九条稙通は戦国期の摂関家当主。経済困窮で関白を辞し流浪。三好氏と結び畿内政局で暗躍、天下人とも対峙。古典学者でもあり、呪術にも傾倒。知と権謀で家門と文化を存続させた異能の公卿。
永正4年(1507年)から文禄3年(1594年)に至る九条稙通の生涯は、応仁の乱後の下剋上の風潮が日本社会を席巻し、織田信長や豊臣秀吉による天下統一事業へと向かう、未曾有の動乱期と完全に重なる 1 。この時代、朝廷とそれを取り巻く公家社会の権威は地に堕ち、荘園からの収入は途絶え、経済的にも極度の困窮状態にあった 1 。
このような歴史的背景の中、九条稙通は単に過去の栄光にすがり、時代の流れに翻弄される無力な公卿ではなかった。彼は、摂政・関白を輩出する五摂家の筆頭たる九条家の当主でありながら 3 、経済的困窮から関白の職を辞し 5 、畿内各地を流浪する 5 。しかしその一方で、台頭する戦国大名と婚姻関係を結び 5 、畿内政局の裏舞台でフィクサーとして暗躍し 8 、さらには「飯綱の法」という特異な呪術に深く傾倒する 5 など、極めて多面的で複雑な貌を持つ人物であった。
一般的に想起される「おじゃる」言葉を使い、白塗りの顔で雅な世界にのみ生きる公家像とは、かけ離れた存在である 5 。稙通の生涯は、むしろ「戦国時代の公家は無力で貧しく、京都の片隅で和歌を詠むだけの存在だった」という画一的な見方に対する、強力な反証となる。彼の能動的な政治活動や武家との連携は、公家が生き残りをかけて、伝統的な権威のみならず、現実的な権謀術数を駆使していた事実を物語っている。彼の行動は、旧来の権威が新興勢力と渡り合い、自らの存在価値を再定義していく、戦国という時代のダイナミズムそのものを体現していると言えよう。
本報告書は、これら「古典学者」「政治家」「武人」「神秘家」といった複数の貌を統合し、最新の研究成果を交えながら、九条稙通という稀代の人物の実像を徹底的に解明することを目的とする。
九条家は、藤原鎌足を遠祖とする藤原北家の嫡流に連なり、摂政・関白の地位に就くことができる最高の家格「五摂家」の中でも、筆頭格と目される名門である 4 。その祖は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝と結び、朝廷に重きをなした九条兼実に遡る。兼実以降、その子孫からは一条家や二条家が分出しており、九条家はまさに摂関家の宗家の一つとしての地位を確立していた 4 。
九条稙通は、この名門の16代当主として、左大臣であった父・九条尚経と、母・保子の間に生まれた 3 。特筆すべきは、母方の血筋である。母の保子は、当代随一の文化人であり、和歌や古典学の大家として知られた三条西実隆の娘であった 5 。この血脈は、稙通が後に当代屈指の古典学者として大成する上で、決定的な影響を与えることとなる。稙通が有した学識、すなわち「文化資本」は、単なる個人の教養に留まらず、政治的・経済的価値を持つ極めて重要な「無形資産」として、彼の生涯を通じて大きな役割を果たした。武家が軍事力で覇を競う時代にあって、稙通は「古典の知」を独占し、それを伝授する能力を、自らの価値を高め、有力者と渡り合うための交渉の切り札として用いたのである。
稙通は永正4年(1507年)1月11日に生を受けた 6 。元服に際しては、九条満家以来の家の慣例に従い、当時の室町幕府10代将軍・足利義稙から名の一字(偏諱)を賜り、「稙通」と名乗った 6 。これは、戦国の動乱の中にあっても、なお摂関家と将軍家が相互に権威を補完しあうという、旧来の秩序が形式上は機能していたことを示す事例である。
幼少期より、彼は公家の嫡男として、和歌、書、漢籍、そして九条家の家学である有職故実(朝廷の儀式や先例に関する学問)といった、高度な教育を徹底的に施された 1 。この盤石な学問的素養が、後の彼の文化活動の揺るぎない基盤となったことは言うまでもない。
しかし、稙通が青年期を迎えた1520年代から30年代にかけての京都は、安寧とは程遠い状況にあった。幕府の実権を巡る細川高国と細川晴元の抗争は都を戦火に巻き込み 1 、さらに天文元年(1532年)に始まる天文法華の乱は、宗教勢力である法華宗徒と延暦寺・本願寺勢力との大規模な武力衝突に発展し、京都の市街地は再び焦土と化した 11 。
こうした絶え間ない戦乱は、公家社会の経済基盤を根底から揺るがした。地方の荘園からの収入は、現地の武士によって横領され、ほぼ途絶状態に陥ったのである。五摂家筆頭の九条家もその例外ではなく、深刻な経済的困窮に喘いでいた 1 。この困窮こそが、名門の嫡男として順風満帆な道を歩むはずであった稙通の人生航路を、大きく予期せぬ方向へと転換させる決定的な要因となったのである。
天文2年(1533年)、稙通は27歳の若さで公家の最高位である関白、そして藤原氏全体の長である藤氏長者に就任した 5 。しかし、その栄誉とは裏腹に、九条家の財政は破綻寸前であった。彼は、関白就任を天皇に直接奏上し、感謝を述べる「拝賀」の儀式を執り行うための費用すら捻出できなかったのである 5 。
この異常事態は、摂関家の権威がもはや実態を伴わない、空虚なものとなりつつあることを内外に露呈した。そして翌天文3年(1534年)11月、稙通はついに一度も拝賀の儀を行えないまま、関白の職を辞任するという前代未聞の事態に至る 5 。この「未拝賀の関白」という一件は、戦国期における公家社会の窮状と権威失墜を象
徴する、極めて象徴的な出来事であった。
関白辞任後、稙通は経済的困窮と都の戦乱を逃れ、京都を離れる決断を下す。その足跡は、摂津、播磨といった畿内近国に始まり、商業都市・堺、さらには西国の安芸や九州にまで及んだと伝えられている 5 。この流浪の生活は、単なる困窮による都落ちや逃避行という側面だけでは捉えきれない。むしろ、この経験は彼にとって、重要な転機となった。
京都という閉鎖的な公家社会の常識から物理的にも精神的にも解放された稙通は、実力主義がすべてを支配する戦国の「現実政治」の力学を、その肌で直接体得することになった。流浪の先々で、彼は各地の有力者、特に当時畿内で急速に勢力を拡大していた三好氏のような新興勢力と接触する機会を得たと考えられる 12 。伝統的な家格や官位だけでは生き残れないこと、そして生き残るためには実力を持つ武家と手を結ぶ必要があることを、彼はこの時期に痛感したであろう。
したがって、彼の流浪は単なる「挫折」であると同時に、彼を宮廷儀礼の世界から現実主義的な政治の世界へと誘い、したたかな政治家へと鍛え上げるための、いわば「修練期間」であったと再評価することができる。事実、流浪の最中である天文15年(1546年)には、九条家の菩提寺である東福寺の塔頭・大機院を重修しており 6 、彼が家門の維持と再興への意志を失っていなかったことが窺える。
流浪の経験を経て現実政治の力学を体得した稙通は、都に戻った後、公家の枠を超えた大胆な政治活動を展開する。彼は、婚姻、養子縁組、そして巧みな交渉術を駆使し、戦国時代の畿内政局において無視できない影響力を持つ「フィクサー」としての地位を確立していく。
稙通の政治活動の中で最も特筆すべきは、当時畿内に覇を唱えていた三好氏との緊密な連携である。近年の歴史学者・馬部隆弘氏らの研究により、稙通は遅くとも天文17年(1548年)頃には三好氏と深い関係を築いていたことが明らかになっている 8 。
その連携を決定的なものとしたのが、娘と三好長慶の弟・十河一存との婚姻であった 5 。一存は「鬼十河」と恐れられた猛将であり、この縁組は、最高の家格を持つ九条家と、最大の軍事力を誇る三好家が、互いの利益のために結んだ戦略的同盟に他ならなかった 14 。公家としての権威を求める三好氏と、政治的・経済的安定を求める九条家の利害が見事に一致したのである。
この婚姻関係は、九条家に絶大な政治的影響力をもたらした。後に三好長慶の実子・義興が早世すると、稙通の孫、すなわち十河一存の子である三好義継が長慶の養子として三好本家の家督を継承することになった 7 。これにより、稙通は畿内の最大勢力である三好家の当主の外祖父という、極めて強力な立場を手に入れたのである。
稙通の影響力は、三好政権が長慶の死後に分裂(三好三人衆 vs 松永久秀・三好義継)した際に、より顕著になる。彼はこの内紛において、自身の孫である義継と、それを後援する松永久秀の側に立ち、政権の維持と安定化のために裏で動く「フィクサー」としての役割を担ったと指摘されている 8 。
さらに、彼の政治的活動の広がりを示す重要な史料が、近年発見された。稙通が天正13年(1585年)に記した日記の紙を再利用した「紙背文書」から、永禄11年(1568年)の織田信長上洛のわずか10日前に、彼が摂津の有力国人・塩川長満の居城を密かに訪問していたことが判明したのである 8 。これは、稙通が信長の上洛という歴史的事件の背後で、何らかの調整役を担っていた可能性を強く示唆しており、彼の政治的影響力が三好政権の枠を超えて及んでいたことを物語っている。
稙通のネットワークは武家勢力に留まらなかった。彼は、当時強大な宗教勢力であった石山本願寺の第11世宗主・顕如を猶子(相続権のない形式的な養子)としていた 6 。この関係は、顕如の父・証如の代に遡り、天文法華の乱で拠点の山科本願寺を焼失した本願寺側が、摂関家の権威を後ろ盾として求めたことに始まる 19 。一方の稙通は、この関係を通じて天文18年(1549年)には本願寺から金銭的な援助を受けており 6 、これもまた双方の利害が一致した戦略的提携であった。この深いつながりは、後の時代、九条家が東西本願寺の調停役を果たす伏線ともなった 6 。
時代の覇者が織田信長、豊臣秀吉へと移り変わる中で、稙通は公家の長老として、彼ら天下人と堂々と渡り合った。
織田信長に対しては、 上洛した信長に謁見した際、厳格に官位の上下を守り、立ったまま尊大な態度で「上総殿、御入洛大儀」とだけ声をかけ、信長を怒らせたと伝えられる 6 。これは、武力の前にも決して公家の誇りを失わないという、彼の気骨を示す逸話である。また、信長が東大寺の正倉院から切り取った名香・蘭奢待の一部を、正親町天皇を通じて下賜されたという事実も 20 、彼が朝廷と信長との間の緊張関係の中に位置する重要人物であったことを示している。
豊臣秀吉に対しては、 天正13年(1585年)の関白相論において、公家社会の代表として強硬な姿勢で臨んだ。秀吉が関白の地位に就くにあたり、藤原氏の嫡流は近衛家か九条家かという争いが生じた際、稙通は藤原氏伝来の三つの宝物、すなわち「藤氏三宝」(始祖・藤原鎌足の肖像画、恵亮和尚筆の紺紙金泥の法華経、名刀・小狐丸)が九条家に相伝していることを根拠に、自らが正統な嫡流であると主張した 3 。この稙通の頑なな抵抗を含む公家社会の複雑な内部対立を目の当たりにしたことが、秀吉に藤原氏の枠組み自体を超える「豊臣」という新たな姓を創設させる一因になったとも言われており 3 、彼の行動が歴史の大きな転換点に間接的な影響を与えた可能性は否定できない。
表1:九条稙通の主要な政治的関係者とその概要
氏名 |
所属・立場 |
稙通との関係 |
政治的意義 |
関連史料 |
三好長慶 |
畿内の覇者 |
娘婿・一存の兄 |
畿内における九条家の地位安定、三好政権への影響力確保 |
14 |
十河一存 |
三好家重臣 |
娘婿(舅) |
直接的な軍事的・政治的パイプの確立 |
5 |
三好義継 |
三好家当主 |
外祖父 |
三好家家督相続への介入、後見人としての立場 |
7 |
松永久秀 |
三好家家臣→独立 |
政治的連携 |
三好政権分裂後のフィクサーとしての活動 |
8 |
顕如 |
石山本願寺宗主 |
猶父 |
経済的支援の獲得、宗教勢力との連携 |
6 |
織田信長 |
天下人 |
対峙・緊張 |
公家の権威の保持、伝統の守護者としての矜持 |
6 |
豊臣秀吉 |
天下人 |
対峙・交渉 |
関白相論における嫡流主張、公家社会の代表としての交渉 |
6 |
九条稙通の政治家としての一面が、乱世を生き抜くための「剛」の戦略であったとすれば、彼が当代随一の古典学者として遺した業績は、公家の本分たる文化の守護者としての「柔」の戦略であった。この二つの側面は不可分であり、彼の学問的権威は政治的発言力を高め、逆に元関白という政治的地位は彼の学説に比類なき説得力を与えた。
稙通の学問の源流は、母方の祖父である三条西実隆、そして叔父の公条へと遡る 10 。三条西家は室町時代後期における源氏学の泰斗であり、稙通は幼少期からその正統な学統の薫陶を直接受けていた。実隆は孫である稙通の才能を高く評価し、和歌の概説書である『詠歌大概』を自ら講義し、その奥義を伝授したと記録されている 6 。この継承こそが、稙通が単なる古典愛好家ではなく、学問的正統性を持つ研究者として大成する礎となった。
稙通の学問の集大成といえるのが、天正3年(1575年)頃に成立したとされる『源氏物語』の注釈書『孟津抄』である 6 。全54巻に及ぶこの大著は、中世の源氏物語研究の頂点に位置し、近世の研究へと橋渡しする記念碑的な著作と評価されている。
『孟津抄』の画期性は、その内容にある。自序で述べているように、本書は先行する代表的な注釈書、特に四辻善成の『河海抄』の説を批判的に検討し、その誤りを正すことを目的としていた 24 。また、従来の注釈が個々の語句の解釈に終始しがちであったのに対し、『孟津抄』は長い文章を引用して文脈全体の中で意味を解説するという、より包括的なアプローチを採用している 24 。さらに、自身が内大臣、関白を歴任した経験に基づき、物語に描かれる宮中の儀式や制度(有職故実)について、他の学者には到底不可能な、正確かつ詳細な考証を加えている点も、本書の価値を不朽のものとしている 24 。
稙通の学問的探究心は、『源氏物語』だけに留まらなかった。享禄2年(1529年)には一条兼良の注釈書を書写した『伊勢物語九条禅閤抄』を、天文24年(1555年)には『古今集秒』を著すなど、和歌文学全般にわたって深い造詣を示している 6 。
特筆すべきは、『山路の露』や『巣守』といった、いわゆる「源氏物語の逸文」(後世に補作されたとされる巻々)に関する研究や書写も行っている点である 6 。これは、彼の研究が物語の正編のみならず、その享受のされ方や周辺領域にまで及ぶ、極めて広い視野を持っていたことを示している。彼の学識は都の内外で広く求められ、安芸国 3 や摂津の国人・塩川氏の居城 17 など、流浪先や訪問先で『源氏物語』の講義を行ったことが記録に残っている。
戦乱の世にあって、稙通は自らが体得した文化を次代へ継承することにも並々ならぬ情熱を注いだ。その最も象徴的な事例が、当代一流の文化人武将として知られる細川幽斎(藤孝)への『源氏物語』の奥義伝授である 26 。これは、公家の独占物であった高度な古典の知が、武家の指導者へと受け継がれた画期的な出来事であり、稙通はその仲介者として歴史的に重要な役割を果たした。
また、晩年には、実子がおらず養子に迎えた九条兼孝ではなく、歌才に優れた幼い養孫・九条幸家に「源氏伝授」を託そうとした 6 。しかし、自身と幸家との年齢差は79歳もあり、直接伝授することが叶わないと悟った稙通は、賀茂神社の神官・賀茂尚久に一旦秘伝を預け、幸家が成人した後に伝えるよう依頼する「返し伝授」という手段を取った 6 。文化の血脈を絶やしてはならないという、彼の執念ともいえる姿勢がここに窺える。連歌師・里村紹巴から良書を問われた際に、どのような問いに対しても「源氏物語」と答え、「60年ほど読んでいるが、全く飽きることはない」と語ったという逸話は 6 、彼の学問が生涯をかけた深い愛情に根差していたことを物語っている。
九条稙通の人物像を複雑かつ魅力的にしているのは、彼が政治家や学者としてだけでなく、従来の公卿像を大きく逸脱する「武人」としての一面や、「神秘家」としての一面をも併せ持っていた点である。これらの側面は、彼が失墜した公家の伝統的権威を、より個人的で実効性のある力によって補強・再構築しようとした試みと解釈できる。
公家といえば文弱なイメージが強いが、稙通はそうではなかった。彼と親交のあった連歌師・松永貞徳が書き留めた逸話によれば、稙通は娘婿である猛将・十河一存を助けるため、自ら甲冑を身に着けて出陣したことがあったという 6 。これが事実であれば、彼は単なる後援者や調停者ではなく、時には自ら戦場に赴くことも辞さない、武人的な気概の持ち主であったことになる。
また、同じく貞徳の記録には、稙通が「婿の十川(十河)は武勇である」と、その武勇を誇らしげに語った言葉が残されている 6 。これは、彼が武家の価値観である「武勇」を高く評価し、それに共感していたことを示している。これらの逸話は、稙通が「文」の世界に安住することなく、「武」の世界の論理をも深く理解し、体現していたことを裏付けるものである。
稙通の人物像の中で、最も異彩を放ち、不可解とされるのが、「飯綱(いづな)の法」と呼ばれる呪術への傾倒である 5 。飯綱の法とは、信州(長野県)の飯縄山における山岳信仰(修験道)を起源とする密教系の呪術であり、管狐(くだぎつね)と呼ばれる小動物の霊を使役して、未来予知や調伏などを行う術と信じられていた 27 。
戦国時代は、明日の命も知れぬ不安な時代であり、多くの武将が超自然的な力に精神的な支柱や勝利を求めた。上杉謙信の毘沙門天信仰や、多くの大名が合戦の吉凶を占ったことなどがその例である 29 。稙通の飯綱の法への傾倒もまた、こうした時代の精神的風潮の中に位置づけることができる。天皇や将軍といった既存の公的権威が機能不全に陥る中で、彼は伝統的な宗教や権威では得られない、より直接的で強力な「力」を、個人的な修行を通じて獲得しようとしたのではないか。これは、失墜した権威を、個人的・神秘的なカリスマによって補強しようとする試みであったとも考えられる。
稙通は、この飯綱の法の修行を成就したと、自ら固く信じていた。彼は松永貞徳に対し、次のように語ったと伝えられる。「私は飯綱の法を会得したと悟った。その証拠に、私がどこで寝ても、必ずその頭上の木の枝に一羽のフクロウが飛んできてとまるようになったのだ」 5 。
この逸話を、単なる奇譚や迷信として片付けるべきではない。むしろ、彼の主観的なリアリティとして捉える必要がある。彼にとってこの呪術修行は、自己の内に秘められた力を確認し、混沌とした世界を生き抜くための内面的な確信を得るための、真摯な精神的探求であった。そして「フクロウがとまる」という現象は、その探求が成就したことを示す、彼自身と、そして彼が語り聞かせた他者(松永貞徳など)に向けた「証明」であった。それは、自らの価値を再定義し、乱世の有力者たちと渡り合うための、学問や家格とは異なる、もう一つの「武器」であったと言えるだろう。
永正4年(1507年)に生まれ、文禄3年(1594年)に88歳でその生涯を閉じるまで 6 、九条稙通は戦国という激動の時代をまさに体現し、そして生き抜いた。彼の生涯は、公家の伝統的価値観が支配する「雅」の世界と、実力主義がすべてを決定する「武」の世界という、二つの異なる世界を往還し、時にはそれらを巧みに融合させながら歩んだ、類い稀な軌跡であった。
本報告書で明らかにしてきたように、稙通が見せた「学者」「政治家」「武人」「神秘家」という複数の顔は、決して互いに矛盾したものではない。それらはすべて、藤原氏の嫡流たる「九条家」という家門と、その家が担うべき「文化」という伝統を、未曾有の動乱の中でいかにして存続させるかという、一つの大目的の下に収斂される、多角的かつ緻密な生存戦略であった。
彼の遺産は、政治と文化の両面に深く刻まれている。
政治的には、彼の活動、特に三好氏との戦略的同盟は、公家が単なる武家の庇護対象ではなく、戦国期の政治力学に主体的に関与し、時にはそれを動かすことさえ可能な存在であったことを証明した。彼の存在なくして、戦国後期の畿内政治史を正確に理解することはできない。
文化的には、その貢献は計り知れない。学術的業績の頂点である『孟津抄』は、中世の源氏物語研究を集大成し、近世へと橋渡しする不朽の金字塔となった。また、細川幽斎や養孫・九条幸家への文化継承は、戦乱の炎の中でも古典文化の命脈を絶やすことなく、次代へと受け継ぐという、極めて重要な役割を果たした。
結論として、九条稙通は、伝統的権威の崩壊という危機に直面した旧エリートが、いかにして時代に適応し、自らの存在意義を再定義したかを示す、歴史上、最も見事な成功例の一つである。彼は、最高の知性、不屈の胆力、そして老獪な権謀術数のすべてを駆使して乱世を駆け抜け、公家社会の黄昏の時代に、ひときわ鮮烈な光芒を放った巨人として、歴史にその名を刻んでいる。