日本の戦国時代、数多の武将が天下を目指し、あるいは自らの領地と一族の存続を賭けて激しい戦いを繰り広げた。その多くは歴史の表舞台で華々しく語られるが、一方で、地方の動乱の中で複雑な政治力学を生き抜き、時代の変遷に巧みに適応した知られざる驍将たちも存在する。出羽国由利郡(現在の秋田県南西部)にその名を刻んだ仁賀保挙誠(にかほ きよしげ)は、まさにその代表格と言えるだろう。「由利十二党の一員で、最上氏と争い、関ヶ原合戦後に一度移封されたものの、後に旧領に復帰した」という彼の経歴は、一見すると地方の小領主が経験した数奇な運命の一つに過ぎないように見えるかもしれない。
しかし、その簡潔な概要の背後には、国人領主から一万石の大名へ、そして徳川幕府の直参である旗本の祖へという、戦国末期から江戸初期にかけての武士としては極めて稀有なキャリアパスを辿った、一人の男の波乱万丈の生涯が隠されている。彼の人生は、出自の謎、同族との宿命的な対立、天下分け目の戦いにおける武功とそれに続く理不尽な流転、そして歴史の偶然と必然が交差する中での奇跡的な復活劇に彩られている。
本報告書は、仁賀保挙誠(文書上では光誠、またの名を挙晴)という一人の武将の生涯を、断片的な情報の集合体としてではなく、一つの連続した物語として再構築することを目的とする。彼の出自と血脈、由利郡という特異な政治空間での生存戦略、権力の拠点とした城郭の変遷、天下の動乱との関わり、そして後世に遺した歴史的・民俗的な影響までを多角的に掘り下げることで、戦国から江戸へと移行する激動の時代を、一人の国人領主がいかにして生き抜いたのか、その実像に迫るものである。
仁賀保挙誠の生涯を理解する上で、その出自と彼が属した仁賀保一族の背景は不可欠な要素である。彼は単なる土着の豪族ではなく、由緒ある家柄と、由利郡内の複雑な政治的力学を体現する存在であった。
仁賀保氏のルーツは、遠く信濃国(現在の長野県)に遡る。彼らは清和源氏の名門、小笠原氏の流れを汲む大井氏の末裔とされている 1 。鎌倉時代初期、大井氏の祖である大井朝光が、叔母にあたる大弐局から出羽国由利郡を相続したことが、一族とこの地との長い関わりの始まりであった 3 。当初、大井氏は本貫の地である信濃大井荘から地頭代を派遣して由利郡を支配していたが、室町時代の応仁元年(1467年)、大井伯耆守友挙(ともたか)が信濃から直接由利郡に入部し、仁賀保の地に拠点を構えた。これが、在地領主としての仁賀保氏の直接的な始まりである 1 。この由緒ある家系の出自は、戦国時代において仁賀保氏が由利郡の国人領主たちの中で中心的な役割を果たす上での権威の源泉となった。
本報告書の主役である仁賀保挙誠は、この仁賀保氏の血を直接引いて生まれたわけではない。彼の出自は、由利郡内の勢力図を象徴する、より複雑な背景を持つ。挙誠の実父は、当時、由利十二党の中でも最大級の勢力を誇った赤尾津(あかおつ)氏の当主、赤尾津光政(または道俊)であった 3 。赤尾津氏は日本海交易の要衝である赤尾津港を領し、その経済力を背景に大きな力を持っていた。後の豊臣秀吉による奥州仕置の際には、由利地方で最大となる約4,300石の所領を安堵されたと推定されるほどの実力者であった 7 。
この赤尾津氏の御曹司が、同族である仁賀保氏の当主・仁賀保挙晴(きよはる)の養子となったのである 6 。この養子縁組は、単なる家族間の出来事として片付けることはできない。当時、仁賀保氏は同じ大井氏の血を引く宿敵・矢島氏との長年にわたる抗争により、当主が四代続けて討ち死にするという深刻な打撃を受け、一族は弱体化の危機に瀕していた 7 。このような状況下で、由利郡最強の赤尾津氏から、その勢力回復を目指す仁賀保氏へと養子が送られたことは、両家の連携を強固にし、共通の敵である矢島氏や周辺の大名勢力に対抗するための、極めて高度な戦略的結合であったと解釈できる。戦国時代の武家社会において、養子縁組がいかに重要な政治・軍事同盟の手段であったかを示す好例と言えよう。
仁賀保挙誠の名は、複数のバリエーションで伝えられており、その変遷は彼と彼の一族が置かれた時代の変化を映し出している。各種系図や後世の記録では「挙誠(きよしげ、あるいは『寛政重修諸家譜』では「たかのぶ」)」として知られるが、同時代の文書上で確認される彼の実名は「光誠(みつしげ)」であった 3 。
「光」の字は、仁賀保氏の祖先とされる大井光長などにも見られ、一族が代々用いる通字であった可能性が指摘されている 3 。ではなぜ、後世に「挙誠」という名が一般的になったのか。その理由は、彼の次男である誠政の行動にあると考えられている。江戸時代に入り、仁賀保家が徳川幕府の旗本となると、主君である三代将軍・徳川家光の諱(いみな、実名)である「光」の字を、家臣が父の名に用いることを憚った。そこで誠政は、父の名である「光誠」の「光」を、仁賀保氏の通字として誤伝されていた「挙」の字に置き換えたのである 3 。
この名前の変更は、一見些細な事柄に見えるが、その背景には大きな意味が隠されている。それは、戦国の独立領主であった仁賀保家が、徳川の泰平の世において、幕藩体制に組み込まれた忠実な家臣へと、そのアイデンティティを完全に移行させたことの証左に他ならない。名前という文化的な象徴を通じて、主君への絶対的な忠誠と敬意が表明されたのである。
氏族 |
人物名 |
関係性・役職 |
備考 |
仁賀保氏(大井氏) |
大井友挙 |
仁賀保氏の祖 |
応仁元年(1467年)、信濃より由利郡に入部 1 |
|
仁賀保挙晴 |
仁賀保氏当主、挙誠の養父 |
宿敵・矢島氏との抗争で一族が疲弊 9 |
赤尾津氏 |
赤尾津光政(道俊) |
赤尾津氏当主、挙誠の実父 |
由利十二党最大勢力。日本海側の要港を支配 6 |
仁賀保挙誠 |
仁賀保挙誠(光誠) |
本報告書の主人公 |
赤尾津氏から仁賀保氏へ養子に入る。両家の戦略的結合を象徴 6 |
表1:仁賀保挙誠の出自と家系
仁賀保挙誠が生きた出羽国由利郡は、北に安東(秋田)氏、南に大宝寺(武藤)氏、東に小野寺氏、そして山形盆地の最上氏という、より強大な戦国大名に四方を囲まれた特異な地域であった。この地で彼がどのようにして勢力を伸長し、生き残りを図ったのかを探ることは、戦国地方史のダイナミズムを理解する上で極めて重要である。
戦国時代の由利郡には、一郡を単独で支配するほどの強力な戦国大名は存在しなかった。その代わりに、地域の国人領主たちが状況に応じて連合し、あるいは互いに争うという状態が続いていた。この国人領主たちの緩やかな連合体が「由利十二党(ゆりじゅうにとう)」、あるいは「由利十二頭」と呼ばれるものである 10 。
これは恒久的な政治組織というよりは、外部の強大な勢力に対抗するために結ばれた「一揆契約」に基づく軍事同盟の性格が強かった。その構成員は史料によって若干の異同があるが、主として仁賀保、矢島、赤尾津(赤宇津)、子吉、打越、石沢、岩谷(岩屋)、潟保、鮎川、下村、玉米、滝沢といった、由利郡内の在地名を氏とした豪族たちであった 7 。彼らは、周辺大名の勢力均衡の狭間で、巧みな外交と軍事行動によって自らの独立を保とうと離合集散を繰り返したのである。
由利十二党は一枚岩ではなく、その内部では地域の主導権を巡る激しい争いが絶えなかった。その中でも最も深刻かつ長期にわたったのが、仁賀保氏と矢島氏との対立である。皮肉なことに、両氏はともに信濃大井氏の系譜を引く同族でありながら、その関係は宿敵と呼ぶにふさわしいものであった 7 。
この対立は、単なる一族内の内紛に留まらなかった。矢島氏は内陸の雄・小野寺氏と、一方で仁賀保氏は庄内の大宝寺氏や、日本海交易で繋がりを持つ滝沢氏と連携するなど、彼らの争いは周辺大名の勢力争いを反映した代理戦争の様相を呈していた 7 。前述の通り、この抗争の中で仁賀保氏は四代の当主を失うという甚大な被害を被っており、挙誠が赤尾津氏から養子に入った背景には、この矢島氏との対立があった 9 。
挙誠の時代、この長年の抗争はついに終結を迎える。軍記物によれば、挙誠は宿敵・矢島氏を滅ぼし、その所領を併合することで、由利郡南部における覇権を確立した 5 。ただし、この戦いは豊臣秀吉が発令した惣無事令(私闘禁止令)に抵触する可能性があり、実際には奥州仕置に先立つ天正16年(1588年)頃の出来事ではないか、という有力な見解も存在する 7 。いずれにせよ、挙誠がこの宿命的な対立に終止符を打ち、仁賀保氏を由利十二党の筆頭格へと押し上げたことは間違いない。
地方での勢力争いに明け暮れる一方で、仁賀保挙誠は天下の趨勢を見誤らなかった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして小田原北条氏を攻めた際、挙誠は他の多くの東北の武将と同様に小田原へ参陣した 5 。この行動により、彼は秀吉から由利郡における領主としての地位を正式に認められ、3,716石の所領を安堵された 7 。これは、由利十二党の中では実家の赤尾津氏に次ぐ規模であり、彼の政治的地位を不動のものとした。
中央政権から公認された領主となった挙誠は、その後も天下人への奉公を忠実に果たした。天正19年(1591年)には、奥州仕置に反抗した九戸政実の乱の鎮圧軍に加わり、『奥羽永慶軍記』によれば大功を立てたとされる 3 。さらに、その後の文禄の役(朝鮮出兵)では、自ら兵を率いて肥前名護屋城(佐賀県唐津市)まで赴き、駐屯軍の一員として課された役務をこなした 3 。
由利郡という、複数の大国がせめぎ合う地政学的な緩衝地帯において、挙誠の取った戦略は極めて合理的であった。彼は、地域内の力学を巧みに利用して宿敵を制圧する一方で、中央に誕生した新たな権威(豊臣政権)にいち早く臣従することで、自らの地位を法的に保証させたのである。これは、彼が単なる武勇に優れた武将であるだけでなく、天下の情勢を的確に読むことのできる、優れた政治感覚の持ち主であったことを物語っている。
仁賀保挙誠とその一族が拠とした城郭や陣屋の変遷は、彼らの社会的地位と役割が、戦国の軍事領主から近世の藩主へ、そして幕府の行政官僚へと、いかに移り変わっていったかを雄弁に物語る。その軌跡は、まさに時代の変化そのものを体現している。
戦国時代を通じて仁賀保氏の本拠地であり続けたのが、標高約200mの山上に築かれた山城「山根館(やまねだて)」である 13 。応仁2年(1468年)に仁賀保氏の祖・大井友挙が修築して以来、挙誠が常陸国へ移封されるまでの7代135年間にわたり、一族の盛衰を見守り続けた 1 。
この山根館は、秋田県指定史跡として今日にその姿を伝え、近年の発掘調査によって驚くべき実像が明らかになっている。特筆すべきは、城の主要部である主郭跡から200個を超える礎石が発見されたことである 1 。これは、通常は掘立柱建物が一般的である中世の山城において、瓦葺きであった可能性も指摘される、さながら御殿のような大規模な礎石建ての建物が少なくとも4棟存在したことを示唆している 5 。山城でありながら、庭園の跡まで確認されており、単なる軍事拠点ではなく、領主の威厳を示す政治・文化の中心地としての機能も備えていたことがわかる 9 。この先進的な城郭構造は、仁賀保氏が地方の小領主でありながらも、高い経済力と文化水準を保持していたことの何よりの証拠である。また、城内を「大手道」と「塩の道」と呼ばれる二つの道が貫いていたことは、この地が軍事のみならず、経済活動の結節点でもあったことを示している 1 。
慶長7年(1602年)の移封を経て、元和9年(1623年)に一万石の大名として奇跡の旧領復帰を果たした挙誠は、新たな拠点として、かつての山城である山根館を選ばなかった。彼が政庁を置いたのは、日本海に面した象潟(きさかた)の地に築いた「塩越城」であった 8 。
この立地の選定は、極めて象徴的である。防御を主眼とした山城から、平地の海辺の城へと拠点を移したことは、彼の統治者としての意識の変化を明確に示している。戦乱の時代が終わり、徳川の泰平の世が到来した中で、もはや山城の堅固な守りは最重要課題ではなくなった。むしろ、移封先の常陸国で得た経験を活かし、日本海交易を視野に入れた領国経営、すなわち経済的繁栄こそが新たな目標となったのである 14 。山から海へという拠点の移動は、仁賀保氏が戦国の「軍事領主」から、経済を重視する近世の「藩主」へと脱皮を遂げた瞬間であった。
挙誠の死後、仁賀保家は一万石の所領を三人の息子に分知したことで大名ではなくなり、それぞれが将軍直属の旗本となった。宗家が早々に断絶した後も、次男・誠政の二千石家と三男・誠次の千石家は存続し、幕末まで由利の地を治めた 8 。
江戸に常住する旗本となった彼らが、遠隔地である領地を支配するために、かつての平沢館跡に築いたのが「仁賀保陣屋」である 16 。これは、もはや城郭ではなく、あくまで領地の年貢徴収や訴訟などを処理するための「役所」であった。古図によれば、陣屋は石垣や堀を備えていたものの、その規模は小さく、内部には米蔵や役人の詰所などが置かれていた 9 。この二つの旗本家は、この陣屋を共同の政務拠点として使用し、領地を支配した 16 。彼らの支配地は一円的ではなく、幕府の直轄領や同じく由利郡に所領を持つ矢島藩(生駒氏)の領地と複雑に入り組む「相給(あいきゅう)支配」という形態をとっていた 17 。
山根館、塩越城、そして仁賀保陣屋。この三つの拠点の性格の変遷は、仁賀保氏が戦国の世を生きる独立領主から、幕藩体制という巨大な統治機構に組み込まれた行政官僚へと、その役割とアイデンティティを時代に適応させながら変化させていった過程を見事に映し出している。
仁賀保挙誠の武将としてのキャリアは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いと、それに連動して勃発した「慶長出羽合戦」において頂点を迎える。しかし、その輝かしい戦功は、皮肉にも彼を不遇の運命へと導く序曲となった。
天下分け目の関ヶ原の戦いに際し、挙誠は迷わず徳川家康率いる東軍に与した 18 。彼の主戦場は、美濃関ヶ原ではなく、本国である出羽であった。家康に敵対した会津の上杉景勝が、家康の同盟者である山形の最上義光の領地へ大軍を差し向けたのである。これが「慶長出羽合戦」である。
挙誠は最上軍と連携し、上杉勢と対峙した。特に、関ヶ原で石田三成率いる西軍本隊がわずか半日で壊滅した後も、なお徹底抗戦を続ける上杉景勝の勢力に対し、果敢に攻撃を仕掛けた。この戦いにおいて、彼は庄内にあった上杉方の拠点、下次右衛門が守る菅野城を始め、数々の城を攻め落とすという目覚ましい戦功を挙げた 3 。この戦いで自らも負傷するほどの激しい戦いぶりであったと記録されており、その武功は戦後、家康から感状をもって賞され、所領も安堵された 3 。
輝かしい戦功を挙げ、家康からも賞されたにもかかわらず、挙誠の運命は暗転する。戦後、慶長出羽合戦における最大の功労者である最上義光から、「西軍と通じていたのではないか」という理不尽な嫌疑をかけられたのである 3 。
この嫌疑の真相は、挙誠の不忠にあったわけではない。その背景には、出羽国における地域内政治の力学、とりわけ最上義光の野心があった。戦後、家康は論功行賞として、上杉氏から奪った庄内三郡と由利郡を義光に与え、彼を57万石の大大名へと押し上げた 19 。新たに由利郡の支配者となった義光にとって、同地で独立性を保ち続ける仁賀保氏のような国人領主の存在は、自らの支配を確立する上で障害以外の何物でもなかった。
したがって、義光が持ち出した「西軍与同の嫌疑」とは、挙誠を由利郡から合法的に排除するための政治的な口実であった可能性が極めて高い。東北地方の安定を重視する家康は、最重要同盟者である大大名・最上義光の意向を汲み、一地方領主である挙誠の処遇を犠牲にすることを選んだ。その結果、慶長7年(1602年)、挙誠は先祖伝来の地を没収され、遠く常陸国武田(現在の茨城県行方市)へ、五千石という旧領より少ない石高で移封されることとなった 3 。これは、徳川への忠誠を尽くした武将が、より大きな政治力学の波に呑み込まれた悲劇であった。
不遇の移封にもかかわらず、仁賀保挙誠は徳川家への忠誠を失わなかった。彼は雌伏の時を耐え、再び武功を立てる機会を待った。その機会は、豊臣家と徳川家の最終決戦である大坂の陣で訪れた。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、挙誠は徳川軍の馬廻りの一員として出陣。翌年の夏の陣では、戦略上の要衝である淀城の守備を任されるなど、着実に徳川方としての軍役を果たした 3 。戦後もその忠勤は評価され、元和2年(1616年)には伏見城の城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛といった、幕府の要職を歴任するに至る 3 。これらの功績は、彼の失われた名誉を回復し、後の劇的な運命の転換へと繋がる重要な布石となったのである。
仁賀保挙誠の生涯における最大のクライマックスは、一度は失った旧領への、しかも石高を倍増させての復帰という奇跡的な復活劇である。この出来事は、単なる幸運や過去の功績への報奨だけでは説明できない。そこには、歴史の皮肉とも言うべき因果と、二人のキーパーソンの存在が深く関わっていた。
物語の舞台は、江戸城の中枢、時の幕政を牛耳っていた老中・土井利勝の屋敷に移る。利勝は二代将軍・秀忠、三代将軍・家光に仕え、絶大な権勢を誇った幕府の最高実力者であった 22 。その利勝の元に、一人の武将が預かり人として身を寄せていた。彼の名は鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)。かつては最上義光の重臣として勇名を馳せた武将であったが、義光の死後に勃発した最上家の御家騒動(最上騒動)に連座し、改易された主家を離れ、土井家に身柄を預けられる境遇となっていた 3 。
この構図は、歴史の皮肉そのものである。かつて仁賀保挙誠を由利郡から追放する原因を作った最上家の元重臣が、今や幕府の中枢で、挙誠の運命を左右する鍵を握る立場にいたのである。
ある時、土井利勝が鮭延秀綱に対し、かつての慶長出羽合戦の様子について尋ねる機会があった。その諮問に答える形で、秀綱は二十年以上前の戦場での記憶を語り始めた。彼は、敵方として戦ったにもかかわらず、仁賀保挙誠がいかに獅子奮迅の働きを見せたか、その勇戦ぶりを臨場感豊かに物語ったのである 3 。
敵将から伝えられた旧功の物語は、利勝の心を強く動かした。公正さを重んじたと評される利勝は 23 、この埋もれた功労者に深い感銘を受け、彼を幕府に推挙することを決意した 24 。
この鮭延秀綱の証言は、決定的な追い風となった。その背景には、挙誠の運命を大きく左右する、もう一つの歴史的変動があった。元和8年(1622年)、鮭延秀綱が仕えていた最上家が、度重なる内紛の末に幕府から改易を命じられ、57万石の広大な領地が没収されたのである 25 。これにより、出羽国に巨大な権力の空白地帯が生まれた。
幕府、とりわけ老中である土井利勝は、この旧最上領を再編し、安定的に支配するための新たな領主配置に迫られていた。まさにそのタイミングで、利勝は秀綱から、由利郡の元領主であり、大坂の陣などで徳川への忠誠も証明済みの仁賀保挙誠という、うってつけの人物の存在を知ったのである。
こうして全ての歯車が噛み合った結果、元和9年(1623年)10月18日、仁賀保挙誠は常陸国武田五千石から、二十年の時を経て、故郷である出羽国仁賀保の地へ、石高を一万石に加増された上で復帰するという、前代未聞の栄誉を勝ち取った 8 。これにより、仁賀保氏は諸侯に列し、仁賀保藩が立藩された。かつて最上家の台頭によって追われた男が、その最上家の崩壊によって生じた好機を掴み、国人領主から大名へと昇り詰めた瞬間であった。
苦難の末に一万石の大名として旧領復帰を果たした仁賀保挙誠であったが、彼が藩主として君臨した時間は、驚くほど短かった。しかし、彼の死後に取られた措置は、一見すると不可解でありながら、一族の永続を見据えた最後の深慮遠謀であった可能性を秘めている。
念願の故郷へ帰り、仁賀保藩を立藩した翌年の寛永元年(1624年)2月14日、仁賀保挙誠は65年の波乱に満ちた生涯を閉じた 3 。問題は、その後の所領の相続であった。挙誠は、自らが築いた一万石の領地を、一人の後継者に継がせることを選ばなかった。
彼の遺言に基づき、仁賀保藩の所領は、長男の良俊に7,000石、次男の誠政に2,000石、三男の誠次に1,000石と、三分割して相続されたのである 8 。この分知により、いずれの家も大名としての基準である石高一万石を下回ることになった。その結果、立藩からわずか1年余りで仁賀保藩は廃藩となり、歴史の表舞台から姿を消した 8 。
藩の解体に伴い、良俊、誠政、誠次の三兄弟は、それぞれが将軍直属の家臣である「旗本」となった 3 。しかし、仁賀保家の苦難はまだ続いた。最大の7,000石を継ぎ、旗本としての宗家を率いるはずだった長男・良俊が、寛永8年(1631年)に跡継ぎのないまま死去してしまったのである。これにより、挙誠の直系である宗家は、わずか数年で無嗣断絶という悲劇的な結末を迎えた 8 。
宗家は断絶したものの、仁賀保家の血脈は絶えることはなかった。次男・誠政の家系(通称「仁賀保二千石家」)と、三男・誠次の家系(通称「仁賀保千石家」)は、旗本としてその地位を保ち、江戸時代を通じて存続し、明治維新を迎えるに至った 8 。
彼らは交代寄合の格式を持つ家もあり、江戸に常住して幕府に仕える一方、所領である由利郡には共同の「仁賀保陣屋」を置いて、現地の代官を通じて統治を行った 3 。彼らの領地支配は、幕府直轄領や他の藩領と入り混じる複雑なものであったことが、当時の絵図などから窺える 17 。
挙誠が自ら大名の地位を放棄したともいえるこの遺言は、一見すると不可解である。しかし、当時の徳川幕府の基本政策に照らし合わせると、その戦略的な意味が浮かび上がってくる。幕府初期、徳川家は『武家諸法度』などを通じて大名の力を削ぐことに心血を注ぎ、些細な理由での改易・減封が頻発していた 30 。一方で、将軍直属の旗本は、幕府の軍事・行政を担う信頼できる家臣団として重用された 32 。
この状況下で、挙誠が自ら藩を解体し、息子たちを旗本として幕府に差し出すことは、徳川家への絶対的な忠誠心を示す、これ以上ない意思表示であった。彼は、一代限りの「外様大名」としての名誉よりも、一族が「信頼できる直参旗本」として永続的に安泰である道を選んだのである。結果として宗家は断絶したものの、二つの分家が幕末まで続いたことを考えれば、彼の最後の深慮遠謀は、見事に功を奏したと言えるだろう。
相続者 |
相続石高 |
身分 |
その後の経緯 |
仁賀保良俊(長男) |
7,000石 |
旗本(宗家) |
寛永8年(1631年)に嗣子なく死去し、家は断絶 8 |
仁賀保誠政(次男) |
2,000石 |
旗本(二千石家) |
旗本として家は存続し、明治維新を迎える 8 |
仁賀保誠次(三男) |
1,000石 |
旗本(千石家) |
旗本として家は存続し、明治維新を迎える 8 |
表2:仁賀保藩の分知と旗本仁賀保家の構成
仁賀保挙誠とその一族の名は、公式な歴史記録だけでなく、彼らが暮らした地域の信仰や、遠く離れた土地の民俗伝承の中にも、形を変えて刻まれている。それは、彼らの存在が人々の記憶の中でいかに受容され、変容していったかを示す興味深い証拠である。
仁賀保挙誠の亡骸は、彼の故郷であるにかほ市に眠っている。主な墓所は二つあり、一つは仁賀保氏の拠点であった山根館の麓、院内地区にある曹洞宗の禅林寺である 3 。この寺には、挙誠の十三回忌に、旗本として家を継いだ次男・誠政と三男・誠次が建立した五輪塔の墓が現存しており、一族の菩提寺としての役割を今に伝えている 3 。
もう一つの墓所は、日本海に面した象潟(きさかた)の名刹、蚶満寺(かんまんじ)にある 3 。松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅で訪れたことでも知られるこの寺は、古くからこの地方の信仰の中心であり、仁賀保氏も深く崇敬していたことが記録から窺える 34 。当初はこちらに埋葬されたという説もあり、挙誠とこの寺との深い関わりを示唆している 3 。
仁賀保家の名が最も奇妙で興味深い形で後世に残されたのが、「仁賀保金七郎と疫病神の詫び証文」という民俗伝承である。これは、挙誠の死から150年以上が経過した江戸時代後期、主に江戸を中心とする関東地方で、疫病除けの護符として広く流行したものである 36 。
この伝承の筋書きはこうである。「旗本仁賀保家の江戸屋敷に二人の疫病神が忍び込んだところ、当主の五男であった金七郎に見つかってしまう。金七郎の武勇に恐れをなした疫病神たちは命乞いをし、『今後は仁賀保家の屋敷はもちろんのこと、「仁賀保金七郎」と書かれた場所にも決して近づきません』という内容の詫び証文を書いて退散した」というものである 36 。
この物語自体は史実ではないが、この「詫び証文」を書き写したものが、実際に疫病除け、特に疱瘡(ほうそう)除けの護符として民衆の間に広く流布したことは、関東各地に現存する数十点の古文書から確認できる 37 。
この伝承は、仁賀保氏の社会的イメージが時代と共に変容したことを如実に示している。物語の主人公は、戦国の武将・挙誠本人ではなく、泰平の世に生きた旗本の息子「金七郎」である。江戸の民衆にとって、もはや仁賀保家は戦国の荒々しい武将のイメージではなく、将軍家に直属する幕府の「権威」の象徴となっていた。目に見えない疫病という災厄に対し、人々が物理的な力ではなく、より高次の秩序や権威による守護を求めたとき、将軍の威光を背景に持つ旗本・仁賀保家の名前は、その役割を担うにふさわしいと見なされたのである。この伝承は、仁賀保家が幕藩体制の中で確固たる地位を築き、その名が「災厄を退ける力を持つ公儀の権威」として民衆レベルで認識されるに至ったことを示す、極めて貴重な民俗学的史料と言えよう。
仁賀保挙誠の生涯を俯瞰するとき、我々の前には、単一の言葉では捉えきれない多面的な人物像が浮かび上がってくる。彼の人生は、戦国乱世の終焉と徳川泰平の世の始まりという、日本史上最も劇的な転換期を、一人の地方領主がいかにして生き抜いたかを示す、稀有な実例である。
第一に、彼は由利郡という限定された空間において、同族との熾烈な生存競争を勝ち抜き、地域の覇権を確立した冷徹な**「戦略家」**であった。弱体化した自家の再興のため、最大勢力からの養子という形で血脈を繋ぎ、長年の宿敵を打ち破ることで、その地位を盤石にした。
第二に、彼は天下の趨勢を見極める鋭い嗅覚を持った**「政治家」**であった。豊臣秀吉、そして徳川家康という中央の覇者にいち早く臣従することで、地方の国人領主から近世的な領主へと、自らの地位を法的に昇華させることに成功した。
第三に、彼は紛れもなく勇敢な**「武将」**であった。慶長出羽合戦では東軍の一翼を担って自ら傷を負いながらも敵城を陥とし、その後の大坂の陣でも忠勤に励んだ。その武功こそが、後の復活劇への道を拓く礎となった。
第四に、彼は理不尽な運命に翻弄されながらも、それを乗り越える**「強運の持ち主」**でもあった。最上義光という巨大な地域権力者の前に一度は故郷を追われるが、その最上家の自滅という歴史の皮肉と、旧敵の証言、そして幕閣実力者の知遇という偶然を捉え、奇跡の帰還を果たした。
そして最後に、彼は一族の永続を何よりも優先する**「家長」**であった。苦労の末に手にした一万石の大名の地位にあえて安住せず、自らの遺言で所領を分知し、息子たちを幕府直参の旗本とする道を選んだ。これは、徳川の治世下で一族が安泰に存続するための、究極の適応戦略であった。
これら全ての側面が絡み合い、仁賀保挙誠という一人の武将の、複雑で奥行きのある人物像を形成している。彼の生涯は、戦国から江戸へと移行する時代の激しい変化の奔流の中で、地方の小領主がいかにして自らのアイデンティティを変容させ、新たな秩序に適応していったかを示す、一つの典型的、しかし極めてドラマチックな軌跡として、歴史の中に確かな位置を占めている。