京極高知(きょうごく たかとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将である。一般的に「豊臣家臣として信濃飯田十万石を領し、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦功を挙げた」という経歴で知られるが 1 、この評価は彼の生涯における重要な一面を捉えているに過ぎない。彼の人生は、兄である京極高次(たかつぐ)の存在としばしば対比される。高次は、妹が豊臣秀吉の側室、妻が浅井三姉妹の次女・初という閨閥を最大限に活用し、「蛍大名」と揶揄されながらも若狭一国の大名にまで上り詰めた 2 。これに対し高知は、兄の華やかな政治的立ち回りとは一線を画し、実務能力と戦場での確かな功績を積み重ねることで、着実にその地位を築き上げた、いわば実力派の武将であった。
本報告書は、京極高知という人物を、単なる一武将としてではなく、複数の視点から立体的に解明することを目的とする。第一に、室町幕府の四職家という名門の血を引く者として、いかにして凋落した家名を再興したかという「再興者」としての側面。第二に、豊臣政権から徳川幕藩体制へと移行する激動の時代を、いかにして的確な判断で生き抜いたかという「戦略家」としての側面。第三に、信濃飯田、そして丹後宮津において、城下町の整備や検地、治水事業などを通じて領国経営に確かな手腕を発揮した「実務家」としての側面。そして第四に、母・京極マリアの影響を受け、キリシタン大名として信仰と武家社会の論理との間で生きた「信仰者」としての側面である。これらの多角的な分析を通じて、兄・高次の影に隠れがちであった京極高知の実像を、詳細かつ徹底的に描き出すものである。
京極高知の生涯と行動原理を理解するためには、彼が背負った「京極」という家名の歴史的背景と、彼が生まれた戦国乱世の状況を把握することが不可欠である。
京極氏は、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む、鎌倉時代以来の名門武家である 4 。その祖は、近江源氏の棟梁・佐々木信綱の四男・氏信(うじのぶ)に遡る。氏信が京都の京極高辻(きょうごくたかつじ)に邸宅を構えたことから、「京極」を家名とした 4 。
京極家の名を天下に轟かせたのは、南北朝時代の当主・京極高氏(たかうじ)、法名・道誉(どうよ)である 6 。婆娑羅大名として知られる道誉は、足利尊氏の幕府創立に多大な貢献をし、その功績により近江のほか出雲、隠岐、飛騨など数カ国の守護職を兼任する有力守護大名へと成長した 4 。その子孫は室町幕府において、侍所(さむらいどころ)の長官(所司)に就任できる四つの家柄、「四職家(ししきけ)」の一つに数えられるに至り、幕政に重きをなした 1 。この輝かしい歴史こそ、高知が自らのアイデンティティの根幹とした「名門」としての誇りの源泉であった。彼の生涯を通じた行動の根底には、この失われた栄光を回復せんとする強い動機が存在したと考えられる。
室町後期の応仁の乱(1467-1477)を境に、京極家の権勢には陰りが見え始める。度重なる家督争いや一族内の紛争により、領国は守護代や国人衆に蚕食され、その勢力は著しく衰退した 5 。
特に京極家にとって決定的だったのは、本拠地である北近江における、家臣・浅井氏の台頭であった。浅井亮政(すけまさ)らは京極家の内紛に乗じて勢力を拡大し、主家を凌駕する存在へと成長する 2 。高知が生まれる頃には、京極家はかつての守護大名としての実権を完全に失い、浅井氏の庇護下でかろうじて家名を保つだけの、いわば傀儡(かいらい)と化していた 14 。高知の父・高吉は浅井久政の娘(京極マリア)を妻に迎え、高知自身も浅井氏の居城である小谷城内で生を受けるという、主従が逆転した屈辱的な状況にあったのである 13 。この「過去の栄光」と「現在の屈辱」という強烈な二重性は、高次・高知兄弟の現実的な生存戦略を形成する土壌となり、いかなる手段を用いてでも家名を再興するという強固な意志を育んだと考えられる。
京極高知の父・高吉(たかよし、1504-1581)は、戦国期の動乱の中で京極家の当主として苦難の道を歩んだ 12 。浅井氏に従属する立場にありながらも、永禄の変で殺害された13代将軍・足利義輝の弟・義昭の擁立に尽力するなど、名門としての矜持を失わなかった 16 。しかし、後に義昭と織田信長が対立すると、高吉は政治の表舞台から身を引き、嫡男・高次を信長への人質として差し出すことで、家の存続を図った 15 。
一方、母・京極マリア(?-1618)は、浅井久政の娘であり、浅井長政の姉にあたる人物である 13 。彼女は天正9年(1581年)、夫・高吉と共に安土城下のセミナリヨ(小神学校)でオルガンティノ神父らの説教を40日間にわたって聴き、洗礼を受けた熱心なキリシタンであった 16 。しかし、洗礼を受けた数日後に父・高吉が急死したため、世の人々はこれを「キリシタンになったことによる仏罰だ」と噂したという 15 。この出来事は、信仰を持つことの社会的リスクを、年若い高知に強く印象付けたであろう。父が背負った名門再興の悲願と、母が貫いた信仰の道は、高知のその後の人生に多大な影響を与え、彼の複雑な人格を形成する二つの大きな要素となった。
表1:京極高知関連家系図
関係 |
人物名 |
備考 |
祖父 |
京極高清 |
室町後期の近江守護。家督争いで家中を混乱させた。 |
父 |
京極高吉 (1504-1581) |
戦国期の当主。浅井氏に従属。キリシタン。 |
母 |
京極マリア (?-1618) |
浅井久政の娘。熱心なキリシタン。 |
兄 |
京極高次 (1563-1609) |
若狭小浜藩初代藩主。正室は浅井長政の次女・初(常高院)。 |
姉 |
竜子(松の丸殿) |
武田元明室、のち豊臣秀吉側室。 |
姉 |
マグダレナ |
朽木宣綱室。その子が後の京極高通。 |
本人 |
京極高知 (1572-1622) |
丹後宮津藩初代藩主。 |
正室 |
津田信澄の娘 |
織田信長の甥・信澄の娘。 |
継室 |
毛利秀頼の娘 |
信濃飯田城主・毛利秀頼の娘。 |
嫡男 |
京極高広 (1599-1677) |
宮津藩2代藩主。母は側室・惣持院。 |
三男 |
京極高三 (1607-1636) |
丹後田辺藩初代藩主。母は側室・竹原氏。 |
五男 |
田中満吉 (1616-1662) |
幕府旗本。母は側室・各務氏。後に京極姓に復す。 |
娘 |
常子 |
八条宮智仁親王妃。桂離宮を完成させた智忠親王の母。 |
養子 |
京極高通 (1603-1666) |
甥(姉マグダレナの子)であり、娘婿。峰山藩初代藩主。 |
1
凋落した京極家の次男として生まれた高知は、兄・高次とは異なる道筋で、豊臣政権下で着実にその地位を築いていく。彼の前半生は、武功と実務能力によって自らの価値を証明し、大名へと駆け上がる過程であった。
高知は早くから豊臣秀吉に仕え、その才能を認められていた 1 。兄・高次が本能寺の変後に明智光秀に与したことで秀吉に追われる身となったのに対し 10 、高知は秀吉の直臣としてキャリアをスタートさせた。その功績により、秀吉から「羽柴」の姓を名乗ることを許されている 1 。
天正19年(1591年)、近江国蒲生郡内に5,000石を与えられたのが、彼の領主としての第一歩であった 20 。転機が訪れたのは文禄2年(1593年)、彼の妻の父(義父)であった信濃飯田城主・毛利秀頼が死去した時である。秀頼には実子・秀秋がいたにもかかわらず、高知はその遺領である信濃伊那郡6万石を継承し、飯田城主となることを秀吉に認められた 1 。これは、豊臣政権が高知の実務能力を高く評価していた証左と言える。
飯田城主となった高知は、朝廷から従四位下・侍従に叙任され、「羽柴伊奈侍従」と称されるようになる 1 。豊臣政権は、大名たちを朝廷の官位体系に組み込むことで、その支配秩序を確立しようとした 23 。高知が侍従に任じられたことは、彼が単なる地方領主ではなく、豊臣政権の公的な支配構造の一翼を担う「公家成大名」として正式に位置づけられたことを意味する 22 。これは、下剋上によって名ばかりとなっていた京極家が、新たな権威の下で公的な地位を回復した画期的な出来事であった。翌文禄3年(1594年)には、朝鮮出兵における戦功などにより、所領は10万石に加増され、高知は名実ともに大々名としての地位を確立した 1 。
京極高知の飯田統治は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦後に丹後へ移封されるまでの約7年間という短い期間であった 22 。しかし、この間に彼が実施した政策は、近世飯田の町の基礎を築く上で極めて重要な意味を持った。彼は単なる武人ではなく、優れた行政手腕を持つ実務家としての側面をこの地で遺憾なく発揮した。
彼の治績の中でも特筆すべきは、城下町の整備である。高知は家臣の光増右衛門(みつますうえもん)を奉行に任命し、当時としては先進的な都市計画を推進した 26 。京都の町並みを模範とし、碁盤目状に街路を整備したと伝えられており、この町割りは後の「信州の小京都」と称される飯田の美しい景観の原型となった 26 。
また、高知は豊臣政権の統一政策の一環である太閤検地を伊那谷で実施し、土地の生産力を石高という統一基準で把握する近世的な支配体制を導入した 30 。長野県立歴史館には、高知が文禄4年(1595年)に大草郷の香坂右近助という土豪に宛てて発給した黒印状が所蔵されている。この文書には村高と年貢量が明記されており、彼が石高制に基づいて具体的な徴税を行っていた一次史料として非常に貴重である 22 。この黒印状に使われた印章が「福」の一字であったことは、彼の統治に対する吉兆を願う姿勢がうかがえ興味深い 22 。
さらに、天竜川の治水事業にも取り組み、家臣の松村理兵衛に堤防を築かせたという逸話も残っており 30 、領民の生活安定にも配慮した領国経営を行っていたことがわかる。これらの実績は、兄・高次が政治的な閨閥戦略に長けていたのとは対照的に、高知が地道な内政手腕によって家を支える「実務家」であったことを明確に示している。
京極高知の統治と思想を語る上で、彼のキリスト教信仰は欠かせない要素である。母・京極マリアの深い信仰の影響を受け、高知自身も洗礼名「ジョアン」を持つキリシタン大名であった 20 。
彼が飯田城主であった時代は、豊臣秀吉による天正15年(1587年)のバテレン追放令以降、キリスト教に対する圧力が強まっていた時期にあたる 14 。多くの大名が信仰を棄てるか、あるいは潜伏せざるを得ない状況下で、高知は自身の領内においてキリスト教の布教を公然と許可した 1 。これは、単に時流に乗っただけの信仰ではなく、母から受け継いだ確固たる信念に基づいていたことを示唆している。彼のこの姿勢は、他の武将にも影響を与え、例えば阿波徳島藩主の蜂須賀家政は、高知の影響でキリスト教に関心を持ち、後に受洗したとイエズス会の記録に残されている 35 。
高知の布教許可は、個人的な信仰心の発露であると同時に、南蛮貿易がもたらす経済的利益や、ヨーロッパの進んだ知識・技術への関心といった、大名としての戦略的判断が含まれていた可能性も否定できない。いずれにせよ、政治的圧力と個人の信仰が複雑に交錯する時代にあって、自らの権力を用いて信仰の場を確保しようとした彼の姿勢は、その人物像を理解する上で非常に重要である。
豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を再び流動化させた。京極高知にとって、この天下分け目の動乱は、家の運命を賭けた最大の岐路であった。彼と兄・高次が取った行動は、京極家の存続をかけた巧妙な戦略の表れであった。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、豊臣政権内部では五大老筆頭の徳川家康が急速に影響力を強めていった。多くの豊臣恩顧の大名が去就に迷う中、京極兄弟は早くから家康への接近を図った 1 。これは、豊臣家への恩義よりも、次代の天下人としての家康の実力を見抜き、家の安泰を最優先するという極めて現実的な判断であった。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐の軍を起こすと、高知はこれに従軍し、家康と共に関東へ下った 1 。この行動は、来るべき決戦において徳川方として戦うという明確な意思表示であった。
家康らが会津へ向かった隙を突き、石田三成らが西軍を組織して挙兵すると、高知は東軍の一員としてすぐさま西上を開始した。彼は、関ヶ原の前哨戦として極めて重要な意味を持つ岐阜城攻めに、福島正則らと共に参加する。この戦いで高知の軍勢は目覚ましい働きを見せ、城の搦手(からめて)から攻め入り、「一番乗り」の武功を挙げたと記録されている 1 。この功績は、彼の忠誠心と軍事能力を家康に強く印象づける決定的なものとなった。
同年9月15日の関ヶ原の本戦において、高知は藤堂高虎の部隊と共に東軍の左翼、中山道沿いの重要な位置に布陣した 36 。開戦と同時に、正面に布陣する西軍・大谷吉継隊と激突。大谷隊に属する猛将・平塚為広らと死闘を繰り広げ、東軍の勝利に大きく貢献した 1 。兄・高次が後方での戦略的役割を担ったのに対し、高知は最前線で戦うという直接的な武功によって、徳川方としての立場を確固たるものにしたのである。
この間、兄の高次は近江大津城において、一見不可解な行動を取っていた。当初は西軍に味方する姿勢を見せながらも、土壇場で東軍への加担を表明し、自らの居城である大津城に3,000の兵で籠城したのである 15 。
大津城は京から北陸へ抜ける交通の要衝であり、西軍はこの城を看過できなかった。毛利元康や立花宗茂らが率いる1万5,000もの大軍が大津城の包囲にかかり、結果としてこの部隊は関ヶ原の本戦に間に合わなかった 10 。高次の籠城はわずか十数日で降伏に終わったものの、西軍の主力を戦場から引き離したその戦略的価値は計り知れないものであった。
降伏後、高次は剃髪して高野山に上ったが 10 、戦後、家康はその功績を高く評価。弟・高知らの説得もあり、高次は高野山を下り、若狭一国を与えられることになった 1 。
弟・高知が東軍の主力として最前線で戦い、兄・高次が西軍の進軍を妨害するというこの一連の動きは、どちらが勝利しても京極家が存続できるよう周到に計算された、見事な生存戦略であったと分析できる。高知の直接的な武功と、高次の間接的な戦略的貢献は、まさに車の両輪として機能し、京極家を戦後の勝ち組へと導いたのである。この結果、戦後の論功行賞において、兄の高次は若狭一国約9万石 10 、弟の高知は丹後一国12万3千石 1 を与えられた。弟が兄を上回る恩賞を得た事実は、徳川家康が、政治的な駆け引き以上に、戦場における明白な武功を高く評価したことを物語っており、高知に対する信頼の厚さを示すものと言えよう。
関ヶ原の戦いを経て、京極高知は信濃飯田十万石から丹後一国十二万三千石の国持大名へと飛躍を遂げた。これは、戦国時代を通じて凋落した京極家が、近世大名として完全に再興を果たした瞬間であった。丹後に入国した高知は、信濃での経験を活かし、藩政の礎を精力的に築き上げていく。
慶長5年(1600年)の関ヶ原における戦功により、京極高知は徳川家康から丹後一国、12万3,200石の領地を与えられた 20 。これにより彼は、特定の郡だけでなく一国を支配する「国持大名」の格式を得て、「京極丹後守」を称することが許された 1 。兄・高次が若狭一国を得たことと合わせ、京極家は兄弟で二つの国を領有する大大名家として、かつての栄光を取り戻したのである。
当初、高知は前領主・細川氏の隠居城であった田辺城(現在の舞鶴市)に入城した 1 。しかし、丹後国の政治・経済の中心地としてよりふさわしい宮津に拠点を移すことを決意。晩年には、丹後国の府城として宮津城を新たな本拠地とした 1 。
宮津藩初代藩主となった高知は、多岐にわたる分野で藩政の基盤固めを行った。その手腕は、彼が優れた統治者であったことを雄弁に物語っている。
これらの政策は、信濃飯田での統治経験が活かされたものであり、高知が軍事だけでなく、政治・経済・土木といった多方面にわたる総合的な統治能力を備えた「国持大名」であったことを示している。
徳川政権下で大名としての地位を固める一方、高知は家の権威をさらに高めるための布石を打っていた。それが、皇室との姻戚関係の構築である。
高知の娘・常子(つねこ)は、後陽成天皇の弟宮であり、当代随一の文化人として、また桂離宮の創建者として名高い八条宮智仁(はちじょうのみや としひと)親王に嫁いだ 1 。この婚姻は、京極家が単なる武家にとどまらず、公家社会の頂点である皇室とも繋がりを持つことを意味した。二人の間には、後に八条宮家を継承し、桂離宮を完成させることになる智忠(としただ)親王が生まれている 1 。
武家の棟梁である徳川将軍家と姻戚関係を結んだ兄・高次に対し、弟・高知は皇室と縁戚関係を結ぶ。この二重の婚姻政策により、京極家は武家社会と公家社会の両方においてその地位を盤石なものとした。これは、京極家が元々有していた「名門」という家格を最大限に活用し、新たな時代における家の安泰を確保しようとする、極めて高度な政治戦略であったと言えよう。
元和8年(1622年)8月12日、京極高知は51年の生涯を閉じた 18 。彼の死後、その遺産である丹後一国の領地は、彼の遺言によって三つに分割され、それぞれの子と養子に継承された。この決断は、その後の京極家の運命を大きく左右することになる。
高知が築き上げた丹後12万3千石の領地は、一人の後継者が継承するのではなく、以下の三家に分知された 1 。
国持大名として得た広大な領地を分割相続させたことは、一見すると家の勢力を削ぐ行為にも見える。しかし、これは江戸時代初期の大名家が常に直面していた「改易」という最大のリスクを考慮した、極めて現実的な判断であった可能性が高い。一つの家が何らかの理由で断絶しても、他の家が存続すれば京極の血脈と家臣団を守ることができる。この「リスク分散」とも言える高知の深慮は、結果的に京極家の永続に大きく貢献することになった。
高知の遺領を継いだ三つの藩は、それぞれ異なる道を歩んだ。
結果として、高知の分知という決断は、宗家の改易という危機を乗り越え、複数の家系を通じて京極家の血脈と歴史を後世に伝えることに成功した。特に、丹後の地に根を下ろし続けた峰山藩の安定した繁栄は、高知の先見の明を示す好例と言えるだろう。
京極高知の生涯を俯瞰するとき、彼は戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代を、卓越した現実感覚と先見性をもって生き抜いた、極めて有能な武将であり、統治者であったと評価できる。
兄・高次が「蛍大名」と揶揄されながらも、巧みな閨閥戦略と政治的嗅覚で家の地位を回復させた「閨閥の政治家」であったとすれば、弟・高知は、戦場での武功と領国経営における実務能力を着実に積み上げることで家を支えた「実務の戦略家」であった 3 。両者は異なるアプローチを取りながらも、凋落した名門・京極家を再興するという共通の目標に向かって邁進した、まさに車の両輪であったと言えよう 9 。
高知の功績は、単に武功を挙げて領地を得たことに留まらない。彼は、室町の名門という「過去の遺産」を、豊臣政権、そして徳川幕藩体制という新たな時代の秩序の中に巧みに適応させ、近世大名家として「未来へ継承」させることに成功した「乱世の継承者」であった。信濃飯田における近世的城下町の建設、丹後一国に及ぶ総検地の断行と藩政の確立、そして皇室との姻戚関係の構築に至るまで、その施策は常に長期的かつ戦略的な視点に貫かれている。
彼の生涯には、派手な逸話や劇的な伝説は少ないかもしれない。しかし、時代の変化を的確に読み、軍事、政治、行政、外交の各分野で堅実に成果を上げ、一族に最大の利益をもたらした。その生涯は、華やかさよりも堅実さを、投機よりも着実な実績を重んじる、優れたリアリストの姿を我々に示している。激動の時代を生き抜き、家名を後世に伝えるという武将の責務を全うした京極高知は、もっと評価されるべき人物の一人である。
表2:京極高知 略年表
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
関連石高・官位 |
出典 |
1572年 (元亀3年) |
1歳 |
近江国小谷にて、京極高吉の次男として誕生。初名は生双。 |
- |
18 |
1591年 (天正19年) |
20歳 |
豊臣秀吉より近江国蒲生郡内に5,000石を与えられる。 |
5,000石 |
20 |
1593年 (文禄2年) |
22歳 |
義父・毛利秀頼の遺領を継ぎ、信濃国飯田城主となる。従四位下・侍従に任官、「羽柴伊奈侍従」と称される。 |
6万石、従四位下・侍従 |
1 |
1594年 (文禄3年) |
23歳 |
戦功により加増される。 |
10万石 |
1 |
1596年 (慶長元年) |
25歳 |
キリシタンの洗礼を受ける。洗礼名ジョアン。 |
- |
17 |
1600年 (慶長5年) |
29歳 |
関ヶ原の戦い 。東軍に属す。8月、岐阜城攻めで一番乗りの功を挙げる。9月、本戦で大谷吉継隊と交戦。戦後、丹後一国を与えられる。 |
12万3,000石、丹後守 |
1 |
1602年 (慶長7年) |
31歳 |
丹後国全域の検地を実施する。 |
- |
48 |
1606年 (慶長11年) |
35歳 |
宮津に菩提寺として大頂寺を建立。 |
- |
45 |
(時期不詳) |
- |
娘・常子が八条宮智仁親王に嫁ぐ。 |
- |
1 |
1614-15年 (慶長19-元和元年) |
43-44歳 |
大坂冬の陣・夏の陣に徳川方として参陣。 |
- |
1 |
1622年 (元和8年) |
51歳 |
8月12日、京都にて死去。遺領は子と養子に分知される。 |
- |
18 |