最終更新日 2025-07-04

中山照守

中山照守 ―戦国乱世から泰平の世へ、忠義と武芸で道を切り拓いた旗本の生涯―

序章:時代の転換期を生きた武将、中山照守

中山照守(なかやま てるもり、1570年 - 1634年)は、安土桃山時代から江戸時代初期という、日本の歴史上最も劇的な転換期を生きた武将である 1 。彼の生涯は、主家であった戦国大名・後北条氏の滅亡という悲劇的な幕開けから始まる。しかし、新たな天下人・徳川家康に見出されたことでその運命は一転し、最終的には3500石を領する大身旗本として、江戸幕府の中枢で確固たる地位を築き上げるに至った 1

本報告書は、中山照守という一人の武将の生涯を、その出自、主家の変遷、徳川幕府での立身出世、彼を支えた特技、家族との関係、そして後世への影響に至るまで、多角的に掘り下げて再構成するものである。特に、彼の人生を決定づけた三つの要素―父から受け継いだ「忠義」の遺産、自ら究めた「武芸」の価値、そして幕府官僚として発揮した「実務能力」―に着目し、その軌跡を徹底的に解明する。

照守の人生は、単なる一個人の立身出世物語に留まらない。それは、戦国時代に絶対的な価値を持った「武」の在り方が、泰平の世である江戸時代において、統治を支える「吏」の能力へとその重要性を移していく過渡期を象徴している。一人の武士がいかにして自己の価値を証明し、新たな時代の秩序に適応していったのか。彼のキャリアを通じて、徳川幕府初期の人材登用方針、官僚制度の確立過程、そして武士の生き方の変容を浮き彫りにすることが、本報告書の目指すところである。

第一章:中山氏の出自と父・家範の壮絶な最期

第一節:武蔵の豪族・中山氏の系譜

中山照守の家系は、関東の古くからの武士団である武蔵七党の一つ、丹党(たんとう)にその源流を持つ 3 。丹党から分かれた加治(かじ)氏の一族で、鎌倉時代の武将・加治家季(いえすえ)の子である助季(すけすえ)が、武蔵国飯能の中山(現在の埼玉県飯能市中山)の地に住み着き、中山姓を名乗ったのが始まりとされる 5 。一方で、照守の祖父にあたる中山家勝(いえかつ)の代に、加治氏から中山氏へと改称したという説も伝わっている 7

家勝は当初、関東管領であった山内上杉氏に仕えていたが、戦国時代中期の関東における勢力図の激変、特に天文15年(1546年)の川越夜戦を経て、相模国の後北条氏が台頭すると、その麾下に入った 3 。この主家の変更は、旧来の権威が衰退し、新たな実力者が支配を確立していく時代の流れに適応するための、現実的かつ戦略的な判断であった。中山氏が関東の伝統的な武士団の末裔であるという由緒と、時勢を読む柔軟性を持ち合わせていたことが、後北条氏の支配体制下で重用される基盤となった。

第二節:後北条氏の重臣・中山家範

照守の父である中山家範(いえのり、1548年 - 1590年)は、後北条氏三代目当主・氏康の子で、四代目・氏政の弟にあたる北条氏照(うじてる)の重臣として、その名を馳せた 3 。氏照が武蔵国に築いた拠点城郭・八王子城の城代格であり、その武名は関東一円に轟くほどであったという 3

家範は、一族の本拠地である飯能に居館(中山家範館)を構える一方、主君の城である八王子城下にも屋敷を有していた 10 。飯能と八王子という二つの拠点は、後北条氏の領国経営、特に甲斐・信濃方面への軍事戦略において、中山氏が果たした役割の重要性を示唆している。また、家範は武将としてだけでなく、一族の長としての責任感も篤く、天正元年(1573年)には亡父・家勝の菩提を弔うため、小庵であった武陽山能仁寺(のうにんじ)を再興し、一族の菩提寺として定めた 3 。このことは、彼の信仰心と、一族の永続を願う強い意志を物語っている。

第三節:八王子城の悲劇と忠義の証

天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が、関東に一大勢力を築いた後北条氏を打倒すべく、小田原征伐の軍を起こした。この時、八王子城主の北条氏照は、本城である小田原城の防衛に加わるため、城を不在にしていた。城の守りを託されたのが、重臣の中山家範であった 9

同年6月23日、豊臣軍の前田利家、上杉景勝らが率いる大軍が八王子城に殺到した 9 。圧倒的な兵力差の中、家範は豊臣方からの降伏勧告を毅然として拒絶し、城兵や領民と共に徹底抗戦の道を選ぶ 3 。戦いは凄惨を極め、城兵のみならず、女子供を含む多くの領民が命を落としたと伝わる 13 。奮戦も虚しく、城はわずか一日で落城。家範は最後まで主家への節義を貫き、妻と刺し違えて自刃したとも、乱戦の中で討死したともいわれ、43歳の生涯を閉じた 3

この家範の壮絶な最期は、単なる一武将の死ではなかった。滅びゆく主家に対し、命を賭して忠誠を尽くすというその姿は、戦国武士の理想的な「死に様」として、敵方であった徳川家康の心に強烈な印象を刻み込むこととなる。家範がもし降伏や逃亡を選んでいれば、中山家は歴史の波間に消えた数多の豪族の一つとして終わっていたかもしれない。しかし、彼の殉死は「忠義」という無形の価値を創造し、それが新たな時代の支配者によって評価されるという、息子たちにとって最高の「遺産」となった。戦国時代の価値観が、次代の支配者によって家臣登用のための重要な評価基準、すなわち「政治的資本」へと転換した瞬間であった。

第二章:徳川家への仕官 ― 新たな主君との出会い

第一節:父の忠義、子を導く

八王子城の落城後、父・家範を失った中山照守は、一族の故地である武蔵加治(現在の埼玉県飯能市)に潜伏していた 2 。しかし、その雌伏の期間は長くはなかった。父の壮絶な討死からわずか2ヶ月後の天正18年(1590年)8月、家範の忠義に深く感銘を受けた徳川家康は、自ら家臣に命じて潜伏中の照守と、その弟である信吉(のぶよし)を探し出させ、兄弟共に召し抱えたのである 2

この迅速な対応は、家康が家範の忠節をいかに高く評価し、その血を引く者たちを自らの家臣団に加えることを強く望んでいたかの証左である。家康は、滅んだ旧敵の家臣であっても、その忠誠心こそが新たな主君への奉公の礎となると考えていた。照守は当初、知行300石を与えられ、家康の嫡男で後の二代将軍となる徳川秀忠付きの使番(つかいばん)に任じられた 2 。使番は、平時には将軍の命令を伝え、有事には戦場を駆ける重要な役職であり、次期将軍の側近くに仕えるこの人事は、若き照守に対する家康の大きな期待の表れであった。

第二節:関ヶ原合戦と上田城での試練

表1:中山照守 年表

年代 (西暦)

元号

年齢

出来事

出典

1570年

元亀元年

1歳

誕生。

1

1590年

天正18年

21歳

6月、父・家範が八王子城で討死。8月、徳川家康に召し抱えられ、300石を与えられ徳川秀忠の使番となる。

2

1600年

慶長5年

31歳

第二次上田合戦に従軍。軍功を挙げるも軍律違反で叱責され、真田信之預かりとなる。

2

1601年

慶長6年

32歳

赦免され、本領を安堵される。

2

1614年

慶長19年

45歳

大坂冬の陣に嫡男・直定と共に参戦。

2

1615年

慶長20年

46歳

大坂夏の陣で戦功を挙げ、500石を加増される(計800石)。

2

不明

-

-

1000石を加増され、目付に転じる(計1800石)。

2

1626年

寛永3年

57歳

目付として肥後国熊本へ巡察に赴く。

1

1632年

寛永9年

63歳

鑓奉行に就任。最終的に3500石となる。

1

1634年

寛永11年

65歳

1月23日、死去。

1

徳川家臣としてのキャリアを順調に歩み始めたかに見えた照守であったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際して、大きな試練に直面する。彼は、中山道を進む徳川秀忠率いる主力部隊に属し、信濃国の上田城に籠る真田昌幸・信繁(幸村)親子と対峙した(第二次上田合戦) 2

秀忠軍は、昌幸の巧みな挑発に乗り、上田城攻めに固執した結果、多大な損害を出した挙句、9月15日の関ヶ原の本戦に間に合わないという歴史的な大失態を犯した 17 。この混乱した戦況の中で、照守は「上田七本槍」の一人に数えられるほどの目覚ましい武功を挙げたとされる 2 。しかし、この働きは、全体の戦略や軍律を無視した突出した行動と見なされた。個人の武功を尊ぶ戦国的な価値観が、組織全体の統制と戦略を最優先する徳川の軍法と衝突したのである。

結果として、照守は秀忠から叱責を受け、東軍に味方した真田信之(昌幸の長男)のもとへ預けられ、上野国吾妻郡での閑居を命じられるという処分を受けた 2 。この一件は、照守にとってキャリアにおける最初の大きな挫折であった。しかし、それは単なる失敗ではなく、彼が徳川の武士として再生するための重要な学習の機会となった。徳川家において求められるのは、個人のスタンドプレー的な武勇ではなく、指揮系統を遵守する「規律」であることを痛感したのである。真田信之預かりという処遇は、懲罰であると同時に、家康の養女を妻に持つ信之のもとで、徳川家の秩序と価値観を学ぶための「研修期間」であったとも解釈できる。この教訓を素直に受け入れ、新たな主君への忠誠を改めて示した結果、彼は翌年には赦免され、本領を安堵された 2 。この挫折と再生の経験こそが、後の官僚としての成功の礎となったのである。

第三章:将軍の師範 ― 武芸による立身

第一節:高麗八条流馬術の奥義

上田城での試練を乗り越えた照守が、徳川家中で再びその存在価値を高める上で大きな武器となったのが、卓越した馬術の技であった。彼は、馬術の一派である「高麗(こま)八条流」の奥義をきわめた達人として知られている 20

八条流馬術は、室町時代に小笠原流を学んだ八条房繁(はちじょう ふさしげ)が創始した流派である 21 。小笠原流が弓馬の故実といった儀礼的な側面を重視したのに対し、八条流はより実践的な馬術に重きを置いたとされる。この馬術は父・家範の代から中山家に伝わっており、照守はそれをさらに磨き上げた 22

泰平の世が訪れるにつれ、武芸の価値は戦場での実用性から、武家の伝統と教養を象徴する儀礼的な技能へと比重が移っていく。照守はこの時代の変化に巧みに適応した。彼はその卓越した馬術の技をもって、二代将軍・徳川秀忠、さらには三代将軍・家光の馬術師範を務めることになったのである 2 。将軍の師範という立場は、単なる技術指導者以上の意味を持つ。これにより、照守は将軍と直接的かつ個人的な信頼関係を築く絶好の機会を得た。公式な役職だけでは得られない主君からの信認は、彼の幕府内での地位を盤石なものにする上で、計り知れない価値を持った。彼の武芸は、戦場での武功だけでなく、平時における立身の強力な武器となったのである。

第二節:大坂の陣での武功

慶長19年(1614年)から翌年にかけて、豊臣家の残存勢力を一掃し、徳川の天下を盤石にするための最後の戦いである大坂の陣が勃発した。この戦は、照守にとって、上田城での失態を完全に払拭し、徳川家臣としての忠誠と実力を改めて証明する絶好の機会となった。

彼は嫡男の直定(なおさだ)と共に参陣し、得意の馬術を駆使して戦場を駆け、目覚ましい戦功を挙げた 2 。父譲りの武勇と、自らが磨き上げた馬術の技が、天下分け目の大戦で通用することを満天下に示したのである。この功績により、照守は500石の加増を受け、その知行は合計800石となった 2 。この加増は、彼のキャリアが再び確かな上昇気流に乗ったことを示す明確な指標であり、武将・中山照守の名を再び高めるものとなった。

第四章:幕府官僚としての大成 ― 大身旗本への道

大坂の陣で武功を立て、将軍家の馬術師範として信認を得た中山照守は、その後、幕府の官僚として着実に出世の階段を上っていく。彼のキャリアパスは、徳川幕府初期における有能な旗本の典型的な姿を映し出している。

表2:中山照守 役職と石高の変遷

役職名

就任時期 (推定含む)

当時の石高 (推定含む)

備考

出典

使番

天正18年 (1590年)

300石

徳川秀忠付きとしてキャリアを開始。

2

(加増)

慶長20年 (1615年)

800石

大坂の陣での戦功による500石加増。

2

目付

慶長年間末期~元和年間

1800石

1000石加増の上で転任。

2

鑓奉行

寛永9年 (1632年)

3500石

最終的な加増を経て就任。キャリアの頂点。

1

第一節:監察官としてのキャリア ― 使番と目付

照守の官僚としてのキャリアは、徳川秀忠の使番から始まった 2 。使番は、戦時には伝令や監察、平時には将軍の命令伝達や諸国への巡察使としての役割を担う、将軍直属の重要な役職であった 23

その後、照守は1000石を加増され、目付(めつけ)に昇進する 2 。目付は、若年寄の支配下にあって、主に旗本や御家人といった幕臣の行動を監察し、江戸城内の秩序維持を担う役職であり、幕府の統治機構における「目」の役割を果たした 25

照守がこの役職で果たした最も重要な任務の一つが、寛永3年(1626年)4月に行われた肥後国熊本への巡察である 1 。当時の熊本藩主は、加藤清正の子である加藤忠広であったが、幕府は忠広の藩政運営や素行に疑念を抱いていた 26 。照守の派遣は、後の寛永9年(1632年)に行われる加藤家改易の布石として、藩の内情を詳細に調査するためのものであった可能性が極めて高い。このような大藩の監察という大役を任されたことは、照守が将軍家光政権下で、監察官として厚い信頼を得ていたことを明確に物語っている。

第二節:武門の誉れ ― 槍奉行就任

寛永9年(1632年)、照守は63歳で鑓奉行(やりぶぎょう)に就任する 1 。これは彼のキャリアの頂点を示す栄誉ある役職であった。槍奉行は老中の支配下にあり、格式は2000石高の布衣役(ほいやく、将軍への謁見時に特定の礼装を許される格式)と定められていた 28

元来、槍奉行は戦時において槍部隊を指揮する重要な役職であったが、世が泰平となるにつれて、その役割は変化した。平時においては、幕府の槍に関する事務を司るとともに、長柄槍組同心(ながえやりぐみどうしん)や八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)を統括する役職となった 28 。次第に、長年にわたり幕府に忠勤を励んだ功労ある旗本に与えられる、名誉職としての性格を強めていった 28

かつて父・家範が命を賭して守り、そして散った八王子。その地に縁の深い八王子千人同心を統括する立場になったことは、照守にとって万感胸に迫るものがあったに違いない。戦場での武勇を原点としながら、官僚として幕府に尽くし、最終的に武門の誉れを象徴するこの職に就いたことは、彼の武士としての生涯を締めくくるにふさわしいものであった。

第三節:三千五百石・大身旗本への道

槍奉行就任と前後して、照守の知行は最終的に3500石に達した 1 。これは、約5000家いたとされる旗本の中でも、上位に位置する「大身旗本」である。

江戸時代の旗本の生活は、その石高によって大きく異なった。300石程度の旗本では、家臣を数人雇うのがやっとで、生活は常に困窮していたという 31 。しかし、1000石を超えると生活は比較的安定し 31 、3500石ともなれば、数十人の家臣を抱え、登城の際には4人担ぎの駕籠に乗ることが許されるなど、小大名に匹敵するほどの格式と威光を持つことができた 31

父・家範が滅びゆく家の家臣であったことを考えれば、照守が一代でこの地位を築き上げたことは、驚異的な立身出世と言える。彼の成功は、単一の能力によるものではなかった。キャリアの各段階で、①父から受け継いだ「忠義」というブランド、②自ら磨いた「武芸(馬術)」という専門技術、③幕府官僚として発揮した「実務能力(監察業務)」という三つの異なる能力を的確に活用した。時代の要請に応じて自らの価値を多角的に提示し、適応し続けたことこそが、彼を大身旗本へと押し上げた最大の要因であった。

第五章:血脈の行方 ― 中山家の遺産と後裔

中山照守が築き上げた家は、彼一代で終わることなく、江戸時代を通じて繁栄を続けた。彼の血脈は、幕府直臣として、また御三家の重臣として、さらには大名として、武家社会に確かな足跡を残していく。

表3:中山氏略系図

コード スニペット

graph TD
A[中山家勝] --> B(中山家範);
B --> C{中山照守<br>(旗本家 祖)};
B --> D{中山信吉<br>(水戸藩附家老家 祖)};
C --> E(中山直定);
E --> F(中山直守);
F --> G(中山直房);
C --> H(中山直張);
H --> I{黒田直邦<br>(下総久留里藩主)};

subgraph 旗本中山家
C
E
F
G
H
end

subgraph 水戸藩附家老 中山家
D
end

subgraph 大名 黒田家
I
end

第一節:二つの道 ― 旗本家と水戸藩附家老家

照守が幕府直臣(旗本)として3500石の家を興した一方、彼の弟である中山信吉もまた、兄とは異なる道で目覚ましい活躍を見せた。信吉は、徳川家康から特に厚い信頼を寄せられ、家康の十一男で水戸藩初代藩主となる徳川頼房(よりふさ)の附家老(つけがろう)に任じられた 12 。附家老とは、藩主の補佐役として幕府から直接派遣される重臣であり、藩政に絶大な影響力を持った。

信吉の子孫は代々水戸藩の附家老職を世襲し、常陸国松岡(現在の茨城県高萩市)に2万5000石の所領を持つ、事実上の大名格の家臣として幕末まで続いた 5 。特に信吉は、後の名君として知られる徳川光圀(水戸黄門)の才能を幼少期に見抜き、二代藩主として強く推挙したという逸話でも知られている 12

照守と信吉の兄弟が、それぞれ幕府の中枢と御三家の要所という、異なる、しかし共に極めて重要な地位を占めたことは、結果として中山一族にとって見事な「リスク分散」となった。仮に幕府中央で政治的な変動があっても水戸藩の中山家が存続し、逆に水戸藩で何かが起きても旗本家は安泰である。この二本柱の構造は、中山家が江戸時代を通じて安定的に繁栄する強固な基盤となった。これは、有能な人材を中央と地方の要所に巧みに配置した、徳川家康の優れた人事戦略の一端を示すものとも言える。

第二節:後裔たちの活躍

照守が興した旗本中山家もまた、有能な人材を輩出し続けた。家督を継いだ嫡男の中山直定は、父と共に大坂の陣で武功を挙げた武人であり、父と同じく高麗八条流馬術の達人でもあった 35

さらに後代には、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)として江戸の治安維持に辣腕を振るい、「鬼勘解由(おにかげゆ)」と悪党から恐れられた中山直守(なおもり)・直房(なおふさ)親子が出ている 36 。これは、中山家が武勇の家系としての気風を代々受け継いでいたことを示している。

そして、照守の血筋から最も目覚ましい出世を遂げたのが、曾孫にあたる黒田直邦(くろだ なおくに)である。照守の次男・直張の子として生まれた直邦は、母方の祖父である黒田家の養子となり、五代将軍・徳川綱吉に仕えた 37 。その後、奏者番、若年寄、そして老中という幕政の最高職を歴任し、最終的には下総国久留里(くるり)藩3万石の譜代大名にまで上り詰めた 36 。旗本の分家から大名が生まれるという、江戸時代の武家社会における社会移動の稀有な成功例であり、中山一族の繁栄を象徴する出来事であった。

第三節:終焉の地・能仁寺

幕府の重鎮として華々しいキャリアを築いた照守は、寛永11年(1634年)1月23日、65歳でその生涯を閉じた 1 。戒名は「無相院殿可山宗印大居士(むそういんでんかざんそういんだいこじ)」 2

彼の亡骸は、江戸で大成した後も、そのルーツである武蔵国飯能へと運ばれ、祖父・家勝、父・家範が眠る菩提寺・能仁寺に葬られた 1 。墓所には、家勝、家範、そして照守の三代の墓が縦一列に並んでおり、照守の墓石は高さ1.93メートルに及ぶ無縫塔(むほうとう)となっている 6 。無縫塔は、縫い目のない卵型の石を特徴とし、主に高僧の墓に用いられる形式である。武人であった照守の墓がこの形式である理由は定かではないが、彼の深い信仰心を示すものか、あるいは武断の世から文治の世へと移行する時代を官僚として生きた、彼の生涯を象徴するものかもしれない。

結論:中山照守が体現した武士の鑑

中山照守の生涯は、主家・後北条氏の滅亡という絶望的な状況から始まりながらも、父・家範が遺した「忠義」という無形の遺産を礎に、新たな天下人・徳川家康に見出されるという劇的な転換を遂げた。彼は、徳川家臣として、上田城での挫折という試練を乗り越え、卓越した馬術の師範として将軍個人の信頼を勝ち取り、監察官として幕府の統治機構の一翼を担い、そして最終的には武門の誉れである槍奉行として、大身旗本の地位を確立した。

彼の成功は、単なる幸運や時流に乗った結果ではない。彼は、戦国時代に絶対的な価値を持った「忠義」と「武勇」を保持しつつ、江戸幕府という新たな官僚組織が求める「規律」と「実務能力」を身につけ、その両者を巧みに使い分けることで時代の激動を乗り切った、極めて優れた「適応者」であった。

滅びの悲劇から再生し、新たな時代に自らの力で確固たる地位を築き上げた中山照守。その生涯は、戦国乱世から泰平の世へと移り変わる、歴史の分水嶺における一つの理想的な武士の姿を、我々に鮮やかに示している。

引用文献

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  27. 加藤忠広 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83
  28. 槍奉行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8D%E5%A5%89%E8%A1%8C
  29. 江戸幕府老中支配の要職 https://wako226.exblog.jp/241094708/
  30. 槍奉行(ヤリブギョウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%A7%8D%E5%A5%89%E8%A1%8C-649909
  31. 旗本 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC
  32. 旗本の家来 http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/kerai.htm
  33. 中山信吉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E5%90%89
  34. 【イベント】破格の大出世⁉ 飯能・中山出身の中山信吉と中山氏一族 第7回高麗郡偉人伝 特別展開催 8/20(土)~28(日) | 高麗1300 http://komagun.jp/2022/0726/11535
  35. 中山直定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E7%9B%B4%E5%AE%9A
  36. 中山氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%B0%8F
  37. 黒田直邦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E7%9B%B4%E9%82%A6
  38. 下館藩主黒田直邦の暇ー正徳三年 - 小山工業高等専門学校 https://www.oyama-ct.ac.jp/tosyo/kiyou/42/30-SakairiYouko.pdf
  39. 【開催中!】大名そして西の老中にまで出世! 飯能とゆかりの深い『黒田直邦』特別展を開催 第9回高麗郡偉人伝 8/24(土)~9/1(日) | 高麗1300 http://komagun.jp/2024/0716/13676
  40. 飯能の能仁寺と中山氏 - 日本実業出版社 https://www.njg.co.jp/column/column-39549/
  41. 能仁寺中山勘解由三代の墓 - 飯能百景 https://ghosts.xrea.jp/daylight/100/100-050.htm