京極高次という武将の生涯を理解するためには、まず彼が背負った「京極氏」という名の重みと、その名が置かれていた戦国乱世における複雑な立場から説き起こす必要がある。京極氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、室町幕府の創設に多大な功績を挙げた京極高氏(佐々木道誉)を祖とする名門であった 1 。その権勢は幕府内でも絶大で、軍事・警察権を司る侍所所司代(長官)に就任できる四つの家柄、「四職家」の一つに数えられるほどであった 2 。
しかし、栄華を誇った名門も、応仁の乱以降の度重なる内紛(京極の乱)と、被官であった浅井氏の台頭という下剋上の波に飲まれ、高次が歴史の表舞台に登場する頃には著しく衰退していた 1 。彼の父は京極高吉、母は京極マリア。この母マリアこそ、北近江に覇を唱えた浅井久政の次女であり、織田信長の妹・お市の方を娶った浅井長政の姉であった 6 。この婚姻は、かつての主家であった京極氏が、実質的な支配者となった浅井氏の権威下に組み込まれたことを象徴するものであった 9 。浅井氏は、名目上の守護として京極氏を形式的に戴くことで、自らの領国支配に正統性を持たせていたのである 10 。
このような複雑な血脈のもと、京極高次は永禄6年(1563年)に生を受けた。その出生地は、京極氏の居城ではなく、浅井氏の本拠である小谷城内の一角、「京極丸」であったと伝えられている 6 。この事実は、高次の生誕時点における京極家の立場を如実に物語っている。名門の嫡子でありながら、かつての家臣の庇護、あるいは監視下で生を受けた彼の人生は、生まれながらにして「名」と「実」の乖離という矛盾を抱えていた。さらに、彼の叔父が浅井長政であることから、後に豊臣家と徳川家を繋ぐ重要な役割を果たす浅井三姉妹(茶々、初、江)とは従兄妹の関係にあたり、この血縁こそが、彼の波乱に満ちた生涯を導く伏線となっていくのである 7 。
高次の幼少期は、京極家の苦境を象徴するように、雌伏の連続であった。元亀元年(1570年)、天下布武を掲げる織田信長が上洛の軍を起こした際、父・高吉はこれへの協力を明確にしなかった。その代わりとして、信長への恭順の証として差し出されたのが、当時わずか7歳の嫡男・高次(幼名・小法師)であった 2 。彼は人質として岐阜の信長のもとへ送られ、少年期を過ごすこととなる。
この人質時代に、彼の両親である高吉とマリアはキリスト教に深く帰依し、安土のセミナリヨで洗礼を受けるに至る 2 。高次自身も洗礼を受ける予定であったが、その直後に父・高吉が急死したため、「キリシタンになったことへの神仏の罰が当たった」と周囲が恐れ、彼の受洗は見送られたという逸話が残っている 2 。天正元年(1573年)に母方の浅井氏が信長によって滅ぼされると、高次は人質の身から解放され、そのまま信長に仕えることとなり、近江国奥島(現在の滋賀県近江八幡市)に5,000石の所領を与えられた 3 。ようやく武将としての第一歩を踏み出したかに見えたが、彼の運命を再び大きく揺るがす事件が起こる。
天正10年(1582年)6月2日、日本史を震撼させた本能寺の変が勃発する。主君・織田信長が家臣・明智光秀の謀反によって斃れるという未曾有の事態に際し、19歳の高次が下した決断は、光秀への加担であった 6 。彼は妹・竜子の夫、すなわち義兄にあたる若狭国の武田元明と共に明智方に与し、光秀の指示を受けて羽柴秀吉の拠点であった長浜城を攻撃、これを占領するに至った 6 。
この決断は、単なる状況判断の誤りや日和見主義として片付けることはできない。そこには、高次が置かれた立場から導き出される、いくつかの合理的な動機が存在したと考えられる。第一に、義兄・武田元明との連携である。若狭守護であった武田氏は信長によって領国を奪われ冷遇されており、信長への強い反感を抱いていた。高次がこの義兄に同調したことは、行動の直接的な契機であった可能性が高い 16 。
第二に、より大局的な視点として、旧勢力の復権への期待が挙げられる。近年の研究では、本能寺の変を、信長によって追放された室町幕府第15代将軍・足利義昭とその旧臣たちによる幕府再興運動の一環と捉える説が有力視されている 18 。京極氏は元来、室町幕府の四職家という最高位の名門であり、父・高吉もかつては義昭の擁立に尽力した経緯があった 8 。高次が光秀の挙兵を、信長の新秩序に対抗する「旧体制の復興」と捉え、それに乗じることで没落した京極家の再興を夢見たとしても不思議ではない。これは、彼の出自に根差した政治的判断であったと解釈できる。
第三に、戦略的な意図である。光秀方の武田元明(若狭)と高次(北近江)が連携して北国街道を封鎖することは、越前に本拠を置く織田家筆頭家老・柴田勝家の南下を阻止する上で極めて重要な意味を持っていた 16 。高次は、この反信長ネットワークの形成において、地理的に重要な役割を担う存在だったのである。
しかし、高次の賭けは早々に裏目に出る。山崎の戦いで光秀が秀吉に討たれると、高次は一転して追われる身となった。義兄・武田元明は秀吉軍に捕らえられ、自害に追い込まれた 3 。進退窮まった高次が次に頼ったのは、叔母であるお市の方が再嫁していた柴田勝家であった。彼は越前へ逃れ、勝家の保護下に入った 6 。
そして天正11年(1583年)、信長の後継者の座を巡り、羽柴秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いが勃発する。高次は当然、柴田方として参戦するが、またしても敗北を喫する。勝家は北ノ庄城で自刃し、高次は二度までも勝者である秀吉に敵対したことで、絶体絶命の窮地に立たされたのである 3 。
二度にわたる敗北で、もはや処刑を待つ身かと思われた高次の運命を劇的に好転させたのは、一人の女性の存在であった。夫・武田元明を失った高次の妹・竜子(たつこ)である。彼女はその美貌を天下人となった豊臣秀吉に見初められ、側室として迎え入れられた。「松の丸殿」として知られる彼女は、秀吉の寵愛を一身に受けた 7 。
この妹・竜子の熱心な嘆願により、秀吉に敵対し続けた高次は奇跡的に罪を許され、その家臣として仕えることが認められたのである 3 。天正12年(1584年)、高次は近江国高島郡に2,500石の所領を与えられ、大名としての再起を果たした。その後も、九州平定や小田原征伐での功により、5,000石、そして1万石(大溝城主)へと着実に加増され、京極家再興への道を歩み始めた 3 。
高次の政治的地位をさらに盤石なものとしたのが、もう一つの重要な縁組であった。天正15年(1587年)、秀吉自身の計らいにより、高次は従妹にあたる浅井長政の次女・初(はつ)を正室に迎えたのである 3 。この婚姻は、単なる縁組に留まらない、多層的な政治的意味合いを持っていた。
第一に、豊臣家との関係強化である。妻・初の姉は、秀吉が最も寵愛し、世継ぎである豊臣秀頼を産んだ側室・淀殿(茶々)であった。これにより、高次は秀吉の義理の弟分という、極めて近い姻戚関係を築くことになった。第二に、来るべき時代を見据えた徳川家との繋がりである。妻・初の妹・江(ごう)は、後に徳川幕府の二代将軍となる徳川秀忠の正室であった。この結果、高次は豊臣と徳川という、当時の二大勢力双方に強力なパイプを持つ、比類なき閨閥を手に入れたのである 7 。
そして第三に、近江支配における正統性の確保である。豊臣政権にとって、近江の旧守護である京極氏と旧領主である浅井氏の血を引く高次が、浅井家の姫を娶るという構図は、豊臣家による近江支配を円滑に進める上で、在地勢力に対する象徴的な意味合いを持っていた 13 。
この強力な閨閥を背景に、高次の出世は加速する。小田原征伐などの功績で加増を重ね、近江八幡山城2万8,000石を経て、文禄4年(1595年)には、交通の要衝である近江大津に6万石の所領を与えられた。官位も従三位・参議(宰相)にまで昇り、「大津宰相」と称される大名へと飛躍を遂げた 6 。
しかし、この目覚ましい栄達は、高次自身の武功や才覚よりも、妹の竜子や妻の初といった女性たちの縁故によるものと世間は見なした 3 。そして、この状況から生まれたのが、「蛍大名」という不名誉なあだ名であった。これは、蛍が自らの力ではなく、尻を光らせて存在を示すことに擬え、「女の尻の光(七光り)で出世した男」と揶揄する、極めて品のない呼称であった 3 。この言葉の初出を同時代の一次史料で確認することは困難であるが、江戸時代に編纂された『常山紀談』などの逸話集を通じて広く知られるようになったと考えられる 26 。
この屈辱的なあだ名は、高次にとって生涯つきまとう大きな劣等感の源泉となったに違いない 21 。彼は常に「実力ではない」という周囲の冷ややかな視線に晒されていた。この評価を何としても覆したい、自らの力で輝きを示したいという強い渇望が、彼の内面に燻っていたことは想像に難くない。そして、その鬱積した思いを爆発させる千載一遇の機会が、天下分け目の関ヶ原の戦いという形で、彼のもとへ訪れるのである。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下を二分する戦へと発展した。この重大な局面において、京極高次の動向は一見すると不可解なものに映る。しかし、その行動の裏には、周到に計算された深謀が隠されていた。
家康が会津の上杉景勝討伐に向かう途上、大津城に立ち寄った際に、高次は家康と会談し、この時点で東軍への加担を密約していたとされる 13 。しかし、三成が挙兵し、周囲を西軍に完全に包囲されると、高次は表向き西軍への参加を表明。その証として、嫡男の熊麿(後の忠高)を人質として大坂城に送り、自身も西軍の北陸方面軍に加わるかのような動きを見せた 13 。
この行動は日和見主義ではなく、極めて高度な戦略であったと評価できる。当初から東軍方として行動する計画でありながら西軍に与するふりをしたのは、第一に、敵中に孤立した大津城であからさまな敵対行動を避け、籠城準備の時間を稼ぐため。第二に、西軍を油断させ、その動向を内側から探り、家康に情報を送り続けるため。そして第三に、万が一西軍が勝利した場合に備え、京極家の存続を図るための保険であった。彼はもはや時流に流されるだけの存在ではなく、自らの置かれた絶望的な状況を逆手に取り、最大限に活用する戦略家として行動していたのである 13 。
9月3日、高次は突如として軍を返し、居城である大津城に帰還。わずか3,000の兵と共に籠城し、東軍の井伊直政に書状を送り、西軍に反旗を翻したことを明確にした 6 。高次の裏切りを知った西軍は、これを看過できなかった。大津城は琵琶湖の水運と東海道・中山道を押さえる交通・戦略上の要衝であり、西軍の補給線を維持するためには絶対に確保しなければならない拠点であったからである 28 。
西軍は、毛利輝元の叔父である毛利元康を総大将とし、当代随一の猛将と謳われた立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門といった歴戦の勇将たちを中核とする大軍を大津城へと差し向けた。その兵力は1万5,000、一説には3万を超えたとも言われ、高次の籠城軍とは圧倒的な戦力差があった 21 。
【表1:大津城の戦いにおける両軍の兵力と主要武将】
軍勢 |
総大将 |
主要武将 |
推定兵力 |
東軍(籠城側) |
京極高次 |
赤尾伊豆守、山田大炊 |
約3,000名 21 |
西軍(攻撃側) |
毛利元康 |
立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門、桑山一晴 |
15,000名以上 21 |
9月7日から始まった攻城戦は熾烈を極めた。圧倒的兵力差にもかかわらず、城方は夜襲を敢行して戦果を挙げるなど、果敢に抵抗した 13 。これに対し西軍は、城の背後にある長等山に陣を敷き、そこから大砲を撃ち込むという当時としては先進的な戦術を用いた。砲弾は天守にも命中し、城内は大きな混乱に見舞われた 13 。高次自身も二か所に槍傷を負いながら先頭に立って奮戦したが、衆寡敵せず、三の丸、二の丸が次々と陥落していった 13 。
もはや落城は時間の問題であったが、高次は降伏勧告を拒み、徹底抗戦の構えを見せる。しかし最終的に、豊臣家の旧主である北政所からの使者・孝蔵主による説得と、敵将である立花宗茂がその武勇を惜しんで一命を保証する書状を送るという chivalrous な計らいを受け、ついに開城を決意する 13 。開城は9月15日の朝。高次は剃髪して僧形の姿となり、高野山へと向かった 13 。
局地戦として見れば、大津城は落城し、高次は降伏した。これは紛れもない敗北である。しかし、歴史を大局的に見た時、この敗北は東軍にとって決定的な勝利をもたらす要因となった。大津城が開城した9月15日は、奇しくも美濃国関ヶ原で、東西両軍の主力部隊が激突した本戦当日であったのである 13 。
高次がわずか3,000の兵で10日間以上も持ちこたえた結果、立花宗茂をはじめとする西軍の精鋭部隊1万5,000は、関ヶ原の決戦に間に合わなかった 2 。もし、西軍最強と評された立花宗茂の部隊が関ヶ原に布陣していれば、戦いの趨勢は大きく変わっていた可能性が極めて高い。高次の籠城は、戦術的には敗北であったが、家康の天下取りを決定づけた「戦略的勝利」であったと言える。この一世一代の働きにより、彼は「蛍大名」という長年の汚名を自らの力で拭い去り、武将としての確固たる評価を勝ち取った。それは、彼の生涯で最も輝かしい瞬間であった。
大津城での功績は、徳川家康によって最大限に評価された。関ヶ原での勝利後、家康はただちに高野山へ向かった高次を呼び戻し、その功を激賞した 13 。論功行賞において、高次には若狭一国八万五千石が与えられ、国持大名として若狭小浜藩の初代藩主となったのである 3 。翌慶長6年(1601年)には、近江国高島郡内に7,100石が加増され、所領は合計9万2,000石に達した 14 。かつては流浪の身であった高次が、ついに一国一城の主として、名門京極家の再興を成し遂げたのである。
若狭に入った高次は、新たな領国経営に精力的に取り組んだ。特に重要だったのが、徳川家康の命を受けて着手した新しい城の建設であった。彼は、若狭守護武田氏以来の山城であった後瀬山城を廃し、日本海に面した雲浜(うんぴん)の地に、新たに小浜城の築城を開始した 6 。この新城は、北川と南川に囲まれた三角州に位置する、防御性に優れた海城(水城)であった。大津城の戦いで、背後の山からの砲撃に苦しめられた経験が、この平地の海城を選択させた一因かもしれない。
同時に、高次は城下町の整備にも力を注いだ。旧城下の武家屋敷を町人地として再編し、新たな街区を設けるなど、近世城下町としての小浜の礎を築いた 6 。これらの大規模な事業は高次の代では完成には至らず、慶長14年(1609年)に彼が47歳で没した後は、嫡男の京極忠高に引き継がれていくこととなる 38 。
高次に対する家康の信任は厚く、生鮭の到来を祝う親密な内容の書状などが現存している 13 。彼の立場は外様大名であったが、その処遇は特別なものであった。その背景には、大津城での功績に加え、妻・初を通じた徳川家との強力な姻戚関係があった。妻の妹・江が将軍秀忠の正室であることから、京極家は準一門ともいえる厚遇を受けたのである 24 。この関係は、高次の死後、息子の忠高が秀忠の四女・初姫を正室に迎えることでさらに強化され、京極家の安泰を保障するものとなった 24 。
高次の生涯は、豊臣政権下では豊臣家との閨閥を、そして徳川の世が到来すると徳川家との閨閥を巧みに利用し、激動の時代を乗り切るための安全保障を築き上げる過程であった。これは単なる幸運ではなく、時代の変化を的確に読み、最も有力な権力者との関係を構築するという、近世大名としての優れた生存戦略であった。大津城での武功という「実」と、閨閥という「名」の両輪によって、高次は京極家が江戸時代を通じて大名として存続するための盤石な基礎を固めることに成功したのである。
京極高次の人物像を深く理解する上で、彼の内面に根差したキリスト教信仰の問題は避けて通れない。彼の信仰の源流は、熱心なキリシタンであった両親、京極高吉と京極マリアに遡る 6 。特に母マリアは、秀吉の側室となった竜子を除くほとんどの子供たちを洗礼に導くなど、一族の信仰に大きな影響を与えた 45 。高次の弟である高知(たかとも)も、キリシタン大名としてその名を知られている 46 。
高次自身の受洗については、少年期に見送られた経緯があるが、成人後に信仰の道へ入ったことを示唆する極めて重要な史料が存在する。それは、イエズス会がローマへ送った年次活動報告書、通称「イエズス会日本年報」である。
明治大学の清水有子氏らの研究によって明らかにされているように、この年報には高次の受洗に関する具体的な記述が見られる 13 。『1601年度日本年報』には、関ヶ原の戦いの後、若狭国主となった高次と、その正室である初が洗礼を受けたと記されている 13 。さらに『1602年度日本年報』においても、「若狭の殿である宰相殿(高次)がキリシタンになった」こと、そして弟・高知の領地である丹後でもキリスト教が広まっていることが報告されている 13 。これらの記述は、高次が若狭統治を開始した直後に、妻と共に正式にキリスト教徒となったことを示す第一級の史料である 6 。
しかし、高次の信仰は公にされることはなかった。その理由もまた、イエズス会日本年報に記されている。『1603年度日本年報』には、高次がキリシタンになった事実を、「公方様(徳川家康)を怒らせるのではないかという不安のために公表していない」とある 13 。
この記述は、当時の高次が置かれていた政治と信仰の狭間での苦悩を浮き彫りにしている。豊臣政権末期から徳川政権初期にかけて、為政者のキリスト教に対する態度は次第に硬化し、禁教へと向かう流れが強まっていた。家康の絶大な信頼を得て一国の大名となった高次にとって、信仰を公にすることは、自らの政治的立場を危うくする極めて高いリスクを伴う行為であった。
徳川家との姻戚関係があったとはいえ、彼の身分はあくまで外様大名である。幕府が禁教政策を強化していく中で、それに抵触する可能性のある行動は、一族の存続そのものを脅かしかねなかった。このため高次は、内面ではキリスト教の信仰を堅持しつつも、外面ではそれを秘匿し、仏教徒として振る舞うという二重の生き方を選択したと考えられる。これは、信仰と家の安泰という二つの重要な価値観の間で葛藤した、当時の多くのキリシタン大名に共通する、現実的かつ苦渋に満ちた処世術であった。
京極高次の生涯は、しばしば「蛍大名」という一つの言葉に集約されてきた。それは、妹や妻といった女性たちの威光によって出世した、幸運だが実力のない武将というイメージである。しかし、彼の生涯を多角的に検証する時、その評価は一面的に過ぎることが明らかになる。
高次は、閨閥という与えられた強力な武器を最大限に活用しつつも、歴史の転換点においては、自らの意思で極めて大胆な決断を下してきた 7 。本能寺の変における明智光秀への加担は、旧勢力の復権に賭けた政治的判断であり、そして何よりも、関ヶ原の戦いにおける大津城籠城は、彼の武将としての覚悟、戦略眼、そして胆力を見事に証明した。あの籠城戦は、単なる幸運や縁故だけで成し遂げられるものではなく、彼の人生における最大の功績であった 2 。
彼の生涯は、実質的に滅亡寸前であった名門・京極氏を、戦国乱世の荒波の中から再興させるための闘いの連続であった 1 。彼と、彼を支えた弟・高知の働きにより、京極家は近世大名としての確固たる地位を築き上げ、江戸時代を通じて讃岐丸亀藩や但馬豊岡藩など、複数の藩として家名を後世に繋ぐことに成功したのである 1 。
京極高次は、戦国から江戸へと移行する激動の時代を、時に時流に乗り、時にそれに抗いながら生き抜いた、極めて現実的な感覚を持つ武将であった。彼の人生は、個人の武勇や才能だけでなく、血縁、婚姻、そして時代の流れを読む力が、一族の生存と繁栄をいかに左右したかを示す、時代の縮図そのものである。「蛍大名」の屈辱を、大津城での一閃の光によって見事に拭い去り、見事に家名を再興したその生涯は、失敗と成功、屈辱と栄光が複雑に織りなす、深みのある人間ドラマとして、今日、改めて評価されるべきであろう 2 。
西暦 |
年号 |
年齢 |
主要な出来事 |
石高・役職 |
1563 |
永禄6 |
1 |
父・京極高吉、母・京極マリアの子として近江小谷城京極丸で誕生。幼名・小法師 6 。 |
|
1570 |
元亀元 |
8 |
織田信長への人質として岐阜へ送られる 2 。 |
|
1573 |
天正元 |
11 |
浅井氏滅亡後、信長に仕え、近江奥島に5,000石を与えられる 3 。 |
5,000石 |
1581 |
天正9 |
19 |
父・高吉が死去 2 。 |
|
1582 |
天正10 |
20 |
本能寺の変で明智光秀に与し、長浜城を攻める。山崎の戦い後、柴田勝家を頼る 6 。 |
|
1583 |
天正11 |
21 |
賤ヶ岳の戦いで敗北し、放浪の身となる 3 。 |
|
1584 |
天正12 |
22 |
妹・竜子が秀吉の側室となり、赦免される。近江高島郡に2,500石を与えられる 3 。 |
2,500石 |
1586 |
天正14 |
24 |
5,000石に加増 3 。 |
5,000石 |
1587 |
天正15 |
25 |
九州平定の功で1万石に加増、大溝城主となる。秀吉の命で、従妹の初(常高院)と結婚 11 。 |
1万石 |
1590 |
天正18 |
28 |
小田原征伐の功により、近江八幡山2万8,000石に加増 11 。 |
2万8,000石 |
1591 |
天正19 |
29 |
従五位下・侍従に任官 13 。 |
侍従 |
1593 |
文禄2 |
31 |
側室・山田氏との間に長男・熊麿(後の忠高)が誕生 6 。 |
|
1595 |
文禄4 |
33 |
近江大津6万石に加増。従四位下・左近衛少将に昇進 6 。 |
6万石、左近衛少将 |
1596 |
文禄5 |
34 |
豊臣姓を下賜され、従三位・参議(宰相)に昇進。「大津宰相」と呼ばれる 6 。 |
参議(宰相) |
1598 |
慶長3 |
36 |
豊臣秀吉が死去 11 。 |
|
1600 |
慶長5 |
38 |
関ヶ原の戦いに際し、東軍に属して大津城に籠城。西軍1万5千を足止めする。戦後、若狭一国8万5,000石を与えられ、小浜藩主となる 11 。 |
8万5,000石 |
1601 |
慶長6 |
39 |
近江高島郡に7,100石を加増される。小浜城の築城を開始 6 。イエズス会日本年報に受洗の記録 13 。 |
9万2,000石 |
1602 |
慶長7 |
40 |
側室・小倉氏との間に次男・高政が誕生 6 。 |
|
1607 |
慶長12 |
45 |
小浜の城下町の町割りを行う 11 。 |
|
1609 |
慶長14 |
47 |
5月3日、死去。享年47。跡を長男・忠高が継ぐ 6 。 |
|