戦国時代の終焉を告げる天正19年(1591年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉の巨大な権力に対し、奥州の地で敢然と反旗を翻した一人の武将がいた。その名は九戸左近将監政実(くのへ さこんのしょうげん まさざね)。一般的に、彼は「南部家の家臣でありながら主家に背き、豊臣の大軍に敗れ去った反逆者」として語られることが多い 1 。しかし、この通説は、勝者である南部信直と豊臣政権の視点から描かれた歴史像に過ぎない。
政実の戦いは、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げ段階において、最後の組織的抵抗として敢行されたものであった 1 。この歴史的意義から、近年では、勝者の価値観が色濃く反映された「九戸政実の乱」という呼称は見直されつつある。代わりに、政実の主体性や在地領主たちの広範な連合という側面に光を当て、「九戸一揆」あるいは対等な勢力間の衝突と捉える「九戸合戦」といった、より中立的な用語が用いられるようになった 4 。
この呼称の変化は、単なる言葉の問題ではない。それは、歴史を勝者の側からのみ語るのではなく、敗者の論理や、中央集権化の波に抗った地方の矜持をも含めて多角的に再評価しようとする、現代歴史学の潮流を象徴している。本報告書は、この新たな視座に立ち、九戸政実という人物を単なる「反乱者」として断じることなく、その出自、南部一族内における真の地位、そして彼を挙兵へと駆り立てた複雑な政治的背景を、史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。中央の論理が地方を席巻する時代の転換点において、彼が何を守ろうとし、なぜ戦わねばならなかったのか。その生涯を丹念に追うことで、戦国末期の北奥羽に生きた武将の実像に迫りたい。
九戸政実の行動を理解するためには、まず彼が率いた九戸氏が、南部一族の中でいかなる存在であったかを正確に把握する必要がある。「南部家臣」という単純なレッテルは、その実態を見誤らせる危険を孕んでいる。
九戸氏の出自については、複数の説が存在する。最も一般的なのは、南部氏の始祖・南部光行の六男である行連を祖とする、南部氏の有力な庶流であるという説である 3 。しかしその一方で、室町幕府の名家であった二階堂氏の流れを汲むとする説や 8 、小笠原氏の末裔とする説も伝えられており 3 、その起源が一筋縄ではいかない複雑なものであったことを示唆している。
出自の謎はさておき、九戸氏が政実の代にその勢力を飛躍的に拡大させたことは疑いのない事実である。天文5年(1536年)に生まれたとされる政実は 3 、武将としての器量に極めて優れていたと伝えられる 6 。永禄12年(1569年)には、宗家当主である南部晴政の要請に応じ、出羽の安東愛季が侵攻した鹿角郡の奪還作戦で中心的な役割を果たし、武功を挙げた 3 。また、南方の斯波氏が侵攻した際には、石川高信(南部信直の父)を支援して講和に貢献するなど、南部一族の軍事行動に不可欠な存在としてその名を轟かせていた 6 。
九戸氏の特異な地位を最も明確に示すのが、室町幕府が彼らをどのように認識していたかである。永禄6年(1563年)頃の史料とされる『光源院殿御代当参衆並足軽以下衆覚』には、幕府に奉公する「関東衆」として、南部宗家の当主「南部大膳亮(晴政)」と並び、「九戸五郎(政実)」の名が同列に記されている 6 。これは、中央政権が九戸氏を、南部宗家に従属する単なる家臣ではなく、それに匹敵する独立した勢力として公認していたことを示す、極めて重要な証拠である。
この事実を裏付けるように、近年の郷土史研究では、政実を「独立大名」と見なす説が有力に提唱されている 8 。その根拠として、『参考諸家系図』などの史料において、南部信直が「南部」と記されるのに対し、政実は「九戸」と表記され、明確に区別されている点が挙げられる 8 。さらに『奥南旧指録』では、政実が「南部一門の惣領」であったと記されており、彼が単なる家臣ではなく、一族連合を束ねる特別な地位にあったことが窺える 8 。
これらの事実を総合すると、「家臣」か「独立大名」かという二者択一的な問いそのものが、戦国期の南部氏という緩やかな一族連合体の実態を捉えきれていないことがわかる。南部氏は、三戸の宗家を盟主としながらも、九戸氏や八戸氏といった有力な分家がそれぞれに大きな自治権と軍事力を保持する連合体であった 5 。対外的には「南部一族」として結束する一方、内部の利害が絡む問題では、各々が独立した主体として行動する。九戸氏は、宗家に従う「家臣」としての側面と、宗家と並び立つ「同盟者」としての側面を併せ持つ、極めて強力な「一門惣領」だったのである。この両義的な立場こそが、後の悲劇を生む構造的な要因となった。
九戸政実と南部信直の対立は、個人的な感情から始まったものではなく、南部宗家当主・南部晴政の巧みかつ危うい政治戦略によって、構造的に生み出されたものであった。
戦国大名としての南部氏の最盛期を築いた第24代当主・晴政には、長らく男子が生まれなかった。そのため永禄8年(1565年)、晴政は一族の実力者であった石川高信の子・信直を、自身の長女の婿養子として迎え、後継者(世子)とした 6 。しかし、これは晴政にとって必ずしも本意ではなかった。信直は聡明で器量があったがゆえに、かえって晴政の警戒心を煽ったのである。
事態が大きく動いたのは、元亀元年(1570年)に晴政に待望の実子・晴継が誕生したことだった 6 。自らの血を引く後継者を得た晴政にとって、もはや養子の信直は邪魔な存在でしかなくなった。さらに天正4年(1576年)に信直の妻(晴政の長女)が死去すると、両者の関係は決定的に悪化し、信直は世子の座を辞退して三戸城を去ることを余儀なくされる 6 。
この過程で、晴政が信直を牽制し、自らの権力基盤を固めるために打った一手が、九戸氏との連携強化であった。晴政は、自身の次女を、当時南部一族最強の実力者であった九戸政実の弟・実親に嫁がせたのである 6 。これは、信直に対抗するための「カウンターウェイト」として、九戸氏を自陣営に引き込む明確な政治的意図を持った行動であった。
この婚姻により、九戸実親は「晴政の婿」という、信直と並ぶ正統な後継者候補としての地位を得ることになった 12 。結果として、南部一族は、晴政と九戸氏を中心とする派閥と、信直を盟主とする北信愛・南長義らの派閥という、二大勢力に事実上分裂し、その対立は抜き差しならないものとなっていった 5 。
つまり、政実が南部宗家の家督問題に深く関与するようになったのは、単なる彼の野心からだけではない。それは、自身の地位に不安を抱いた当主・晴政が、信直を排除するために九戸氏の力を利用しようとした戦略に乗る形で、必然的に引き起こされた事態であった。政実は、この晴政の戦略を背景に、南部一族の権力中枢への影響力を具体化させていったのである。
天正10年(1582年)、南部家を揺るがす激震が走る。当主・南部晴政が病死すると、そのわずか1ヶ月後、後を継いだばかりの実子・晴継が13歳の若さで謎の急死を遂げたのである 3 。晴継の死因については、事故死とも、あるいは信直派による暗殺とも囁かれ 12 、その真相は深い闇に包まれている。この不可解な死は、家中の疑心暗鬼を極限まで増幅させ、燻っていた後継者問題を一気に爆発させた。
当主の座が空位となる中、一門の重臣たちによる後継者選定の評定が開かれた。候補者は、かつて世子であった田子(石川)信直と、先代晴政の婿である九戸実親の二人に事実上絞られた 11 。評定では、晴政との血縁の近さや九戸氏の強大な影響力を背景に、実親を推す声が多数を占めていたと伝えられる 11 。
しかし、この流れを覆したのが、信直派の筆頭家老・北信愛であった。信愛は「田子九郎信直は晴政の従兄弟にして晴継の大姉婿(長女の夫)なり。その器量、また他に勝る。まさに家督に立つべき者なり」と強硬に主張。評定の趨勢を無視し、武装した兵を田子城に派遣して信直を迎え入れ、半ば実力行使で第26代当主として三戸城に入城させたのである 3 。これは、合議を重んじる南部一族の伝統を覆す、クーデターに等しい行為であった。
この強引極まる家督の簒奪に対し、九戸政実が抱いた不満と遺恨は計り知れない 5 。彼の立場からすれば、これは単に弟が家督争いに敗れたという私的な問題ではなかった。正統な手続きと多数派の意見が一部の重臣の独断と武力によって捻じ曲げられ、不当な形で家督が奪われたのである。この一件により、政実と信直の関係は完全に破綻し、武力衝突も辞さない対決姿勢を固めるに至った。政実の行動原理は、単なる私怨を超え、「簒奪者・信直に対する義憤」と「一族の伝統的秩序の回復」という大義名分に支えられていた可能性が高い 14 。
南部一族の内部対立は、やがて日本全土を覆う巨大な政治変動の波に飲み込まれていく。クーデターによって家督を掌握したものの、その権力基盤は極めて脆弱であった南部信直は、自らの地位を盤石にするため、中央の権威、すなわち天下人・豊臣秀吉に接近するという活路を見出した 16 。
天正18年(1590年)、信直は秀吉による小田原征伐にいち早く参陣する。この行動が功を奏し、秀吉から南部氏の宗家としての地位と、糠部、閉伊、鹿角、久慈、岩手、紫波、比叡の「南部内七郡」にわたる広大な所領を公認する朱印状を授けられた 5 。これは信直にとって大きな政治的勝利であったが、同時に九戸政実にとっては致命的な一撃となった。
秀吉が断行した「奥州仕置」は、小田原に参陣しなかった大名を容赦なく改易するなど、奥州の伝統的な領主権のあり方を根底から覆すものであった 5 。この新しい秩序の下では、信直は豊臣政権に公認された「近世大名」となり、これまで半独立の「一門惣領」として宗家と並び立ってきた九戸氏は、その「家臣」として明確に位置づけられてしまったのである 5 。在地領主としての強い誇りを持つ政実にとって、これは到底受け入れられるものではなかった。「奥州とは無縁の人物(秀吉)に領土の口出しをされることに我慢がならない」という感情は、政実のみならず、多くの奥州の在地領主が共有するものであった 20 。
奇しくも、この奥州仕置の強引な手法は各地で激しい反発を招き、葛西大崎一揆や和賀・稗貫一揆といった大規模な反豊臣一揆が勃発していた 5 。信直がこれらの鎮圧に奔走している隙を突き、九戸方は信直方の南盛義を攻撃して討ち取るなど、すでに散発的な武力衝突を開始していた 5 。
信直の中央政権への接近という巧みな外交戦略は、南部氏内部の権力闘争の構図を根底から変質させた。政実が信直に反抗することは、もはや単なる内紛ではなく、南部宗家の背後にいる天下人・豊臣秀吉そのものへの反逆を意味するようになったのである 2 。九戸合戦は、豊臣中央政権と、それに抗う最後の奥州在地勢力との間の代理戦争という様相を帯び、政実は、自らの意図を超えて「天下への反逆者」という役割を背負わされることになった。
天正19年(1591年)正月、三戸城で執り行われた恒例の年賀の儀。南部一族の有力者が一堂に会するこの席に、九戸政実は病と称してただ一人姿を見せなかった 3 。これは、南部信直の宗主権を公然と否定する、事実上の宣戦布告であった。
政実の挙兵は、決して無謀な単独行動ではなかった。彼の呼びかけに応じ、信直の強引な家督継承や豊臣政権による奥州仕置に強い不満を抱く一族や在地領主たちが次々と結集した。特に、櫛引城主・櫛引清長、久慈城主・久慈直治と政則の父子、そして七戸城主・七戸家国らは、九戸方の中核をなす存在となった 25 。彼らの動機は、九戸氏との古くからの姻戚関係 29 、信直による伝統的な権益の侵害への反発 14 、そして中央政権への根強い反感 22 が複雑に絡み合った、組織的な一揆だったのである。
3月、ついに戦端が開かれる。九戸軍は一戸城や浄法寺城など、信直方の城館を次々と攻略。その勢いは凄まじく、緒戦において戦局を圧倒的に優位に進めた 1 。信直は必死に防戦するものの、九戸方の猛攻の前に家臣団の中から寝返る者も続出し、自軍だけでは到底この事態を収拾できない状況に追い込まれた 3 。
この緒戦の展開は、南部信直の権力基盤がいかに脆弱であったかを白日の下に晒した。彼は秀吉から「南部宗家」としてのお墨付きを得たものの、それは領内の実力者たちを心服させるには至っていなかったのである。政実の挙兵は、信直の統治能力の欠如を露呈させ、彼を全面的な外部戦力、すなわち豊臣軍への救援要請へと追い込む結果となった。
自力での鎮圧を断念した南部信直からの救援要請を受け、豊臣秀吉はこれを奥州の完全平定と自らの権威を天下に示す好機と捉えた。天正19年夏、秀吉は甥の豊臣秀次を総大将とする「奥州再仕置軍」の編成を命じる。その陣容は、日本の戦国史上でも類を見ない、まさにオールスターと呼ぶべきものであった 2 。
表1:九戸城攻め 豊臣方主要武将と推定兵力
役職・役割 |
武将名 |
備考 |
総大将 |
豊臣 秀次 |
秀吉の甥、関白。 |
軍監 |
浅野 長政 |
豊臣五奉行筆頭。実質的な作戦指揮官。 |
先鋒格 |
蒲生 氏郷 |
会津92万石の大名。当代きっての名将。 |
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伊達 政宗 |
奥州の覇者。遅参を許され、汚名返上のための参陣。 |
主力 |
徳川 家康 |
関東移封後の初陣。 |
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上杉 景勝 |
越後の大名。 |
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石田 三成 |
豊臣五奉行。 |
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堀尾 吉晴 |
豊臣三中老の一人。 |
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井伊 直政 |
徳川四天王の一人。 |
その他 |
最上 義光、佐竹 義重、津軽 為信、秋田 実季、小野寺 義道など東北諸大名 |
豊臣政権への服従を示すための動員。 |
総兵力 |
約6万~6万5千 (南部信直軍を含む) 1 |
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対する九戸軍 |
約5千 1 |
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この大軍の編成は、単なる軍事的な必要性を超えた、高度な政治的パフォーマンスであった。徳川家康や伊達政宗といった、かつて秀吉と敵対、あるいは緊張関係にあった大大名を動員することで、彼らに豊臣政権への服従を再確認させ、新たな支配秩序を内外に誇示する狙いがあった。政実は、この巨大な政治劇の、最後の「敵役」として選ばれてしまったのである。
対する九戸政実は、本拠地である九戸城に籠もり、徹底抗戦の構えを見せた。九戸城は、西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫淵川に囲まれた断崖上の台地に築かれた、天然の要害であった 20 。近年の発掘調査では、本丸の一部に東北地方では最古級とされる石垣が確認されているほか、複数の曲輪を隔てる大規模な薬研堀(V字型の空堀)や、巧妙に設計された虎口(出入り口)の跡が発見されており、当時最新鋭の防御思想を取り入れた堅城であったことが判明している 20 。
8月下旬、豊臣軍は九戸城の支城である姉帯城、根反城を攻略し 28 、9月1日には九戸城の完全包囲を完成させた。圧倒的な兵力差にもかかわらず、政実は地の利を活かし、少数精鋭による奇襲や、堀に米ぬかを撒いて陸地に見せかけ敵を誘い込むといった巧みな戦術を駆使して頑強に抵抗した 30 。豊臣軍は連日の猛攻で多数の死傷者を出し、戦いは予想外の苦戦を強いられることとなった 1 。
力攻めでは容易に落城せず、いたずらに損害と時間だけが過ぎていく状況に、豊臣軍の首脳、特に軍監の浅野長政と先鋒の蒲生氏郷は業を煮やした 3 。冬の到来も迫り、長期戦は避けたい彼らは、武力による制圧から謀略による攻略へと方針を転換する。
その白羽の矢が立てられたのが、九戸家の菩提寺である長興寺の住職・薩天和尚であった 20 。政実とは幼少期からの知己であったという薩天を使者として城内に送り込み、降伏を勧告させたのである 3 。豊臣方が提示した和睦の条件は、「城に籠もる全ての者の命を保証すること」、そして「政実が上洛し、秀吉に直接反乱の弁明をする機会を与えること」という、破格とも言えるものであった 14 。
城内では、弟の実親をはじめ多くの将が「これは敵の謀略に違いない」と猛反対した 25 。しかし、兵糧も尽きかけ、これ以上の抵抗が無益な犠牲を増やすだけであると判断した政実は、一人でも多くの兵士や領民の命を救うため、苦渋の決断を下す。天正19年9月4日、政実は自ら髪を剃り、白装束の姿で主だった将と共に城門を出て、降伏した 20 。
しかし、その降伏は、史上稀に見る残虐な裏切りによって踏みにじられる。城を出た政実ら主導者は、その場で即座に捕縛された。和睦の約束は一片の反故と化し、開門された城内へ豊臣軍が雪崩れ込む。そして、抵抗する術を持たない城兵や、城に避難していた女子供に至るまでを二ノ丸に追い詰め、火を放って一人残らず虐殺したのである 3 。この惨劇は「九戸の撫で斬り」として後世に伝えられ、近年の九戸城跡の発掘調査では、斬首された痕跡のある人骨が多数発見されており、この虐殺が歴史的事実であったことを裏付けている 5 。
豊臣軍の謀略は、単なる戦術的な選択ではなかった。それは、反逆者には一切の情けをかけないという秀吉の断固たる意志を天下に示すための、冷徹な政治的演出であった。正々堂々と戦って降伏を認めれば、政実に悲劇の英雄としての評価が生まれる余地があった。それを封殺するため、敢えて「騙し討ち」という最も不名誉な形で決着をつけ、彼らを「弁明の余地なき極悪人」として断罪し、その後の虐殺を正当化する狙いがあったと考えられる。
捕らえられた政実ら首謀者たちは、総大将・秀次の本陣が置かれていた三ノ迫(現在の宮城県栗原市)まで連行された。弁明の機会など与えられるはずもなく、9月20日、従容として斬首の刑に処された 5 。享年56歳であったと伝えられる 3 。その首は、家臣の佐藤外記が乞食に身をやつして密かに故郷の九戸まで持ち帰り、手厚く葬ったという伝説が、今なおこの地に語り継がれている 3 。
九戸政実という人物の評価は、依拠する史料の立場によって、光と影のように明確に分かれる。この対照的な二つの歴史記述は、歴史がいかに勝者によって語られ、敗者の記憶がどのように継承されていくかを如実に物語っている。
一方の極にあるのが、江戸時代に南部藩の公式見解として編纂された軍記物『南部根元記』である 40 。この史書では、南部信直の家督継承の正当性が繰り返し強調され、政実はその正統な主君に背いた「不忠の逆臣」として、徹底的に断罪されている 26 。この「反逆者・政実」というイメージは、近世を通じて南部藩の公式史観として定着し、後世の政実像に決定的な影響を与えた。
しかし、近年になって、これとは全く異なる視点から描かれた史料が発見された。秋田の旧家から見つかった『奥州南部九戸軍記』の写本である 42 。この軍記は、九戸氏に所縁のあった人物によって書かれたと推測されており、『南部根元記』とは対照的に、九戸政実を「北斗の英雄」として描き、その戦いを豊臣秀吉と南部信直の暴政に対する「義挙」として称揚している 42 。これは、公的な権力によって封じ込められていた、民間で語り継がれた「もう一つの歴史」の存在を示す、極めて貴重な史料と言える。
この二つの史料が示すのは、「歴史とは、常に権力と記憶の闘争の場である」という事実である。公的な権力者(南部藩)は、自らの支配の正当性を担保するために、政実を「反逆者」とする歴史を編纂し、流布させた。一方で、権力から排除された人々は、口伝や私的な記録によって、自分たちの正義と記憶を語り継ごうとした。
近代以降、中央集権的な国家史観が相対化され、地方史や敗者の視点に光が当てられるようになると、この「もう一つの歴史」が再び脚光を浴びるようになる。特に、作家・高橋克彦による歴史小説『天を衝く』は、政実を悲劇性と気骨に満ちた英雄として描き、その名を全国に知らしめた 44 。これに呼応するように、地元自治体による顕彰プロジェクトも活発化し 31 、九戸政実は「反逆者」から「郷土の英雄」へと、その評価を大きく転換させている。彼の評価の変遷は、史料を批判的に読み解き、多角的な視点から歴史の真実に迫ることの重要性を我々に教えてくれる、格好のケーススタディなのである。
九戸合戦の終結は、九戸氏の滅亡と豊臣政権による天下統一の完成を意味した 1 。しかし、滅ぼされたはずの九戸氏の血脈は、歴史の皮肉とも言うべき形で、その後も存続していくことになる。
乱の最中、政実の弟でありながら豊臣軍に協力し、道案内などの功を立てた中野康実は、処刑を免れた 47 。彼は戦後、南部信直から花輪城を預けられ、南部家臣として取り立てられる。そして、その子孫である中野氏は、江戸時代を通じて盛岡藩の家老職を世襲する「御三家」の一つとして、藩政の中枢で重きをなし続けたのである 7 。また、小軽米氏のように、乱後に信直に仕え、家名を保った旧家臣も存在した 7 。
この事実は、戦国から近世へと移行する時代の為政者の、冷徹なまでの現実主義を物語っている。南部信直は、最大の政敵であった政実とその主だった同調者は容赦なく排除したが、恭順の意を示した者は能力に応じて取り立て、旧九戸勢力の力を巧みに吸収することで、自らの権力基盤の強化に利用したのである。抵抗の象徴であった九戸の血が、皮肉にも新たな支配体制を支える礎の一部となったこの事実は、情念や遺恨よりも、実利と秩序の再構築を優先する近世大名の論理を象徴している。
一方、政実が命を賭して戦った九戸城は、乱後、蒲生氏郷によって石垣を備えた近世城郭として大改修され、「福岡城」と改名された 20 。南部氏が盛岡に本拠を移すまでのわずかな期間、北奥羽支配の拠点として機能したが、寛永13年(1636年)に廃城となった 30 。
現在、広大な城跡は国の史跡として整備され、訪れる人々に往時の激戦を偲ばせている 32 。そして、九戸村に残る政実の首塚 37 や、菩提寺である長興寺にそびえる大イチョウ 20 は、中央の巨大な権力に屈することなく、自らの矜持を貫き通した最後の戦国武将の記憶を、400年以上の時を超えて静かに今に伝えている。
九戸政実の生涯は、単なる一地方武将の反乱物語に留まるものではない。それは、戦国時代という旧来の秩序が、中央集権化という新たな時代の巨大な奔流に飲み込まれていく過程で、自らの矜持と地域の論理を守るために立ち上がった、最後の組織的抵抗の記録である。
彼の行動は、時代や立場によってその意味を大きく変える、普遍的な問いを我々に投げかける。「正義」とは何か。そして「忠義」とは何か 14 。主君である南部信直への抵抗は、確かに「不忠」であったかもしれない。しかし、その信直が中央の権力に屈していく中で、奥州の伝統と独立を守ろうとした政実の行動こそが、より大きな意味での「忠義」であったと捉えることも可能であろう。
勝者の記録である『南部根元記』と、敗者の記憶が込められた『奥州南部九戸軍記』。その両方を丹念に読み解き、考古学的な発見や近年の研究成果と照らし合わせることで初めて、我々は歴史の多層的な真実に近づくことができる。九戸政実の物語は、歴史を学ぶ上で史料批判がいかに重要であるかを教えてくれる、最良の教材の一つである。
中央の論理に抗い、謀略によって悲劇的な最期を遂げた武将。その生き様は、時代の転換期における人間の葛藤と尊厳の物語として、これからも多くの人々の心を捉え、語り継がれていくに違いない。