下吉忠は上杉家臣から最上家臣へ転身。慶長出羽合戦で降伏後、最上家で重用され尾浦城主となる。最上家の内紛で殺害されたが、家は存続。
戦国時代から江戸時代初期にかけての日本は、天下統一を巡る激しい権力闘争と、それに伴う社会の劇的な変動期であった。この時代の渦中で、数多の武将が歴史の舞台に登場し、そして消えていった。その一人、下吉忠(しも よしただ)は、上杉家臣としてキャリアをスタートさせ、関ヶ原合戦の局地戦である慶長出羽合戦を経て最上家に仕え、最後は主家の内紛に巻き込まれて非業の死を遂げるという、まさに時代の奔流に翻弄された生涯を送った人物である。
一般的に、下吉忠は「関ヶ原合戦で最上家を攻めたが、本隊の撤退により降伏し、後に最上家臣となったが謀叛に加担して殺された」と要約されることが多い 1 。しかし、この簡潔な記述の背後には、彼の出自である越後揚北衆(あがきたしゅう)の複雑な立場、主家である上杉家と最上家の熾烈な角逐、そして戦国大名家中に渦巻く深刻な内部抗争といった、幾重にも絡み合った歴史的背景が存在する。本報告書は、断片的な情報を超え、彼の出自、経歴、主家の変遷、功績、そして謎に包まれた最期に至るまで、あらゆる側面を網羅的に掘り下げ、下吉忠という一人の武将の実像に迫ることを目的とする。
なお、本報告の主題である下吉忠(しも よしただ)は、通称を治右衛門(じえもん)といい、上杉家、次いで最上家に仕えた人物である。徳川家康に仕えた三河出身の小栗吉忠(おぐり よしただ) 3 や、駿河沼津城主の大久保治右衛門 5 とは、名前や通称が似ているが全くの別人であり、混同を避ける必要がある。
年(西暦) |
出来事 |
関連事項・役職 |
不明 |
越後揚北衆・黒川氏の一族、下重実の次男として誕生 |
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天文21 (1552) |
父・下重実が長尾景虎(上杉謙信)により切腹させられる |
上杉氏による揚北衆統制強化の一環 |
天正6-7 (1578-79) |
御館の乱で兄・久長が上杉景勝方として戦死 |
赤田合戦にて討死 |
天正17 (1589)頃 |
上杉景勝に仕え、出羽国庄内・尾浦城の城代となる |
1,000石を知行 1 |
慶長5 (1600) |
慶長出羽合戦で最上領に侵攻。谷地城で孤立し、最上義光に降伏 |
上杉軍別働隊大将 |
慶長5-6 (1601) |
最上軍の先鋒として庄内平定戦で活躍。旧領・尾浦城主に復帰 |
尾浦城(大山城)主、2万石以上 1 |
慶長6 (1601)以降 |
最上義康より偏諱を受け「康久」と改名 |
下対馬守康久 2 |
慶長19 (1614) |
鶴岡城下にて、一栗高春により殺害される(一栗兵部の乱) |
享年不明 |
この年表が示すように、彼の生涯は「上杉家臣時代」「慶長出羽合戦」「最上家臣時代」という三つの明確なフェーズに分けることができる。それぞれの時期における彼の行動と決断を深く分析することで、その人物像がより立体的に浮かび上がってくる。
下吉忠の行動原理を理解する上で、その出自は極めて重要な意味を持つ。彼は、越後国北部に割拠した国人豪族の総称である「揚北衆」の一角、黒川氏の一族であったとされる 2 。揚北衆は、阿賀野川(古称:揚河)の北に勢力を持ち、鎌倉幕府以来の御家人としての出自を誇りとしていた 8 。そのため、越後守護であった上杉氏の支配下にあっても、領主としての強い独立性を維持しようとする気風があった 8 。
この独立志向の強い揚北衆を、長尾景虎(後の上杉謙信)は自らの支配体制下に組み込むべく、時に強硬な手段を用いた。その過程で、悲劇が下家を襲う。吉忠の父である下伊賀守重実は、越後守護上杉氏の被官であったにもかかわらず、天文21年(1552年)、景虎によって切腹を命じられているのである 2 。これは、景虎が越後国内の統一を進める中で、自立的な勢力を削ぎ、中央集権的な支配体制を確立しようとした粛清の一環であった可能性が高い 10 。
父が主君である景虎に誅殺されたという事実は、吉忠の上杉家に対する忠誠心が、譜代の家臣が抱くような無条件のものではなかったことを強く示唆している。彼のキャリアの根底には、常に「揚北衆」としての誇りと独立志向、そして強大な権力者に従わざるを得ないという現実との間の、抜き差しならない緊張関係が存在した。この背景は、後に彼が最上家へ降伏するという大きな決断を下す際の心理を理解する上で、不可欠な要素となる。彼の行動原理は、純粋な忠義よりも、激動の時代を生き抜き、一族を存続させることを最優先する、極めて現実主義的なものであったと解釈できる。
天正6年(1578年)、上杉謙信が急死すると、その後継者の座を巡り、養子の上杉景勝と上杉景虎の間で「御館の乱」と呼ばれる激しい内乱が勃発した 11 。この乱において、多くの揚北衆は、地理的にも血縁的にも近い上田長尾氏の出身である景勝を支持した 13 。
このとき、下家は一族内で異なる選択をする。吉忠の兄・下久長は景勝方として参陣し、赤田合戦で討死を遂げた 2 。その一方で、下氏の宗家筋にあたる黒川清実は景虎方に加担し、乱の終結後、伊達輝宗の仲介を経て景勝に降伏している 14 。
父を景虎(謙信)に殺され、宗家の黒川氏が景虎を支持するという複雑な状況下で、兄・久長が景勝方を選んだことは、戦略的な判断であった可能性が高い。それは、父を死に追いやった謙信体制からの脱却を図り、景勝という新しい指導者の下で、没落した下家の再興を賭けた選択だったのかもしれない。兄の戦死という犠牲は、結果として、下家が景勝政権下で一定の地位を確保するための「投資」となった。吉忠がその後、上杉家で重用されるに至る道筋は、この兄の死という土台の上に築かれた側面が大きかったと考えられる。
兄の死後、吉忠は上杉景勝に本格的に仕えることとなり、特に景勝の家宰であった直江兼続の配下として活動したとされる 1 。一説には、父の死後に上杉家を離れ、後北条氏に一時仕えていたともいわれるが、これはあくまで伝承の域を出ず、具体的な史料による裏付けは乏しい 2 。
彼のキャリアにおける重要な転機は、出羽国庄内地方への赴任であった。天正17年(1589年)、あるいは慶長3年(1598年)の上杉家の会津120万石への移封に伴い、吉忠は庄内地方の代官(城番)として尾浦城(おうらじょう)の城主に任命された 2 。この時、1,000石の知行を与えられている 1 。
尾浦城は、かつて庄内地方に覇を唱えた大宝寺氏の本拠地であり、日本海交易の要衝でもあった 16 。そのため、上杉氏と山形の最上氏との間で激しい争奪戦が繰り広げられた戦略的に極めて重要な拠点であった 17 。このような重要拠点に抜擢されたことは、吉忠が上杉家、特に直江兼続から一定の信頼と評価を得ていたことを物語っている。
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が頂点に達し、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した。豊臣政権下で五大老の一人であった上杉景勝は西軍に与し、東軍に味方した隣国の最上義光の領地へ侵攻を開始する。これが世に言う「慶長出羽合戦」である 19 。
この戦において、尾浦城主であった下吉忠は、上杉軍の別働隊大将という重責を担った。彼は庄内から、出羽山地を越える難路である六十里越街道を進軍し、最上領の内陸部へと侵攻した 1 。吉忠率いる部隊は破竹の勢いで進撃し、最上領の白岩城(現在の寒河江市)や谷地城(現在の河北町)などを次々と攻略した 1 。この侵攻は、直江兼続率いる本隊が長谷堂城で足止めを食らう中、最上氏の本拠である山形城の背後を脅かす大きな軍事的圧力となった。
しかし、戦局は吉忠の意図しないところで劇的に変化する。慶長5年9月15日、美濃国関ヶ原で行われた本戦において、西軍はわずか一日で壊滅的な敗北を喫した。この報は、長谷堂城を包囲していた直江兼続の本隊にも届き、兼続は全軍に撤退を命じた 22 。
問題は、最上領の深くにまで侵攻していた吉忠の別働隊に、この撤退命令が届かなかったことである 1 。彼は、本隊が撤退したことを知らぬまま、攻略した谷地城に留まっていた。その結果、本隊の脅威から解放され、反撃に転じた最上軍によって完全に包囲されるという、絶望的な状況に陥ってしまった 19 。
数日間にわたる籠城戦の末、吉忠は降伏を決断し、敵将であった最上義光に仕える道を選んだ 1 。軍記物である『最上義光記』によれば、この時、最上の智将として知られる志村光安が降伏勧告の使者となり、「貴殿一人が義を守って戦死しても、何の益があろうか。義光公も貴殿の武勇を惜しんでおられる」と理を尽くして説得したという 25 。上杉本隊から何ら連絡もなく見捨てられた形となったことへの反感も手伝い、吉忠はこの説得を受け入れたとされる 25 。
吉忠のこの降伏は、単なる敗北や裏切りとして片付けられるべきではない。むしろ、それは「情報戦の敗北」であり、指揮系統が崩壊し「組織に見捨てられた将軍の合理的な選択」であったと見るべきである。軍事的には成功を収めていたにもかかわらず、戦略的な大局(本戦の敗北)と上層部の決定(本隊の撤退)という致命的な情報を遮断された。この状況で玉砕することは、武士の名誉とはなっても、彼自身と部下たちの命を無為に失うことに他ならない。父の代から続く揚北衆としての現実主義的な血が、無益な死よりも、生き延びて再起を図る道を選ばせたのであろう。これは、忠義を尽くすべき主家に見捨てられた指揮官が取りうる、最も現実的な生存戦略であった。
降伏した敵将を即座に味方の先鋒として起用するという最上義光の決断は、彼の非凡な人物眼と統治術を物語っている。下吉忠は、その武勇と能力を義光に高く評価され、休む間もなく庄内平定戦の最前線に投入された 1 。彼は最上軍の一員として、かつて自らが城主であった尾浦城の攻略戦で武功を挙げるという、数奇な運命を辿ることになる 19 。翌慶長6年(1601年)の亀ヶ崎城(酒田城)攻めにおいても、渡河戦や開城交渉で功績を挙げた 1 。
戦後、義光は吉忠の功績に破格の恩賞で応えた。吉忠は再び尾浦城の城主となり、この頃「大山城」と改称された城と、その周辺の田川郡に広がる所領を与えられた 6 。その石高については諸説あるが、『奥羽永慶軍記』などを基にした記録では1万2千石 25 、別の記録では2万7千石とも伝わる 1 。いずれにせよ、この待遇は最上一門である本荘満茂の4万5千石に次ぐものであり、降将に対しては異例中の異例であった 25 。
最上義光が敵将であった吉忠にこれほどの厚遇を与えた背景には、極めて計算された戦略的意図があったと考えられる。第一に、慶長出羽合戦で見せた吉忠の卓越した軍事能力は、広大となった最上領、特に上杉領と境を接する庄内地方を統治する上で不可欠な「即戦力」であった。第二に、元城主である吉忠をそのまま城主として遇することで、支配者が上杉から最上に代わっても地域の安定は揺るがないという強力なメッセージを庄内の領民や国人衆に示し、人心を掌握する象徴とした。これは、占領行政における極めて高度な手法である。そして第三に、上杉家の内情や戦術を知る吉忠は、対上杉の最前線を守る上で、他に代えがたい「情報資産」であった。義光の厚遇は、単なる温情ではなく、最上家の安泰を盤石にするための、高度な政治的・戦略的投資だったのである。
最上家臣となった吉忠は、義光の嫡男であった最上義康の麾下に配属された。そして、義康から偏諱(名前の一字)を賜り、「下対馬守康久(しも つしまのかみ やすひさ)」と改名した 2 。官途名である「対馬守」と主君の嫡男からの一字拝領は、彼が名実ともに最上家の中核に組み込まれ、重臣として認められたことを示すものであった。
大山城主となった吉忠(康久)は、領主としても治績を残している。『鶴岡市史』などによれば、彼は城の改修や城下町の整備に着手し、城の真下を流れる菱津川の流れを付け替えて城の堀(池)を拡張するなど、領国経営にも手腕を発揮した 6 。
彼の家中における高い地位は、慶長13年(1608年)10月に金峰山(山形県鶴岡市)の釈迦堂に奉納された棟札からも窺い知ることができる。この棟札には、藩主「出羽守源義光」、酒田城主「志村伊豆守光安」に次いで、「下対馬守秀久」の名が記されている 2 。この時点で彼が健在であったこと、そして最上家中で志村光安に次ぐ重臣として遇されていたことが確認できる。ただし、この史料では名前が「秀久」となっており、義康が父・義光に殺害された(後述)後に「康」の字を返上し、元の名に戻した可能性も指摘されている 2 。
吉忠が最上家で栄達を極める一方、主家である最上家内部では、その後の運命を決定づける深刻な亀裂が進行していた。それは、最上義光の後継者を巡る問題であった。義光には、武勇に優れ家臣からの人望も厚かった嫡男・義康と、早くから江戸に送られ徳川家康・秀忠に近侍し、幕府との強固なパイプを持つ次男・家親がいた 26 。義光は、徳川幕府との関係を重視し、御家の安泰を図るために家親を後継者にと考えていたとされる 28 。
この父子の不和は家臣団の派閥争いを助長し、慶長8年(1603年)、義康は父・義光の命、あるいは家臣の讒言によって高野山へ追放される道中、庄内にて暗殺されるという悲劇的な結末を迎えた 26 。これにより家親の家督相続が確実となったが、家中の対立は水面下でより深刻化していった。
慶長19年(1614年)に義光が没し、家親が山形藩二代藩主となると、対立はさらに先鋭化する。特に、大坂の陣が目前に迫る中、豊臣家と個人的な繋がりがあったとされる義光の三男・清水義親の存在が、家親派にとって大きな脅威となっていた 20 。下吉忠の最期は、この最上家全体を覆っていた「お家騒動」という巨大な時限爆弾が爆発する、その過程で起きた事件であった。
慶長19年(1614年)6月1日、大坂冬の陣の直前、下吉忠は庄内の中心である鶴岡城下にあった重臣・新関久正の邸宅を訪れ、最上の重鎮・志村光安の子である志村光清(みつきよ、または光惟)と会合していた 1 。
その会合の最中、一人の武将が兵を率いて邸宅を急襲した。旧大崎家臣で、当時は最上家に仕えていた一栗高春(いちくり たかはる)、通称・兵部である 32 。一栗は、反家親派である清水義親と通じていたとされ、この襲撃によって下吉忠と志村光清は共に討ち取られてしまった 1 。この事件は、首謀者の名を取って「一栗兵部の乱」と呼ばれている。
この事件は、単なる私怨によるものではなく、高度に政治的な背景を持つクーデター、あるいは粛清であったと解釈するのが最も合理的である。被害者の一人、志村光清は、最上家の親徳川派の筆頭であった父・光安の跡を継ぐ人物。そして下吉忠もまた、降将から成り上がり、今や家親体制を支える重臣の一人であった。一方、襲撃者の一栗高春は、豊臣恩顧の清水義親派に属していた 33 。つまりこの事件は、大坂の陣を前に、清水義親派が家中の親徳川派の重鎮を排除し、主導権を握ろうとしたものと考えられる。下吉忠は、最上家での栄達のゆえに、皮肉にも反主流派の標的となってしまったのである。
この「一栗兵部の乱」で殺害された人物については、史料によって見解が分かれており、下吉忠の生涯を語る上で最大の謎となっている。
この二つの説を検討すると、以下の点が指摘できる。まず、吉忠自身の通称が「治右衛門(次右衛門)」であったため 1 、もし息子も同じ通称を用いていた場合、後世の記録で混同が生じた可能性は否定できない。しかし、事件の政治的背景を考慮すると、最上家内の派閥抗争において標的となるのは、家中で高い地位を占めていた重臣、すなわち吉忠本人である方が自然である。子の秀実が父と同等の影響力を持っていたとは考えにくい。
したがって、「子の秀実死亡説」は、吉忠の死後も養子によって下家が存続したという事実と、当主である吉忠の横死という記録との間の矛盾を解消するために、後世の解釈や記録の誤解から生じた可能性が高い。現存する複数の具体的な記録から総合的に判断する限り、慶長19年に鶴岡城下で殺害されたのは、下吉忠本人であった蓋然性が極めて高いと結論付けられる。
説 |
殺害されたとされる人物 |
根拠となる史料・記述 |
考察・論理的整合性 |
吉忠本人死亡説 |
下吉忠(秀久、康久) |
1 |
事件の詳細を記す複数の記録が一致しており、信憑性が高い。事件の政治的背景(重臣の排除)とも整合性が取れる。 |
子・秀実死亡説 |
子の下次右衛門秀実 |
2 (有力な説として併記) |
吉忠の通称「次右衛門」との混同の可能性。養子による家名存続の事実との整合性を取るための後世の解釈か。直接的な一次史料に乏しい。 |
事件の首謀者であった一栗高春は、直ちに新関久正らの追討を受け、討ち取られた 32 。しかし、この内紛は最上家の混乱をさらに深め、統治能力の欠如を幕府に露呈する結果となった。これが遠因の一つとなり、元和8年(1622年)、最上家は「家中不取締」を理由に幕府から改易(領地没収)を命じられることになる 27 。
主君を失った下家であったが、その家名は途絶えなかった。吉忠には実子がおらず、養子を迎えていた 2 。
下吉忠の死と主家・最上家の改易は、戦国時代が終わり、大名家ですら容易に取り潰される江戸幕府の新しい秩序を象徴する出来事であった。しかし、その激動の中で、養子たちがかつての主家である上杉家や、新たな主君のもとで家名を存続させたという結末は、非常に皮肉であると同時に、家の存続を第一義とする戦国武士のしたたかな生命力を示している。吉忠の物語は彼個人の死で終わるのではなく、養子たちの流転を経て、新たな時代の中で家名が生き続けたという点で完結するのである。
下吉忠の生涯を丹念に追うと、彼が単なる「関ヶ原で寝返った武将」という一面的な評価では到底捉えきれない、多角的で人間味のある人物であったことがわかる。彼の人生は、個人の武勇や才覚だけでは生き残ることが困難な、時代の大きなうねりの中で、いかにして一族を存続させるかという、戦国武将に共通する普遍的な課題を映し出している。
彼の出自である揚北衆の誇りと、父を主君に殺されたという苦難は、彼の現実主義的な思考の礎を形成した。慶長出羽合戦において、軍事的には成功しながらも指揮系統の崩壊によって孤立し、主家に見捨てられた末の降伏は、裏切りというよりも、生き残るための合理的な決断であった。そして、新天地である最上家で、降将としては破格の待遇を得て重臣にまで上り詰めた事実は、彼の非凡な能力と、それを的確に見抜いた最上義光の人物眼を証明している。
しかし、その栄達こそが、彼を悲劇的な最期へと導いた。主家の深刻な内紛において、彼は親徳川派の重鎮と見なされ、反対派閥の粛清の標的となった。彼の死は、個人の資質とは無関係に、所属する組織の内部抗争がいかに人の運命を左右するかを冷徹に示している。
下吉忠は、忠義、裏切り、現実主義、そして悲劇という、この時代の武将が持つ複数の顔を一身に体現した存在であった。彼の物語は、歴史の教科書に名を連ねる華々しい英雄たちの陰で、自らの才覚と時勢を読み解く力だけを頼りに生き、そして散っていった無数の武将たちの、リアルな生き様と死に様を我々に教えてくれる。その波乱に満ちた生涯を深く理解することは、戦国という時代の複雑さと奥深さを知る上での、極めて貴重な鍵となるであろう。