戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代、数多の武将が歴史の舞台に登場し、そして消えていきました。その中で、豊臣家臣としてキャリアを開始し、関ヶ原の戦いを乗り越え、豊後岡藩(現在の大分県竹田市)七万石余の初代藩主として家名を後世に伝えた人物がいます。それが中川秀成(なかがわ ひでしげ)です。
彼の名は、父・中川清秀や兄・秀政の劇的な生涯の影に隠れがちであり、その人物像は「父の武功と兄の死によって家督を継いだ幸運な次男」という断片的な情報で語られることが少なくありません 1 。しかし、その生涯を丹念に追うとき、秀成が単なる幸運なだけの武将ではなかったことが明らかになります。彼は、父が遺した「栄光」と「宿縁」、そして兄が招いた「失態」という二重の宿命を背負いながらも、自らの知略と行動力で家門の危機を乗り越え、近世大名としての確固たる礎を築き上げた、優れた統治者であり戦略家でした。彼の生涯は、まさに豊臣政権から徳川幕府へと移行する時代の転換期において、一地方大名がいかにして生き残り、繁栄の基盤を築いたかを示す貴重な縮図と言えるでしょう。
なお、秀成の名は一般的に「ひでなり」と読まれることが多いですが、近年発見された古文書において本人が「ひでしげ」と署名していることが確認されています 2 。本報告書では、人物の実像により迫るため、この史料に基づき「ひでしげ」の読みを採用し、記述を統一します。
本報告書は、まず秀成の人生に大きな影響を与えた父・清秀の時代から説き起こし、次に兄の突然の死とそれに伴う秀成の予期せぬ家督相続の真相を解明します。続いて、豊臣大名としての戦歴、天下分け目の関ヶ原における決断と九州での死闘を詳述し、最後に豊後岡藩の藩祖としての統治事業と、父の仇の娘を娶るという数奇な運命に彩られた私生活に光を当てます。これら多角的な検証を通じて、乱世を生き抜いた一人の武将、中川秀成の真の姿を明らかにすることを目的とします。
中川秀成の生涯を理解する上で、その父である中川清秀(きよひで)の存在は決定的に重要です。清秀が遺したものは、単なる血縁や領地だけではなく、豊臣政権下で絶大な価値を持つ「武功」という名の政治的資産と、個人的な「宿縁」という名の複雑な遺産でした。
中川氏の出自は、摂津国島下郡中河原村(現在の大阪府茨木市)の土豪に遡ります 4 。秀成の祖父にあたる中川重清は、常陸国の出身ともいわれますが、摂津に移り中川清村に仕え、嗣子のなかった清村の婿養子となって家を継ぎました 5 。その重清の子として生まれたのが、清秀です。
当初、中川氏は摂津の有力国人であった池田氏に属していました 4 。しかし、清秀は一介の家臣に留まる器ではありませんでした。元亀2年(1571年)、同じ池田氏の部将であった荒木村重と共同し、織田信長方の和田惟政を白井河原の戦いで討ち取るという武功を挙げます。この戦功により、惟政が拠点としていた茨木城の城主となり、一国人から城持ちの武将へと飛躍を遂げました 5 。その武勇は「鬼瀬兵衛(おにせひょうえ)」と讃えられ、周囲にその名を轟かせました 6 。自らの武力で道を切り拓く、典型的な戦国の武将でした。
清秀の立身は、激動する中央政局と密接に連動していました。当初は摂津国主となった荒木村重の配下として信長に仕えますが、天正6年(1578年)、村重が信長に対して謀反を起こすと、清秀も当初はこれに従います 5 。しかし、ここで清秀は大きな決断を下します。彼の妹は、信長の家臣であり、後に茶人として大成する古田重然(織部)に嫁いでいました。この義弟・重然による懸命の説得を受け、清秀は村重を見限り、信長に帰順することを決意します 5 。この寝返りは、単なる保身行為に留まらず、中川家が信長の直臣として認知される極めて重要な転機となりました。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、清秀は迅速に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に与します。山崎の合戦では、盟友であった高山右近と共に先鋒部隊の中核を担い、戦略上の要地である天王山の占領に貢献しました 6 。この戦いで明智方の将・伊勢貞興らを討ち取るなど、秀吉の天下取りの第一歩に多大な武功を立てたのです 6 。
秀吉への忠誠は、翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の合戦で頂点に達します。秀吉と柴田勝家が天下の覇権を賭けて激突したこの戦いで、清秀は秀吉軍の重要拠点である大岩山砦の守備を任されました 6 。しかし、柴田軍の猛将・佐久間盛政による予期せぬ急襲を受け、砦は激戦の末に陥落。清秀は奮戦及ばず、この地で壮絶な戦死を遂げました。享年42でした 4 。
この清秀の死は、一見すれば中川家にとって最大の悲劇でした。しかし、それは同時に、息子である秀成の未来を規定する「正負の遺産」を残すことになります。清秀が秀吉の天下統一事業の過程で、忠義を尽くして命を落としたという事実は、豊臣政権下において中川家が持つ一種の代替不可能な「政治的資産」となりました。「忠臣の子」という評価は、形のない、しかし極めて強力な保証として機能します。一方で、父を直接討ち取った佐久間盛政という存在は、秀成の人生に個人的かつ複雑な宿縁の影を落とすことになりました。この栄光と悲劇、名誉と宿縁という二重の遺産こそが、秀成のその後の人生における重要な局面で、決定的な役割を果たしていくことになるのです 1 。
父・清秀の死後、家督は嫡男である中川秀政が継承しました。しかし、彼の有望な未来は朝鮮の地で突如として断たれ、中川家は改易という最大の危機に直面します。この危機を乗り越え、秀成が家督を相続するまでの過程は、豊臣政権の統治術と、父が遺した功績の価値を如実に物語っています。
中川秀政は、永禄11年(1568年)に清秀の嫡男として生まれました 10 。彼は父の武勇を受け継ぐだけでなく、時代の潮流を読む政治的センスにも長けていたようです。特筆すべきは、織田信長の娘・鶴姫を正室に迎えたことで、これにより秀政は信長一門に連なることになりました 7 。父・清秀が賤ヶ岳で戦死すると、秀吉はその功績に報いる形で秀政の所領を13万石にまで加増し、播磨国三木城(現在の兵庫県三木市)の城主としました 6 。若くして大大名となり、その将来は輝かしいものと誰もが信じて疑いませんでした。
秀政の運命が暗転したのは、天正20年(文禄元年、1592年)から始まった文禄の役でのことでした。渡海した秀政は、京畿道水原(スウォン)の守備についていましたが、同年10月24日、信じられない行動に出ます。敵地であるにもかかわらず、少数の供回りのみで鷹狩りに興じていたところを、朝鮮の伏兵に包囲され、あえなく討ち死にしてしまったのです 1 。享年わずか25でした 10 。
これは単なる戦死ではありません。戦時下における大将の、あまりにも不用意で無責任な行動が招いた「不慮の事故」であり、弁解の余地のない「失態」でした。豊臣政権下において、このような「無覚悟」の死は、家の断絶、すなわち改易に繋がる大罪でした 10 。この事態に狼狽した中川家の家臣団は、家の存続を賭けて一つの偽装工作を行います。秀政の死を「見回り中に待ち伏せにあっての戦死」として秀吉に報告し、失態を糊塗しようと試みたのです 1 。
しかし、この付け焼き刃の偽装が秀吉の慧眼を欺けるはずもありませんでした。真相を知った秀吉は激怒します 1 。秀吉の怒りの本質は、秀政が死んだことそのものよりも、その死に様にありました。12月6日付の秀吉の朱印状には、秀政が「無人ニ、而」(供も連れずに)待ち伏せにあって討ち死にしたと記されており、その軽率さを厳しく咎めています 1 。秀吉はこの一件を機に、他の諸将に対しても「今後は不用心にて戦死した場合は跡目相続を承認しない」と厳命しており、中川家への処分がいかに重大な先例となるかを示しています 1 。
中川家は絶体絶命の窮地に立たされました。しかし、ここで父・清秀が命を賭して遺した「遺産」が、絶大な効果を発揮します。秀吉は、最終的に次男である秀成による家督相続を認めました。その最大の理由は、諸資料が一致して記す通り、「特に父清秀の賤ヶ岳の戦いでの武功に免じて」というものでした 1 。
この秀吉の決定は、単なる温情によるものではありませんでした。そこには、天下人としての高度な統治術が窺えます。第一に、賤ヶ岳で忠死した清秀の功に報いることで、他の大名に対し「忠誠は決して無駄にはならない」という強烈なメッセージを発信する。第二に、功績は代々評価されるというインセンティブを与え、豊臣家への求心力を高める。そして第三に、相続は認めるものの、所領を13万石から播磨三木6万6千石へと半減させるという厳しい懲罰を科すことで、軍規の緩みを断固として許さないという姿勢を明確に示す 1 。この飴と鞭を巧みに使い分ける采配により、秀吉は自身の権威をより一層強固なものとしたのです。
かくして、中川家の家名は断絶を免れました。しかしそれは、秀成自身の能力や功績によるものではなく、ひとえに父が遺した「忠死」という政治的資本によって辛うじて成し遂げられたものでした。秀成は、兄の失態による減封という屈辱と、父への深い感謝という複雑な感情を胸に、中川家の当主として、その波乱に満ちたキャリアをスタートさせることになったのです。
兄の失態という不名誉な形で家督を継いだ秀成にとって、自らの武将としての価値を証明することは急務でした。その絶好の機会となったのが、兄が命を落とした朝鮮の役です。この戦役を通じて、秀成は父や兄の影から脱し、信頼に足る一軍の将として、豊臣政権内での地位を確立していきます。
家督相続を許された秀成は、直ちに豊臣政権が課す軍役を担うことになりました。文禄2年(1593年)、秀吉は朝鮮半島南部の拠点である晋州城の攻略を計画します(第二次晋州城攻防戦)。この大規模な作戦において、秀成は1,000人の兵を動員するよう命じられており、家督相続後間もなく実戦の場に投入されたことがわかります 1 。
秀成の本格的な活躍が見られるのは、慶長2年(1597年)から再開された慶長の役においてです。この戦役で、秀成は1,500人の兵を率いて右軍に所属し、再び朝鮮半島へ渡海しました 1 。彼の部隊は、加藤清正や黒田長政といった歴戦の将たちが率いる軍勢と共に、朝鮮南部の制圧作戦に従事します。
同年8月、秀成は重要な戦いの一つである黄石山城(こうせきさんじょう)の攻略戦に参加します 1 。この城は朝鮮軍の防衛拠点であり、日本軍の進撃路を確保するために攻略が不可欠でした。秀成は他の諸将と協力してこの堅城を攻め落とし、軍功を挙げました 17 。
さらに、同年8月26日に全州(チョンジュ)で開かれた日本軍の諸将会議の後、秀成は池田秀雄と共に泰仁(テニン)、光州(クァンジュ)といった全羅道の主要都市の制圧を指示されています 1 。これは、彼が単なる兵力提供者ではなく、一地域の制圧を任されるだけの信頼と能力を認められていたことを示唆します。その後も、9月16日の井邑(チョンウプ)会議に参加するなど、作戦の中枢に関与しつつ、忠清道から全羅道にかけての広範囲で転戦を続けました 1 。
これらの戦歴は、秀成が単なる「跡を継いだ弟」ではなかったことを雄弁に物語っています。父・清秀は勇猛果敢な突撃居士、兄・秀政は将来を嘱望された貴公子でしたが、秀成は兄の死という逆境から出発し、異国の地での着実な軍功によって自らの存在価値を証明しました。黄石山城のような激戦を経験し、方面軍の一翼として制圧作戦を遂行したという事実は、彼が冷静な判断力と部隊指揮能力を兼ね備えた、実務型の武将であったことを示しています。この朝鮮での実戦経験は、秀成に大きな自信を与え、後の関ヶ原の戦いという、さらに大きな政治的・軍事的決断を下す上での重要な基盤となったことは想像に難くありません。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を根底から揺るがしました。徳川家康と石田三成の対立が先鋭化する中、全国の大名は「東軍」につくか「西軍」につくか、家の存亡を賭けた選択を迫られます。中川秀成の関ヶ原における動向は、単に「東軍に与した」という一言では片付けられない、周到な事前交渉と、九州という局地戦における主体的な戦略に満ちたものでした。
秀吉子飼いの大名でありながら、秀成は早くから徳川家康への接近を図っていました。その背景には、義兄弟(互いの妻が姉妹)の関係にあった大大名・池田輝政の仲介があったとされています 18 。慶長4年(1599年)の時点で家康への忠誠を誓い、翌5年(1600年)2月には、家康・秀忠親子に対して改めて忠誠を誓う起請文を提出するなど、その立場は一貫して親家康派でした 18 。
彼の慧眼は、中央の政局を見据えるだけでなく、自らが置かれた九州という地域ブロック全体での生き残り戦略を構想した点にあります。戦いが始まる前から、隣国の大名である豊前中津城の黒田如水(孝高)や肥後熊本城の加藤清正、そして豊後杵築城を領する細川忠興(の家臣団)と緊密に連携を取り合っていました 18 。黒田如水からは家康の上方への進軍状況など、中央の最新情報が逐一もたらされ 19 、加藤清正には「家康公に対し全く裏表も二心も無い」と誓う起請文を送って、西軍からの誘いには応じないことを明確に伝えています 18 。これは、来るべき動乱において、九州の親家康派大名が一つの共同体として行動するための、周到な地ならしでした。
関ヶ原の戦いが勃発すると、秀成は複雑な対応を迫られます。表向きは、大坂にいる西軍方の要請に応じる形で、家臣を丹後田辺城(城主は東軍の細川幽斎)攻めに派遣しています 1 。これは、大坂にいる家族の安全を確保し、西軍への敵対心をカモフラージュするための戦術であったと考えられます。
しかし、その裏では東軍としての行動を着々と準備していました。彼の主戦場は、美濃関ヶ原ではなく、本拠地である豊後でした。関ヶ原で本戦の火蓋が切られると、秀成は明確に東軍として行動を開始し、西軍に与した隣国の臼杵城主・太田一吉の攻撃に向かいます 1 。両軍は佐賀関で激突し、この戦いで中川軍は家老の中川平右衛門をはじめ230人以上もの戦死者を出すという、熾烈な戦いを繰り広げました 1 。多大な犠牲を払いながらも、秀成はこの「九州の関ヶ原」とも言うべき戦いで太田軍を破り、東軍の勝利に貢献します。
さらに秀成を苦しめたのが、旧豊後国主・大友義統の挙兵でした。西軍の総大将・毛利輝元の支援を受けた義統は、旧領回復を目指して豊後に上陸。これに、かつて大友氏に仕え、秀成の客将となっていた田原親賢(たわら ちかかた)らが呼応します 22 。しかも親賢らは、中川家の旗印を盗み出して大友軍に参加したため、この情報が黒田如水を通じて家康に伝わると、秀成は西軍への内通を疑われるという絶体絶命の窮地に陥りました 22 。秀成は加藤清正に人質を送るなどして必死に弁明すると同時に、太田一吉への攻撃という具体的な軍事行動によって自らの忠誠を証明し、この危機を乗り越えたのです。
大名名 |
居城 |
石高(推定) |
所属陣営 |
主要な動向 |
中川秀成 |
岡城 |
7万4千石 |
東軍 |
太田一吉を攻撃(佐賀関の戦い)。大友義統の挙兵に対応。 |
細川忠興(領) |
杵築城 |
(豊前と合わせ)39万9千石 |
東軍 |
家臣・松井康之が在城。黒田・中川と連携し、大友軍と対峙(石垣原の戦い)。 |
黒田如水(孝高) |
中津城 |
18万石 |
東軍 |
九州の東軍勢力を主導。大友義統を石垣原で破る。 |
太田一吉 |
臼杵城 |
6万5千石 |
西軍 |
西軍に与し、中川秀成軍と交戦。敗北後、降伏。 |
大友義統 |
(旧領主) |
- |
西軍 |
毛利輝元の支援で挙兵。石垣原の戦いで黒田如水に敗れる。 |
この表が示すように、秀成が置かれた豊後国の状況は極めて複雑でした。彼は単独で行動したのではなく、黒田・細川という大大名との連携の中で、西軍の太田や旧領回復を狙う大友という複数の敵と対峙しなければなりませんでした。
秀成の関ヶ原における一連の動きは、彼が卓越した戦略眼と政治感覚を持つ武将であったことを証明しています。中央の政局を冷静に見極め、地域の有力大名と事前に連携し、自領周辺の敵対勢力を軍事力で排除する。そして、内通の嫌疑という最大の危機も、具体的な行動で忠誠を示すことによって乗り越える。これら一連の主体的かつ戦略的な行動こそが、彼が豊臣恩顧の大名から徳川体制下の大名へと自己変革を遂げ、戦後の論功行賞で所領を安堵される結果に繋がったのです 24 。関ヶ原の戦いは、秀成にとって、近世大名・岡藩中川家の地位を盤石なものとするための、最後の、そして最大の試練でした。
関ヶ原の戦いを乗り越え、徳川家康から所領を安堵された中川秀成は、武将としての役割から、領地と領民を治める統治者としての役割へと、その重心を移していきます。彼が藩祖として成し遂げた事業は、物理的なインフラ整備と制度的な支配体制の確立の両面に及び、その後の岡藩約270年の歴史の礎となりました。
秀成の豊後統治は、文禄3年(1594年)、秀吉の命によって播磨三木から豊後岡へ移封されたことに始まります。石高は資料により6万6千石から7万4千石と幅がありますが、いずれにせよ九州の一角に新たな領地を得たことになります 1 。
入封した秀成が最初に着手したのが、拠点となる岡城の大規模な改修でした 25 。岡城は、標高325メートルの天神山に築かれた天然の要害でしたが、秀成はこれを中世的な山城から、総石垣造りの近世城郭へと生まれ変わらせることを決意します。文禄3年(1594年)から慶長元年(1596年)にかけて大規模な普請が行われ、本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪や大手門などが整備されました 25 。この時に築かれた壮大な石垣群は、難攻不落の堅城としての威容を誇るとともに、後に作曲家・瀧廉太郎が「荒城の月」の着想を得るほどの、雄大で美しい景観を生み出しました 27 。この城普請は、単なる防御施設の強化に留まらず、新たな領主である中川家の権威と永続的な支配を、領民に視覚的に示すための象徴的なプロジェクトでした。
城の改修と並行して、秀成は城下町・竹田の建設にも着手します 29 。丸山藤左衛門といった奉行を任命し、大野川と稲葉川に挟まれた平地に、東西・南北に碁盤の目状に区画された計画的な町割りを進めました 3 。これにより、竹田は奥豊後地域の政治・経済・文化の中心地としての基礎を固め、岡藩の繁栄を支える拠点となったのです 31 。
物理的なインフラ整備と同時に、秀成は藩を統治するための制度的な基盤作りにも取り組みました。慶長の役から帰国した慶長3年(1598年)、彼は領内に対して初めての法令を発布します 32 。その中には、年貢徴収を怠る村に対しては「はりつけに処す」と厳命するなど、支配体制を確立するための厳しい内容も含まれていました 33 。また、領内の秩序維持のため、鷹狩りの方法や網猟を禁ずるなど、細かな禁制も出しています 34 。
産業面では、岡藩の財政を長期的に支えることになる鉱山経営に着目しました。領内には尾平鉱山や木浦鉱山といった有望な鉱山があり、秀成の時代からその開発が始まっています 35 。これらの鉱山から産出される錫や鉛は、藩の重要な収入源となりました。また、後の藩主たちが大規模に展開する治水事業や新田開発の端緒も、秀成の時代に開かれたと考えられます 37 。
一方で、秀成は複雑な問題にも直面しました。彼が入封した豊後国は、かつてキリシタン大名・大友宗麟が支配した土地であり、領内には多くのキリシタン信者が存在していました 39 。秀成の治世下で大規模な弾圧が行われたという記録は多くありませんが、後の三代藩主・久清が厳格な検地やキリシタン摘発のための絵踏みを実施していることから 40 、藩は創設当初からこの宗教問題と向き合い、統制下に置く必要に迫られていたことが窺えます。
中川秀成のこれらの統治事業は、彼が単なる戦国の武将から、領地の経営と民政を担う近世大名へと、意識的に自己変革を遂げたことを明確に示しています。彼が築いた城と城下町という物理的インフラ、そして法令や産業振興という制度的インフラ、この両輪があったからこそ、岡藩中川家は一度の移封もなく、約270年後の明治維新までその地を治め続けることができたのです 24 。
中川秀成の人生において、その人間性を最も深く浮き彫りにするのが、正室・虎姫との関係です。彼女は、父・清秀を賤ヶ岳の戦いで討ち取った宿敵、「鬼玄蕃」と恐れられた猛将・佐久間盛政の娘でした。この仇敵の娘との結婚は、秀成に課せられた数奇な運命であり、当時の政治状況と彼の人間性を映し出す鏡でもあります。
この異例の縁組を差配したのは、天下人・豊臣秀吉その人でした 9 。秀吉はなぜ、忠臣であった中川家の息子と、自らが滅ぼした敵将の娘とを結びつけたのでしょうか。その背景には、天下人としての高度な政治的計算がありました。賤ヶ岳の戦いの後、秀吉にとっての課題は、旧柴田勝家方の勢力をいかにして豊臣体制内に円滑に融和させるかでした。この結婚は、そのための象徴的な一手だったのです 12 。秀吉は、敵ながら天晴れと認めた佐久間盛政の武勇を惜しみ、その血筋が絶えることを望みませんでした。その血を、忠臣・中川家と結びつけることで、戦で生じた「恨み」を政治の力で「縁」へと昇華させ、かつての敵味方を問わず、全てを自らの影響下に置こうとしたのです。
秀成は、秀吉のこの政治的意図を深く理解し、受け入れたと考えられます。処刑を目前にした佐久間盛政のもとを秀成が自ら訪れ、「武人の戦いの勝ち負けは時の運です。父があなたに敗れたことも、あなたが秀吉公に捕らえられたことも、恥じることではありません」と、深い敬意を示したという逸話が伝えられています 12 。この行動は、秀成が個人的な感情に流されることなく、大局を見据えることのできる冷静さと、武人としての器の大きさを持っていたことを示唆しています。
しかし、この政略結婚は、中川家内に複雑な波紋を広げました。特に、夫を盛政に討たれた秀成の母(清秀の妻)にとって、虎姫は到底受け入れられる存在ではありませんでした。姑による厳しい拒絶のため、虎姫は正室でありながら、生涯にわたって夫の領地である豊後岡の土を踏むことができず、終生を畿内で過ごしたと伝えられています 9 。
一方で、秀成と虎姫の夫婦仲そのものは、極めて良好であったようです 12 。二人の間には、後に二代藩主となる嫡男・久盛をはじめ、多くの子宝に恵まれました 20 。この事実は、秀吉の差配による政略結婚として始まった関係が、時を経て、互いを思いやる個人的な情愛を伴うものへと発展していった可能性を強く示唆します。夫の領地を訪れることのできない妻と、その妻を京や大坂に置きながら豊後を治める夫。二人の間には、頻繁な書状のやり取りなどを通じて、離れていても変わらぬ絆が育まれていたのかもしれません。
二人の間に生まれた嫡男・久盛が二代藩主の座を継いだことで、岡藩中川家は、賤ヶ岳で死闘を繰り広げた中川清秀と佐久間盛政という、二人の猛将の血を受け継ぐことになりました 12 。これは、秀吉が意図した「和解」が、血の結合という最も確かな形で実現したことを意味します。
さらに、秀成の義理堅さと夫婦の絆の深さを示す感動的な逸話が残されています。虎姫は、自分の子の一人に、父・盛政が興した佐久間家の名跡を継がせたいと願っていました。秀成はこの妻の願いを聞き入れ、生まれた息子の一人(後の佐久間勝成)を、盛政の弟である佐久間勝之の養子に出し、見事に佐久間家を再興させたのです 41 。この再興された佐久間家は、岡藩の親族衆として明治に至るまで存続しました。また、二代藩主となった久盛は、母・虎姫の思いを汲み、母方の祖父である佐久間盛政の菩提を弔うために、竹田の地に英雄寺を建立しています 44 。これらの事実は、秀成と虎姫の結婚が単なる政略に終わらず、深い人間的な結びつきとなり、過去の宿縁を乗り越えて未来へと繋がる新たな歴史を創造したことを物語っています。
豊後岡藩の初代藩主として、また一人の武将として激動の時代を駆け抜けた中川秀成は、慶長17年(1612年)8月14日、その生涯に幕を下ろしました。享年43でした 1 。彼の死後、家督は嫡男の久盛が継承します。久盛は父が築いた基盤の上に、「御政事御定書」を制定して藩の基本法制を整備するなど、藩政の安定に努めました 45 。
そして、中川家は三代藩主・久清の時代に最盛期を迎えます。久清は陽明学者の熊沢蕃山を招聘して治水・植林事業を進め、藩政を確立した名君として知られ、後世「天下七賢将」の一人に数えられることもありました 40 。秀成が築き、久盛、久清が盤石にした岡藩は、その後一度の移封もなく、小藩が分立した豊後国において最大の藩として、幕末まで存続したのです 24 。
秀成が後世に遺したものは、藩の礎だけではありません。彼が朝鮮出兵の際に持ち帰ったとされる一株の牡丹は、彼の死後、二代藩主・久盛が祖父・佐久間盛政の菩提を弔うために建立した英雄寺に植えられました。この牡丹は、代々株分けされながら今なお大切に育てられ、毎年春になると美しい花を咲かせているといいます 1 。これは、彼の文化的側面と、複雑な宿縁の果てに生まれた絆を静かに伝える、ささやかな、しかし貴重な遺産と言えるでしょう。
総括すると、中川秀成は、父の武勇という「光」と兄の失態という「影」の中で家督を継ぎ、関ヶ原の動乱という時代の大きな転換点を、周到な準備と冷静な判断、そして局地戦における確かな軍事行動によって乗り越えた、類い稀な生存能力を持つ武将でした。さらに、藩祖として難攻不落の岡城と機能的な城下町を建設し、藩政の基礎を築いた優れた統治者でもありました。父の仇の娘を娶るという数奇な運命を受け入れ、それを人間的な絆へと昇華させた彼の度量は、戦国武将の荒々しさとは異なる、深い人間性を示しています。
彼の生涯は、戦国の遺風が色濃く残る乱世の終焉期において、一人の武将がいかにして近世大名へと脱皮し、家名を未来へと確かに繋いだかの好例として、歴史の中に記憶され、高く評価されるべき人物であると言えます。