五島純玄は五島列島領主。キリシタンだが家中の対立と秀吉の禁教令で迫害者に。朝鮮出兵中に病没するも、家の存続のため宿敵の叔父を後継に指名した。
五島純玄(ごとう すみはる)という一人の武将の生涯を理解するためには、まず彼が生きた舞台、すなわち五島列島が持つ地政学的な特異性と、彼の一族である宇久(うく)氏の歴史的背景を把握することが不可欠である。
五島列島は、日本の歴史において単なる西辺の離島ではなかった。古代より日本列島と大陸を結ぶ海上交通の要衝として、極めて重要な役割を担ってきた 1 。奈良・平安時代には遣唐使船が大陸へ渡る際の最後の寄港地となり、大陸の進んだ文化や情報が日本へ流入する玄関口として機能した 1 。
時代が下り中世に入ると、その地政学的重要性はさらに増す。日明貿易やその後の南蛮貿易において、五島列島は中継地として繁栄の機会を得ると同時に、東シナ海を席巻した倭寇の活動拠点ともなり、国際的な交易と紛争の最前線へと変貌を遂げた 3 。特に16世紀中頃、後期倭寇の頭目として知られる中国人、王直(おうちょく)が五島を根城の一つとして活動した事実は、この島々が単なる日本の地方ではなく、東アジア全体の動向と密接に連動する国際的な舞台であったことを象徴している 3 。
このような環境は、五島の領主にとって、海外交易がもたらす莫大な富と、常に外部勢力との緊張関係に置かれるという危険性を併せ持つ、まさに両刃の剣であった。五島純玄の生涯における重要な決断の数々は、こうした日本の「辺境」ではなく「国際的フロンティア」と呼ぶべき地で、いかにして一族の存続を図るかという、極めてダイナミックな文脈の中に位置づけられるのである。
五島氏の前身である宇久氏は、その出自が明確ではない。清和源氏武田氏の流れを汲むとする説と、桓武平氏の子孫であるとする説が伝えられており、中央の権威から離れた海上の在地領主としての成り立ちを物語っている 6 。
当初、列島北部の宇久島を本拠としていた宇久氏は、島々の在地豪族と時に争い、時に協調しながら、徐々にその影響力を五島列島全域へと拡大していった 3 。大きな転機となったのは、純玄から見て曽祖父にあたる第17代当主・宇久盛定(うく もりさだ)の時代である。盛定は、内乱を制して五島列島南部の中心地である福江島に江川城を築き、本拠を移した。これにより、宇久氏は五島列島の支配者としての地位を固め、戦国大名としての基礎を確立したのである 11 。
五島純玄の生涯は、誕生の瞬間から時代の大きなうねりに翻弄される運命にあった。キリシタン領主の子として生まれながら、彼の家督相続は、信仰をめぐる家中の深刻な対立の渦中で行われた。
純玄は永禄5年(1562年)、五島列島の領主であった第19代当主・宇久純尭(うく すみたか)の長男として生を受けた 14 。父・純尭はドン・ルイス、母はドーニャ・マリアという洗礼名を持つ熱心なキリシタンであり、純玄自身も幼い頃に洗礼を受け、父と同じ「ドン・ルイス」の名を授かっている 15 。これは、彼がキリシタン信仰が深く根付いた環境で育ったことを明確に示している。祖父・宇久純定の代に五島へ伝来したキリスト教は、父・純尭の治世下で領内に教会が建立されるなど、その影響力を強めていた 17 。
天正15年(1587年)、父・純尭が35歳の若さで病死すると、宇久家の家督をめぐり、純玄と叔父(純尭の弟)にあたる大浜玄雅(おおはま はるまさ)との間で深刻な対立が勃発する 18 。この家督争いは、単なる血縁者間の権力闘争に留まらず、五島家中に深く根を張りつつあったキリスト教信仰をめぐる、二大勢力の対立が表面化したものであった。
玄雅自身が熱心なキリシタンであったのに対し、純玄を支持したのは、古来の信仰を守り、キリスト教の拡大に反発する家臣団であった 18 。結果として、この争いは反キリシタン派に担がれた純玄の勝利に終わり、彼は宇久家第20代当主の座に就いた 14 。この相続争いの帰結は、純玄自身のその後の治世の方向性を決定づける、極めて重要な意味を持っていた。彼は反キリシタン派の旗頭として権力を得たため、自身の信仰の有無とは別に、領主として彼らの意向を無視することはできない立場に置かれたのである。この家中の内的な力学が、やがて来る豊臣秀吉の禁教令という外圧と結びつき、彼の行動を決定づけることとなる。
かつてはドン・ルイスの洗礼名を持った純玄が、家督相続後に一転してキリシタン迫害の実行者となったことは、彼の生涯における最大の矛盾点である。しかしこの態度の急変は、単なる「変節」という言葉では片付けられない、内外の政治的圧力に対する、戦国領主としての現実的な対応であった。
純玄が家督を継いだ天正15年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉は、博多において突如「バテレン追放令」を発布した 19 。これは全国のキリシタン大名に衝撃を与え、五島もその例外ではなかった。純玄の後見人であった大叔父の宇久盛重は、もともと熱心な反キリシタンであり、この追放令を絶好の機会と捉え、領内での迫害を主導したとされる 16 。
秀吉という中央権力者の意向と、家中の反キリシタン派からの支持という二重の正当性を得た純玄の治世下で、五島におけるキリスト教への弾圧は苛烈を極めた。宣教師は追放され、教会は破壊、信者には棄教が厳しく迫られた 16 。この政策に強く反発した叔父の玄雅は、キリシタンの家臣ら二百余名を率いて抵抗を試みるも敗れ、長崎への亡命を余儀なくされた 18 。これにより、家中の対立は修復不可能な段階に至った。
一部の宣教師側の記録には、この迫害の主体を叔父の玄雅と誤認する記述も見られるが 22 、玄雅自身が熱心なキリシタンであり、後に迫害に反発して亡命している事実と照らし合わせると、これは記録上の混乱と見なすのが妥当であろう 16 。実際の迫害は、反キリシタン派に擁立された純玄の治世下で実行されたと考えるのが自然な帰結である。
純玄のこの行動は、三重の圧力構造の中で下された、政治的で現実主義的な決断であったと分析できる。第一に、彼を当主の座に押し上げた家中の反キリシタン派からの圧力。第二に、豊臣秀吉という逆らうことのできない中央権力からの圧力。そして第三に、これらの内外の危機から一族を守り、家門を存続させねばならない領主としての責任である。この三重の圧力下で、彼が取りうる最も合理的な選択は、個人の信仰(ドン・ルイスとしてのアイデンティティ)を捨て、迫害者に転じることであった。それは、支持基盤を固め、中央権力に恭順の意を示し、結果として「家」を存続させるための、苦渋に満ちた政治的判断だったのである。
キリシタン弾圧によって家中の安定と秀吉への恭順を示した純玄は、次なる段階として、中世的な在地領主から、豊臣政権下に組み込まれた近世大名へと脱皮していく。その過程は、秀吉への正式な臣従と、「五島」への改姓という二つの象徴的な出来事に集約される。
天正15年(1587年)の九州平定の際、純玄は自ら豊後国府内(現在の大分市)にまで赴き、秀吉に謁見して臣従した 15 。この迅速な行動が功を奏し、秀吉から五島列島全域にわたる1万5530石の所領を安堵される 14 。これは、宇久氏による五島の支配が、天下人によって初めて公的に追認されたことを意味し、近世大名・五島氏が誕生した瞬間であった。この時、秀吉は純玄に遠征への参加を免除し、対馬や朝鮮半島に対する備えとして、五島の守りを固めるよう命じている 15 。これは、秀吉が五島列島の地政学的な重要性を高く評価していたことの証左である。
純玄は、秀吉への臣従と前後して、あるいは文禄の役への出陣に際して、一族の姓を「宇久」から「五島」へと改めた 14 。この改姓は、単なる名称の変更に留まらない、深い政治的意図を秘めた戦略的な行為であった。
「宇久」という姓は、一族の発祥の地である北部の宇久島に由来し、血縁的共同体としてのアイデンティティを象徴する、いわば内向きの名称であった 10 。それに対し、「五島」は、福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島といった列島の主要五島を指し、支配領域そのものを表す、外向きの名称である 20 。
つまりこの改姓は、宇久氏が血縁に基づく中世的な武士団から、秀吉によって安堵された「五島列島」という領国全体の支配を正当性の根幹とする近世大名へと、その性格を変質させたことを内外に宣言するものであった。それは、もはや宇久島の一領主ではなく、豊臣政権下における「五島」の領主としての新たな自己規定であり、中世から近世への移行を象徴する画期的な出来事だったのである。
近世大名としての道を歩み始めた純玄であったが、その短い生涯は、豊臣秀吉が引き起こした未曾有の大規模対外戦争、文禄の役によって終焉を迎える。
文禄元年(1592年)、朝鮮出兵が開始されると、純玄も他の九州大名と共に渡海を命じられた 25 。彼が配属されたのは、同じくキリシタン大名であった小西行長を総大将とする一番隊であった 26 。この部隊には、対馬の宗義智、平戸の松浦鎮信、有馬の有馬晴信など、朝鮮半島に近く、海運や水軍の扱いに長けた大名が集められており、秀吉が彼らの能力を侵攻の先鋒として戦略的に活用しようとした意図がうかがえる。
五島純玄に課せられた軍役は、兵700名、軍船17艘、属船8艘であったと記録されている 16 。石高に比して水軍の比重が高いのは、五島氏が海と共に生きてきた一族であることを物語っている 30 。出陣にあたり、純玄は家臣の宇久盛長を城代として国元に残し、かつて家督を争った叔父・玄雅も伴って朝鮮へと渡った 20 。
文禄の役における五島純玄の立ち位置を客観的に示すため、彼が属した一番隊の構成を以下に記す。
部隊長 |
本拠地 |
石高(万石) |
動員兵力 |
小西行長 |
肥後・宇土 |
約14.6 |
7,000人 |
宗義智 |
対馬・府中 |
ー |
5,000人 |
松浦鎮信 |
肥前・平戸 |
約6.0 |
3,000人 |
有馬晴信 |
肥前・日野江 |
約4.0 |
2,000人 |
大村喜前 |
肥前・大村 |
約2.0 |
1,000人 |
五島純玄 |
肥前・福江 |
約1.4 |
700人 |
合計 |
|
|
18,700人 |
出典: 28 等の情報を統合
この表が示すように、純玄の兵力は一番隊全体の中では小規模であり、彼が独立した軍団ではなく、小西行長の指揮下で特定の役割を担う一翼であったことがわかる。
一番隊の先鋒として朝鮮半島に上陸した五島勢は、各地を転戦した 14 。しかし、戦況は過酷を極めた。文禄2年(1593年)1月、明の援軍が参戦した平壌の戦いでは、一番隊は大きな損害を被り、五島勢からも太田弾正、江十郎、青方新八といった名の知られた家臣が討ち死にしている 20 。
その後も日本軍は転戦を続けたが、文禄3年(1594年)7月28日、日明間の休戦交渉が進む中、純玄は朝鮮の陣中にて当時猛威を振るっていた疱瘡(天然痘)に倒れ、帰国の夢叶わず、33歳という若さでその生涯を閉じた 14 。
異郷の地で陣没した五島純玄。彼の死は、その後の五島家に新たな混乱の火種を残す一方で、彼の人物像を物語るいくつかの逸話と遺産を現代に伝えている。
純玄には実子がいなかったため、彼の突然の死は、五島家の存続に関わる後継者問題を緊急の課題として浮上させた 20 。死を悟った純玄は、陣中にて遺言を残す。その内容は、驚くべきものであった。彼は後継者として、かつて家督を熾烈に争い、自らが五島から追放した叔父の大浜玄雅を指名したのである 26 。
この遺言は、重臣の平田甚吉や青方善助らによって、純玄の上官である小西行長に届けられ、その承認のもとで実行に移された 26 。宿敵であった叔父を後継者としたこの最後の決断は、個人的な感情や過去の対立を超え、五島という「家」の存続を何よりも最優先した、純玄の究極の現実主義(リアリズム)の表れであった。子のない当主が戦陣で斃れるという異常事態にあって、家中の混乱を最小限に抑え、秀吉による改易(所領没収)を避けるためには、血筋と実力を兼ね備えた玄雅を立てることが最も合理的な選択であった。生前のキリシタン迫害が権力基盤の安定という現実主義に基づいていたように、彼の死に際の決断もまた、一族存続という至上命題に従ったものであり、その生涯が冷徹なまでの現実主義によって貫かれていたことを示している。
純玄の正室は、平戸藩主・松浦鎮信の養女(実父は西郷純尚)であった 15 。彼女については、夫の死に際しての壮絶な逸話が伝えられている。純玄の遺体は、腐敗を防ぐため酒に漬けられて五島に運ばれた。故郷に戻った亡骸と対面した夫人は、その遺体が漬けられていた酒を三杯飲み干し、その後、暇をもらって実家である平戸へ帰ったという 15 。
この常軌を逸したとも思える行動は、単なる悲嘆の表現としてではなく、武家の妻としての覚悟を示す、極めて象徴的な儀式として解釈できる。夫の肉体の一部とも言える酒を体内に取り込むことで、夫との最後の、そして究極の一体化を果たし、その死を自らの内で弔う。そしてその儀式をもって「五島純玄の妻」としての役割に終止符を打ち、周囲に対して自らの務めをすべて果たしたことを宣言し、生家へと戻る。この逸話は、戦国時代の女性が、単なる悲劇のヒロインではなく、強烈な意志と死生観を持って行動する主体であったことを示唆しており、純玄の生涯の幕引きに悲壮かつ鮮烈な彩りを添えている。
純玄の亡骸は、五島氏の菩提寺である福江の 大円寺 に手厚く葬られた 15 。大円寺には現在も純玄をはじめとする五島家代々の墓所が残されている 33 。また、彼は先祖と共に城山神社にも祀られている 15 。
なお、純玄の時代の五島氏の居城は、曽祖父・盛定が築いた 江川城 であった 12 。現在、五島のシンボルとして知られる**福江城(石田城)**は、江戸時代末期に築城されたものであり、純玄の時代の城ではない 37 。江川城は純玄の死後、慶長19年(1614年)に火災で焼失している 40 。
五島純玄の死は、一つの時代の終わりを告げると共に、その後の五島藩の歴史に長く続く影響を及ぼした。
玄雅が家督を継いだ後も、純玄が残した問題の火種は燻り続けた。特に後継者問題は、玄雅の実子と、反対派を宥めるために玄雅が養子とした五島盛利(後の第22代当主)との間で深刻な対立を生み、江戸時代に入ってから「大浜主水事件」と呼ばれる御家騒動へと発展した 6 。また、純玄の死によって五島のキリスト教政策は再び揺れ動く。玄雅は一時的に信仰を保護したが、徳川幕府の禁教政策が強化されると、最終的には棄教し、領内の信者を弾圧する側に回った 19 。この不安定な政策転換は、五島のキリシタンたちにさらなる過酷な運命を強いる結果となった。
五島純玄の生涯は、わずか33年という短いものであった。しかし、彼の治世は、五島氏が中世の在地領主から、中央集権体制下の近世大名へと移行する、まさに激動の時代と重なっている。家督相続、信仰問題、天下人への臣従、そして大陸への出兵という、戦国末期の地方領主が直面しうるあらゆる困難に、彼は一度に直面した。その決断は、矛盾と非情さに満ちていたかもしれないが、常に「家」の存続という一点に向けられた、彼の時代の領主としての責務を全うしようとするものであった。
「宇久」から「五島」への改姓に象徴されるように、彼は五島氏を新たな時代の支配者として再定義し、その後の福江藩の礎を築いた。彼の苦悩に満ちた短い生涯は、戦国という時代が終わり、新たな秩序が形成されていく過程で、地方の権力がどのように変容し、生き残りを図ったのかを示す、極めて貴重な歴史の証言と言えるだろう。