最終更新日 2025-06-18

京極高広

「京極高広」の画像

戦国期北近江の落日―京極高広の生涯と時代

序論:二人の「京極高広」と研究の視座

1. 人物の特定と本報告書の対象

日本の戦国時代史において、「京極高広」という名を持つ人物は二人存在する。一人は本報告書の主題である、戦国時代に北近江半国の守護を務めた京極高清の長男、京極高広(高延)である 1 。彼の生没年は不詳であり、その生涯は権力闘争に翻弄され、最後は歴史の記録から忽然と姿を消すという謎に満ちている。

もう一人は、江戸時代前期に丹後宮津藩の第二代藩主となった京極高広である 2 。こちらは京極高知の次男として慶長4年(1599年)に生まれ、延宝5年(1677年)に没した、その生涯が明確な近世大名である 2 。この二名は血縁的にも遠く、全くの別人であるが、同名であることから史料や二次資料、特に近年のウェブ情報において頻繁に混同が見られる 2 。この混乱は京極氏の歴史を理解する上で重大な障害となるため、本報告書では冒頭でこの点を明確に区別し、ご依頼の趣旨に基づき、戦国期の高広(以下、原則として「高広(高延)」と表記)の生涯にのみ焦点を当てて論じる。

表1:二人の京極高広の比較

項目

京極高広(高延) 【本報告書の対象】

京極高広 【江戸期の大名】

時代

戦国時代

江戸時代前期

通称・別名

六郎、高延、高明 1

安智軒道愚(号) 2

生没年

生没年不詳 1

慶長4年(1599年)~延宝5年(1677年) 2

京極高清 1

京極高知 2

斎藤妙純の娘 1

惣持院(側室) 2

兄弟

高吉(高慶) 1

高三、田中満吉、常子(八条宮智仁親王妃)ら 3

正室

不詳

茶々姫(徳川秀忠養女、池田輝政の長女) 3

高弥、高成 1

高国、高治、高勝、高明ら 3

主要な経歴

北近江の守護。浅井亮政らに擁立され家督を継ぐも実権を奪われる。六角氏との抗争の末、天文22年(1553年)以降、消息不明となる 1

丹後宮津藩の第二代藩主。父の遺領7万8200石を継承。後に息子・高国との対立から藩が改易される原因を作る 2

歴史的評価

下剋上の波に飲まれた悲劇の守護大名。

藩政の確立に努めたが、晩年の親子対立で家を改易に導いた藩主。

2. 研究史における位置づけと本報告書の目的

京極高広(高延)は、室町幕府の四職家という名門守護大名・京極氏がその権威を失墜させ、被官(家臣)であった浅井氏に実権を奪われるという、戦国時代の下剋上を象徴する過渡期に生きた人物である 9 。彼の生涯は、単なる一個人の悲劇に留まらず、中世的な権力構造が崩壊し、実力主義に基づく新たな秩序が形成されていく時代の力学を映し出す鏡と言える。

本報告書は、従来の「浅井氏の無力な傀儡」という一面的な評価に留まらない。近年の文献史学および考古学の成果、特に京極氏の拠点であった上平寺城跡の研究 11 や、京極氏に関する最新の論文集(西島太郎編『佐々木京極氏』) 13 などを積極的に援用する。これにより、高広(高延)の政治的・軍事的行動を主体性の観点から再評価し、その歴史的実像に多角的に迫ることを目的とする。

表2:京極高広(高延)関連年表

年代

京極高広(高延)の動向

北近江・周辺の動向

大永3年(1523年)

父・高清が弟・高吉に家督を譲ろうとしたため、浅井亮政、浅見貞則ら国人衆に擁立され、高清・高吉を尾張へ追放。京極氏当主となる 1

-

大永5年(1525年)

実権を握る浅見貞則を、浅井亮政が追放。亮政が実権を掌握する 1

六角定頼が北近江に侵攻。浅井亮政の小谷城を攻める 1

享禄元年(1528年)

上坂信光に擁立された弟・高吉と対峙する 1

-

享禄4年(1531年)

畿内の戦乱で細川晴元を支援するも、細川高国側の六角定頼に敗れる 1

-

天文2年(1533年)

六角定頼と和睦する 1

-

天文3年(1534年)

父・高清と共に、小谷城で浅井亮政の饗応を受ける 1

-

天文7年(1538年)

父・高清が死去。正式に家督を継承するも、直後に六角定頼・高吉軍と交戦する 1

-

天文10年(1541年)

浅井亮政に対して挙兵する 1

-

天文11年(1542年)

-

浅井亮政が死去。子の久政が家督を継承 19

天文19年(1550年)

浅井久政と和睦する 1

-

天文22年(1553年)

三好長慶と連合し、六角義賢と戦うが敗北。この後、消息不明となる 1

-

第一章:権威の黄昏―京極家内訌と高広の擁立

1-1. 応仁の乱後の京極氏と北近江の情勢

京極氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、室町幕府において侍所所司を務める四職家の一つとして、出雲・隠岐・飛騨などの守護職を兼ねる名門であった 10 。しかし、応仁の乱(1467-1477)とその後に続いた「京極騒乱」と呼ばれる一族内の長期にわたる抗争の結果、その権力基盤は著しく揺らぎ、戦国期に入る頃にはかつての広大な分国を失い、北近江半国を保持するのが精一杯という状況にまで衰退していた 6

父である京極高清は、一時はこの内紛を収拾し、永正2年(1505年)頃には上平寺に新たな城館を築いて北近江の支配を安定させたかに見えた 23 。しかし、その権力の実態は、守護代の上坂氏や、浅井氏、浅見氏、堀氏、三田村氏といった在地有力国人衆(根本被官)の力に大きく依存する、極めて脆弱なものであった 25

1-2. 家督継承問題の勃発

このような不安定な権力構造の中、高清は嫡男である高広(高延)ではなく、次男の高吉(高慶とも表記される)を偏愛し、彼に家督を譲ろうと画策した 1 。この動きを積極的に後援し、家中の実権を掌握していたのが、守護代の上坂信光であった 28 。この家督問題は、単なる父の偏愛に起因するものではなく、守護代である上坂信光が、より操縦しやすいと見られる次男・高吉を当主に据えることで、自らの権力を盤石にしようとした政治的策謀の側面が強い。高清の意志は、信光の野心に利用された形であり、守護家の権威が有力家臣によって内部から侵食されていた当時の状況を如実に物語っている。

1-3. 国人一揆の形成と高広の擁立(大永三年の政変)

高清と上坂信光による家督継承計画に対し、浅井亮政、浅見貞則、堀元積、三田村忠政、今井越前といった北近江の有力国人衆が「主家への反逆」として強く反発した 1 。彼らは、守護家の正統な後継者である長男・高広(高延)を盟主として擁立することで一致し、反上坂氏の「国人一揆」を結成した。このクーデターの談合は「大吉寺の梅本坊」で行われ、当初の一揆の盟主は尾上城主の浅見貞則であったとされる 15

大永3年(1523年)、国人一揆はついに蜂起する。上坂信光の拠点である今浜城などを攻略し、高清・高吉親子と信光を尾張国へと追放した 1 。この政変により、高広(高延)は国人衆に担がれる形で、名目上の京極氏当主となったのである。

この一連の出来事は、守護の権威が失墜し、国人衆が連合して主家の家督問題に武力介入し、自らの意のままに当主を決定するという、戦国時代の下剋上を象徴する事件であった。国人衆は、もはや守護の命令に一方的に従うだけの存在ではなく、自らの利害で行動する独立した政治勢力へと変貌していたのである。彼らが正統な後継者である高広(高延)を擁立したのは、自らのクーデターを「主家の内紛を是正し、正統を守る」という大義名分で正当化するためであった。この時点で高広(高延)は、自らの意思とは別に、国人衆の政治的道具として利用される運命に置かれていたと言えよう。

表3:京極高広(高延)関係人物一覧

氏名

高広との関係

主要な動向・役割

京極高清

次男・高吉を偏愛し、高広との家督争いの原因を作る 6

斎藤妙純の娘

美濃斎藤氏出身。高広の母 1

京極高吉

父・高清に寵愛され、兄・高広と家督を争う。六角氏を頼り、兄と生涯対立した 7

京極高成

父の没落後、室町幕府最後の将軍・足利義昭に仕え、鞆幕府まで随行した 1

浅井亮政

家臣、後に実権者

当初は高広を擁立するが、後に実権を掌握し、高広を傀儡化する 1

浅見貞則

家臣

高広擁立クーデターの当初の盟主。後に専横を強め、浅井亮政に追放される 1

堀元積

家臣

高広擁立クーデターに参加した有力国人の一人 1

上坂信光

父の家臣、敵対者

高清・高吉親子を支援し、高広擁立派と対立。クーデターで追放される 26

六角定頼

敵対者

南近江の守護。高吉を庇護し、北近江に介入。高広・浅井氏と抗争を繰り広げた 1

六角義賢

敵対者

定頼の子。高広・浅井氏との抗争を継続。天文22年の戦いで高広を破る 20

三好長慶

協力者

畿内の覇者。晩年の高広は、六角氏に対抗するため三好氏と連携した 1

第二章:名ばかりの守護―浅井氏の傀儡として

2-1. 浅見貞則の専横と浅井亮政の台頭

高広(高延)を擁立して政変を成功させた国人一揆であったが、その内部は一枚岩ではなかった。当初の盟主であった浅見貞則は、高広(高延)を自らの居城である尾上城に迎え入れ、権力を掌握したが、やがてその専横ぶりが目立つようになる 1 。この状況を巧みに利用したのが、浅井亮政であった。大永5年(1525年)、亮政は一度は敵として追放した旧主・京極高清と和睦を結ぶという離れ業を演じる。そして、高清の権威を大義名分として浅見貞則を追放することに成功し、自らが北近江の新たな実力者としてその地位を確立した 1 。この権力闘争の過程で、高広(高延)は、庇護者が浅見氏から浅井氏へと入れ替わるという、自らの立場が他者の都合で左右される状況を甘受するしかなかった。

2-2. 傀儡領主の居場所―小谷城「京極丸」と上平寺城

浅井氏が実権を握った後、高広(高延)の居場所については、二つの異なる側面が史料から浮かび上がる。

一つは、浅井氏の本拠である小谷城内に設けられた「京極丸」である。軍記物などでは、高広(高延)父子はこの曲輪に住んだと伝えられている 17 。この京極丸の存在は、浅井氏が旧主である京極氏の伝統的権威を形式上は尊重しつつも、実質的には自らの監視下に置いていることを内外に示す、象徴的な装置であったと考えられる 32 。実際に、小谷城跡の発掘調査では、京極丸から儀式用の土師器皿などが多数出土しており、ここで何らかの公的な儀礼が行われていた可能性が示唆されている 32

一方で、より信憑性の高い同時代の古文書からは、高広(高延)が浅井氏の本拠である小谷から離れた場所を拠点としていた可能性が強く指摘されている。具体的には、京極氏が古くから本拠としていた上平寺城(現在の米原市)や、さらにそこから移ったとされる坂田郡河内(同市梓河内)の城である 1 。特に上平寺城跡の発掘調査では、守護の屋形跡や大規模な庭園、家臣団の屋敷跡などが確認されており、ここが単なる山城ではなく、京極氏の政治的・文化的な中心地であったことが考古学的にも裏付けられている 11

これらの情報から、「小谷城に幽閉された無力な傀儡」という従来のイメージは再考を要する。高広(高延)は、浅井氏の監視下にある小谷城京極丸を公的な(表向きの)居館としつつ、私的な(実質的な)活動拠点として上平寺や河内を維持し、独自の勢力基盤を保持しようとしていた可能性がある。この「二重拠点」という仮説は、彼が単なる「お飾り」ではなく、浅井氏の支配を甘受せず、虎視眈々と反攻の機会を窺う、したたかな政治的存在であった可能性を示唆しており、後の浅井氏への反乱という行動に繋がる重要な伏線となる。

2-3. 権威の利用と形骸化

天文3年(1534年)、浅井亮政は高広(高延)とその父・高清を小谷城に招き、盛大な饗応を行ったという記録が『天文三年浅井備前守宿饗応記』に残されている 1 。この饗応は、下剋上を果たした新興勢力である亮政が、京極氏の持つ伝統的な権威を、自らの支配を正当化するために巧みに利用したことを示す象徴的な出来事であった 18 。戦国大名が旧来の権威を完全に否定するのではなく、それを形式的に「奉じる」ことで、領域支配を円滑に進めようとした現実的な戦略が見て取れる。

しかし、饗応される側の高広(高延)にとっては、自らの権威が家臣に利用されるだけの屈辱的な状況であったことは想像に難くない。名目上の主君でありながら、実権者である家臣から丁重にもてなされるという歪んだ主従関係は、彼の自尊心を深く傷つけ、後の浅井氏からの自立を目指す戦いへの強い動機の一つとなったと考えられる。

第三章:権力回復への道―六角氏・弟高吉との抗争

3-1. 六角氏の介入と兄弟の代理戦争

浅井亮政の台頭を脅威と見なした南近江の守護・六角定頼は、北近江への影響力を確保するため、追放されていた高広(高延)の弟・高吉を積極的に庇護した 1 。高吉は六角氏の強大な軍事力を後ろ盾に、兄から家督を奪還しようと画策し、北近江への侵攻を繰り返した。享禄元年(1528年)には、かつて高広(高延)らによって追放された旧臣の上坂信光に擁立され、兄弟が直接戦場で対峙する事態にまで発展した 1

この時点で、京極家の内紛はもはや一族内の問題ではなく、北近江の覇権をめぐる浅井氏と六角氏の代理戦争という様相を色濃く呈していた。高広(高延)と高吉の兄弟対立は、このより大きな勢力争いの構図の中で利用され、より根深く、解決困難なものへと変質していったのである。

3-2. 畿内政局との連動と外交戦略

高広(高延)の行動は、北近江という地域内に閉じたものではなかった。彼は、畿内中央の政局を常に視野に入れ、自らの立場を有利にするための外交を展開した。享禄4年(1531年)、彼は畿内の有力者であった細川晴元を支援するため、軍事行動を起こしている。しかし、この時、晴元と敵対していた細川高国と結んでいたのが六角定頼であったため、高広(高延)は六角軍に敗北を喫した 1

この敗北の後、天文2年(1533年)には、敵対していた六角定頼と一時的に和睦を結ぶなど、状況に応じた柔軟な外交姿勢も見せている 1 。これらの動きは、高広(高延)が単なる地方の傀儡領主ではなく、畿内全体の政治情勢を読み解き、それを利用して自らの存続を図ろうとする、自立した政治主体であったことを示している。彼は、細川氏という中央の権力を引き込むことで、地域の大敵である六角氏や、実権を握る浅井氏に対抗しようとしたのである。彼の外交戦略は、弱小勢力が生き残るための必死の策であり、その政治的力量を再評価すべき点である。

3-3. 父・高清の死と抗争の激化

天文7年(1538年)、父・高清が上平寺城にて死去した 1 。これにより、高広(高延)は名実ともに京極家の家督を継承することになったが、それは同時に、兄弟間の対立をかろうじて抑制していた最後の重しが失われたことを意味した。高清の存在は、たとえ隠居の身であっても、骨肉の争いを防ぐ一定の歯止めとなっていたのである。案の定、高清の死の直後から、六角定頼と高吉の連合軍との戦いが再燃し、両者の争いはもはや和解不可能な段階へと突入した 1

第四章:最後の抵抗と歴史からの退場

4-1. 浅井氏への反旗―自立への最後の試み

長年の雌伏の時を経て、高広(高延)はついに浅井氏の傀儡という立場からの脱却を目指し、行動を開始する。天文10年(1541年)、彼は実権を握る浅井亮政に対して挙兵した 1 。この戦いは、翌年に亮政が死去し、その子・浅井久政が家督を継いだ後も継続された。この約10年にもわたる長期の抗争の末、天文19年(1550年)に両者は和睦するに至った 1

この長期にわたる抗争は、高広(高延)が単に不満を爆発させたのではなく、彼を支持する一定の国人勢力を背景に、計画的に行動したことを示唆している。和睦という結果は完全な勝利ではなかったかもしれないが、浅井氏に対して自らの存在と力を認めさせ、一定の譲歩を引き出した可能性も考えられる。これは、彼の生涯における主体的な抵抗のクライマックスであった。

4-2. 三好長慶との連携と最終決戦

浅井氏との和睦後、高広(高延)は戦略を大きく転換する。彼は、当時、細川氏を凌ぎ畿内の覇者となっていた三好長慶と連携したのである 1 。その目的は、長年の宿敵であり、弟・高吉の後ろ盾でもある南近江の六角氏(当主は定頼の子・義賢)を打倒することにあった。

この動きは、高広(高延)の政治家としての執念と戦略眼を示すものである。彼は、北近江という局地的な争いから脱却し、畿内最強の実力者を味方につけることで、六角・浅井連合に対抗するという壮大な構想を描いた。しかし、この最後の大きな賭けは失敗に終わる。天文22年(1553年)、高広(高延)は六角義賢の軍と戦い、決定的な敗北を喫した 1 。この敗戦により、彼の政治的・軍事的な力は完全に尽き果てた。

4-3. 「消息不明」の謎―歴史からの抹消

天文22年(1553年)の敗戦を最後に、高広(高延)の動向を伝える確かな一次史料は途絶える。彼は歴史の表舞台から「消息不明」となるのである 1 。彼の死に関する具体的な記録はなく、生没年は現在に至るまで不詳のままである。

この「消息不明」という結末は、彼の政治生命がこの時点で完全に終わったことを象徴している。この敗北により、北近江における京極氏の勢力は事実上消滅し、歴史の記録者たちにとって、もはや言及する価値のない存在となった。彼の存在は、文字通り歴史の記録から「抹消」されたのである 38 。この事実は、戦国時代の権力闘争の非情さと、敗者の運命を雄弁に物語っている。肉体的な死がいつであったかに関わらず、天文22年の敗北をもって、彼の歴史における役割は終わったと解釈できる。この「記録からの退場」こそが、彼の生涯の最も悲劇的な結末であった。

第五章:残された血脈―息子・高成と京極家の行方

5-1. 最後の将軍に仕えた息子・京極高成

父・高広(高延)が歴史の闇に消えた後も、その血脈は途絶えてはいなかった。彼には高弥と高成という息子がいた記録が残るが、高弥については史料が乏しく詳細は不明である 1 。一方で、息子の高成は、父の没落後、室町幕府最後の将軍・足利義昭に近習として仕えたことが確認されている 1

当時の幕府の役職を記した史料『永禄六年諸役人附』には、将軍の側近である御供衆として「佐々木治部大輔高成 京極弟」の名が見える 41 。これは高成の実在と、彼が流浪の将軍の側にあって一定の地位を認められていたことを示す貴重な史料である。

5-2. 鞆幕府への随行と京極家の矜持

高成の忠誠は、将軍・義昭の栄光の時だけでなく、その没落期においても揺るがなかった。天正元年(1573年)、義昭が織田信長によって京都から追放された後も、高成は行動を共にした。そして、義昭が毛利輝元を頼り、備後国鞆に亡命政権(通称「鞆幕府」)を樹立した際も、それに随行したのである 10

彼は、義昭が豊臣秀吉の庇護下で京都に帰還するまで、最後まで将軍家に仕え続けた。さらに、高成の子・昭成は、将軍・義昭から「昭」の一字を拝領しており、足利将軍家との深い関係が続いていたことを示している 10 。高成のこの生き方は、父・高広(高延)が在地での実権回復に固執し失敗したのとは全く異なる道であった。彼は、現実的な権力に屈するのではなく、たとえ形骸化していても、武家社会の伝統的な権威の頂点である「将軍」に仕えるという道を選んだ。これは、下剋上の時代にあって、旧来の価値観に殉じた、名門京極氏としての最後の矜持の表れと解釈できる。

5-3. 対照的な一族の運命―高吉系の成功と高広系の没落

高広(高延)の系統が歴史の表舞台から姿を消したのとは対照的に、彼と家督を争った弟・高吉の系統は時代の変化に巧みに適応し、家名を再興させることに成功した。高吉の子である京極高次と京極高知は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という中央の覇者の動向を的確に見極め、いち早く臣従した 43

特に高次は、関ヶ原の戦いにおける大津城籠城の功績により若狭一国の大名に、高知も同合戦の功で丹後一国の大名となり、京極家は近世大名として華麗な復活を遂げたのである 8 。高広(高延)系と高吉系の対照的な運命は、戦国乱世を生き抜くための二つの異なる戦略とその明暗を鮮やかに示している。一つは、高広(高延)のように在地に固執し、失われた権力を実力で回復しようと試みる道。もう一つは、高吉系のように、旧来の土地や権力にこだわらず、中央の新たな覇者に仕えることで新たな地位と所領を確保する道である。結果として、時代の潮流を読んだ後者が成功し、京極家の血脈を近世へと繋いだ。高広(高延)の悲劇は、この戦略の選択の差にあったとも言えるだろう。

結論:歴史的評価―下剋上の渦に飲まれた悲劇の当主

京極高広(高延)は、守護大名がその権威と実力を失い、被官であった国人領主が新たな支配者として台頭する、日本の歴史における大きな構造転換期に生きた人物である。彼の生涯は、家臣に擁立されて当主となりながらも実権を奪われ、権力回復を目指して抗争を繰り返すも、最終的に歴史の奔流に飲み込まれ姿を消すという、まさに「下剋上」の時代を象徴する悲劇の当主として総括できる。

しかし、本報告書で詳述したように、彼は単なる無力な傀儡ではなかった。浅井氏の支配下にあっても独自の拠点を維持しようと画策し、六角氏や三好氏といった外部勢力と巧みに連携して権力回復を試みるなど、最後まで自らの家運を切り開こうと行動し続けた、主体性を持った政治的・軍事的存在であった。彼の生涯は敗北の連続ではあったが、無気力なものでは決してなかったのである。

皮肉なことに、彼の浅井氏に対する執拗な抵抗は、結果として浅井氏の内部結束を強めさせ、北近江における支配体制を確立させる一因となった。彼は、意図せずして、自らを追いやった勢力の成長を促す「触媒」としての役割を果たしてしまったとも言える。

京極高広(高延)の生涯は、中世的権威が崩壊していく過程と、実力のみがものをいう戦国という新時代の非情な論理を、一身に体現している。彼の物語は、華々しい勝者の歴史の影に隠された、無数の敗者たちの苦闘と没落の歴史の一端を我々に伝え、戦国という時代の多層性と複雑さを理解する上で、極めて貴重な事例と言えるだろう。

引用文献

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  9. 戦国一情けない?妹や妻のコネクション使いまくり大名「京極高次」に逆転人生を学ぶ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/146155/
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  36. 関西オフ会!男鬼入谷城学術調査編with中井先生 その1 - みんカラ https://minkara.carview.co.jp/userid/1657605/blog/42311473/
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  46. 京極氏遺跡群 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042774.pdf
  47. 京極高次とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E6%AC%A1