最終更新日 2025-07-22

下間頼旦

下間頼旦は本願寺の武将で、長島一向一揆を指揮。信長軍を二度撃退するも、謀略で戦死。その死は本願寺の衰退と信長の天下布武を象徴する。

本願寺の驍将、下間頼旦の実像:長島一向一揆における悲劇の指導者

序章:戦国の動乱と一向一揆

戦国時代は、下剋上による群雄割拠の時代として知られるが、その動乱は単なる領土や覇権を巡る武力闘争に留まらなかった。それは同時に、旧来の権威や価値観が根底から揺らぎ、新たな秩序が模索される思想闘争の時代でもあった。この未曾有の変革期において、武家勢力と並び、あるいはそれを凌駕するほどの大きな影響力を行使したのが、浄土真宗本願寺教団であった。

本願寺は、八世法主・蓮如の時代から爆発的な勢いで教線を拡大し、畿内、北陸、東海地方を中心に、武士から農民に至るまで幅広い階層の信者(門徒)を獲得していた 1 。その組織力と経済力は、一介の宗教団体を遥かに超え、各地に「寺内町」と呼ばれる自治都市を形成し、大名に匹敵する動員力を有する巨大な社会勢力へと変貌を遂げていた 1

この本願寺教団の存在は、「天下布武」を掲げ、強力な中央集権体制の確立を目指す織田信長にとって、看過できない障害であった。全国に広がる門徒のネットワークは、信長の支配を一元化する上で大きな脅威であり、寺社勢力が持つ治外法権的な特権は、彼の理念と真っ向から対立するものであった 1

両者の対立が決定的となったのは、元亀元年(1570年)のことである。本願寺十一世法主・顕如は、信長を「仏敵」と断じ、全国の門徒に対して蜂起を促す檄文を発した 3 。これは単なる軍事命令ではなく、「この命に従わぬ者は破門する」という一文が示すように、門徒の信仰心に直接訴えかける宗教的な動員令であった。この檄文に呼応し、石山本願寺を中核として、近江、北陸、そして伊勢長島など、各地の一向一揆が連鎖的に蜂起し、信長を四方から脅かす「信長包囲網」の重要な一角を形成するに至る。

本報告書で詳述する下間頼旦(しもつま らいたん)は、この全国規模で展開された宗教戦争において、最重要拠点の一つであった伊勢長島に、石山本願寺から派遣された方面軍司令官である。彼の生涯、特に長島での壮絶な戦いと悲劇的な最期は、戦国時代における宗教と権力の相克を最も象徴的に示す事例の一つと言えるだろう。本稿では、下間頼旦という一人の武将の実像を、彼が属した下間氏の特異性、長島一向一揆の戦略的意義、そして彼の死が戦国史に与えた影響という複合的な視点から、徹底的に解明することを目的とする。

第一部:下間氏と本願寺教団

下間頼旦という人物を理解するためには、まず彼がその一員であった「下間氏」という一族の特異な成り立ちと、本願寺教団内における絶大な権力構造を解明する必要がある。彼らは単なる僧侶ではなく、本願寺という巨大宗教国家の運営を担う、特権的な階層であった。

第一章:下間氏の出自と役割

下間氏の出自は、清和源氏頼政流を汲む武士であったと伝えられている 5 。その祖とされる宗重が、浄土真宗の開祖・親鸞に帰依し、常陸国下妻(しもつま)の地に一宇を建立したことから、その地名を取って「下間」を名乗るようになったという 5 。この出自は、下間氏が単なる法務を司る僧侶ではなく、武家の素養と気風を色濃く受け継ぐ集団であったことを示唆している。

親鸞の時代から本願寺に仕えた下間氏は、代々、法主の側近として教団の俗務、すなわち政治、経済、軍事といった世俗的な領域を統括する役割を担った 1 。その職掌は多岐にわたり、法主の意向を内外に伝える「奏者(そうじゃ)」、親鸞聖人の御影が安置される御影堂の鍵を管理する「鎰取役(かぎとりやく)」といった要職を歴任し、本願寺が門跡寺院に列せられると、その地位は「坊官(ぼうかん)」として確固たるものとなった 5

彼らは事実上、本願寺という宗教国家における「影の内閣」とも言うべき存在であった。法主を「聖」なる君主とするならば、下間氏はその下で実務を執行する世襲の宰相、あるいは官僚貴族のような役割を果たしていたのである。特に、織田信長との石山合戦期には、下間頼廉(らいれん)、下間仲孝(なかのり)、下間頼龍(らいりゅう)といった有力者が「下間三家老」とも称され、教団の最高意思決定機関として絶大な権勢を誇った 1 。彼らは戦略の策定から軍事指揮、外交交渉に至るまで、本願寺の存亡を賭けた戦いの全てを主導したのである。この武家の出自と、教団内での実務経験の蓄積こそが、本願寺が武装化し、戦国大名と互角に渡り合う軍事組織へと変貌する上で、決定的な役割を果たした。下間頼旦が示した軍事的才能もまた、この一族が持つ特異な背景と無関係ではない。

第二章:下間頼旦の人物像

下間頼旦の生涯は、そのほとんどが謎に包まれている。生年は不詳であり、その死は天正2年(1574年)9月29日と記録されている 8 。史料によっては、その名が「頼且(よりかつ)」「頼継(よりつぐ)」「頼達(よりたつ)」などとも記されるが、本稿では最も一般的な「頼旦」で統一する 8 。彼は「豊前守(ぶぜんのかみ)」という官途名と、「三位法橋(さんみほっきょう)」という僧位を称していたことが確認されている 8

この「豊前守」という官途名は、彼が九州の豊前国と直接的な関係を持っていたことを示すものではない。当時の武将や有力者が自らの権威を高めるために、朝廷から官位官職を得たり、あるいは自称したりすることは一般的であった。下間氏が九州で活動したという具体的な記録は見当たらず 10 、この官途名もまた、名目上のものであった可能性が極めて高い。

下間頼旦を理解する上で最も重要なのは、彼の一族内における立ち位置を正確に把握することである。前述の通り、石山合戦期の本願寺中枢は、頼廉、頼龍、仲孝といった「三家老」が牛耳っていた。彼らは石山本願寺にあって全体の戦略を練り、信長との和睦交渉や、後の教団分裂といった根幹に関わる重要事項の当事者であった 1 。しかし、これらの重大な局面において、下間頼旦の名は一切見られない。

彼の名が登場するのは、ほぼ例外なく「長島一向一揆」に関する記述に限定される 4 。この事実は、彼が本願寺の中央政権で権力を振るった主流派とは異なり、特定の戦線に派遣され、その卓越した軍事的才能によって名を上げた「専門特化型の現場指揮官」であったことを強く示唆している。頼廉らが「中央の政治家・戦略家」であるとすれば、頼旦は「地方の軍事司令官」であった。この役割分担の明確な違いこそが、彼の生涯と、中央の政争とは切り離された一戦線の崩壊と運命を共にするという、彼の悲劇的な最期を理解する鍵となる。

以下の表は、石山合戦期に活躍した主要な下間一族の役割と運命を比較し、頼旦の特異な立ち位置を明確にするものである。

氏名

主な活動拠点

本願寺内での役職・立場

主な功績・活動

石山合戦後の動向

下間頼旦

伊勢長島

方面軍司令官

長島防衛戦、氏家卜全討伐

天正2年(1574年)、長島にて戦死 8

下間頼廉

石山本願寺

三家老、軍事総司令官

石山防衛戦、和睦交渉連署

顕如に従い、西本願寺坊官筆頭となる 7

下間頼龍

石山本願寺

三家老、奏者

和睦交渉連署、教如を支持

教如に従い、東本願寺坊官筆頭となる 5

下間頼照

越前

方面軍守護代

越前一国を支配

天正3年(1575年)、圧政への反発から現地で殺害される 16

この表が示すように、頼旦と頼照は共に方面軍の司令官として派遣され、現地の戦いの中で非業の死を遂げている。一方で、中央にいた頼廉と頼龍は、石山合戦を生き延び、それぞれが顕如と教如を支持して、後の東西本願寺分裂後も教団の中枢を担い続けた。この対照的な運命は、本願寺教団という巨大組織内における多様なキャリアパスと、下間頼旦という人物が置かれた状況の厳しさを浮き彫りにしている。

第二部:長島一向一揆と下間頼旦

下間頼旦の生涯において、その名が歴史に刻まれたのは、元亀元年から天正二年にかけてのわずか4年間、伊勢長島における織田信長との壮絶な戦いにおいてであった。この戦いは、彼の軍事的才能を世に知らしめると同時に、彼の悲劇的な最期を決定づけた。

第一章:長島への派遣と一揆の勃発(元亀元年)

伊勢長島は、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の河口に形成された輪中地帯に位置し、無数の中洲と水路が複雑に入り組む、天然の要害であった 3 。この地には、本願寺八世法主・蓮如の子である蓮淳が開いた願証寺があり、東海地方における本願寺教団の一大拠点として、強固な宗教自治圏を形成していた 3 。美濃を追われた斎藤龍興がこの地に逃げ込むなど、長島は信長の権力が及ばない一種の聖域(アジール)と化していた 19

元亀元年(1570年)、法主・顕如が信長打倒の檄文を全国に発すると、長島の願証寺もこれに呼応した 3 。石山本願寺は、この重要拠点の軍事指導を強化するため、下間頼旦を派遣した。現地に入った頼旦は、願証寺の住職であった証意らと共に、一向一揆の指導者として高い権限を与えられた 8

頼旦の指導のもと、長島の一揆勢はただちに軍事行動を開始する。同年11月、彼らは尾張弥富の服部党など地元の勢力も巻き込み、数万ともいわれる大軍を組織すると、信長の弟である織田信興が守る尾張・古木江城に殺到した 8 。不意を突かれた信興は奮戦するも衆寡敵せず、城内で自害に追い込まれた 8 。この緒戦の衝撃的な勝利は、一揆勢の士気を大いに高めると同時に、弟を殺された信長の、長島一向一揆に対する個人的な憎悪を燃え上がらせる決定的な出来事となった。

第二章:織田軍との死闘(元亀二年~天正元年)

弟の仇を討ち、自らの背後を脅かす長島を殲滅すべく、織田信長は元亀2年(1571年)5月、5万余りの大軍を率いて第一次長島侵攻を開始した 14 。しかし、下間頼旦はこれを迎え撃つにあたり、平地での決戦を避け、長島の地形的利点を最大限に活用した巧みな防衛戦術を展開した。

彼は、中洲に点在する篠橋砦や森島砦といった拠点に、紀伊からの雑賀衆を含む鉄砲隊や門徒を巧みに配置し、大軍で攻め寄せる織田軍を待ち構えた 8 。特に、太田口から中洲を渡って攻め込もうとした柴田勝家率いる美濃衆に対し、一揆勢は砦や林の中から鉄砲や弓矢による一斉射撃を浴びせ、甚大な損害を与えた 8 。混乱して退却する柴田軍に頼旦はすかさず追撃を命じ、この戦いで柴田勝家は負傷、勝家隊と交代して殿(しんがり)を務めた美濃三人衆の一人、氏家卜全を討ち取るという輝かしい戦果を挙げた 14 。この大敗により、信長は長島からの撤退を余儀なくされ、頼旦の名は卓越した軍事指揮官として知られることとなった。

この手痛い敗北から学んだ信長は、その後の戦略を大きく転換させる。天正元年(1573年)の第二次長島侵攻では、長島の要塞群へ直接攻撃を仕掛けることを避け、まずその周辺にあって一揆に協力的な豪族たちの城を一つずつ確実に攻略していく、「外堀を埋める」戦術を採用した 22 。佐久間信盛や羽柴秀吉らを投入し、西別所城や坂井城などを次々と陥落させた結果、長島は外部からの支援を断たれ、次第に孤立していくことになった 8

ここに、一つの皮肉な因果関係を見出すことができる。下間頼旦が第一次侵攻で見せた見事な防衛戦術と、氏家卜全という重臣を討ち取った戦果が、信長の警戒心と憎悪を極限まで高めた。その結果、信長は従来の力押しの戦術を捨て、より周到かつ冷徹な兵糧攻めと殲滅戦へと戦略を進化させたのである。頼旦の軍事的成功が、逆説的に敵の戦術をより残忍なものへと変質させ、長島全体の悲劇を招く遠因となったと言えるかもしれない。

第三章:悲劇的終焉(天正二年)

天正2年(1574年)7月、浅井・朝倉氏を滅ぼして後顧の憂いを断った信長は、長島一向一揆の完全なる根絶やしを決意し、三度目の侵攻を開始した 19 。この第三次長島侵攻は、過去二回とは比較にならない、まさしく総力戦であった。信長は領国全域に大動員令を発し、総勢8万ともいわれる陸軍を編成 4 。さらに九鬼嘉隆率いる水軍を動員して海上を封鎖し、水陸から長島を完全に包囲した 8

頼旦ら一揆勢は、もはや籠城する以外に術はなかった。しかし、陸路も海路も完全に遮断されたことで、外部からの兵糧補給は完全に途絶えた 8 。城内ではやがて食料が尽き、飢餓が蔓延する地獄絵図と化した。ユーザーが事前に知る「死こそ極楽浄土への道」という頼旦の説法があったとすれば、それはこの極限状況下で、飢えと絶望に苦しむ門徒たちの心を繋ぎとめるための、最後の手段であったと推察される。

二ヶ月以上にわたる絶望的な籠城の末、同年9月25日、ついに下間頼旦らは、城内の門徒たちの助命を条件として、信長に降伏を申し入れた。信長はこれを了承したかのように見せかけた 8 。しかし、これは信長の仕掛けた非情な謀略であった。

9月29日、降伏の取り決めに従い、城の明け渡しのために頼旦らが城外へ出た、その瞬間であった。信長軍の鉄砲隊が四方から一斉に火を噴き、無防備な彼らに襲いかかった。このだまし討ちによって、下間頼旦は多くの門徒たちと共に射殺され、その壮絶な生涯に幕を下ろした 8 。信長の憎悪はこれに留まらなかった。城内に残っていた男女約2万人は、いくつかの砦に追い込まれると、周囲を柵で囲まれ、火を放たれて焼き殺されたと『信長公記』は伝えている 19 。こうして、4年間にわたって信長を苦しめ続けた長島一向一揆は、歴史上類を見ない徹底的な殲滅戦によって、その幕を閉じたのである。

終章:下間頼旦の歴史的評価

下間頼旦の生涯は、長島での4年間の戦いに凝縮されている。その歴史的評価は、複数の視点から考察することができる。

第一に、彼は卓越した軍事指導者であった。一地方戦線の司令官でありながら、当代随一の軍事指導者である織田信長が率いる本隊を二度にわたって撃退し、柴田勝家を負傷させ、氏家卜全という重臣を討ち取ったその手腕は、戦国時代の武将として極めて高く評価されるべきものである。彼は、長島の地形を熟知し、門徒の信仰心を巧みに組織力へと転化させることで、兵力で圧倒的に劣る状況を覆す戦果を挙げた。

第二に、本願寺教団の側から見れば、彼は信仰に殉じた悲劇の英雄であった。法主・顕如の「仏敵を討て」という命令に忠実に従い、門徒の先頭に立って戦い抜いた。そして最期の瞬間まで、飢えに苦しむ門徒たちの命を救おうと降伏を決断し、結果として敵の謀略に倒れた。その死は、教団にとっては紛れもない殉教であり、彼の名は本願寺の抵抗の歴史の中に、悲壮な英雄として刻まれたであろう。

第三に、彼の死と長島一向一揆の壊滅は、戦国史における一つの転換点を象徴する出来事であった。この敗北により、本願寺教団は東海地方における最重要拠点を失い、その勢力は大きく後退した。これは、10年に及ぶ石山合戦全体の趨勢にも少なからぬ影響を与えたと考えられる 17 。さらに重要なのは、この長島での徹底的な殲滅戦が、信長の「天下布武」の前では、もはや宗教的権威も治外法権も一切通用しないという、時代の新たな原則を天下に示したことである。中世的な権威が、近世的な統一権力によって完全に破壊される過程を、頼旦の死は象徴している。

しかし、これほどの軍才を発揮し、歴史に強烈な印象を残した人物でありながら、彼の出自や前半生、そして人物を物語る逸話といった個人的な側面は、史料の中にほとんど見出すことができない。彼の存在は、あたかも長島での戦いという一点においてのみ、閃光のように強烈な光を放っているかのようである。その謎に満ちた生涯は、下間頼旦という武将が、一個人の物語以上に、戦国という時代の激動と、信仰がもたらす熱狂と悲劇そのものを体現した存在であったことを、我々に強く印象付けるのである。

引用文献

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