後の晩年については、史料間で記述の混乱が見られ、その実像を正確に捉えることは容易ではありません。『寛政重修諸家譜』のような後世の編纂史料と、同時代の書状や記録、そして近年の研究成果を丹念に比較検討し、批判的に史料を読み解くことの重要性を示しています。
    政繁と畠山義春を同一人物とするか別人とするかによって、彼の後半生の評価は大きく変わってきます。現状では別人説が有力視されていますが、そうであるならば、出奔後の政繁自身の確実な足取りは依然として不明な点が多く、今後の新たな史料の発見や、既存史料の再解釈が待たれます。
    上条政繁は、上杉家の歴史において、謙信というカリスマ的指導者の時代から、景勝による新たな統治体制へと移行する過渡期を生きた、象徴的な人物の一人と言えるかもしれません。彼の生涯を追うことは、上杉家の内部力学の変遷や、織田、豊臣、徳川といった中央政権との関係性の変化を理解する上で、多くの示唆を与えてくれます。また、彼に関する史料の錯綜は、歴史研究における史料批判の重要性と、歴史像が常に固定的なものではなく、研究の進展によって見直されていくダイナミズムを改めて教えてくれると言えるでしょう。

上条政繁 関連略年譜

年号(西暦)

出来事

関連人物

典拠史料(主要なもの)

天文12年(1543)?

生誕か 1

-

-

天文14年(1545)?

生誕か 2

-

-

元亀2年(1571)

上条上杉家の家督を相続 3

上杉謙信

『上杉家御年譜』等

天正3年(1575)

『上杉氏軍役帳』に「上条殿」として記載、軍役96人、一門第4位 8

上杉謙信

『天正三年上杉家軍役帳』

天正5年(1577)

畠山義春を養子とする(謙信の命による) 3

上杉謙信、畠山義春

-

天正6年(1578)

御館の乱勃発、景勝方に加担 9

上杉景勝、上杉景虎

-

天正9年(1581)

越中松倉城主となる 15

上杉景勝

『上杉氏文書集』

天正12年(1584年)

信濃海津城主となる 1

上杉景勝

-

天正13年(1585年)

海津城主を須田満親に交代させられる 1

上杉景勝、須田満親

-

天正14年(1586)

上杉家を出奔、豊臣秀吉に仕える。河内国高安郡津田・保谷5百石を与えられる 3

上杉景勝、豊臣秀吉、直江兼続

『寛政重修諸家譜』等

寛永20年(1643年)?

(畠山義春の)没年。政繁自身の没年については異説あり 3

畠山義春

-

引用文献

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  2. 上条政繁 | 人物詳細 | ふるさとコレクション | SHOSHO | 石川県立 ... https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/furucolle/list/prsn16350
  3. 上條政繁- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E4%B8%8A%E6%A2%9D%E6%94%BF%E7%B9%81
  4. 上条政繁- 维基百科,自由的百科全书 - Wikipedia https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%B8%8A%E6%A2%9D%E6%94%BF%E7%B9%81
  5. 能登畠山氏の歴史 | 七尾城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/54/memo/3474.html
  6. 上条政繁 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/JoujouMasashige.html
  7. 上杉家軍役帳(1575年) - 長尾上杉存亡記(あちゃま) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054881457110/episodes/1177354054883512530
  8. 天正三年 上杉家軍役帳 - 日本史研究のための史料と資料の部屋 https://shiryobeya.com/sengoku/uesugiguneki_t3.html
  9. 御館の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
  10. 御館の乱とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
  11. 御館の乱 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/OtateNoRan.html
  12. 直江兼続 - WAKWAK http://park2.wakwak.com/~fivesprings/toti/jinbutu/naoekanetugu.html
  13. 天正十年代初頭の羽柴秀吉の東国政策をめぐって https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/240096/1/shirin_092_5_862.pdf
  14. 御館の乱の発生について http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=5510
  15. 歴史の目的をめぐって 黒金景信 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-08-kurogane-kagenobu.html
  16. 手取川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  17. 【手取川の戦い(2018年06月)】大手柄武将、そしてゆかりの人々 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-12380452259.html
  18. [ニッポン城めぐり] 最近家臣団に加えた人たちと失敗した方々。 https://ameblo.jp/pumpkincap/entry-12531999007.html
  19. 長宗我部元親の章・第二話 - 戦国無双3+猛将伝&戦国無双3Z 攻略 @ Wiki - atwiki(アットウィキ) https://w.atwiki.jp/sengoku3/pages/271.html
  20. 上杉謙信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
  21. 魚津城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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  25. 新発田重家の合戦関係城館 7 大室城、大崎陣所、笹岡城など | 新発田 ... https://shibata-kyodo.com/shibatagassen_joukan_7/
  26. 放生橋の戦い Ⅱ - 天地海 ~新発田重家転生~(今川幸乃) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054894183829/episodes/1177354054894434424
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