戦国時代の日本列島は、各地で群雄が割拠し、絶え間ない争乱が繰り広げられた時代であった。その中で、遠江国(現在の静岡県西部)は、東に駿河の今川氏、西に三河の松平氏(後の徳川氏)、北に甲斐の武田氏という強大な戦国大名に囲まれた地政学的に極めて重要な地域であった。この遠江国引佐郡井伊谷(現在の浜松市浜名区引佐町)を本貫としたのが井伊氏である。井伊氏の起源は平安時代にまで遡るとされ、長い歴史を有する国人領主であった。戦国期において井伊氏は、駿河を本拠とする今川氏の支配下に組み込まれていたが、その関係は必ずしも安定したものではなく、今川氏による遠江侵攻や周辺勢力との角逐、さらには井伊氏内部の政情不安によって常に揺れ動いていた。
井伊直親は、このような戦国乱世の遠江国に生きた井伊氏の一族である。彼の生涯は、父の非業の死、自身の約10年にも及ぶ信濃への逃亡と潜伏、井伊谷への帰還と家督相続、そして家臣の讒言によるとされる若くしての誅殺という、波乱に満ちたものであった。直親の存在は、その子である井伊直政が後に徳川家康の重臣として「徳川四天王」の一人に数えられ、彦根藩祖として井伊家の繁栄を築く上で、決定的に重要な転換点に位置づけられる。
しかしながら、井伊直親の具体的な事績を伝える同時代の一次史料は極めて乏しい 1 。その生涯の多くは、江戸時代中期に井伊家の菩提寺である龍潭寺の住職によって編纂された『井伊家伝記』などの後世の記録に依存しているのが現状である 1 。これらの記録は、井伊家の歴史を語る上で貴重な情報を提供する一方で、編纂された時代背景や意図を考慮した慎重な史料批判が求められる。近年では、歴史学研究の進展に伴い、これらの後世の記録の信憑性や、井伊直親という人物の実在性、井伊氏当主であったか否か、さらにはその死因などについて、研究者の間で様々な議論が活発に交わされている 1 。
井伊氏は、遠江の国人領主として、周辺大名の勢力争いの中で生き残りを図る必要に迫られていた。その中で、婚姻政策は家中の結束を固め、有力な在地勢力との連携を強化するための重要な戦略であったと考えられる。井伊直親と井伊家重臣奥山氏の娘ひよとの婚姻 1 や、直親の養父であり従兄でもある井伊直盛の娘・次郎法師(後の井伊直虎と同一人物とされる)と直親が許嫁であったという伝承 1 は、単なる個人的な関係に留まらず、井伊家が家運を賭けて後継者問題を解決し、家勢を維持・拡大しようとした戦略の一環であった可能性が高い。特に、直盛に男子がいなかったことから、血縁の近い直親を後継者として迎え、井伊家の血筋と所領を安定的に継承させる意図がこれらの婚姻関係の背景にはあったと推察される。
井伊直親に関する情報の多くが後世の編纂物、とりわけ江戸時代に成立した『井伊家伝記』に依拠している点も重要である 1 。この種の家伝や記録は、単に過去の出来事を客観的に記述するだけでなく、その家の由緒を強調し、特定の人物像を理想化したり、教訓的な物語として再構成したりする傾向が見られる。井伊直親の悲劇的な生涯、許嫁であったとされる井伊直虎との関係、そしてその遺児である井伊直政への輝かしい繋がりは、井伊家の歴史をよりドラマチックに演出し、徳川譜代大名としての家格を高め、その正当性を補強するための物語として形成された側面があるのではないかと考えられる。それゆえ、これらの記録を利用する際には、史料批判的な視座を常に持ち、その記述の背景にある意図を読み解く努力が不可欠となる。
本報告書では、これらの点を踏まえ、現存する史料や研究成果を基に、井伊直親の生涯と、彼をめぐる歴史的評価の変遷、そしてその実像について、可能な限り詳細かつ徹底的に調査・考察を行うことを目的とする。
井伊直親 関連年表
西暦 |
和暦 |
主な出来事 |
典拠 |
1536年 |
天文5年 |
井伊直満の子として直親(幼名:亀之丞)誕生。 |
1 |
1544年 |
天文13年 |
父・井伊直満とその弟・直義、小野政直の讒言により今川義元に誅殺される。亀之丞、信濃国伊那郡松源寺へ逃亡。 |
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1555年 |
弘治元年 |
亀之丞、井伊谷へ帰還し元服、井伊直親と名乗る。奥山朝利の娘・ひよと結婚。 |
1 |
1560年 |
永禄3年 |
養父・井伊直盛、桶狭間の戦いで戦死。直親、井伊家の家督を継承。 |
1 |
1561年 |
永禄4年 |
直親とひよの間に嫡男・虎松(後の井伊直政)誕生。 |
|
1562年 |
永禄5年 |
小野道好(政次)の讒言により、徳川家康との内通を疑われ、今川氏真の命を受けた朝比奈泰朝により遠江国掛川にて誅殺される(享年28)。 |
1 |
1563年 |
永禄6年 |
祖父・井伊直平、天野氏攻めの途中急死(毒殺説あり)。 |
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1565年 |
永禄8年 |
直盛の娘・次郎法師が井伊直虎と名乗り、虎松の後見人として女性地頭となる。 |
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1568年 |
永禄11年 |
家老・小野道好(但馬守政次)、井伊領を横領。徳川家康の遠州侵攻により小野道好は逃亡(後に処刑)。虎松は鳳来寺へ逃れる。 |
1 |
1575年 |
天正3年 |
虎松(井伊万千代、後の直政)、徳川家康に出仕。 |
|
井伊直親は、天文5年(1536年)、遠江国井伊谷の国人領主である井伊直満(いいなおみつ)の子として生を受けた。幼名は亀之丞(かめのじょう)と伝えられている 1 。母については、鈴木重勝の娘であり、鈴木重時の妹であったと記録されている 1 。
父である井伊直満は、井伊氏の一門であり、当時の井伊家惣領(当主)であった井伊直盛(なおもり)の叔父にあたる。直盛には男子がおらず、また直満の子である直親は直盛の従兄弟という血縁的にも近い関係にあったため、将来の井伊家を継承する者として周囲の期待を集めていたと考えられている。このことは、戦国時代の武家において、家名の存続と血統の維持がいかに重要視されていたかを示している。
井伊氏が本拠とした遠江国井伊谷は、地理的に見て、東の駿河国を支配する今川氏、西の三河国を拠点とする松平氏(後の徳川氏)、そして北の甲斐国から勢力を伸張する武田氏という、有力な戦国大名たちの勢力圏が複雑に交錯する地域に位置していた。このような情勢下で、井伊氏は永正10年(1513年)に今川氏の遠江侵攻を受け、その支配下に組み込まれることとなった。以降、井伊氏は今川氏の家臣という立場に置かれ、その軍事行動に従軍するなどの義務を負っていた 1 。
しかし、今川氏と井伊氏の関係は、常に安定的であったわけではない。井伊谷が三河との国境に近い戦略的要衝であったため、今川氏にとっては遠江支配における重要な拠点であると同時に、松平氏やその他の敵対勢力との内通や離反の危険性を常に警戒しなければならない地域でもあった。このような緊張関係は、井伊氏の歴史に大きな影響を与え続けることになる。
天文13年(1544年)、井伊直親の運命を大きく揺るがす事件が発生する。井伊家の家老であった小野和泉守政直(おのいずみのかみまさなお)が、主君である今川義元に対し、直親の父・井伊直満とその弟・井伊直義(なおよし)が謀反を企てていると讒言したのである 1 。この讒言を信じた今川義元は、直満・直義兄弟を駿府(現在の静岡市)に呼び出し、弁明の機会を与えることなく誅殺したと伝えられている。
小野政直がこのような行動に出た動機については、いくつかの説が存在する。一つは、井伊直満・直義兄弟が井伊家惣領家に対して実際に何らかの不穏な動きを見せており、それを政直が今川氏に報告したという説。また、直満が井伊家の家督を継承することに対して政直が個人的な不満を抱いていたため、これを阻止しようとしたという説。さらに、小野政直自身が井伊家内部での権力掌握を狙っていた、あるいは、今川氏の意向を汲んで井伊氏の勢力を削ごうとしたという見方や、逆に本家を乗っ取ろうとしていた直満を排除することで井伊家を守ろうとしたという説 もある。いずれにせよ、この事件は井伊家内部の権力闘争や家臣団の分裂といった複雑な背景を持っていた可能性が示唆される。この内部対立の構造は、後に直親自身の悲劇にも繋がる伏線となっていたと考えられる。
この直満・直義兄弟の誅殺は、単に今川氏による国人領主への粛清という側面だけでなく、井伊家内部における深刻な権力闘争の表面化であったと見ることができる。讒言という手段が用いられたこと自体が、井伊家中の人間関係が著しく悪化し、互いに不信感を抱いていた状況を物語っている。このような家中の不安定さが、外部勢力である今川氏の介入を招きやすくし、結果として井伊氏の弱体化に繋がったと言えるだろう。
父・直満と叔父・直義が誅殺されたことにより、当時まだ9歳であった亀之丞(直親)もまた、今川氏による追討の対象となる危険に晒された。身の危険を察した家臣たちは、亀之丞を井伊谷から密かに脱出させた。亀之丞は、祖父である井伊直平(なおひら)が井伊家の菩提寺である龍潭寺の住持として招聘した文叔瑞郁(ぶんしゅくずいいく)禅師の縁を頼り、当時武田氏の勢力下にあった信濃国伊那郡市田郷(現在の長野県下伊那郡高森町)の松源寺(しょうげんじ)へと落ち延びることになった 1 。
この信濃での逃亡・潜伏生活は、約10年から11年という長期間に及んだとされている。この間、亀之丞は松源寺にかくまわれ、追っ手の目を逃れながら成長した。この潜伏期間中の詳細な記録は乏しいが、一説には、信濃において現地の有力者であった塩沢氏の娘との間に、高瀬姫(たかせひめ)と吉直(よしなお)という一男一女を儲けたという伝承が残されている 1 。この伝承が事実であれば、直親は井伊谷に帰還する以前に信濃で家庭を築いていたことになり、後の井伊直虎とされる次郎法師との関係や、井伊谷帰還後の彼の立場にも影響を与えた可能性が考えられる。
この約10年にも及ぶ信濃での潜伏生活は、若き直親にとって故郷を遠く離れた苦難の時期であったことは想像に難くない。しかし同時に、この期間は彼が外部の情勢を見聞し、異なる文化や人々と接する貴重な機会ともなったはずである。塩沢氏との伝承が事実であるならば、信濃での生活は単なる潜伏に留まらず、新たな人間関係を築き、現地の支援者を得る期間でもあったことになる。こうした経験が、後の井伊谷帰還後の彼の行動や判断にどのような影響を与えたのか、また、井伊谷の旧臣たちとの関係を再構築する上で有利に働いたのか、あるいは逆に長期間の不在が疎外感を生み、彼の立場を不安定なものにしたのか、という点は考察の余地がある。実際に、井伊氏の子孫である井伊美術館館長の井伊達夫氏は、直親が「長年井伊谷を離れていたため、基盤が無かった」と述べており、この潜伏期間が必ずしも帰還後の権力掌握に有利に働かなかった可能性を示唆している。
また、直親が信濃松源寺へ安全に逃れることができた背景には、龍潭寺の住持であった文叔瑞郁禅師の存在と、彼が持つ広範な宗教的ネットワークが大きく関わっていたと考えられる 1 。龍潭寺は井伊家の菩提寺として、井伊氏にとって精神的な支柱であると同時に、このような危機的状況においては具体的な保護を提供するシェルターとしての機能も果たしていたのである。これは、戦国時代において寺社勢力が単なる宗教施設に留まらず、政治的・社会的な影響力を持ち、時には要人の保護や調停といった役割を担っていたことを示す一例と言えるだろう。
以下に、井伊直親の初期の人間関係を把握するため、関連する主要人物をまとめる。
井伊直親 関係人物一覧(初期関連)
分類 |
人物名 |
続柄・役職 |
直親との関わり(簡潔な説明) |
典拠 |
家族 |
井伊直満 |
父 |
直親の父。小野政直の讒言により今川義元に誅殺される。 |
1 |
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鈴木重勝の娘 |
母 |
直親の母。鈴木重時の妹。 |
1 |
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井伊直平 |
祖父 |
直親の祖父。亀之丞(直親)の信濃逃亡を助けたとされる。 |
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井伊直盛 |
養父(従兄) |
直親の従兄であり養父。直親に家督を譲る前に桶狭間で戦死。 |
1 |
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次郎法師(井伊直虎) |
許嫁(従妹)とされる |
直盛の娘。直親と許嫁だったと伝わる。直親の死後、井伊家を支える。 |
1 |
井伊家家臣 |
小野政直 |
井伊家家老 |
直満・直義兄弟を讒言し、誅殺に追い込む。 |
1 |
|
文叔瑞郁禅師 |
龍潭寺住持 |
直親の信濃逃亡を助けたとされる僧侶。 |
1 |
関連大名 |
今川義元 |
駿河の戦国大名 |
井伊氏の主君。直満・直義を誅殺。 |
1 |
父・直満の死後、約10年間にわたり信濃国で潜伏生活を送っていた井伊直親(亀之丞)であったが、弘治元年(1555年)、ついに今川氏からの帰参の許しを得て、故郷である遠江国井伊谷へと戻ることができた 1 。この帰参が実現した具体的な背景や経緯については、詳細な史料が乏しく不明な点が多い。しかし、今川氏内部の政情の変化や、井伊家家中の者たちによる赦免の働きかけ、あるいは直親自身の成長や周辺情勢の変化などが複合的に作用した結果であると推測される。帰還後の直親は、井伊谷近隣の祝田(現在の静岡県浜松市浜名区細江町)を拠点として活動を開始したと伝えられている。
井伊谷に帰還した直親は、程なくして井伊家の有力な家臣であり、井伊氏の分家筋でもある奥山朝利(おくやまともとし)の娘・ひよ(おひよ、あるいは「しの」とも)を正室として迎えた 1 。この婚姻は、長期間井伊谷を離れていた直親にとって、在地勢力との結びつきを強化し、家中における自身の立場を安定させる上で極めて重要な意味を持っていた。奥山氏は井伊谷周辺に勢力を持つ国人であり、井伊家とは代々深い関係にあった。この婚姻によって、直親は奥山氏という強力な後援者を得ることになり、井伊家惣領としての地位を固める一助となったと考えられる。
平穏な日々は長くは続かなかった。永禄3年(1560年)5月、今川義元は尾張国の織田信長を討伐するため大軍を率いて西上を開始する。この戦いに、井伊家当主であり直親の従兄かつ養父でもあった井伊直盛も今川軍の先鋒の一翼を担い従軍した。しかし、今川軍は桶狭間(現在の愛知県豊明市及び名古屋市緑区)において織田軍の奇襲を受け、総大将の今川義元をはじめ多くの将兵が討ち死にするという壊滅的な敗北を喫した。井伊直盛もこの戦いで奮戦したものの、衆寡敵せず戦死を遂げた 1 。
井伊直盛には男子がおらず、また直親は直盛の養子となっていたため、直盛の死後、直親が井伊家の家督を継承し、第23代当主となった 1 。これにより、かつて父の非業の死によって家督相続の道から遠ざけられた直親が、数奇な運命を経て再び井伊家の惣領の座に就くことになったのである。しかし、この家督継承が円滑に行われたのか、あるいは家中に異論や対立が存在したのかについては、具体的な史料が乏しいため断定することは難しい。
直親の井伊谷への帰還と奥山氏の娘ひよとの結婚は、井伊家にとって後継者を得るという点では喜ばしい出来事であった。しかし、それは同時に、かつて直親と許嫁であったとされる井伊直盛の娘・次郎法師(後の井伊直虎)の立場に複雑な影響を与えることになった。直親がひよを正室に迎えたことで、次郎法師との婚約は事実上解消された。この出来事が、次郎法師がその後の人生において出家し、俗世との関わりを断つ道を選ぶ一因となったという解釈が一般的である。この出家は、単に個人的な失意によるものだけでなく、当時の武家の女性が家督相続の可能性から外れた場合に選択しうる社会的な立場や、あるいは何らかの政略的な意味合いを含んでいた可能性も否定できない。直親の帰還と結婚は、井伊家の後継者問題を一時的に解決する一方で、次郎法師のその後の人生の方向性を決定づける重要な転換点となったと言えるだろう。
また、養父・直盛の戦死によって直親が家督を継承した時期は、今川氏の権威が桶狭間の敗戦によって大きく揺らぎ、遠江国内の支配体制が動揺していた混乱期であった。このような状況下では、井伊家内部においても、従来の親今川路線を継続しようとする勢力と、これを機に今川氏からの自立を模索したり、あるいは台頭しつつあった三河の松平元康(徳川家康)に接近しようとしたりする勢力など、様々な思惑が交錯し、対立が潜在的に存在した可能性が考えられる 1 。長期間にわたり井伊谷を離れていた直親が、これらの複雑な家中の力関係を完全に掌握し、強力なリーダーシップを発揮することができたかについては疑問が残る。井伊氏の子孫である井伊達夫氏が「(直親は)何の実権も無かった」とまで言及している点 は、帰参後の直親が必ずしも安定した権力基盤の上に立っていたわけではなかったことを示唆しており、これが後の讒言による悲劇の遠因の一つとなった可能性も考えられる。
奥山氏の娘ひよとの婚姻は、井伊谷における直親の基盤強化に繋がった一方で、潜在的なリスクもはらんでいた。井伊氏子孫の証言によれば、後に直親と奥山氏の間で、直親が兄嫁の後家と恋仲になったことを巡り対立が生じ、それに激怒した舅の奥山朝利が直親を今川氏に訴え出るという事態に発展した可能性が示唆されている。この証言の真偽は定かではないが、事実であれば、婚姻政策が必ずしも盤石な同盟関係を保証するものではなく、人間関係の機微や利害の対立によって容易に破綻しうるという戦国時代の厳しさを物語っている。この奥山氏との関係悪化が、後に述べる小野氏の讒言とは別の、あるいはそれと連動する形で、直親を窮地に陥れた可能性も考慮に入れる必要があるだろう。
井伊直親の生涯を語る上で欠かすことのできない人物が、井伊直盛の一人娘であり、後に「おんな城主」として井伊家を支えたとされる井伊直虎(次郎法師)である。直親と次郎法師は、幼少期に許嫁(いいなずけ)の間柄であったという伝承が広く知られている 1 。
この許嫁関係は、単なる個人的な思慕によるものではなく、多分に政略的な意味合いを含んでいたと考えられる。前述の通り、井伊直盛には男子がおらず、井伊家の血筋を絶やさずに家督を継承させるためには、血縁的に近く、かつ将来有望な男子を婿養子として迎える必要があった。直親は直盛の従兄弟であり、井伊氏の一門の中でも惣領家に近い存在であったため、次郎法師の配偶者として、そして将来の井伊家当主として白羽の矢が立てられたのであろう。これは、戦国時代の武家において、家の存続と安定的な家督継承がいかに重要視されていたかを示す典型的な事例と言える。
しかし、この許嫁関係は成就することはなかった。天文13年(1544年)に直親の父・直満が誅殺され、直親自身も信濃へ逃亡し、その後の消息が途絶えてしまった。一説には、次郎法師は許嫁である直親が亡くなったものと思い、あるいはその行方知れぬ状況に絶望し、井伊家の菩提寺である龍潭寺の住職・南渓瑞聞(なんけいずいもん)和尚のもとで出家し、「次郎法師」と名乗って仏門に入ったと伝えられている。
約10年の歳月が流れた後、弘治元年(1555年)に直親は井伊谷へ帰還を果たす。しかし、その時には既に直親は奥山朝利の娘・ひよを正室として迎えていた(あるいは帰還後まもなく迎えた)ため、次郎法師と直親が夫婦として結ばれることはなかった。この出来事が、次郎法師が生涯独身を貫き、後に井伊家が存亡の危機に瀕した際に「井伊直虎」と名乗り、女性でありながら領主として家を支えるという、他に類を見ない道を歩む大きな要因の一つとなったという解釈が一般的である。直親との叶わなかった婚約は、直虎のその後の人生に大きな影響を与え、彼女の生き方を決定づけたと言っても過言ではないだろう。
永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いにおける今川義元の討死は、東海地方に覇を唱えた今川氏の権勢に深刻な打撃を与え、その領国支配に大きな動揺をもたらした。これまで今川氏の強力な軍事力と統制によって抑えられていた各地の国人領主たちの間に不穏な動きが広がり始めたのである。
特に、今川氏の支配が比較的浅かった三河国においては、岡崎城主であった松平元康(後の徳川家康)がこれを機に今川氏からの独立を宣言し、織田信長と同盟を結ぶなど、急速に勢力を拡大していった。この松平氏の離反は、今川氏にとって三河国という重要な領地を失うだけでなく、東の織田氏、西の松平氏という二つの敵対勢力に挟まれる形となり、その立場を一層困難なものにした。
遠江国においても、今川氏の支配に対する国人領主たちの不満や離反の動きが表面化し、いわゆる「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥った 1 。今川義元の後を継いだ嫡男・今川氏真(うじざね)は、この危機的状況に対し、三河方面での勢力回復を断念し、遠江国の支配維持に戦力を集中させる方針を採った。そして、反乱を起こした国人衆を武力で鎮圧するなど強硬な姿勢で臨んだが、領内の動揺を完全に収拾するには至らず、今川氏の権威低下は避けられない状況であった。
今川氏真の統治能力については、父・義元と比較して劣っていたとする評価が一般的であるが、近年の研究では、必ずしも暗愚な君主ではなかったとする見方も提示されている。しかし、桶狭間の敗戦という未曾有の国難に直面し、有力家臣の離反や領国の混乱が相次ぐ中で、氏真が有効な手を打てず、結果として今川氏の衰退を早めたことは否定できない。遠州錯乱への対応として、国人衆の反乱を力で抑え込もうとしたり、後述するように讒言を鵜呑みにして井伊直親のような人物を誅殺したりする強硬策は、かえって国人衆の不信感を増大させ、さらなる離反を招く結果となり、領国経営の失敗に繋がったと言わざるを得ない。
このような今川領国の混乱と遠州錯乱の渦中で、井伊家内部においても新たな動きが生じていた。井伊家の家老であった小野道好(みちよし、政次〈まさつぐ〉とも呼ばれる。道好は政次の別名とされる)が、今川氏との関係を背景に、井伊家中での影響力を強めていったのである。
当時の井伊氏内部には、今川氏の支配体制が揺らぐ中で、従来の親今川路線を堅持しようとする勢力と、これを機に今川氏からの自立を模索したり、あるいは西隣の三河国で勢力を拡大しつつあった徳川家康に接近しようとする勢力との間で、政治的な対立があったと考えられている 1 。小野道好は、このうち親今川派の筆頭と目されており、今川氏の権威を背景に家中での発言力を高めていった。
一方、井伊家当主であった井伊直親は、反今川的な立場をとり、密かに徳川家康との連携を模索していた可能性が複数の史料や研究で指摘されている 1 。この直親の動向が、親今川派の小野道好との対立を一層深める大きな要因となったと考えられる。井伊家という一つの国人領主の家中に、主君である今川氏に対する忠誠を巡る路線対立が生じていたことは、当時の遠江国人衆が置かれていた複雑で困難な状況を象徴している。
永禄5年(1562年)、井伊家当主・井伊直親の運命を決定づける事件が起こる。家老の小野道好が、主君である今川氏真に対し、「井伊直親が三河の松平元康(徳川家康)と内通し、今川氏に叛意を抱いている」と讒言したのである 1 。
この讒言の具体的な内容や、直親が実際に家康と内通していたか否かについては、確たる史料に乏しく断定はできない。しかし、当時の遠江国が徳川家康の勢力伸張の影響を直接受ける地理的条件にあったこと、そして井伊家中に親今川派と反今川派の対立が存在したことを考慮すると、直親が何らかの形で家康と接触を持っていた可能性は否定できない。
一方で、井伊氏の子孫である井伊達夫氏の証言によれば、この讒言の背景には、直親と奥山氏の女性問題を巡るトラブルがあり、それに激怒した舅の奥山朝利が直親を今川氏に訴え出たことが発端であるという説も存在する。この説が事実であれば、小野道好の讒言は、井伊家内部の個人的な感情のもつれや、奥山氏という有力家臣の意向も複雑に絡み合った、より多層的な事件であった可能性が浮上する。
小野道好が讒言に至った動機についても、様々な解釈が可能である。単に直親に対する個人的な憎悪や、井伊家内での権力掌握を狙ったものか、あるいは親今川派としての立場を強固にし、今川氏の意向を忖度して、井伊家内の「危険分子」と見なした直親を排除することで今川氏への忠誠を示そうとしたのかもしれない。近年の大河ドラマなどでは、小野道好(政次)が苦悩の末に井伊家を守るために行動したという、従来とは異なる人物像が描かれることもあるが、史実としての道好の行動は、結果的に井伊家を一時的に壊滅状態寸前にまで追い込み、今川氏にとっても遠江支配の不安定化をさらに招く一因となったと言える。道好の行動は、短期的には彼の意図通りに進んだように見えたかもしれないが、長期的には井伊氏の徳川氏への接近を決定的にし、ひいては今川氏のさらなる弱体化に繋がったという皮肉な結果を生んだと考えられる。
小野道好の讒言、あるいは奥山氏の訴えを受けた今川氏真は、井伊直親に対し、弁明のために駿府へ出頭するよう命じた。直親は、自身の潔白を証明するため、あるいは弁明の機会を求めて、この命令に従い駿府へ向かった。しかし、その道中の永禄5年12月14日(西暦1563年1月8日)、あるいは同年の3月2日とする説もあるが 1 、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)において、今川氏の重臣である朝比奈駿河守泰朝(あさひなするがのかみやすとも)の手勢によって襲撃され、殺害されたと伝えられている 1 。この時、直親は数え年28歳という若さであった 1 。
この最期についても異説が存在する。井伊氏子孫の井伊達夫氏によれば、直親は実際には徳川家康に内通しておらず、潔白を証明するために抵抗せずに駿府へ向かったものの、そこで弁明の機会を与えられず、最終的には切腹させられたという。この説は、従来の「道中での暗殺説」とは異なり、直親が最後まで今川氏への忠誠心と自身の潔白を信じていた可能性を示唆するものであり、事件の様相を大きく変えるものである。
井伊直親が誅殺された背景には、単なる讒言や個人的な対立だけでなく、当時の複雑な政治状況が深く関わっていたと考えられる。桶狭間の戦い以降、今川氏の支配力が急速に弱体化する中で、遠江国の国人衆の間には動揺が広がり、一部には徳川家康に接近しようとする動きも見られた。このような状況下で、今川氏真は、領内の引き締めと支配体制の維持を図るため、井伊氏のような有力国人を見せしめとして弾圧することで、他の国人衆の離反を防ごうとしたという側面があったと推測される 1 。
また、井伊家内部における親今川派(小野道好ら)と反今川派(直親ら)の深刻な対立が、今川氏の政策と結びつき、結果として直親の誅殺という悲劇的な結末を招いたとも言えるだろう。
一方で、歴史研究者の黒田基樹氏は、これらの通説とは大きく異なる見解を提示している。黒田氏によれば、井伊直親はそもそも井伊氏の当主ではなく、直盛戦死後は井伊谷が無主扱いとなり、今川氏が介入して今川氏一門である関口氏から婿養子を迎えることで井伊家の再興が図られ、直親はその補佐役的な立場にあったに過ぎないとする。さらに、直親が今川氏によって殺害されたという事件自体も事実ではない可能性を指摘している 1 。この説が正しければ、井伊直親の生涯や、その後の井伊直虎の役割、さらには井伊氏の歴史そのものが大きく書き換えられることになり、今後の研究の進展が注目される。
このように、井伊直親の死については、小野道好の讒言による朝比奈泰朝の襲撃という通説に加え、井伊氏子孫による「奥山氏の訴えと切腹説」、さらには黒田基樹氏による「殺害事件は事実ではない」という説まで存在し、その真相は未だ謎に包まれている。これは、事件に関する同時代の一次史料が極めて乏しく、後世の記録や伝承に多くを頼らざるを得ないという、この時代の歴史研究の難しさを反映している。それぞれの説は異なる背景や動機を示唆しており、単純な善悪二元論では捉えきれない複雑な人間関係や政治的力学が、この悲劇の背後に存在したことを物語っている。どの説が最も事実に近いのかを現時点で断定することは困難であるが、複数の解釈が存在すること自体が、この事件の歴史的な重要性と、未だ解明されざる謎深さを示していると言えるだろう。
井伊直親が非業の死を遂げた時、彼には正室である奥山朝利の娘・ひよ(おひよ)と、その間に生まれたばかりの嫡男が遺されていた。ひよは、井伊家の重臣であり分家筋でもあった奥山氏の出身で、直親が井伊谷に帰還した後に結婚した 1 。そして、永禄4年(1561年)2月、二人の間には待望の男子・虎松(とらまつ)が誕生した。この虎松こそが、後に徳川四天王の一人に数えられ、「井伊の赤鬼」と恐れられた猛将・井伊直政その人である。
しかし、父・直親が今川氏によって誅殺された時、虎松はまだわずか2歳という幼さであった。父を失っただけでなく、虎松自身もまた今川氏による追討の対象となり、その命は風前の灯であった。井伊家の家臣や縁者たちは、幼い虎松の身を案じ、今川氏の追っ手から逃れるために各地を転々とさせた。一説には、井伊家の縁戚であった新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)が今川氏に助命を嘆願し、その庇護下で母ひよと共に匿われたとも 1 、あるいは三河国鳳来寺(現在の愛知県新城市)などにかくまわれたとも伝えられている 1 。
この虎松(井伊直政)の幼少期の苦難は、彼の後の人格形成に大きな影響を与えたと考えられる。父を政敵の讒言によって失い、自身も命を狙われ、各地を流浪するという過酷な経験は、彼の不屈の精神力や、他人を容易に信用しない警戒心、そして何よりも危機的状況を乗り越えるための強い意志を育んだであろう。「幼少期に相当つらい思いをしている」 との指摘は、まさにこの状況を指している。後に徳川家康に見出され、その庇護の下で成長し、井伊家を再興する機会を与えられたことは、家康に対する絶対的な忠誠心と、徳川家のために身命を賭して尽くすという強い動機付けになったと推察される。この幼少期の経験こそが、後の「徳川四天王」としての勇猛果敢な活躍の精神的な基盤を形成したと言っても過言ではない。
井伊直親には、正室ひよとの子である虎松(直政)の他にも、子供がいたという伝承が残されている。それは、直親が父・直満の死後、約10年間にわたり潜伏していた信濃国において、現地の有力者であった塩沢氏の娘との間にもうけたとされる高瀬姫(たかせひめ)と吉直(よしなお)という名の二人の子供である 1 。
伝承によれば、高瀬姫は後に川手良則(かわてよしのり)、通称・川手主水(かわてもんど)に嫁いだとされる。川手主水は徳川氏に仕え、後に関ヶ原の戦いの功により井伊直政が彦根藩主となった際には、彦根藩の家老を務めた人物である。高瀬姫を通じて、直親の血筋が彦根藩の重臣家にも繋がっていた可能性を示唆する興味深い伝承である。
一方、弟とされる吉直については、父・直親が井伊谷に帰還する際に信濃に留まり、母方の塩沢家で養育された後、成人して飯田(現在の長野県飯田市)で麹屋を営み、「島田屋」と号して成功したという話が伝えられている。
これらの高瀬姫や吉直に関する伝承は、井伊直親の血筋が嫡男である虎松(直政)以外にも、信濃の地で繋がっていた可能性を示すものであり、直親の人物像に新たな側面を加えるものである。しかし、これらの伝承は主に後世の記録や口承に基づくものであり、確固たる一次史料に乏しいため、その史実性については慎重な検討が必要である。
井伊直親の死によって、井伊氏は当主を失い、その存続は風前の灯となった。このような危機的状況の中で、井伊家の舵取りを託されたのが、直親の従妹であり、かつて許嫁であったとされる次郎法師であった。次郎法師は、直親の死後、そして井伊家の男子後継者が幼い虎松ただ一人となった状況を受け、還俗して「井伊直虎(いいなおとら)」と名乗り、虎松の後見人として井伊家の家督を事実上継いだとされている 1 。
「おんな城主」井伊直虎は、主家である今川氏からの圧力や、家中における小野道好ら反対勢力との対立など、数々の困難に直面しながらも、井伊谷の領地と家臣団を守り抜き、そして何よりも直親の遺児である虎松を無事に養育することに心血を注いだ。彼女の指導力と政治的手腕、そして虎松への深い愛情がなければ、井伊家はその時点で歴史の表舞台から姿を消していた可能性も否定できない。
そして、天正3年(1575年)、直虎によって育てられた虎松は15歳で元服し、徳川家康に出仕することになる。家康は虎松の才覚を見抜き、小姓として取り立て、「井伊万千代(いいまんちよ)」の名を与えた。これが、後の井伊直政の輝かしい武将としてのキャリアの第一歩であった。井伊直虎の存在と彼女の献身的な努力がなければ、井伊直政という稀代の武将が歴史に登場することはなく、井伊家の再興も成し遂げられなかったであろう。
井伊直虎の「後見」という役割は、戦国時代における家督相続の柔軟性や、危機的状況下における女性の役割の重要性を示す興味深い事例である。しかしながら、近年の研究では、井伊直虎が実際に井伊家の当主として領地を支配したか否かについては議論があり、黒田基樹氏のようにその事実を疑問視する説も存在する 1 。また、「直虎」という署名が確認できる同時代の文書は極めて少ないことも指摘されている。直虎の役割が、実質的な領主であったのか、あくまで虎松が成人するまでの中継ぎ的な後見人であったのか、あるいは後世の『井伊家伝記』などによって理想化され、物語化された存在であったのか、その解釈は未だ定まっていない。しかし、いずれの解釈を採るにせよ、彼女の存在が井伊家の断絶を防ぎ、その血脈を井伊直政へと繋いだという点において、その歴史的意義は極めて大きいと言えるだろう。
井伊直親の人物像を伝えるものとして、いくつかの興味深い伝承が残されている。その中でも特に有名なのが、「青葉の笛(あおばのふえ)」にまつわる話である。
伝承によれば、井伊直親は笛の演奏に長けていたとされ、父・直満の死後、信濃国へ逃亡する際に世話になった松源寺の僧侶に対し、感謝の印として愛用していた一本の笛を寄進したという。この笛が「青葉の笛」と呼ばれ、後に浜松市引佐町の文化財に指定され、現在ではそのレプリカも作られて、直親を偲ぶ品として大切に保存・展示されている 1 。この伝承は、直親の風雅な一面や、苦難の逃亡生活の中にも人間的な温かさや交流があったことを想起させ、彼の悲劇的な生涯に一条の光を投げかけるものである。
また、もう一つの伝承として、直親が遠江国から信濃へ逃れる際に、自身を射殺そうとした右近次郎(うこんじろう)という人物を、後に井伊谷へ帰参した際に機略を用いて探し出し、見事に成敗したという武勇伝も残されている 1 。この話は、直親が単に悲劇の貴公子であっただけでなく、武将としての気概や知略も持ち合わせていたことを示唆するものである。
これらの伝承は、史実としての確証は必ずしも十分ではないものの、井伊直親という人物に人間的な深みや物語性を与え、後世の人々によって語り継がれ、記憶される上で重要な役割を果たしてきた。特に「青葉の笛」の伝承や、それに関連する史跡、あるいは直親の墓所などが地域で大切に保存され、顕彰されていることは、歴史上の人物が単なる過去の記録上の存在としてではなく、地域のアイデンティティや文化と深く結びつき、現代においても生き続けていることを示している。これらの伝承は、史料の乏しい直親の人物像を補い、彼の短い生涯に彩りを添えるものとして、今後も語り継がれていくことであろう。
井伊直親の生涯や人物像を現代に伝える上で、最も大きな影響力を持ってきた文献の一つが、江戸時代中期に井伊家の菩提寺である龍潭寺の住職・祖山法忍(そざんほうにん)によって編纂された『井伊家伝記』である 1 。この書物は、井伊氏の始祖から江戸時代初期に至るまでの歴史を網羅的に記述しようとしたものであり、井伊直親についても詳細な記述が見られる。
『井伊家伝記』においては、直親の父・井伊直満の讒言による誅殺、それに伴う直親自身の信濃への逃亡と約10年間に及ぶ潜伏生活、今川氏の許しを得ての井伊谷への帰還、奥山氏の娘ひよとの結婚、養父・井伊直盛の戦死に伴う家督相続、そして家臣・小野道好の讒言による徳川家康との内通疑惑と、それに続く今川氏真による誅殺命令、掛川における非業の最期といった一連の出来事が、比較的詳細に、かつドラマチックに描かれている。
この『井伊家伝記』における直親像は、若くして父を失い、苦難の末に家督を継いだものの、再び家臣の裏切りによって悲劇的な最期を遂げる「悲劇の貴公子」として、また、許嫁であったとされる次郎法師(井伊直虎)との叶わぬ恋の物語を通じて、どこかロマンチックな雰囲気をまとった人物として描かれる傾向がある。さらに、直親の遺児である井伊直政が、後に徳川四天王の一人として大成し、井伊家を中興する輝かしい未来への「前日譚」として、その父である直親の苦難に満ちた生涯が強調されている側面も見受けられる。
しかしながら、歴史学者の夏目琢史氏が指摘するように、江戸時代に編纂された家伝や記録の類は、必ずしも史実を客観的かつ正確に反映しているとは限らない。編纂された時代背景や、編纂者の立場、そしてその編纂意図(例えば、家の由緒を飾る、特定の人物を顕彰する、教訓的な意味合いを持たせるなど)を十分に考慮した上で、慎重な史料批判を行う必要がある。特に『井伊家伝記』のような寺社縁起や家伝は、その家の正当性や権威を高めるために、特定の出来事を強調したり、あるいは逆に不都合な事実を省略・改変したりする可能性も否定できない。
井伊直親をめぐる歴史的評価は、近年の戦国史研究の進展に伴い、新たな局面を迎えている。特に、同時代の一次史料に基づく実証的な研究が進む中で、『井伊家伝記』に代表される従来の通説的な直親像に対して、根本的な疑問を投げかける見解が複数提示されている。
その代表的なものとして、まず歴史研究者の鈴木将典氏の研究が挙げられる。鈴木氏は、井伊直親に関する同時代の一次史料を精査した結果、直親の実在を直接的に証明する確実な形跡が見当たらないことを指摘し、その存在自体に疑問を呈している 1 。この説は、井伊直親の生涯を前提としてきた従来の井伊氏研究の根幹を揺るがすものであり、大きなインパクトを与えた。
一方、戦国史研究の第一人者である黒田基樹氏は、鈴木氏とは異なり井伊直親の実在自体は認めるものの、その立場や最期については通説とは大きく異なる見解を提唱している。黒田氏によれば、井伊直親は井伊氏の当主ではなく、養父・井伊直盛の戦死後、井伊谷は一時的に無主(あるいは今川氏の直接支配下)となり、その後、今川氏の介入によって今川氏一門である関口氏から婿養子が迎えられ井伊家の再興が図られた際に、直親はその養子の補佐役的な立場にあったに過ぎないとする。さらに、直親が今川氏によって讒言を理由に殺害されたという事件も、史実ではない可能性が高いと主張している 1 。この黒田説が正しければ、井伊直親の悲劇的な最期や、その後の井伊直虎による家督継承といった一連の物語は、根本的な見直しを迫られることになる。黒田氏の研究は、主に現存する数少ない一次史料の丹念な分析に基づいており、『井伊家伝記』などの後世の編纂物とは異なる、より実証的な井伊氏の姿を提示しようとするものである。
井伊直親や、彼と深く関わったとされる井伊直虎に関する同時代の一次史料は、極めて少ないのが現状である 1 。夏目琢史氏も指摘するように、井伊氏歴代当主が発給したとされる文書群がまとまって残る「蜂前神社文書」(浜松市博物館所蔵)などが数少ない貴重な史料として知られているが、これらも断片的であり、直親の生涯や井伊氏の具体的な動向を詳細に明らかにするには限界がある。
また、井伊氏の子孫であり井伊美術館の館長を務める井伊達夫氏は、通説とは異なり、井伊直親は小野道好の讒言ではなく、舅である奥山氏の訴えにより、駿府で切腹させられたという見解を示している。これもまた、直親の最期をめぐる新たな視点を提供するものである。
これらの状況から明らかなように、井伊直親の実像を確定することは現時点では極めて困難であると言わざるを得ない。今後の研究においては、未発見の一次史料の発見に期待が寄せられるとともに、現存する史料の再解釈や、考古学的調査、関連地域の伝承研究など、多角的なアプローチによる研究の深化が求められている。
歴史像というものは、絶対不変のものではなく、新たな史料の発見や研究視点の変化によって常に書き換えられていく動的なものである。『井伊家伝記』によって形成された直親・直虎像が長らく人々に受け入れられてきたが、近年の実証的な研究は、それに安住することなく、より史実に近い姿を追求しようとする歴史学の営みそのものを示している。英雄譚や悲劇の物語として語られがちな戦国武将の姿も、厳密な史料批判と多角的な検討を経ることで、より複雑で多面的な、そして人間味あふれる実像が浮かび上がってくる可能性がある。
一次史料の制約がもたらす「歴史の空白」は、一方で物語が生まれる余地を提供してきた。この空白を埋める形で、『井伊家伝記』のような後世の編纂物や、さらには現代の歴史小説や大河ドラマなどが、魅力的な物語を構築してきた。これらの物語は、必ずしも学術的な史実そのものではないかもしれないが、人々の歴史への関心を喚起し、特定の歴史上の人物に対するイメージを形成する上で大きな影響力を持っている。歴史研究者は史実の探求を第一義としながらも、なぜそのような物語が生まれ、多くの人々に受け入れられてきたのかという、歴史の受容や記憶のあり方についても目を向ける必要があるのかもしれない。
井伊直親の実像に迫るためには、従来の文献史学的なアプローチに加えて、より多様な研究手法の連携が有効であると考えられる。例えば、井伊氏ゆかりの寺社(龍潭寺、松源寺など)に残る記録や伝承の再調査、墓所とされる場所の考古学的調査、そして「青葉の笛」のような伝承品の科学的な分析などが考えられる。また、浜松市立中央図書館などが進めている歴史資料のデジタルアーカイブ化 は、研究者が史料へアクセスすることを格段に容易にし、新たな研究の進展を促す上で大きな貢献が期待される。地域の古老が語り継いできた伝承 1 も、それが形成された背景や地域社会における歴史認識のあり方を知る上で、貴重な手がかりとなる可能性がある。
井伊直親に関する主要な説の比較
項目 |
『井伊家伝記』に基づく通説 |
鈴木将典氏の説 |
黒田基樹氏の説 |
井伊氏子孫(井伊美術館)の説 |
実在性 |
実在 |
実在に疑問符 |
実在 |
実在 |
井伊家当主であったか |
当主(第23代) |
(言及なし) |
当主ではない(直盛死後は無主、または関口氏からの養子が当主で直親は補佐役) |
当主 |
死因・経緯 |
小野道好の讒言により、今川氏真の命で朝比奈泰朝に掛川で誅殺(暗殺) |
(言及なし) |
今川氏による殺害は事実ではない可能性 |
奥山氏の訴えにより、駿府で切腹 |
井伊直虎との関係 |
幼少期に許嫁。直親の死後、直虎が虎松の後見人となり家督を継ぐ。 |
(言及なし) |
直虎の当主としての立場や直親との関係も通説とは異なる可能性。 |
(詳細不明だが、許嫁関係は一般的認識) |
主な根拠 |
『井伊家伝記』、龍潭寺の伝承など |
同時代史料における直接的証拠の欠如 |
一次史料の分析、今川氏の文書など |
井伊家に伝わる口伝、内部資料など |
典拠例 |
1 |
1 |
1 |
|
井伊直親の生涯は、戦国時代という激動の時代を生きた一人の武将の、そして遠江国井伊谷という地に根差した国人領主・井伊氏の苦難を象徴するものであったと言える。彼の人生は、幼くして父・井伊直満が家臣の讒言によって主君・今川義元に誅殺されるという悲劇に始まり、自身も命の危険に晒され約10年にも及ぶ信濃への逃亡と潜伏生活を余儀なくされた。ようやく故郷への帰還を果たし、養父・井伊直盛の戦死を受けて井伊家の家督を継承したものの、その平穏は束の間であり、再び家臣・小野道好の讒言によって今川氏真から謀反の疑いをかけられ、遠江国掛川において28歳という若さで非業の最期を遂げたと伝えられている。この一連の出来事は、強大な戦国大名の支配下で翻弄され、家中の権力闘争や裏切り、そして絶え間ない外部からの圧力の中で生き残りを図らねばならなかった戦国期国衆の過酷な運命を如実に物語っている。
井伊直親自身は、その志半ばにして倒れ、歴史の表舞台で大きな事績を残すことは叶わなかった。しかし、彼が嫡男である虎松、すなわち後の井伊直政を遺したことは、井伊氏の歴史において計り知れないほど大きな意味を持つ。父・直親の死後、幼くして今川氏から命を狙われるなど苦難の道を歩んだ虎松は、やがて井伊直虎の後見と尽力、そして徳川家康との運命的な出会いを経て、その類稀なる才覚を開花させる。そして、徳川四天王の一人として数々の武功を挙げ、関ヶ原の戦いの後には近江国彦根に18万石を与えられ、彦根藩祖として井伊家を譜代大名の筆頭格へと押し上げる礎を築いたのである。井伊直親の存在は、この井伊直政という稀代の武将が歴史に登場するための、いわば不可欠な「繋ぎ」の役割を果たしたと評価することができる。もし直親がいなければ、あるいは虎松が生まれなければ、井伊氏のその後の輝かしい歴史は大きく異なったものとなっていたであろう。直親の悲劇的な生涯は、結果として井伊家が新たな時代を切り開くための、ある種の「産みの苦しみ」であったのかもしれない。
井伊直親の悲劇的な生涯は、単に一個人の不幸として語られるだけでなく、その後の井伊直政による井伊家の再興と繁栄をより一層際立たせるための「物語装置」として機能してきた側面も看過できない。苦難を乗り越えて家名を再興するという物語の類型は、特に武家社会が安定した江戸時代において、その家の由緒や正当性を強調し、家格を高める上で非常に効果的であった。直親の悲運と、それを乗り越えて大成した直政の成功という鮮やかな対比は、井伊家の歴史に深みと感動を与え、徳川譜代筆頭としての地位を精神的な面からも補強する役割を担ったと考えられる。
井伊直親の実像については、本報告書で詳述してきた通り、未だ多くの謎が残されている。特に、その生涯や具体的な事績に関する同時代の一次史料が極めて乏しいことから、その詳細は不明な点が多く、研究者の間でも見解が大きく分かれているのが現状である。今後の研究においては、新たな史料の発見に大きな期待が寄せられるとともに、現存する史料の多角的かつ精密な再分析、関連する地域の寺社に残る記録や伝承の掘り起こし、さらには墓所とされる場所の考古学的調査といった、学際的なアプローチによる研究の深化が不可欠である。特に、黒田基樹氏らが提唱する、従来の通説を覆すような新説については、さらなる実証的な検証と、学界における活発な議論が深められることが望まれる。
井伊直親に関する研究は、単に一地方領主の生涯を明らかにすることに留まらない。それは、戦国時代における国衆(中小規模の在地領主)の具体的な動向や、彼らが大名権力とどのように向き合い、あるいは翻弄されながら生き残りを図ったのかという、戦国史研究における普遍的かつ重要なテーマを解明する上でも、貴重な示唆を与えてくれるであろう。井伊直親の生涯を通じて、戦国期における国衆の自立と従属の相克、中央集権化へと向かう時代の中での在地勢力の苦悩、そして家中の統制と権力闘争の現実といった、より大きな歴史的文脈を読み解くことができる。井伊直親の研究は、まさに戦国期国衆研究が抱える史料的制約や解釈の多様性といった課題そのものを体現しており、今後の研究の進展が、この時代の歴史像をより豊かで深みのあるものにしていくことが期待される。