丸目長恵(まるめ ながよし、1540年 - 1629年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した肥後国出身の兵法家であり、特に彼が創始した剣術流派「タイ捨流兵法」の流祖としてその名を知られています 1 。一般には講談などを通じて「丸目蔵人(まるめ くらんど)」の名で広く親しまれ、「東の柳生、西の丸目」と並び称されるほどの高名な剣豪でした 1 。しかし、その実像は単なる剣術家にとどまらず、剣術はもとより馬術や槍術など多岐にわたる武術に精通し、さらに書や和歌、笛といった文化的素養にも長けた多才な人物であったことが記録からうかがえます 1 。
本報告書は、現存する資料に基づき、丸目長恵の出自から晩年に至るまでの生涯、彼が編み出したタイ捨流の成立経緯、技法、そしてその根底にある兵法思想、さらには同時代の剣豪たちとの交流や、文化人としての一面、そして後世に遺した影響について、詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とします。
丸目長恵に関する記録には、比較的信頼性の高い一次史料に近いもの(例えば、彼が将軍足利義輝より拝領したとされる感状や、師である上泉信綱から授かった印可状の存在を示唆する記述 5 、あるいはイエズス会宣教師による報告書への言及 5 など)と、後世に編纂された史書や伝承、逸話などが混在しています。講談などで形成された英雄的な「丸目蔵人」像と、史料から読み解ける兵法家・文化人としての丸目長恵の実像との間には、どのような関連性や差異が存在するのか、また、時代によって彼の評価がどのように変遷してきた可能性があるのかという点も、本報告で考察すべき重要な論点の一つです。これらの史料的性格の違いを慎重に吟味し、客観的な分析を試みます。
丸目長恵は、天文9年(1540年)に肥後国八代郡八代(現在の熊本県八代市)で誕生しました 1 。当時、八代は相良氏の支配下にありました 5 。一部の資料では「肥後国球磨郡日吉」の生まれとする説 9 も見られますが、多くの記録は八代出身としています。晩年に球磨郡錦町に隠棲したことから 1 、この情報が混同された可能性も考えられます。
長恵の本姓は藤原と伝えられています 1 。元々は山本姓でしたが、父である与三右衛門尉(または山本与左衛門 8 )が、弘治元年(1555年)、長恵が16歳の時の大畑合戦における武功により、主君であった相良晴広から「丸目」の名字を与えられたとされています 7 。この名字の変遷は、個人の武勇が家名を左右するほどの価値を持った戦国時代の特徴を如実に示しており、長恵の武士としてのキャリアの出発点における重要な出来事と言えるでしょう。母は赤池伊豆守の娘と伝えられています 7 。また、相良家第6代当主・相良定頼の三男の後胤であるという系譜も伝わっています 11 。
通称は蔵人佐(くらんどのすけ) 1 、あるいは石見守(いわみのかみ) 1 と称し、講談などでは「丸目蔵人」の名で広く知られています 1 。号は徹斎(てっさい)といい 1 、晩年には剃髪して石見入道徹斎と名乗りました 1 。
法名については二つの名が伝わっており、一つは「雲山春龍居士(うんざんしゅんりゅうこじ)」 6 、もう一つは「吸江斎高運居士(きゅうこうさいこううんこじ)」 12 です。前者は墓所の法名として記されることが多く 6 、後者は肥後における法名とされる記述があります 12 。これは、墓所の違いや異なる時期に授けられた可能性、あるいは号である「徹斎」と「吸江斎」が関連し、より私的な場面で用いられた可能性など、複数の解釈が考えられますが、現存資料のみでの断定は困難です。
没年は寛永6年(1629年)とされ、没日については3月1日説 1 と2月7日説 13 があります。享年は多くの資料で89歳(満年齢)とされていますが 1 、90歳とする資料も存在します 13 。
表1: 丸目長恵 略歴
項目 |
内容 |
氏名 |
丸目蔵人佐長恵(まるめ くらんどのすけ ながよし) |
本姓 |
藤原(元は山本) |
生年 |
天文9年(1540年) |
没年 |
寛永6年(1629年) |
享年 |
89歳(満) |
出身地 |
肥後国八代郡八代 |
通称 |
蔵人佐、石見守 |
号 |
徹斎、石見入道徹斎 |
法名 |
雲山春龍居士(代表的なものとして) |
創始流派 |
タイ捨流兵法 |
主な仕官先 |
相良氏 |
師 |
天草伊豆守(中条流)、上泉伊勢守信綱(新陰流) |
主な弟子 |
蒲池鑑廣、立花宗茂、木島藤左衛門、木島刑右衛門、松平入道雪窓、丸目寿斎、丸目吉兵衛、木野九郎右衛門 |
墓所 |
熊本県球磨郡錦町切原野堂山 |
丸目長恵の剣術家としての道は、若くして始まりました。弘治元年(1555年)、16歳の時に大畑合戦で初陣を飾り、父と共に武功を挙げたと記録されています 7 。この戦功により「丸目」の姓を賜ったことは前述の通りです。
翌年の弘治2年(1556年)、17歳になった長恵は故郷を離れて兵法の修行に励みます 14 。天草の豪族であり本渡城主であった天草伊豆守に師事し、刀槍の術、特に中条流を学んだとされています 11 。一部の資料 15 によれば、この時期に新当流や、その一派とされる有馬流、門井流、松本流、岡野流なども学んだとされており、これらの流派で学んだ「一足詰」などの技は、後のタイ捨流の形名にもその名残を留めているとの指摘があります 15 。この広範な学習は、長恵が特定の流派に固執せず、多様な技術を吸収しようとした探求心の表れであり、後のタイ捨流創始における武術的素養の基盤となったと考えられます。
長恵の剣術家としてのキャリアにおいて決定的な転機となったのは、新陰流の創始者である上泉伊勢守信綱(かみいずみ いせのかみ のぶつな、秀綱とも)への師事でした。19歳頃 2 、永禄元年(1558年)に上洛した長恵は 7 、当代随一の剣聖と名高い信綱の門を叩きます 2 。入門の経緯については、長恵が信綱に試合を挑んで敗れた後、その場で弟子入りを懇願したという逸話が伝えられています 9 。この逸話は、若き日の長恵の自信と、それを遥かに凌駕する信綱の卓越した技量、そして打ちのめされた後も真摯に道を求めようとする長恵の探求心を示していると言えるでしょう。
信綱のもとで3年間の厳しい修行を積んだ長恵は、その才能を開花させ、柳生石舟斎宗厳、疋田文五郎景兼、神後伊豆守宗治(鈴木意伯とも)らと共に「上泉門下の四天王」の一人に数えられるまでになったとされています 2 。この「四天王」という呼称は後世のものである可能性も否定できませんが、長恵が信綱門下において突出した実力者であったことを象徴しています。
その実力は、永禄年間(1558年~1570年)に、師である信綱が室町幕府第13代将軍・足利義輝の前で兵法を上覧した際に、長恵がその打太刀を務めたという事実によっても裏付けられます 2 。将軍への兵法上覧は、当時の武芸者にとって最高の名誉の一つであり、師の相手役という大役を任されたことは、信綱からの厚い信頼と、将軍に披露するに足る卓越した技量を長恵が有していたことを物語っています。この功績により、義輝から師と共に感状を授けられたとされ 2 、この感状は現在、熊本県球磨郡錦町に所蔵されているとも伝えられています 5 。ただし、この感状の真贋については、さらなる学術的な考証が必要であるとの指摘もあります 20 。
永禄9年(1566年)、長恵は弟子の丸目寿斎、丸目吉兵衛、木野九郎右衛門を伴い再び上洛しますが、信綱は上野国に帰国中でした 7 。そこで長恵は京都の愛宕山、誓願寺、清水寺において「兵法天下一」の高札を掲げ、諸国の武芸者や通行人に真剣勝負を挑んだとされています 7 。この大胆な行動は、長恵の自信と武名への渇望を示すものですが、実際に試合が行われた記録はなく、勝負することなく帰国したとされます 7 。この「天下一」高札の件が信綱の耳に入り、翌永禄10年(1567年)、信綱は上泉伊勢守信綱の名で「殺人刀太刀」「活人剣太刀」と記された印可状(免許皆伝)を長恵に与えました 2 。この印可状も錦町に現存すると伝えられています 5 。この免許皆伝は、長恵が新陰流の奥義を正式に継承したことを公に認めるものであり、また、師である信綱が、弟子の実力を認めつつも、その名を高めようとする野心を適切に導こうとした配慮の表れとも解釈できるでしょう。「殺人刀」「活人剣」という言葉は、単なる技術の伝授を超え、剣の思想的側面まで踏み込んだものであり、後のタイ捨流の理念にも繋がる重要なキーワードとなります。
新陰流の免許皆伝を得て帰郷した丸目長恵は、肥後人吉藩の領主である相良氏に仕官し、剣術指南役としての道を歩み始めました 5 。これは、彼の剣名が故郷においても高く評価されていたことを示しています。
しかし、その武将としてのキャリアは順風満帆ではありませんでした。永禄12年(1569年)、薩摩の島津家久が大口城(現在の鹿児島県伊佐市)を攻めた際、長恵は守将の一人として防衛にあたりましたが、島津方の策にはまり、相良軍は多くの将兵を失い敗北、大口城も落城してしまいます 2 。この敗戦の責任を問われた長恵は、主君である相良義陽の怒りを買い、逼塞(事実上の追放)という重い処分を受けました 2 。この出来事は、長恵の武将としての立身の夢を大きく揺るがすものであり、彼にとって大きな挫折であったと推察されます。
この追放期間中、長恵は兵法修行に一層専心したと伝えられています 7 。九州一円の他流派の兵法家を破り、その武名はさらに高まりました。その活躍を知った師の上泉信綱からは、西国における新陰流の教授を任されるほどであったといいます 7 。武将としての道が一時的に閉ざされたことが、結果として彼を純粋な兵法家としての道へと深く導き、後のタイ捨流創始に向けた重要な修練期間となったのかもしれません。
その後、天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定を経て、長恵は秀吉の勘気を解かれ、再び相良氏に仕えることとなりました 7 。この再仕官に際し、タイ捨流の剣術指南として新たに117石の知行を与えられたと記録されています 11 。一度は追放されながらも、その後の兵法家としての名声によって再び召し抱えられたことは、彼の剣技と名声がいかに卓越していたかを物語っています。この117石という具体的な知行高は、当時の剣術指南役としての彼の待遇を知る上で貴重な情報です。
丸目長恵の兵法家としての最大の功績は、新陰流を基礎としながらも独自の工夫を加えた「タイ捨流」を創始したことです。その成立の経緯については諸説ありますが、師である上泉信綱の死が大きな契機となったとする説が有力です。信綱の死後 9 、あるいは信綱が新たに工夫した太刀を学ぶために再度上洛した際に師の死を知り、落胆して帰郷した後、昼夜鍛錬に励み、数年の歳月を経てタイ捨流を開いたと伝えられています 7 。
タイ捨流は、新陰流の兵法を根幹としつつ、長恵自身がインド、中国、日本の古武道や、戦国時代の過酷な実戦経験から得た知見を融合させて編み出したものとされています 17 。単に師の教えを継承するに留まらず、それを乗り越えようとする長恵の強い意志と独創性が、この新流派を生み出した原動力であったと言えるでしょう。
「タイ捨流」という独特の名称の由来についても、複数の解釈が存在します。「タイ」という言葉は特定の漢字に限定されず、「大」「体」「待」「対」「太」など、様々な意味合いを含むとされています 17 。これは、タイ捨流が特定の概念に囚われない自由闊達な剣法であること、あるいはあらゆる雑念を「捨て去る」という思想を象徴していると考えられます。 9 の記述では、師である信綱の死によって新陰流のさらなる奥義を得ることができなくなったため、それを「捨てる」ほどの覚悟で新たな流派を興したという意味合いで「大捨流」と名付けたとしています。また、 23 では、13代宗家の説として「タイは体、太、対、待を現すのでタイとし、シャは待つことを捨てる自在の構えで『捨』とする」と紹介されています。さらに、 28 では「捨て身を基本とする」ことからこの名がついたとも解釈されています。
興味深いのは、キリシタン信仰との関連を指摘する説です。人吉相良藩の古文書「南藤蔓綿録」には「大赦流」という表記も見られ、この「大」をキリスト教の神を指す「デウス(だいうす)」と解釈し、「神よ、我らの罪を赦したまえ」というキリスト教的な祈りの意味を込めたとする見方もあります 4 。これらの多様な解釈は、タイ捨流が単なる技術体系ではなく、創始者である丸目長恵の深い思想や人生観が色濃く反映されたものであることを示唆しています。
タイ捨流は、丸目長恵が戦国時代の厳しい実戦経験を通して編み出した、極めて実践的な甲冑剣法としての性格を持っています 25 。その技法は、敵の攻撃を捌き、一瞬の隙を突いて反撃に転じるための合理性と多様性に富んでいます。
タイ捨流の太刀筋は、そのほとんどが左右の「甲段(こうだん)」と呼ばれる上段の構えからの袈裟斬りを基本としています 17 。これは、甲冑の隙間を狙い、効果的にダメージを与えるための実戦的な選択であったと考えられます。また、単に斬り合うだけでなく、飛び跳ねて相手を撹乱しながら斬りつけたり、刀を逆手に持ち替えて不意を突く「逆手斬り」、さらには「目潰し」や「足蹴り」といった体術、そして「手裏剣」の使用も技法に含まれており 25 、総合的な戦闘術としての側面が強いことが特徴です。その独特な礼法や、「右半開に始まり左半開に終わる、すべて袈裟斬りに終結する」と表現される一連の動作は、タイ捨流の個性を際立たせています 17 。
構えの種類も非常に多彩で、基本的な「右・左甲段構」の他に、「参商構(しんしょうのかまえ)」、「八方乱構(はっぽうらんのかまえ)」、「襟紋斬構(きんもんぎりのかまえ)」、「腿構(ももえのかまえ)」、「床構(とこのかまえ)」、「肩構(かたえのかまえ)」、「二重タイ捨斬構(にじゅうたいしゃぎりのかまえ)」、「平正眼構(へいせいがんのかまえ)」、「脇構(わきがまえ)」、「車輪構(しゃりんのかまえ)」などが伝えられています 25 。これらの多様な構えは、様々な地形や敵の出方に対応するための工夫であり、実戦における状況判断の重要性を示唆しています。
さらに、タイ捨流には剣術本体だけでなく、「居合術」や「組太刀」の形も伝承されています。居合術には「燕飛(えんぴ)」「猿廻(えんかい)」「虎乱(こらん)」などがあり 25 、組太刀には木刀を用いるものとして「表八ケ(おもてはっか)」「真の太刀(しんのたち)」などが、真剣(刀剣)を用いるものとして「抜刀(ばっとう)」「足蹴(そくしゅう)」などがあります 25 。これらの形稽古を通じて、タイ捨流の理合と実践的な技術が継承されてきました。
表2: タイ捨流の主要な構えと技法
分類 |
名称 |
構え |
右・左甲段構、参商構、八方乱構、襟紋斬構、腿構、床構、肩構、二重タイ捨斬構、平正間構、脇構、車輪構 |
基本技法 |
袈裟切り(右左甲段から) |
特徴的技法 |
飛び跳ねて切る、逆手斬り、目潰し、足蹴り、手裏剣 |
居合術形 |
燕飛(えんぴ)、猿廻(えんかい)、虎乱(こらん)、十手(じゅって)、山陰(やまかげ)、刃嚼(にんしゃく)、超飛(ちょうひ)、機前一刀(きぜんいっとう) |
組太刀(木刀)形 |
表八ケ(おもてはっか)、真の太刀(しんのたち)、刀縛(とうばく)、嵐勢(らんせい)、車輪(しゃりん)、一足ノ詰(いっそくのつめ)、猿廻(えんかい)、行摺(ぬきすり)、晴返(せいへん)、揚遮(ようしゃ)、獅憤(しふん)、猛虎(もうこ)、小太刀(鋒縛、朴解、石壓、退勝)、終結の型:刀刀載(とうとうさい) |
組太刀(刀剣)形 |
抜刀(ばっとう)、足蹴(そくしゅう)、逆握(ぎゃくあく)、奪刀(ばいとう)、突柄(とっぺい) |
タイ捨流は、単なる戦闘技術の体系に留まらず、その根底には丸目長恵の深い兵法思想が存在します。その理念は、「殺人刀(さつじんとう)」「活人剣(かつじんけん)」「保寿剣(ほじゅけん)」という三つのキーワードで象徴的に語られます 17 。
「殺人刀」とは、文字通り敵を倒し、戦いに勝利するための実戦的な技法を指します。これは、戦国の乱世を生き抜いた長恵の実体験に裏打ちされた、タイ捨流の最も基本的な側面と言えるでしょう 17 。しかし、長恵の思想はそれに留まりませんでした。
「活人剣」は、より高度な剣のあり方を示します。「弱よく強を制する、剣術と体術が見事に調和した活人剣」 28 と説明されるように、単に相手を殺傷するのではなく、より巧みな技術や精神性をもって相手を制し、あるいは争いそのものを収めることを目指すものです。特に晩年の長恵は、「殺人剣」の境地をさらに昇華させ、「人を愛し、人を生かす活人剣」という高い精神性に到達したと伝えられています 25 。この「活人剣」の思想は、柳生新陰流など他の新陰流系統にも見られるものであり 30 、師である上泉信綱の教えの核心部分であった可能性も考えられます。
さらにタイ捨流の特色として、「保寿剣」の哲学が挙げられます 28 。これは、剣の修行を通じて、心身の健康を保ち、天寿を全うするための道理や生き方を探求するという、より広範な人間形成の道を示唆しています。長恵自身が医術にも通じていたとされること 4 や、90歳近い長寿を全うしたこと 1 とも無関係ではないでしょう。この「保寿剣」の理念は、武術が単なる戦闘技術の習得に留まらず、自己の生命を豊かにし、より良く生きるための道標となり得ることを示しています。
これらの理念の根底には、「タイ捨」という流派名にも込められた思想があります。それは、師である上泉信綱の「懸待表裏(けんたいひょうり)、一隅を守らず」という教え、すなわち攻撃(懸かる)や防御(待つ)といった一方に偏った心に囚われず、常に心の自在さを失ってはならないという心法の極意を発展させたものと解釈できます 29 。タイ捨流は、この「懸待表裏」を学び、最終的にはそれを「捨て去った」境地、すなわち何物にもとらわれない「自在の境地」を「タイ捨」として開眼したとされています 29 。
このように、タイ捨流の兵法思想は、実戦的な技術から始まり、人間としての生き方や精神性の高みへと至る、奥深い体系を持っていたと言えます。
丸目長恵は、卓越した剣術家であると同時に、極めて豊かな文化的素養を身につけた人物でした。剣術はもとより、槍術、馬術、薙刀術、手裏剣術など二十余りに及ぶ武芸百般に通じていたとされます 1 。しかし、彼の才能は武芸の域に留まりませんでした。
記録によれば、長恵は書道、和歌、そして笛の演奏にも優れた才能を発揮した、まさに多才多芸な風流人であったと評されています 1 。特に書道においては、青蓮院流の免許を得るほどの腕前であったと伝えられており 4 、現存するとされる自筆の伝書に記された技名は、流儀に携わる者が見れば一見しただけでその技の核心を理解できるほどの気迫と意味が込められていると言われています 29 。また、和歌においては源氏物語や古今和歌集などの古典にも通じ、それらを伝授することもあったとされ 4 、当時流行した乱舞を嗜むなど、幅広い文化活動に親しんでいました 4 。
このような武芸以外の多岐にわたる才能と教養は、丸目長恵が単なる一介の武人ではなく、高い知性と感性を備えた人物であったことを示しています。戦国時代から江戸初期にかけての武士にとって、武勇だけでなく教養もまた重要な資質とされましたが、長恵はその理想を体現した存在の一人と言えるでしょう。彼の多才さは、人間的な幅の広さを示すと同時に、武芸の修行においても、技の深まりや表現力に豊かさをもたらした可能性があります。また、これらの教養は、彼が様々な階層の人々と交流し、自らの流派であるタイ捨流を広めていく上でも、有利に働いたと推察されます。
丸目長恵は、同時代の著名な剣豪たちとも浅からぬ関わりを持っていたと伝えられています。
まず、同じ上泉信綱門下として、後に柳生新陰流を大成させる柳生石舟斎宗厳(やぎゅう せきしゅうさい むねよし)とは、共に「四天王」と称された同門の間柄でした 13 。両者が直接どのような交流を持ったかを示す具体的な記録は乏しいものの、互いにその実力を認め合うライバル関係にあった可能性は十分に考えられます。
より具体的な逸話として残るのは、柳生宗厳の子であり、後に徳川将軍家の兵法指南役となる柳生但馬守宗矩(やぎゅう たじまのかみ むねのり)との関わりです。ある時、長恵が宗矩に試合を挑んだところ、宗矩は「竜虎相搏つは非なり、天下を二分せん」と説き、直接の対決を避けたという話が伝えられています 5 。また、別の説では、長恵が京の清水寺の門前に「兵法天下一」の高札を掲げて宗矩に挑戦を申し入れた際、宗矩は対決を避け、時の将軍(一説には徳川家康)の仲介により、丸目長恵を「西天下一」、柳生宗矩を「東天下一」とすることで事を収めたとも言われています 33 。これらの逸話は、長恵と柳生家の間に緊張感のある関係が存在し、互いの名声や実力が拮抗していたことを示唆するものですが、史実としての裏付けは慎重に検討する必要があります。特に「東西天下一」の逸話については、その西国(九州)の大藩である熊本藩細川家や佐賀藩鍋島家において、この逸話を証する史料が存在しないとの指摘もあり 34 、後世の創作である可能性も否定できません。しかしながら、 34 、 35 には、上泉信綱から丸目長恵に宛てて「西国の御指南は貴殿に任せおき候」と記された書状が存在するとの記述もあり、これが事実であれば、長恵が西日本における新陰流の指導的立場を信綱から公認されていたことを示す重要な史料となります。
もう一つ、丸目長恵に関して語られる著名な逸話は、宮本武蔵との関わりです。巌流島の決闘の後、武蔵が長恵のもとを訪れ、タイ捨流の二刀の型を伝授されたというものです 5 。この時、長恵と武蔵の間には45歳もの年齢差があったとされ 8 、老境にあった長恵から壮年の武蔵へ何らかの教えがあったとしても不思議ではないとする見方もあります。この逸話は歴史ファンの間で根強い人気を誇りますが 8 、その史料的根拠は希薄であり、後世の創作である可能性が高いと考えられています。武蔵に関する史料の多くが後世の編纂物であり、その信頼性については慎重な検討が必要であることは、多くの研究者が指摘するところです 36 。
これらの剣豪たちとの逸話は、丸目長恵の剣名がいかに高かったかを示すと同時に、後世の人々が彼をどのように記憶し、語り継ごうとしたかを反映していると言えるでしょう。史実性の検証は重要ですが、これらの物語が生まれた背景には、長恵の卓越した技量と人間的魅力があったことは想像に難くありません。
丸目長恵の人物像を語る上で、近年注目されているのがキリシタン信仰の可能性です。複数の資料が、彼がキリスト教の洗礼を受けていた、あるいはキリスト教と深い関わりを持っていたことを示唆しています。
最も直接的な証拠として挙げられるのが、イエズス会宣教師による記録です。元和4年(1618年)、京都からローマへ送られたイエズス会の報告書の中に、丸目蔵人佐が高潔で品格ある人物として描かれているという記述が多くの資料で見られます 5 。さらに踏み込んだ記述として、イタリア人宣教師カミッロ・コンスタンツォ神父が、本部イエズス会総長への報告の中で、丸目長恵を洗礼名「パウロ・マルモ (Paolo Marmo)」として紹介し、「医者、文筆家、詩人、剣術の師範であり、敬虔で純粋なキリシタン」と絶賛したとされています 4 。この報告が事実であれば、長恵のキリシタン信仰は確度が高いものと言えます。報告書の日付である元和4年(1618年)は、江戸幕府によるキリシタン禁教令が強化されていた時期にあたり、そのような状況下で「敬虔で純粋なキリシタン」と評されていたことは注目に値します。
その他の状況証拠としては、当時宣教師であり西洋外科医でもあったルイス・デ・アルメイダ神父から南蛮外科医学を学んだ可能性が指摘されていること 4 、タイ捨流という流派名が日本の武術流派には珍しくカタカナで表記されること、そして人吉相良藩の古文書「南藤蔓綿録」に「大赦流」という漢字表記が見られ、この「大」がキリスト教の神を指す「デウス」を意味し、「神よ、我らの罪をお赦し下さい」というキリスト教的な解釈が可能であるとする説 4 などが挙げられます。また、タイ捨流の形や儀式の中に、神道、仏教、キリスト教、山岳信仰などが混合した要素が見られることも、彼の宗教観の多様性やキリスト教文化との接触を示唆するものとして考えられます 4 。若い頃はキリシタンであったという説も存在します 15 。
これらの情報から、丸目長恵がキリスト教と何らかの深い関わりを持っていた可能性は高いと考えられます。もし彼がキリシタンであったならば、その信仰が彼の兵法思想、特に「活人剣」や「保寿剣」といった生命を重んじる理念に影響を与えた可能性も否定できません。ただし、これらの記録の史料批判や、彼が生涯を通じて信仰を保持したのか、禁教下でどのように信仰を実践したのかといった点については、さらなる詳細な研究が待たれます。
剣豪として、またタイ捨流の創始者としてその名を轟かせた丸目長恵ですが、その晩年は華やかな武の世界から離れ、肥後国球磨郡の一武村(現在の熊本県球磨郡錦町一武) 5 、あるいは同郡内の切原野 1 と呼ばれる地で隠棲生活を送ったと伝えられています。
この地で長恵は、単に静かに余生を送るだけでなく、村人たちと共に約七町歩(約7ヘクタール)にも及ぶ山野を開墾し、田畑や水路を整備し、植林を行うなど、地域の発展に大きく貢献しました 5 。彼が整備したこれらの農地や水利施設は、後世に至るまで地域の人々の生活を支え続けたと言われています 5 。
人吉歴史資料館に残る古文書には、長恵が開墾した一武の地には、彼を慕って多くの若い人々が「うんか(雲霞)の如く」集まり、学んだと記録されているといい 4 、彼の人柄が良く、村人たちから深く敬愛されていた様子がうかがえます 6 。剣の道を極めた人物が、晩年には土と共に生き、地域社会の発展に尽力したという姿は、彼の兵法理念である「活人剣」が単なる剣術論に留まらず、実生活における他者への貢献という形で実践されたことを示しているのかもしれません。これは、戦国時代の武士が泰平の世を迎え、その生き方や社会との関わり方を模索した一つの姿として、非常に興味深い事例と言えるでしょう。
丸目長恵が創始したタイ捨流兵法は、彼一代で終わることなく、多くの弟子たちによって受け継がれ、九州を中心に広範な影響を後世に与えました。
長恵の主要な弟子としては、筑後山下の城主であった蒲池鑑廣や、勇将として知られる柳川城主の立花宗茂などが挙げられ、彼らは長恵から新陰流(あるいはタイ捨流)の教えを受けたとされています 5 。また、長恵が二度目の上洛の際に伴ったとされる丸目寿斎、丸目吉兵衛、木野九郎右衛門といった弟子たちの名も記録に残っています 7 。さらに、肥前国(現在の佐賀県)においては、長恵自らが武雄の木島藤左衛門と木島刑右衛門、そして佐嘉の松平入道雪窓らにタイ捨流を相伝したと伝えられています 21 。
これらの弟子たちを通じて、タイ捨流は九州一円、特に肥後人吉藩や肥前佐賀藩などの諸藩で盛んに学ばれました 3 。薩摩藩においても、示現流が採用される以前はタイ捨流が相伝されていたといいます 5 。その影響は九州に留まらず、中国地方や東北地方にも「タイシャ流」や「丸目流」を名乗る流派が存在したとされています 7 。
タイ捨流からは、いくつかの分派も生まれています。代表的なものとしては、薩摩の示現流 3 や、筑前福岡藩で盛んだった安倍立 3 などが挙げられます。また、伊予今治藩や安芸広島藩で伝えられた真貫流(奥山流)の開祖である奥山太郎左衛門も、一説には丸目長恵の門下であったとされています 9 。その他、宮崎県西臼杵郡五ケ瀬町に伝わる棒術の流派である心影無雙太車流なども、タイ捨流の影響を受けたものと考えられています 3 。
タイ捨流の教えを後世に伝える上で重要な役割を果たしたのが、伝書の存在です。肥前においては、木島刑右衛門の孫弟子にあたる中野就明が、宝永7年(1710年)に『タイ捨流解紐』という解説書を著しました 3 。これは、当時肥前でタイ捨流から新陰流へと剣術の本流が移りつつあった状況を憂い、口伝の極意も含めて分かりやすくまとめたものとされています 21 。その他にも、「タイ捨風勢剣」と呼ばれる1600年代に丸目長恵が木島刑右衛門らに相伝した際の証の巻物 21 や、タイ捨流の古文書を現代語訳した宮崎十念著『丸目蔵人佐徹斎藤原長恵傳』 6 といった文献の存在が示唆されています。丸目長恵自身の自筆による伝書も現存するとされ、そこに記された文字には技の核心を伝える力があると評されています 29 。
タイ捨流は、人吉藩に伝わった系統が現在も継承されており、一時は熊本県の無形文化財にも指定されていました(現在は指定解除) 21 。現在は第15代上原氏がその道統を受け継いでいます 21 。また、肥前においても一度は途絶えたものの、近年、嬉野市の肥前稽古会が兵法タイ捨流剣術本流である道場龍泉館の山本隆博師範から定期的に指導を受ける形で再興の動きが見られます 21 。これらの事実は、タイ捨流が単なる一地方の剣術ではなく、広範な影響力を持ち、その教えが体系的に整理され、後世に伝えられようとした努力の現れであると言えるでしょう。
丸目長恵の終焉の地は、晩年を過ごした肥後国球磨郡錦町であり、その墓は同町一武の切原野堂山に現存しています 1 。法名は「雲山春龍居士」と伝えられています 6 。
特筆すべきは、その墓前に、長恵の冥福を祈って村人たちが建立した石灯籠が現存していることです 5 。これは、彼が晩年を過ごした地域の人々から深く敬愛され、その徳が偲ばれていたことの証左と言えるでしょう。単に剣豪として恐れられただけでなく、人格的にも慕われる存在であったことがうかがえます。
現代においても、丸目長恵はその郷土である錦町で偉人として記憶され、顕彰されています。町内では、彼の名を冠した「剣豪『丸目蔵人』顕彰少年剣道選手権大会」が毎年開催され、九州各地から多くの若い剣士たちが集い、技を競い合っています 6 。また、道の駅錦に隣接する「くらんど公園」には、丸目蔵人と少年剣士の像が建立されており 6 、彼の功績を後世に伝えています。これらの顕彰活動は、歴史上の人物が地域文化やアイデンティティの形成に寄与し続ける好例と言えるでしょう。
本報告では、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した兵法家、丸目長恵の生涯と業績について、現存する資料に基づき多角的に検討を行いました。
丸目長恵は、肥後国八代に生まれ、若くして剣の道を志し、中条流や新当流系統の武術を学んだ後、当代随一の剣聖と謳われた上泉伊勢守信綱に師事し新陰流の奥義を究めました。将軍足利義輝への兵法上覧や印可状の拝受は、彼の卓越した技量と名声を示すものです。相良氏に仕官し、剣術指南役を務める一方で、大口城での敗戦という武将としての挫折も経験しましたが、これがかえって彼を兵法修行に一層専心させ、独自の工夫を加えたタイ捨流を創始するに至ったと考えられます。
タイ捨流は、新陰流を基礎としつつも、甲冑実戦を想定した実践的な技法や、剣術のみならず体術や手裏剣術まで含む総合的な武術体系として大成されました。その理念は、「殺人刀」から「活人剣」、さらには「保寿剣」へと深化し、単なる戦闘技術を超えた人間形成の道を示唆しています。
長恵自身は、剣術家としてだけでなく、書や和歌、笛などにも通じた多才な文化人であり、その幅広い教養は彼の兵法思想の深化にも影響を与えた可能性があります。柳生宗厳や宮本武蔵といった著名な剣豪との逸話は、彼の剣名がいかに高かったかを物語る一方、史実性の検証が今後の課題として残ります。また、イエズス会宣教師の記録に見られるキリシタン信仰の可能性は、彼の人物像にさらなる奥行きを与えるものであり、今後の研究が期待されます。
晩年は故郷の錦町で開墾事業に従事し、地域社会に貢献したことは、彼の「活人剣」の思想を実践したものと解釈でき、泰平の世における武士の新たな生き方を示した例とも言えるでしょう。タイ捨流は九州を中心に広範に伝播し、示現流など後世の武術にも影響を与え、その一部は現代にも継承されています。
総じて、丸目長恵は、新陰流を学びながらもそれに留まらず、実戦経験と多岐にわたる武術・文化的素養を融合させて独自の兵法タイ捨流を創始した革新的な武術家であったと言えます。彼の生涯は、戦国から江戸初期という激動の転換期を生きた武士の生き様、武術の変容、そして地域社会との関わりを示す貴重な事例として、今後も研究されるべき価値を持っています。史料的制約から未だ不明な点も多く、特に感状や印可状とされる史料の学術的な分析、キリシタン信仰に関する一次史料のさらなる発掘と検証などが望まれます。
本報告書作成にあたり参照した資料は、以下の通りです。
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