日本の戦国時代史は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の動向を中心に語られることが多い。しかし、その壮大な歴史の陰には、地方の片隅で自らの存亡を賭けて激しく生きた無数の国人領主たちの物語が埋もれている。彼らの興亡の軌跡を丹念に追うことは、中央の視点からだけでは見えてこない、戦国という時代の多層的で複雑な実像を明らかにする上で不可欠である。本報告書が光を当てる亀ヶ森光広(かめがもり みつひろ)は、まさにそうした歴史の狭間にあって、類稀なる武勇と政治的嗅覚で自らの一族の運命を切り拓いた、奥州の注目すべき人物である。
陸奥国稗貫郡(現在の岩手県花巻市周辺)の国人であった亀ヶ森光広は、生没年不詳であり、その生涯の多くは謎に包まれている 1 。しかし、断片的に残された史料を繋ぎ合わせると、彼の鮮烈な生き様が浮かび上がってくる。主家である稗貫(ひえぬき)氏の家臣でありながら、その支配に反旗を翻し、討伐軍を打ち破って事実上の独立を勝ち取った反骨の武将。その姿は、主家の権威が揺らぎ、実力がものをいう戦国乱世の「下克上」を地方レベルで体現した典型例と言える。
本報告書の目的は、この亀ヶ森光広という一人の武将の生涯を徹底的に調査し、その実像に迫ることにある。第一部では、光広が登場する舞台となった16世紀半ばの稗貫郡の情勢、特に主家・稗貫氏が抱えていた構造的な脆弱性と、周辺をめぐる複雑な権力闘争について詳述する。第二部では、光広が天文9年(1540年)に亀ヶ森城主として歴史の表舞台に登場し、領主として支配基盤を固めていく過程を追う。第三部では、彼の生涯における最大のクライマックスである弘治3年(1557年)の主家に対する反乱を取り上げ、その動機、戦闘の経過、そして勝利がもたらした意味を深く考察する。
さらに本報告書は、光広個人の一代記に留まらない。第四部では、彼の死後、一族がたどった数奇な運命を明らかにする。豊臣秀吉による奥州仕置という時代の激変のなかで、旧主・稗貫氏が滅亡する一方、亀ヶ森一族がいかにして生き残りを図り、新たな支配者である南部氏の家臣へと転身を遂げたのか。その巧みな生存戦略を分析する。そして、その血脈が江戸時代を経て、明治期の海軍大将・山屋他人、さらには現代の皇室にまで繋がっているという、驚くべき歴史の連続性を提示する。
亀ヶ森光広の物語は、一地方武将の伝記を超えて、戦国から近世、そして現代へと至る日本の歴史のダイナミズムを映し出す貴重な鏡である。本報告書を通じて、歴史の主役として語られることの少ない国人領主の視点から、戦国という時代の深層を解き明かしていく。
亀ヶ森光広の生涯を理解するためには、まず彼が活動した16世紀半ばの陸奥国稗貫郡、そして彼が仕えた主家・稗貫氏が置かれていた状況を把握する必要がある。当時の奥州は、中央の政権から遠く離れ、複数の有力な国人領主が群雄割拠する動乱の地であった。稗貫氏はその中で、由緒ある家柄を誇りながらも、常に内外の脅威に晒されるという苦難の道を歩んでいた。
稗貫氏は、鎌倉時代に源頼朝から稗貫郡の地頭職を与えられたことに始まるとされる旧族である 2 。室町時代には奥州探題大崎氏の傘下に入り、伊達氏や葛西氏、南部氏に次ぐ有力国人としての地位を認められていた 2 。しかし、戦国時代に入ると、その勢力には陰りが見え始める。最大の脅威は、北から絶えず南下政策を推し進める三戸南部氏であった 2 。稗貫氏は、同じく南部氏の圧迫に苦しむ西の和賀氏や、北の斯波(高水寺斯波)氏と連携してこれに対抗するも、その力関係は常に不安定であった 2 。
稗貫氏の苦悩をさらに深刻にしたのが、家督相続をめぐる問題であった。戦国期の稗貫氏は当主の血筋が途絶えがちで、外部から養子を迎えることで家名を維持する状況が続いていた 2 。例えば、稗貫晴家は南の有力大名である葛西宗清の子であり、その後を継いだ稗貫輝時に至っては、かつて奥州管領を務めた名門・斯波氏の出身であった 2 。
この「養子戦略」は、一見すると名門の血を入れることで自らの権威を高め、周辺勢力との外交関係を強化する有効な手段に見える。事実、輝時は天文24年(1555年)に自ら上洛し、室町幕府第13代将軍・足利義輝に謁見して「輝」の一字を賜るという行動に出ている 2 。これは、斯波氏という自らの出自と将軍の権威を背景に、揺らぎがちな稗貫氏当主としての立場を内外に誇示しようとする必死の試みであった。
しかし、こうした外部からの当主の到来は、深刻な副作用をもたらした。譜代の家臣や、亀ヶ森氏のような一族にとっては、新当主による性急な支配強化や、旧来の慣習の変更は受け入れがたいものであった。養子当主は、自らの権力基盤を固めるために中央の権威に頼ったり、新たな家臣を登用したりするが、それは逆に家中の一体感を削ぎ、内部対立の火種を生むことになる。名分(家格)と実力(領内の支持)の乖離は、稗貫氏の統治能力を著しく低下させた。亀ヶ森光広のような、土地に根差した実力を持つ国人が独自の動きを見せる余地は、まさにこの主家の構造的脆弱性の中に生まれていったのである。
光広が歴史の表舞台に登場する天文・弘治年間(1532-1558年頃)の奥州は、まさに群雄割拠の様相を呈していた。稗貫郡の周辺では、北に三戸南部氏、南に伊達氏という二大勢力が着実にその版図を拡大しつつあった 2 。一方で、奥州探題としてかつては権威を誇った大崎氏や、平泉藤原氏以来の旧領を保持する葛西氏、そして稗貫氏が連携相手とした斯波氏といった旧守勢力も依然として存在感を示しており、各勢力は複雑な同盟と敵対の関係を繰り返していた 8 。
このような緊迫した情勢の中、稗貫氏が支配する領域は、北の南部氏と南の伊達・葛西氏という二つの巨大な勢力圏の緩衝地帯としての性格を帯びていた。稗貫氏の本城は鳥谷ヶ崎城(後の花巻城)に置かれていたが、その防衛網を構成する支城群は、常に最前線としての役割を担っていた。
亀ヶ森光広が城主となった亀ヶ森城(現在の花巻市大迫町亀ケ森)は、地理的に見て、この稗貫氏の防衛線の中でも特に重要な拠点であった 10 。稗貫川の東岸に位置するこの城は、東方からの侵攻に備える要衝であり、典型的な中世の山城の構造を持っていた 11 。平地に近く、防御が手薄になりがちな南と東の守りを固めるために、二重の空堀や沢を利用した広大な堀が設けられていたことが確認されている 11 。
このことは、亀ヶ森城の城主には、単に主家の命令に従うだけの従順な家臣ではなく、有事の際に自らの判断で敵の侵攻を食い止め、持ちこたえることのできる高度な軍事能力と自立性が求められていたことを示唆している。光広がこの城を任されていたという事実は、彼が稗貫一族の中でも特に武勇に優れた実力者として認識されていたことの証左に他ならない。そして、この最前線での経験と、それに伴って培われたであろう独自の軍事力と判断力こそが、後に彼が主家に対して反旗を翻すことを可能にした基盤となったのである。彼の反乱は、彼個人の野心や資質のみならず、彼が置かれた地政学的な位置によっても強く規定されていたと言えよう。
稗貫氏の内部が不安定化し、周辺勢力との緊張が高まる中、一人の武将が歴史の表舞台に躍り出る。亀ヶ森図書光広である。彼は天文9年(1540年)、亀ヶ森城の新たな主となり、この地における支配を確立していく。その過程は、単なる城主の交代劇に留まらず、戦国時代の地方国人がいかにして自らの実力で地位を築き、その支配を正当化していったかを示す興味深い事例である。
史料によれば、亀ヶ森光広は天文9年(1540年)、それまで亀ヶ森城を治めていた「八十沢氏」あるいは「八木沢氏」に代わって城主となったと記録されている 1 。この前城主の姓に「八十沢」と「八木沢」という表記の揺れが見られる点はさておき、より重要なのは、この交代劇の具体的な経緯が一切語られていないことである。「八木沢氏が没落すると」( 13 )という簡潔な記述は、この交代が平和的なものではなかった可能性を強く示唆している。
戦国時代における「没落」という言葉は、多くの場合、内紛による失脚、討伐、あるいは追放といった暴力的な事態を意味する。もし円満な形での譲渡であったならば、その旨が記録されてもおかしくはない。しかし、史料が沈黙していることは、逆にその裏に何らかの政治的・軍事的駆け引きがあったと推測させる。
ここで考慮すべきは、光広の出自である。彼は稗貫氏の一族であったと伝えられている 1 。一方で、前城主の八十沢(八木沢)氏もまた、稗貫氏の家臣であったとされる 12 。このことから、この城主交代は稗貫氏内部の権力闘争の一環であった可能性が考えられる。前述の通り、当時の稗貫惣領家は養子当主が続き、その権力基盤は盤石ではなかった。惣領家が自らの支配を強化するため、信頼の置けない家臣を排除し、より血縁が近く、かつ実力のある一族の者を戦略的要衝である亀ヶ森城に配置しようと考えたとしても不思議ではない。
この仮説に立てば、光広は惣領家の意向を受け、あるいは自らの野心から、八十沢氏を排除する役割を担った可能性がある。彼が自らの武力で八十沢氏を「没落」させ、その功績によって亀ヶ森城を手に入れたとすれば、彼は単なる後任者ではなく、自らの手でその地位を掴み取ったことになる。この成功体験は、彼の自信を深め、後の主家への反乱という、さらに大胆な行動へと繋がる伏線となったのかもしれない。
亀ヶ森城主となった光広は、武勇に優れただけの武将ではなかった。彼は、自らの支配権を確立し、領地を安定させるための統治能力をも兼ね備えていた。その証拠が、城主就任直後から着手した一連の寺社建立である 13 。
天文10年(1541年)、すなわち城主となった翌年、光広は亀ヶ森に八幡神社を建立した 13 。八幡神は武神として知られ、武家社会において広く崇敬の対象であった。新たな領主が八幡神社を建立することは、自らの武威を領内に示し、戦勝と武運長久を祈願する象徴的な行為である。
さらに翌年の天文11年(1542年)には、菩提寺として中興寺を建立している 13 。菩提寺の建立は、単なる宗教的行為に留まらない。一族の先祖と自らを祀る寺院を創建することは、その土地に永続的に根を下ろす支配者であることを内外に宣言する、極めて高度な政治的メッセージであった。特に、前城主である八十沢氏を「没落」させた直後というタイミングは重要である。旧体制を過去のものとし、自らがもたらす新たな秩序の正当性と永続性を、神仏の権威を借りて領民に知らしめる狙いがあったと考えられる。
このように、城主就任からわずか2年の間に相次いで寺社を建立した光広の行動は、彼が武力で獲得した権力を、宗教的・文化的な権威によって補強し、領国経営を安定させようとする、戦国領主としての確かな知見を持っていたことを物語っている。彼は、単なる反骨の武人ではなく、自らの領地と民を治める統治者としての自覚を持った人物だったのである。
亀ヶ森城主として着実に地歩を固めていた光広は、天文9年(1540年)の城主就任から17年後の弘治3年(1557年)、突如として主家・稗貫氏に対して反旗を翻す。この反乱は、彼の生涯における最大の転機であり、その後の亀ヶ森一族の運命を決定づける重大な事件であった。この反乱を単なる家臣の謀反として片付けることはできない。その背景には、主家・稗貫氏が抱える深刻な内部対立と、それに乗じた光広の巧みな戦略があった。
弘治3年(1557年)3月、亀ヶ森光広は稗貫氏に背いた。これに対し、稗貫氏の当主「稗貫為嗣(ひえぬき ためつぐ)」、通称「孫六郎」は、討伐軍を派遣したと記録されている 1 。しかし、この記述には不可解な点がある。なぜなら、この反乱のわずか2年前、弘治元年(1555年)には、稗貫氏の当主として「稗貫輝時(てるとき)」が上洛し、将軍・足利義輝に謁見しているからである 2 。
弘治年間というわずか4年の間に、「為嗣」と「輝時」という二人の当主名が登場する事実は、当時の稗貫氏の家督が極めて不安定な状態にあったことを強く示唆している。輝時が名門・斯波氏から迎えられた養子であったことを考え合わせると、稗貫氏内部で深刻な権力闘争、あるいは路線対立が存在した可能性が浮かび上がる。輝時は、将軍という中央の権威を後ろ盾に、稗貫氏の伝統的な支配体制を改革し、自らの権力を強化しようとする新興勢力であったかもしれない。一方、為嗣は「孫六郎」という仮名から、より伝統的な家系の人物であった可能性も考えられる。
このような状況下で起きた光広の反乱は、単純な主家への裏切りとは異なる文脈で捉える必要がある。彼の行動は、この稗貫氏内部の対立に深く関わっていると見るのが自然であろう。いくつかの可能性が考えられる。第一に、新当主である輝時派による支配強化(新たな検地の実施や軍役負担の増加など)に対して、光広が在地領主として反発したという可能性。第二に、光広が旧来の勢力である為嗣派に与し、輝時派と対立したという可能性。第三に、南北の巨大勢力である南部氏や伊達氏といった外部勢力が稗貫氏の内紛に介入し、光広がその手先として動いたという可能性である。
いずれにせよ、光広の反乱は、彼が稗貫氏の一族であったが故に、惣領家の家督争いから無縁ではいられなかったことの証左である。彼は単に「主家に背いた」のではなく、稗貫氏という一族が分裂の危機に瀕する中で、自らの生き残りと勢力拡大を賭けて、最も有利と判断した選択肢に踏み切ったのである。それは、一地方国人の謀反というよりも、一族内の主導権をめぐる、より根深く深刻な内乱の一環であったと解釈すべきであろう。
主家の分裂という好機を捉えて蜂起した光広に対し、稗貫為嗣は直ちに討伐軍を差し向けた。その軍勢を率いたのは、家臣の槻木下総守光治(つきのき しもうさのかみ みつはる、下野守とも)と矢沢右近春眞(やざわ うこん はるまさ、左近治真とも)であった 1 。稗貫惣領家にとって、この反乱を迅速に鎮圧し、家中の動揺を抑えることは喫緊の課題であった。
しかし、戦いの結果は為嗣の思惑とは全く逆のものとなった。亀ヶ森城に籠城した光広は、寄せ手の攻撃を「よく防ぎ」、単に撃退するに留まらず、逆に討って出て討伐軍の大将である槻木光治を討ち取るという、決定的な大勝利を収めたのである 1 。この戦いに関する伝承として、光広の子・玄蕃が父の守り本尊である十一面観音を兜の中に納めて出陣し、危ういところで観音像が身代わりとなって難を逃れ、敵将を討ち取ることができたという話が残っている 14 。この「身代わり観音」の伝説は、この戦いが如何に激しいものであったか、そして光広方の勝利がいかに劇的なものであったかを物語っている。
戦国時代の合戦において、敵軍の総大将を討ち取ることは、戦術的に最大の戦果である。大将を失った軍は統率を失い、多くの場合、総崩れとなって敗走する。光広は、籠城側という不利な立場にありながら、攻め寄せる討伐軍の主将を討ち取った。これは、彼が籠城戦に徹しただけでなく、機を見て城から打って出るなど、極めて積極的かつ効果的な戦術を展開したことを示唆している。光広の軍事的能力が、主家である稗貫惣領家のそれを凌駕していたことの何よりの証明であった。
この反乱の結末について、史料は「収束状況は定かでは無いが、この後も亀ヶ森氏がこの地を治めている」と、極めて重要な事実を記している 13 。もし光広が敗れていれば、一族は改易されるか、あるいは処刑され、亀ヶ森氏がその地を治め続けることは不可能であったはずだ。この事実は、反乱が光広の完全勝利に終わったことを裏付けている。
この勝利により、稗貫惣領家はもはや亀ヶ森氏を武力で屈服させることを断念せざるを得なくなった。光広は、名目上は稗貫氏の宗主権を認めつつも、領内の統治に関しては完全な自治権を持つ、事実上の独立領主としての地位を確立したのである。この弘治3年の大乱は、亀ヶ森氏が稗貫氏の単なる家臣から、独自の意思で行動する自立した勢力へと変貌を遂げた、画期的な出来事であった。
弘治3年の反乱で主家から事実上の独立を勝ち取った亀ヶ森氏であったが、その約30年後、日本全土を巻き込む巨大な権力の奔流に直面することになる。豊臣秀吉による天下統一事業と、それに伴う奥州仕置である。この時代の激動は、奥州の諸勢力の運命を根底から覆した。旧主・稗貫氏が滅亡の道をたどる一方で、亀ヶ森一族は光広が築いた自立性を武器に、巧みな政治判断と外交戦略を駆使してこの荒波を乗り越え、新たな時代における生き残りを果たしていく。
天正18年(1590年)、小田原の北条氏を滅ぼし天下統一を目前にした豊臣秀吉は、奥州の諸大名に対し、小田原への参陣を命じた。しかし、稗貫氏の当主・稗貫広忠(家法)はこれに応じず、結果として所領をすべて没収され、大名としての稗貫氏は滅亡した 2 。この時、亀ヶ森氏の当主は光広の子(または子孫)である「亀ヶ森玄蕃家衡(げんば いえひら)」であったが、彼もまた主家の決定に従い、所領を失うこととなった 13 。
秀吉の仕置軍が去った後、所領を失った葛西・大崎氏の旧臣らを中心に、新領主に対する大規模な一揆(葛西大崎一揆)が勃発する。この動きに呼応し、稗貫氏と和賀氏の旧臣たちも旧領回復を目指して蜂起した(和賀・稗貫一揆) 8 。彼らは一時、和賀氏の旧居城であった二子城や、稗貫氏の本城であった鳥谷ヶ崎城を奪還する勢いを見せた 15 。
この絶体絶命の状況下で、亀ヶ森一族は極めて重要な決断を下す。彼らはこの和賀・稗貫一揆に加わらなかったのである。『おおはさま物語』によれば、亀ヶ森一族は「一揆にも加わらずにひたすら自分の城を守っていた」とされ、この行動が後の運命を大きく左右することになる 18 。
この一揆不参加という決断は、単なる日和見主義と片付けるべきではない。それは、弘治3年の反乱以降、亀ヶ森氏が稗貫惣領家と一蓮托生の関係にはない、独立した政治主体として行動していたことの論理的な帰結であった。彼らは「稗貫家臣」として旧主への義理を立てることよりも、「亀ヶ森家の当主」として一族の存続という現実的な利益を優先したのである。豊臣政権という圧倒的な中央権力に逆らうことの無謀さを冷静に判断し、感情的な行動を避けたこの選択は、戦国末期を生き抜く国人領主の、極めて高度な政治判断であったと言えよう。結果的に、この「何もしなかった」という非行動が、彼らにとって最大の功績となるのである。
天正19年(1591年)、豊臣秀次を総大将とする奥州再仕置軍によって和賀・稗貫一揆は完全に鎮圧された 15 。一揆に参加した旧領主たちの多くが命を落とす中、静観を決め込んでいた亀ヶ森氏の行動は、新たな稗貫・和賀郡の支配者となった南部氏から高く評価された。
一揆鎮定後、南部氏の当主・南部利直は、亀ヶ森玄蕃の所領を安堵し、花巻城(旧鳥谷ヶ崎城)の在府を命じた 18 。これは、南部氏が新領地を統治するにあたり、在地で影響力を持つ亀ヶ森氏を味方につけることの重要性を認識していたことを示している。亀ヶ森氏は、滅びゆく稗貫氏から、勃興する南部氏へと見事に乗り換えることに成功したのである。
この転身劇の裏には、さらに巧みな外交工作があった。亀ヶ森一族の「能登嘉明(のと よしあき)」という人物が、この重要な局面で暗躍した。彼は、滅亡した稗貫広忠の妻・於三の方が絶世の美女として知られていたことに着目し、彼女を南部信直(利直の父)の側室として差し出すという策を講じた 18 。この政略結婚は見事に成功し、於三の方は「稗貫御前」として信直に寵愛された。能登嘉明はこの功績により、自らも南部藩に100石で召し抱えられ、九戸郡山屋(やまや)の地を与えられたことから、姓を「山屋」と改め、「山屋三右衛門」と名乗った 3 。
亀ヶ森一族の生き残り戦略は、一揆への不参加という冷静な軍事的判断と、婚姻政策という巧みな外交工作を組み合わせた、複合的なものであった。彼らは、戦国の世を武力だけで生き抜こうとしたのではなく、情報収集能力と政治交渉力を駆使して、時代の変化に柔軟に対応したのである。これにより、稗貫氏の数多の家臣が歴史から姿を消す中、亀ヶ森氏は南部藩士・山屋家として、その家名を江戸時代へと繋いでいくことに成功した。
南部藩士として新たな道を歩み始めた山屋家は、その後も盛岡藩士として家系を保ち続けた。そして、時代が大きく動いた明治維新後、この一族から日本の歴史に名を刻む傑出した人物が誕生する。海軍大将・山屋他人(やまや たにん)である 22 。
山屋他人は、慶応2年(1866年)に盛岡藩士・山屋勝寿の子として生まれた 22 。その祖先は、稗貫氏に仕えた亀ヶ森能登喜明、すなわち山屋三右衛門に遡る 23 。彼は海軍兵学校を卒業後、日清・日露戦争、第一次世界大戦に従軍し、海軍大学校長や連合艦隊司令長官といった要職を歴任した、明治・大正期を代表する海軍軍人の一人であった 22 。
この亀ヶ森氏の末裔の物語は、ここで終わらない。山屋他人の五女・寿々子は、実業家の江頭豊と結婚。そして、その娘である優美子は、後に外交官となる小和田恆と結ばれた。その長女こそが、今上皇后雅子陛下であらせられる 23 。
すなわち、戦国時代に奥州稗貫郡の一角で主家に反旗を翻した亀ヶ森光広の血脈は、その子孫たちの巧みな生存戦略を経て、南部藩士・山屋家として江戸時代を生き抜き、明治期に日本海軍の中枢を担う人物を輩出し、そして数世紀の時空を超えて、現代の皇室にまで繋がっているのである。この驚くべき歴史の連続性は、以下の表に要約することができる。
【表1】亀ヶ森一族の生存戦略と流転の系譜
時代 |
主要人物 |
主要な出来事・行動 |
背景・文脈 |
結果・影響 |
戦国時代 (天文年間) |
亀ヶ森図書光広 |
八十沢氏に代わり亀ヶ森城主となる (1540年)。 |
稗貫氏の内部不安定化。 |
稗貫氏東部における実力者として台頭。 |
戦国時代 (弘治年間) |
亀ヶ森図書光広 |
主家・稗貫為嗣に反乱。討伐軍を撃退し、将を討ち取る (1557年)。 |
稗貫氏の家督争い・権力闘争。 |
事実上の独立を達成。稗貫氏内での発言力増大。 |
安土桃山時代 (天正年間) |
亀ヶ森玄蕃家衡 |
奥州仕置で主家・稗貫氏が滅亡。和賀・稗貫一揆に不参加。 |
豊臣政権による全国統一。 |
新支配者・南部氏から評価され、所領を安堵される。 |
江戸時代 |
山屋三右衛門 (能登嘉明) |
稗貫御前を南部信直の側室とし、自らは南部藩士となる。 |
稗貫氏滅亡後の家臣団再編。 |
亀ヶ森一族が南部藩士・山屋家として存続する礎を築く。 |
明治・大正時代 |
山屋他人 |
海軍大将、連合艦隊司令長官を歴任。 |
大日本帝国の成立と発展。 |
盛岡藩士の家系から、国家の中枢を担う人材を輩出。 |
現代 |
今上皇后雅子陛下 |
- |
- |
山屋他人の曾孫。亀ヶ森氏の血脈が現代皇室に繋がる。 |
この系譜は、歴史の偶然と必然が織りなす壮大な因果の連鎖を我々に示している。亀ヶ森光広の反乱という一地方での出来事が、巡り巡って現代にまで影響を及ぼしているという事実は、歴史研究の醍醐味であり、忘れ去られた地方史の内に秘められた計り知れない価値を物語っている。
本報告書で詳述してきた通り、亀ヶ森図書光広は、戦国時代の奥州という限定された地域と時代において、極めて重要な役割を果たした人物である。彼の生涯は、単なる一介の家臣による謀反の物語ではなく、時代の変化を鋭敏に読み解き、自らの実力と戦略によって一族の未来を切り拓いた、有能な国人領主の興亡史として捉えるべきである。
光広の歴史的評価を定める上で、いくつかの重要な側面を指摘できる。第一に、彼は卓越した武将であった。主家である稗貫氏の討伐軍を寡兵で迎え撃ち、その大将を討ち取るという離れ業は、彼の軍事的能力が並外れていたことを証明している。最前線である亀ヶ森城を任されていた事実も、その武勇が広く認められていたことの証左であろう。
第二に、彼は優れた統治者であった。城主就任後、速やかに寺社を建立し、自らの支配の正当性を確立しようとした行動は、彼が武力一辺倒ではなく、領国経営に必要な政治的知見を兼ね備えていたことを示している。
第三に、そして最も重要な点は、彼が時代の潮流を読む鋭い政治的嗅覚を持っていたことである。主家・稗貫氏の内部対立という「好機」を的確に見抜き、反乱というリスクの高い行動に打って出て成功させた。この弘治3年の勝利が、亀ヶ森氏を稗貫氏の単なる一部から、自立した政治主体へと昇華させ、その後の生存戦略の基盤となった。彼の子孫が、主家滅亡の際に一揆に与せず、新支配者である南部氏に臣従するという冷静な判断を下せたのも、光広が築いたこの「自立性」があったからに他ならない。
したがって、亀ヶ森光広は、単なる「反逆者」というレッテルで評価されるべき人物ではない。彼は、主家の権威が失墜していく戦国乱世の力学の中で、自らの「家」を実力で創出し、次代へと繋いだ「創業者」として再評価されるべきである。彼の物語は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の華々しい統一事業の陰で、日本全国の無数の国人領主たちが繰り広げていた、より普遍的でリアルな生存競争の姿を我々に教えてくれる。
そして、その一族の血脈が、数世紀の時を経て現代の皇室にまで繋がっているという事実は、歴史が決して過去の断片的な出来事の集合ではなく、現代にまで連なる壮大な物語であることを改めて示している。亀ヶ森光広という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、我々が生きる現代と、遠い過去とが、見えざる糸で結ばれていることを実感させてくれる、実に意義深い知的探求なのである。