戦国乱世の終焉と、それに続く徳川幕藩体制の確立は、数多の武家の運命を劇的に変えた。ある者は時代の寵児として栄華を極め、またある者は歴史の奔流に呑み込まれ、その名を歴史の闇に消した。本報告書で詳述する二本松義孝(にほんまつ よしたか)は、まさにその後者の境遇から、類稀なる強運と忍耐、そして巧みな処世術によって一族の命脈を繋ぎ、再生へと導いた人物である。彼の生涯を理解するためには、まず彼が背負った「二本松畠山氏」という名門の栄光と、その没落の歴史を紐解かねばならない。
二本松義孝の出自である二本松畠山氏は、単なる陸奥国の一地方勢力ではなかった。その本姓は清和源氏足利氏の支流であり、室町幕府において将軍に次ぐ権勢を誇った三管領家の一つ、畠山金吾家の兄筋にあたる、由緒正しい嫡流であった 1 。その歴史は南北朝時代にまで遡る。貞和元年(1345年)、足利幕府は畠山高国を奥州管領(後の奥州探題)に任じ、陸奥国府である多賀城へと派遣した 3 。これにより、畠山氏は奥州における幕府の権威を代行する、極めて高い家格を有する存在となったのである。
足利一門という出自は、彼らに絶大な権威を与えた。将軍家の通字である「義」の字の使用を許されたことは、その証左である。奥羽において、この栄誉を許されたのは奥州探題の大崎氏、羽州探題の最上氏、そして二本松畠山氏のみであり、当時まだ一大名に過ぎなかった伊達氏ですら、この格式には及ばなかった 5 。
しかし、室町幕府の権威が揺らぎ、群雄が割拠する戦国時代に至ると、奥州探題という職名も次第に形骸化していく 6 。畠山氏は、同じく奥州探題を称する大崎氏や、周辺で勢力を拡大する伊達氏、蘆名氏との絶え間ない抗争の中で、その勢力を削がれていった 5 。義孝が生まれる頃には、かつて奥州に君臨した名門の威光は薄れ、安達郡と安積郡の一部をかろうじて保持する一地方大名へと転落していたのである 2 。
義孝の生涯を貫く「客分」という特異な待遇の根源は、この失われた権威にある。実質的な領地や軍事力を失った後も、「奥州探題の末裔」という血筋は、無形の資産として機能し続けた。新来の支配者たちが、在地勢力を円滑に掌握するための政治的配慮として、この旧権威に敬意を払うことは極めて有効であった。義孝の人生は、この「家格」という遺産を背負い、それを生存の糧としていくことから始まるのである。
二本松義孝が天正6年(1578年)に生を受けた頃、南奥羽の政治情勢は一人の若き武将の登場によって、大きな転換点を迎えようとしていた。伊達政宗である 9 。永禄10年(1567年)に生まれた政宗は、天正12年(1584年)に父・輝宗から家督を譲られると、堰を切ったように周辺領域への侵攻を開始した 10 。
この政宗の急激な膨張戦略の前に、二本松畠山氏は絶体絶命の窮地に立たされる。二本松の領地は、北に伊達、南に蘆名という二大勢力に挟まれた緩衝地帯に位置していた 10 。さらに、塩松領主の大内定綱と姻戚関係にあったことが、運命を決定づける 12 。天正13年(1585年)、政宗が岳父・田村清顕と共に大内定綱の攻略に乗り出すと、その戦火は必然的に二本松領へと及んだ 12 。
義孝の生涯は、彼自身の選択以上に、伊達政宗という巨大な存在によって否応なく規定されていく。彼の父・義継の死、兄・義綱の死、そして戦国大名としての二本松氏の滅亡は、すべて政宗の領土拡大戦略の直接的、あるいは間接的な結果であった。義孝の物語は、いわば時代の主役であった政宗の影に生きた、一人の武将の苦難と再生の記録なのである。
西暦 |
和暦 |
義孝の年齢 (推定) |
二本松義孝の動向 |
関連する歴史的事件 |
1578年 |
天正6年 |
1歳 |
二本松義継の次男として誕生。幼名は梅王丸 14 。 |
- |
1585年 |
天正13年 |
8歳 |
父・義継が「粟ノ巣の変」で伊達輝宗と共に死亡 12 。 |
粟ノ巣の変、人取橋の戦い |
1586年 |
天正14年 |
9歳 |
二本松城が開城。兄・義綱(国王丸)と共に会津の蘆名氏を頼る 14 。 |
伊達政宗、二本松城に入城 |
1589年 |
天正17年 |
12歳 |
蘆名氏が「摺上原の戦い」で伊達政宗に敗れ滅亡。兄と共に常陸へ逃れる 14 。 |
摺上原の戦い、蘆名氏滅亡 |
1589年 |
天正17年 |
12歳 |
兄・義綱が常陸にて蘆名義広に殺害される。単身で再び会津へ逃れる 14 。 |
- |
1590年 |
天正18年 |
13歳 |
会津に蒲生氏郷が入部。会津にて元服し、国次、のち義孝と名乗る 14 。 |
豊臣秀吉による奥州仕置 |
1598年 |
慶長3年 |
21歳 |
会津に上杉景勝が入部。客分として召し抱えられる 14 。 |
- |
1600年 |
慶長5年 |
23歳 |
上杉軍の一員として慶長出羽合戦に参加 14 。 |
関ヶ原の戦い |
1601年 |
慶長6年 |
24歳 |
上杉氏が米沢へ減移封。会津に留まり、蒲生秀行(再封)の客分となる 14 。 |
- |
1627年 |
寛永4年 |
50歳 |
会津に加藤嘉明が入部。引き続き客分として遇される 14 。 |
- |
1643年 |
寛永20年 |
66歳 |
加藤氏が会津騒動により改易。故郷での隠棲を考える 14 。 |
- |
1648年 |
慶安元年 |
71歳 |
岡崎藩主・水野忠善に招聘される。老齢を理由に辞退し、息子たちを出仕させる 14 。 |
- |
不明 |
不明 |
不明 |
没年、墓所ともに不明 14 。 |
- |
天正13年(1585年)、当時わずか8歳であった義孝の人生は、父・義継の起こした一つの事件によって、根底から覆されることとなる。それは、奥州の名門・二本松畠山氏の歴史に終止符を打ち、義孝を永い流浪の旅へと突き落とす、悲劇の序曲であった。
伊達政宗による大内定綱攻めは、定綱を庇護した二本松義継をも標的とした 13 。圧倒的な伊達軍の攻勢の前に、義継は政宗の父である隠居・輝宗の斡旋を頼り、降伏を申し入れる 10 。しかし、伊達側から提示された和睦条件は、「五ヶ村を除く全領地の召し上げ」という、事実上の死刑宣告に等しい過酷なものであった 8 。
この条件は、大名としての地位を剥奪し、家臣団を解散させることを意味した。武家社会において、これは存在そのものの否定に他ならない。窮した義継は、一度はほぼ非武装で輝宗の陣所である宮森城に「不図掛入(ふとくかけいり)」(突然駆け込む)し、切腹すら覚悟の上という全面降伏の姿勢を見せた 21 。この義継の必死の懇願により、条件は「嫡子・国王丸を人質に出すこと」のみに緩和されたかに見えた 21 。
しかし、天正13年10月8日、御礼のために宮森城を訪れた義継は、会談ののち、突如として輝宗を拉致し、自らの居城・二本松城へ連れ去ろうとする暴挙に出る 15 。この「粟ノ巣の変」と呼ばれる事件の引き金については、諸説ある。伊達側の小者たちの「二本松勢を皆殺しにする」という不用意な冗談を真に受け、謀殺を恐れたためとも 21 、あるいは名門としての誇りが、屈辱的な降伏を許さなかったためとも言われる。いずれにせよ、この行動は、追い詰められた義継が、一族の存続と武士の意地という二律背反の狭間で下した、絶望的な賭けであった。
逃走の途上、阿武隈川のほとり、粟ノ巣(現在の福島県二本松市平石高田)で、義継一行は政宗の追手に追いつかれる 21 。ここでの輝宗の最期についても、記録は分かれている。『成実記』によれば、誰ともなく放たれた鉄砲をきっかけに乱戦となり、輝宗も流れ弾に当たって落命したとされる 21 。一方で、政宗自身の回想を記したとされる『木村宇右衛門覚書』や『元和8年老人覚書』では、追い詰められた義継が輝宗を刺殺し、自らもその刀で自害したと記されている 13 。
著名な「父ごと撃て」という政宗の非情な命令も、後世の軍記物である『奥羽永慶軍記』に初めて登場するものであり、一次史料で確認することはできない 13 。しかし、結果として父を死に至らしめたこの事件は、政宗の心に深い傷を残すと同時に、二本松氏への徹底的な報復を決意させるに十分であった。義継の遺体は無残に斬り刻まれ、藤蔓で繋がれて磔にされたと伝えられる 12 。この日、8歳の義孝は父を失い、「逆臣の子」という重い宿命を背負うことになったのである。
父・義継の死は、即座に二本松城への全面攻撃を招いた。天正13年10月15日、政宗は父の弔い合戦を掲げ、1万3千の大軍で二本松城を包囲した 13 。城内では、義継の嫡男でわずか12歳の国王丸(後の義綱)を当主として擁立し、一門の新城盛継(信常)らが指揮を執り、必死の籠城戦を展開した 11 。
二本松城は天然の要害であり、伊達軍の猛攻をよく凌いだが、この戦いはもはや二本松氏だけの問題ではなかった。政宗の急激な勢力拡大に脅威を感じていた常陸の佐竹義重、会津の蘆名氏、さらには岩城氏、石川氏といった南奥羽の諸大名が、反伊達連合軍を結成し、二本松救援のために立ち上がったのである 10 。
同年11月17日、伊達軍7,000と、佐竹・蘆名を中心とする連合軍30,000が、安達郡の人取橋(現在の福島県本宮市)付近で激突した 10 。4倍以上の兵力差の前に伊達軍は終始劣勢に立たされ、政宗自身も鎧に銃弾5発、矢1筋を受けるほどの危機に陥った 10 。宿将・鬼庭左月斎が殿(しんがり)を務め、壮絶な討死を遂げることで、政宗はようやく本陣を維持するのがやっとという惨状であった 10 。
伊達軍の壊滅は目前であった。しかしその夜、戦況は思わぬ形で転回する。連合軍の中核であった佐竹氏の本国・常陸に、里見氏が侵攻するとの急報がもたらされたのである 11 。これにより佐竹軍は突如撤退を開始し、主力を失った連合軍は瓦解。政宗は九死に一生を得た。
この連合軍の瓦解は、二本松氏の運命を決定づけた。外部からの支援を絶たれた二本松城は、もはや政宗の大軍に抗う術を持たなかった。翌天正14年(1586年)7月、伊達成実の調略によって城内から内応者が出るに及び、ついに相馬義胤の斡旋を受け入れ、開城 11 。7月16日、城は自焼し、国王丸と弟の梅王丸(義孝)は、わずかな家臣と共に会津の蘆名氏を頼って落ち延びていった 14 。ここに、応永21年(1414年)の築城以来、約170年にわたって続いた戦国大名・二本松畠山氏の歴史は、事実上、幕を閉じたのである。
故郷を追われた幼い兄弟、国王丸と梅王丸の苦難は、まだ始まったばかりであった。彼らの流浪の人生には、あたかも宿命であるかのように、伊達政宗の影が付きまとう。安住の地を求めて彷徨う彼らを、さらなる悲劇が襲う。
二本松城を落ち延びた兄弟が身を寄せたのは、会津の蘆名氏であった 14 。蘆名氏は、かつて二本松畠山氏と共に反伊達連合軍の一翼を担った同盟者であり、兄弟にとって頼るべき唯一の存在であった。国王丸は会津で元服し、義綱と名乗る 17 。しばしの安息が訪れたかに見えた。
しかし、その平穏も長くは続かなかった。奥州統一の野望に燃える伊達政宗の次なる標的は、まさにその蘆名氏であった。天正17年(1589年)6月、政宗は会津に侵攻。磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で両軍は激突する 14 。この「摺上原の戦い」で蘆名軍は大敗を喫し、当主・蘆名義広は居城・黒川城を捨てて敗走。会津の名門・蘆名氏は、あっけなく滅亡した 16 。
義孝(梅王丸)にとって、これは二度目の悪夢であった。父の代に故郷を奪った政宗が、今また亡命先すらも破壊したのである。政宗という存在は、もはや抗いがたい天災の如く、兄弟の行く末に暗い影を落とし続けていた。再び庇護者を失った兄弟は、蘆名義広と共に、さらなる流浪の旅に出ることを余儀なくされる。
蘆名義広は、実家である常陸の佐竹氏を頼って落ち延びることを決意する。義綱・義孝兄弟も、この一行に加わった 14 。しかし、この敗走の旅路の果てに、義孝を生涯癒えることのない悲しみが待ち受けていた。常陸国江戸崎(現在の茨城県稲敷市)に至ったところで、兄・義綱が非業の死を遂げたのである 17 。
その死の真相については、複数の記録が残されている。義綱が亡命先の主である蘆名義広と「諍いを起こして」殺害されたという説 14 、あるいは敗走の途上で「足手まといとして」殺害されたという説 17 がある。いずれも、義広の命を受けた家臣・沼沢実通の手によるものと伝えられている 17 。
この暗殺の背景には、亡命者集団内部の複雑な力学があったと推察される。敗軍の将となった義広にとって、旧二本松家の当主である義綱の存在は、次第に政治的な重荷となっていった可能性が高い。二本松家の旧臣をまとめ、再興の旗印となりうる義綱は、義広の主導権を脅かしかねない存在であった。また、庇護を求める佐竹家との交渉において、義綱の処遇が新たな火種となることを恐れたのかもしれない。「足手まとい」とは、単に物理的な足手まといではなく、政治的な厄介者という意味合いが強かったのであろう。
父の死が「公」としての二本松家の滅亡であったとすれば、兄の死は、義孝にとって「私」の拠り所の完全な喪失を意味した。血を分けた唯一の肉親を、またしても政争の果てに失ったのである。この時、義孝はわずか12歳。天涯孤独の身となった彼は、もはや兄の亡骸を弔うことも、その死の真相を問いただすこともできず、ただ一人、その場から逃れるしかなかった。
兄を失った義孝は、危険な常陸の地を離れ、三度、会津を目指した 14 。この決断の背景には、奥州の勢力図を塗り替える大きな地殻変動があった。天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、関東・奥羽の仕置(奥州仕置)を断行する。惣無事令に違反して蘆名氏を滅ぼした伊達政宗は、会津領を没収され、岩出山へと減転封された 16 。そして、政宗に代わって会津42万石(のちに92万石に加増)の領主として入部したのが、豊臣秀吉の腹心・蒲生氏郷であった 15 。
宿敵・伊達氏が会津から去ったという報は、義孝にとって一条の光であった。彼は再び会津の地を踏むことができたのである。この地で、彼は元服を遂げ、はじめ「国次」、のちに「義孝」と名乗った 14 。そして、この時、彼は一つの重要な決断を下す。父祖伝来の姓である「畠山」ではなく、生まれ故郷の地名である「二本松」を、初めて公式な名字として用いたのである 14 。
この改姓は、義孝の心境の変化を象徴する出来事であった。もはや、室町幕府の権威に連なる「奥州探題畠山氏」としての栄光に固執するのではない。秀吉によって天下が統一され、旧来の権威が意味をなさなくなった新しい時代の中で、自らを「二本松の旧領主家の者」として位置づけ、在地に根差したアイデンティティを以て生き抜いていこうとする、現実的かつ強靭な生存戦略の表れであった。兄の死によって「二本松家再興」という重荷から解放された彼は、ここから、一族の血脈を絶やさず、ただ生き抜くための新たな人生を歩み始めるのである。
天涯孤独の身となり、再び会津の土を踏んだ二本松義孝。彼を待ち受けていたのは、かつてのような亡命者としての不安定な日々ではなかった。蒲生氏郷から上杉景勝、そして加藤嘉明へと、目まぐるしく変わる会津の支配者たちの下で、彼は一貫して「客分」という特別な地位を与えられ、激動の時代を巧みに生き抜いていく。
領主名 |
家紋 |
藩(石高) |
統治期間 |
義孝との関係 |
蒲生 氏郷 |
対い鶴 |
会津藩 (42万石→92万石) |
1590年~1595年 |
客分として召し抱えられる 16 。氏郷の先進的な人材登用策の一環として厚遇されたと推察される。 |
蒲生 秀行 |
対い鶴 |
会津藩 (92万石) |
1595年~1598年 |
氏郷の跡を継いだ秀行の下でも、引き続き客分として遇される 14 。 |
上杉 景勝 |
竹に雀 |
会津藩 (120万石) |
1598年~1601年 |
客分として召し抱えられ、慶長出羽合戦に上杉軍として参戦 14 。 |
蒲生 秀行 (再封) |
対い鶴 |
会津藩 (60万石) |
1601年~1612年 |
上杉氏の移封後も会津に留まり、再び蒲生家の客分となる 14 。 |
蒲生 忠郷 |
対い鶴 |
会津藩 (60万石) |
1612年~1627年 |
秀行の子・忠郷の代まで客分として仕える 14 。 |
加藤 嘉明 |
蛇の目 |
会津藩 (40万石) |
1627年~1631年 |
蒲生氏の断絶後、入封した加藤嘉明の客分となる 14 。 |
加藤 明成 |
蛇の目 |
会津藩 (40万石) |
1631年~1643年 |
嘉明の子・明成の代まで仕え、会津騒動による加藤家改易まで会津に留まる 14 。 |
蒲生氏から加藤氏に至る約半世紀の間、義孝は会津の支配者が変わるたびに、常に「客分(客将)」として迎えられた 14 。客分とは、完全な主従関係を結んだ家臣とは異なり、賓客としての礼遇を受ける特別な身分である 34 。知行や扶持米といった経済的な保障は受けるものの、厳格な軍役の義務からは比較的自由な立場であった 36 。
この一貫した厚遇は、単に義孝個人の能力や人柄によるものだけでは説明がつかない。それは、彼が背負う「二本松畠山氏」という名門の血筋、すなわち旧権威に対する敬意の表れであった。豊臣政権下で新たに入部してきた蒲生氏や上杉氏のような外様の領主にとって、在地の人心を掌握することは最重要課題であった。その際、かつての奥州探題家の末裔を丁重に遇することは、自らの支配の正当性を演出し、在地勢力の反感を和らげるための有効な政治的手段だったのである。
義孝の側から見れば、この「客分」という立場は、特定の主人に命運を完全に委ねることなく、時勢を見極めながら柔軟に身を処すことを可能にする、絶妙な生存戦略であった。父と兄を政争の渦中で失った彼にとって、これ以上、特定の勢力に深入りすることを避けるのは、当然の選択だったのかもしれない。彼は、自らの血筋という無形の資産を最大限に活用し、主家を失った多くの牢人たちが辿ったであろう悲惨な末路を回避し、武士としての尊厳と生活の安定を確保したのである。
義孝が最初に客分として仕えた蒲生氏郷は、織田信長や豊臣秀吉に見出された当代きっての知将であり、極めて先進的な思考の持ち主であった 38 。氏郷は会津に入部すると、旧来の慣習に囚われず、戦乱で主を失った牢人や旧領主の家臣を積極的に登用する人材活用策を推し進めた 40 。これは、秀吉に願い出て特別に許可を得たものであり、彼の先見性を示す逸話である 41 。
氏郷は家臣を大切にし、戦功を挙げた者を招いては自ら風呂を沸かしてもてなした(蒲生風呂)という温情あふれる逸話が伝わる一方で 42 、軍規を乱した者には、たとえ寵愛する家臣であっても斬り捨てるという厳格さも併せ持っていた 38 。氏郷にとって、義孝の存在は、彼の領国経営における象徴的な意味合いを持っていた可能性がある。旧権威の象徴である義孝を丁重に遇することは、氏郷が進める城下町の整備や楽市楽座の導入といった革新的な政策に対する、在地保守層の反発を和らげる緩衝材として機能したであろう。義孝は、氏郷の巧みな「アメとムチ」の統治術の中で、いわば「アメ」の象徴として、その存在価値を見出されていたのである。
慶長3年(1598年)、蒲生家に御家騒動が起こると、秀吉は蒲生氏を宇都宮へ移封し、代わって五大老の一人、越後の上杉景勝を120万石という破格の石高で会津に入部させた 44 。義孝は、この新たな領主・上杉景勝の下でも、引き続き客分として召し抱えられた 14 。
そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、その前哨戦として東北地方で「慶長出羽合戦」が起こる。徳川家康と対立した上杉景勝は、家康方に与した最上義光、そして伊達政宗の軍と激しい戦いを繰り広げた。この時、二本松義孝は上杉軍の一員として、この戦いに参陣している 14 。
これは、彼の生涯において具体的に記録されている数少ない軍事行動であり、極めて重要な意味を持つ。義孝が単なる食客ではなく、領主の危急存亡の秋には、その恩義に報いるために武働きを求められる存在であったことを明確に示している。上杉家にとって、家康との全面対決を前に、領内のあらゆる戦力を結集する必要があった。義孝の参陣は、客分という立場であっても、武士としての本分を忘れていなかったことの証である。また、この戦いの敵方には、父と兄の仇である伊達政宗がいた。彼にとって、この参陣は個人的な雪辱戦という側面も帯びていたのかもしれない。
関ヶ原の戦いで西軍に与した上杉景勝は、戦後、徳川家康によって会津120万石を没収され、出羽米沢30万石へと大減封された 46 。しかし、義孝は米沢へ移る上杉氏には同行せず、会津の地に留まることを選んだ。
上杉氏の後、会津にはまず蒲生秀行が60万石で再封され、その死後は子の忠郷が継いだ 47 。義孝は再び蒲生家の客分として遇される 14 。そして寛永4年(1627年)、蒲生忠郷が嗣子なく没し、蒲生家が断絶すると、伊予松山から「賤ヶ岳の七本槍」の一人、加藤嘉明が40万石で入部した 15 。義孝は、この加藤嘉明、そしてその子・明成の代に至るまで、客分として会津に留まり続けたのである 14 。
領主が目まぐるしく交代する中で、義孝が一貫して会津を離れなかったという事実は、彼が特定の主君に忠誠を誓っていたのではなく、「会津」という土地そのものに強い愛着、あるいは執着を持っていたことを示唆している。生まれ故郷の二本松に隣接するこの地は、彼にとって第二の故郷であり、いつの日か故郷の土を踏むための足がかりと考えていた可能性は高い。
その機会は、寛永20年(1643年)に訪れる。藩主・加藤明成の代に、重臣の堀主水らとの対立が激化し、藩政が混乱を極めた「会津騒動」が起こる。この結果、幕府は加藤家を改易処分とした 14 。会津が一時的に無主の地となったこの時、66歳になっていた義孝は、ついに長年の流浪の生活に終止符を打ち、「故郷で余生を送る」ことを考え始めたのであった 14 。
半世紀にわたる会津での客分暮らしを経て、ようやく故郷の土を踏めると考えた義孝。しかし、彼の流転の人生は、まだ終わらなかった。老境に差し掛かった彼のもとに、思いもよらぬ知らせが舞い込み、その運命を最後の、そして最大の転機へと導くことになる。
加藤家が改易された後、義孝は長年の風雪に耐えた武士としての人生を終え、生まれ故郷の二本松で静かに余生を送ることを決意していた 14 。しかし、その願いが叶う直前の慶安元年(1648年)、彼の許に一人の使者が訪れる。三河国岡崎藩5万石の藩主、水野忠善からの仕官の誘いであった 14 。
この時、義孝はすでに71歳という高齢に達していた。父の非業の死から63年、故郷を追われてから62年の歳月が流れていた。彼の武名、あるいは名門の末裔としての評判が、遠く離れた三河の譜代大名の耳にまで届いていたという事実は、驚嘆に値する。それは、義孝が客分として過ごした半世紀が、決して無為なものではなく、武士としての矜持と品格を保ち続けた結果であったことを物語っている。
義孝を招聘した水野忠善は、ただ者ではなかった。水野氏は徳川家康の生母・於大の方の実家であり、徳川家にとって最も信頼の厚い譜代の名門であった 49 。忠善自身も、その出自を強く自負し、武勇を好み、軍備の増強に熱心な剛毅な人物として知られていた 51 。彼は藩政において新田開発などを進める一方で、新しい家臣を積極的に召し抱え、自家の武威を高めることに腐心していた 51 。
忠善が、遠く奥州の老将に白羽の矢を立てた背景には、彼のこうした性格と、名門としてのプライドがあったと考えられる。徳川譜代の名門である水野家の家臣団に、かつて奥州に君臨した探題家の血筋を加えることは、藩の格式を一層高めることに繋がる。忠善にとって、二本松義孝という存在は、その経歴と血統のすべてが、自らの藩に箔をつけるための絶好の人材だったのである。二つの名家の邂逅は、双方にとって大きな利益をもたらす、まさに渡りに船の申し出であった。
水野忠善からの破格の申し出に対し、義孝は深慮の末、一つの決断を下す。彼は自らの高齢を理由に、丁重に仕官を辞退した。そして代わりに、嫡男の義張(よしはる)と二男の義正(よしまさ)の二人を推薦し、出仕させることを願い出たのである 14 。
これは、自らの栄達よりも、一族の安泰と永続を願う、父としての最後の深謀遠慮であった。自らが再び歴史の表舞台に立つことで、新たな政争に巻き込まれるリスクを避け、息子たちの代で安定した藩士としての地位を確立させる道を選んだのだ。
忠善はこの申し出を快く受け入れた。そして、その処遇は義孝の想像をはるかに超えるものであった。忠善は、嫡男・義張に700石、二男・義正に300石、合計1,000石という、新規召し抱えとしては異例の高禄を与えた 14 。さらに、隠居する義孝本人に対しても、「養老の資」として200人扶持という破格の待遇を約束したのである 14 。
一人扶持は一日あたり米五合を支給するものであり、一年では約1.8石に相当する。200人扶持は約360石に匹敵し、息子たちの知行と合わせると、二本松家は実質的に1,300石以上の大身旗本に匹敵する待遇を得たことになる。これは、水野忠善が義孝本人と、彼が象徴する「二本松畠山氏」という家格に対し、最大限の敬意と評価を払ったことの動かぬ証拠であった。
この瞬間、二本松義孝の流浪の人生は、ついに終わりを告げた。父・義継の悲劇的な死から始まった一族の苦難の歴史に、彼は自らの手で終止符を打ち、新たな時代の安寧の中に、一族の確固たる礎を築き上げたのである。
慶安元年(1648年)、息子たちを三河岡崎藩主・水野家に託した二本松義孝。彼の物語はここで歴史の表舞台から姿を消すが、彼が遺したものは、その後も長く受け継がれていく。それは、石塔に刻まれた名ではなく、血脈として、そして武士の気骨として、激動の時代を生き抜いていった。
義孝の子・義張と義正が水野家に仕えて以降、二本松氏は徳川譜代の名門・水野家の重臣として、その歴史を共に歩むこととなる 19 。水野家の転封に従い、その居は三河岡崎から肥前唐津、遠江浜松、そして幕末には出羽山形へと移っていった 53 。二本松氏は家老格八家の一つに数えられるまでに至り、藩政の中枢を担う家として、その家名を確固たるものにした 53 。
その子孫の中でも特に名を残しているのが、六代当主の二本松義廉(よしかど)である。彼は、天保の改革で知られる老中首座・水野忠邦の家老を務めた。忠邦が自身の出世のために、実入りの良い唐津藩から浜松藩への転封を強行しようとした際、義廉は主君の行いを諌めるために自害して果てたと伝えられている 53 。この「諫死」の逸話は、二本松家が単に藩主に従うだけでなく、武門としての気骨と忠義を失うことなく幕末まで存続したことを物語っている。戦国大名としては滅びたが、近世大名の家老家として再生し、その名を現代にまで伝えたことこそ、二本松義孝の生涯が残した最大の成果であった。
息子たちの将来を見届け、一族の安泰を確かなものにした義孝であったが、意外なことに、その最期は歴史の記録から忽然と姿を消している。彼の死没年は不明であり 14 、その墓所がどこにあるのかも、確かなことは分かっていない。水野家の菩提寺は、愛知県の乾坤院 57 や楞厳寺 59 、岡崎の圓頓寺 60 、広島県福山市の賢忠寺 61 、茨城県結城市の万松寺跡 62 など各地に点在するが、いずれの記録にも義孝の墓に関する明確な記述は見当たらない。
この歴史からの静かな退場は、彼の晩年の生き方を象徴しているようにも思える。彼は、自らの名を後世に残すことよりも、一族の血脈が永続することを何よりも優先した。息子たちの代で家が安泰となったことを見届けた後、彼はもはや歴史の表舞台に自らを留める必要はないと考えたのかもしれない。彼の遺産は、壮麗な墓石ではなく、水野家の忠臣として、また近代には医師として山形の地で続いた 53 子孫そのものであったと言えよう。
二本松義孝の生涯は、滅亡の淵に立たされた一人の武将が、いかにして激動の時代を生き抜き、一族を再生させたかという、壮大な物語である。
彼の人生は、父・義継の代で戦国大名としては滅亡するという、絶望的な状況から始まった。父と兄を政争で失い、故郷を追われ、天涯孤独の身となった。しかし、彼は決して運命に屈しなかった。奥州探題の末裔という名門の誇りを胸に秘めながらも、それに固執することなく、時代の変化に巧みに適応していった。
蒲生、上杉、加藤といった会津の歴代領主の下で「客分」という特異な地位を保ち続けた半世紀は、彼の忍耐力と処世術の非凡さを示している。彼は、武力や領地といった「ハードパワー」を失った者が、家格や伝統、そして個人の知恵と品格といった「ソフトパワー」を駆使して生き抜く術を、身をもって体現した。
そして老境に至り、三河の譜代大名・水野忠善からの招聘という千載一遇の好機を捉え、自らは身を引き、息子たちを破格の待遇で出仕させることで、一族の未来を確かなものにした。これは、彼の生涯の集大成ともいえる、深慮遠謀の極みであった。
二本松義孝は、歴史の教科書にその名が大きく記されるような英雄ではないかもしれない。しかし、戦国乱世の終焉と徳川幕藩体制の確立という、日本の歴史における最大の転換期を、その一身に受け止め、滅びゆく運命に抗い、見事な再生を成し遂げた。彼の生涯は、歴史の敗者の物語でありながら、同時に、逆境を乗り越えて未来を切り拓いた、一人の人間の力強い勝利の物語として、我々に深い感銘を与えるのである。