日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史は、数多の武将たちの栄枯盛衰によって彩られている。その中でも、丹羽長重(にわ ながしげ)の生涯は、まさに「浮沈」という言葉で象徴される、類稀なる軌跡を描いた。彼の父は、織田信長から「友であり兄弟」 1 とまで称された重臣中の重臣、丹羽長秀。長重は、父が築き上げた越前・若狭・加賀にまたがる百二十三万石という、当時としては破格の遺産を相続した嫡男であった 2 。しかし、その栄光は長くは続かず、時代の奔流に翻弄された彼は、わずか数年のうちに所領を四万石余りにまで激減させられ、ついには関ヶ原の戦いを経て改易、すなわち所領を完全に没収されるというどん底を経験する 2 。
だが、丹羽長重の物語は、単なる転落劇では終わらない。彼の真骨頂は、その後の驚異的な復活にある。関ヶ原の戦いで西軍に与して改易された大名の中で、最終的に十万石以上の大名として返り咲いたのは、九州の英傑・立花宗茂と、この丹羽長重ただ二人だけであった 3 。これは、単なる幸運では説明がつかない、歴史上の奇跡とも言える出来事である。本レポートは、この驚くべき復活劇を可能にした長重自身の資質、彼を取り巻く複雑な人間関係、そして豊臣政権から徳川政権へと移行する時代の力学を多角的に分析し、偉大な父の影に隠れがちな「不屈の宰相」丹羽長重の実像に迫るものである。
丹羽長重の生涯を理解する上で、その父・丹羽長秀の存在は不可欠である。長秀は、織田信長の若年期から仕えた譜代の重臣であり、その実直さと、軍事、内政、築城といったあらゆる分野で非凡な才能を発揮する万能性から、信長に「米五郎左(こめごろうざ)」と称された 4 。これは、米のように地味ではあるが決して欠かすことのできない、重要な存在であるという意味が込められており、彼の人物像を的確に表している 4 。
信長からの信頼は絶大であった。信長は長秀を「友であり兄弟である」と公言してはばからず 1 、自身の兄・織田信広の娘(信長の養女として)を長秀に嫁がせるなど、その関係は単なる主従を超えた極めて緊密なものであった 2 。織田政権の象徴ともいえる安土城の築城総奉行に任命されたことは、長秀の能力と、それに対する信長の信頼の何よりの証左であろう 4 。
天正十年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると、長秀はその後の織田家中の主導権争いにおいて、いち早く羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)への協力を表明する。賤ヶ岳の戦いでは秀吉軍の中核として、旧同僚であった柴田勝家を破る上で決定的な功績を挙げた 4 。秀吉が織田政権の実権を短期間で掌握できた背景には、長秀という織田家筆頭重臣の協力が不可欠だったのである。その功績に応える形で、秀吉は天正十一年(1583年)、長秀に越前・若狭・加賀二郡にまたがる百二十三万石という広大な領地を与えた 2 。
丹羽長重は、元亀二年(1571年)四月十八日、この偉大な父・長秀の嫡男として生を受けた 13 。母は前述の通り、織田信長の養女である桂峯院。さらに長重自身も、後に信長の五女・報恩院を正室として迎えている 1 。このように、丹羽家は二代にわたって織田家と極めて強い姻戚関係で結ばれており、織田家中で他の追随を許さない特別な地位を築いていた。
しかし、天正十三年(1585年)、父・長秀が病により五十一歳で急逝する。これにより、長重はわずか十五歳という若さで、この百二十三万石という巨大な遺産と、父が率いた強大な家臣団を相続することになった 3 。それは、名門の嫡男としての栄光の頂点であると同時に、あまりにも重い宿命を背負うことの始まりでもあった。
この巨大な遺産は、長重のその後の人生に光と影の両面を落とすことになる。光の側面は、百二十三万石という圧倒的な経済的・軍事的基盤と、「織田家随一の重臣の嫡男」という血筋がもたらす名声である。これは長重のキャリアの出発点であり、後に彼がどん底から這い上がる際にも、無形の資産として機能した。一方で、影の側面はより深刻であった。この破格の領地は、本質的に父・長秀個人の能力と、秀吉との個人的な信頼関係の産物であった。父という強力な庇護者を失った十五歳の長重にとって、この巨大すぎる遺産は、天下人への道を突き進む秀吉の警戒心を過度に刺激する格好の的となった。若き長重が、父から受け継いだ権益をそのまま維持することは、豊臣政権の安定化という秀吉の政治的計算上、許容されるものではなかったのである。
長重が家督を相続して間もなく、豊臣秀吉による丹羽家への圧力は現実のものとなる。その手法は巧妙かつ苛烈であった。
家督相続の同年、天正十三年(1585年)、越中の佐々成政征伐に従軍した際、家臣の成田道徳が成政に内応したという疑惑が持ち上がる 3 。この疑惑は、同じ丹羽家臣であった戸田勝成や長束正家による密告が発端であったとも伝わっている 18 。秀吉はこの一件を口実に、丹羽家の領地から越前・加賀の両国を没収。丹羽家の石高は、若狭一国十五万石にまで、実に百万石以上も削減された 3 。さらに追い打ちをかけるように、長束正家、溝口秀勝、村上頼勝といった、父・長秀の代からの有能な重臣たちまでもが秀吉直属の家臣として召し上げられ、丹羽家は石高のみならず、その組織力においても著しく弱体化させられた 3 。
この仕打ちは、まだ序章に過ぎなかった。天正十五年(1587年)の九州平定の際には、再び家臣の軍律違反(戦地での狼藉)を咎められ、ついに若狭国も取り上げられてしまう 3 。これにより、丹羽家の所領は加賀国松任のわずか四万三千石(一説に四万石)となり、かつての大大名の面影は完全に失われた 1 。
これらの度重なる減封は、表向きは家臣の不祥事を理由としているが、その本質は、旧織田家重臣筆頭格であった丹羽家の勢力を徹底的に削ぎ、豊臣政権の基盤を盤石にしようとする秀吉の冷徹な政治的意図にあったと見るのが妥当である 5 。まだ若く、政治的な地盤も経験も乏しい長重は、天下人となった秀吉の巨大な権力の前に、抗う術を持たなかったのである 19 。
百二十三万石から四万石へ。常人であれば絶望し、野心を失ってもおかしくないほどの屈辱的な転落であった。しかし、丹羽長重は腐らなかった。彼は雌伏の時と割り切り、豊臣家の家臣として忠勤に励み続けた。
その忍耐が実を結ぶ機会が訪れる。天正十八年(1590年)の小田原征伐である。この戦役で長重は、豊臣秀次が率いる軍勢に加わり、箱根の要衝・山中城の攻撃などに参加した 21 。続く朝鮮出兵(文禄・慶長の役)においても、着実に武功を積み重ねていった 15 。
これらの地道な働きが秀吉に認められ、長重は加賀国小松十二万石に加増移封されるという、見事な復活を遂げる 3 。この時、官位も従三位・参議に昇り、加賀守に任官されたことから、彼は「小松宰相(こまつさいしょう)」と称されるようになった 3 。これは、どん底からの再起であり、彼の不屈の精神と実直な働きが、ついに天下人から再評価された瞬間であった。
この一連の出来事は、秀吉の巧みな大名統制術と、それに対応した長重の処世術の相互作用として読み解くことができる。秀吉は、丹羽家を徹底的に弱体化させるという「鞭」を振るう一方で、長重が武功を挙げれば相応の評価と所領を与えるという「飴」も用意した。これは、長重を完全に排除するのではなく、豊臣政権にとって無害かつ有用な家臣として再編成しようという意図の表れであった。一方の長重は、この秀吉の意図を敏感に察知し、不満を露わにして反抗するという危険な道を選ばず、ひたすら武功を立てることで家の再興を目指すという、極めて現実的で忍耐強い戦略を選択した。この苦難の時期に、「耐え忍ぶことこそが家を守る唯一の道である」という教訓を、彼は骨身に染みて学んだのであろう 19 。この経験こそが、後の関ヶ原での敗北と浪人生活という、さらなる試練を耐え抜く精神的な礎を築いたのである。
年代(西暦) |
出来事 |
所領 |
石高 |
備考 |
天正13年 (1585) |
家督相続 |
越前・若狭・加賀二郡 |
123万石 |
父・長秀の遺領 |
天正13年 (1585) |
越中征伐後 |
若狭一国 |
15万石 |
家臣の内通疑惑による減封 |
天正15年 (1587) |
九州平定後 |
加賀松任 |
4万3千石 |
家臣の軍律違反による減封 |
小田原征伐後 |
小田原征伐の功 |
加賀小松 |
12万石 |
武功による加増移封 |
慶長三年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、日本の政治情勢は再び流動化する。五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を拡大し、豊臣政権内部の対立は先鋭化していった。この新たな権力闘争の渦中で、丹羽長重は運命的な決断を迫られる。
秀吉の死後、家康は北陸に巨大な勢力を持つ前田利長(前田利家の嫡男)を強く警戒していた。その一環として、家康は利長の領地に隣接する小松城主・丹羽長重に対し、「利長監視」の密命を与えていたとされる 1 。
慶長五年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、事態は急変する。利長は東軍として家康に従い、北陸の諸将も利長の指揮下に入るよう家康から命じられた。しかし、長重はこの命令に真っ向から反発した 14 。その背景には、いくつかの複合的な要因が存在した。第一に、丹羽家と前田家の間には、父・長秀の時代から続く根深い対抗意識があった 25 。自らが大減封の憂き目に遭う一方で、大大名として北陸に君臨する前田家の指揮下に入ることは、長重のプライドが許さなかった 14 。第二に、彼の「実直」で融通の利かない性格が、監視対象であったはずの利長に従えという矛盾した命令を受け入れることを拒んだ 14 。そして第三に、秀吉から過酷な仕打ちを受けながらも、豊臣恩顧の大名としての矜持が、反家康勢力である石田三成らの西軍に与する心理的な素地となっていた可能性も否定できない 26 。
結果として、長重は西軍への明確な参加表明こそしなかったものの、居城である小松城に籠城し、東軍の主力である前田利長と対決する道を選んだ。これは事実上の西軍加担であり、彼の人生における最大の岐路であった 14 。
長重の決断を受け、前田利長は二万五千という圧倒的な大軍を率いて金沢城を出陣した。利長はまず、西軍に与した山口宗永が守る大聖寺城を攻め落とす 28 。しかし、長重が籠る小松城は難攻不落で知られ、攻めあぐねていたところ、西軍の将・大谷吉継が背後を突いて金沢を襲うとの流言(一説に吉継の巧みな謀略)が飛び交う 14 。これに動揺した利長は、軍を反転させ、金沢への急な撤退を開始した。
この好機を、丹羽長重は見逃さなかった。彼の兵力はわずか三千と、利長軍の十分の一にも満たなかったが、果敢に小松城から出撃。金沢へ向かう前田軍の退路である「浅井畷(あさいなわて)」で、周到な待ち伏せ攻撃を敢行した 19 。
浅井畷は、湿地帯の中を縄のように細く続く道であり、大軍がその兵力を展開するには極めて不向きな地形であった 27 。さらに、折からの雨でぬかるみ、両軍ともに火縄銃がほとんど役に立たない状況下での白兵戦となった 28 。この悪条件を巧みに利用した丹羽軍の奇襲は完璧に成功し、前田軍の殿(しんがり)部隊に壊滅的な打撃を与えた。両軍の兵士が泥にまみれて斬り結ぶ激戦の末、丹羽軍は戦術的に見事な勝利を収めたのである 19 。この戦いは、長重の卓越した戦術家としての一面を世に示すものであり、「北陸の関ヶ原」とも呼ばれる激戦として後世に語り継がれている。
浅井畷での局地的な勝利は、大局を覆すには至らなかった。この戦いのわずか数日後、慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原で行われた本戦で西軍は一日で壊滅。北陸での奮戦も虚しく、長重は東軍に降伏を余儀なくされた。その結果、彼の所領はすべて没収され、改易処分が下された 1 。かつて百二十三万石を誇った名門の嫡男は、ついに無一物の浪人にまで転落したのである 19 。
しかし、この敗軍の将の人間性を物語る、心温まる逸話が残されている。浅井畷の戦いの後、前田家との和睦が成立した際、その証として人質として小松城に送られてきたのが、利長の弟・猿千代、後の加賀藩三代藩主となり「かぶき者」としても知られる前田利常であった 3 。当時まだ七歳の少年であった利常に対し、長重は敵将の弟であるにもかかわらず、極めて温かく接した。自ら庭の梨を捥いできて、小刀で剥いて与え、「めそめそせずに元気を出しなされ」と励ましたという 3 。
この逸話は、長重の情け深い人柄を示す美談として名高い。利常はこの時の恩を生涯忘れず、晩年に至るまで、梨を口にするたびにこの思い出を語ったと伝えられている 3 。これは単なる感傷的な話ではない。敵対関係にあった両家の間に芽生えたこの個人的な情愛は、後の長重の復帰に際し、前田家が好意的な態度を示す遠因となった可能性を強く示唆している。長重は利常に、彼の父・利家の武勇伝を語り聞かせ、もはや乱世が終わり、天下が徳川のものとなるであろうという時代の変化をも教えたという 31 。長重の関ヶ原における決断は、新時代の支配者である家康の論理よりも、旧来の武士としての意地や前田家への宿怨といった感情を優先した、極めて人間的な選択であった。それは彼を破滅の淵に追いやったが、その後の利常への対応に見られる人間性こそが、彼の完全な没落を防ぐ一縷の光となったのである。
改易処分を受け、丹羽長重は江戸の品川に蟄居し、先の見えない浪人生活を送ることとなった 20 。まさに人生のどん底であったが、この絶望的な状況から彼を救い出す人物が現れる。徳川家康の三男にして、後の二代将軍となる徳川秀忠であった 19 。
長重と秀忠の間には、関ヶ原以前から交流があったとされている。一説によれば、小田原征伐の折、家康が長重の巧みな用兵術に関心を持ち、自らの嫡男である秀忠に引き合わせ、「義兄弟の契り」を結ばせたとまで伝わっている 19 。八歳年長の長重を、秀忠は兄のように慕っていたという 19 。長重の苦境を知った秀忠は、父・家康に粘り強く赦免を働きかけた。そして「今なら父家康もそこまで怒ってはいないだろうから、江戸に来て拝謁する好機だ」と、面会のタイミングを計らうなど、親身になってその助命に奔走したのである 19 。
秀忠のこの尽力に加え、浅井畷で矛を交えた前田利長からも助命嘆願があったとされ 3 、ついに家康もこれを認める。慶長八年(1603年)、長重は常陸国古渡(ふっと)に一万石を与えられ、大名としての奇跡的な復帰を果たした 3 。関ヶ原の戦いで西軍の主要武将として東軍主力と戦った者が、大名として返り咲くというのは、極めて異例のことであった。
大名に復帰した長重は、その恩義に報いるべく、徳川家への忠誠を尽くした。慶長十九年(1614年)から始まった大坂の陣では、徳川方として参陣し、その武勇を遺憾なく発揮する 4 。特に慶長二十年(1615年)の夏の陣では、榊原康勝隊などと共に、豊臣方の勇将・木村重成の部隊と激戦を繰り広げた記録が残っている 35 。この戦いでの具体的な感状などの記録は見いだせないものの 37 、彼の活躍が徳川政権内での評価を確固たるものにしたことは間違いない。
この長重の復活と活躍は、丹羽家そのものの再興へと繋がった。改易の際に離散を余儀なくされた旧臣たちが、主君の出世を聞きつけ、次々とその許に馳せ参じたのである 3 。中でも、長重の叔父にあたる丹羽秀重は、長重が最も苦しい浪人時代から片時も側を離れず支え続け、大坂の陣に際しては、豊臣方に仕えていた長重の実弟・丹羽長正を説得して丹羽家に戻すなど、一族の再興に多大な貢献をした 32 。
長重のこの奇跡的な復活は、単に秀忠の個人的な好意だけによるものではない。そこには、彼の持つ複数の資産が「多層的なセーフティネット」として機能したと考えられる。第一に、父・長秀以来の、信長の姪を母とし、信長の娘を妻とするという、織田家との強い血縁関係がもたらす名家の血筋 3 。第二に、浅井畷の戦いで見せた卓越した戦術能力と、家康方からも「丹羽家の戦支度は天晴也」と評された武門の評価 3 。第三に、前田利常との逸話に象徴される人間的魅力と、それによる旧敵・前田家の態度の軟化。そして第四に、何よりも徳川秀忠との個人的な強い絆 19 。これら複数の要因が複合的に作用し、通常ではあり得ない「改易からの大名復帰」という偉業を成し遂げさせたのである。徳川政権としても、長重のような有能かつ名門の旧大名を味方に取り込むことは、新時代の体制を安定させる上で有益な投資であると判断した側面もあったであろう。
大坂の陣での武功は、丹羽長重の徳川政権下での地位をさらに押し上げた。元和五年(1619年)には常陸国江戸崎に二万石 17 、元和八年(1622年)には陸奥国棚倉に五万石へと、着実に加増移封を重ねていく 4 。
そして寛永四年(1627年)、彼のキャリアにおける一つの頂点が訪れる。会津藩主・蒲生忠郷が跡継ぎなく死去し、蒲生家が改易されたことに伴う奥州の大規模な領地再編において、長重は東北地方の玄関口とも言うべき軍事上の要衝、陸奥国白河に十万七百石という大領を与えられて抜擢されたのである 3 。
この抜擢の背景には、彼が父・長秀から受け継いだ卓越した築城技術があった 3 。長重はまず棚倉において新たな城の築城に着手し 3 、白河に移ると、幕府の命を受けて、荒廃していた小峰城を総石垣造りの壮麗な近代城郭として大改修し、これを完成させた 3 。幕府が、伊達政宗をはじめとする強力な外様大名への抑えとして、長重という信頼できる技術と実績を持つ武将を東北の要に配置したことは、徳川の天下泰平を盤石にするための深慮遠謀であった 19 。長重は、戦乱の世を生き抜いた武将から、泰平の世における国家的なインフラ整備を担う技術官僚(テクノクラート)へと、その役割を見事に変化させていったのである。
長重の価値は、築城技術だけではなかった。元和三年(1617年)、彼は同じく関ヶ原で改易されながら復活を遂げた立花宗茂らと共に、二代将軍・徳川秀忠の「御伽衆(おとぎしゅう)」に抜擢されている 4 。御伽衆とは、将軍の側近に侍して雑談に応じたり、過去の経験談や古典の講釈をしたりする役職である 41 。
長重は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という三人の天下人の時代を直接経験した、まさに「戦国の生き証人」であった。彼の持つ豊富な経験と、激動の時代を生き抜いた者ならではの知見は、泰平の世に生まれ育った秀忠や三代将軍・家光にとって、金銭には代えがたい貴重なものであった 15 。彼は単なる話し相手ではなく、過去の成功と失敗の教訓を未来の統治に活かすための、重要な相談役(談伴衆)としての役割を担っていたのである 43 。彼のキャリアの後半生は、戦国時代から江戸時代への社会の価値観の転換そのものを体現している。関ヶ原までは「武」の人物として評価されたが、徳川の世では、東北の要衝を固める「築城技術者」として、そして戦国の知を次代に伝える「知識人」として、その価値を再定義された。彼は時代の変化に巧みに適応し、自らの持つスキルセットを最大限に活用することで、丹羽家の安泰を確固たるものにしたのである。
白河藩主として、長重は小峰城の改築のみならず、城下町の整備(町割り)にも力を注ぎ、現在の白河市の町並みの基礎を築いた 39 。しかし、離散していた旧臣の帰参や、改易された蒲生家の旧臣の召し抱え、そして大規模な築城事業が重なり、丹羽家の財政はかなり逼迫していたと伝えられている 3 。
寛永十四年(1637年)閏三月四日、長重は江戸桜田の上屋敷にて、波乱に満ちた六十七年の生涯を閉じた 3 。その遺体は、彼が心血を注いで治めた白河の地に運ばれ、埋葬された 39 。
死に際し、彼は子や家臣たちに次のような遺言を残したとされている。「将軍への御恩を第一とし、幕府への忠勤に励め。しかし、機転を利かせすぎたり、媚びへつらったりするようなことはしてはならない」 3 。この言葉には、秀吉に翻弄され、関ヶ原で敗れ、それでも徳川家に救われた彼の全生涯が凝縮されている。幕府への絶対的な忠誠を説きながらも、主体性を失った過度な迎合を戒める一文は、彼の生涯を貫いた「実直」で「一本気」な 4 人柄を、何よりも雄弁に物語っている。
丹羽長重が遺した最大の功績は、一度は完全に断絶の危機に瀕した丹羽家を再興し、その後の盤石な基礎を築いたことである。彼の死後、家督を継いだ三男の光重は、寛永二十年(1643年)、白河から陸奥国二本松へ、同じ十万七百石で移封される 14 。これは、長重が築き上げた幕府との絶大な信頼関係の賜物であり、丹羽家は外様大名でありながら国主格という厚遇を受けることとなった 44 。
初代二本松藩主となった光重は、父の遺志を継ぎ、二本松城(霞ヶ城)と城下町の大規模な整備を行い、藩政の基礎を確立した 38 。以後、丹羽家は一度の転封もなく、幕末の動乱に至るまで二百二十五年間にわたり、二本松藩主としてこの地を治め続けたのである 14 。
その治世の終焉は、悲劇として記憶されている。幕末の戊辰戦争において、二本松藩は奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍に徹底抗戦し、その過程で、十代の少年兵たちで構成された「二本松少年隊」が城下で玉砕するという悲劇を生んだ 4 。この、勝ち目のない戦いに身を投じた徹底抗戦の気風の源流に、関ヶ原で圧倒的な大軍を前にしても一歩も引かなかった長重の「一本気な気質」の遺伝子を見るのは、果たして穿ちすぎであろうか 4 。
丹羽長重の生涯は、偉大な父・長秀の七光りの下で始まり、天下人・秀吉の圧政に耐え、関ヶ原の敗北という奈落の底に突き落とされる、まさに苦難の連続であった 4 。しかし、彼はその度に不屈の精神で立ち上がった。彼の行動原理の根底には、武士としての矜持と、家名を絶やすまいとする強い責任感、そして何よりも「実直」で「堅実」な人間性があった 3 。
彼は、立花宗茂と並び、関ヶ原で改易されながらも十万石以上の大名として復活を遂げた、歴史上極めて稀有な存在である 3 。この事実は、彼の持つ戦術や築城といった多様な能力と、徳川秀忠や前田利常との間に築かれた人間関係という無形の資産が、激動の時代を生き抜く上でいかに重要であったかを物語っている。
結論として、丹羽長重は、偉大な父の影に苦しみ、時代の奔流に翻弄されながらも、決して折れることなく、自らの才覚と忍耐、そして人間的魅力によって運命を切り拓いた「不屈の宰相」であった。彼の生涯は、戦国から江戸という大きな時代の転換点を、一人の武将がいかにして生き抜き、次代へと家名を繋いでいくかという、一つの理想的な姿を我々に示してくれるのである。