上田重安(うえだ しげやす)、後の上田宗箇(うえだ そうこ)は、永禄6年(1563年)に生を受け、慶安3年(1650年)に没するまで、戦国時代、安土桃山時代、そして江戸時代初期という日本史における激動の時代を駆け抜けた人物である 1 。彼は勇猛果敢な武将として数々の武功を立てる一方で、千利休や古田織部といった当代一流の茶人に師事し、茶道上田宗箇流の流祖となるなど、文化人としても卓越した才能を発揮した。さらに、縮景園(広島)をはじめとする数々の名園を作庭した作庭家としてもその名を残している。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人とも交流があったとされ、その活動は武辺一辺倒に留まらなかった 1 。
本報告書は、この上田重安(宗箇)の生涯を、武将としての側面、茶人・文化人としての側面から多角的に捉え、その業績と歴史的意義を明らかにすることを目的とする。特に、彼が如何にして武勇と風雅という、一見相反する要素を両立させ、後世に名を残すに至ったのかを、現存する資料に基づいて詳細に検討する。
本報告書では、まず重安の出自と丹羽家臣時代から説き起こし、豊臣秀吉の直臣としての活躍、天下分け目の関ヶ原の戦いにおける動向、そして浅野家に仕官し大坂の陣で武功を挙げるに至る武将としての道を詳述する。次に、茶人としての側面に焦点を当て、千利休、古田織部から受けた影響、自身が創始した上田宗箇流茶道の特徴と美意識、さらには彼にまつわる茶道具や逸話を紹介する。続いて、作庭家としての才能にも光を当て、代表作である縮景園をはじめ、彼が手掛けた庭園について解説する。最後に、上田家のその後と、宗箇の遺産が現代にどのように受け継がれているかについて触れ、その歴史的意義を総括する。
上田重安の生涯において特筆すべきは、戦場における勇猛さと、茶の湯や作庭における繊細な美意識という、二つの異なる資質を高い次元で兼ね備えていた点である。また、戦国の世の常として主君を幾度か変えながらも、武士としての義を貫き、同時に文化人としての精神性を深く追求し続けたその生き様は、激動の時代を生きた一人の武将の多面的な魅力と、当時の武家文化の奥深さを示していると言えよう。
上田重安は、永禄6年(1563年)、尾張国愛知郡星崎村(現在の愛知県名古屋市南区星崎)において、上田重元の子として生を受けた 3 。幼名は佐太郎と伝わる 4 。上田家は元々小笠原姓を名乗っていたが、重安の代で上田に改姓したとされる 3 。
重安の父・重元は織田信長の有力家臣であった丹羽長秀に仕えていた 5 。重安は10歳にして父を失い、一時禅寺に預けられた後、丹羽長秀に見出されて侍児(小姓)となり、元服後は丹羽氏の家臣として各地の戦いに従軍した 2 。
彼の武将としての名声を天下に轟かせた最初の戦功は、天正10年(1582年)6月の本能寺の変直後に起こった。当時、丹羽長秀は織田信孝(信長の三男)と共に、明智光秀への内通を疑われた津田信澄(信長の甥)が守る大坂城千貫櫓を攻撃した。この時、弱冠20歳の重安は敵中に攻め入り、信澄の首級を挙げるという大手柄を立てたのである 2 。この功績により、彼の武勇は広く知られることとなった。
しかし、重安の人生は順風満帆ではなかった。天正13年(1585年)に主君・丹羽長秀が死去すると、その子・長重の代には豊臣秀吉によって丹羽家は大幅に減封され、多くの家臣が禄を失い離散するという事態に見舞われた 3 。父祖以来仕えた主家の衰退は、重安にとって大きな試練であったに違いない。主家への忠誠と自身の将来との間で葛藤があったであろうことは想像に難くないが、この出来事は結果的に、重安が新たな道を切り開く契機となった。戦国時代の武将にとって、主家の盛衰は自身の運命を左右する重大事であり、実力のある者は新たな主君を求めて活躍の場を移すことも珍しくなかった。重安もまた、この危機を乗り越え、自身の武勇と才覚をもって新たなキャリアを築いていくことになる。
丹羽家の減封に伴い多くの家臣が離散する中、上田重安の武勇は豊臣秀吉の目に留まることとなった。彼は秀吉の直臣として召し抱えられ、越前国内に1万石の所領を与えられ、大名としての地位を確立した 3 。これは、彼の能力が中央政権においても高く評価されたことを示すものである。
秀吉の直臣となって以降、重安は豊臣政権下で数々の軍役に従事した。天正15年(1587年)には九州征伐に従軍 3 。天正18年(1590年)の小田原の役においては、秀吉本陣の脇備えとして300騎の兵を率いて参陣した 3 。さらに、文禄元年(1592年)に始まった文禄の役(朝鮮出兵)では、肥前名護屋城に駐屯し、秀吉本陣の前備衆の一人として200名を率いたが、実際に朝鮮半島へ渡海することはなかった 3 。
これらの軍功により、文禄3年(1594年)7月29日には従五位下・主水正(もんどのしょう)に叙任され、豊臣姓を賜る栄誉に浴した 2 。慶長3年(1598年)に秀吉が死去した際には、その遺物として直家(宇喜多直家か)の刀を受領している 3 。
秀吉の直臣として1万石の大名に取り立てられたことは、重安の武将としてのキャリアにおける一つの頂点であったと言える。しかし、文禄の役で渡海していない点や、その後の石高に大きな加増が見られない点などを考慮すると、豊臣政権内での彼の立場は、最前線で華々しく活躍する猛将というよりは、実務能力に長けた信頼の置ける中堅武将としての役割が主であった可能性が示唆される。彼の武勇は認められていたものの、政権中枢で大きな政治的影響力を持つまでには至らなかったのかもしれない。このことは、後の関ヶ原の戦いにおける彼の選択や、浅野家家老としての彼の立場にも影響を与えたと考えられる。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展した。この一大決戦において、上田重安は西軍に与した 3 。西軍参加の直接的な理由は諸説あり明確ではないが、豊臣秀吉から受けた恩顧や、石田三成や大谷吉継といった西軍首脳との関係性が影響した可能性が考えられる 10 。また、かつての主筋である丹羽長重が西軍に属していたことも、彼の決断に何らかの影響を与えたかもしれない 3 。重安はまず大坂甲津口の警備を担当し、その後、北国口の防備へと移動。東軍の前田利長の南下を阻止するため、旧主・丹羽長重が籠もる加賀国小松城に駐屯した 3 。
しかし、関ヶ原の本戦で西軍は敗北。重安もまた領地を没収され、摂津国にて浪々の身となり、剃髪して「宗箇」と号するようになった 3 。武将としてのキャリアはここで一旦途絶えたかに見えたが、彼の武名や人柄を惜しんだ蜂須賀家政(阿波徳島藩主)に強く請われて客将として迎えられ、阿波国徳島に移り住んだ 3 。この徳島在住時代には、家政の依頼を受けて徳島城表御殿庭園を作庭しており、武将としてだけでなく、文化人としての才能も発揮し始めている 3 。
その後、重安の人生に再び転機が訪れる。彼の妻は、豊臣秀吉の正室・高台院の従弟にあたる杉原長房の娘であった。そして、浅野長政(幸長の父)とその子・浅野長晟(幸長の弟、後の広島藩主)は、それぞれ長房の娘を養女としていた。この深い縁戚関係により、当時紀州藩主であった浅野幸長(長政の子)に招かれ、浅野家の家老として1万石の知行を与えられて仕えることになったのである 3 。この仕官に際しては、徳川家康の許しを得た上で還俗(僧侶の身分を捨てて俗人に戻ること)している 3 。
関ヶ原の敗戦によって全てを失ったかに見えた重安が、蜂須賀家、そして浅野家という有力大名に重臣として迎えられた背景には、単なる武勇だけでなく、彼が築き上げてきた人間関係のネットワーク、特に妻を通じた縁戚関係が極めて重要な役割を果たしたことがわかる。また、徳島城で作庭を手掛けたように、茶の湯や作庭といった文化的素養も、彼の価値を高める要因となったであろう。戦国末期から江戸初期にかけては、武将の評価基準が戦場での働きだけでなく、こうした多面的な能力や人間関係によっても左右されるようになっていたことを、重安の再起は示唆している。
浅野家に仕官し、新たな道を歩み始めた上田重安(宗箇)であったが、彼の武人としての経験と能力が再び求められる時が来た。慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が、そして翌慶長20年(元和元年、1615年)には大坂夏の陣が勃発すると、宗箇は主君・浅野長晟に従って参戦した 3 。
特に大坂夏の陣における樫井の戦い(現・大阪府泉佐野市)では、宗箇は目覚ましい活躍を見せた。この戦いで彼は、豊臣方の勇将として知られた塙団右衛門直之(塙直之)の首級を挙げるという大戦功を立てたのである 3 。当時、宗箇は50歳を超えていたが、その武勇は些かも衰えていなかった。この功績は、時の将軍・徳川秀忠および大御所・徳川家康からも高く賞賛されたと伝えられている 3 。
大坂の陣での戦功は、関ヶ原の戦いで西軍に与したという過去を持つ宗箇にとって、極めて大きな意味を持った。徳川の治世において、自身の存在価値と浅野家への忠誠を改めて証明する機会となったからである。敵将を討ち取るという具体的な武功は、彼の武人としてのキャリアの集大成とも言え、これにより浅野家中での彼の地位はより一層強固なものとなり、同時に徳川幕府からも一定の評価を得ることになった。これは、戦国の世から新たな江戸の世へと移行する中で、彼が巧みに適応し、その存在を確固たるものにしたことを示している。武勇をもって新体制に貢献することで、過去の経緯を乗り越え、自身の立場を肯定させたと言えるだろう。
表1:上田重安 年表
年号 |
西暦 |
年齢 |
主な出来事 |
典拠 |
永禄6年 |
1563年 |
1歳 |
尾張国愛知郡星崎村にて誕生。 |
3 |
天正10年 |
1582年 |
20歳 |
本能寺の変後、丹羽長秀家臣として津田信澄を大坂城千貫櫓にて討ち取る。 |
2 |
天正13年 |
1585年 |
23歳 |
丹羽長秀死去。その後、豊臣秀吉の直臣となり、越前国内で1万石を領す。 |
3 |
天正15年 |
1587年 |
25歳 |
九州征伐に従軍。 |
3 |
天正18年 |
1590年 |
28歳 |
小田原の役に従軍。秀吉本陣の脇備えとして300騎を率いる。 |
3 |
文禄元年 |
1592年 |
30歳 |
文禄の役(朝鮮出兵)において、肥前名護屋城に駐屯。渡海せず。 |
3 |
文禄3年 |
1594年 |
32歳 |
従五位下・主水正に叙任され、豊臣姓を賜る。 |
2 |
慶長3年 |
1598年 |
36歳 |
豊臣秀吉死去。遺物として直家の刀を受領。 |
3 |
慶長5年 |
1600年 |
38歳 |
関ヶ原の戦いに西軍として参加。敗戦後、領地没収。剃髪し「宗箇」と号す。その後、蜂須賀家政の客将となる。 |
3 |
慶長年間 |
詳細年不明 |
|
浅野幸長に仕え、家老となる。1万石を与えられる。 |
3 |
慶長19年 |
1614年 |
52歳 |
大坂冬の陣に浅野長晟に従い従軍。 |
3 |
慶長20年/元和元年 |
1615年 |
53歳 |
大坂夏の陣、樫井の戦いで豊臣方の将・塙直之を討ち取る。徳川家康・秀忠より賞賛される。 |
3 |
元和5年 |
1619年 |
57歳 |
浅野長晟の安芸広島移封に従い、芸州佐伯郡小方村に1万2千石(資料により1万7千石とも 2 )を与えられる。 |
3 |
慶安3年 |
1650年 |
88歳 |
5月30日(資料により5月1日とも 8 、また慶安3年没とのみ記すものもある 2 )に死去。 |
2 |
この年表は、上田重安(宗箇)の波乱に満ちた生涯を時系列で概観するものであり、彼が経験した時代の大きな変遷と、その中での彼の立場や行動の変化を理解する一助となる。
武将としての輝かしい経歴を持つ上田重安は、同時に茶の湯の世界においても深くその道を究め、「上田宗箇」として名を馳せた。彼の茶風は、戦国武将らしい気骨と、洗練された文化的素養が融合した独自のものであり、後に「上田宗箇流」として大成し、現代にまで受け継がれている。
上田宗箇の茶の湯は、当代随一の茶人たちとの出会いによって育まれた。彼はまず茶道を完成させたとされる千利休(1522-1591)に師事し、その後、利休の弟子であり当時天下一の茶人と称された武将茶人・古田織部(重然、1544-1615)に深く師事した 1 。
千利休から直接教えを受けた具体的な時期については資料からは判然としない部分もあるが、利休が追求した「わび茶」の精神は、宗箇の茶の湯観の根底に大きな影響を与えたと考えられる。一方、古田織部との関係は特に密接であった。織部は利休の茶道を集大成しつつも、茶器製作、建築、造園において「織部好み」と称される大胆かつ自由な様式を確立し、安土桃山時代の文化に新風を吹き込んだ人物である 16 。宗箇は織部と親交を深め、彼と共に「武家茶道」を創設したとも言われている 15 。
利休の静謐な精神性と、織部の豪放磊落ともいえる革新性。これら二人の巨匠から受けた影響は、宗箇の中で融合し、彼自身の武士としての生き様や美意識を反映させた独自の茶風を模索する原動力となった。師たちの教えをただ鵜呑みにするのではなく、自身の経験と感性というフィルターを通して昇華させた結果が、後に「上田宗箇流」として結実する「武家茶道」の特色へと繋がっていったと推察される。
上田宗箇によって創始された茶道上田宗箇流は、広島の地を中心に400年以上にわたり、その伝統を現代に伝えている 14 。この流派は、特に「武家茶道」としての際立った特徴を有している。
その作法の特徴として、まず点前(茶を点てる所作)が直線的であることが挙げられる 14 。これは、武士の立ち居振る舞いの名残であるとされ、無駄のない、ある種の緊張感を伴った動きを重視する。また、柄杓や帛紗(ふくさ)といった茶道具の扱い方も独特である 14 。例えば、袱紗を右の腰につけるのは、武士が刀を差していた名残とされ 19 、男性の点前においては、柄杓で湯水を汲む動作に弓矢をつがえる際の所作が残っているとも言われている 19 。
さらに、上田宗箇流では男性と女性で点前や礼の仕方に異なる部分が見られるのも特徴的である 19 。これらの作法は総じて「凛として、美しい。さらに男性は男性らしく、女性は女性らしく」と評され、武家社会における性差や役割意識が茶の湯の所作にも反映されていることを示している 19 。
上田宗箇流の作法に見られるこれらの特徴は、単なる形式美の追求に留まらない。それは、武士としての日常的な身体感覚や精神的な規律、戦場での緊張感や集中力、あるいは武士としての威儀や礼節といった要素が、茶の湯という文化的な表現の場において昇華されたものと解釈できる。茶の湯が単なる趣味や遊芸ではなく、武士の精神修養や自己表現の手段として深く生活に取り入れられた結果、その身体性や価値観が色濃く反映された独自の様式が生まれたのである。これは、他の商人茶や公家茶とは一線を画す「武家茶道」の本質的な特徴と言えるだろう。
上田宗箇の茶の湯は、師である千利休が追求した「静中の美」、そして古田織部が示した「動中の美」といった既存の美意識とは一線を画し、宗箇オリジナルの独特の美を体現していたとされる 19 。その茶風は、「武将らしい豪放さと漢学の素養に包まれたもの」と評されている 8 。
宗箇の茶の湯における精神性の中核には、「静心の充実、今を一生懸命生きるという戦国武将の心の在り方」があった 19 。常に死と隣り合わせの過酷な戦乱の時代を生きた武士たちにとって、茶の湯は心の静けさを得て精神的な安定や落ち着きを見出すための重要な手段であったのかもしれない 15 。宗箇もまた、茶道を通じてそのような精神的境地を追求したと考えられる。
彼の茶の湯における「武将らしい豪放さ」とは、単に大胆であるとか型破りであるということだけを指すのではないだろう。それは、戦場で培われたであろう鋭い判断力や決断力、現実的な状況に即応する能力といった、武士としての実践的な側面が茶の湯のあり方にも反映されたものと推察される。一方で、「漢学の素養」は、彼の茶の湯に深い精神性や論理性、あるいは儒教的な道徳観や規範意識をもたらした可能性がある。これにより、宗箇の茶は単なる遊芸や趣味の域を超え、厳しい現実を生き抜くための精神的な支柱であり、かつ武士としての自己を表現し、高めるための場となっていたと考えられる。利休の静、織部の動という二つの潮流を学びながらも、最終的には武士としての自己のアイデンティティを核に据え、実践的リアリズムと精神的支柱としての役割を茶の湯に見出したのが、宗箇の独自性であったと言えよう。
上田宗箇は、武将、茶人としてのみならず、卓越した作庭家としてもその才能を発揮し、各地に印象的な庭園を残している。彼の作庭には、茶の湯と同様に、武士としての経験や美意識が色濃く反映されている。
上田宗箇の代表作として最も名高いのが、広島にある縮景園である。元和5年(1619年)、浅野長晟が福島正則の後を受けて安芸広島藩主として入封した際、家老であった上田宗箇もこれに従い、芸州佐伯郡小方村(現在の大竹市小方)に所領を与えられた 3 。縮景園は、この浅野長晟が広島城の東に別邸の庭園として元和6年(1620年)から築造を開始したもので、その作庭を宗箇が担当した 3 。
縮景園は、池を中心に島や橋、築山を配した回遊式庭園であり、江戸時代の大名庭園の典型的な様式を示すとされる 23 。興味深いのは、築庭当初の設計に関する伝承である。それによれば、当時は現在よりも木々が少なく、人工の小山である「築山」には芝生が植えられ、茶室の周辺は砂利が敷き詰められていたという。これは、万が一の際に侵入者をすぐに発見できるようにとの、防衛的な配慮があったためと考えられている 22 。この点は、単に風雅を追求する作庭家ではなく、常に武士としての視点を持ち続けていた宗箇ならではの発想と言えよう。
縮景園は、宗箇による作庭後も、歴代の浅野藩主によって改修が加えられ、徐々に現在の姿へと整えられていった 24 。しかし、昭和20年(1945年)8月6日の原子爆弾投下により、園内の建物や樹木のほとんどが焼失し、壊滅的な被害を受けた。戦後、長い年月をかけて復旧作業が行われ、現在では国内外から多くの人々が訪れる名園として親しまれている 23 。
縮景園の初期設計に見られる実用的な配慮は、宗箇の作庭における「武」と「雅」の融合を示す好例である。美しい景観を創出しつつも、藩主の別邸としての機能性や、家老としての立場からくる防衛意識といった武人的な価値観が、庭園という美的空間にも反映されていた可能性が高い。これは、彼の茶道における武家的な特徴とも通底するものであり、彼の創作活動全体に「武」の要素が貫かれていたことを示唆している。
上田宗箇の作庭家としての名声は広島に留まらず、各地の有力大名や幕府からも依頼を受け、数多くの重要な庭園を手掛けている。
これらの庭園は、宗箇の作庭家としての広範な活動と、その卓越した技術が高く評価されていたことを物語っている。
表3:上田宗箇 作庭一覧
庭園名 |
所在地 |
種類・特徴 |
典拠 |
縮景園 |
広島県広島市中区 |
回遊式庭園、大名庭園、国指定名勝 |
13 |
徳島城表御殿庭園 |
徳島県徳島市 |
(城郭庭園) |
3 |
和歌山城西の丸庭園(紅葉山庭園) |
和歌山県和歌山市 |
(城郭庭園) |
3 |
粉河寺庭園 |
和歌山県紀の川市 |
枯山水庭園、桃山時代作、国指定名勝 |
3 |
名古屋城二の丸庭園 |
愛知県名古屋市中区 |
(城郭庭園)、国指定名勝 |
3 |
桂國寺庭園 |
徳島県阿南市 |
池泉回遊式庭園、桃山時代作と伝わる |
13 |
この一覧は、上田宗箇が手掛けたとされる主要な庭園を示しており、彼の作庭家としての活動範囲の広さと、後世に残した影響の大きさを物語っている。
上田宗箇の茶人としての側面を語る上で欠かせないのが、彼が所持し、あるいは自ら制作した茶道具と、それらにまつわる数々の逸話である。これらは、宗箇の美意識、精神性、そして人間性を今に伝える貴重な手がかりとなっている。
宗箇にまつわる逸話の中でも特に有名なのが、茶杓「敵がくれ」の物語である。これは、慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣の際、樫井の戦いで一時竹藪に身を潜めていた時の出来事とされる。敵が迫る緊迫した状況下で、宗箇は美しい竹を見つけ、おもむろに小刀を取り出して茶杓を削り始めた。そのあまりにも落ち着き払い、無心に茶杓を削る様に、かえって敵兵が不気味に感じて近づけず、ついに退散してしまったという 15 。この時に作られたと伝えられる2本の茶杓が「敵がくれ」と呼ばれ、上田家に伝来している 15 。
この茶杓は、戦の最中に作られたとは到底思えないほど見事な出来栄えであると評されている 15 。その作風は、宗箇の茶杓の中でも特に彼独自の特徴が顕著に表れており、櫂先(茶をすくう部分)の折り曲げ(折撓め)は師の千利休よりも鋭角的で強く、全体の肉取りは同じく師事した古田織部のものよりも厚手であるとされる 27 。
「敵がくれ」の逸話は、単なる武勇伝や奇談として片付けられるものではない。それは、死と隣り合わせの戦場という極限状況下にあっても、美を追求し、茶の湯の道具を自ら作り出すという宗箇の精神の在り方、そして武人としての剛胆さと茶人としての風雅さが見事に融合した彼の特異な人間性を象徴している。茶の湯が彼にとって単なる趣味ではなく、精神的な平衡を保ち、自己を確立するための重要な行為であったことを物語っている。敵兵がその異様な様に気圧されて逃げたという結末は、常人には理解しがたいほどの集中力と、泰然自若とした落ち着きが、かえって一種の威圧感として周囲に作用した結果なのかもしれない。
上田宗箇は、茶道具を収集し鑑賞するだけでなく、自ら制作にも携わった。「さても」と名付けられた茶碗は、彼が広島城下の河原町にあった下屋敷の窯(御庭焼)で自ら焼いたとされる作品である 27 。この茶碗は、楽茶碗の胴部分をヘラで大胆に削り落とし、角張った(スクエアな)フォルムに仕上げているのが大きな特徴で、その豪快で力強い篦(へら)使いは圧巻であると評されている 27 。
「さても」という銘の由来については、「遠祖君(宗箇)御手づから此器を作りたまひて、御子重政君にたまひたれば、さてもめでたしさてもめでたしとのたまひて、やがてこの器をさてもと名付けたまひし」という記録が残っており、宗箇がこの茶碗を完成させ、子の重政に与えた際にその出来栄えを「さても(実にまあ)めでたいことだ」と喜んだことから名付けられたと伝えられている 27 。
宗箇が自ら土を捏ね、轆轤を回し、窯で焼成するという、茶碗制作の全工程に関与したという事実は、彼が単に茶の湯を嗜むだけでなく、その道具に対しても深い理解と独自の美的感覚を持ち、積極的に創造に関わろうとしたことを示している。「さても」に見られる大胆なヘラ削りや角張った造形は、既存の茶碗の形式にとらわれない自由な精神と、武人らしい力強さの表れであり、師である古田織部の革新的な作風(織部好み)の影響を受け継ぎつつも、そこに自身の個性を明確に刻印しようとした試みと解釈できる。これは、彼が茶の湯の世界において、単なる享受者ではなく、創造者でもあったことを雄弁に物語っている。
上田家には、「敵がくれ」や「さても」以外にも、宗箇ゆかりの数多くの茶道具が伝来している。これらは、宗箇の幅広い審美眼や茶の湯のスタイル、さらには当時の他の茶人や武将たちとの交流関係を具体的に示す重要な手がかりとなる。
主な伝来品としては、宗箇自作とされる竹花入(力強い鉈目が特徴で、一気に切り落としたような豪快な作ぶりと評される)、同じく自作の御庭焼茶入、師・古田織部の在判がある菱紋沓形茶碗(織部焼)、唐物大海茶入、備前焼の耳付水指(蓋は宗箇作と伝わる)、豊臣秀吉から拝領した可能性が指摘される丹波焼の立鼓花入、芦屋釜の伝統を汲む瓜形尾垂釜などが挙げられる 27 。これらの道具は、宗箇が唐物(中国渡来の品)から和物(国産品)、そして自作品に至るまで、多様な道具を取り合わせて茶の湯を楽しんでいたことを示唆している。
また、「上田高麗」あるいは「上田暦手(こよみで)」といった名称で知られる茶碗の存在も興味深い。具体的には、根津美術館が所蔵する朝鮮王朝時代(16世紀)の三島茶碗に「銘 上田暦手」という作品があることが確認されている 30 。高麗茶碗は、室町時代末期に朝鮮半島から日本へもたらされ、井戸茶碗、三島茶碗、粉引、刷毛目など、その素朴で力強い味わいが日本の茶人たちに深く愛好された 31 。
「上田高麗」という名称が具体的にどのような種類の高麗茶碗を指すのか、また宗箇自身が特定の高麗茶碗に「上田」の名を冠したのか、あるいは上田家が特に珍重した高麗茶碗群を指すのかといった詳細については、現存する資料からは直接的に断定することは難しい。しかし、「上田暦手」という銘の茶碗が現存することは、宗箇あるいは上田家が高麗茶碗、特に暦の模様に似た印花文を持つ三島手の茶碗と何らかの深い関わりを持っていた可能性を示唆している。
上田家伝来の多様な茶道具群は、宗箇の幅広い交友関係(豊臣秀吉、他の大名や茶人など)と、彼の審美眼が特定のスタイルに固定されることなく、多様な美を受け入れる柔軟性を持っていたことを物語っている。また、「上田暦手」のような銘を持つ茶碗の存在は、後世に至るまで「上田宗箇」という名が茶道具の世界で一定のブランドとして意識されていた可能性を示しており、彼の茶人としての影響力の大きさを窺わせる。
上田宗箇の死後も、彼が築き上げた武名と文化は、子孫によって受け継がれ、特に広島の地において大きな影響を残した。
元和5年(1619年)、浅野長晟が安芸広島藩42万石余の藩主として入封した際、上田宗箇もこれに従い、芸州佐伯郡小方村(現在の大竹市小方)に1万2千石(資料によっては1万7千石とも記される 2 )の知行を与えられ、広島藩の家老となった 3 。上田家はその後、明治維新に至るまで代々広島藩の国老職を務め、藩政に重きをなした 2 。
宗箇の子孫たちの動向を見ると、彼の深謀遠慮が窺える。嫡男の上田重秀は、宗箇自身が徳川将軍家からの直参出仕の誘いを固辞した代わりに、寛永9年(1632年)に徳川家に出仕し、近江国野洲郡に知行を得て旗本となった 3 。これは、徳川幕府との直接的な繋がりを確保し、家の安泰を図るための戦略であったと考えられる。一方、次男の上田重政が広島藩浅野家の家老職と宗箇の家督を相続し、広島における上田家の地位を継承した 3 。また、三男(養子)の可勝は肥後熊本藩主の細川氏に仕えたと記録されている 3 。
宗箇自身も、広島藩の重臣として藩政に深く関与していた。例えば、藩主浅野長晟が寛永9年(1632年)に国元を離れる際に発した留守中法度(藩主不在時の藩政運営に関する規定)の宛先の一人として、上田重安(宗箇)の名が見られる 35 。これは、彼が藩の最高意思決定に関わる重要な立場にあったことを明確に示している。ただし、縮景園の作庭といった文化的な業績に比べ、具体的な行政手腕や領地経営に関する詳細な治績については、現存する資料からは限定的である 3 。
宗箇が嫡男を幕府に出仕させ、次男に広島藩の家老職を継がせたことは、徳川幕藩体制という新たな時代における武家の巧みな存続戦略を示すものと言える。これにより、上田家は中央(幕府)とのパイプと、地方(藩)における確固たる地位という、二重の安定基盤を確保しようとしたと考えられる。関ヶ原の戦いで改易の憂き目に遭った宗箇自身の経験が、子孫の将来を見据えたこのような家政戦略に影響を与えたのかもしれない。
上田宗箇が創始した茶道上田宗箇流は、彼の死後もその子孫によって大切に受け継がれ、現代に至るまでその法灯を伝えている。
初代・上田宗箇(重安)から始まり、家督を継いだ次男の二代・重政、その子である三代・重次へと流派は継承され、第二次世界大戦後の困難な時期も乗り越え、現代の十六代・上田宗嗣(宗冏)家元に至るまで、上田家の当主が代々家元を務めてきた 2 。この一貫した血統による継承は、流派の純粋性と伝統を強固に守り続ける上で大きな役割を果たしてきたと言える。
上田宗箇流の拠点となっているのが、広島市西区古江東町に所在する茶苑「和風堂」である 39 。ここには、江戸時代の武家屋敷の構成を再現した茶寮や書院屋敷が設けられ、上田家伝来の貴重な茶道具や古文書が多数保存・研究され、一部は公開もされている 19 。和風堂は、上田宗箇流の精神と文化を体感できる場として、また門弟たちの研鑽の場として重要な役割を担っている。
上田宗箇流は、広島の地に400年以上にわたって深く根付き 15 、現在でも広島における主要な茶道流派の一つとして、多くの人々に親しまれている 17 。定期的な茶会や稽古を通じて、武家茶道ならではの凛とした美意識と、宗箇が追求した茶の湯の精神を今に伝え続けている。一人の武将が創始した茶道流派が、幾多の時代の変遷と社会の変動を経てもなお、その子孫によって連綿と継承され、地域文化として豊かに花開いていることは、特筆すべき点である。
表2:上田宗箇流 歴代家元(当主)
代 |
名 |
続柄 |
備考 |
典拠 |
初代 |
重安・宗箇 (しげやす・そうこ) |
|
流祖、主水正 |
2 |
二代 |
重政 (しげまさ) |
宗箇次男 |
備前守 |
2 |
三代 |
重次 (しげつぐ) |
重政の子 |
主水助 |
2 |
四代 |
重羽 (しげのぶ)・沢水 |
重次の子 |
主水 |
2 |
五代 |
義行 (よしゆき) |
浅野家より養子 (重羽の養子) |
主水 |
2 |
六代 |
義従 (よしより) |
重羽の庶子 (義行の養子) |
主水 |
2 |
七代 |
義敷 (よしのぶ) |
義行の実弟 (義従の養子) |
主水 |
2 |
八代 |
義珍 (よしたか) |
上田能登守義當の三男 (義敷の養子) |
民部 |
2 |
九代 |
安虎 (やすとら) |
(養子関係不明、義珍の後継) |
主水 |
2 |
十代 |
安世 (やすつぐ)・慎斎 |
(安虎の後継) |
主水 |
2 |
十一代 |
安節 (やすとき)・松濤 |
(安世の後継) |
主水 |
2 |
十二代 |
安敦 (やすあつ)・譲翁 |
(安節の後継) |
主水 |
2 |
十三代 |
安靖 (やすきよ) |
(安敦の後継) |
従五位男爵 |
2 |
十四代 |
宗雄 (むねお)・宗翁 |
(安靖の後継) |
正三位男爵 |
2 |
十五代 |
元重 (もとしげ)・宗源 |
(宗雄の後継) |
正五位 |
2 |
十六代 |
宗嗣 (そうし)・宗冏 |
(元重の後継) |
当代家元 |
2 |
この歴代家元の一覧は、上田宗箇流が断絶することなく、一貫して上田家によって守り伝えられてきたことを示している。
上田宗箇の記憶は、広島の地に残る史跡や、上田家に伝来した文化財を通じて、今もなお語り継がれている。
宗箇は慶安3年(1650年)に88歳という長寿を全うしてこの世を去った。彼の遺言により、遺体は火葬に付され、その遺骨は槌で細かく砕かれた後、厳島(宮島)の対岸にあたる大野の串山の麓から早瀬の海へと流されたと伝えられている 2 。特定の墓所を持たなかった宗箇であるが、広島県廿日市市大野(旧大野町)の串山には、彼の遺髪を納めたとされる「上田宗箇遺髪塚」が建立されており、彼を偲ぶよすがとなっている 2 。
また、広島城内には、かつて上田家の上屋敷にあった茶室が「上田宗箇流茶寮 和風堂」として復元されており、宗箇が愛した茶の湯の空間を垣間見ることができる 42 。この復元茶室は、上田宗箇流の活動拠点の一つともなっている。
さらに、上田家に伝来した宗箇ゆかりの品々は、その歴史的・文化的価値が認められ、大切に保存されている。近年では、上田家所蔵の茶道具や武具、古文書など82点が「上田家資料」として広島市の重要文化財に指定された 29 。これらの中には、宗箇自作と伝わる古萩茶碗「ひろしま」や、彼が着用したとされる陣羽織なども含まれており、宗箇の人物像や当時の文化を具体的に伝える貴重な史料群である。
宗箇の遺髪塚や復元された茶室、そして文化財として指定された数々の遺品は、彼個人の記憶を単に留めるだけでなく、彼が広島の地に遺した文化的影響が地域社会によって深く認識され、価値づけられていることの証左である。特に、遺言による散骨という行為は、特定の場所に縛られない宗箇の自由な精神性や、自然への回帰を望んだ彼の独特な死生観を反映しているのかもしれない。それにもかかわらず遺髪塚が建立されたという事実は、彼を慕う後世の人々の思いの強さを物語っている。これは、宗箇が遺した精神的・文化的な遺産が、物理的な遺物以上に重要視され、大切に継承されてきたことを示唆していると言えよう。
上田重安(宗箇)は、戦国乱世から泰平の江戸初期という激動の時代を生き抜き、武将としての勇猛果敢さと、茶人・作庭家としての卓越した美的感覚という、一見すると対照的な二つの側面を高い次元で融合させた稀有な人物であった。丹羽家臣としての初陣から、豊臣秀吉の直臣、関ヶ原の敗北と浪人生活、そして浅野家家老としての大坂の陣での武功に至るまで、彼の武将としての生涯は波乱に満ちていたが、その一方で、千利休、古田織部に茶の湯を学び、独自の武家茶道「上田宗箇流」を創始し、また縮景園をはじめとする数々の名園を作庭するなど、文化人としても大きな足跡を残した。
彼の生き様は、武士としての本分を全うしつつも、茶の湯や作庭といった文化的活動を通じて自己の精神性を深く掘り下げ、独自の美の世界を切り開いた点で、後世の武士や文化人に少なからぬ影響を与えた可能性が考えられる。それは、武と文が未分化であった時代から、次第にそれぞれの専門性が高まっていく過渡期において、両者を高いレベルで体現し得た人物の典型例と言えるかもしれない。
上田宗箇が後世に遺した影響は多岐にわたる。彼が創始した上田宗箇流茶道は、武家茶道の一つの典型として、400年以上の時を経て現代に至るまでその子孫によって連綿と継承され、特に広島の地域文化に深く根付いている。その作法や精神は、今も多くの人々に学ばれ、実践されている。
また、彼が作庭した縮景園などの庭園は、日本の庭園文化における貴重な遺産として、その美しさと歴史的価値から多くの人々に親しまれ、憩いの場を提供し続けている。これらの庭園は、宗箇の美意識や自然観を今に伝えるとともに、訪れる人々に安らぎと感銘を与えている。
さらに、「敵がくれ」の茶杓や「さても」の茶碗といった、彼にまつわる逸話や遺された茶道具は、宗箇の人間性、武人としての胆力、そして茶人としての繊細な感性を雄弁に物語り、歴史を愛する人々の心を捉え続けている。これらの遺品は、彼の生きた時代の空気や、彼が追求した美の世界を垣間見せてくれる貴重な文化財である。
上田重安(宗箇)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代を、武士としての強靭な精神力と、文化人としての豊かな感性をもって、しなやかに生き抜いた人物であった。その生涯は、武勇と風雅を見事に融合させ、戦場での武功のみならず、茶の湯や作庭といった分野でも顕著な業績を残した。彼が確立した独自の文化は、数世紀を経た今日においてもなお、その輝きを失うことなく、我々に多くの示唆と感動を与え続けていると言えるだろう。上田宗箇という人物を通じて、我々は日本の武家文化の奥深さと、困難な時代を生き抜いた人間の精神の崇高さに触れることができるのである。