最終更新日 2025-07-04

中村春続

鳥取城に散った忠臣の実像 ― 中村春続の生涯に関する総合研究報告

序章:鳥取城に散った忠臣、中村春続

戦国時代の日本列島が、織田信長の掲げる「天下布武」の下で統一へと向かう激動の最終局面。その渦中、中国地方の覇権を巡り、西の雄・毛利氏と東から伸長する織田氏が激しく衝突した。本報告書の主題である中村春続(なかむら はるつぐ、生年不詳 - 天正9年10月24日(1581年11月20日))は、まさにこの巨大勢力の狭間で翻弄され、そして散っていった因幡国(現在の鳥取県東部)の武将である 1

彼の名は、戦国史において特筆すべき二つの行動と分かち難く結びついている。一つは、織田氏に降伏した主君・山名豊国を鳥取城から追放したクーデター。そしてもう一つは、その結果として招かれた羽柴秀吉による凄惨な兵糧攻め「鳥取の渇え殺し」の末の、潔い自刃である。主君を追放するという行動は、表面的には「裏切り」と映る。しかし、その動機は毛利氏との盟約を重んじ、因幡武士としての矜持を貫くという、彼なりの「忠義」に基づいていた 2

中村春続の生涯は、単なる一地方武将の悲劇に留まらない。それは、巨大勢力の論理に翻弄される「境目の国衆」の苦悩そのものであり、戦国乱世における「忠義」と「裏切り」がいかに複雑で多義的な概念であったかを体現する、極めて重要な事例である。本報告書は、現存する史料を丹念に紐解き、この悲劇の武将・中村春続の実像に、可能な限り深く迫ることを目的とする。

第一章:出自の謎 ― 因幡中村氏か、草刈氏か

中村春続という人物を理解する上で、最初の障壁となるのがその出自の不確かさである。複数の説が並立しており、彼の行動原理を解釈する上で、それぞれが異なる示唆を与えている。

1-1. 通説としての因幡中村氏

最も広く知られている説は、春続が因幡国に土着した中村氏の一族であるとするものである 2 。因幡中村氏は、高草郡内海(現在の鳥取市西部)を本貫地とし、中村城を拠点として代々因幡守護の山名氏に仕えた国人であった 5 。この一族は、初代・中村新三郎政重が布勢仙林寺合戦などで武功を挙げたとされ、因幡国内の各地に所領を有する有力な存在だった 5 。春続がこの因幡中村氏の系譜に連なるならば、彼の行動は、外来の勢力に抗い、土地に根差した国人としての立場を守ろうとする、土着性の強いものであったと解釈できる。彼の生涯のほとんどが因幡国、特に鳥取城を舞台に展開されることを考えれば、この説は高い蓋然性を持つ。

1-2. 異説の検討:草刈氏出身説と播磨中村氏説

一方で、彼の出自には有力な異説も存在する。一つは、因幡国智頭郡の国人・草刈(くさかり)氏の出身であるとする説である 1 。草刈氏はもともと美作国(現在の岡山県北部)を本拠とする一族であったが、戦国時代に因幡国へも勢力を伸長させていた 6 。重要なのは、この草刈氏が毛利氏と密接に連携していた点である 9 。もし春続が草刈氏の出身であれば、彼が山名家臣でありながら一貫して親毛利的な姿勢を取り、最終的に主君を追放してまで毛利方への帰属を選択した行動原理が、より明確に説明される。

さらに近年では、播磨国(現在の兵庫県南西部)の中村氏系図の中に春続の名が見られるという指摘もなされており、彼の出自の謎は一層深まっている 1 。これらの異説は、春続の出自が単一ではなく、複数の地域や氏族と関連を持つ複雑なものであった可能性を示唆している。

1-3. 官途名と家督の変遷

春続の政治的立場の変化は、その官途名(かんどな)の変遷からも窺い知ることができる。史料に初めて登場した頃は「大炊助(おおいすけ)」を称していたが、後に毛利氏と連携を深める中で「対馬守(つしまのかみ)」を名乗るようになったとされる 1 。官途名の変更は、より格の高い、あるいは対外的な交渉を担う立場への昇進を意味することが多く、彼の山名家中および毛利方との関係における地位向上を物語っている。

また、家督相続に関しても興味深い記録が残る。『中村家譜』(内題・因州中村家由来)によれば、中村家の家督を継承したのは春続本人ではなく、弟の春国であったとされる 1 。この事実は、春続が中村家の嫡流ではなく分家筋の人物であった可能性、あるいは彼の非業の死によって本流が断絶し、弟が家名を再興したという事情があった可能性を示唆する。

本章のまとめと考察

中村春続の出自に関する諸説を整理すると、以下の表のようになる。

説の名称

概要

根拠史料・伝承

考察

因幡中村氏説

因幡国に土着し、代々山名氏に仕えた国人・中村氏の一族とする説。

『因幡民談記』、中村氏の伝承 5

春続の行動を因幡の土着国人としての視点から説明する。最も一般的な説。

草刈氏説

因幡国智頭郡の国人・草刈氏の出身とする説。

諸記録に伝わる異説 1

草刈氏が親毛利であったことから 9 、春続の徹底した親毛利路線を血縁的背景から説明しうる。

播磨中村氏説

播磨国の中村氏系図に名が見られるとする説。

近年発見された系図 1

出自の複雑さを示唆するもので、因幡が周辺地域と密接な関係にあったことを示す。

これらの複数の出自説が並立している状況は、単に記録が不完全であるという問題に留まらない。それは、戦国時代の因幡国が、但馬、播磨、美作といった周辺諸国からの人や権力の影響を常に受ける「境目」の地であったことを色濃く反映している 11 。春続のアイデンティティが、固定化された単一の「因幡国人」としてではなく、より流動的で広域的なネットワークの中に位置づけられていた可能性は、彼が後の人生で地域の枠を超え、西国の巨大勢力である毛利氏への帰属を強く意識する下地となったとも考えられる。春続の出自の曖昧さは、彼個人の謎であると同時に、因幡という土地の地政学的な性格と、そこに生きた国衆の複雑なアイデンティティを象徴しているのである。

第二章:山名家臣としての前半生

出自の謎に包まれている一方で、中村春続が歴史の表舞台に登場してからの足跡は、比較的明確な史料によって辿ることができる。彼は山名家の家臣としてキャリアを開始し、やがて因幡国の運命を左右する重要な役割を担うことになる。

2-1. 史料上の初見:「中村大炊助」の登場

中村春続が歴史的史料に初めてその名を現すのは、永禄7年(1564年)から永禄8年(1565年)頃に発給されたと推定される「山名豊儀書状写」においてである 2 。この文書の中で、彼は「中村大炊助」として、山名豊儀(やまな とよのり)の被官、すなわち直臣として記されている。山名豊儀は、当時の因幡国において守護、あるいはそれに準ずる権威を持っていた人物と考えられており 2 、春続がその直臣であったことは、彼が山名家中において早くから一定の地位を確立していたことを示している。

2-2. 主君・山名豊国への奉公と外交任務

その後、春続は山名豊国(やまな とよくに)に仕える。そして天正3年(1575年)、彼は豊国の被官として、毛利氏の重鎮であり、山陰方面の軍事を一手に担っていた吉川元春(きっかわ もとはる)のもとへ、使者として派遣された 1 。この外交任務は、彼の生涯における一つの転機となった可能性が高い。

当時の山名氏は、西の毛利、東の織田という二大勢力の狭間にあって、極めて困難な舵取りを迫られていた 12 。どちらの勢力に付くか、あるいは両者の間でいかにして独立を保つかという外交政策は、一族の存亡に直結する最重要課題であった。このような緊迫した状況下で、毛利方への重要な使者として春続が選ばれたという事実は、彼が単なる武勇一辺倒の武官ではなく、主君の意を体して複雑な交渉にあたるだけの知見と、毛利方からも交渉相手として認められるだけの器量を持っていたことを強く示唆している。

この外交の経験を通じて、春続は吉川元春をはじめとする毛利氏の中枢と直接的な繋がりを築いたと考えられる。この時に形成された個人的な信頼関係と、毛利氏の強大な国力を目の当たりにした経験は、彼の中に「因幡の安寧は毛利との連携によってのみ保たれる」という強固な政治信条を育んだに違いない。後の主君追放という過激な行動も、この時の経験を原点として理解することができる。この外交任務は、彼の運命を決定づける個人的な人脈と政治思想を形成した、極めて重要な原体験であったと位置づけられるだろう。

第三章:主君追放 ― 織田か毛利か、運命の決断

天正年間後半、織田信長の中国方面軍司令官・羽柴秀吉の軍勢が因幡に迫ると、中村春続は人生最大の決断を迫られる。それは、主君に従うか、自らの信じる道を選ぶかという、武士の忠義のあり方が根本から問われる選択であった。

3-1. 第一次鳥取城攻めと山名豊国の降伏

天正8年(1580年)、羽柴秀吉は因幡に侵攻し、鳥取城を攻撃した(第一次鳥取城の戦い)。城主であった山名豊国は籠城して抵抗するも、最終的には織田方への降伏を決断する 14 。一説には、秀吉に娘を人質に取られていたことが、降伏の大きな要因であったとも伝えられている 4 。この時の籠城戦では、豊国が事前に物資の備蓄に万全を期していたため、秀吉の兵糧攻めは成功せず、城は持ちこたえていた 4 。それにもかかわらず降伏を選んだ豊国の決断は、城内の徹底抗戦派、特に中村春続らの強い反発を招くことになる。

3-2. クーデターの勃発:忠義のための「裏切り」

主君・豊国の降伏決断に対し、中村春続は重臣筆頭の森下道誉(もりした どうよ)らと共に猛烈に反対した 4 。彼らにとって、織田への降伏は毛利との盟約を破る裏切りであり、「因幡に生きて因幡に死ぬ、それが毛利に仕えてきたわれわれの矜持ではないか」という武士としての名誉を汚す行為であった 3 。議論は平行線を辿り、ついに春続らは実力行使に出る。彼らは降伏を受け入れようとする主君・山名豊国を城から追放するという、前代未聞のクーデターを断行したのである 16

この行動は、織田方や後世の視点から見れば、紛れもなく「主君への裏切り」である。しかし、春続らの論理においては、これは私利私欲によるものではなく、毛利氏との同盟関係という公的な約束を守り、因幡の独立を維持するための、いわば「忠義のための裏切り」であった。主君個人の判断よりも、国衆全体の利害と武士としての信義を優先した、苦渋の決断であったと言える。

3-3. 新城主の招聘と毛利方への完全な帰属

主君を追放した春続ら因幡国人衆は、直ちに毛利氏に対し、鳥取城を守るにふさわしい新たな城主の派遣を要請した 16 。この異例の要請に応え、毛利家は吉川元春の一族であり、文武に優れた武将として知られた石見国福光城主・吉川経家(きっかわ つねいえ)を派遣することを決定する。

天正9年(1581年)3月18日、吉川経家は鳥取城に入城した 18 。この時、彼は自らの首を入れるための首桶を持参したと伝えられており、死を覚悟してこの難局に臨むという悲壮な決意を示していた 19 。経家の入城により、鳥取城と因幡国人衆は名実ともに毛利氏の指揮下に入り、織田氏との全面対決はもはや避けられない運命となった。

この一連の出来事における春続と豊国の対立は、単なる政策上の意見の相違に留まらない。それは、戦国乱世を生き抜くための二つの異なる哲学の衝突であった。春続は、毛利との信義を貫くという「原則」のために、主君追放と徹底抗戦という道を選んだ。これは武士としての「名誉」を何よりも重んじる価値観である。一方、追放された山名豊国は、その後も巧みな外交術を駆使して織田、豊臣、徳川と渡り歩き、最終的に近世大名ではないものの、交代寄合として家名を幕末まで存続させることに成功する 12 。彼の行動は、一見すると節操のない日和見主義に見えるが、結果として一族の存続という最大の目的を果たした、冷徹な「現実主義」の勝利と評価することもできる。春続の選択は、彼自身と鳥取城に未曾有の悲劇をもたらした。豊国の選択は、武士としての名誉を一時的に損なったかもしれないが、一族を救った。春続の悲劇は、彼の信じた原則主義が、時代の大きな奔流の前ではあまりにも脆く、破綻したことを示している。

第四章:鳥取城の悲劇 ―「渇え殺し」と籠城戦

中村春続らが吉川経家を新城主として迎えたことで、鳥取城の抗戦の意思は明確となった。しかし、その決断は、日本戦史史上でも類を見ない、凄惨を極める籠城戦の幕開けを意味していた。

4-1. 羽柴秀吉の周到な兵糧攻め

天正9年(1581年)7月、羽柴秀吉は2万ともいわれる大軍を率いて再び因幡に来襲し、鳥取城を完全に包囲した 19 。秀吉は、前年の失敗と、春続らによるクーデターで城が徹底抗戦の拠点と化したことを受け、軍師・黒田官兵衛の献策に基づき、力攻めを避ける戦術を選択した。それが、世に言う「鳥取の渇え殺し」である 15

その手口は、極めて周到かつ残忍であった。まず、本格的な包囲に先立ち、若狭国の商人などを通じて因幡国内の米を平時の数倍という高値で買い占めさせ、城内の兵糧備蓄を意図的に枯渇させた 15 。鳥取城側は、この異常な高値に釣られて備蓄米を売り払ってしまい、いざ籠城という段階で深刻な兵糧不足に陥っていた。さらに秀吉は、城下の村々を襲撃して焼き払い、行き場を失った2000人以上ともいわれる領民や非戦闘員を、意図的に城内へと逃げ込ませた 15 。これは、限られた兵糧を大人数で消費させることで、飢餓状態を早めるための非情な策略であった。

春続らのクーデターは、鳥取城の抗戦意思を先鋭化させた。しかし、この「先鋭化」こそが、秀吉に「生半可な攻撃では落ちない。徹底的に叩き潰し、見せしめにする必要がある」と判断させ、単なる攻略戦ではなく「渇え殺し」という残忍な戦術を選択させる直接的な引き金となったのである。もし山名豊国の方針通りに降伏していれば、鳥取城は織田の支配下に入ったであろうが、これほどの地獄絵図は避けられた可能性が高い。皮肉にも、因幡を守るために下した春続の決断が、因幡史上最大の悲劇を招き寄せてしまった。良かれと思っての行動が、最悪の結果を招くという歴史の非情さがここにある。

4-2. 地獄絵図と化した城内

秀吉の策略は、恐るべき効果を発揮した。籠城開始からわずか数ヶ月で城内の兵糧は完全に底をつき、鳥取城は生き地獄と化した 22 。城兵や領民は、まず牛馬を食らい、それが尽きると城内に生える草木の根や葉を食べ、ついには餓死した者の人肉にまで手を出すという、凄惨な状況に陥ったと『信長公記』などの史料は伝えている 25

この絶望的な状況下にあって、中村春続は城主・吉川経家、同僚・森下道誉らと共に、因幡国人衆の筆頭格として籠城軍の士気を鼓舞し、指揮を執り続けた 18 。ある記録では、槍術に優れた春続が、にわか仕立ての農民兵たちに檄を飛ばし、鼓舞していた様子が描かれている 27

4-3. 援軍の断絶と開城決断

城外では、吉川元春率いる毛利の主力部隊が、鳥取城を救うべく西から進軍していた。しかし、秀吉が鳥取城を囲むように築いた総延長12キロにも及ぶ厳重な包囲網と付城群に阻まれ、援軍は城の西方約40キロの地点で進軍を止められてしまい、ついに城へ到達することはできなかった 22 。日本海からの海路による兵糧輸送も、秀吉方の水軍によってことごとく阻止され、鳥取城は完全に孤立無援となった。

二百日に及ぶ籠城の末 19 、もはや戦の継続は不可能であり、これ以上城内の人々を飢餓地獄に晒すことはできないと判断した城主・吉川経家は、ついに降伏を決断する。彼は、自らの命と引き換えに、城兵と領民全員の助命を嘆願した 15

第五章:最期と断罪 ―「裏切りの罪」と武士の意地

二百日間の地獄を耐え抜いた鳥取城であったが、その終わりは、勝者による冷徹な政治的判断によって定められた。中村春続の信じた「忠義」は、勝者の論理によって「罪」として裁かれることになる。

5-1. 秀吉の過酷な降伏条件

城主・吉川経家からの降伏の申し出に対し、羽柴秀吉はその武勇と籠城戦での見事な指揮を高く評価し、「経家殿の命までは取るまい」と、彼自身の助命を示唆した 19 。経家が毛利本家の一族であり、この戦いの直接的な原因を作ったわけではない「客将」であることを考慮した、政治的な配慮であった。

しかしその一方で、秀吉はクーデターの首謀者であった中村春続と森下道誉の二人に対しては、一切の助命を認めず、切腹を厳命した 19 。城兵の助命は認めるが、首謀者の責任は厳しく問うという、峻別した降伏条件を突きつけたのである。

5-2. 断罪の理由:「戦乱を招いた罪」と「主君への裏切りの罪」

秀吉が春続らの切腹を強硬に要求した理由は、明確であった。それは、「因幡一国に戦乱を招いた罪」、そして「主君(山名豊国)への裏切りの罪」である 1 。春続らの行動原理が毛利方への「忠義」や因幡武士としての「矜持」にあったとしても、天下統一を進める織田政権の秩序から見れば、それは許されざる反逆行為であった。特に、主君を追放してまで抵抗を続けたという事実は、織田の支配体制に対する直接的な挑戦と見なされ、見せしめとして厳罰に処す必要があった。

春続の最期は、戦国時代において「正義」や「忠義」がいかに相対的な概念であり、最終的には勝者の論理によって一方的に規定されるかという、冷徹な現実を突きつけている。彼の死は、単なる一敗将の死ではない。それは、一つの価値観が、より強大なもう一つの価値観によって断罪され、抹殺される過程そのものであった。

5-3. 潔き最期

吉川経家は、秀吉からの助命の提案を毅然として拒否した。「敗軍の将、責めを負うは当然」として、自らも腹を切る意志を固く示した 19 。彼は死に臨んで、最後まで共に戦った春続と道誉の助命を重ねて嘆願したが、秀吉の決定が覆ることはなかった 1

天正9年10月24日(西暦1581年11月20日)の夜、中村春続は、自らが城主として仰いだ吉川経家が自刃を遂げたのと同じ陣所にて、森下道誉と共に静かに切腹して果てた 1 。享年は不明。自らの信念を貫いた末の、壮絶な最期であった。

終章:後世への影響 ― 子孫と記録

中村春続の生涯は、鳥取城の露と消えた。しかし、彼の存在が歴史から完全に抹消されたわけではない。彼の子孫や一族に関する断片的な記録は、戦国から近世への移行期を武士たちがどのように生き抜いたかを示す、貴重な証言となっている。

6-1. 中村一族のその後

春続の死後、鳥取城内にいたとされる彼の息子は、敵方であったにもかかわらず保護され、後に吉川氏の家臣となったと伝えられている 1 。これは、父の忠節に殉じた姿が武士として評価された結果か、あるいは吉川経家の遺志を汲んだ毛利方の温情であったのかもしれない。

また、春続の弟とされる春国は、兄とは異なる道を歩んだ。『中村家譜』によれば、春国は医術を学び、同じく吉川氏に50石で召し抱えられたという 1 。武士としての道を絶たれた、あるいは見限った一族が、専門技能を持つ「医者」として新たな主君に仕え、家名を繋いだという事実は、戦国乱世から泰平の世へと移行する時代における、武家の多様な生き残り戦略を示す興味深い一例である。さらに、江戸時代に入ってからは、中村氏の子孫が鳥取藩主となった池田氏に仕えたという伝承も残されている 5

6-2. 「中村文書」の謎

現在、東京大学史料編纂所には、因幡中村氏に関連するとされる「中村文書」(橘中村文書とも呼ばれる)が、影写本(原本を書き写したもの)として所蔵されている 5 。この古文書群と中村春続との直接的な関係は現時点では不明であるが、彼が生きた時代の因幡国人衆の動向や社会状況を解明する上で、将来的に重要な情報をもたらす可能性を秘めた貴重な史料である。

6-3. 歴史的評価の総括

中村春続は、今日、悲劇の英雄として語り継がれる吉川経家の物語において、彼を鳥取城という死地へと導いた、重要な脇役として記憶されることが多い。しかし、彼の生涯は、単なる悲劇の導入部として片付けられるべきではない。それは、巨大な権力の奔流に抗い、自らの信じる「忠義」を貫こうとして、結果的に破滅した一人の武将の、等身大の生き様そのものである。

彼の決断と行動を、彼が追放した主君・山名豊国のその後のしたたかな生涯と対比するとき、戦国時代における武将の多様な価値観と生存戦略が、より一層立体的に浮かび上がってくる。名誉のために滅びる道を選んだ春続と、汚名を着てでも家名を存続させた豊国。どちらが正しく、どちらが間違っていたと断じることは容易ではない。中村春続の悲劇的な生涯は、時代を超えて、我々に「乱世における正義とは何か」「組織と個人の忠誠はいかにあるべきか」という、根源的な問いを投げかけ続けているのである。

引用文献

  1. 中村春續- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%98%A5%E7%BA%8C
  2. 中村春続 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%98%A5%E7%B6%9A
  3. 麒麟の将 〜鳥取城血戦篇〜 吉川経家 vs 羽柴秀吉 序幕「天正九年十月」 https://tottorihan.net/secret/%E9%BA%92%E9%BA%9F%E3%81%AE%E5%B0%86%EF%BD%9E%E9%B3%A5%E5%8F%96%E5%9F%8E%E8%A1%80%E6%88%A6%EF%BD%9E%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%B5%8C%E5%AE%B6x%E7%BE%BD%E6%9F%B4%E7%A7%80%E5%90%89%E3%83%BB%E5%BA%8F%E5%B9%95/
  4. 【伯耆国人物列伝】 中村春続 https://shiro-tan.jp/history-n-nakamura-harutsugu.html
  5. 中村氏 (因幡国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B0%8F_(%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E5%9B%BD)
  6. 草刈衡継 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%88%88%E8%A1%A1%E7%B6%99
  7. 『武田氏一族の群像」 有力武田分家。 川村一彦 | 歴史の回想の https://plaza.rakuten.co.jp/rekisinokkaisou/diary/202404250008/
  8. 草も木もなびかせた戦国武将 - 紀行歴史遊学 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2023/03/%E6%AD%A6%E7%94%B0.html
  9. 草刈景継 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%88%88%E6%99%AF%E7%B6%99
  10. 中村氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B0%8F
  11. とっとりの乱世―因幡・伯耆からみた戦国時代― | 三朝館- 三朝温泉 源泉かけ流しの宿【公式】 https://www.misasakan.co.jp/news/76/
  12. 【著者インタビュー】裏切りと政略で戦国を生き抜いた武将の ... https://www.bookbang.jp/review/article/710400
  13. 敗者には敗者の訳がある――悪評高い戦国武将・山名豊国を現代的な視点から再評価する、吉川永青の歴史小説 | レビュー | Book Bang https://www.bookbang.jp/review/article/710148
  14. 鳥取城 - K.Yamagishi's 城めぐり http://shiro.travel.coocan.jp/07chugoku/tottori/index.htm
  15. 鳥取城の戦い古戦場:鳥取県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tottorijo/
  16. “鳥取城攻め” 羽柴秀吉は丸山城から進軍 | お城山展望台 河原城 (鳥取県鳥取市河原町) https://www.kawahara-shiro.com/history/history2
  17. 平成16年(2004)11月に1市8町村の広域合併を行い、現在の枠組みとなった本市 - において、現在まで調査研究に基づいて総括的に取りまとめた鳥取市史は作成されてい https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1661481135284/files/dai2syou_2.pdf
  18. 天正9年鳥取城攻めと豊臣期の因幡をめぐる | 鳥取市歴史博物館 やまびこ館 https://www.tbz.or.jp/yamabikokan/ouchi/tenshonine/
  19. なぜ吉川経家の事を語るとき、鳥取の人は泣きながら話すのか。 - note https://note.com/foodanalyst/n/n15c76ae5e7a8
  20. 因幡國 吉川経家墓所 (鳥取県鳥取市 - FC2 http://oshiromeguri.web.fc2.com/inaba-kuni/tsuneiebosyo/tsuneiebosyo.html
  21. 現代なら大人気だったかもしれない? 山名豊国に毛利隆元、「武士 ... https://san-tatsu.jp/articles/324124/
  22. 幻の一大決戦!秀吉vs毛利 ~真説「鳥取城の戦い」~を巡る ... https://www.torican.jp/feature/eiyu-sentaku-tottorijou
  23. 地獄絵図の虐殺!日本史上稀に見る鬼畜戦略、豊臣秀吉による「鳥取の飢え殺し」とは? | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/179578/2
  24. 【漫画】食料ゼロの籠城戦~鳥取の飢え殺し~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ZaVv1zJzXX4&pp=0gcJCfwAo7VqN5tD
  25. 吉川経家が城兵の助命と引き換えに腹を切った鳥取城登城 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10393517
  26. Untitled - 鳥取市 https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1432278469689/files/tottorijyo_01.pdf
  27. 麒麟の将 〜鳥取城血戦篇〜 吉川経家 vs 羽柴秀吉 第二話「槍と飯と桶と狸」 https://tottorihan.net/secret/%E9%BA%92%E9%BA%9F%E3%81%AE%E5%B0%86%E3%80%80%E3%80%9C%E9%B3%A5%E5%8F%96%E5%9F%8E%E8%A1%80%E6%88%A6%E7%AF%87%E3%80%9C-%E3%80%80%E3%80%80%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%B5%8C%E5%AE%B6-vs-%E7%BE%BD%E6%9F%B4/
  28. 切り絵で見る「天正9年鳥取城をめぐる攻防」(6) | 鳥取市歴史博物館 やまびこ館 https://www.tbz.or.jp/yamabikokan/ouchi/kirie-tenshonine01/kirie-tenshonine06/
  29. 複製資料北海道・関東 - 広島県立文書館(もんじょかん) https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/monjokan/sub10-18.html
  30. 電子くずし字字典データベース(文字検索) - 東京大学 https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w34/detail/34110900?dispid=disp02