日本の戦国時代、数多の武将がその名を歴史に刻んだが、その多くは陸上の合戦における武勇や知略によって語られる。しかし、天下の趨勢が畿内から西国へと移る過程で、陸の戦いと同じく、あるいはそれ以上に重要となったのが、瀬戸内海の制海権であった。この海洋の覇権を巡る争いの中心にありながら、その実像が十分に知られているとは言い難い一人の将がいる。その名は、乃美宗勝(のみ むねかつ)。
彼は、毛利元就の三男・小早川隆景の腹心として小早川水軍を統率し、毛利氏の海洋戦略を担った枢要の人物である 1 。一般的には、日本三大奇襲戦の一つに数えられる「厳島の戦い」において村上水軍を味方に引き入れた交渉役として、また、織田信長の天下統一事業を一時頓挫させた「第一次木津川口の戦い」で毛利水軍を勝利に導いた総大将として知られている 3 。
しかし、彼の真価はそれだけに留まらない。その生涯は、勇猛な武将としての一面だけでなく、複雑な人間関係を読み解き利害を調整する外交官、兵站線を確保し拠点を死守する戦略家、そして主君の意図を深く理解し補佐する有能なパートナーとして、驚くほど多岐にわたる顔を持っていた 5 。本報告書は、断片的に伝わる史料を丹念に繋ぎ合わせ、乃美宗勝という一人の武将の生涯を立体的に再構築することで、彼が毛利氏の覇業、ひいては戦国時代の歴史において果たした真の役割と、その多面的な実像に迫るものである。
乃美宗勝の生涯を理解する上で、まず彼の複雑な出自と、彼が名乗った二つの姓に秘められた背景を解き明かす必要がある。
宗勝の生涯を概観するため、まずその基本情報を以下に示す。
項目 |
内容 |
生没年 |
大永7年(1527年) – 天正20年9月23日(1592年10月28日) 4 |
改名 |
万菊丸(幼名) → 乃美宗勝 4 |
別名 |
浦宗勝、新四郎(通称)、浦兵部、乃兵 4 |
戒名 |
宗勝寺殿天與勝運大居士 4 |
官位 |
兵部丞、備前守 4 |
主君 |
小早川隆景 4 |
氏族 |
桓武平氏良文流小早川氏庶流乃美氏/浦氏 4 |
父母 |
父:乃美賢勝 4 |
妻子 |
正室:末長景盛の娘、後室:仁保隆慰の娘、子:盛勝、景継ほか多数 4 |
墓所 |
勝運寺(広島県竹原市)、宗勝寺(福岡県福岡市) 4 |
宗勝は史料において「乃美宗勝」と「浦宗勝」という二つの名で記される 4 。この二つの姓は、彼のアイデンティティを形成する複数の要素を象徴している。まず「浦」という姓は、彼が本拠とした安芸国豊田郡忠海が「浦郷」に属していたという地理的要因と、彼自身が小早川氏の庶流である浦氏の当主と位置づけられたことに由来する 4 。地元では「浦」と呼ばれることが多いが、彼自身が発給した書状など、一次史料の多くでは「乃美」が用いられていることから、これが彼の正式な名乗りであったと考えられる 6 。
この姓の揺れは、単なる改名や通称の問題に留まらない。それは、戦国期の武士の帰属意識が、①小早川氏の庶流という血縁、②忠海という領地、③乃美・浦という家系の三重構造から成り立っていたことを示している。この多層的なアイデンティティこそが、後に彼が様々な勢力と渡り合う上での基盤となった。
さらに、乃美氏の系譜は非常に複雑である。研究によれば、安芸乃美氏には少なくとも三つの系統が存在したとされ、宗勝の家系(乃美③)は、毛利元就の継室となった乃美大方の実家(乃美②)とは異なる流れを汲む 6 。宗勝の祖父・家氏や父・賢勝の代に、乃美氏と浦氏の間で養子縁組が行われたとされるが、その詳細は長州藩の記録である『閥閲録』に収録された二つの家(寄組浦家と寄組乃美家)の系図で内容が食い違っており、後世に家の由緒を整える過程で矛盾が生じた可能性が指摘されている 6 。
特に注目すべきは、父・乃美賢勝の動向である。賢勝も小早川氏の重臣であったが、天文23年(1554年)に毛利氏が主家の大内氏と断交した「防芸引分」の際には、大内方として石見国の吉見氏攻めに参陣した記録が残っている 9 。この時期、乃美氏が属する小早川氏はすでに毛利方として大内氏と敵対しており、賢勝の行動は一族が家中の方針に一枚岩でなかったことを示唆している。乃美氏と親密な関係にあった他の海洋領主層が大内方に留まったこともあり、賢勝もその去就に迷っていたことが窺える 9 。
最終的に乃美一族は毛利氏に味方することを決断し、宗勝がその軍事的中心となる。父の代の揺らぎを乗り越え、宗勝の代で毛利・小早川体制への忠誠を固めたこの過程は、戦国時代の在地領主(国人)が、より大きな権力構造に適応し、生き残りを図っていくダイナミックなプロセスを体現している。そして、この複雑な出自と、それに伴う瀬戸内の海人たちとの広範な人脈こそが、宗勝の生涯最大の功績となる厳島合戦での活躍の、重要な布石となるのであった。
乃美宗勝の生涯を語る上で、主君・小早川隆景との関係は不可分である。二人の関係は、単なる主従という言葉では表しきれない、深い信頼と相互依存に基づいた戦略的パートナーシップであった。
宗勝が隆景の腹心としての地位を確立する第一歩は、天文16年(1547年)の備後神辺城攻めであった 4 。これが初陣であった隆景の軍に属した宗勝は、神辺城の支城である坪生要害(龍王山城)攻めにおいて、自ら多くの敵を討ち取るという目覚ましい武功を挙げた。この功績は、若き主君隆景だけでなく、毛利家の当主である元就からも高く評価され、同年5月9日付で元就直々の感状を与えられている 5 。この初陣での戦功が、宗勝に対する隆景の生涯にわたる信頼の礎となったことは想像に難くない。
後世の研究者から「主従関係というよりも、二人三脚に近かった」と評されるほど、二人の関係は密接であった 6 。宗勝は、勇将であると同時に、智将、そして交渉の名人という複数の顔を持ち、隆景の戦略構想を実現するために不可欠な存在であった 6 。
その特異な関係性を如実に物語るのが、宗勝宛に残された隆景自筆の書状である。その中には、「あれこれ相談したいので早く来るように。待っている。待っている。(彼是申し談ずべく候。早々御渡り有るべく候。待ち申し候。待ち申し候。恐々謹言)」とだけ記されたものがある 5 。具体的な用件を一切書かず、ただひたすらに宗勝の来訪を渇望するこの書状は、隆景が重要な意思決定を行う際に、宗勝の知見をいかに必要としていたかを雄弁に物語る一級史料である。これは単なる感情的な吐露ではなく、自身の戦略決定に宗勝という「頭脳」を必要とした、極めて実務的な要請でもあった。
宗勝の重要性は、小早川家臣団における客観的な地位にも表れている。家臣の席次を定めた「座配書立」において、宗勝は常に上座にその名が記されており、天正14年(1586年)の文書では、筆頭家老である椋梨氏に次ぐ2番目に「乃美殿」と記されている 5 。これは、彼が名実ともに小早川家中の中枢を担う人物であったことを示している。
さらに宗勝は、隆景の代理人として重要案件の処理にも当たった。永禄5年(1562年)以前に起こった、備後国尾道の浄土寺の梵鐘鋳造を巡る鋳物師間の争いでは、隆景は独断を避け、宗勝に命じて毛利元就・隆元の判断を仰がせている 5 。この一件は、宗勝が単に小早川家内の問題だけでなく、毛利本家との調整役という、より高度な政治的役割も担っていたことを示している。
宗勝と隆景の関係は、戦国大名とその家臣という定型的な主従関係を超えたものであった。隆景は、宗勝が持つ水軍統率力、外交交渉力、情報分析能力といった専門性を高く評価し、彼を戦略的パートナーとして遇した。このことは、毛利氏、特に小早川家が、旧来の家柄や世襲だけでなく、専門的な能力を持つテクノクラート(専門技術官僚)を権力の中枢に組み込むことで勢力を拡大した、先進的な統治システムを有していたことを示唆している。乃美宗勝の存在は、その経営体としての毛利氏の強さを象徴するものであった。
弘治元年(1555年)、毛利元就が陶晴賢の2万を超える大軍をわずか4千の兵で破った「厳島の戦い」は、日本の戦史に残る劇的な奇襲戦として知られる。この歴史的な勝利の裏には、乃美宗勝による水面下での外交と、戦場での機知に富んだ活躍があった。
陶晴賢との決戦を決意した元就にとって、最大の課題は圧倒的な兵力差であった 10 。特に、陶方が強力な水軍を擁していたのに対し、毛利方の水軍戦力は小早川水軍などを合わせても見劣りした 12 。元就が描いた奇襲作戦を成功させるには、戦場となる厳島への兵員輸送と、敵の退路を断つための制海権確保が絶対条件であった。そのため、当時瀬戸内海で最大の海上勢力を誇った村上水軍(能島・来島・因島の三家)の向背が、合戦の帰趨を決する最大の鍵となっていた 13 。
この極めて重要な外交交渉の大役を、元就と隆景は乃美宗勝に託した 3 。宗勝が選ばれたのには明確な理由があった。第一に、彼自身が小早川水軍を率いる海の将であり、海賊衆の気風や論理を熟知していたこと。第二に、そしてこれが決定的であったが、彼の妹が村上一族の有力者である因島村上氏の当主・村上吉充に嫁いでおり、さらにその娘(宗勝の姪)が能島村上氏の当主・村上武吉に嫁ぐなど、複雑な姻戚関係を通じて村上氏と強い繋がりを持っていたためである 4 。
宗勝はこの人脈を最大限に活用し、まずは来島村上氏の当主・村上通康のもとへ赴いた。通康は、若き能島当主・村上武吉の後見人でもあり、その影響力は大きかった 13 。陶晴賢も村上水軍に味方を要請していたが、それは単に書状を送るだけの形式的なものであった 3 。対照的に、宗勝は自ら来島に乗り込み、「せめて一日でよいから力を貸してほしい」と、最大の敬意を払い、誠意を尽くして懇願した 3 。刺し違えてでも味方に引き入れようとする宗勝の気迫と、理に適った説得は、ついに通康の心を動かし、村上水軍主力の毛利方への加勢が決定した 16 。この外交的勝利により、毛利水軍は陶水軍に匹敵する戦力を確保し、元就の奇襲作戦は実行可能な段階へと移行した。この功績により、宗勝は「陰の、そして最大の功労者」と評されている 13 。
合戦当日、宗勝の活躍は外交の場に留まらなかった。9月30日夜、暴風雨の中、毛利本隊は厳島の包ヶ浦への上陸を目指す。一方、小早川隆景が率いる別働隊は、宮島水道を迂回して厳島神社正面からの上陸を試みた 17 。この部隊に属していた宗勝は、敵の船団がひしめき合う厳島沖で、絶体絶命の状況を打開する奇策を案じる。
宗勝は、自軍の船団を筑前国からの援軍であると偽り、「我らは筑前より馳せ参じた宗像・秋月の者である。陶殿にお目通り致す故、道を開けられよ」と大音声で叫んだ 4 。暗夜と嵐で視界が悪く、敵味方の判別が困難な状況下で、陶方の水軍はこの偽計に完全に欺かれた。油断した敵船団がわずかに作った隙間を、小早川水軍は一気呵成に突破し、厳島神社の大鳥居付近への上陸を成功させたのである 17 。
厳島合戦における宗勝の功績は、彼の持つ二つの側面、すなわち「海の領主たちの力学を理解し、人脈を駆使できる外交官」としての一面と、「海戦の機微を熟知し、大胆な奇策を立案・実行できる指揮官」としての一面が、完璧に噛み合った結果であった。外交の成功が戦略的優位を生み、戦術の成功がその優位を決定的な勝利へと転換させた。元就が描いた「知謀」という壮大なグランドデザインを、海という現場で完璧に実行に移した最高の執行者、それが乃美宗勝であった。
厳島の戦いで毛利氏が中国地方の覇権を確立すると、乃美宗勝の活躍の舞台はさらに広がる。彼は毛利氏の勢力拡大に伴い、九州、四国、そして備中へと転戦し、水軍指揮、拠点防衛、直接戦闘、外交・調略と、あらゆる局面でその非凡な才能を発揮した。
厳島での勝利後、毛利軍は敗走した陶晴賢を追撃し、大内氏の本拠地である周防・長門へと侵攻した(防長経略)。この戦いにおいて宗勝は、大内義長が立て籠もる長門勝山城の情報をいち早く元就に報告し、関門海峡を海上から封鎖する重要な役割を果たしたと考えられる 6 。
大内氏滅亡後、毛利氏の次なる標的は、九州北部に勢力を張るキリシタン大名・大友宗麟であった。関門海峡の支配権を巡る争いの要衝となったのが、豊前国の門司城である。宗勝は、この門司城を巡る大友氏との数年にわたる激しい攻防戦において、水軍を率いて大友方の補給路を遮断し、城の防衛に決定的な貢献をした 6 。その存在感は絶大であり、小早川隆景が伊予の情勢について宗勝と相談したいと願いながらも、「あなたが門司から抜けることはできないし、私からは絶対に来いとは言えない」と書状に記すほど、宗勝は大友氏に対する強力な抑止力となっていた 6 。
この門司城の戦い(明神尾の戦い)では、宗勝の武勇を伝える逸話も残されている。彼は敵の勇将・伊美鑑昌と一騎打ちを演じ、一度は顔に槍傷を負いながらも怯むことなく、ついに相手を討ち取った 21 。この勝利は毛利軍の士気を大いに高めたという。さらに九州での戦功により、筑前の重要拠点である立花山城の城代にも任じられ、対大友戦線の最前線を指揮した 5 。
宗勝の活動範囲は九州に留まらなかった。毛利氏は、伊予国の河野氏を支援することで、大友氏や台頭する長宗我部氏を牽制する戦略をとっており、宗勝はこの伊予方面への出兵でも中心的な役割を担った。隆景が「与州(伊予)表の儀、我等は案内無き事候間」と宗勝に書き送っているように、彼は毛利家中で随一の伊予情勢の専門家と見なされていた 23 。
宗勝は、来島村上氏の一族である村上吉継らと緊密に連携を取りながら、伊予の宇都宮豊綱を攻め、これを降伏させた 24 。これにより、毛利氏は伊予における影響力を飛躍的に高めることに成功した。
天正3年(1575年)、毛利氏は備中の三村氏を滅ぼすため、大規模な軍事行動を開始した(備中兵乱)。宗勝もこの戦いに主力として参加し、三村氏の支城である常山城の攻撃を担当した 4 。
城主・上野隆徳らが奮戦するも、多勢に無勢で落城は時間の問題となった。その時、城内から予期せぬ一団が討って出た。城主の妻であり三村元親の妹でもある鶴姫が、34人の侍女たちに武装させ、自ら先頭に立って毛利軍に突撃してきたのである 4 。その凄まじい気迫と猛攻に、歴戦の宗勝の部隊も一時混乱し、壊走したという 4 。
やがて鶴姫は敵将である宗勝を見つけ、一騎打ちを申し入れた。しかし宗勝は、「女とは戦えぬ」とこれを固辞した 5 。自らの覚悟を認め、武士としての礼節を以て応じた宗勝に対し、鶴姫はこれ以上の戦いを諦め、三村家伝来の名刀「国平」を宗勝に差し出し、「我が死後を弔ってほしい」と願い出て城内へ戻り、自害して果てた 5 。
この鶴姫の逸話は、宗勝の人物像を深く理解する上で極めて重要である。彼は単なる冷徹な武将ではなく、敵であってもその名誉や覚悟を重んじる、戦国武士としての高い倫理観を持っていたことを示している。この人間的な深みこそが、厳島での外交交渉を成功させ、また主君隆景からの絶対的な信頼を勝ち得た背景にあったのかもしれない。武勇と仁徳を併せ持つ将であったからこそ、彼は敵味方から一目置かれる存在となり得たのである。
乃美宗勝の軍歴において、その名を最も輝かせた戦いが、天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いである。この海戦は、西国の雄・毛利氏と、天下布武を掲げる織田信長が、その総力を挙げて激突した一大決戦であり、宗勝はその中心で毛利水軍の総大将として采配を振るった。
当時、織田信長は、彼の支配に抵抗する大坂の石山本願寺と10年にわたる長期戦(石山合戦)を繰り広げていた。兵糧攻めによって追い詰められた本願寺は、同盟関係にあった毛利氏に救援を要請。これに応じた毛利輝元は、足利義昭を庇護していたこともあり、信長との全面対決を決意し、兵糧や弾薬を海上から本願寺へ運び込むことを決定した 29 。これを阻止すべく、信長は九鬼嘉隆らが率いる織田水軍を派遣し、大坂湾の木津川河口を封鎖させた。毛利水軍との衝突は、もはや避けられない情勢となった 31 。
天正4年(1576年)7月13日、毛利方はこの国家の命運を賭けた大事業の総大将に、乃美宗勝を任命した 4 。宗勝は、自らが率いる小早川水軍に加え、能島・来島・因島の村上水軍、そして宇喜多氏の援軍も合わせた、総数600艘から800艘ともいわれる大船団を組織 32 。瀬戸内海から大坂湾へと進出した。対する織田水軍は、九鬼嘉隆、真鍋貞友、沼間伝内らを将とする約300艘であり、数では毛利方が圧倒していた 30 。
木津川河口で対峙した両軍は、ついに激突した。織田水軍は、大型の安宅船を中心に鉄砲で応戦するが、海戦の経験で勝る毛利水軍は、巧みな操船術でこれを翻弄する。そして、勝敗を決したのが、毛利水軍の得意戦術であった「焙烙火矢(ほうろくひや)」であった 29 。これは、火薬を詰めた陶器製の球体に火をつけ、敵船に投げ込む一種の手榴弾であり、着弾と同時に爆発・炎上する強力な兵器であった。
宗勝の指揮のもと、毛利水軍は焙烙火矢を次々と織田方の安宅船に命中させた。木造船はひとたまりもなく炎上し、織田水軍は指揮官の多くを失い、壊滅的な打撃を受けた 30 。この圧勝により、毛利水軍は木津川の封鎖を突破し、石山本願寺への兵糧・弾薬の搬入という戦略目標を完全に達成したのである 31 。
この勝利は、石山本願寺の抵抗をさらに2年以上延命させ、信長の天下統一事業を一時的に停滞させるほどの大きな歴史的意義を持った。それは、陸上では無敵を誇った織田軍が、海上では敗れうることを天下に示した戦いであった。しかし、この手痛い敗戦から学んだ信長は、九鬼嘉隆に命じて焙烙火矢が効かない「鉄甲船」の建造を指示する 34 。そして2年後の第二次木津川口の戦いでは、この新兵器の前に毛利水軍は敗北を喫することになる。乃美宗勝の輝かしい勝利は、皮肉にも、日本の海軍技術史における新たなパラダイムシフトの引き金を引く結果となったのである。
木津川口での大勝利の後も、乃美宗勝は毛利氏の重鎮として活躍を続けた。しかし、時代の潮流は豊臣秀吉による天下統一へと大きく動き、宗勝の生涯もまた、その新たな時代の中で終焉を迎えることとなる。
毛利氏が豊臣秀吉に臣従した後、宗勝は主君・小早川隆景に従い、秀吉が推し進める天下統一事業に参加した。天正13年(1585年)の四国征伐や、天正15年(1587年)の九州征伐においても、小早川水軍を率いて、得意の海上輸送や兵站警備で重要な役割を果たしたと考えられる 36 。
宗勝の最後の出陣は、天正20年(1592年)に始まった文禄の役(朝鮮出兵)であった。すでに60歳を超えていたが、隆景に従い朝鮮半島へと渡海した。しかし、異国の地で病を得て、やむなく帰国 22 。同年9月23日、遠征軍の拠点があった筑前国糟屋郡秋屋(現在の福岡県糟屋郡付近)の陣中にて、波乱に満ちた66年の生涯を閉じた 4 。
宗勝の生涯の軌跡は、彼が残した城跡や寺社によって今に伝えられている。
賀儀城(かぎじょう)
宗勝の本拠地は、安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)にあった賀儀城である 4。瀬戸内海に突き出した標高約25メートルの丘陵に築かれたこの城は、典型的な海城(水軍城)であり、麓には船を隠すための「船隠し」と呼ばれる岩窟の遺構も残されている 38。彼の活動の原点が、この海と一体化した要害であったことがよくわかる。
勝運寺(しょううんじ)
賀儀城のほど近くにある曹洞宗の寺院で、宗勝自身が創建した菩提寺である 41。境内には、宗勝の遺髪が納められたと伝わる墓(宝篋印塔)が、彼が生涯を捧げた瀬戸内海を見下ろすように立っている 4。寺には、甲冑姿の宗勝を描いた肖像画や、主君・隆景から贈られたと伝わる弾薬庫など、貴重な遺品が今も大切に保管されている 1。
宗勝寺(そうしょうじ)
宗勝の遺体は、終焉の地である筑前国の真福寺に葬られた。彼の死を悼んだ小早川隆景は、その功績を称え、寺の名を宗勝の名から取って「宗勝寺」と改めさせ、寺領を寄進した 4。本拠地の安芸と終焉の地の筑前、二つの場所に彼の墓所やゆかりの寺が存在することは、その生涯が瀬戸内海を舞台に、西は九州まで及んでいたことを物理的に示している。
宗勝の家督は次男の乃美景継が継承した 4 。景継の子孫は江戸時代には「浦」姓を名乗り、毛利氏が治める長州藩(萩藩)に船手組(水軍)を司る重臣として仕えた 6 。彼らが藩に提出した家伝の文書群は、享保年間に編纂された『萩藩閥閲録』という史料集にまとめられた 46 。
この『閥閲録』巻11「浦図書」の項には、宗勝が毛利元就、隆元、小早川隆景、そして豊臣秀吉から感状を与えられた14の合戦を一覧にした「御感状陣所合戦場付立」という極めて貴重な記録が含まれている 5 。もし宗勝の一族が戦国の動乱の中で断絶していれば、彼の具体的な功績の多くは歴史の闇に埋もれていた可能性が高い。子孫が近世大名の家臣として存続し、家の由緒を記録として残したからこそ、我々は乃美宗勝という武将の生涯をこれほど詳細に知ることができるのである。
乃美宗勝の生涯を俯瞰するとき、彼が単なる一地方の武将ではなく、戦国後期の西日本の歴史、特に海洋を巡る攻防において、決定的な役割を果たしたキーパーソンであったことが明らかになる。
彼の軍歴は、その輝かしさを雄弁に物語っている。『萩藩閥閲録』に記録された14以上の合戦での感状は、彼が毛利・小早川軍の中核として、いかに継続的に、そして広範囲にわたって活躍し続けたかの客観的な証左である 5 。
年代(西暦) |
合戦・事績 |
場所 |
宗勝の役割・功績 |
天文16年(1547) |
神辺合戦(坪生要害攻め) |
備後国 |
小早川隆景の初陣に従軍し武功。毛利元就から感状を受ける 4 。 |
天文24年(1555) |
厳島の戦い |
安芸国 |
外交交渉により村上水軍を味方に引き入れる。偽装上陸作戦を成功させる 13 。 |
弘治2-3年(1556-57) |
防長経略 |
周防・長門国 |
大内義長の追撃戦に参加。関門海峡の海上封鎖を担ったと推定される 6 。 |
永禄4-5年(1561-62) |
門司城の戦い |
豊前国 |
水軍を率いて大友軍の補給路を遮断。敵将・伊美鑑昌を一騎打ちで討ち取る 6 。 |
永禄11年以降 |
伊予出兵 |
伊予国 |
毛利家の「伊予専門家」として度々出兵。宇都宮豊綱を降伏させる 23 。 |
永禄12年(1569) |
立花山城の戦い |
筑前国 |
城攻めで活躍し、落城後は城代に任じられ、対大友戦線の最前線を担う 5 。 |
天正3年(1575) |
常山合戦 |
備中国 |
城主の妻・鶴姫の突撃を受けるも、武士としての礼節を以て対応 4 。 |
天正4年(1576) |
第一次木津川口の戦い |
摂津国 |
毛利水軍の総大将として織田水軍を壊滅させ、石山本願寺への補給を成功させる 4 。 |
天正20年(1592) |
文禄の役 |
朝鮮 |
最後の出陣となるが、現地で発病し、帰国後死去 13 。 |
表2:乃美宗勝 主要合戦・功績一覧
しかし、彼の真価は戦場での武勇だけに留まらない。彼は、複雑な利害が絡み合う海の世界で同盟を成立させる優れた外交官であり、兵站と拠点を維持する冷静な戦略家であり、そして主君・小早川隆景の意図を深く汲み取り、その構想を実現する最高の補佐役でもあった。武勇、知略、交渉力、そして忠誠心という、武将に求められる能力を極めて高いレベルで兼ね備えた、戦国時代においても稀有なバランス感覚を持つ人物であったと評価できる 5 。
乃美宗勝という存在なくして、厳島での奇跡的な勝利も、大友氏との九州における勢力維持も、そして織田信長との長期にわたる抗争も、毛利氏にとってはるかに困難な道程となっていたであろう。彼は毛利氏の、ひいては西国戦国史の展開を左右した紛れもない重要人物であり、戦国時代の海洋戦略、そして陸と海が一体となった総力戦の実態を理解する上で、決して欠かすことのできない将星として、より一層の再評価がなされるべきである。