最終更新日 2025-07-03

中川久盛

静かなる藩祖、中川久盛――徳川の治世を生き抜いた豊後岡藩二代藩主の生涯

はじめに

戦国乱世の終焉と徳川幕府による泰平の世の到来は、多くの大名にとって新たな試練の始まりであった。武勇を誇る場が失われ、代わって求められたのは、緻密な統治能力と、新時代の権力構造を巧みに生き抜く政治的嗅覚であった。豊後国岡藩(現在の大分県竹田市)の第二代藩主、中川久盛(なかがわ ひさもり)は、まさにこの転換期を象徴する人物である。彼の治世には、戦場での華々しい武功伝は存在しない。しかし、その静かなる統治の内に、一つの藩を明治維新に至るまで安泰ならしめた、類稀なる統治者としての手腕が秘められている 1

久盛の生涯を語る上で、その出生の宿命を避けては通れない。彼の祖父は、賤ヶ岳の戦いにおいて、一方は羽柴秀吉軍の勇将として散り、もう一方は柴田勝家軍の猛将として敵対した、中川清秀と佐久間盛政である 3 。敵将同士の血をその身に受け継ぐという数奇な運命は、豊臣秀吉の政治的采配によってもたらされたものであった 4 。この「宿敵の血の融合」という劇的な出自は、久盛のアイデンティティと政治的立ち位置を生涯にわたって規定し続けることになる。

本稿は、この中川久盛という人物の生涯を多角的に掘り下げ、単なる年代記に留まらない分析を試みるものである。徳川家との姻戚関係による政治的生存戦略、藩法の制定による統治基盤の確立、大規模な灌漑事業による経済的安定の確保、そして幕府の厳格な禁教政策の裏で密かに続けられた危険な賭け。これらを通じて、江戸時代初期の外様大名が、いかにして激動の時代を乗り越え、藩の永続的な繁栄の礎を築いたのかを解き明かす。彼の生涯は、派手さはないが、確実な足取りで未来を築いた「静かなる藩祖」の実像を我々に示してくれるだろう。

(参考資料)中川久盛 略年表

年号

西暦

久盛の年齢

主要な出来事

関連資料

文禄3年

1594年

1歳

7月15日、中川秀成の長男として誕生。初名は秀征。

3

慶長13年

1608年

15歳

従五位下・内膳正に叙任。徳川家康の命により、家康の養女・紀為君(松平定勝の娘)と婚姻。

3

慶長17年

1612年

19歳

8月14日、父・秀成の死去に伴い、豊後岡藩7万石の第2代藩主となる。

3

慶長20年/元和元年

1615年

22歳

5月13日、二条城にて徳川家康に拝謁。大坂夏の陣に参陣が間に合わなかったことを陳謝する。

7

元和9年

1623年

30歳

幕府の命により、配流された松平忠直(家康の孫)を一時的に預かる。

3

寛永9年

1632年

39歳

江戸の愛宕山に青銅の鳥居を寄進する。

7

寛永11年

1634年

41歳

長崎奉行・竹中重義の改易に伴い、幕府の命で豊後府内城の城番(城の守備)を務める。

7

寛永12年

1635年

42歳

日光東照宮造営に関わった縁で招聘した飛騨の工匠に、竹田の地に愛染堂を建立させる。

10

寛永14-15年

1637-38年

44-45歳

島原の乱が勃発。九州の大名として、後方支援や警備などの役務を担ったと推測される。

13

正保年間

1644-48年

51-55歳

元和9年(1623年)の阿蘇山噴火等で疲弊した領内の農業振興のため、大規模灌漑用水路「緒方井路」の開削に着手する。

2

正保4年

1647年

54歳

肥前唐津藩主・寺沢堅高の死去(嗣子なく改易)に伴い、幕府の命で唐津城の城番を務める。

7

慶安4年

1651年

58歳

39年間にわたる治世の後、隠居。家督を長男の久清に譲る。

3

承応2年

1653年

60歳

3月18日、死去。享年60(満59歳)。墓所は竹田市の碧雲寺(おたまや公園)。

3

第一章:宿命の血脈――清秀と盛政、二人の祖父

中川久盛の人物像を理解するためには、まず彼の血に刻まれた宿命的な物語から始めなければならない。それは、安土桃山時代の天下分け目の戦いの一つ、賤ヶ岳の戦いに端を発する。

久盛の父方の祖父は、中川瀬兵衛清秀。摂津茨木城主として織田信長に仕え、本能寺の変後は逸早く羽柴秀吉に与した勇将である 15 。彼は秀吉から「百万人に勝る名将」と称されるほどの信頼を得ていたが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家軍の猛攻の前に奮戦し、討死した 17

一方、母方の祖父は、佐久間玄蕃允盛政。柴田勝家の甥であり、その勇猛さから「鬼玄蕃」の異名で恐れられた猛将である 18 。賤ヶ岳の戦いにおいて、秀吉方の砦を陥落させ、戦局を一時的に優位に進めたのが彼であった。そして、この戦いの最中、佐久間盛政の部隊が中川清秀を討ち取ったのである 3 。つまり、久盛の両祖父は、戦場で互いの命を奪い合った不倶戴天の敵同士であった。

この血なまぐさい対立に、劇的な終止符を打ったのが天下人・豊臣秀吉であった。秀吉は、柴田勝家を滅ぼし、捕らえた佐久間盛政を処刑する。しかし、その一方で、清秀の功に報いるため、その次男・秀成(久盛の父)を取り立てた。そして、秀吉は驚くべき采配を振るう。敵将・盛政の娘である虎姫を、父の仇の子である秀成に嫁がせたのである 5 。これは、単なる温情ではない。敗者を体制内に取り込み、対立を融和させることで自らの支配を盤石にするという、秀吉ならではの高度な政治的判断であった。

この政略結婚は、中川家に複雑な影を落とす。秀成と虎姫の夫婦仲は良好で、久盛をはじめ多くの子宝に恵まれたと伝わる 4 。しかし、夫の母、つまり清秀の妻は、息子の仇の娘である虎姫を決して許さず、虎姫は生涯、夫の領地である豊後岡藩の土を踏むことができなかったという 4

このような背景から、久盛は生まれながらにして、極めて特異な政治的遺産を背負うことになった。彼の血筋は、豊臣政権への忠誠の象徴(清秀)と、赦免された旧敵対勢力の象徴(盛政)という、二つの相容れない要素を内包していた。これは、豊臣から徳川へと政権が移行する激動期において、単なる悲劇的な家族史以上の意味を持った。外様大名として常に幕府の猜疑の目に晒される中で、この血統の二重性は、中川家が「旧豊臣恩顧」という危険なレッテルだけで判断されることを避け、新時代を生き抜くための、ある種の政治的緩衝材として機能した可能性は否定できない。久盛の生涯は、この宿命の血脈をいかに乗りこなし、新たな時代の統治者として自らを確立していくかの物語でもあった。

第二章:徳川体制下の若き藩主

父・秀成の跡を継いだ若き久盛にとって、最大の課題は、徳川幕府という新たな権力構造の中で、いかにして豊後岡藩の存続と安泰を図るかであった。九州に配された外様大名は、江戸から遠く、潜在的な脅威と見なされがちであった 21 。久盛の初期の経歴は、この課題に対し、受動的に従うのではなく、極めて能動的に徳川体制へ自己を統合していく、したたかな生存戦略の連続であった。

その最初の、そして最も決定的な一手が、徳川家との婚姻であった。慶長13年(1608年)、久盛がまだ15歳で、家督を継ぐ以前のことである。彼は、徳川家康自身の命により、家康の養女となった紀為君(きいぎみ)を正室に迎える 3 。紀為君の実父は、家康の異父弟であり、譜代大名として絶大な信頼を得ていた松平定勝であった 23 。この婚姻は、単なる縁組ではない。外様大名である中川家が、徳川将軍家と直接の姻戚関係を結ぶことを意味し、他の外様大名に対する圧倒的な優位性と、幕府に対する忠誠の強力な証となった。これは、将来の政治的リスクに対する最高の保険であり、中川家の地位を盤石にするための、先を見越した戦略的布石であった。

久盛の巧みな政治感覚は、慶長20年(1615年)の行動にも表れている。大坂夏の陣が終結した後、彼は寺沢広高と共に二条城の徳川家康に拝謁し、参陣が間に合わなかったことへの「無念」を伝えている 7 。これは、単なる儀礼的な挨拶ではない。豊臣恩顧の大名が多く残る西国にあって、自らの奉仕の意志を明確に表明し、徳川への忠誠心に一点の曇りもないことを示すための、計算された政治的パフォーマンスであった。こうした忠誠の表明は、遠方の外様大名にとって、自らの立場を確保するために不可欠な行動だったのである。

これらの能動的な働きかけは、着実に幕府の信頼を勝ち取っていった。その証左が、元和9年(1623年)に久盛に下された特命である。彼は幕府の命を受け、不行跡を理由に豊後へ配流された松平忠直の身柄を一時的に預かるという、極めて機密性の高い任務を託された 3 。忠直は家康の孫であり、将軍秀忠の娘婿という最高位の血筋でありながら、キリシタンへの関心も噂されるなど、扱いの難しい人物であった。このような人物の監視を任されたという事実は、久盛の思慮深さと信頼性が幕府中枢に高く評価されていたことを物語っている。

このように、中川久盛は、婚姻、忠誠の表明、そして重要任務の遂行という一連の行動を通じて、潜在的に疑われやすい「外様大名」という立場から、幕府にとって「信頼できるパートナー」へと自らの地位を巧みに転換させていった。それは、徳川の治世を生き抜くための、計算され尽くした見事な政治戦略だったのである。

第三章:岡藩七万石の統治と藩政の礎

藩主としての地位を固めた久盛は、その治世の大部分を、戦国の遺風を払拭し、近世的な藩体制を構築するための内政充実に捧げた。彼の施策は、法整備、経済振興、そして幕府への奉公という三つの柱から成り立っており、これらが一体となって、岡藩の永続的な安定の礎を築いた。

第一節:藩法の整備――「御政事御定書」の制定

久盛の統治における画期的な業績の一つが、藩の基本法となる「御政事御定書」の制定である 3 。これは、戦国時代に見られた武将個人の裁量に頼る属人的な支配から、成文化された法に基づく体系的・官僚的な統治へと移行したことを示す象徴的な出来事であった。

この御定書の具体的な条文は現存する史料からは詳らかではないが、その目的は明確である。藩内の行政、司法、武士や領民の身分秩序に関する明確な規則を定めることで、統治の安定化と予測可能性を高めることにあった。これにより、家臣団の統制を強化し、領民の間に紛争解決の基準を示すことで、藩主の権威を隅々まで浸透させることが可能となった。

注目すべきは、この藩法の制定が、幕府への反抗ではなく、むしろ徳川の統治理念に沿ったものであったという点である。江戸幕府は、武家諸法度を頂点とする法体系を全国に及ぼそうとしており、後の八代将軍吉宗による「公事方御定書」の編纂はその集大成であった 25 。各藩の藩法制定は、この幕府の大きな方針を、それぞれの藩の固有の事情に合わせて具体化・実践する作業であったと言える。久盛の「御政事御定書」は、幕府の意向を汲み取り、それを自領で実践する有能な統治者としての資質を示すものであり、地方統治の安定化と中央への恭順を同時に達成する、巧みな一手だったのである。

第二節:農業振興と「緒方井路」の開削

久盛が後世に残した最も永続的な遺産は、経済分野、特に農業基盤の整備に見ることができる。その最大のものが、正保年間(1644-1648年)に着手された大規模灌漑用水路「緒方井路(おがたいろ)」の開削事業である 3

この巨大プロジェクトの背景には、深刻な自然災害があった。特に元和9年(1623年)の阿蘇山大噴火は、降灰などによって周辺地域の農業に壊滅的な打撃を与えていた 2 。藩の経済基盤である米の生産量を安定させ、領民の生活を救うことは、藩主にとって喫緊の課題であった。久盛は、この難題に対し、緒方盆地を貫く長大な用水路を建設するという壮大な計画で応えたのである。

この事業は、久盛一代で完結するものではなかった。彼が着手し、その志は息子の三代藩主・久清に引き継がれ、親子二代にわたる長い歳月をかけてようやく完成した 2 。緒方井路の完成は、不毛の地を「緒方五千石」と称されるほどの豊かな穀倉地帯へと変貌させ、岡藩の財政基盤を恒久的に安定させることに成功した 27 。この井路は、単なる土木事業ではなく、藩の未来への投資であり、その恩恵は現代にまで及んでいる。現在も「緒方井路土地改良区」としてその組織が存続していることが、久盛の先見の明を何よりも雄弁に物語っている 28

第三節:九州外様大名としての務め

内政の充実に努める一方で、久盛は幕府から課せられる公役(こうやく)も忠実にこなした。特に九州という地政学的に重要な位置にあった岡藩には、地域の安定を維持するための様々な役割が期待された。

その一つが、改易や無嗣断絶となった近隣大名の城を受け取り、管理する「城番」の役目である。久盛は、寛永11年(1634年)に長崎奉行・竹中重義が改易された際には豊後府内城の城番を、正保4年(1647年)に唐津藩主・寺沢堅高が無嗣断絶となった際には肥前唐津城の城番を、それぞれ幕府の命により務めている 7 。これらは、幕府がその地域における重要な拠点の管理を任せるに足る、信頼できる大名と見なされていた証拠である。

また、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱においては、岡藩が直接戦闘に参加したという明確な記録はない 30 。しかし、九州の全大名が動員され、後方支援、兵站の維持、沿岸警備などを担ったことから、岡藩も何らかの形でこの国事に関与したことは間違いない 13 。この大乱は、幕府にとって、有事に際して頼りになる外様大名の存在価値を再認識させる機会となり、久盛の忠実な奉公は、中川家の立場をさらに強固なものにしたであろう。

さらに、久盛は文化的にも足跡を残している。幕府の一大事業であった日光東照宮の造営に奉行として関わった縁から、当代随一の技術を誇る飛騨の工匠を自領に招聘した 10 。そして寛永12年(1635年)、彼らに命じて建立させたのが、竹田市に現存する観音院の愛染堂である。この建造物は、現在、竹田市最古の木造建築物として国の重要文化財に指定されており 11 、幕府への奉公が、結果として地方への高度な文化技術の伝播に繋がった好例と言える。

第四章:信仰と禁制の狭間で――「サンチャゴの鐘」の謎

中川久盛の人物像を一層複雑で興味深いものにしているのが、彼の治世に秘められたキリシタン信仰との関わり、とりわけ国指定重要文化財「銅鐘」、通称「サンチャゴの鐘」の存在である。幕府によるキリシタン禁制が苛烈を極めた時代にあって、このキリスト教の遺物を密かに蔵匿していたという事実は、彼の表向きの経歴からは想像もつかない、深い謎を投げかけている。

まず背景として、中川家とキリスト教の浅からぬ因縁を理解する必要がある。久盛の曽祖父にあたる中川清秀は、キリシタン大名であったとされ 32 、そもそも中川氏が治めた豊後国は、大友宗麟の時代からキリスト教が深く根付いた土地であった 32 。しかし、徳川幕府の禁教令は絶対であり、藩主である久盛は、幕命に従い領内の教会を破壊し、信者を厳しく弾圧する立場にあった 35

この厳しい状況と真っ向から矛盾するのが、「サンチャゴの鐘」の存在である。この鐘は慶長17年(1612年)の年紀を持ち、十字架の紋様と「HOSPITAL SANTIAGO 1612」(サンチャゴ病院 1612年)という銘文が刻まれた、紛れもないキリシタンの遺物である 9 。元は長崎にあったイエズス会系のサンチャゴ病院付属教会のものと考えられており 37 、なぜこのような禁制の品が、弾圧を行う側の藩主の居城・岡城に秘蔵されていたのか、という点が最大の謎となっている。

この鐘の入手経路については、いくつかの説が立てられているが、最も有力視されているのが「竹中重義由来説」である。寛永11年(1634年)、密貿易の罪で長崎奉行兼府内藩主であった竹中重義が幕府に断罪され、切腹を命じられた。この際、幕命によって府内城の城番を務めたのが中川久盛であった 7 。重義は長崎でキリシタン弾圧を行う過程で、この鐘を没収し府内城に持ち込んでいたと考えられている。久盛は城の接収作業中にこの鐘を発見し、幕府に報告することなく、密かに自らの岡城へと運び込んだのではないか、という推測である 9

入手経路がどうであれ、久盛がこの鐘を蔵匿し続けたという決断は、計り知れないリスクを伴うものであった。これは単なる骨董趣味や、一時の気まぐれで説明できる行為ではない。発覚すれば、藩そのものが改易される可能性すらある、まさに命懸けの秘密であった。岡城内ではこの鐘を「朝鮮鐘」と偽って保管していたという伝承もあり 39 、その行為には周到な計画性が窺える。

この一件は、久盛の人物像に深みを与える。彼は、幕府の忠実な奉公人という一面だけでなく、自らの判断で国家の最高法規を破るという、大胆不敵な側面をも併せ持っていた。その動機が、一族のキリスト教の過去への密かな共感であったのか、稀有な美術品への愛着であったのか、あるいは将来何らかの役に立つと考えた政治的計算であったのか、今となっては知る由もない。しかし、この「サンチャゴの鐘」の謎は、中川久盛が単なる従順な官僚ではなく、深い秘密を抱え、巨大なリスクを冒すことのできる、複雑で多面的な人物であったことを、静かに、しかし力強く物語っているのである。

第五章:久盛の人物像と遺産

39年という長期にわたる治世を終え、中川久盛が歴史の舞台から去った後、岡藩には確固たる安定と、次代の飛躍を可能にする土壌が残された。彼の遺産は、安定した家族関係、藩主としての意外な素顔、そして何よりも藩の永続性という形で結実した。

第一節:私生活と家族

久盛の家庭生活は、当時の大名としては典型的な側面と、政治的に重要な側面を併せ持っていた。正室の紀為君は徳川家康の養女という極めて高い身分であったが、二人の間に子供は生まれなかった 23 。一方で、側室であった安威(あい)氏の娘との間に、嫡男となる久清と、後に備後福山藩主・水野忠職の正室となる娘・仙が生まれている 3 。将軍家と繋がる正室が世継ぎを産まず、側室の子が家を継ぐという構図は、一見不安定に見えるかもしれないが、紀為君との婚姻によって幕府との政治的関係は盤石になっており、血筋の継承は側室の子によって確保されるという、結果的にバランスの取れた形となった。

そして、この嫡男・中川久清こそが、久盛の最大の遺産の一つであった。久清は後に「岡藩中興の英主」と称される名君となり、岡山藩から儒学者の熊沢蕃山を招聘して藩政改革をさらに推し進め、家老制度や奉行制度の整備、植林政策の奨励など、数々の功績を挙げた 2 。久清の輝かしい治績は、決して無から生まれたものではない。それは、父・久盛が39年かけて築き上げた、法治、経済、そして政治的安定という強固な土台の上に花開いたものであった。久盛が整えた盤石の基礎なくして、久清の成功はあり得なかったであろう。

第二節:藩主の素顔――鷹狩りへの情熱

公的な記録からは、謹厳実直な統治者としての姿が浮かび上がる久盛だが、残された史料は、彼の意外な一面も伝えている。それは、鷹狩りに対する並々ならぬ情熱である。

竹田市立歴史資料館には、彼がまだ秀征と名乗っていた若き日の書状が残されている。その中で彼は、ある人物が所有する秘蔵の鷹を「一切之ほと預申度候(ぜひとも預かりたい)」と熱心に申し入れており、自らの手持ちの鷹には「気不入(気に入らない)」と率直な感想を漏らしている 41 。この一文からは、趣味に没頭する若者の生き生きとした姿が目に浮かぶようである。彼のこの情熱は単なる個人的な楽しみに留まらなかった。元和6年(1620年)には、藩の老職から「鷹遣」に関する規定が出されるなど、藩政にも影響を及ぼしている 41 。この鷹狩りへの傾倒というエピソードは、公務に勤しむ藩主という仮面の下にある、久盛の人間的な素顔を垣間見せてくれる貴重な記録である。

第三節:隠居と死、そして後世への影響

慶安4年(1651年)、久盛は39年間にわたる藩主の座を久清に譲り、隠居した。その2年後の承応2年(1653年)に60歳でその生涯を閉じた 3 。彼の墓所は、父・秀成をはじめとする歴代藩主と共に、竹田市の「おたまや公園」内の碧雲寺に静かに佇んでいる 15

中川久盛の究極の遺産、それは「安定」そのものであった。江戸時代初期は、幕府による統制強化の時代であり、些細な政治的失策や家中の混乱を理由に、多くの外様大名が領地を削減(減封)されたり、別の土地へ移封(転封)されたりした 21 。そのような厳しい政治情勢の中、豊後岡藩の中川家は、文禄3年(1594年)の入封から明治4年(1871年)の廃藩置県に至るまで、一度も加増も転封もなく、7万石の領地を維持し続けた 1

この驚くべき連続性は、決して歴史の偶然ではない。それは、第二代藩主・中川久盛の、先を見据えた賢明な統治の直接的な成果である。徳川家との姻戚関係による政治的地位の確保、藩法制定による統治の安定化、そして緒方井路開削による経済基盤の確立。これら一つ一つが、藩という名の船を、時代の荒波から守るための堅牢な設計図となっていた。彼は戦国の英雄のような征服者ではなかった。しかし、来るべき泰平の世を見据え、永続可能な藩の仕組みを静かに、しかし着実に築き上げた「偉大なる建築家」だったのである。

結論

中川久盛は、日本の歴史において、決して派手な脚光を浴びる人物ではない。しかし、その生涯を深く掘り下げることで、戦国から江戸へと移行する時代の要請に見事に応え、一つの藩の運命を盤石なものにした、卓越した統治者の姿が浮かび上がってくる。

彼は、賤ヶ岳の戦いで敵同士であった二人の祖父の血を引くという宿命を背負いながらも、それを乗り越え、徳川家との戦略的な婚姻によって、外様大名という不安定な立場を巧みに克服した。藩主としては、武力ではなく法と経済によって領地を治め、「御政事御定書」の制定で統治の骨格を作り、「緒方井路」の開削で藩の経済的未来を切り拓いた。これらの施策は、次代の名君・久清の活躍を準備する、不可欠な土台となった。

そして、「サンチャゴの鐘」の謎は、彼の人物像に測り知れない奥行きを与えている。表向きは幕府の忠実な奉公人として振る舞いながら、その裏では国家の禁制を破り、藩の存亡を賭けた秘密を守り抜く。この二面性は、彼が時代の流れを読む冷静な現実主義者であると同時に、自らの信条や価値観に基づき、巨大なリスクを取ることも厭わない、強い意志の持ち主であったことを示唆している。

結論として、中川久盛は、華々しい武勲がなくとも、一人の統治者がその知慮と先見性によって、いかにして永続的な平和と繁栄の礎を築くことができるかを示す、優れた歴史的実例である。彼は、戦乱の記憶がまだ生々しい時代に、泰平の世の統治者としてあるべき姿を体現した。征服者ではなく、建築家として。その静かなる功績は、豊後岡藩が明治維新まで存続したという事実そのものによって、最も雄弁に証明されている。

引用文献

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  41. 州サコシ(坂越)の港より御出船」して豊後国岡へ向かった。 そのときに秀成に従って豊後に入った者の姓名を記したのが http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=5954
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