本報告書は、戦国時代の伊達家において、当主三代(稙宗、晴宗、輝宗)にわたりその権力の中枢で絶大な影響力を行使し、最終的に謀叛人として没落した武将、中野宗時(なかの むねとき)の生涯を包括的に分析するものである。宗時の名は、伊達家の歴史において、主君を凌駕するほどの権勢を誇った家臣、そして悲劇的な末路を辿った裏切者として刻まれている。しかし、その生涯は単なる一個人の栄枯盛衰の物語に留まらない。それは、戦国大名家が守護大名体制から脱却し、より強固な中央集権体制を構築しようとする過渡期に、必然的に生じる旧来の有力家臣層との深刻な緊張関係を象徴する、極めて重要な事例である。
本報告書では、提供された各種資料を精緻に分析・統合することにより、宗時の出自から権力掌握の過程、その権勢の実態、そして「王を創りし者(キングメーカー)」から一転して追われる身となるに至った力学を、伊達家の政治構造の変遷というより大きな文脈の中に位置づけることを目的とする。宗時という一人の権臣の生涯を丹念に追うことは、伊達家の歴史のみならず、戦国時代の武家社会における主君と家臣の関係性の複雑さ、そして「忠誠」という概念の可変性を理解する上で、重要な示唆を与えるであろう。
中野宗時が歴史の表舞台でその辣腕を振るう以前、彼の前半生は、一族の栄光と挫折という光と影の中で形作られていた。彼が後に見せる並外れた権力への執着と大胆な行動は、この時期の経験に深く根差していると考えられる。
【表1】中野宗時 関連年表
年号(西暦) |
中野宗時の動向 |
関連する伊達家の動向 |
関連人物の動向 |
生誕年不詳 (推定1501年頃) |
陸奥国置賜郡にて生誕 1 |
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天文5年 (1536) |
伊達稙宗の家老として分国法『塵芥集』に連署 3 |
伊達稙宗が『塵芥集』を制定 4 |
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天文11年 (1542) |
桑折景長らと嫡男・晴宗を擁立し、稙宗を幽閉 2 |
天文の乱が勃発 |
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天文17年 (1548) |
晴宗方の参謀として乱の勝利に貢献 |
天文の乱が終結。晴宗が家督を継ぎ、米沢に本拠を移す 5 |
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天文22年 (1553) |
晴宗より多大な所領と「惣成敗職」の特権を与えられる 3 |
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弘治元年 (1555) |
晴宗の左京大夫任官に奔走 3 |
晴宗が左京大夫に任官 |
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永禄7年 (1564) |
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伊達輝宗が家督を相続 6 |
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永禄13年/元亀元年 (1570) |
輝宗に対し謀叛を企てるも露見(元亀の変)。小松城に籠城後、敗走 3 |
輝宗が宗時追討軍を派遣 |
遠藤基信、新田景綱らが謀叛を密告 1 。亘理元宗が宗時軍を迎撃 6 |
死没年不詳 (推定1571年頃) |
相馬領、会津などを流浪の末に死去 3 |
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中野氏は、陸奥国置賜郡屋代郷(現在の山形県高畠町)を本拠とした一族であったとされる 1 。宗時の祖父である閑盛は、伊達家の国老、すなわち家老クラスの重臣を務めるほどの有力者であった 1 。この事実は、中野家が本来、伊達家中で名門として重きをなしていたことを示している。
しかし、宗時の父の代に、一族は大きな転機を迎える。何らかの罪によって所領を没収されるという事態に見舞われたのである 1 。この一族の失脚は、宗時の人格形成と行動原理を理解する上で極めて重要な背景となる。かつて国老を輩出した名家の誇りと、所領を失った屈辱。この二つが、彼の内面に強烈な上昇志向を植え付けたことは想像に難くない。安定した地位を約束されたエリートではなく、失われた名誉と実利を自らの手で取り戻さねばならないという「ハングリー精神」こそが、宗時を動かす原動力であった。彼が後に見せる権力への執着は、単なる個人的な野心に留まらず、「失われた一族の栄光の回復」という悲願に根差していた可能性が高い。
一族が一時的に没落したにもかかわらず、中野宗時はその才覚によって伊達家中で再び頭角を現す。そのことを明確に示すのが、天文5年(1536年)の出来事である。この年、伊達家14代当主・伊達稙宗は、領国支配を強化するため、戦国時代の分国法として名高い『塵芥集』を制定した 4 。この伊達家の最高法規の制定にあたり、宗時は長男の親時と共に、家老評定人として連署者に名を連ねている 2 。
この事実は、彼が稙宗政権下において、既に伊達家の最高意思決定機関の一員たる宿老の地位にあり、当主から厚い信頼を得ていたことを証明している。しかし、この事績には注目すべき逆説が潜んでいる。『塵芥集』は、家臣団の権限を抑制し、大名による一元的な支配、すなわち中央集権化を推し進めるための法典であった 5 。宗時は、その制定に深く関与した、いわば稙宗体制の「内部者」であった。
体制の内部にいたからこそ、彼はその政策の理念と目的を熟知していた。そして同時に、その強権的な政策が家臣団の間にどのような不満や歪みを生み出しているのかを、誰よりも的確に把握することができた。彼が後に稙宗に対して反旗を翻す際、その反乱は外部からの闇雲な挑戦ではなく、体制の強みと弱点を熟知した内部者による、極めて計算されたクーデターとしての性格を帯びることになる。稙宗の信頼を得てその中央集権化政策を支えた人物が、やがてその政策の矛盾を突き、体制そのものを転覆させるという皮肉な運命が、この時点で既に萌芽していたのである。
伊達家の歴史、ひいては南奥州の勢力図を根底から揺るがした「天文の乱」。この巨大な内乱において、中野宗時は単なる一参加者ではなく、シナリオを描き、主役を立て、自らが望む結末へと導いた紛れもない主役の一人であった。
天文の乱の直接的な原因は、伊達稙宗が推し進めた過度な拡大政策にあった。稙宗は、自らの子弟を周辺大名へ養子や婿として送り込む婚姻外交を積極的に展開し、巨大な姻戚関係ネットワークを築き上げようとした 2 。しかし、この政策は、養子縁組に伴う家臣団の割譲や兵力の提供を求めるものであり、伊達家の家臣たちに大きな負担と将来への不安を強いるものであった 6 。
家中の不満が沸点に達したのが、天文11年(1542年)の越後守護・上杉定実への養子問題である。稙宗は三男の時宗丸(後の伊達実元)を定実の養子として越後へ送り込もうと画策した 3 。これは、伊達家の貴重な戦力である精鋭兵100騎を時宗丸に付けて越後へ送ることを意味し、多くの家臣が国力の流出であるとして猛反対した。この決定的な対立が、宗時にとって千載一遇の好機となった。
家中の不満が最高潮に達する中、中野宗時は同じく稙宗の政策に批判的であった重臣・桑折景長と結託する 3 。彼らは、稙宗の嫡男でありながら父の政策から疎外されていた伊達晴宗に接近し、クーデターの旗印として擁立することを画策した。史料が一貫して、宗時が「晴宗を擁立し」 6 、あるいは「晴宗を説いて」 3 乱を引き起こしたと記述している点は重要である。これは、晴宗が自発的に行動したというよりも、宗時が家中の不満を巧みに利用し、正当な後継者である晴宗を神輿として担ぎ上げることで、自らの政治的野心を達成しようとした構図を強く示唆している。
そして同年6月、宗時らはついに実力行使に出る。鷹狩りから帰城した稙宗を居城の西山城に急襲し、その身柄を拘束、幽閉したのである 1 。父子間の対立は、宗時という策略家の手によって、南奥州の諸大名を巻き込む6年半にも及ぶ大乱「天文の乱」へと発展した。
乱が始まると、宗時は晴宗方の中心的な参謀として、その知略を遺憾なく発揮する 1 。彼は軍事戦略の立案だけでなく、敵方の切り崩しや味方の結束を固めるための調略においても奔走し、晴宗方を勝利へと導く最大の功労者となった。
天文17年(1548年)、室町幕府13代将軍・足利義輝の仲介によって乱は終結。晴宗は正式に伊達家15代当主の座に就き、本拠地を父の時代の桑折西山城から米沢城へと移した 2 。この新体制において、当主を創り出した宗時の権勢は、もはや誰も揺るがすことのできない絶対的なものとなっていた。乱の勝利によって、晴宗は宗時に対して極めて大きな「政治的負債」を負うことになり、この力関係が、その後の晴宗政権下における宗時の異例なまでの権力掌握を正当化する根拠となったのである。
天文の乱の勝利により、中野宗時は伊達家中で比類なき地位を確立した。晴宗政権下で彼が手にした権力は、単なる重臣のそれを遥かに超え、当主の権威すら脅かしかねないほどの強大なものであった。この時代が、宗時の生涯における絶頂期であり、同時に後の没落に繋がる「専横」の時代でもあった。
乱の終結から5年後の天文22年(1553年)、宗時は主君・晴宗から、その功績に対する破格の恩賞を与えられる。多大な所領の加増に加え、彼の権勢を象徴する特権が認められた 3 。それが、名取庄や伊具郡五十沢など四つの郷における「惣成敗職(そうせいばいしき)」への任命である 3 。
この「惣成敗職」という地位は、単なる領地の支配権とは次元が全く異なる。それは、当該地域における伊達当主の統治権、すなわち裁判権、警察権、そして徴税権といった公権力そのものを、宗時が代行することを公式に認めるものであった 5 。これにより、その地域の国人や地侍たちは、伊達当主ではなく中野宗時に直接服属し、彼の裁定に従うことになった。これは事実上、宗時が伊達家の公式な統治機構とは別に、自身を頂点とする巨大な私的勢力圏、いわば「国家内国家」を形成することを可能にした。この伊達家の統治構造そのものを歪めかねない強大な権限こそが、宗時の権勢の源泉であり、次代の輝宗政権下で「専横」と見なされ、粛清の直接的な原因となるのである。
宗時は、自らが獲得した権力をさらに盤石なものとするため、巧みな閨閥戦略を展開した。その最たるものが、自身の二男・久仲を、伊達家累代の宿老を輩出する名門・牧野家へ養子として入嗣させたことである 3 。これは実質的な牧野家の乗っ取りであり、宗時が伊達家臣団の序列や家格すら自在に操る力を持っていたことを如実に示している。
この縁組により、中野一族は伊達家中で政治的・軍事的に絶大な影響力を持つ二大派閥を形成するに至った。父・宗時が当主の代理人として広大な地域を支配し、子・久仲が伝統ある宿老の家を継ぐ。この盤石な体制は、宗時の権勢を絶対的なものにし、他の家臣が容易に口を挟むことを許さない状況を作り出した。
宗時の影響力は、領内の権力闘争に留まらなかった。彼は伊達家の「顔」として、外交や朝廷・幕府との交渉においても中心的な役割を果たした。弘治元年(1555年)に晴宗が左京大夫の官位を得た際や、その子・輝宗が将軍・足利義輝から「輝」の一字を拝領して元服した際には、いずれも宗時とその子・親時が幕府との交渉に奔走している 3 。
さらに永禄年間には、関東の雄・北条氏康のもとへ使者として赴くなど、大大名との外交交渉の表舞台でも活躍した 3 。これらの事実は、宗時が単なる地方の有力武将ではなく、伊達家の内政・外交を統括する、事実上の宰相として君臨していたことを物語っている。彼が築き上げた権力は、晴宗政権そのものと不可分であり、晴宗の治世は宗時の治世でもあったと言っても過言ではなかった。
栄華を極めた中野宗時の権勢にも、やがて落日の影が差し始める。その引き金となったのは、伊達家の世代交代であった。新しい当主・輝宗の登場は、宗時が築き上げた権力構造との間に、避けられない軋轢を生み出していく。
永禄7年(1564年)、伊達晴宗は嫡男の輝宗に家督を譲って隠居した。しかし、隠居後も晴宗は依然として大きな影響力を保持しており、それに伴い宗時の権勢もすぐには衰えなかった 1 。だが、若き新当主・輝宗は、父の時代とは異なる領国経営のビジョンを抱いていた。彼が目指したのは、天文の乱の恩賞として肥大化した有力家臣の権力を抑制し、大名を中心とした一元的で強固な中央集権体制を確立することであった 2 。
この輝宗の政策方針は、晴宗政権の最大の受益者であり、その分権的な権力構造の象徴そのものであった中野宗時と、根本的に相容れないものであった。輝宗にとって、旧体制の権化である宗時の影響力を排除することは、自らの治世を真に確立するための避けては通れない最重要課題であった。こうして、新旧の権力者の間には、静かだが決定的な対立の構図が生まれていった。
この新旧権力の対立において、極めて重要な役割を果たしたのが、遠藤基信という一人の人物である。基信はもともと、中野宗時にその才知を見出されて仕えることになった陪臣(家臣の家臣)に過ぎなかった 2 。
権勢を誇る宗時は、新当主の輝宗を軽んじ、しばしば出仕を怠ることがあったという 12 。その際、宗時は自らの代理として、あるいは輝宗への連絡役や監視役として、有能な基信を輝宗のもとへ送り込んだ 10 。しかし、これが宗時にとって最大の失策となる。
この状況は、輝宗と基信が、宗時を介さずに直接コミュニケーションを取る機会を恒常的に生み出した。輝宗は、旧弊の象徴である尊大な宗時よりも、有能で忠実な側近となりうる基信に、自身の新しい政治を実現するためのパートナーとしての価値を見出した 7 。宗時は基信を便利な「手駒」であり「自分の代理人」と見なしていたが、輝宗は彼を自らに直属する「腹心」へと巧みに育て上げていったのである。主君と直接的な信頼関係で結ばれた陪臣は、もはや元の主人のコントロール下にはない。結果として、宗時が自ら輝宗のもとへ送り込んだ代理人によって、自身の権力基盤が内側から静かに、しかし確実に切り崩されていくという、痛烈な皮肉が生まれた。これは、古い権力者が新しい権力者との関係構築を怠り、中間層の人物の動向を見誤った、典型的な失敗例であった。
自らが引き立てたはずの遠藤基信が、輝宗の側近として重用され、伊達家の政治の中枢で辣腕を振るい始める。その一方で、自らの影響力は日に日に削がれていく。この状況に、宗時は強い疎外感と、単なる嫉妬を超えた深刻な危機感を抱いたに違いない 3 。
彼にとって、この変化は単なる地位の低下ではなかった。それは、天文の乱以来、人生を賭けて築き上げてきた自らの権力構造全体の崩壊を意味した。このまま座して権力を奪われるのを待つか、あるいは最後の大勝負に打って出るか。追い詰められた宗時が選んだのは後者であった。輝宗の権力そのものを奪取し、再び伊達家を自らの意のままに操ろうとする、元亀元年(1570年)の謀叛計画へと、彼は突き進んでいくことになる 3 。
権力の座から滑り落ちつつあった中野宗時が、起死回生を賭けて起こした謀叛、すなわち「元亀の変」。しかし、この最後の賭けは無残な失敗に終わり、彼の栄光に満ちた半生に、悲劇的な終止符を打つことになる。
永禄13年、元号が元亀と改まったばかりの年(1570年)の4月、宗時は子の牧野久仲ら一族と共に、輝宗に対する謀叛を具体的に計画する 3 。しかし、その計画は実行に移される前に、輝宗側の知るところとなった 5 。
計画の露見には、一族の内部からの密告が関わっていた。宗時は、自身の孫娘を妻としていた新田景綱の子・義直を謀叛に誘った 13 。板挟みになった義直は、父・景綱にこの計画を打ち明ける。話を聞いた景綱は、即座に遠藤基信と連携し、輝宗にこの一大事を密告したのである 1 。これにより、宗時の計画は完全に頓挫した。
全てを失った宗時と久仲は、久仲の居城である出羽国長井庄の小松城(現在の山形県川西町)に立て籠もり、最後の抵抗を試みた 3 。
報告を受けた輝宗の動きは迅速であった。彼は直ちに追討軍を編成し、小松城へと派遣した。追討軍の先鋒には、謀叛を密告した新田景綱や、かつて宗時と共に天文の乱を戦った小梁川氏らが任じられた 1 。かつての同志が、今や敵として牙を剥く。宗時の孤立は決定的であった。
衆寡敵せず、宗時は小松城を支えきれないと判断し、かねてより誼のあった隣国の相馬盛胤を頼っての逃亡を決意する 6 。彼は二井宿峠を越え、相馬領へと続く三陸海岸側へと向かった。その道中、高畠城主の小梁川氏、白石城主の白石氏、角田城主の田手氏らは、いずれも宗時と旧知の間柄であったため、その軍勢の通過をあえて見逃した 6 。しかし、これは積極的な加担ではなく、輝宗を敵に回すことを恐れた日和見的な態度に過ぎず、宗時に味方する者は誰一人としていなかった。
そして、逃避行の終着点は目前であった。しかし、松川の渡し場(現在の宮城県蔵王町宮)で、宗時らを待ち構えていた軍勢がいた。亘理城主・亘理元宗である。元宗は輝宗の命を受け、宗時らの退路を完全に遮断していた。不意の攻撃を受けた中野勢は為す術もなく壊滅し、宗時と久仲らは、わずかな供回りだけを連れて、文字通り身一つで辛うじて相馬領へと逃げ延びた 6 。
相馬領に落ち延びた宗時と久仲は、なおも帰参の望みを捨てていなかった。彼らは、隠居の身であった前当主・晴宗や、伊達一門の重鎮である伊達実元を介して、輝宗に赦免を乞い願った 3 。しかし、輝宗の意志は固かった。彼は、自らの権威に正面から反旗を翻した宗時を断固として許さなかったのである 8 。
頼みの綱であった相馬氏も、伊達氏との全面的な対立を恐れ、宗時らを庇護しきれなくなったとみられる。伊達家への帰参も叶わず、相馬領にも安住の地を見出せなくなった宗時は、その後、会津など各地を流浪した末、困窮のうちにその生涯を閉じたと伝えられている 3 。その正確な死没年や場所を記す史料はなく、かつて奥州にその名を轟かせた権臣は、歴史の闇の中へと静かに消えていった。
中野宗時の没落は、単に一人の家臣が粛清されたという出来事に留まらない。それは伊達家の権力構造を根底から変革し、次なる時代への扉を開く重要な転換点となった。皮肉にも、宗時という巨大な存在の消滅が、伊達家の未来にとって最も価値ある「遺産」となったのである。
「元亀の変」によって、天文の乱以来、伊達家中に君臨し続けた最大の実力者である中野一族が排除されたことで、輝宗の権力基盤は飛躍的に安定した 15 。晴宗と宗時という、ある種の二重権力構造とも言える不安定な体制に終止符が打たれ、大名に権力を一元化するという輝宗の政治目標が達成されたのである 5 。
この一連の出来事は、伊達家が戦国大名としてより強固な一段階へと進化するための、いわば「創造的破壊」であった。宗時の存在そのものが旧体制の象徴であり、彼を排除することなくして、輝宗、そしてその子・政宗の時代は到来し得なかった。家中の権力闘争にエネルギーを割く必要がなくなった輝宗は、対外的な活動に集中することが可能となった。
そして、宗時に代わって伊達家の政治を名実ともに取り仕切るようになったのが、遠藤基信である 2 。輝宗の絶対的な信頼を得た基信は、筆頭家老として内政・外交に辣腕を振るい、特に織田信長との外交を積極的に推進するなど、輝宗の中央集権化と勢力拡大政策を強力に支えた 10 。宗時の排除によって確立された輝宗の安定政権と、遠藤基信による効率的な統治システムは、やがて伊達政宗が家督を継いだ際に、彼が奥州統一へと邁進するための強固な土台となった。宗時という巨大な障害を取り除いたことが、伊達家が次の黄金期を迎えるための最大の布石となったのである。
宗時と久仲の失脚により、中野氏の嫡流は事実上断絶した。しかし、その血脈が伊達家から完全に消え去ったわけではない。伊達家は、謀叛の首謀者である宗時親子は決して許さなかったものの、連座の範囲を限定的にとどめ、一族の有能な人材は再登用するという現実的な対応を見せている。
輝宗の子・政宗の代になると、家臣の中に中野時綱という人物の名が見える。彼は宗時の末子か、あるいは孫と推測されており、その子孫は瀬上氏や片平氏として伊達家に仕え続けた 6 。また、宗時の孫にあたる牧野為仲(久仲の子)も、後に政宗に許されて家臣団に復帰している 6 。これは、戦国武家社会における主家の柔軟な人材活用の一例を示すものである。
後世、特に江戸時代の仙台藩の公式な歴史観において、中野宗時は「晴宗を唆して天文の乱を引き起こした姦臣」であり、その「専横が輝宗との対立を招いた」と、否定的に位置づけられることが多かった 18 。これは、輝宗・政宗による中央集権化を正当化するための歴史解釈であったと言える。
しかし、彼の行動を戦国時代という文脈の中に置いて再評価すれば、異なる側面が見えてくる。彼の行動は、主家乗っ取りや下剋上が日常茶飯事であった当時において、決して特異なものではない。彼は、自らが作り出した晴宗政権という旧来のシステムと、それに付随する自らの権益を守ろうとした結果、大名権力の一元化という新しい時代の潮流と正面から衝突し、敗れ去った人物と見ることもできる。
彼の生涯は、主君への「忠誠」という概念が、絶対的なものではなく、仕える当主の代替わりや政策転換によってその意味を大きく変えうるという、戦国時代の非情さを示している。この点をより明確にするため、他家の類似した立場の武将と比較してみたい。
【表2】権臣の類型比較:中野宗時と他の戦国武将
比較項目 |
中野宗時(伊達家) |
松田憲秀(後北条家) |
立花道雪(大友家) |
出自と家格 |
国老を輩出した名門だが、父の代で一時失脚 1 。自らの功績で権勢を確立。 |
北条早雲以来の譜代家老。家中筆頭クラスの知行を誇るエリート 19 。 |
大友氏の庶流。主家の一門であり、家中で極めて高い家格を持つ 22 。 |
主君との関係 |
稙宗に仕えるも、晴宗を擁立して実権を掌握 6 。輝宗とは対立し、謀叛 2 。 |
氏康・氏政・氏直の三代に宿老として仕える。主君との関係は比較的安定していた 19 。 |
義鑑・宗麟の二代に仕え、時に諫言しつつも生涯忠誠を貫いた 23 。 |
権力基盤 |
惣成敗職の特権により、準独立的な支配圏を形成 5 。子の牧野家入嗣で派閥を拡大 3 。 |
筆頭家老として軍事・外交の両面で重きをなし、多くの与力・同心を抱えた 21 。 |
軍事司令官としての圧倒的な実績と、主家一門という血筋が権威の源泉 22 。 |
新当主への対応 |
新当主・輝宗の中央集権化政策に反発し、権力維持のため謀叛を企てた 3 。 |
主家存亡の機に際し、豊臣方への内応を画策したとされる(真偽には異説あり) 20 。 |
若き主君・宗麟を時に厳しく指導・補佐し、その治世を支え続けた 23 。 |
末路 |
謀叛に失敗し、追討を受けて敗走。流浪の末に困窮死 3 。 |
内応が露見し、小田原開城後に豊臣秀吉の命により切腹させられた 20 。 |
筑後国の戦陣にて病死。敵味方からその死を惜しまれた 22 。 |
歴史的評価 |
伊達家の「姦臣」とされる一方、時代の変化に適応できなかった旧功臣の悲劇とも見なされる 18 。 |
主家を滅亡に導いた裏切者との評価が一般的だが、近年では再評価の動きもある 25 。 |
「忠臣」「義将」の鑑として、武士の理想像の一人と称えられる 24 。 |
この比較から明らかなように、中野宗時は後北条家の松田憲秀と同様、主家の代替わりという権力移行期に、新しい体制に適応できずに没落した類型に属する。一方で、大友家の立花道雪のように、主君を支え、導くことで自らの地位と名誉を全うした権臣も存在する。この運命の分岐点は、個人の資質もさることながら、主君との信頼関係の構築に成功したか否か、そして何より、自らの権力を主家の発展のために用いることができたか否かにあったと言えよう。
中野宗時の生涯は、類稀な政治的才覚で主君を動かし、伊達家中に絶大な権勢を誇った「権臣」の栄光と、時代の変化の波に乗り切れずに没落していく悲劇の物語である。彼の前半生は、失われた家の栄光を取り戻すための、計算され尽くした上昇の軌跡であった。天文の乱という大乱を自ら演出し、勝利することで、彼は伊達家臣団の頂点に立った。
しかし、彼が晴宗政権下で築き上げた強大な権力と分権的なシステムは、次代の主君・輝宗が目指す中央集権国家にとっては、打倒すべき旧弊そのものであった。彼の後半生は、自らが作り出したシステムと、新しい時代の潮流との間で引き裂かれ、追い詰められ、ついには滅び去っていく過程であった。
彼の栄枯盛衰は、いかなる権力も永続せず、時代の変化に適応できない者は淘汰されるという、歴史の冷徹な法則を我々に突きつける。伊達家の歴史において、彼は輝宗・政宗時代の礎を築くための「必要悪」として、あるいは時代の大きなうねりに翻弄された旧世代の巨人として、記憶されるべきであろう。その物語は、単なる裏切り者の一言で断罪できるほど単純ではなく、戦国という時代の複雑さと奥深さを映し出す、極めて示唆に富んだ事例として、後世に多くの問いを投げかけ続けている。