本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて黒田家に仕えた武将、井上九郎右衛門之房(いのうえ くろうえもん ゆきふさ)の生涯と事績を、現存する史料に基づき詳細に明らかにすることを目的とする。井上之房は、黒田孝高(官兵衛・如水)、長政親子を支えた重臣であり、後世「黒田二十四騎」および「黒田八虎」の一人に数えられる勇将として知られている 1 。その生涯は、黒田家が播磨の小領主から筑前52万石の大大名へと飛躍を遂げる激動の時代と軌を一にしており、黒田家四代(職隆、孝高、長政、忠之)にわたる忠勤は、近世大名家臣団の形成を理解する上で重要な事例と言える。
井上之房の名が「黒田二十四騎」や「黒田八虎」といった複数の顕彰の対象に含まれている事実は、彼が単なる一武将としてではなく、黒田家臣団の中でも特にその武勇と忠誠心が高く評価されていたことを示している。これらのリストは、藩の歴史を編纂する過程で、後進の模範となるべき家臣像として、また藩の創業期の困難を乗り越えた功臣たちの象徴として取り上げられる傾向がある。之房が複数のリストに名を連ねることは、黒田家にとって彼がそれだけ重要な存在であり、その功績が藩の歴史の中で永く記憶されるべきものと認識されていたことの証左であろう。
なお、日本の戦国時代には同姓の武家が各地に存在し、それぞれ異なる主家に仕えている例が少なくない。井上氏もその一つであり、特に毛利氏の家臣であった安芸井上氏(井上元兼など)は多くの史料にその名が見えるが 3 、本報告書で対象とする黒田家臣・井上之房の系統とは区別して論じる必要がある。この点については、後述する出自の項で詳述する。
以下に、井上之房の生涯を概観するための略年譜を示す。
井上之房 略年譜
年号(和暦・西暦) |
年齢(数え) |
出来事 |
典拠 |
天文23年(1554年) |
1歳 |
播磨国飾東郡松原郷にて井上之正の子として誕生。初名は政国。 |
2 |
時期不詳 |
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黒田職隆に小姓として出仕。 |
2 |
天正6年(1578年) |
25歳 |
黒田孝高、有岡城に幽閉さる。栗山利安、母里友信らと共に有岡城下に潜伏し、孝高の安否を探る。 |
2 |
時期不詳 |
|
小田原征伐に従軍。 |
1 |
文禄・慶長の役(1592-98年) |
39-45歳 |
朝鮮出兵に従軍。 |
1 |
慶長5年(1600年) |
47歳 |
関ヶ原の戦い。九州石垣原の戦いで大友氏家臣・吉弘統幸を討ち取る。 |
1 |
慶長6年(1601年)頃 |
48歳 |
黒田長政の筑前入国に従い、黒崎城主に任ぜられ1万6千石を領す。 |
1 |
慶長12年(1607年) |
54歳 |
長政の使者として徳川秀忠・家光に拝謁、周防守を称する。 |
2 |
慶長19年(1614年) |
61歳 |
大坂冬の陣に黒田忠之に従い従軍。 |
2 |
元和元年(1615年) |
62歳 |
一国一城令により黒崎城破却。 |
2 |
元和9年(1623年) |
70歳 |
隠居し、孫の正友に1万3千石を譲る。剃髪して半斎道柏と号す。 |
2 |
寛永10年(1633年) |
80歳 |
黒田騒動(栗山大膳事件)に際し、栗山利章に与し倉八正俊を排斥。 |
2 |
寛永11年(1634年)10月22日 |
81歳 |
死去。 |
2 |
井上之房は、天文23年(1554年)、播磨国飾東郡松原郷(現在の兵庫県姫路市白浜町松原)で、井上之正(いのうえ ゆきまさ)の子として生まれた 2 。幼名は弥太郎、後に九郎右衛門、周防守と称し、初名は政国(まさくに)であった 1 。
之房の出自が播磨国であるという事実は、黒田氏の勃興期における家臣団形成の様相を考察する上で示唆に富む。黒田氏は元来、播磨国の土豪であり、織田信長の中国方面への勢力拡大の過程でその麾下に入り、豊臣秀吉の側近として頭角を現した。之房が播磨出身であることは、黒田氏がまだ播磨の一勢力であった初期の段階から、あるいはその勢力を伸張させていく過程で主従関係を結んだ在地勢力の一員であった可能性を示している。このような譜代の家臣は、主家が新たな領地を獲得し、大名として成長していく中で、特に深い信頼を得て重用される傾向がある。井上之房が後年、黒田家中で高い地位を占め、厚遇された背景には、こうした早期からの主従関係があったと考えられる。
井上氏という姓を持つ武家は、戦国時代において各地に散見される。特に、中国地方においては毛利氏に仕えた安芸井上氏が著名であり、井上元兼(もとかね)らは毛利元就による家臣団統制の過程で粛清されたことでも知られている 3 。これらの安芸井上氏は、清和源氏頼季流を称し、信濃井上氏を祖とする一族とされている 4 。
しかしながら、本報告書の主題である黒田家臣・井上之房と、この安芸井上氏との間に直接的な系譜関係を示す史料は、現在のところ確認されていない。毛利氏による安芸井上氏粛清事件の際に難を逃れた人物に関する調査記録の中にも、「井上之房」の名は見当たらないとされている 7 。従って、黒田家臣の井上之房は、安芸井上氏とは異なる系統の井上氏であったと考えるのが妥当である。
戦国時代には、同じ姓を持つ氏族が血縁関係の有無に関わらず各地に存在し、それぞれが異なる大名家に仕えることは決して珍しいことではなかった。井上氏もその一例であり、安芸井上氏が毛利家中で大きな力を持っていた一方で、播磨出身の井上之房は黒田家に仕えてその重臣となった。姓が同じであっても、必ずしも同族とは限らず、それぞれの家が独自の歴史と主従関係を築き上げていたのである。このような武家社会の構造を理解することは、井上之房個人の事績を正確に把握する上で不可欠である。
井上之房の父は井上之正と記録されている 1 。正室は櫛橋伊定(くしはし これさだ)の娘であった 1 。櫛橋氏は、黒田孝高の正室である光(てる)の実家であり、この婚姻は井上家と黒田家との間に極めて密接な関係があったことを物語っている。
戦国時代における婚姻は、単なる個人的な結びつきを超え、家と家との同盟関係の強化や、主君との信頼関係を盤石にするための重要な政治的手段であった。黒田孝高の妻が櫛橋氏の出身であることに加え、その重臣である井上之房もまた櫛橋氏から妻を迎えているという事実は、井上家が黒田家の中枢に近い位置にあり、深い信頼を得ていたことを強く示唆する。このような二重の姻戚関係は、井上家の黒田家内における地位の安定と、その影響力の維持・拡大に大きく寄与したと考えられる。
之房には、庸名(もちな)、之顕(ゆきあき)、利房(としふさ)、一利(かずとし)という息子たちと、黒田正喜(くろだ まさよし)および黒田政成(くろだ まさなり)に嫁いだ娘たちがいた 1 。
以下に、井上之房の主要な関係人物を一覧で示す。
井上之房 関係人物一覧
区分 |
氏名 |
井上之房との関係 |
備考 |
主君 |
黒田職隆 |
最初の主君、小姓として仕える |
|
主君 |
黒田孝高(官兵衛) |
主君、有岡城幽閉時に救援活動を行う |
後に如水 |
主君 |
黒田長政 |
主君、筑前入国時に黒崎城主に任命される |
福岡藩初代藩主 |
主君 |
黒田忠之 |
主君、大坂冬の陣に従軍、晩年に仕える |
福岡藩二代藩主 |
家族(父) |
井上之正 |
父 |
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家族(妻) |
櫛橋伊定の娘 |
正室 |
黒田孝高正室・光の一族 |
家族(子) |
井上庸名 |
息子、黒田長政の長女・菊の婿、後に旗本・淡路守に叙任 |
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家族(子) |
井上之顕 |
息子 |
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家族(子) |
井上利房 |
息子 |
|
家族(子) |
井上一利 |
息子 |
|
同僚 |
栗山利安 |
有岡城幽閉時に共に活動、黒田二十四騎 |
黒田家筆頭家老 |
同僚 |
母里友信 |
有岡城幽閉時に共に活動、黒田二十四騎 |
「黒田節」で有名 |
その他重要人物 |
吉弘統幸 |
石垣原の戦いで討ち取る、旧知の仲であったという逸話あり |
大友氏の勇将、「無双の槍使い」 |
井上之房の黒田家への出仕は、黒田職隆(もとたか)の小姓として始まったとされている 2 。小姓という役職は、主君の身辺に仕え、時には秘書的な役割も担うため、非常に早い時期から主君との間に深い信頼関係を築く機会となる。この経験が、後の之房の黒田家中における地位の基礎を形作ったことは想像に難くない。
之房の名が歴史の表舞台に明確に現れるのは、天正6年(1578年)、主君・黒田孝高(当時は小寺姓、通称は官兵衛)が摂津国有岡城主・荒木村重の謀反に際し、説得を試みて逆に城内に幽閉された事件においてである。この黒田家にとって最大の危機とも言える状況下で、井上之房は栗山利安(くりやま としやす)、母里友信(もり とものぶ)といった、後に黒田家を代表する重臣となる面々と共に有岡城下に潜伏し、孝高の安否を探るという危険な任務に従事した 2 。
有岡城幽閉事件は、黒田家の存亡そのものが問われた極めて深刻な出来事であった。織田信長からは孝高の裏切りが疑われ、嫡男の松寿丸(後の黒田長政)は処刑の危機に瀕した(竹中半兵衛の機転により救われる)。このような絶望的な状況において、主君の救出のために命の危険を顧みず行動することは、家臣の忠誠心を測る試金石となる。之房が、後に黒田二十四騎の中でも特にその名を知られる栗山利安や母里友信と行動を共にしたという事実は、彼が若くして既に黒田家の中核的な家臣グループの一員として認められ、その忠誠心と能力を高く評価されていたことを示している。この困難な経験を通じて培われた主君や同僚たちとの強固な絆は、その後の之房の武将としてのキャリア、そして黒田家臣団における彼の地位に、計り知れないほど大きな影響を与えたと言えるだろう。この事件は、彼ら「黒田武士」の結束力を象徴する原体験の一つとして、後々まで語り継がれることになる。
井上之房は、黒田家が豊臣秀吉の麾下で戦功を重ねる中で、各地の戦いに従軍している。秀吉による天下統一事業が進行する中、小田原征伐にも黒田家の武将として参加した記録がある 1 。また、その後の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも従軍しており 1 、これらの大規模な軍事行動への参加は、彼の武将としての経験値を高め、戦術眼を養う上で重要な機会となったはずである。具体的な戦功に関する詳細な記述は提供された資料には乏しいものの、これらの戦役を通じて、彼は黒田軍の中核として活躍したものと推察される。
井上之房の武名が最も高まったのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに関連して九州で勃発した石垣原の戦いであった。主君・黒田長政が徳川家康率いる東軍の主力として関ヶ原本戦で活躍する一方、九州では旧領回復を目指す西軍方の大友義統(おおとも よしむね)が蜂起し、東軍方の諸将と激しく衝突した。井上之房は、この石垣原の戦い(現在の大分県別府市)において、黒田長政軍の一翼を担い参戦した 1 。
この戦いで、之房は西軍・大友義統の勇将として名高い吉弘嘉兵衛統幸(よしひろ かへえ むねゆき)を討ち取るという、目覚ましい武功を挙げた 1 。吉弘統幸は、かつて豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞賛され、朱柄の槍一対を賜ったほどの豪傑であり、その武勇は広く知れ渡っていた 1 。このような著名な敵将を討ち取ったことは、井上之房個人の武勇を天下に示すとともに、黒田家の軍事力を内外に誇示するものであった。
石垣原における吉弘統幸討ち取りという戦功は、井上之房の武将としての評価を決定づける最大の功績と言える。関ヶ原の戦いは、文字通り天下分け目の決戦であり、日本各地で繰り広げられた局地戦の勝敗もまた、徳川家康による覇権確立の重要な要素であった。九州戦線における黒田家の勝利、とりわけその中での之房による大友軍の主力武将の討伐は、西軍の勢力を削ぎ、九州における東軍の優位を早期に確立する上で大きな意味を持った。黒田長政自身は関ヶ原の本戦で小早川秀秋の東軍寝返りを促すなど多大な貢献をしたが、その家臣である井上之房が九州においてこれほどの大功を立てたことは、戦後の論功行賞において、徳川家康に対する黒田家の貢献度をより強く印象づける材料となり、長政の筑前国への大幅な加増(52万石余)という破格の恩賞獲得に、間接的ながらも影響を与えた可能性が考えられる。
関ヶ原の戦いにおける黒田長政の功績は絶大であり、戦後、徳川家康から筑前国一国(現在の福岡県主要部)52万石余という広大な領地を与えられた。井上之房も主君長政に従い、播磨以来の故郷を離れ、新たな領国である筑前へと移った。
筑前入国後、長政は藩体制の確立と領国経営に着手するが、その中で井上之房は特に厚遇された。彼は、豊前国小倉(現在の北九州市小倉北区)に近い黒崎(現在の北九州市八幡西区)に新たに黒崎城を築き、その城主として1万6千石という高禄を与えられた 1 。1万6千石という知行は、当時の大名家臣としては破格の待遇であり、小大名に匹敵する石高である。これは、井上之房のこれまでの功績、特に石垣原での武功がいかに高く評価されたか、そして長政からの信頼がいかに篤かったかを如実に物語っている。
黒崎城は、単なる一城郭ではなく、福岡藩の防衛戦略上、極めて重要な拠点として位置づけられていた。黒田長政は、筑前入国後、藩境の要衝に6つの支城を配置し、これらを「筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)」と称して藩屏の守りとした 2 。黒崎城はその六端城の一つであり、豊前国との国境に近いだけでなく、関門海峡にも睨みを利かせ、海上交通の要衝でもある企救半島(現在の北九州市門司区・小倉北区)を扼する戦略的価値の高い場所にあった。
このような重要拠点の城主に任命されたということは、井上之房が単に武勇に優れた武将であるだけでなく、一城の主として軍事指揮権を行使し、一定の領域支配を担うだけの能力と見識を備えていると長政から判断されていたことを意味する。筑前六端城体制は、新領主である黒田氏が未だ不安定な領国支配を確立し、旧領主であった小早川氏の残存勢力や、隣接する諸藩(例えば細川藩の小倉城)など、潜在的な脅威に備えるための防衛戦略の根幹であった。その一翼を担う黒崎城主としての井上之房の責任は極めて重大であり、彼の存在は福岡藩初期の安定に不可欠なものであったと言えよう。
黒崎城主として筑前国の安定に貢献した井上之房は、その後も黒田家の重臣として活動を続けた。慶長12年(1607年)、主君・黒田長政の使者として江戸へ赴き、2代将軍・徳川秀忠およびその世子であった家光に拝謁し、馬を献上した。この功により、幕府から「周防守(すおうのかみ)」の官名を称することを許された 2 。これは、之房個人の名誉であると同時に、黒田家の威光を幕府に示すものでもあった。
慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣では、既に高齢であったが、長政の嫡男・黒田忠之(後の福岡藩2代藩主)に従って従軍している 2 。これは、宿将としての経験と忠誠心を示すものであった。しかし、翌元和元年(1615年)に幕府から一国一城令が発令されると、黒崎城もその対象となり、破却されることとなった 2 。城主としての役割を終えた後の之房の知行や具体的な役職については、詳細な記録が待たれるところである。
元和9年(1623年)、井上之房は70歳にして隠居を決意し、1万6千石の知行のうち1万3千石を孫の正友(まさとも)に譲り、自身は剃髪して半斎道柏(はんさい どうはく)と号した 2 。
隠居後も、之房は藩政から完全に離れたわけではなかった。寛永9年(1632年)から翌10年(1633年)にかけて、福岡藩では2代藩主・黒田忠之の治世下で大規模な御家騒動、いわゆる黒田騒動(栗山大膳事件)が勃発する。この藩の存亡に関わる重大事態に際し、井上之房は栗山利章(くりやま としあき、通称大膳、栗山利安の子)と連携し、対立派閥の中心人物であった倉八正俊(くらはち まさとし)を排斥することに関与した 1 。隠居の身でありながら藩の重事に深く関わったことは、之房が依然として藩内に大きな影響力を持ち、その意見が重んじられる長老的存在であったことを示している。栗山利章との連携は、黒田家創業期からの譜代の重臣層が、藩政の混乱を収拾し、藩の秩序を回復するために結束して行動したことを意味するものであった。
この騒動の収拾に一定の役割を果たした後、井上之房は寛永11年(1634年)10月22日に81歳でその生涯を閉じた 2 。墓所は、福岡県遠賀郡岡垣町にある龍昌寺に現存する 1 。
一方で、黒田騒動は井上家全体にとって、必ずしも安泰な結果のみをもたらしたわけではなかったようである。ある記録によれば、2代藩主忠之の時代、寛永9年から10年(1632年~1633年)の黒田騒動の影響などにより、栗山氏や井上氏といった黒田二十四騎の中でも上位に位置づけられる家老級の家の子孫が黒田家を去るという事態も発生していた 8 。井上之房自身は騒動において倉八派の排斥に成功し、天寿を全うしたが、この記述は、騒動が井上「家」全体に対して、長期的には何らかの負の影響を及ぼした可能性を示唆している。之房個人の功績と影響力は絶大であったとしても、彼の死後や騒動の複雑な余波の中で、井上家全体の藩内での立場が不安定になったか、あるいは騒動の責任の一端を何らかの形で負うことになった子孫がいたのかもしれない。この点は、之房個人の生涯とは別に、井上家の家としての歴史を考察する上で留意すべき点である。
井上之房の武功の中でも特筆される石垣原の戦いにおける吉弘統幸討ち取りには、一つの逸話が伝えられている。討ち取られた吉弘統幸は、かつて大友氏が改易された後、立花宗茂に仕えるまでの間、一時的に井上之房のもとに寄食していたことがあったという 1 。
石垣原の戦場で、統幸は奮戦の末に重傷を負った。もはやこれまでと悟った統幸は、旧知の間柄であり、敵将として対峙した井上之房に自らの首を討たせ、武士としての最期を飾るとともに、友誼のあった之房に手柄を立てさせようとした、あるいは潔く討たれることを望んだとされている 1 。この逸話は、戦国乱世の過酷な現実の中で、敵味方に分かれて戦わねばならなかった武士たちの複雑な人間関係や、彼らが重んじた武士道精神の一端を垣間見せるものである。
この種の逸話は、歴史上の人物の武功や人柄に人間的な深みを与える一方で、その信憑性については慎重な検討が必要である。特に、英雄譚や美談として語り継がれる過程で、後世の創作や脚色が加えられる可能性は否定できない。しかし、仮にこの逸話が史実に基づかないものであったとしても、このような物語が井上之房という人物に結びつけて語られる背景には、彼がある種の器量や人望を備えており、そのような物語の主人公としてふさわしいと見なされるだけの人物であった可能性を示唆しているとも考えられる。
井上之房は、黒田家の精鋭家臣団を顕彰するために後世に選定された「黒田二十四騎」および「黒田八虎」の一人として、その名を連ねている 1 。これらのリストに選ばれることは、彼の武勇や黒田家への忠誠が、家中で長きにわたり高く評価されていたことの明確な証である。
「黒田二十四騎」や「黒田八虎」といった呼称は、単に個々の家臣の武勇を示すだけでなく、黒田家臣団全体の結束力や層の厚さを象徴するものであり、藩の威信を高め、その歴史を語り継ぐ上で重要な役割を果たした。井上之房がこれらの栄誉あるリストに含まれていることは、彼が黒田家の創業期から筑前での藩体制確立に至るまでの困難な道のりを支え、藩の礎を築いた主要人物の一人として、公式に認められていたことを意味する。
ある資料によれば、黒田二十四騎は、黒田如水(孝高)・長政親子に播州姫路時代から一丸となって仕えてきた譜代の家臣が中心であったとされ、その中で井上氏は栗山氏、母里氏と並んで、如水時代からの三家老の一角として言及されている 8 。この「三家老」という表現が、井上之房の父である之正の代からの評価を指すのか、あるいは之房自身の代における功績と地位を反映したものなのかについては、さらに詳細な検討が必要であるが、井上家が黒田家中で極めて早期から重きをなしていたことを示唆する記述として注目される。もし井上家が如水(孝高)の時代から家老格の家柄であったとすれば、之房の代における1万6千石という破格の厚遇も、より一層理解しやすくなる。
井上之房の功績と黒田家におけるその地位は、彼の子孫にも影響を与えた。息子の一人である井上庸名(もちな)は、主君・黒田長政の長女である菊姫と婚姻し、黒田家との姻戚関係をさらに深めた。さらに庸名は、慶長15年(1610年)、2代将軍・徳川秀忠に仕えることとなり、5千石取りの旗本に取り立てられ、従五位下・淡路守に叙任されるという栄誉を得た 2 。これは、父・井上之房の黒田家における忠勤と武功、そして黒田家そのものの威光が、中央の徳川幕府にも認められた結果と言えるだろう。
井上庸名の旗本としての取り立ては、いくつかの側面から考察することができる。慶長15年(1610年)という時期は、関ヶ原の戦いが終わり、大坂の陣が勃発する以前の、徳川幕府の支配体制がまだ盤石とは言えない微妙な時期であった。幕府は、豊臣恩顧の有力外様大名に対して、その力を削ぎ、あるいは懐柔するために、その有力家臣の子弟を旗本として召し出すという政策をしばしば用いた。庸名の旗本化も、このような幕府の戦略の一環であった可能性が考えられる。一方で、黒田長政の立場から見れば、娘婿である庸名を幕府に推薦し、彼が幕府内で重用されることは、黒田家と徳川将軍家との間のパイプを太くし、藩の安泰と発言力の強化に繋がるという戦略的意図があったとも解釈できる。これは、戦国時代から江戸時代初期へと移行する過渡期における、主家と家臣、そして中央政権である幕府との間の複雑な力学関係を反映した出来事と言えよう。
しかしながら、前述したように、黒田騒動の影響で井上氏の子孫が黒田家を去ったという記録も存在しており 8 、井上家全体としては、必ずしも安泰な道のりを歩んだわけではなかった可能性も残されている。これは、一個人の功績がいかに大きくとも、藩政の変動や家督相続などの要因によって、武家の「家」が安泰であり続けることの難しさを示唆している。
井上之房は、その武勇や黒田家における重要な役割から、後世の歴史小説やテレビドラマといった創作物の題材としても取り上げられている。例えば、テレビ東京で放送された『戦国疾風伝 二人の軍師』(2011年)では俳優の左とん平氏が、またNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』(2014年)では俳優の高橋一生氏が、それぞれ井上之房(あるいはそのモデルとなった人物)を演じている 1 。
これらの歴史創作物において、井上之房が比較的名の知られた俳優によって演じられているという事実は、彼が黒田家臣団の中で一定の知名度と物語性を持つキャラクターとして認識されていることを示している。ただし、歴史創作物は史実を基にしつつも、ドラマ性を高めるために脚色が加えられることが常である。そのため、これらの作品における井上之房の描写が、史実の彼とどのように関連し、あるいはどの程度乖離しているのかを比較検討することは、現代における井上之房像の形成過程や、歴史的事実と大衆的イメージとの関係性を理解する上で有益である。
井上之房は、天文23年(1554年)に播磨国で生まれ、黒田職隆、孝高(如水)、長政、忠之の四代にわたり黒田家に仕えた武将である。その生涯は、黒田家が播磨の一国人から筑前52万石の大大名へと発展を遂げる激動の時代と重なり、彼はその過程で数々の重要な役割を果たした。
特に、黒田孝高の有岡城幽閉時には栗山利安、母里友信らと共に主君の安否を探り、関ヶ原の戦いにおける石垣原の戦いでは大友氏の勇将・吉弘統幸を討ち取るという大功を立てた。これらの功績により、黒田長政の筑前入国後には黒崎城主として1万6千石という破格の待遇を受け、筑前六端城の一翼を担い、藩の安定に貢献した。晩年には隠居しながらも黒田騒動に関与し、藩政への影響力を保持し続けた。その武勇と忠誠は高く評価され、後世「黒田二十四騎」「黒田八虎」の一人に数えられている。
吉弘統幸との逸話は、彼の武勇伝に人間的な彩りを添えるものであり、また、その出自や婚姻関係は、黒田家における彼の地位の背景を理解する上で重要である。息子・庸名が旗本に取り立てられたことは、之房の功績と黒田家の威光を示すものであったが、一方で黒田騒動後の井上家の動向には不明な点も残り、武家の盛衰の厳しさを物語っている。
井上之房の生涯は、戦国乱世を生き抜き、主家と共に立身出世を果たし、近世大名家臣団の中核を成した武士の一つの典型例と言えるだろう。彼の事績は、黒田藩の成立史のみならず、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士の生き様や主従関係、藩政のあり方を考察する上で、貴重な示唆を与えてくれる。今後の研究においては、黒崎城破却後の彼の具体的な役割や、黒田騒動におけるより詳細な動向、そして井上家全体のその後の変遷などについて、さらなる史料の発見と分析が期待される。