中院通為は戦国時代の公卿で、大臣家当主。京で文化人として栄達する一方、加賀の荘園経営に苦闘。死因は病死と焼死の二説あり、その生涯は戦国期公家の苦悩と文化継承の重要性を示す。
本報告書は、戦国時代を生きた一人の公家、中院通為(なかのいん みちため)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に掘り下げ、その実像に迫るものである。通為の名は、戦国大名のように広く知られているわけではない。しかし、彼の人生は、伝統的な権威がその実体を失い、新たな実力主義が社会を席巻した時代の矛盾と苦悩を、まさに一身に体現している。彼は単に「大臣家の当主」という静的な肩書に収まる人物ではなく、時代の激流の中で家の存続をかけて奮闘した、生身の人間であった。
応仁の乱(1467-1477年)以降、室町幕府の権威は失墜し、日本社会は構造的な変革期を迎えた。朝廷とそれを取り巻く公家社会も、その例外ではなかった。天皇や公家が有する権威は形式的なものとなり、その経済的基盤であった荘園は、守護大名や現地の国人、さらには一向一揆のような宗教勢力によって次々と侵食されていった 1 。収入の道を断たれた公家たちは、京都での伝統的な生活を維持することさえ困難になり、多くが経済的困窮に喘いだ 3 。中には、摂家筆頭の近衛家ですら、家領を返上して幕府から金銭を拝借しようと試みた例もある 3 。
このような状況下で、公家たちは自らの権益を守るために新たな行動を模索せざるを得なくなる。ある者は、侵食された荘園の年貢を確保するため、自ら危険な地方へ下向し、在地勢力との直接交渉や支配(直務支配)を試みた 1 。またある者は、失われた経済基盤を補うため、和歌や有職故実といった家学の知識を地方の武家に伝授することで、新たな庇護者を見出そうとした 4 。中院通為の生涯は、まさにこの二つの道を、極めて過酷な形で歩んだ一例であった。本報告書は、彼の人生の軌跡を丹念に追うことで、戦国時代という乱世における公家の生き様、そしてその時代そのものの深層を解明することを目的とする。
中院通為の行動と苦悩を理解するためには、まず彼が背負っていた「家」の重みを把握する必要がある。彼が生きた中院家は、単なる貴族の一家ではなく、朝廷内で確固たる地位を築いてきた名門であり、その血脈と格式は、通為の生涯を方向づける宿命ともいえるものであった。
中院家は、村上天皇の皇子・具平親王を祖とする村上源氏の嫡流、久我家の分家にあたる 5 。鎌倉時代初期、内大臣として権勢を誇った源通親(土御門通親)の五男、大納言・中院通方を家祖として創設された 7 。家名は、久我家の邸宅が中院町(現在の京都市内、六条室町あたり)にあったことに由来する 6 。
公家社会は、厳格な家格制度によって秩序づけられていた。その頂点に立つのが、摂政・関白を輩出する五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)である 9 。それに次ぐのが、太政大臣まで昇進可能な清華家、そしてその次が、中院家が属する「大臣家」であった 9 。大臣家は、内大臣を極官(その家が昇進できる最高の官職)とする家柄であり、正親町三条家(後の嵯峨家)、三条西家と並ぶ三家の一つに数えられた 6 。これは、公家全体の中でも上流に位置する高い格式であり、通為が朝廷内で重きをなす家柄の出身であったことを示している。
また、中院家は代々、有職故実(朝廷の儀式・作法に関する学問)や和歌を家業として受け継いできた 6 。鎌倉・南北朝時代には、通成、通重、通顕、通守といった当主が勅撰和歌集に入集する歌人として名を馳せ 7 、学問と文化の家としての伝統を築いていた。この伝統は、後の通為、そしてその息子・通勝の文化活動の素地となり、家のアイデンティティを形成する重要な要素であった。
通為の人物像は、彼を取り巻く家族関係からも浮かび上がってくる。彼の父は権中納言・中院通胤であった 11 。しかし、通為が家督を継ぐ以前、祖父・通世と父・通胤は、二代続けて家の経済的生命線である加賀国の荘園経営のために現地へ下向し、そのまま客死するという悲劇に見舞われていた 6 。この事実は、通為にとって加賀の問題が、単なる経済問題ではなく、父祖の無念を晴らし、家の存続そのものを賭けた宿願であったことを強く示唆している。
通為の母は、飛騨の国司として在地勢力化した公家、姉小路済継の娘であった 12 。また、彼の妻は、当代随一の文化人であり、和歌や古典研究の権威であった三条西公条の娘である 12 。この三条西家との婚姻は、極めて重要な意味を持つ。三条西家は、応仁の乱で荒廃した京都において、学芸の伝統を守り、天皇や武家、連歌師などが集う文化サロンの中心的存在であった 15 。このような家と姻戚関係を結んだことは、中院家、そして通為自身が、京都の高度な文化ネットワークに深く組み込まれていたことの証左である。
このように、通為の生涯は、生まれながらにして宿命づけられていたといえる。一方では、「大臣家」という高い家格を維持し、宮廷文化の担い手として生きる公卿としての責務。そしてもう一方では、父祖の代からの悲願であり、家の存続に不可欠な加賀荘園を回復するという、泥臭い在地領主として果たさねばならない実務。この「京での文化人としてのアイデンティティ」と「加賀での経営者としての宿命」という、二つの引き裂かれた役割の間で、彼の苦闘の生涯は展開されていくことになる。
中院通為の人生は、京都における公卿としての華やかな官歴と、加賀国における荘園領主としての過酷な現実という、二つの舞台を往還するものであった。その足跡は、戦国時代に公家が直面した困難を象徴している。
永正14年(1518年)に生まれた通為は、名門の嫡子として順調に官位を昇った 11 。その官歴は、朝廷の公式人事録である『公卿補任』に詳述されている 18 。
大永元年(1521年)、わずか5歳で従五位下に叙爵されると、侍従、右近衛少将、左近衛中将といった武官を歴任 12 。天文3年(1534年)には参議に任じられ、公卿の仲間入りを果たす。その後も昇進を重ね、弘治2年(1556年)には正二位・権大納言に至った 11 。権大納言は大臣に次ぐ高官であり、彼が朝廷内で確固たる地位を築いていたことがわかる。
しかし、その官歴は順風満帆なだけではなかった。後述する加賀への下向と連動し、彼の官職には空白期間が見られる。特に天文9年(1540年)、加賀に在国中に病を理由に参議を辞任しているが、翌年には朝廷からの在京要請を受けて上洛し、参議に還任している 18 。これは、朝廷が彼の能力を評価し、京での勤務を望んでいた一方で、彼が加賀の問題から離れられなかったという、引き裂かれた状況を物語っている。
和暦(西暦) |
年齢 |
官位・役職 |
備考 |
永正14年(1518年) |
1歳 |
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権中納言・中院通胤の子として誕生 11 |
大永元年(1521年) |
5歳 |
従五位下 |
叙爵 18 |
大永6年(1526年) |
10歳 |
侍従 |
任官 18 |
享禄4年(1531年) |
15歳 |
従四位下 |
元服。初名は通右、通量 18 |
天文2年(1533年) |
17歳 |
左近衛中将 |
「通為」へ改名 18 |
天文3年(1534年) |
18歳 |
参議 |
公卿に列する 18 |
天文6年(1537年) |
21歳 |
従三位 |
第一次加賀下向 18 |
天文9年(1540年) |
24歳 |
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加賀在国中に病のため参議を辞職 18 |
天文10年(1541年) |
25歳 |
参議 |
朝廷の要請で上洛し、還任 18 |
天文11年(1542年) |
26歳 |
権中納言、正三位 |
18 |
天文12年(1543年) |
27歳 |
|
第二次加賀下向 18 |
弘治2年(1556年) |
40歳 |
権大納言、正二位 |
11 |
永禄2年(1559年) |
43歳 |
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第三次加賀下向 12 |
永禄8年(1565年) |
49歳 |
内大臣(追贈説あり) |
加賀国山内にて薨去 18 |
通為は、激しい政治的・経済的闘争の渦中にありながら、名門公家としての文化的素養を失ってはいなかった。彼は優れた歌人であり、学者でもあった。
京都大学附属図書館の中院文庫には、彼の作とされる『詠百首和歌』が残されている 13 。その中には、次のような一首がある。
いかばかり 都の手ぶり 忘れまし ひなのすまゐの としも経ぬれば
(これほど長く田舎での暮らしを続けていると、どれほど都の流儀を忘れてしまったことだろうか)
この歌は、長引く地方生活の中で、華やかな京文化への望郷の念と、自らがその中心から離れていくことへの寂寥感を率直に詠んでおり、戦国期公家の心情を窺い知ることができる貴重な史料である 13 。
また、彼は単なる歌詠みにとどまらず、高度な学識を持つ古典研究者でもあった。正親町天皇の勅命を受け、『源氏物語』の校合作業に携わった記録が残っている 13 。これは、彼の学識が天皇からも信頼されていたことの証左に他ならない。さらに、百韻連歌を嗜むなど、当時の公家や文化人たちとの交流も活発に行っていた 13 。これらの活動は、彼が京の文化人としてのアイデンティティを強く保持し続けていたことを示している。
通為の生涯のもう一つの側面は、家の経済基盤である荘園・加賀国額田庄の経営をめぐる苦闘である。戦国時代、荘園制度は事実上崩壊し、荘園領主である公家や寺社は、年貢を納めない現地の武士や農民に対抗するため、自ら現地に赴いて直接支配(直務支配)を行う必要に迫られていた 1 。摂家の九条政基が、家領である和泉国日根荘に下向して直務支配を試みたことは、その著名な例である 1 。
通為が直面した加賀国の状況は、輪をかけて過酷であった。当時の加賀は、本願寺門徒による一向一揆の勢力が絶大で、守護の富樫氏は追放され、「百姓の持ちたる国」と称されるほどの無秩序状態にあった 21 。富樫氏の権威は完全に失墜しており、伝統的な支配構造が全く機能しない、極めて危険な土地だったのである 23 。
このような状況下で、通為は記録に残るだけで三度、加賀へ下向している 18 。その目的は、父祖の代から続く課題であった額田庄の直務支配の確立であった。しかし、その試みは困難を極めた。天文12年(1543年)の二度目の下向の際、彼は年貢を未進した「泉弥二郎」なる人物の田地を没収するという強硬策に出た。ところが、これに対し泉弥二郎は報復として荘園を横領するという暴挙で応じたのである 18 。この事件は、正二位・権大納言という通為の権威が、現地の国人か土豪と思われる一在地勢力の前では全く無力であったことを示す象徴的な出来事であった。
興味深いのは、この紛争に際して通為が室町幕府に訴え、幕府が中院家の荘園知行を安堵する(法的に認める)裁定を下している点である 18 。これは、形式上は幕府がまだ公家の荘園所有権を保護する機能を有していたことを示している。しかし、問題は、その裁定を現地で実効的に強制する力が幕府にもはや無かったことである。法的な「権威」は存在するが、それを裏付ける「実力」が伴わない。この致命的なギャップを埋めるために、通為は自らの生命を危険に晒し、一個人の能力を頼りに現地で奮闘し続けなければならなかった。彼の生涯は、戦国時代が単に武士同士の争いの時代ではなく、古い「権威」のシステムが崩壊し、あらゆる階層の人間が自らの「実力」で権益を守らなければならなくなった時代であることを、痛切に物語っている。
中院通為の死は、彼の生涯の苦闘を象徴するかのように、謎に満ちている。彼の最期については、二つの全く異なる記録が残されており、その食い違いは、戦国期公家社会が直面した厳しい現実と、それを記録する側の意図を浮き彫りにする。
朝廷の公式人事録である『公卿補任』には、通為の死について次のように記されている。
永禄八年九月三日、薨。於加州山内。〔年四十九〕【癰腫】。同日任内大臣。
これは、永禄8年(1565年)9月3日、加賀国の山内という場所で、49歳で亡くなったことを示している。死因は「癰腫(ようしゅ)」、すなわち腫れ物や悪性のできものであったとされる 18 。
注目すべきは、「同日任内大臣」という記述である。これは、彼が亡くなったその日に内大臣に任じられたことを意味する。他の史料によれば、これは病が重篤化した通為自身が、家の名誉のために大臣への任官を朝廷に嘆願した結果であった 18 。そして、「もし本復すれば任官は取り消すが、もし亡くなった場合は、その日を以て任官日とする」という異例の条件付きで勅許が得られたという 18 。これは、死の淵にありながらも、家の格式を最高位の内大臣に引き上げることで後世に残そうとした、公家の執念を物語るエピソードである。この記録によれば、通為は病によって亡くなり、その死は大臣任官という最高の名誉に彩られたものとなる。
しかし、この公式記録とは全く異なる、衝撃的な最期を伝える史料が存在する。それは、同時代の公家・広橋兼秀(ひろはし かねひで)の自筆本と推定される『異本公卿補任』(広橋家本)である 18 。広橋家は代々、武家との交渉役である武家伝奏などを務めた家であり、情報の収集と記録に長けていた 25 。
その私的な記録には、通為の死について、公式記録とは似ても似つかぬ記述が見られる。それによれば、通為は「腫物所労」で療養していたところ、越前から乱入してきた一向一揆の勢力に滞在先を放火され、「焼死」したというのである 18 。さらに、内大臣への就任も、死の当日ではなく、その2年後の永禄10年(1567年)9月に、功績を悼んで死後に官位を贈る「追贈」であったと記されており、公式記録の内容と真っ向から対立する 18 。
この二つの記録の食い違いは、単なる情報の誤りとして片付けることはできない。むしろ、そこには歴史を記録する側の意図、すなわち「名誉の死」と「不名誉な死」をめぐる葛藤が介在している可能性が高い。
大臣家の当主が、地方で素性の知れない一揆勢(当時の価値観では身分の低い者たち)によって焼き殺されるという事件は、朝廷の権威が地に堕ちたことを象Gする、極めて衝撃的で「不名誉」な出来事である。朝廷や、残された中院家にとって、このような屈辱的な事実を公式の歴史に残すことは耐えがたいことであっただろう。そのため、事実を隠蔽し、「病死」という穏当で名誉を損なわない死因に書き換え、さらに「同日任大臣」という栄誉を加えることで、その死を美化した可能性が考えられる。
一方で、広橋兼秀の私的な記録であれば、公的な体面を繕う必要はなく、より事実に近い情報、すなわち同時代人の間に伝わっていたであろう「焼死」という生々しい情報を書き留めることができた。
真相がどちらであったか断定することは困難であるが、戦国時代の加賀の情勢を鑑みれば、焼死説は十分に起こりうる出来事である。重要なのは、どちらが事実かという以上に、なぜ二通りの記録が生まれ、残されたのかという点である。通為の死をめぐる記録の謎は、公家たちが必死に守ろうとした「権威」と、それを無慈悲に打ち砕く「現実」との間の深い溝を、雄弁に物語っている。
中院通為の苦闘の生涯は、彼の死によって無に帰したわけではなかった。彼が命がけで守り抜いた「家」は、息子・中院通勝(みちかつ)へと引き継がれ、その通勝の数奇な運命を通して、予期せぬ形で文化的な大輪の花を咲かせることになる。
父・通為の死後、家督を継いだ通勝は、当初は順調に公卿としての道を歩んだ。天正7年(1579年)には24歳の若さで正三位・権中納言にまで昇進する 27 。しかし、その栄達は長くは続かなかった。天正8年(1580年)、宮中で仕える女官・伊予局(いよのつぼね)との密通事件が発覚。これが正親町天皇の逆鱗に触れ、勅勘(天皇の勘当)を蒙ってしまう 27 。通勝は官職を辞し、都を追われる身となった。
都を追われた通勝が身を寄せたのは、丹後国の田辺城主であった細川幽斎(藤孝)のもとであった 27 。幽斎は、足利義輝に仕えた幕臣でありながら、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え抜いた戦国武将であると同時に、当代随一の文化人でもあった 30 。
この丹後での19年にも及ぶ長い流浪生活は、通勝にとってまさに怪我の功名であった。彼はこの地で、母方の伯父である三条西実枝に続いて、細川幽斎に和歌を学んだ 28 。そして、ついに和歌の秘伝中の秘伝である「古今伝授」の正統を、幽斎から継承するに至るのである 27 。これは、公家文化の精髄(三条西家→中院家)が、一度、武家の第一級の文化人(細川幽斎)へと託され、そして再び公家へと還流した、日本文化史上、極めて重要な出来事であった。
さらに通勝は、幽斎の委託を受け、それまでの『源氏物語』の注釈書を集大成した大著『岷江入楚(みんごうにっそ)』全55巻を完成させた 27 。勅勘によって都を追われた公家は、流浪の果てに、当代屈指の古典学者として大成したのである。
慶長4年(1599年)、19年ぶりに勅免された通勝は京に戻る 27 。彼の深い学識と文化人としての名声は、朝廷でも再び重んじられた。
通勝の子・中院通村(みちむら)もまた、父の血を受け継ぎ、優れた歌人・学者として知られた。そして、その通村の母は、細川幽斎の娘(一色義次の娘で幽斎の養女)であった 7 。この婚姻により、中院家と細川家との絆は一層深まり、中院家は近世大名との新たな関係性を構築することで、戦国の動乱を乗り越え、安定した家名を後世に伝えていくことに成功した。
通為の加賀での苦闘と死、そして通勝の個人的な失敗と流浪。この二代にわたる危機と苦難が、結果として中院家に比類なき文化的栄光をもたらしたのである。もし通勝がスキャンダルを起こさず、順調に京でのみ公卿としての生活を送っていたならば、細川幽斎と深く師事し、古今伝授を継承する機会は訪れなかったかもしれない。父・通為が命がけでつなぎとめた家の存続という土台の上に、息子・通勝の個人的な不幸が、文化史的な幸運を呼び込んだ。通為の泥臭い「実務」が、結果として次代の華々しい「文化」を間接的に支えたという、歴史のダイナミズムがここにはっきりと見て取れる。
中院通為の生涯は、伝統的権威と新たな実力主義が激しく衝突した戦国という時代を、公家という立場から一身に体現したものであった。彼の人生を多角的に分析することで、その歴史的意義を以下のように結論づけることができる。
第一に、通為は「行動する貴族」であった。彼は、京都の宮廷文化を体現する正二位・権大納言という高位の公卿であり、和歌や古典に通じた洗練された文化人であった。しかし同時に、失われゆく家の経済基盤を取り戻すため、自ら危険な辺境の地・加賀へ三度も赴き、現地の国人や一揆勢力と渡り合った、類稀な行動力を持つ人物でもあった。彼の存在は、戦国期の公家が決して無力な存在ではなく、家の存続のために必死に活路を模索していたことを示している。
第二に、彼の生涯は戦国期における「権威の空洞化」を象徴している。朝廷の権威や幕府の裁定という後ろ盾を持ちながらも、現地の「実力」の前ではそれが通用しないという現実に、彼は何度も直面した。そして、彼の死をめぐる二つの記録の相違は、公家たちが守ろうとした名誉ある「公的な顔」と、一揆に焼き殺されるという屈辱的な「私的な顔」との間の、埋めがたい乖離を物語っている。これは、通為個人の悲劇であると同時に、旧来の秩序が崩壊していく時代の構造的な問題そのものであった。
最後に、彼の苦闘は、次代への文化的な架け橋となった。通為が命がけで守り抜いた中院家は、息子・通勝の代において、細川幽斎という武家の文化人と深く結びつくことで、公家文化の精髄である古今伝授を継承し、近世へとつなぐ重要な役割を果たした。通為の泥臭いまでの現実的なサバイバルがなければ、通勝の文化的な飛躍はあり得なかった。その意味で、通為の生涯は単なる一個人の悲劇に終わらず、戦国から近世へと移行する時代の文化史において、不可欠な礎を築いたという大きな歴史的意義を持つのである。