島津家の長い歴史において、中馬重方(ちゅうまん しげかた)は、特に島津義弘を語る上で欠かすことのできない、特異な存在感を放つ武将である。薩摩方言で「大胆不敵な者」を意味する「ぼっけもん」の典型として、その名は数々の豪快な逸話と共に語り継がれている 1 。しかし、彼の人物像は、単なる「大力無双の猛者」という言葉だけでは捉えきれない。
本報告書は、『本藩人物誌』や『薩藩旧伝集』といった薩摩藩自身が編纂した史料群を丹念に読み解き、逸話の裏にある歴史的文脈と彼の真の役割を明らかにすることを目的とする 2 。彼の生涯を追うことは、戦国末期から江戸初期にかけての薩摩武士の精神性、そして島津家の存亡を賭けた苦闘の実態に迫ることでもある。
まず、彼の生涯の全体像を把握するため、主要な出来事を年譜として以下に提示する。
表1:中馬重方 年譜 |
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西暦(和暦) |
年齢(数え) |
出来事 |
典拠 |
1566年(永禄9年) |
1歳 |
日置郡市来郷にて、中馬大蔵の子として誕生 2 。 |
『本藩人物誌』等 |
1578年(天正6年) |
13歳 |
父・大蔵が戦死 2 。 |
『本藩人物誌』 |
1580年(天正8年) |
15歳 |
薩摩国市来郷地頭・比志島国貞に仕え、肥後国矢崎城攻めにて初陣を飾る 2 。 |
『本藩人物誌』 |
(不詳) |
- |
主君・比志島国貞との関係が悪化し、知行・屋敷を没収され蒲生(現・姶良市)にて蟄居。島津義弘より密かに米二俵の支援を受ける 2 。 |
『本藩人物誌』 |
1592年(文禄元年) |
27歳 |
文禄の役が起こると蟄居先より呼び戻され、従軍する 2 。 |
『本藩人物誌』 |
1598年(慶長3年) |
33歳 |
慶長の役で武功を挙げる。島津義久・義弘より、通称を「与八郎」から父と同じ「大蔵」とすることを命じられる 2 。 |
『本藩人物誌』 |
1600年(慶長5年) |
35歳 |
薩摩出水郷に移り住み、肥後国境の警備にあたる。関ヶ原の戦いに参陣し、「島津の退き口」で奮戦。義弘に馬印を捨てさせる 2 。 |
『本藩人物誌』、『薩藩旧伝集』 |
1600年(慶長5年)以降 |
35歳~ |
関ヶ原での功績により50石を賞賜される 2 。 |
『本藩人物誌』 |
1620年(元和6年) |
55歳 |
「出水郷衆中高帳」に「西目衆中 75石 中馬大蔵少輔」として記録される 2 。 |
「出水郷衆中高帳」 |
1636年(寛永12年) |
71歳 |
12月18日、死去。戒名は貫翁道一居士 2 。墓所は現在の鹿児島県阿久根市脇本 1 。 |
『本藩人物誌』、『阿久根市史』 |
この年譜は、中馬重方の生涯が単なる個人の武勇伝ではなく、島津氏の九州制覇の戦い、豊臣政権下の朝鮮出兵、そして関ヶ原の戦いという、日本史の激動期と完全に重なっていることを明確に示している。蟄居からの抜擢、そして関ヶ原後の国境警備への配置という経歴は、彼が単なる一兵卒ではなく、島津家、特に義弘にとって戦略的に重要な駒であったことを物語る。彼の人生の節目は、常に島津家の重大な岐路と連動しており、彼の物語は島津家の物語そのものを映し出す鏡の役割を果たしているのである。
中馬重方の人物像を理解する上で、その出自と育った環境は重要な要素となる。中馬氏は、桓武平氏伊地知氏の一族とされ、薩摩国において古くからの由緒を持つ武家の系譜に連なる 2 。彼の父は中馬大蔵、母は蒲生衆中の有力者であった吉留淡路守の娘であり、武士としての血筋は確かであった 2 。父・大蔵は天正6年(1578年)に戦死しており、重方は13歳という若さで家を継ぐ立場となった。このことは、彼が幼い頃から武士としての厳しい覚悟と責務を背負っていたことを示唆している。
彼の出身地は、日置郡市来郷(現在のいちき串木野市、日置市東市来)である 2 。この地域は薩摩半島の西海岸に位置し、古来より海上交通の要衝として栄え、多様な文化や人々が交差する土地柄であった。このような環境が、彼の豪胆で物事に動じない気性を育んだ一因となった可能性も考えられる。
重方の武士としてのキャリアは、市来郷の地頭であった比志島国貞に仕えることから始まった。天正8年(1580年)、15歳の時に肥後国矢崎城攻めに参加し、初陣を飾る 2 。この戦いは、島津氏が九州統一という大望に向けて勢力を拡大していた時期の重要な軍事行動であり、若き重方もその激しい戦いの中で武士としての第一歩を踏み出した。
しかし、彼のキャリアは順風満帆ではなかった。史料にはその具体的な理由は記されていないものの、主君である比志島国貞との関係が悪化し、知行と屋敷を没収されるという事態に至る 2 。彼は蒲生(現在の姶良市)での蟄居を余儀なくされ、武士としての将来を絶たれかねない危機に直面した。
この雌伏の時期に、中馬重方の人生を決定づける転機が訪れる。当時、島津家の軍事を一手に担っていた島津義弘が、彼の武勇を惜しみ、内密に毎年米二俵を支援し続けたのである 2 。この「米二俵」という支援は、単なる物質的な援助以上の意味を持っていた。それは、義弘が不遇の身にある重方を見捨てておらず、その才能を高く評価しているという強いメッセージであった。当時の武士社会において、主君との不和による蟄居はキャリアの終焉を意味することが多い中、藩主一門である義弘が、一地頭の家臣に過ぎない重方に直接的な関心を示したのは極めて異例のことである。この行動は、義弘が家柄や形式にとらわれず、個人の「実力」を何よりも重視する人物であったことを示す。彼は重方という逸材を、将来必ずや島津家のために必要となる戦略的資源と見なし、関係を維持するための「投資」を行ったのである。この逆境の時期に築かれた二人の強固な信頼関係こそが、後の朝鮮出兵や関ヶ原での重方の決死の働きに繋がる重要な伏線となった。
豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592年-1598年)は、中馬重方にとって大きな転機となった 7 。蟄居中であった彼は、島津義弘によって呼び戻され、朝鮮半島へ渡海する 2 。この抜擢は、平時においては不遇をかこっていた人物でも、戦という国家の非常事態においてはその実力が何よりも優先されるという、戦国時代のダイナミズムを象徴している。義弘が彼を召喚したという事実は、重方が単なる個人的な「お気に入り」ではなく、島津軍の戦力として不可欠な存在と認識されていたことを明確に示している。
慶長の役(1598年)において、重方は特筆すべき武功を挙げたと記録されている 2 。具体的な戦闘内容は史料に乏しいものの、島津軍が参加した泗川の戦いのように、寡兵で明・朝鮮連合軍を破った激戦において、彼の怪力と武勇が遺憾なく発揮されたことは想像に難くない 9 。
この功績は高く評価され、島津義久・義弘の両殿から、通称を「与八郎」から、天正6年に戦死した父と同じ「大蔵」を名乗ることを許されるという、最大の栄誉を与えられた 2 。武士にとって父の名跡を継ぐことは、その家名を再興し、自らの武功が公に認められた証であり、重方が名実ともに一人前の武将として認められた瞬間であった。
この時期の重方に対する義弘の信頼の厚さは、後世の逸話集『薩藩旧伝集』に記された「中馬大蔵殿は惟新公(義弘)別して御秘蔵の人」という一文に集約されている 2 。「御秘蔵の人」という表現は、単なる有能な家臣という枠を超え、極めて個人的で深い信頼関係があったことを示唆している。
この評価は島津家内部に留まらなかった。『薩藩旧伝集』には、朝鮮の陣中で数人がかりでも動かせなかった大木を重方が一人で軽々と動かし、それを見ていた肥後熊本城主・加藤清正が「珍しい人物を抱えているものだ」と感嘆したという逸話が残されている 4 。この逸話は、彼の武勇が島津家の枠を越え、他家の名将にまで知れ渡るほど突出していたことを示している。特に、加藤清正は後の関ヶ原の戦いの後、島津家にとって国境を接する最大の脅威となる人物である 11 。そのような人物に、平時ではない戦場で感銘を与えたという逸話は、重方の存在感を強調し、島津武士の優秀さをアピールする格好の材料として、後世に語り継がれた。
朝鮮の役は、中馬重方にとって単にキャリアを復活させる場であっただけでなく、彼の評価を「島津家の一家臣」から「天下に通用する猛将」へと引き上げる決定的な転機となった。そして、この時期に形成された「義弘の秘蔵の臣」という絶対的な信頼関係が、関ヶ原という絶体絶命の状況下で、彼に主君の運命を左右するほどの進言を可能ならしめる権威の基盤となったのである。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した。当時、島津家は重臣・伊集院氏との内紛である「庄内の乱」を抱え、国許は疲弊していた 13 。そのため、島津義弘が率いて上方に滞在していた兵力は僅か1500程度に過ぎず、国元からの大規模な増援は期待できない絶望的な状況であった 2 。
この国家的大事を、重方は国境警備の任についていた出水の地で、畑仕事をしている最中に知る。伝承によれば、彼は急ぐあまり、同じく上洛しようとしていた他の武士から鎧櫃を力ずくで奪い取り、槍一本で戦場へと馳せ参じたという 2 。この逸話は、表面的には彼の豪快さと主君への忠義心を示すものとして語られる。しかし、当時の状況を鑑みると、正規の動員令を待たず、一個人が自らの判断で主君の元へ駆けつけるという行動は、組織の規律よりも個人の忠誠心や武士としての本能を優先する、薩摩武士特有の気風を象徴している。「鎧櫃を奪う」という行為は、平時の法や秩序よりも「大義(主君の危機)」を優先するという、非常時における価値判断の現れに他ならない。この行動は、中馬重方が義弘の「私兵」に近い、極めて個人的な忠誠心で結ばれた存在であったことを物語っている。藩の公式な命令系統とは別の次元で、主君の危機に即応する彼の姿は、「組織人」としてよりも「義弘の男」としてのアイデンティティが強かったことを示唆している。
関ヶ原の戦いは、小早川秀秋の裏切りにより西軍の総崩れに終わり、島津隊は敵の大軍の真っただ中に孤立した 14 。義弘はここで討ち死にすることを覚悟するが、甥の島津豊久らの説得により、前代未聞の「敵中突破」による退却を決意する 9 。
徳川家康本陣の目前をかすめるように伊勢街道を目指す島津隊に対し、井伊直政、本多忠勝といった徳川軍の精鋭が猛追をかける 16 。これに対し島津隊は、「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる壮絶な遅滞戦術で応戦した。これは、殿(しんがり)部隊が小部隊に分かれてその場に留まり、追撃してくる敵部隊の指揮官を鉄砲で狙撃し、足止めを図るという決死の戦法であった 9 。この壮絶な退却戦で、殿を務めた島津豊久や家老の長寿院盛淳をはじめ、多くの家臣が犠牲となった 19 。
なお、「捨て奸」という戦術名は有名であるが、同時代の一次史料には見当たらず、後世の創作である可能性も指摘されている 22 。しかし、少数の部隊が死を覚悟して足止めのために残り、本隊を逃がすという壮絶な戦闘が行われたこと自体は、複数の記録から確認できる。中馬重方もまた、この決死の退却行を生き延びた一人であった。
この壮絶な退却戦の最中、中馬重方は島津家の運命を左右する二つの重要な判断を下している。
一つ目は、義弘の馬印の放棄である。混乱の極みにある退却行の最中、重方は義弘に対し、総大将の所在を示す「馬印」を捨てるよう進言し、これを実行させた 2 。馬印は、武士にとって自らの名誉と存在の象徴であり、これを戦場で捨てることは最大の恥辱とされた。しかし、敵の追撃が集中する中では、馬印は格好の標的となる。重方の進言は、名誉や形式よりも「主君の生存」という実利を最優先する、極めて合理的かつ冷徹な判断であった。義弘がこの異例の進言を受け入れたことも、彼が重方を深く信頼し、その現実的な判断力を高く評価していた証左と言える。この逸話は、「島津の退き口」が単なる猪突猛進の玉砕戦ではなく、生存という明確な目的を持った、計算された戦術行動であったことを示している。
二つ目は、有名な「馬肉の逸話」である。疲労と空腹で一行が動けなくなった際、軍馬を屠って食することになった。ある家臣がその肉をまず義弘に献上しようとすると、重方はそれを遮り、「駕籠を担ぐ者には体力が要る。殿は担がれるだけです。義弘様の輿を担ぐ者が優先である」と叫び、その肉を奪い取って食べてしまった 2 。この行動は、一見すると主君に対する不敬極まりない行為に映る。しかし、その真意は、主君を運ぶ「輸送手段」、すなわち駕籠の担ぎ手の機能を維持することが、主君自身の生存に直結するという、徹底した合理主義に基づいている。「殿は担がれるだけ」という言葉は、非常時において身分や権威といった平時の序列が無意味化し、「機能」と「役割」こそが重要になるという冷徹な現実認識を示している。彼は、主君への敬意を、形式的な服従によってではなく、「主君を生還させる」という結果で示そうとしたのである。
これら「馬印」と「馬肉」の二つの逸話は、中馬重方が持つ「薩摩的プラグマティズム(実用主義)」の極致を示している。彼は、伝統的な武士の価値観(名誉、主君への形式的敬意)を、より大きな目的(主君の生存と島津家の存続)のために躊躇なく乗り越えることができる人物であった。これこそが、義弘が彼を「御秘蔵の人」とした最大の理由であり、後世の薩摩藩が理想とする武士像の核となる資質であった。
中馬重方の人物像は、関ヶ原での活躍のみならず、数々の逸話によって彩られている。これらの逸話は、彼の豪傑としての側面を強調すると同時に、人間的な深みをも描き出している。
『薩藩旧伝集』には、彼の並外れた怪力を示す逸話が数多く記録されている 4 。特に有名なのが、相撲取りとの対決である。九州一を自称する相撲取りが薩摩を訪れ、誰も敵わなかった。これを聞いた重方は「薩摩に人がいないと思われるのは口惜しい」と対決を申し出る。いざ相撲を取る直前、彼は持っていた青竹の杖を指でつまんで割り、ねじ曲げて腰に巻いてみせた。これに恐れをなした相撲取りは、戦わずして降参したという 4 。また、朝鮮の役の陣中で、数人がかりでも動かせない大木を一人で動かし、それを見ていた加藤清正を感嘆させたという話も伝わる 4 。
これらの逸話は、彼の物理的な強さを強調するものであるが、その背後には、薩摩武士としての誇り(相撲取りの逸話)や、他藩の名将をも唸らせる実力(清正の逸話)を喧伝する意図が読み取れる。江戸時代の平和な世において、武士の武勇を語り継ぐ中で、より劇的に脚色されていった可能性は高い。
重方と義弘の関係は、単なる主従を超えた深い絆で結ばれていた。それを象徴するのが、手料理の逸話である。義弘が加治木に隠居していた頃、重方が挨拶に訪れると、義弘はいつも自ら料理を振る舞っていた。ある時、その用意がなかったため重方が暇を告げて帰ろうとすると、義弘は慌てて使いをやって呼び戻し、「今日はゆっくり話そうと思っていたから、まだ用意がなかったのだ」と言って、改めて手料理を振る舞ったという 4 。
大名が家臣のために自ら料理をするという行為は、最大限の親愛と信頼の証である。関ヶ原で生死を共にした経験が、二人の絆をさらに強固なものにしたことは想像に難くない。この逸話は、二人の関係が極めて人間的で、温かいものであったことを示している。
重方の人物像に最も深みを与えるのが、彼の晩年を伝える逸話である。元和偃武の後、世が平和になった頃、鹿児島の若い藩士たちが関ヶ原の生き残りである重方の元を訪れ、合戦の話を請うた。重方は「関ヶ原と申すは…」と語り始めたものの、とめどなく涙が溢れ、ついに一言も続けることができなかった。これを見た若い藩士たちは、これまで聞いたどんな勇壮な戦物語よりも、この無言の涙が最も雄弁に戦の真実を語っていると感じ入ったという 2 。
この逸話は、豪傑・猛将という彼のパブリックイメージとは全く異なる、重方の繊細な内面を描き出している。数々の戦場を生き抜き、自らは薄手も負わなかったとされる彼も、多くの仲間を失った記憶、特に「島津の退き口」の凄惨な体験は、心に深い傷として残っていたのである 2 。彼の涙は、単なる感傷ではなく、戦争の悲惨さと、生き残った者が抱えるトラウマの痛切な現れであった。この逸話が『薩藩旧伝集』のような後世の編纂物に残された意図は重要である。それは、薩摩武士道が単なる勇猛さや死を恐れぬ精神だけでなく、仲間を思う情や、戦の悲しみを知る人間性をも内包するものであることを示すためであったと考えられる。これにより、武士道はより共感性の高い、人間的な教えとして後進に伝えられたのである。
関ヶ原の戦いの後、島津家は徳川家康との粘り強い交渉の末、奇跡的に本領安堵を勝ち取った 14 。しかし、隣国肥後には、関ヶ原で東軍として活躍し、所領を拡大した加藤清正がおり、両者の間には慶長期を通じて国境を巡る緊張関係が存在した 2 。
この国家的な危機に対し、薩摩藩は「外城(とじょう)制度」という独自の防衛システムを強化した。これは、領内各所に「麓(ふもと)」と呼ばれる武士の集住地を設け、半農半士の郷士(ごうし)に平時は行政を、有事には防衛を担わせるという、領土全体を要塞化する壮大な構想であった 27 。
中馬重方は、この藩の最重要戦略の一環として、肥後との国境最前線である出水郷に移り住み、西目村瀬之浦(現在の鹿児島県阿久根市脇本)を拠点とした 1 。これは、彼の武勇と忠誠心が、藩の防衛戦略上、最も重要な場所で必要とされたことを意味する。関ヶ原以前の重方が義弘個人の「秘蔵の人」としての側面が強かったのに対し、関ヶ原後の出水への配置は、彼が島津「藩」全体の戦略的資産として公式に位置づけられたことを示す。彼の役割は、個人的な主従関係に基づくものから、藩の防衛体制の一翼を担う公的なものへと変化したのである。元和6年(1620年)の『出水郷衆中高帳』に「西目衆中 75石 中馬大蔵少輔」と記録されていることは、彼が外城士として確固たる地位を築いていたことを示す客観的な証拠である 2 。
中馬重方は、寛永12年(1636年)12月18日、71歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。彼の墓は現在、鹿児島県阿久根市脇本にあり、市の文化財として大切に守られている 5 。墓石は当初小さなものであったが、後年、彼を慕う子孫によって大きな自然石が継ぎ足され、現在の威容を誇るようになったと伝えられている 1 。
彼には長男・八蔵(夭折)、次男・重辰(通称は兵部左衛門)、三男・重尭がおり、重尭が兄・重辰の養嗣子となって家を継いだ 2 。また、重辰の娘は伊集院久明に嫁いでおり 2 、中馬家はその後も薩摩藩士として存続し、その血脈を後世に伝えていったことが窺える。
中馬重方の物語は、『本藩人物誌』や『薩藩旧伝集』といった、江戸時代の平和な世に編纂された史料によって、我々に伝えられている 33 。これらの史料の編纂目的は、単なる過去の記録の保存に留まらない。それは、戦国時代の勇猛果敢な先人たちの姿を通して、後世の薩摩藩士たちに「あるべき武士像」を提示し、薩摩藩独自の士風を鼓舞することにあったと考えられる 33 。
この目的において、中馬重方の逸話はまさに理想的であった。彼の「三州一の大力」は揺るぎない武勇の象徴であり、義弘への絶対的な忠誠心、そして「馬印」や「馬肉」の逸話に見られる徹底した合理性と実利主義は、薩摩藩が尊んだ独自の価値観そのものであった 39 。
結論として、中馬重方は、島津義弘という傑出した主君に見出され、その絶大な信頼に応えて数々の武功を立て、特に「島津の退き口」という絶体絶命の危機において主君の生還に決定的な貢献をした人物である。彼の生涯と逸話は、後世の薩摩藩によって、単なる個人の物語としてではなく、薩摩武士道の理想を体現する「生きた手本」として選択され、語り継がれた。彼の存在を深く理解することは、薩摩という特異な武士団の精神的支柱を理解する上で、不可欠な鍵となるのである。