最終更新日 2025-07-28

久遠寺日朝

久遠寺日朝は身延山中興の祖。学問と徳行を兼ね備え、伽藍移転、教学振興、宗門統制を推進。失明と快癒の経験から「目の神様」として信仰された。
久遠寺日朝

久遠寺日朝上人に関する総合研究報告書

序章:身延山中興の祖、日朝上人

日蓮宗の総本山として、宗祖日蓮聖人の霊境を守り続ける身延山久遠寺。その七百五十年に及ぶ歴史において、開祖日蓮に次ぐ重要人物として宗門の内外から深く尊崇される存在が、第十一世法主、行学院日朝上人である 1 。一般に、日朝上人は学問と徳行を兼ね備えた名僧として知られ、身延山のみならず日蓮宗全体の「宗門中興の祖」と仰がれている 1 。しかし、その実像は単なる高僧という一面に留まるものではない。

本報告書は、現存する史料や伝承を網羅的に分析し、日朝上人が卓越した寺院経営者、画期的な教育改革者、そして民衆信仰の対象という、極めて多面的な貌を持つ人物であったことを論証するものである。彼の生涯、思想、そして後世に遺した偉業を丹念に追跡することにより、室町時代後期という動乱の時代に、日蓮宗の礎を再構築した一人の巨星の実像に、多角的な視点から迫ることを目的とする。

第一部:行学院日朝の生涯 — 誕生から法灯継承まで

第一章:出自と法縁 — 伊豆宇佐美の誕生と仏門への道

日朝上人は、応永29年(1422年)1月5日、伊豆国宇佐美(現在の静岡県伊東市宇佐美山田)の地で生を受けた 1 。この時代は、室町幕府の権威に陰りが見え始め、正長の土一揆に代表されるように「日本開白以来土民蜂起是初也」(『大乗院日記日録』)と記録されるほど、社会秩序が大きく揺らぎ始めた変革期であった 4 。このような混沌とした時代状況が、後の彼の思想や行動に影響を与えた可能性は否定できない。

上人の俗名については確たる一次史料に乏しいものの、後代の記録によれば父は「朝善」であったと伝えられている 5 。彼の生誕地には、その旧跡として現在、朝善寺が建立されており、その縁の深さを今に伝えている 1

日朝上人の人生における最初の転機は、8歳という若さでの出家であった 1 。彼は三島(現在の静岡県三島市)に所在する本覚寺に入り、日出(にっしつ)上人の弟子となった 1 。師となった日出上人は、応永31年(1424年)に伊豆国分寺の跡地に本覚寺を建立し、伊豆一円を教化した名僧として知られる人物である 6 。日朝の初期の教学と思想の形成において、この師から受けた影響は計り知れない。日出上人が後に鎌倉に東身延妙厳山本覚寺を建立したこともあり、本覚寺は日朝にとって終生縁の深い寺院であり続けた 8

第二章:諸国遊学と思想の形成 — 仏教学と儒学の研鑽

仏門に入った日朝上人は、一つの場所に留まることなく、飽くなき探求心をもって諸国を巡り、その知見を深めていった。青年期には、武蔵国仙波(現在の埼玉県川越市)、日蓮宗のみならず日本仏教の中心地であった京都、奈良、そして天台宗の総本山である比叡山など、宗派の垣根を越えて各地を遊学した 1 。この広範な研鑽の旅は、彼が特定宗派の教義に凝り固まることなく、仏教全体の教えを俯瞰的な視野で捉えるための重要な基盤を形成した。

彼の学問的遍歴において特に注目すべきは、仏教学に留まらず、下野国(現在の栃木県足利市)の足利学校で儒学を修めた点である 4 。足利学校は当時、日本最古にして最高の学府と目され、全国から「学徒三千」と称されるほどの学徒が集う、事実上の大学であった 10 。ここで教えられていたのは、孔子の教えを中核とする儒学であり、それは単なる古典知識ではなく、経世済民、すなわち世を治め民を救うための実践的な統治論や倫理思想を含むものであった 12

日朝上人の後年の偉業、特に身延山久遠寺の伽藍移転という壮大な事業計画を立案し完遂した実行力、学僧の教育制度を体系化した改革、そして「年行事・月行事」といった宗門の運営制度を設計した卓越した経営・管理能力は、単に仏教学の知識のみから生まれたとは考え難い。その能力の源泉は、まさしく足利学校で学んだ儒学の実践的知見にあったと推察される。仏教の教義的深化と、儒学に基づく組織論や統治論とを融合させ、それを寺院・宗派という組織の経営と改革に具体的に応用したのである。この視座に立つとき、日朝上人は単なる「名僧」の枠を超え、時代を先導した稀有な「仏教経営者」としての側面が鮮明に浮かび上がってくる。

第三章:身延山久遠寺第十一世法主への道

諸国での広範な遊学と、各地の談林(学問所)における法華経や天台学の講義活動を通じて、日朝上人の学徳は広く知られるところとなった 4 。そして寛正2年(1461年、一説には寛正3年(1462年)ともされる 1 )、41歳の時に、日蓮宗の最高学府であり、宗祖の霊廟を護る身延山久遠寺の第十一世法主として迎えられた 2

彼が法灯を継承した当時の久遠寺は、宗祖日蓮が最初に草庵を結び、その御廟所が置かれている西谷(にしだに)に主要な伽藍が集中していた 14 。西谷は日蓮宗徒にとって最も神聖な場所であったが、谷間の狭隘な地形であったため、日蓮の聖地として全国から訪れる参拝者の増加に物理的に対応しきれなくなりつつあった 14 。久遠寺が抱えるこの構造的な課題を解決し、宗門の新たな発展の礎を築くことこそ、新法主となった日朝上人に課せられた最大の使命であった。

第二部:日朝上人の偉業 — 伽藍・教学・宗門の再興

第一章:身延山大伽藍の移転事業 — 現代に続く景観の創造

日朝上人の数ある功績の中でも、後世に与えた影響が最も大きいものの一つが、身延山久遠寺の伽藍を全面的に移転させた一大事業である。彼は、参拝者の増加によって手狭となった西谷から、山の南側斜面を大規模に造成して切り開いた広大な平坦地、すなわち現在の地へと、寺院の中核機能を移すという壮大な計画を断行した 14 。この大事業は、文明7年(1475年)頃に実行に移され、数年の歳月をかけて成就したと記録されている 14

この移転事業は、宗祖日蓮聖人の第二百遠忌を記念する事業として計画されたものであった 14 。それは単なる物理的な寺域の拡張に留まらず、日蓮宗の総本山としての威容を内外に示し、宗門の求心力を高めるという、極めて象徴的な意味合いを持っていた。この「大変な工事であった」と伝えられる難事業の完遂により、現在我々が目にする壮大な久遠寺の景観の基礎が、まさしく日朝上人の手によって築かれたのである 2

さらに、日朝上人の構想は建築物だけに留まらなかった。伽藍移転の際に、新たな参道に並木として杉を植栽したという伝承が残されている 18 。これが、後に身延山の名所となる「千本杉」の起源であるとされる。一方で、この杉並木は徳川家康の側室であった養珠院(お万の方)が植樹し、後に第三十三世日亨上人が補植したという別伝も存在しており 18 、その起源についてはさらなる歴史的検証が求められる。しかし、この植樹伝承の存在自体が、日朝上人が寺院の荘厳化において、建築だけでなく、それを取り巻く自然景観の造成にも意を用いていた、総合的なプロデューサーであった可能性を示唆している。

第二章:教学の振興と浩瀚な著作 — 知の巨人の側面

日朝上人は、大規模な土木事業を指揮する経営者であったと同時に、当代随一の学者でもあった。その学識の深さは、生涯にわたって著した500巻にも及ぶと伝えられる膨大な著作群によって証明されている 2 。その内容は、日蓮聖人の遺文に対する詳細な注釈書や、日蓮宗の根本経典である法華経の解説書など多岐にわたった 15 。代表的な著作としては、『元祖化導記』、『補施集 百十二巻』、『法華講演抄 三十六巻』などが挙げられ、彼の学問体系の広大さを示している 4

彼の学問的業績の中で、特に宗門史において計り知れない価値を持つのが、宗祖日蓮の遺文の蒐集と編纂事業である。彼は散逸しかけていた日蓮の真筆や写本を丹念に集め、その内容を精査・整理し、『録内御書』および『録外御書』として編纂した 4 。この事業は、日蓮の教えの原点を後世に正確に伝え、日蓮教学の学問的基礎を確立する上で、不可欠な根幹的作業であった。

さらに、日朝上人の慧眼は、教育システムの革新にも向けられた。彼は、門下生の教育をより効果的に行うため、当時、天台宗の談所(学問寺)で実践されていた「論義」という教育手法を導入した 15 。これは、教師が一方的に知識を授けるのではなく、学僧同士が特定のテーマについて問答・討論を行う形式である。この論義制度の導入は、単なる経典知識の暗記に留まらない、論理的な思考能力と実践的な布教問答能力を涵養することを目的とした画期的な教育改革であり、日蓮宗の学僧の質を飛躍的に高めることに貢献した。

第三章:宗門の統制と教線の拡大 — 組織改革者として

日朝上人の改革は、伽藍の整備や教学の深化といった領域に留まらなかった。彼は、久遠寺という巨大な組織を円滑に運営するため、優れた管理能力を発揮した。その代表例が、「年行事・月行事」の制度を定めたことである 4 。これは、年単位、月単位で寺院運営の責任者を定め、業務を体系化・分担させるものであり、これにより久遠寺の運営は属人的なものから、より安定的で持続可能な組織的運営へと移行した。この制度設計は、彼の儒学の素養に裏打ちされた、実践的な管理能力を示す好例と言える。

また、彼の視野は身延山内部に限定されず、宗門全体の発展に向けられていた。彼はその生涯をかけて、主に関東一円に40余ヶ寺もの新寺を建立したと伝えられている 2 。これは、単なる布教活動の成果というだけでなく、総本山である久遠寺を頂点とする教団の組織網を、戦略的に拡大・強化する意図があったと考えられる。各地に拠点を築くことで、宗門の勢力基盤を盤石なものとし、日蓮宗の教えをより広く、深く浸透させるための布石であった。これらの活動を通じて、日朝上人は日蓮宗を一個の強固な教団組織として再構築したのである。

第三部:「目の神様」信仰の源流と展開

第一章:失明と快癒の奇跡 — 信仰の原体験

日朝上人の名を宗門の枠を超えて広く知らしめることになったのが、「目の神様」としての信仰である。この信仰の起源は、彼自身の壮絶な個人的体験に遡る。

上人は61歳の時、長年にわたる学問と修行への凄まじい精励が原因で、両目の光を失ってしまった 2 。その過酷な日々は、「止暇断眠(しかだんみん)」、すなわち休息する暇も惜しみ、睡眠時間をも削って修行に打ち込む、と形容されるほどであった 2 。当代随一の学僧であり、宗門を率いる指導者にとって、失明という苦難は筆舌に尽くしがたい絶望であったに違いない。

しかし、日朝上人はこの苦難を自らの不徳の致すところとして深く懺悔し、絶望に屈することなく、ますます一心に法華経の信仰に励んだ。すると、経典の功徳力によって、失われた視力が完全に回復するという奇跡が起こったと伝えられている 2 。この個人的な苦難の克服という劇的な物語が、後世に広がる日朝信仰の原体験となったのである。

第二章:眼病守護の本尊と誓願 — 信仰の制度化

自らの体験を通じて信仰の力を再認識した日朝上人は、この功徳を自分一人のものとせず、広く衆生を救うための誓願へと昇華させた。視力を回復してから6年後の67歳の時、彼は自らの体験と信仰に基づき、「眼病消滅本尊」と呼ばれる特別な御本尊(曼荼羅)を揮毫した 2 。そして、「後世、法華経を信仰する人々が眼病で苦しむことがあれば、自分がその人々を守護し、平癒させる」という大願を立てたのである 2 。これにより、個人的な奇跡譚は、後世の信者が拠り所とすることのできる、普遍的な救済のシステムとして制度化された。

この眼病治癒の信仰は、やがて「学業成就」のご利益へと自然な形で拡大していく 2 。この発展は、単にご利益が付け加えられたという単純なものではなく、日朝上人の生涯と信仰の本質に根差した、論理的な帰結であった。まず、日朝上人自身の生涯が「学問への凄まじい精励」によって特徴づけられており、彼の失明はその「学びすぎ」が原因とされている 2 。次に、「目が開かれる」「視界が晴れる」という身体的な治癒のイメージは、「物事の道理がわかる」「学問の道が開ける」といった知的な覚醒のメタファーと極めて親和性が高い。

したがって、「学業の神様」という信仰は、日朝上人の「大学僧」としてのアイデンティティと、「目の神様」としての奇跡譚が民衆の意識の中で融合して生まれた、必然的な派生信仰であったと考えられる。この身体的な救済と知的な救済という二重性が、日朝信仰をより幅広い層に受け入れさせ、そのご利益をより普遍的なものとする上で大きな役割を果たした。

第三章:信仰の伝播と定着 — 権威との結びつき

日朝上人によって立てられた誓願は、まず宗門内部でその霊験を示した。彼の弟子であり、後に池上本門寺の第九世となった恵眼院日純上人が、晩年に視力が衰えた際、師である日朝から授かった御本尊に一心に祈願したところ、たちまち視力が回復したという逸話が伝えられている 1 。この出来事により、日朝信仰は身延山だけでなく、関東における日蓮宗のもう一つの中核寺院である池上本門寺にも深く根付くこととなった。

そして、この信仰が爆発的に広まる決定的な転機となったのが、時の最高権力者との結びつきであった。江戸時代前期、徳川幕府の四代将軍・徳川家綱がまだ幼少であった頃、重い目の病を患った。その際、身延山から江戸に出ていた僧侶が祈願を行ったところ、病がたちどころに平癒したという伝承が生まれたのである 3 。この霊験に感謝した徳川将軍家から久遠寺に寄進されたのが、日朝上人が隠居所とした覚林坊の「日朝堂」に現存する、壮麗な天井彫刻であると伝えられている 3

この将軍家による公認ともいえるエピソードは、日朝信仰の性格を大きく変容させた。それはもはや一個人の体験談や宗門内の奇跡譚に留まらず、国家的な権威によってその霊験が保証された「公的なご利益」へと昇華したのである。この権威付けにより、日朝信仰は武士から庶民に至るまで、あらゆる階層に急速に浸透し、今日に至る「目の神様」としての不動の地位を確立するに至った。

第四部:時代背景と関連人物との比較

第一章:室町・戦国期の甲斐国と武田氏との関係

日朝上人の活動を歴史的に正しく理解するためには、彼が生きた時代の甲斐国と、その支配者であった武田氏との関係を正確に把握する必要がある。まず留意すべきは、日朝上人の活動期(1422年-1500年)は、戦国武将として名高い武田信玄(1521年-1573年)の時代とは重なっていないという点である 19 。この時代考証は、両者の関係を論じる上での大前提となる。日朝上人と同時代に甲斐国を支配していたのは、甲斐国守護であった武田信昌(1447年-1505年)やその父・信守らであった 21

戦国時代を通じて、久遠寺が甲斐国主である武田氏や、同じく甲斐源氏の一族である河内領主・穴山氏の庇護を受けていたことは、複数の記録から確認できる 16 。日朝上人が成し遂げた大規模な伽藍移転事業のような、広大な土地の造成と多数の労働力を必要とするプロジェクトは、領主である武田氏の承認や、何らかの形での経済的・政治的支援なくしては、到底実現不可能であったと考えるのが自然である。

当時の守護大名にとって、領国内の有力な寺社勢力を保護することは、自らの権威を高め、領国支配を安定させるための重要な統治政策(寺社政策)の一環であった 23 。武田氏にとって、領内に日蓮宗の総本山という巨大な宗教的権威が存在することは、領国の精神的な支柱となり、統治の正当性を補強する上で大きな価値を持っていた。したがって、日朝上人と武田信昌の関係は、久遠寺の発展を願う宗教的指導者と、領国経営の安定化を図る政治的支配者との間の、相互利益に基づいた協調的な関係であったと推察される。

第二章:同時代の宗教改革者・蓮如との比較 — 二つの「中興の祖」

日朝上人の歴史的独自性を浮き彫りにする上で、彼とほぼ同時代を生き、浄土真宗を再興して同じく「中興の祖」と称された蓮如(1415年-1499年)との比較は、極めて有効な分析手法である 25 。両者は同じ動乱の時代に、それぞれの宗派が抱える課題に立ち向かい、その再興を成し遂げた巨人であるが、その手法と思想には対照的な特徴が見られる。

項目

久遠寺日朝(日蓮宗)

本願寺蓮如(浄土真宗)

生没年

1422年 - 1500年

1415年 - 1499年

主な活動拠点

甲斐国・身延山

近江、越前、山城、摂津など

布教方法

教学の高度化(論義制度)、聖典編纂(『録内御書』等)、寺院建立による組織網の拡大。 トップダウン型 の知的・制度的改革が中心。

「御文(おふみ)」と呼ばれる平易な仮名書きの手紙による民衆への直接的な教化。 ボトムアップ型 の民衆布教が中心。

組織論

教学と制度による宗門の統制。学僧の育成を重視し、知的な権威によって教団を指導。

自身の子女を各地の拠点に配する血縁による強固な支配体制を構築。門徒による自治的・軍事的な共同体(講)を形成。

政治権力との関係

地域の守護大名(武田氏)と協調的な関係を築き、その庇護のもとで寺院の発展を図る。

時に守護大名や既存の寺社勢力と激しく対立・抗争。加賀国では門徒が守護を打倒し、一国を支配(加賀一向一揆)。

後世への影響

身延山久遠寺の物理的・教学的基盤の確立。「目の神様・学業の神様」としての民衆信仰の定着。

日本最大級の宗教勢力である本願寺教団の基礎を確立。一向一揆は戦国時代の政治情勢を大きく左右。

組織のあり方においても、蓮如が自身の子女を要職に就けることで血縁を基盤とした強固な支配体制を築いたのに対し 26 、日朝は学問と制度による宗門の統制を目指した。政治権力との関わり方を見ても、時に激しい武力抗争も辞さなかった蓮如と、地域の支配者である武田氏と協調関係を築いたと見られる日朝とでは、その姿勢が大きく異なる。

同じ「中興の祖」という称号で呼ばれながらも、その手法と目指した教団の姿は、一方が民衆のエネルギーを直接組織化する情熱的な改革者であったとすれば、もう一方は知性とシステムによって教団を再構築する理知的な改革者であった。この比較を通じて、日朝上人の知的で堅実、かつ体系的な改革者としての性格が、より一層鮮明に浮かび上がってくるのである。

結論:後世に遺したもの — 物理的基盤と精神的遺産

行学院日朝上人が、その79年の生涯を通じて後世に遺したものは、多岐にわたるが、大きく三つの側面に集約することができる。

第一に、彼が遺したものは、壮大な「物理的基盤」である。彼が断行した身延山久遠寺の大規模な伽藍移転事業は、今日我々が目にする総本山の威容の直接的な礎となった。これは単なる建築事業ではなく、日蓮宗の永続的な発展を見据えた、未来への投資であった。

第二に、彼が遺したものは、強固な「教学的基盤」である。500巻にも及ぶ浩瀚な著作、宗祖日蓮の遺文の丹念な編纂、そして論義制度の導入に代表される教育改革は、日蓮宗の教学を深化させ、体系化し、後世の学僧たちが拠って立つべき学問的伝統を確立した。

そして第三に、彼が遺したものは、時代と宗派を超えて広がる「信仰的遺産」である。自らの失明と快癒という壮絶な体験から生まれた「目の神様」「学業の神様」としての信仰は、教義の難解さとは無関係に、人々の現世的な苦しみに寄り添う普遍的な救いのかたちとして、多くの民衆の心の拠り所となり、五百年以上の時を経た今日に至るまで、脈々と生き続けている。

総括すれば、日朝上人は、一人の敬虔な信仰者であると同時に、当代随一の学者、革新的な教育者、壮大なビジョンを持つ建築プロデューサー、そして卓越した組織経営者であった。これら複数の貌が、一人の人物のうちに奇跡的に融合していた。彼の多岐にわたる活動の総体こそが、「宗門中興の祖」という尊称にふさわしい、日朝上人の真の姿なのである。

引用文献

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  2. 行学院日朝上人 - 本久寺 http://www.honkyuji.com/nityou.php
  3. 当寺院について – 行学院覚林坊 – 山梨県身延山の宿坊・旅館 https://kakurinbo.jp/temple
  4. 日朝上人 - 日蓮宗 常泉寺 https://jousenji.org/nicho/
  5. 日朝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%9D
  6. 本覚寺(ほんがくじ) - 駿豆線沿線情報|三島市民ポータルサイト https://mishima-life.jp/sunzu/info.asp?id=179
  7. 本覚寺の御朱印・アクセス情報(静岡県三島広小路駅)(日蓮宗) - ホトカミ https://hotokami.jp/area/shizuoka/Hmmts/Hmmtstk/Dgyyy/69795/
  8. 『日朝さん』の信仰と目薬 - ある民間療法の現在について一 https://seijo.repo.nii.ac.jp/record/934/files/jpn-023-01.pdf
  9. 鎌倉の古建築めぐり(寺院編) https://www.kcn-net.org/kokenchiku/hongakuji/hongakuji.html
  10. 史跡 足利学校 | 栃木 足利 おすすめの人気観光・お出かけスポット - Yahoo!トラベル https://travel.yahoo.co.jp/kanko/spot-00022364/
  11. 足利学校 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AD%A6%E6%A0%A1
  12. 実は占いの聖地? 日本一古い学校「足利学校」見どころ・歴史を紹介! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/40614/
  13. 木造日朝上人坐像 - 台東区 https://www.city.taito.lg.jp/gakushu/shogaigakushu/shakaikyoiku/bunkazai/yuukeibunkazai/tyoukoku/mokuzou/nittyou.html
  14. 行学院 覚林房 | 由緒 https://yoshiro.soregashi.com/web/kakurinbo/k_yuisho.html
  15. 29.日朝上人報恩塔 | 千葉県鴨川市 大本山小湊誕生寺 公式サイト http://www.tanjoh-ji.jp/29.html
  16. 久遠寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%81%A0%E5%AF%BA
  17. 日蓮聖人の魂が棲む身延山久遠寺 - 山梨 https://www.yamanashi-kankou.jp/rekitabi/chishiki/nichiren.html
  18. 引続き請願を重ね大正8年(1919)79世日慈上人代全山の払下げ実現し、漸く身延山は宗祖在世時の山容に復古した。現寺有林は約800町歩である。顧みるに歴代の法主は信徒の丹誠を得て山林の経営に努めたのであるが https://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/T11_C01_S06_2.htm
  19. 武田信玄 https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/jinmei/singen.htm
  20. 甲斐の虎・武田信玄の家系図 https://kamakura-kamome.com/16009140780321
  21. 三十六文書 – 妙亀山 廣厳院 https://kougonin.com/ancientdocuments/
  22. 久遠寺の御朱印&見どころ完全ガイド~歴史や境内の魅力を写真付きで徹底解説(山梨県 身延町) https://gosyuinlog.com/kuonji/
  23. 守護大名と奉公衆・寺社勢力 http://www.manabi.wakayama-c.ed.jp/wakayama_hakken/pdf/section/02/02/116.pdf
  24. 守護大名 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/shugodaimyou/
  25. 蓮如上人 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/Temple/HumanRennyo.html
  26. 蓮如 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E5%A6%82
  27. 「蓮如上人略年譜及び光善寺略年表」真宗大谷派 淵埋山 出口御坊 光善寺 大阪府枚方市出口 https://www.kouzenzi.org/enkaku/index2.html