日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、宇治の地で茶師として名を馳せた上林家。その一族について、ご依頼者は「京都の商人、上林久重」という人物像を提示されました。特に、その息子である「久茂」が本能寺の変に際して徳川家康の危機を救ったという認識は、歴史の重要な一断面を的確に捉えています 1 。しかし、この認識は、一族の壮大な物語の序章に過ぎません。史料を丹念に紐解くと、「神君伊賀越え」として知られる家康の決死の脱出行で直接的な功績を挙げたのは、ご指摘の通り息子の**上林久茂(かんばやし ひさもち)
であり、父である 上林久重(かんばやし ひさしげ)**は、その活躍の礎を築いた始祖として位置づけられます 1 。
ご依頼者の問いは、この父子の功績が一体化して伝わるほどに、上林家が歴史の転換点において重要な役割を果たしたことを示唆しています。本報告書は、この父子の役割を歴史的史実に基づき正確に切り分け、父・久重がいかにして一族の基盤を築き、その上で息子・久茂が歴史的好機を捉えていかに一族を飛躍させたのかを徹底的に解き明かすことを目的とします。
本報告書は、上林久重という一個人の伝記に留まるものではありません。彼を始祖とする「上林家」という一族が、単なる茶商人の枠を遥かに超え、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という当代随一の天下人と深く関わり、ついには幕府の直轄地である宇治郷の行政を司る「代官」という政治的地位を獲得するに至るまでの壮大な軌跡を追います 2 。
彼らは、最高品質の「茶」という商品を生産する経済的基盤、天下人の信頼を勝ち取る政治的駆け引き、そして当代一流の文化人と交流する文化的影響力という三つの資本を巧みに操りました。これにより、武士とは異なる立場で、時代の権力構造の中枢に深く食い込んでいったのです。本報告書は、一人の商人から始まった一族が、いかにして戦国の動乱を乗りこなし、泰平の世における特権的地位を確立したのか、その類稀なる成功の物語を多角的に分析・詳述するものです。
上林一族の歴史は、戦国時代の只中、丹波国上林郷(現在の京都府綾部市上林地区)に出自を持つとされる人物が、茶の名産地である山城国宇治に移り住んだことから始まります。この人物こそが、上林家の始祖と仰がれる 上林久重 です 8 。彼は「掃部丞久重(かもんのじょうひさしげ)」あるいは「掃部之丞久徳(かもんのじょうきゅうとく)」と名乗り、宇治の地で茶業にその身を投じました 8 。
当時の宇治は、足利将軍家の庇護のもとで茶産地としての名声を確立していましたが、戦国時代に入ると戦乱に巻き込まれることも少なくありませんでした。そのような不安定な社会情勢の中、久重が宇治に根を下ろし、茶の生産者として頭角を現していく過程は、並々ならぬ経営手腕と先見の明があったことを物語っています。彼は単に良質な茶を作る職人であるだけでなく、自らの一族を宇治茶業界における一大勢力へと押し上げるための強固な礎を築き上げたのです。
上林久重の最大の功績は、優れた茶の栽培・製造技術を確立したこと以上に、彼の子息たちを核とした「一族事業体」とも呼ぶべき組織構造を構築した点にあります。久重には、 久茂(ひさもち) 、 味卜(みぼく) 、 春松(しゅんしょう) 、そして**竹庵(ちくあん)**という四人の息子がいました 8 。久重は、彼らそれぞれに一家を興させ、独立した茶師として活動させることで、宇治茶業界における多角的かつ強固な支配体制の基盤を築き上げたのです 10 。
これは、単なる家督相続や分家といった旧来の慣習とは一線を画す、極めて戦略的な事業展開でした。長男の久茂は一族の筆頭として政治的な交渉を担い、他の兄弟たちはそれぞれ独自のブランドと顧客網を築きながらも、有事の際には「上林一族」として連携する。この体制は、リスクを分散させると同時に、一族全体としての市場支配力を最大化する効果をもたらしました。例えば、現在も続く高名な茶舗「上林春松本店」の初代・春松(秀慶)は久重の三男であり、彼もまたこの壮大な構想の一部を担う存在でした 8 。
父・久重が描いたこの青写真があったからこそ、息子たちはそれぞれの持ち場で能力を最大限に発揮し、特に長男の久茂は、後に訪れる歴史の転換点において、一族の運命を決定づける大胆な行動を起こすことができたのです。久重は、職人であると同時に、戦国の世を生き抜くための先見性を持った稀代の戦略家、あるいはファミリービジネスの創業者として評価されるべき人物と言えるでしょう。
上林一族の複雑な関係性を理解するため、始祖・久重からその息子たちへと続く主要な家系を以下に示します。この系譜は、ご依頼者の当初の疑問であった久重と久茂の関係を明確にすると同時に、一族が単一の家ではなく、複数の分家が連携・競合しながら発展した複合体であったことを視覚的に示します。特に、後の宇治代官職を世襲することになる久茂の系統(峯順家)と竹庵の系統(又兵衛家)は、一族の中でも政治的に重要な役割を担いました 8 。
世代 |
続柄 |
人物名 |
家名・役職 |
備考 |
始祖 |
- |
上林久重 (掃部丞久徳) |
上林家元祖 |
丹波より宇治に移住し、茶業の礎を築く 8 。 |
子 |
長男 |
上林久茂 (掃部) |
峯順家(長男家) |
本能寺の変後、家康の「伊賀越え」を助け、後の代官職の端緒を開く 1 。 |
子 |
次男 |
上林紹喜 |
味卜家 |
茶師として高名な味卜家の祖 10 。 |
子 |
三男 |
上林秀慶 |
春松家 |
現在に続く「上林春松本店」の初代 8 。 |
子 |
四男 |
上林政重 |
竹庵家(又兵衛家) |
伏見城での軍功により、峯順家と共に宇治代官職を担う家系となる 5 。 |
天正10年(1582年)6月2日早朝、京都・本能寺に滞在していた天下人・織田信長が、重臣である明智光秀の謀反によって討たれるという、日本史上最大級の政変が発生しました 4 。この時、信長の盟友であった徳川家康は、信長の招きに応じて上洛し、京都や奈良の遊覧を終え、国際貿易港として栄える堺の街に滞在していました 12 。供回りはわずか数十名。信長の横死により、畿内一円は瞬く間に明智光秀の勢力圏と化し、家康は文字通り敵地の真っ只中に孤立するという、絶体絶命の窮地に立たされたのです。
この凶報は、堺の商人を通じて家康のもとにもたらされました。京へ上り信長の後を追って死ぬか、あるいは本国三河へ逃げ帰るか。家臣団の間で激論が交わされる中、家康は三河への帰還を決断します。しかし、その道のりは明智軍の追手や、主を失い混乱に乗じて蜂起した落ち武者狩りの土民たちによって、極めて危険なものとなることが予想されました。
この国家的な危機において、一介の茶師に過ぎないはずの上林家が、なぜ歴史の表舞台に登場し得たのでしょうか。その背景には、彼らが信長存命時からすでに中央政権と密接な関係を築いていた事実があります。史料によれば、始祖・久重の長男である 上林久茂 は、かつて信長を城まで案内する役目を果たしたという逸話が伝えられています 11 。さらに、上林家は信長から宇治における知行権と白銀を与えられ、茶の献進を命じられていました 11 。
これは、上林家が単なる地方の有力商人ではなく、信長政権にとって重要な存在として公式に認められていたことを意味します。茶の湯を政治的に利用した信長にとって、最高品質の宇治茶を安定的に供給できる上林家は、その文化政策を支える上で不可欠なパートナーでした。こうした関係を通じて、上林家は畿内の政治情勢に関する最新の情報を入手し、有力な武将たちとの人脈を構築する機会を得ていたと考えられます。彼らが蓄積した情報網と人脈こそが、この未曾有の危機に際して、迅速かつ的確な行動を可能にする基盤となったのです。
三河への脱出を決意した家康一行は、最短ルートである伊勢街道を避け、より安全と考えられる山城国から近江、そして伊賀国を抜ける険しい山道を選択しました。この時、家康一行の案内役を務めていた信長の家臣・長谷川秀一は、一行を山城国の田原郷(現在の宇治田原町)へと導きます 14 。この地域こそ、宇治の茶師である上林家がその地理を隅々まで知り尽くした、いわば本拠地とも言える場所でした。
ここで、上林久茂は一族の将来を賭けた大きな決断を下します。彼は、明智光秀に与するのではなく、絶体絶命の窮地にある徳川家康に味方し、その道案内役を買って出たのです。当時、光秀が天下を掌握する可能性も十分にあった状況で、敗走する家康に加担することは、一族の破滅に繋がりかねない極めて危険な賭けでした。しかし久茂は、信長の同盟者であり、関東に広大な領地を持つ家康の潜在的な将来性を見抜いていたのかもしれません。あるいは、信長から受けた恩義に報いるという義侠心があったのかもしれません。いずれにせよ、この久茂の決断が、上林家を単なる茶師から歴史を動かす存在へと押し上げる、決定的な一歩となったのです。
徳川家康のこの九死に一生を得た逃避行は、後に彼が天下人となったことから「神君伊賀越え」と呼ばれ、数々の伝説に彩られています 14 。その全行程において、伊賀や甲賀の忍び衆をはじめ、多くの協力者たちの助けがありました 15 。その中でも、上林久茂が果たした役割は、脱出行の初期段階における極めて重要な局面を担うものでした。彼が責任を持ったのは、一行が宇治田原に入ってから、近江国信楽(現在の滋賀県甲賀市信楽町)に到達するまでの、山深く、追っ手の目が光る危険な区間でした 1 。
この区間は、宇治川の支流が流れ、険しい山道が続く難所です。土地勘のない家康一行が独力で踏破することは不可能に近く、追撃を受ければ容易に殲滅されてしまう危険性をはらんでいました。久茂の案内は、まさに家康の命運を左右するものであったと言えます。
上林久茂の功績は、単に道を知っていたというだけではありません。彼は、自らの手勢を率いて家康一行を護衛し、安全な抜け道を的確に選択することで、彼らを追っ手から守り抜きました。具体的なルートとして、木津川の渡しを越え、水口(現在の滋賀県甲賀市水口町)方面へと至る道のりを案内したと伝えられています 4 。
この時、久茂は味方と敵を識別するための工夫を凝らしたとされています。彼は自らの手勢の袖に 赤い布 を付けさせ、これを味方の目印としました。暗い山道や混乱の中で、この単純明快な目印は非常に有効に機能したことでしょう。この機転と周到な準備は、後に家康から高く評価され、「赤手拭い」を称される栄誉につながったとされています 4 。久茂の冷静な判断力と実行力がなければ、家康一行は信楽に無事たどり着くことさえできなかったかもしれません。彼の功績は、「伊賀越え」成功の紛れもない立役者の一人として、徳川家の歴史に深く刻まれることになったのです。
上林久茂が家康に協力した行為は、単なる忠義や偶然の産物として片付けることはできません。これは、一族の未来を賭けた、極めて戦略的な「政治的投資」であったと分析できます。
当時の政治情勢を冷静に考えれば、明智光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れることは、まだ誰にも予測できませんでした。畿内を制圧した光秀に与する方が、目先の安全を確保する上では遥かに合理的な選択だったはずです。しかし、上林家は信長との関係を通じて、中央の権力構造の力学と、そこに連なる武将たちの器量を見極める目を養っていました。彼らは、信長の盟友として着実に勢力を伸ばしてきた家康という「銘柄」に、一族の将来を賭けたのです。
このハイリスク・ハイリターンの賭けは、結果的に大成功を収めます。家康は天下統一への道を歩み始め、江戸幕府を開府。そして、かつて自らの命を救ってくれた茶師の功績を決して忘れませんでした。この「伊賀越え」における功績こそが、上林家が後に宇治の地を治める「代官」という破格の地位を与えられ、二百数十年にもわたる盤石な繁栄を享受する直接的な原因となったのです 1 。上林久茂の一世一代の決断は、戦国商人がいかにして政治の動乱を好機に変え、自らの手で運命を切り開いていったかを示す、鮮やかな成功事例として歴史に記録されています。
上林家の興隆は、特定の権力者との一度きりの関係によって成し遂げられたものではありません。彼らは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、戦国時代の終わりから泰平の世の始まりを告げた三人の天下人すべてと巧みに関係を築き、その時々の政権から公認されることで、その地位を段階的に、そして確実に高めていきました。
上林家が中央の権力と結びつく最初のきっかけは、織田信長でした。前述の通り、上林久茂が信長を案内した逸話や、信長から宇治における知行と白銀を拝領したという事実は、彼らが信長の茶の湯政策において、単なる茶の納入業者以上の、信頼されたパートナーであったことを示しています 11 。信長は、茶の湯を政治的な威信の象徴として用いました。その重要な儀式で使われる最高級の宇治茶を生産・管理する上林家は、信長の政策遂行に欠かせない存在として重用されたのです。この信長との関係が、上林家を地方の有力茶師から、全国的な知名度を持つ存在へと押し上げる第一歩となりました。
信長亡き後、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の時代においても、上林家の地位は揺らぎませんでした。むしろ、その地位はより公式なものとして保証されます。天正17年(1589年)、上林家は秀吉から、宇治郷において茶園と田畑を合わせて 390石の朱印地 を与えられました 2 。朱印地とは、領主の公的な支配権が認められた土地であり、これは上林家が豊臣政権下で、宇治における茶の生産を独占的に担う特権商人として公認されたことを意味します。
この密接な関係を裏付ける物証として、宇治にある「宇治・上林記念館」には、今なお豊臣秀吉が上林家に宛てた直筆の書状が大切に保管・展示されています 17 。また、秀吉が主催した茶会で珍重された「呂宋壺(るそんつぼ)」と呼ばれるフィリピン舶来の茶壺なども上林家に伝来しており、彼らが秀吉の華やかな桃山文化の一翼を担っていたことを物語っています 17 。
そして、上林家の繁栄を決定的なものにしたのが、徳川家康との関係です。「神君伊賀越え」における上林久茂の功績は、家康が天下人となった後、絶大な「恩賞」として一族に還元されました。家康は、命の恩人である上林家に対して最大限の信頼を寄せ、彼らを単なる御用茶師としてだけでなく、徳川家の直轄地である宇治を治める支配者として取り立てたのです 1 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、徳川の世が盤石になると、上林家は正式に宇治の代官に任じられます 2 。これにより、上林家は江戸幕府という国家権力の強力な庇護のもと、宇治の茶業を完全に掌握する絶対的な地位を確立しました。織田信長によって見出され、豊臣秀吉によって公認され、そして徳川家康によって盤石なものとされた上林家の地位は、まさに戦国の動乱を巧みに泳ぎ切ったからこそ得られた、栄光の証だったのです。
江戸幕府の成立後、上林家は茶師という商人の身分でありながら、武士階級が担うべき政治的な権力をも手中に収めるという、他に類を見ない特異な存在へと昇華します。その象徴こそが「宇治代官」という役職でした。
慶長5年(1600年)、上林家は徳川家康によって正式に宇治代官に任命されました 2 。宇治郷は幕府の直轄領、すなわち「天領」であり、代官職とは、将軍に代わってその地の年貢の徴収や訴訟の裁定といった行政全般を司る、極めて重要な役職です 5 。一介の茶師の一族が、このような統治権を委ねられることは、まさに前代未聞の抜擢でした。
この代官職は上林一族によって世襲され、初代の就任から寛保3年(1743年)までの約140年間にわたり、7代にわたって宇治の地を治めました 2 。代官所は宇治橋の西詰に置かれ、そこは文字通り宇治の政治・経済の中心地となりました 6 。この事実は、上林家が単なる茶の専門家ではなく、幕藩体制の一翼を担う為政者であったことを明確に示しています。
代官としての政治的権力に加え、上林家は経済的・文化的な特権も掌握していました。彼らは、将軍家や朝廷に献上する最高級の茶を栽培・製造・選定する「 御物御茶師(ごもつおちゃし) 」の筆頭、すなわち「 茶頭取(ちゃとうどり) 」の地位にあったのです 5 。
これは、全国に数多いる茶師の中でも最高の格式を誇る地位であり、宇治の茶師全体を統括し、幕府への茶の献上に関する一切を取り仕切る絶大な権限を持っていました 7 。将軍が飲む茶の品質を保証する責任者であると同時に、その茶を生産する土地の支配者でもある。この経済と政治の一体化こそが、上林家の権威を絶対的なものにしていたのです。彼らは、茶の生産基準を定め、他の茶師を指導し、時には幕府の権威を背景に茶業全体をコントロールすることができました。
上林家の権威を天下に知らしめたのが、毎年恒例の「 御茶壺道中(おちゃつぼどうちゅう) 」です 8 。これは、宇治で詰められた新茶を、将軍の元へと届けるために江戸まで運ぶ壮大な行列でした。上林家が厳選し、封印した茶壺は、「将軍家御用」の証として丁重に扱われ、その行列が通過する際には、道中の大名行列でさえ道を譲らなければならなかったと言われています。
「お茶壺道中」は、単なる輸送行列ではありませんでした。それは、宇治の茶師たちの技術の粋と、それを庇護する幕府の権威が一体となった、動く儀式であり、権力のデモンストレーションでした。その中心にいたのが、茶頭取である上林家です。彼らはこの行事を通じて、自らの社会的地位の高さを全国に示し、宇治茶のブランド価値を不動のものとしていったのです。
このように、江戸時代の上林家は、宇治という地域において「経済(茶業支配)」と「政治(代官統治)」を完全に一体化させた、他に類を見ない「政商」の完成形でした。彼らの成功は、「伊賀越え」の功績に報いるという徳川家の意向と、茶という重要な文化産業を最も信頼できる者に管理させたいという幕府の合理的な統治戦略が、完璧に合致した結果であったと言えるでしょう。
上林家の影響力は、政治や経済の領域に留まるものではありませんでした。彼らは最高品質の茶の生産者として、当代一流の文化人や全国の有力大名と深く結びつき、日本の茶文化そのものを支え、動かす巨大なネットワークの中核を成す存在でした。
茶の湯が文化の頂点にあったこの時代、最高の茶を求めることは、最高の文化を求めることと同義でした。上林家は、その需要に応えることで、当代きっての文化人たちと深い交流を持ちました。史料には、上林久茂が茶聖・ 千利休 の門人であったとの記述も見られます 3 。また、利休亡き後の茶の湯の世界をリードした大名茶人・
小堀遠州 とも親しく交際し、遠州好みの茶陶「朝日焼」の発展にも関わったとされています 22 。
上林家の茶は、利休の「わび茶」や遠州の「きれいさび」といった、茶の湯の美意識を具現化するための重要な要素でした。彼らは単に商品を供給するだけでなく、茶人たちの求める味や香りを実現するための対話を重ね、共に新たな茶文化を創造していくパートナーであったのです。このような文化人との交流を通じて、上林家は自らのブランド価値をさらに高め、文化的な権威をも手に入れていきました。
上林家の顧客は、将軍家や朝廷だけではありませんでした。彼らの名声は全国に轟き、各地の有力大名たちがこぞって上林家の茶を求めました。その証拠として、現在に伝わる「 上林家文書 」には、全国の名だたる大名から寄せられた注文状や礼状が数多く含まれています 24 。
その中には、奥州の独眼竜・ 伊達政宗 (仙台藩)、武勇と文化で知られる 細川三斎(忠興) (熊本藩)、そして幕府の要職を歴任した剣豪・ 柳生宗矩 といった、歴史に名を刻む錚々たる人物からの書状が含まれており、上林家が全国的な顧客ネットワークを構築していたことを物語っています 18 。彼らにとって上林家の茶を手に入れることは、自らのステータスと文化的洗練を示すための重要な手段であったのです。
全国に広がる大名顧客の中でも、肥前国(現在の佐賀県)の 鍋島家 との関係は、上林家が単なる商人ではなく、政治的な影響力をも行使する存在であったことを示す象徴的な事例です。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、佐賀藩の初代藩主となる 鍋島勝茂 は、当初西軍に与していました。結果は徳川家康率いる東軍の圧勝に終わり、西軍に加担した鍋島家は、家康からお家取り潰し、領地没収という最大の危機に直面します 24 。この窮地に際し、鍋島家を救うために奔走したのが、西本願寺の准如上人でした。そして、この准如上人と徳川家との間を取り持ち、調停を成功へと導いたのが、宇治の茶師・上林家であったと伝えられています 24 。
この時、上林家は自らが持つ徳川家からの絶大な信頼と、全国に広がる人脈を駆使して、一大大名の存亡に関わる政治的調停を成し遂げたのです。この多大な功績により、上林家は鍋島藩の御用達茶師として特別な待遇を受けることになりました。この関係は江戸時代を通じて続き、明治維新後には、上林家の一族の一部が鍋島家の招きに応じて佐賀に移住し、現在の佐賀市にある「上林茶店」の礎を築くに至ります 24 。
この逸話は、上林家が茶という商品を介して、いかに巨大な情報と影響力のネットワークを築き上げていたかを如実に示しています。彼らは、全国の有力者たちが最高級の茶を求めて集まる「ハブ(結節点)」として機能し、そこでは単なる商取引だけでなく、政治的な情報交換や交渉までもが行われていました。上林家は、茶を売ることを通じて信用を売り、情報を媒介することで、武士とは異なる形で戦国から江戸初期の社会に隠然たる影響力を行使していたのです。
上林久重に始まり、久茂の活躍によって飛躍を遂げ、江戸時代を通じて栄華を極めた上林家。その栄光の物語は、単なる伝承としてではなく、具体的な物証と史料によって現代にまで確かに伝えられています。彼らが残した遺産は、一族の歴史を物語るだけでなく、日本の茶業史、茶道史、ひいては近世社会史を解き明かすための貴重な鍵となっています。
上林家が後世に残した最大の遺産の一つが、佐賀市重要文化財にも指定されている膨大な古文書群「 上林家文書 」です 24 。これは、上林家が全国の大名や旗本、文化人たちと交わした千点以上に及ぶ書状のコレクションであり、その内容は驚くほど多岐にわたります。
佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂から歴代藩主に至る書状はもちろんのこと、伊達政宗、細川三斎、千利休、小堀遠州、柳生宗矩といった、歴史の教科書を彩る錚々たる人物たちの自筆の書状が含まれています 24 。これらの文書は、各大名がどのような茶を好み、どのように注文していたかといった茶業史の具体的な記録であると同時に、彼らの人間関係や当時の政治・社会情勢を垣間見ることができる一級の歴史史料です。上林家が、いかに広範で、かつ質の高いネットワークの中心にいたかを、これらの文書は雄弁に物語っています。
もう一つの重要な遺産が、宇治の地に今も佇む「 宇治・上林記念館 」です 5 。ここは、上林家の直系である上林春松家が、一族に代々伝わってきた貴重な歴史資料を公開するために設立した施設です 4 。
館内には、前述の豊臣秀吉からの書状や、豪商・呂宋助左右衛門が舶載したとされる「呂宋壺」といった歴史的至宝をはじめ、江戸時代に使われていた焙炉(ほいろ)などの製茶道具、将軍家に茶を献上する際に用いられた道具類などが展示されています 17 。元禄年間に建てられたとされる長屋門など、歴史的な建造物自体も、かつての御物茶師の暮らしぶりを今に伝える貴重な文化遺産です 26 。この記念館は、上林一族の栄光の歴史と、宇治茶800年の文化を体感できる、生きた博物館として重要な役割を果たしています。
上林久重に始まる上林家の物語は、一人の茶師が丹波の地から宇治へ移り住み、築き上げたささやかな礎を、その息子・久茂が「本能寺の変」という歴史の転換点で見せた機敏な判断力と大胆な行動力によって、国家的な事業へと昇華させた軌跡です。
彼らは、単に優れた茶を作っただけではありませんでした。茶という文化商品を軸に、経済力(茶業支配)、政治権力(宇治代官)、そして文化的影響力(茶頭取としての権威)という三つの力を、一族の手に集約し、見事に融合させました。武士が刀によって天下を目指した時代に、彼らは「茶」を武器に、武士とは異なる形で時代の頂点に立ったのです。
始祖・久重の先見性、嫡男・久茂の決断力、そして代々の当主たちが守り育てた信用と品質。その全てが一体となって、上林家という類稀なる政商を創り上げました。彼らの壮大な成功譚は、戦国という時代のダイナミズムと、そこに生きた商人のしたたかで、かつ卓越した生存戦略を、四百数十年の時を超えて我々に鮮やかに伝えてくれるのです。