本報告は、戦国時代の越後国直江津の商人「久津見清右衛門」という人物に関する探求に応えることを目的とする。依頼者が提示した「直江津の商人」という情報に基づき、その生涯と活動の実態を徹底的に明らかにすることが本報告の主題である。
しかしながら、広範な文献調査および史料探索にもかかわらず、「久津見清右衛門」という固有名詞を戦国期の直江津という時空間に明確に関連づける一次史料、ならびに信頼性の高い二次史料は、現時点において確認されていない 1 。この史料上の「沈黙」は、本報告が向き合うべき最大の課題であると同時に、調査アプローチの転換を促す出発点となる。
したがって、本報告は特定の個人史を追跡するという伝記的アプローチから、歴史的プロファイリングという分析手法へと調査の射程を転換する。すなわち、「もし久津見清右衛門という名の豪商が戦国期の直江津に実在したならば、彼はいかなる人物であり、どのような社会的・経済的活動に従事していたか」という問いを設定する。この問いに答えるため、彼が生きたであろう時代と場所、すなわち戦国期における要港・直江津の政治、経済、社会構造を徹底的に解明し、その中に彼のような商人が占めたであろう位置と役割を立体的に再構築する。このアプローチを通じて、記録の狭間にその名を留めなかったかもしれない一人の商人の実像に、可能な限り論理的かつ具体的に迫ることを目指すものである。
久津見清右衛門が活動の拠点としたとされる直江津は、戦国時代に突如として歴史の表舞台に現れたわけではない。その重要性は、古代から連綿と続く歴史的重層性の中に根差している。本章では、直江津が戦国期においてなぜそれほど重要な戦略拠点となり得たのかを、その通史的な発展過程から明らかにする。
直江津の港としての歴史は非常に古く、奈良時代の史書にはすでに「水門都宇(みなとのつ)」という名でその存在が記されている 2 。さらに鎌倉時代、1223年(貞応2年)に成立したとされる日本最古の海事法規集『貞応廻船式目』(一般に『廻船式目』として知られるものの原型か)には、「江澗(えま)」として日本海側の主要七港「七湊」の一つに数えられていた 2 。この事実は、直江津が早くから日本海航路における重要な結節点として全国的に認識されていたことを示している。
この港は、近傍に置かれた越後国府の外港「郷津(ごうづ)」としての機能も担っていた 4 。政治・行政の中心地である国府と、経済・物流の拠点である港が一体となって発展したことは、この地域が越後国における中心的地位を確立する上で決定的な要因となった。
また、直江津が単なる物流拠点に留まらなかったことは、多くの歴史的伝承からも窺い知ることができる。浄土真宗の宗祖・親鸞が承元元年(1207年)に越後へ配流された際の上陸地とされ 5 、現在も国府別院をはじめとするゆかりの史跡が数多く残る。さらに、源義経が兄・頼朝の追討から逃れ奥州平泉へ向かう途中に立ち寄ったという伝説も残されている 6 。これらの伝承は、直江津が人、文化、そして情報が絶えず行き交う交通の要衝であったことを物語っている。
室町時代に入ると、直江津の地位はさらに揺るぎないものとなる。16世紀頃に成立したとされる海事法規『廻船式目』において、直江津は「今町湊」の名で、日本を代表する10の港湾「三津七湊」の一つとして正式に記載された 4 。これは、直江津がもはや一地方の港ではなく、全国的な海上交通網に公式に組み込まれた、誰もが認める一級の港湾であったことの動かぬ証拠である。
この港の特異な地理的・文化的位置付けは、当時の文学作品にも色濃く反映されている。室町期に成立した軍記物語『義経記』では、義経一行が「直江津は北陸道の中途」であるとし、ここを境に西からは熊野詣の山伏が、東からは出羽三山の山伏が行き交うと偽る場面がある 7 。また、謡曲『婆相天』においても、直江津で人買いにあった姉弟が、それぞれ東国と西国から来た船頭に別々に売られていく様子が描かれている 7 。これらの記述は、直江津が物理的な港であると同時に、当時の人々にとって東西日本の文化が出会い、混じり合う「境界」であり「十字路」として強く認識されていたことを示唆している 9 。多様な商品と情報、そして異なる文化を持つ人々が集まるこのダイナミックな空間こそ、久津見清右衛門のような豪商が活躍する格好の舞台であった。
戦国時代、越後を治めた上杉謙信・景勝にとって、直江津は領国経営の生命線であった。彼らはこの港を最重要拠点と位置づけ、手厚く保護したことが記録されている 4 。戦国大名にとって、港湾を制することがいかに死活問題であったかを示す典型例と言える。
しかし、ここで重要なのは、直江津の価値が上杉氏という特定の権力者によってのみ創出されたのではないという点である。古代からの港湾機能の歴史的蓄積、国府との密接な連携、そして『廻船式目』への記載に象徴される全国的なネットワークへの編入という、一種の「歴史的経路依存性」こそが、上杉氏が活用し得た最大の資産であった。つまり、上杉氏はゼロから港を開発したのではなく、既に完成された全国区の港湾システムを手中に収めることで、その経済力と軍事力を飛躍的に高めることができたのである。久津見清右衛門のような商人たちは、まさにこの長く豊かな歴史の土壌の上に花開いた存在であり、歴史が作り上げた巨大な資産を運用する、時代の最先端をゆくプレイヤーの一人であったと理解することができる。
上杉氏の支配下において、直江津の商人たちは領国の経済を支える重要な役割を担った。本章では、上杉氏の財政基盤と港湾都市・直江津の関係、特に上杉氏の富の源泉とされた特産品「青苧(あおそ)」取引の実態を解明する。さらに、その中心人物であった商人・蔵田五郎左衛門の多岐にわたる活動を分析することで、久津見清右衛門が置かれていたであろう経済環境と、彼に期待された役割を具体的に描き出す。
長尾景虎(後の上杉謙信)は、永禄三年(1560年)に府内(国府)の町人に対し、諸役・地子を免除する布告を出している。この中には、直江津港へ入港する船と船荷にかかる税も含まれていた 7 。この政策は、単なる減税ではなく、自由な経済活動を保障することで領外から積極的に商人と物資を呼び込み、港湾都市そのものの経済力を底上げしようとする、極めて先進的な経済戦略であった。この時、免除対象として「茶ノ役」や「鉄役」などが具体的に挙げられていることから、直江津では茶や鉄をはじめとする多様な商品が活発に取引されていたことがわかる 7 。
謙信の時代、上杉氏は直江津港を拠点として、米、塩鮭、綿布、麻布といった領国の産物を京阪地方へ販売する販路を確立し、その交易範囲は遠く九州や、当時「蝦夷地」と呼ばれた北海道にまで及んでいたという 10 。これは、直江津が単なる物資の集積地ではなく、広大な日本海交易圏のハブとして機能し、上杉氏の財政を潤すための輸出拠点であったことを明確に示している。
上杉氏の経済力を語る上で欠かせないのが、特産品である青苧の存在である。青苧とは、苧麻(ちょま)やカラムシとも呼ばれるイラクサ科の植物から作られる繊維であり、高級織物である越後上布などの原料として非常に珍重された 11 。
この青苧の取引を独占的に行っていたのが、「青苧座」と呼ばれる同業者組合であった。青苧座は、生産地である越後、中継地である近江坂本、そして大消費地である京都や摂津天王寺などに組織され、全国的な流通ネットワークを形成していた 14 。越後国内の魚沼地方などで生産された青苧は、信濃川の舟運を利用して小千谷に集められ、そこから馬によって直江津や柏崎といった港へ輸送された後、船で全国各地、特に京都方面へ向けて出荷された 13 。直江津は、この一大産業における最大の輸出港だったのである 7 。
通説では、この青苧取引によって得られる莫大な利益が上杉氏の軍事行動を支える重要な財源であったとされている 13 。直江津港に入港する青苧を積んだ船から徴収する入港税だけでも、年間4万貫(現代の価値で数十億円規模)に達したという試算もある 16 。一方で、謙信時代の財政状況を直接示す一次史料は乏しく、青苧の重要性を過大評価すべきではないという慎重な意見も存在する 12 。しかし、後述する蔵田五郎左衛門と青苧座の密接な関係を見る限り、青苧が上杉氏の経済戦略において中心的な役割を果たしていたことは疑いようがない。
直江津の商人を語る上で、蔵田五郎左衛門という人物の存在は欠かすことができない。彼は、久津見清右衛門が目指したであろう、あるいは同時代に生きた商人の最高到達点を示す象徴的な人物である。彼の活動は、単なる商人の域を遥かに超えていた。
第一に、彼は「越後青苧座」の頭目として、上杉氏の権威を背景に領内の青苧流通を強力に統制した 17 。第二に、彼は優れた「外交交渉人」であった。当時、青苧の流通課税権は京都の公家である三条西家が「本所」として保持していたが、蔵田は大永五年(1525年)、上杉氏(当時は長尾為景)の代理として上洛し、三条西家に対して座役(上納金)の減額を求める直接交渉を行っている 12 。これは、地方の武家権力が中央の伝統的権威に挑み、経済的な実権を自らの手中に収めていくという、戦国時代の下剋上の流れを象徴する出来事であった。
第三に、彼は「領国経営者」としての顔も持っていた。永禄三年(1560年)、謙信が関東へ出陣している際には、春日山城の留守居役を任され、城の普請や火の用心、さらには城下町である府内の町人統制に至るまで、広範な権限を委ねられていた 18 。これは、蔵田が単なる御用商人ではなく、武将と同等の信頼を得て、領国統治の一翼を担う腹心であったことを示している。さらに、「五郎左衛門」という名は、祖父の代から三代にわたって受け継がれた名跡であったことが史料から確認でき 18 、蔵田家が一代の才覚だけでなく、家として上杉氏との間に強固な主従関係を築き、その重要な役割を世襲していたことを物語っている。
この蔵田五郎左衛門の驚くべき多才さを理解する上で、彼の出自に関する一つの説が極めて重要な示唆を与える。それは、彼が元々「伊勢神宮御師(いせおんし)」であったというものである 20 。御師とは、伊勢神宮への参詣者の案内や宿泊の世話、祈祷の取次ぎなどを行う神職であり、その活動を通じて全国各地に「檀那(だんな)」と呼ばれる信者・パトロンの広大なネットワークを構築していた 22 。彼らは単なる宗教家ではなく、この全国網を駆使して各地の情報を収集し、さらには檀那からの献金などを元手とした金融活動(高利貸資本)にも従事する、高度な専門知識と情報網を持つプロフェッショナル集団であった 25 。
蔵田氏がこのような伊勢御師のバックグラウンドを持つ人物であったと仮定するならば、彼が示した卓越した交渉能力、情報収集能力、そして財政管理能力は、全て合理的に説明がつく。彼の活躍は、宗教的な権威とネットワークが、経済的、そして政治的な権力へと転換していく戦国時代のダイナミズムそのものを体現している。この事実は、久津見清右衛門をはじめとする他の直江津の豪商たちもまた、単に商品を右から左へ動かすだけの存在ではなく、青苧座のような同業組合や、あるいは何らかの宗教的ネットワークに属することで広域な人脈と情報網を確保し、それを武器に活動していた可能性を強く示唆している。
本章では、本報告の中心的な問いである「久津見清右衛門」という人物の実像に、より直接的に迫る。直接的な史料が存在しないという厳しい制約の中で、名称の比較検討、同時代の類例分析、そして歴史的プロファイリングという手法を駆使し、その人物像を論理的に構築していく。
調査の結果、「久津見清右衛門」という名の商人が戦国期の直江津にいたことを示す直接的な史料は見つからなかった。この「史料の沈黙」について、いくつかの可能性が考えられる。
第一に、そもそも実在しなかった、あるいは後世の創作である可能性。第二に、「久津見」が屋号であったり、「清右衛門」が通称であったりして、正式な姓名ではなかったため、公式な記録に残らなかった可能性。第三に、口伝などで語り継がれるうちに、本来の名前が誤って伝わったり、変容したりした可能性。第四に、関連する史料そのものが、度重なる大火や戦乱などで散逸してしまった可能性である。特に直江津は「大火のまち」としても知られ、北前船で栄えた時代の船主の豪邸なども現存していないことが指摘されており 4 、史料の散逸は十分に考えられる。
参考までに「久津見」という姓について調査したところ、時代も場所も異なるが、江戸中期の肥後国(現在の熊本県)において、河川の治水技術者として「久津見氏」の名が記録されている 1 。しかし、越後の商人との直接的な関連性を見出すことは困難である。
史料の沈黙を探る中で、注目すべき一つの記録が存在する。ある史料に、1546年生まれの「岩崎宗左衛門(いわさき そうざえもん)」という人物が、「南越後」「直江津の商人」として記載されている 26 。この人物の活動時期(16世紀後半)、拠点(直江津)、身分(商人)は、依頼者が提示した「久津見清右衛門」の概要と著しく類似している。
ここで、「久津見清右衛門」という名前が、この「岩崎宗左衛門」からの誤伝や変容によって生じたのではないか、という仮説が浮上する。例えば、「岩崎」がいつしか同音を含む別の姓に置き換わり、「宗左衛門」がより一般的な「清右衛門」へと変化した、といった可能性である。断定はできないものの、この「岩崎宗左衛門」こそが、語り継がれるうちに「久津見清右衛門」という名になった、その原型である可能性は十分に考慮に値する。
「久津見清右衛門」がどのような役割を担う商人であったかを具体的に理解するため、同時代に他の戦国大名に仕えた御用商人と比較分析を行う。これにより、戦国期という特殊な時代における「豪商」の役割と社会的地位の輪郭を浮き彫りにすることができる。ここでは、前章で詳述した上杉氏の蔵田五郎左衛門と、中国地方の雄・毛利氏に仕えた渋谷与右衛門を比較対象とする。
渋谷与右衛門は、備後国の港町・尾道を拠点とした船持ち商人であった 26 。彼は毛利氏のために、武器や兵糧米といった軍需物資の調達・輸送を一手に引き受け 27 、さらには「合薬」と呼ばれる火薬の買い付けまで行っていた記録が残っている 29 。まさに毛利軍の兵站を支える大動脈であり、その功績によって毛利氏から200石もの知行地を与えられていた 27 。しかし、その一方で、彼はあくまで「商人」「廻船業者」として扱われ、戦場で戦う「武士」とは明確に身分を区別されていた 27 。
この二人の人物像と、久津見清右衛門の推定像を比較すると、以下の表のように整理できる。
項目 |
蔵田五郎左衛門(上杉氏) |
渋谷与右衛門(毛利氏) |
久津見清右衛門(上杉氏)の推定像 |
拠点 |
越後・府中/直江津 |
備後・尾道 |
越後・直江津 |
主な活動 |
青苧座の統轄、財政管理、外交交渉、領内統治(留守居役) |
廻船業、兵站(武器・兵糧・火薬)の調達と輸送 |
廻船業、青苧・鉄・塩などの商品交易、上杉氏の物資調達 |
大名との関係 |
上杉氏の絶対的な信頼を得た腹心・経営パートナー |
毛利氏に「馳走」する重要な協力者だが、身分は明確に区別 |
上杉氏と密接な関係を持つ御用商人。蔵田氏ほどではないにせよ、経済面で深く依存される存在 |
出自・背景 |
伊勢御師出身の可能性(広域ネットワークと専門知識) |
相模国出身で、毛利氏に仕え尾道に移住したとされる 30 |
不明。しかし、直江津という東西交通の結節点にいる以上、広域な情報網や人脈を有していた可能性が高い |
特筆事項 |
複数代にわたり襲名。武将に近い権限を持つ。 |
功績により知行地を拝領するも、武士とは扱われず。 |
蔵田氏のような政務への関与よりも、廻船業や商品売買といった純粋な経済活動に特化していた可能性も考えられる |
この比較分析は、史料なき人物像を論理的に再構築するための有効な枠組みを提供する。蔵田五郎左衛門は、政治・外交にまで深く関与する「官僚・経営者型」の商人であり、渋谷与右衛門は、軍事ロジスティクスに特化した「専門家・兵站担当型」の商人と言える。久津見清右衛門は、この両者の間に位置するか、あるいはどちらかに近いタイプの商人であったと推測される。
以上の多角的な分析に基づき、「久津見清右衛門」の人物像を以下のようにプロファイリングすることができる。
彼は、戦国時代の直江津に拠点を置く、有力な廻船問屋の主であった可能性が高い。自ら、あるいは一族で複数の船を所有し、日本海航路を舞台に広域交易を展開していた。上杉氏の御用商人として、領国の最重要産品である青苧の輸送・販売に関与したり、あるいは逆に、領国に不可欠な鉄や塩、さらには大陸からの輸入品などを調達・供給する役割を担っていたと考えられる。
その影響力は、蔵田五郎左衛門のように領国経営の中枢にまで及んでいたかもしれないし、あるいは渋谷与右衛門のように、海運や特定商品の調達といった専門分野で上杉氏を支えるスペシャリストであったかもしれない。いずれにせよ、彼は単に商品を売買するだけの商人ではなく、戦国大名の経済、ひいては軍事戦略にまで影響を及ぼしうる、重要な存在であったことは間違いない。
戦国時代の終焉とそれに続く天下統一の動きは、上杉氏と、その経済を支えてきた直江津の商人たちに、決定的な転機をもたらした。本章では、慶長3年(1598年)の上杉氏の会津移封という歴史的事件が、久津見清右衛門のような商人たちの運命に与えたであろう深刻な影響と、彼らがとったであろう生き残り戦略について考察する。
豊臣秀吉の命により、上杉景勝は越後国から会津120万石へと移封された 31 。石高の上では98万石から120万石への栄転であり、秀吉政権下で徳川家康や伊達政宗を牽制する重要な役割を期待されたものであった 34 。しかし、この国替えは、上杉氏の経済構造に根本的な変化を強いるものであった。
この移封が上杉氏にとって持つ意味を正しく理解するためには、石高という農業生産力に基づく指標だけを見てはならない。上杉家の強大な経済力の源泉は、直江津港を核とする海洋交易にあった 35 。彼らは、いわば「海洋交易国家」としての性格を強く持っていた。ところが、移封先の会津は完全な内陸国である。この移封は、単なる領地の変更ではなく、上杉家の経済的生命線であった港湾ネットワークを完全に断ち切られることを意味した。これは、彼らの経営基盤そのものを揺るがす、破滅的な出来事であった可能性が極めて高い。彼らは、最も得意としてきた海洋交易に依存する経営から、不慣れな内陸農耕を基盤とする経営への転換を、突如として余儀なくされたのである。この経済基盤の脆弱化が、後の関ヶ原の戦いを経て米沢30万石へ大減封された際に、藩財政が極度に悪化する直接的な原因となったと考えられる。
主君である上杉景勝の会津移封に際し、直江兼続をはじめとする多くの家臣団は景勝に従い、越後を離れた 31 。では、久津見清右衛門のような商人たちは、どのような決断を下したのだろうか。
この問いに答える上で、極めて重要な示唆を与える記述がある。「家臣の一部や有力な商人が分家によって越後に残った例がみられることは確かです」という記録である 35 。これは、商人たちが大名への忠誠心一辺倒ではなく、自らの家業の存続と繁栄を第一に考え、リスクを分散させるという、極めて合理的かつ戦略的な経営判断を下していたことを示している。主君に従い新天地へ赴くことは、これまでの取引関係や情報網を失う大きなリスクを伴う。一方で、長年築き上げてきた直江津の拠点を完全に放棄することもまた、得策ではない。
したがって、久津見清右衛門のような大規模な商家は、一族を二つに分けるという選択をした可能性が高い。すなわち、一族の長や後継者の一部は上杉家に従って会津、そして後の米沢へと移り、大名との関係を維持する。その一方で、別の一族や有力な番頭などを直江津に残し、これまでの海運業や交易の拠点を維持・継続させる。このような戦略をとることで、彼らは旧領と新領地の双方にネットワークを張り巡らせ、時代の変化に対応しようとしたのではないだろうか。実際に、江戸時代の米沢藩には、旧領である越後から多くの商人や出稼ぎ者が訪れていたという記録があり 36 、両者の経済的な繋がりが途絶えることなく維持されていたことが窺える。
上杉氏が去った後の直江津は、決して寂れたわけではなかった。江戸時代に入ると、高田藩の外港として、そして日本海航路の西廻り航路が整備される中で「北前船」の重要な寄港地として、新たな繁栄の時代を迎える 4 。
この時代、直江津には多くの廻船問屋や、船乗りたちを相手にする遊郭が出現し、経済的な自立とともに活気ある町衆文化が開花した 4 。18世紀には、福永十三郎という豪商が登場し、直江津港に水揚げされた魚類の自由販売権を求めて高田藩や幕府と渡り合うなど、力強い商人の活動が見られる 38 。
もし、久津見清右衛門の一族が直江津に残っていたとすれば、彼らはこの北前船交易という新しい時代の波に乗り、廻船問屋や船主として活動を継続し、さらなる富を築いた可能性も考えられる。戦国大名という特定のパトロンとの関係から、より広範で自由な市場経済の担い手へと、その姿を変えていったのかもしれない。
本報告は、戦国時代の直江津の商人「久津見清右衛門」という一人の人物を追う調査から始まった。しかし、広範な調査にもかかわらず、その名を特定する直接的な史料を発見するには至らなかった。この結果は、歴史研究、特に記録に残りづらい商人層を対象とする研究の困難さを改めて示すものである。
しかしながら、この探求の過程は、特定の個人名の発見という当初の目的を超え、より大きな成果をもたらした。それは、久津見清右衛門が生きたであろう戦国期の要港・直江津という舞台が、いかにダイナミックで、全国的な経済・文化のネットワークにおいて重要な位置を占めていたかを、多角的に浮き彫りにしたことである。古代からの港湾機能の蓄積、全国にその名を知られた「三津七湊」としての地位、そして上杉氏の経済戦略の中核としての役割。これらの歴史的重層性こそが、久津見清右衛-衛門のような豪商を生み出す土壌であった。
本調査を通じて明らかになったのは、久津見清右衛門は、もし実在したならば、単なる一介の商人ではあり得なかったという事実である。彼は、歴史的深みを持つ要港・直江津を拠点とし、蔵田五郎左衛門や渋谷与右衛門といった同時代の商人たちと同様に、広域なネットワークと高度な専門性を駆使して、上杉氏という戦国大名の経済、時には政治や軍事までも支える「海の豪商」であったと強く推測される。彼の具体的な姿は、蔵田の政治力と渋谷の兵站能力の中に、色濃く投影されている。
最終的に、「久津見清右衛門」という名は、特定の個人を指す固有名詞というよりも、むしろ戦国時代の激動期に、港湾都市という経済のフロンティアで活躍した数多の商人たちの集合的な記憶が、長い年月を経て結晶化した一つの象徴的な存在として捉えることができるのかもしれない。本報告は、記録の狭間に埋もれた一個人の探求を通じて、その個人を形作った時代の構造そのものを解明する試みであった。この分析が、戦国期日本の経済と社会のダイナミズムを理解するための一助となれば幸いである。