五島玄雅は初代福江藩主。家督争いや信仰の苦悩を乗り越え、朝鮮出兵で武功。関ヶ原では中立を保ち五島家を存続。幕府の圧力でキリシタン弾圧に転じたが、藩の安定に尽力した。
五島玄雅(ごとう はるまさ)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、肥前国(現在の長崎県)の五島列島を治めた武将です。一般的には、甥である五島純玄(すみはる)の急死によって予期せず家督を継ぎ、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し、関ヶ原の戦いでは巧みな立ち回りで所領を安堵された「幸運なキリシタン大名」として知られています。
しかし、その生涯を丹念に追うと、彼の人生が単なる幸運の連続ではなかったことが浮かび上がってきます。それは、肉親との家督を巡る深刻な対立と追放、信仰と領主としての責務との間で引き裂かれる苦悩、そして中央政権の激しい権力闘争の荒波を乗り切るための、冷徹なまでの政治的判断の連続でした。
本報告書は、五島玄雅という一人の地方領主の生涯を、出自、家督相続の複雑な経緯、武将としての功績、キリシタンとしての信仰と葛藤、そして初代福江藩主としての治績という多角的な視点から徹底的に掘り下げます。彼の人生の軌跡は、戦国末期から江戸初期へと至る時代の転換期において、中央の激動がいかに五島列島という辺境の地にまで直接的かつ過酷に影響を及ぼしたか、そしてその中で一人の領主がいかにして家名を存続させ、次代への礎を築いたかを示す、極めて重要な事例と言えるでしょう。玄雅の実像に迫ることは、乱世を生き抜いた地方領主の生存戦略の深奥を解き明かすことに他なりません。
五島玄雅は、天文17年(1548年)、五島列島の領主であった宇久純定(うく すみさだ)の三男として誕生しました 1 。当時の宇久氏は、平戸松浦氏との長年にわたる領地や漁場を巡る緊張関係に加え、島内の他の在地領主との抗争も絶えず、その統治基盤は決して盤石なものではありませんでした 3 。
玄雅の青年期は、五島におけるキリスト教の歴史と密接に重なります。永禄9年(1566年)、父・純定はイエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダを招き、五島に初めてキリスト教が伝来しました 5 。純定自身も後に「ルイス」の洗礼名で受洗しており 7 、玄雅は幼少期からキリスト教が浸透していく環境で育ったことになります。
武家の常として、家督は長男が継ぐのが原則であり、三男であった玄雅は当初から家督相続の候補者とは見なされていませんでした。兄の宇久純尭(すみたか)が本家に戻って家督を継ぐことになったため、玄雅は宇久家の分家である大浜家に養子として出され、「大浜玄雅」を名乗ることになります 8 。
この時期、玄雅は父・純定や兄・純尭と同様にキリスト教の洗礼を受け、洗礼名を「ルイス」としました 1 。彼の青年期は、本家の家督相続ルートから外れた「三男」という立場と、それを補うための「分家への養子入り」という、当時の武家社会における典型的な境遇から始まります。これは、彼が当初から権力の中枢ではなく、いわば周縁に位置づけられていたことを意味します。このような立場にあった彼にとって、キリスト教への入信は、単なる個人の信仰心の発露に留まらず、キリシタンであった父や兄との関係を強化し、家中における自らの政治的立場を確保するための、現実的な手段であった可能性も否定できません。権力の中枢から一歩引いた場所で過ごしたこの時期の経験が、後の彼の生涯を特徴づける、冷静に時勢を読み、慎重に自らの立ち位置を判断する能力を培ったと推察されます。
玄雅の兄・純尭が病死すると、家督はその子である甥の五島純玄が継承しました。しかし、純玄は反キリシタン派の家臣団に担がれ、叔父であり熱心なキリシタンであった玄雅と家督を巡って激しく対立します 5 。この家中の争いは、単なる権力闘争に留まらず、キリスト教を巡る深刻な宗教対立の様相を呈していました。
この争いに敗れた玄雅は、彼を支持するキリシタンの武士約200名と共に五島を追われ、長崎へ亡命するという苦渋を味わうことになります 5 。この亡命生活は7年余りにも及んだとされ、彼は長崎の五島町に居を構えたと伝えられています 5 。その後、玄雅は薩摩の太守・島津義久の仲介を得て、ようやく五島への帰参を許されました 5 。
五島に帰参した玄雅は、甥である当主・純玄と共に豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍します 8 。この時、玄雅も大浜姓から改め、本家と同じく「五島」の姓を名乗るようになりました 8 。
しかし、文禄3年(1594年)、朝鮮の陣中にあった純玄が天然痘に罹患し、病没するという不測の事態が発生します 8 。この時、玄雅はかつての対立を乗り越え、自ら甥の看病にあたったと記録されています 8 。
純玄は死の床で、後継者として叔父である玄雅を指名する遺言を残しました 8 。当主からの直接の指名という、家督継承における最大の正当性を得たにもかかわらず、玄雅はこれを即座に受け入れず、一度は固辞します 10 。
この玄雅の態度は、単なる謙遜や恐怖心から来るものではありませんでした。それは、自らが強引に家督を継承すれば、かつて純玄を担いだ反キリシタン派(宇久盛重・盛長の一派)が必ず反発し、家中が再び分裂・内乱状態に陥るという未来を正確に予測した上での、極めて高度な政治的駆け引きでした。彼は家督争いで敗れ、亡命まで経験したことで、家中の対立の根深さを誰よりも痛感していたのです。
あえて「固辞」という姿勢を見せることで、玄雅は自らが権力欲に駆られた人物ではないことを内外に示し、この膠着状態を打開するための外部の権威を介入させる余地を生み出しました。その調停役となったのが、肥後の大名であり、五島氏が属していた朝鮮派遣軍第一軍の将でもあった小西行長でした 8 。
行長は、玄雅に家督を継がせる一方、対立派閥を納得させるための妥協案を提示します。それは、玄雅の従兄弟であり、かつての対立派閥の中心人物であった宇久盛重の子・宇久盛長の長男である五島盛利(もりとし)を玄雅の養子とし、次期後継者とすることを約束するというものでした 8 。この調停案は、玄雅自身が当主の座に就きつつ、対立派閥にも「次期当主」という未来を与えることで彼らの面子を保ち、不満を吸収する見事な解決策でした。玄雅はこの案を受け入れ、五島家第21代当主の座に就きます。これは、目先の権力掌握よりも、家の長期的な安定を最優先した、彼の政治家としての成熟を示す重要な決断でした。
五島氏が豊臣政権の中央集権体制に組み込まれたのは、玄雅が家督を継ぐ以前、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定の時でした。当時の当主であった甥の純玄が秀吉にいち早く臣従し、1万5千石余りの本領を安堵されます 4 。
その後、文禄元年(1592年)に始まった文禄の役において、五島氏は小西行長が率いる第一軍に編入され、700人の軍役を課せられました 15 。これは、同じ肥前の諸大名と比較すると、その規模の小ささが際立ちます。
大名 |
所領 |
石高(推定) |
動員兵力 |
小西行長 |
肥後・宇土 |
約14.6万石 |
7,000人 |
宗義智 |
対馬・府中 |
- |
5,000人 |
松浦鎮信 |
肥前・平戸 |
約6.0万石 |
3,000人 |
有馬晴信 |
肥前・日野江 |
約4.0万石 |
2,000人 |
大村喜前 |
肥前・大村 |
約2.0万石 |
1,000人 |
五島純玄/玄雅 |
肥前・福江 |
約1.4万石 |
700人 |
出典: 16
この表が示すように、五島氏の動員兵力は、同じ肥前の松浦氏(3,000人)や有馬氏(2,000人)と比べても著しく少なく、小大名としての立場を如実に物語っています。陸上での大規模な会戦において、彼らが単独で戦局を左右することは困難でした。しかし、五島氏には石高や兵力では測れない、決定的な強みがありました。それが、中世以来、海で生きてきた彼らが培った卓越した水軍の運用能力でした。
家督を継いだ玄雅は、慶長2年(1597年)に再開された慶長の役にも引き続き出征します 8 。そしてこの戦役において、彼は五島氏の歴史に残る大きな武功を挙げることになります。
慶長2年末から翌年初頭にかけての蔚山城(うるさんじょう)の戦いにおいて、加藤清正や浅野幸長らが籠城する蔚山倭城が、数万の明・朝鮮連合軍に包囲され、兵糧も尽きかけ、落城寸前の危機に陥りました。この絶体絶命の状況を打開するため、毛利秀元らを総大将とする日本の援軍が派遣されます。玄雅はこの援軍に参加し、自らの最大の武器である五島水軍を率いて、陸から城を攻める明軍の背後、すなわち海上から奇襲攻撃を敢行したのです 11 。
この玄雅による側面からの突撃が戦況を一変させました。意表を突かれた明軍が混乱する隙に、城内の加藤・浅野軍も城から打って出て、日本の援軍は内外から敵を挟撃することに成功。これにより明・朝鮮連合軍は大敗北を喫し、蔚山城は陥落の危機を免れました。小勢力である五島水軍の働きが、戦全体の帰趨を決するきっかけとなったのです。
蔚山城での大功は、秀吉から極めて高く評価されました。慶長2年(1597年)8月、玄雅は秀吉から豊臣姓を下賜されると共に、従五位下・淡路守に叙任されるという破格の恩賞を受けます 8 。これは、五島氏が単なる地方領主ではなく、その水軍力が豊臣政権にとって不可欠な戦略的価値を持つと公的に認められたことを意味し、玄雅は名実とも に豊臣大名の一員となりました。
一方で、この朝鮮出兵という未曾有の国策事業に臨む玄雅の悲壮な覚悟を示す逸話も残されています。彼は出陣に際し、再び故郷の土を踏むことはできないかもしれないと考え、自らが存命のうちに死後の冥福を祈るための石碑、いわゆる「逆修碑(ぎゃくしゅうひ)」を菩提寺である大円寺に建立しました 18 。この石碑は、異国の戦場で命を懸ける武将の覚悟を今に伝えています。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、玄雅は当初、西軍に与する姿勢を見せました。これは、朝鮮の役を通じて深い関係を築き、家督相続の際にも世話になった小西行長が西軍の主将の一人であったことから、ごく自然な流れでした 11 。玄雅は実際に兵を率いて、西軍の拠点である大坂城へ向かうべく、本州の下関(現在の山口県)付近まで進軍しています 11 。
しかし、その地で彼は、同じ肥前から西軍に味方するために進軍してきた松浦鎮信、大村喜前、有馬晴信といった諸将と合流します。そして彼らは、唐津沖の神集島(かしわじま)に集まり、今後の去就を巡って軍議を開いたと伝えられています 11 。
この「神集島の軍議」の結果、玄雅をはじめとする肥前の諸将は、揃って西軍から離反し、兵をまとめて自領へ引き上げ、中立を保つという驚くべき決断を下しました 6 。
この決断の背景には、個人的な恩義よりも、より大きな視点からの冷静な情勢分析がありました。一つには、朝鮮の役を通じて、西軍の首脳である石田三成や、盟友であるはずの小西行長の指揮に対して、肥前の諸将が強い不信感を抱いていたことが挙げられます 11 。そしてもう一つは、徳川家康が率いる東軍の圧倒的な国力と動員力を鑑み、最終的な勝利は東軍に帰するであろうという、冷徹なまでの政治的判断があったと考えられます。
玄雅のこの選択は、彼個人の判断というよりも、「肥前大名」という地域ブロック全体の集団的な意思決定の結果でした。彼らは、誰か一人が抜け駆けして東軍に味方したり、あるいは西軍に留まったりすれば、戦後に地域全体が混乱に陥ることを理解していました。そこで、まずは一致団結して中立を保ち、戦いの勝者と改めて交渉の席に着くことが、小大名である自分たちが共に生き残るための最善の策であると結論付けたのです。
結果として、この巧みな中立策は功を奏しました。関ヶ原で東軍が勝利した後、玄雅は徳川家康からその所領を安堵され、五島家の存続を見事に成功させたのです 8 。
関ヶ原の戦後処理において、徳川家康から所領安堵の朱印状を得たことにより、玄雅は正式に初代福江藩主となりました 6 。これにより、中世以来の在地領主であった五島氏は、江戸幕府の統治体制(幕藩体制)に組み込まれた近世大名へと、その性格を大きく転換させることになります。藩の石高は、表高(豊臣政権時代の石高)で1万5千石余り、幕府から認められた朱印高は1万2千石余りと記録されています 14 。
玄雅の治世は、戦乱の時代から平時の統治へと移行する重要な過渡期にあたりました。彼の藩主としての主な仕事は、戦国以来の家臣団を統制し、藩主を中心とした中央集権的な支配体制を確立すること、そして領内の安定を図り、藩政の礎を築くことでした。
当時の五島氏の居城は、福江川の河口に位置する中世以来の江川城でした 4 。現在、五島のシンボルとして知られる壮麗な石垣を持つ福江城(石田城)は、幕末の動乱期に海防の目的で築かれたものであり、玄雅の時代にはまだ存在していません 19 。玄雅の死後、慶長19年(1614年)に江川城は火災で焼失し、その後は石田浜に陣屋が構えられました 4 。
藩主としての玄雅の政策で特筆すべきは、隣接する大村藩との関係です。大村藩では、藩主の大村喜前が幕府の意向を忖度して厳しいキリシタン弾圧を行っており、多くの信者がその居場所を失っていました。一方で、五島藩は相次ぐ戦乱で人口が減少し、農業生産を担う労働力不足が深刻な課題となっていました。
この状況下で玄雅は、大村藩で迫害されていたキリシタンたちを、移住者として積極的に受け入れるという政策を採ったとされます 19 。一説には3,000人もの信者が大村から五島へ移り住んだと言われています 19 。これは、表向きには幕府の禁教政策に従いつつも、領国経営の現実的な利益(労働力の確保)を優先するという、玄雅の二重の顔を象徴する政策でした。彼は「信仰」の問題を巧みに「経済・人口」の問題へと転化させ、幕府の政策の網をくぐり抜けながら、自藩の実利を追求したのです。この時に移住した人々が、後の五島における潜伏キリシタンの歴史的土壌を形成する一因となったことは、歴史の皮肉と言えるかもしれません。
家督相続を巡って対立した甥・純玄がキリシタン弾圧者であったのとは対照的に、当主となった玄雅は当初、自らの信仰に基づき、領内のキリシタンを保護する政策を採りました 5 。長崎から追放された信者を伴って帰国し、純玄の時代に破壊された教会を再建するなど、布教活動を許したのです 23 。
その結果、五島領内のキリスト教は再び活気を取り戻し、慶長11年(1606年)には信者数が2,300人を超えるほどにまで増加したと記録されています 24 。この時期の玄雅は、表向きは棄教した体裁をとりながらも、実際には宣教師の活動を黙認していたと考えられます 24 。
しかし、このキリシタン保護政策は長くは続きませんでした。大きな転換点となったのが、慶長11年(1606年)です。この年、玄雅は江戸城及び駿府城への参勤(大名が将軍に謁見すること)を行っており、この頃を境に彼のキリシタン政策は180度転換します 23 。
史料には、玄雅がこの時期に「建前上棄教者となる」と記されています 23 。これは、江戸幕府の最高権力者である徳川家康や二代将軍秀忠から、直接的あるいは間接的に、棄教を極めて強く迫られた結果に他なりません 2 。関ヶ原の戦いを経て徳川の天下が盤石となった今、外様大名である五島氏が存続するためには、幕府の基本方針である禁教政策に逆らうことは許されなかったのです。
玄雅は、「信仰を守って家を取り潰されるか、信仰を捨てて家を守るか」という、領主として、また一人の信者として、究極の選択を迫られました。そして彼は、後者を選びます。政策は苛烈な弾圧へと転じ、領内にいた宣教師は追放され、教会堂は破壊、あるいは肥後から招いた法華宗の僧侶によって仏寺へと強制的に変更されました 23 。
この「建前上の棄教」という言葉は、彼の決断が真の意味での信仰の喪失ではなく、大名として家臣と領民の生活を守るために、自らの魂の一部を犠牲にして下した、絶望的なまでの政治的妥協であったことを物語っています。彼は、藩主としての責務を果たすために、信仰者としての自身を公的に殺すという、悲劇的な決断を下したのです。
キリシタン弾圧へと舵を切った後、玄雅は初代福江藩主としての残りの日々を過ごし、慶長17年(1612年)3月8日にその生涯を閉じました。享年65でした 2 。戒名を「大圓寺天幢奕叟(だいえんじでんとうえきそう)」といい 1 、その亡骸は五島市三尾野町にある菩提寺の曹洞宗・大円寺に葬られました。同寺には、今も玄雅の墓所が現存しています 11 。
玄雅の死後、家督は、かつて家中の融和策として養子に迎えていた五島盛利が滞りなく継承しました 8 。玄雅が最も危惧していた家中の対立が再燃することはなく、この円滑な権力移譲によって、福江藩は安定した治世へと移行していくことになります。玄雅が家督相続の際に示した深慮遠謀が、彼の死後、見事に結実したと言えるでしょう。
五島玄雅は、宇久家の三男という家督継承からは程遠い立場に生まれながら、家中の激しい権力闘争と宗教対立、そして豊臣政権から徳川幕府へと移り変わる天下の動乱を、見事に乗り切った人物です。彼は、自らの専門性である水軍力を最大の武器として国家的な戦役で武功を挙げ、家の名声を高めました。また、天下分け目の大戦では、地域の諸大名と連携して中立を保つという巧みな政治判断で家を存続させました。
その生涯の後半は、信仰と、藩主としての家の存続という責務との間で引き裂かれる、苦悩に満ちたものでした。最終的に彼は、幕府の強大な権力に屈し、信仰を公的に放棄するという非情な決断を下します。しかし、その苦渋の選択があったからこそ、五島氏は明治維新に至るまで約250年間、福江藩の藩主として家名を保つことができたのです。
彼は、戦国の荒波を乗り越えて近世大名家の礎を築き、次代へと確実な形でバトンを渡した、極めて有能かつ現実的な「舵手」であったと評価することができます。彼の生涯は、華々しい英雄譚ではありませんが、激動の時代を生きる地方領主の苦悩と叡智、そして生存への執念を、我々に強く訴えかけてくるのです。