今川氏親(いまがわ うじちか)という名を耳にする時、多くの人々は「海道一の弓取り」と謳われた今川義元の父、あるいは戦国時代の梟雄として名高い北条早雲の甥という、著名な人物との関係性から彼を想起するであろう。しかし、その評価は氏親が成し遂げた偉業の本質を見過ごしている。彼は、応仁の乱後の混沌とした時代に、旧来の守護大名という殻を自ら打ち破り、今川家を独立した領国を経営する「戦国大名」へと変貌させた、真の創業者であった 1 。彼が築き上げた強固な政治、経済、軍事、そして法制の基盤なくして、子・義元の時代の栄華はあり得なかった。
氏親が歴史の表舞台に登場した文明年間(1470年代)は、室町幕府の権威が地に墜ち、日本全土が先の見えない動乱の渦中にあった。守護大名や国人領主が、幕府の権威ではなく自らの実力によって領国を切り拓こうと鎬を削る、まさに戦国時代の黎明期である 4 。このような流動的な時代状況の中で、父の急死と家督を巡る内乱という絶望的な状況から出発し、駿河・遠江二カ国を掌握する大大名へと今川家を飛躍させた今川氏親の生涯は、戦国という時代の本質を体現している。本報告書は、氏親自身の足跡を丹念に追うことで、彼が如何にして今川氏最盛期の礎を築いたのかを、多角的に解明することを目的とする。
今川氏親は、文明5年(1473年)に駿河守護・今川義忠の嫡男として駿府館で生を受けた(文明3年(1471年)説も存在する) 1 。幼名は龍王丸(たつおうまる) 7 。父・義忠は室町幕府の足利将軍家に連なる名門・今川氏の第7代当主であり、龍王丸は輝かしい血筋の後継者として生を受けた。
彼の運命に決定的な影響を与えたのは、その母方の血縁であった。母は北川殿と称され、室町幕府の重臣であった伊勢盛定の娘である 5 。そして、この北川殿の弟こそ、後に相模・伊豆に覇を唱える北条早雲、その人、伊勢盛時(宗瑞)であった 6 。龍王丸にとって盛時は叔父にあたり、この強固な血縁関係が、彼の生涯を通じて最大の支えとなる。
官位としては、通称を彦五郎と称し、後に元服してからは上総介、治部大輔、修理大夫といった官職に任じられている 1 。
龍王丸の平穏な幼少期は、突如として終わりを告げる。文明8年(1476年)、父・義忠が遠江国の国人一揆を鎮圧するため出陣した際、塩買坂(現在の静岡県菊川市)の戦いで不慮の戦死を遂げたのである 8 。この時、嫡男・龍王丸はわずか4歳(一説に6歳)であった 11 。
当主の突然の死と、後継者が幼少であるという事実は、今川家中に深刻な亀裂を生んだ。家臣団は二派に分裂し、一方は義忠の従兄弟にあたる小鹿範満(おしか のりみつ)を新たな当主として擁立し、もう一方は正統な後継者である龍王丸を支持した 8 。この家督争いは、単なる一族内の権力闘争ではなかった。範満の母が、伊豆に拠点を置く堀越公方・足利政知の執事である上杉政憲の娘であったため、この内紛は外部勢力の介入を招くことになる 5 。堀越公方と、当時関東で絶大な影響力を誇った扇谷上杉家の家宰・太田道灌が、範満を支援するために軍勢を率いて駿河へ進駐する事態へと発展したのである 8 。今川家の内紛は、駿河国を自らの影響下に置こうとする関東・伊豆の勢力にとって、絶好の機会と映った。この争いは、実質的に「龍王丸(とその背後にいる室町幕府) 対 範満(堀越公方・扇谷上杉家)」という、中央と地方勢力の代理戦争の様相を呈していた。
この危機的状況下で、母・北川殿は龍王丸を伴い、駿河国志太郡の小川城主であった長谷川正宣(法永長者)のもとへ避難し、身の安全を図った 5 。
絶体絶命の窮地に陥った龍王丸母子にとって、唯一の頼みの綱が叔父の伊勢盛時であった。かつて盛時は一介の素浪人からのし上がった人物と考えられていたが、近年の研究により、彼は室町幕府の申次衆(将軍への取次役)などを務める名門官僚・伊勢氏の一族であり、幕府の権威を背景に行動できる人物であったことが明らかになっている 5 。
盛時はまず、調停者として駿河に下向した。彼は堀越公方や扇谷上杉氏による今川家乗っ取りを阻止するため、巧みな交渉を展開。「龍王丸が成人するまでは、小鹿範満が家督代行として政務を執る」という和睦案をまとめ、一時的に事態を収拾させた 8 。さらに盛時は幕府に働きかけ、文明11年(1479年)には前将軍・足利義政から龍王丸の家督相続を正式に認める御教書(公文書)を得ることに成功する 5 。
しかし、龍王丸が15歳を過ぎ元服の年齢に達しても、範満は家督を返上しようとせず、事実上の当主として振る舞い続けた 13 。この状況を打開するため、長享元年(1487年)、母・北川殿の要請を受けた盛時は再び駿河へ軍勢を率いて下向。焼津の石脇城を拠点とし、駿府の今川館を急襲して範満を討ち果たした 5 。
この大胆な武力行使が可能であった背景には、二つの重要な政治情勢の変化があった。一つは、範満の最大の後ろ盾であった太田道灌が、前年の文明18年(1486年)に主君の上杉定正によって暗殺されていたこと。もう一つは、堀越公方・足利政知が、自らの子を次期将軍に擁立する問題で幕府との関係を重視し、幕府が正統と認める龍王丸支持へと立場を転換していたことである 5 。盛時はこの権力の空白と政治的力学の変化を的確に見抜き、一気呵成に事を成したのである。
こうして十余年にわたる内乱に終止符が打たれ、龍王丸は元服して「氏親」と名乗り、名実ともに今川家当主の座に就いた 16 。この時、氏親は叔父・盛時の多大な功績に報いるため、駿河東部の要衝である興国寺城と周辺の所領を与えた 13 。この恩賞は、単なる返礼以上の意味を持っていた。それは、氏親が盛時の軍事力を高く評価し、今川領国の東方の守りを委ねるという戦略的な判断であり、盛時にとっては、ここを足掛かりとして伊豆国へ進出し、戦国大名・北条早雲として飛躍するための最初の基盤となった。両者の関係は、一方的な支援ではなく、相互の利益に基づいた戦略的パートナーシップであり、早雲の「下剋上」は、氏親という安定した後援者の存在なくしては成し得なかったのである。
家督を掌握した氏親が次に取り組んだのは、父・義忠が果たせなかった悲願、すなわち遠江国(現在の静岡県西部)の完全平定であった。遠江はかつて今川氏が守護職を有していたものの、後に斯波(しば)氏に奪われた因縁の地であり、父が命を落とした場所でもあった 1 。
氏親は叔父・北条早雲の強力な軍事支援を受け、明応3年(1494年)頃から本格的な遠江侵攻を開始した 8 。しかし、遠江守護であった斯波義寛、そしてその子・義達の抵抗は熾烈を極めた。斯波氏は信濃守護の小笠原氏とも同盟を結び、今川勢の進出を阻んだため、戦いは長期にわたる消耗戦の様相を呈した 8 。
この二十年以上に及ぶ戦いの雌雄を決したのが、永正14年(1517年)の引馬城(後の浜松城)攻略戦であった。斯波義達と結んだ国人・大河内貞綱が籠城するこの堅城に対し、氏親は卓越した戦略眼を見せる。まず、天竜川に三百艘もの船を繋いで長大な船橋を架け、大軍を対岸へ渡河させた 11 。そして、単なる力攻めではなく、自らが領有する安倍金山の鉱夫たちを動員し、城の地下に坑道を掘らせて水源を断つという、当時としては極めて画期的な工法を用いたのである 5 。この戦術は、氏親が軍事力だけでなく、領内の技術力や人的資源を的確に把握し、それを戦略目的に転用できる優れた経営者であったことを示している。
水の手を絶たれた引馬城はついに降伏。大河内貞綱は討死し、斯波義達は出家を条件に降伏した後、尾張国へと追放された 19 。これにより、父の代からの宿願であった遠江平定が、ついに成し遂げられたのである。駿河・遠江の二カ国を領有する「二国の太守」となった今川氏は、東海地方に覇を唱える大大名へと飛躍した 2 。この長期戦を戦い抜いた事実そのものが、今川氏の国力が、単発的な軍事行動しか起こせない他の勢力とは一線を画す「持続力」を備えていたことの証左であった。
遠江平定と並行して、氏親はさらに版図を拡大すべく、西と北へも軍事行動を展開した。
西方の三河国(現在の愛知県東部)へは、永正3年(1506年)以降、北条早雲を総大将として幾度も侵攻した。安祥松平家の松平長親(近年の研究では長忠)と激しく戦い、岩津城や岡崎城を攻撃している 8 。この時点では三河の完全な支配には至らなかったものの、松平氏をはじめとする三河の国人衆に今川氏の武威を示し、後の子・義元の時代における三河併合の重要な布石となった。
一方、北方の甲斐国(現在の山梨県)では、武田信虎(武田信玄の父)が国内統一を進めており、国境を接する今川氏とは必然的に対立関係にあった。氏親は信虎の勢力拡大を牽制すべく、たびたび甲斐へ侵攻し、一進一退の攻防を繰り広げた 5 。特に大永元年(1521年)には、今川軍が甲府近郊にまで迫り、信虎を窮地に陥れた記録も残っている 21 。この武田氏との抗争は、氏親の晩年に和議が結ばれるまで続くことになる。
軍事による領土拡大と並行して、氏親が最も心血を注いだのが、領国支配体制の抜本的な改革であった。彼の目的は、荘園領主や国人、寺社などが複雑な権益を持つ旧来の守護領国制を解体し、今川氏を頂点とする一元的かつ強力な支配体制、すなわち「戦国大名」としての国家を建設することにあった 1 。
その根幹をなしたのが、徹底した領国の実態把握である。永正15年(1518年)以降、新たに支配下に置いた遠江国で大規模な検地(土地調査)を実施 1 。これにより、土地の面積、等級、予想収穫高(石高)を正確に把握し、それに基づいた公平な年貢の徴収と、家臣への軍役賦課を可能にした 23 。
さらに、領国の富国強兵策として、経済政策を積極的に推進した。安倍金山の開発を本格化させ、莫大な利益を上げて財政基盤を強化 2 。この潤沢な資金が、長期にわたる遠江平定戦や、安定した領国経営を支えた。また、本拠地である駿府の城下町を計画的に整備し、商人を誘致して経済の活性化を図った 7 。宿駅や伝馬制度を整えて物流網を確立するなど、その施策は多岐にわたった 24 。
氏親の国家建設事業の集大成といえるのが、大永6年(1526年)4月に制定された分国法「今川仮名目録」である 8 。これは、氏親が長年の中風(脳卒中後遺症)により病床に伏し、自らの死期を悟った中で、後継者である若年の氏輝と、その後の今川家の安泰を願って遺した、政治的遺言ともいうべき法典であった 24 。現存する戦国時代の分国法としては最古級に属し、その内容は極めて先進的であった 27 。
全33ヶ条からなる「仮名目録」は、今川氏が領国の唯一絶対の公権力であることを内外に宣言するものであった。その特徴的な条文は、氏親の統治思想を雄弁に物語っている。
「今川仮名目録」は、室町幕府の法体系から自立し、領国の実情に即した独自の法秩序を創出した点で画期的であった 32 。それは、氏親が自らの死後、若き後継者が統治に迷うことがないよう、これまでの統治経験の全てを注ぎ込んで遺した「国家の設計図」であり、今川家の永続性を願う周到な危機管理の産物であった。この法典は、武田信玄の「甲州法度之次第」をはじめ、東国の諸大名の分国法制定に多大な影響を与えた 26 。
条文(抜粋) |
概要 |
解説と意義 |
第1条 |
名田の競望 :年貢増額を条件に、他者の土地の保有権を望むことを認める。 |
土地の流動性を高め、収益を最大化する独自の経済政策。家臣への恩賞地不足を補う狙いもあったと考えられる 31 。 |
第8条 |
喧嘩両成敗 :理由を問わず、喧嘩をした双方を死罪とする。 |
大名による紛争解決権の独占と私闘の禁止。戦国大名の領国支配の根幹をなす条項 24 。 |
第30条 |
他国との婚姻禁止 :領内の者が許可なく他国の者と結婚することを禁ずる。 |
家臣団の離反防止と統制強化。領国の一体性を保つための重要な規定 24 。 |
その他 |
土地境界争いの裁定、貸借関係の利子規定、逃亡百姓の処罰など。 |
領国社会の隅々にまで大名の法を浸透させ、安定した統治を目指す意志の表れ 30 。 |
氏親の治世と家庭を語る上で、正室・寿桂尼(じゅけいに)の存在は欠かすことができない。彼女は永正2年(1505年)頃に氏親に嫁いだ、京都の公家・中御門宣胤の娘であった 6 。高い教養と政治的背景を持つ彼女との婚姻は、今川家の権威を一層高めるものであった。
寿桂尼の真価が発揮されたのは、氏親が晩年に中風で倒れ、約10年間もの長きにわたり寝たきりの闘病生活を送るようになってからである 35 。彼女は病床の夫に代わって事実上の為政者となり、卓越した政治手腕を振るった 37 。自らのものとして「帰」の一字を刻んだ印判を作成し、それを用いて朱印状(公式文書)を発給、領国統治の最高意思決定を行ったのである 3 。このことから、彼女は後世「女戦国大名」とも称される。
彼女の役割は、単なる当主の代理や後見人という立場を超えていた。戦国時代の武家社会における「家」という組織の中で、当主の正室(家妻)が、当主不在の際には家督の権能そのものを代行する「おんな家長」として機能した、その最も代表的な事例が寿桂尼であった 37 。氏親の治世の集大成である「今川仮名目録」の制定にも、彼女が深く関与していたことは想像に難くない 40 。
氏親は、武勇や政治手腕に長けただけの武将ではなかった。彼は文化・教養の価値を深く理解し、それを統治に活かすことのできる、当代一流の文化人でもあった 7 。
その象徴が、著名な連歌師・宗長(そうちょう)との深い交流である。氏親は宗長を厚く庇護し、宗長は駿河の丸子(まりこ)に柴屋軒(さいおくけん)という庵を結んで活動の拠点とした 41 。駿府は宗長を中心に、多くの文化人が集うサロンとなり、後の「今川文化」が花開く土壌が育まれた。
この文化活動は、単なる慰みではなかった。宗長は連歌師として全国を旅し、朝廷や幕府、諸大名と幅広い人脈を築いていた。氏親は宗長を介して他国の情勢や中央の情報を収集し、時には甲斐の武田信虎との和議の仲介を任せるなど、外交顧問としても重用した 42 。氏親にとって、文化(ソフトパワー)は、軍事力(ハードパワー)と並ぶ、国家統治の重要な手段だったのである。この武威と文治を両輪とする統治スタイルこそ、氏親の先進性を示すものであった。
氏親と寿桂尼の間には、嫡男・氏輝、次男・彦五郎、そして五男・義元(幼名・方菊丸、僧名・栴岳承芳)をはじめ、数人の男子と女子が生まれた 6 。当時の武家の慣習として、家督争いの火種を未然に防ぐため、嫡男以外の男子は仏門に入れられることが多く、後の義元も幼くして禅寺に預けられた 45 。
長年の激務が祟ったのか、氏親は晩年、中風を患い病床に伏した。しかしその中でも、寿桂尼の補佐を受けながら政務を続け、最後の事業として「今川仮名目録」を制定した。そして、そのわずか2ヶ月後の大永6年(1526年)6月23日、駿府館にてその波乱の生涯を閉じた。享年54であった 6 。法号は増善寺殿喬山紹僖大禅定門と贈られた 6 。彼の死は、一つの時代の終わりと、息子たちの新たな時代の始まりを告げるものであった。
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
関連人物 |
1473(文明5) |
1 |
駿府にて誕生。幼名・龍王丸。 |
今川義忠, 北川殿 |
1476(文明8) |
4 |
父・義忠が塩買坂で戦死。家督争いが勃発。 |
小鹿範満 |
1487(長享元) |
15 |
叔父・伊勢盛時が範満を討伐。氏親、家督を掌握。 |
伊勢盛時(北条早雲) |
1494頃(明応3) |
22 |
遠江への本格侵攻を開始。 |
斯波義寛 |
1505頃(永正2) |
33 |
寿桂尼と結婚。 |
寿桂尼 |
1506(永正3) |
34 |
三河へ侵攻。松平長親と交戦。 |
松平長親 |
1517(永正14) |
45 |
引馬城を攻略し、遠江を平定。 |
斯波義達 |
1518(永正15) |
46 |
遠江で検地を開始。 |
- |
1526(大永6) |
54 |
4月、「今川仮名目録」を制定。6月、病没。 |
寿桂尼, 今川氏輝 |
コード スニペット
graph TD
subgraph 伊勢氏 (後の北条氏)
IseMorisada[伊勢盛定]
Kitagawa[北川殿]
HojoSoun[伊勢盛時<br>(北条早雲)]
end
subgraph 今川氏
ImagawaYoshitada[今川義忠]
ImagawaUjichika[<b>今川氏親</b>]
ImagawaUjiteru[今川氏輝]
ImagawaYoshimoto[今川義元]
Zuikeiin[瑞渓院]
end
subgraph 中御門家
NakanomikadoNobutane[中御門宣胤]
Jukeini[寿桂尼]
end
subgraph 北条氏
HojoUjitsuna[北条氏綱]
HojoUjiyasu[北条氏康]
end
IseMorisada --- Kitagawa
IseMorisada --- HojoSoun
ImagawaYoshitada -- 妻 -- Kitagawa
ImagawaYoshitada --- ImagawaUjichika
NakanomikadoNobutane --- Jukeini
ImagawaUjichika -- 正室 -- Jukeini
ImagawaUjichika --- ImagawaUjiteru
ImagawaUjichika --- ImagawaYoshimoto
ImagawaUjichika --- Zuikeiin
HojoSoun --- HojoUjitsuna
HojoUjitsuna --- HojoUjiyasu
HojoUjiyasu -- 妻 -- Zuikeiin
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今川氏親の生涯は、戦国時代のより著名な武将たち、例えば彼を支えた叔父・北条早雲や、後に天下に名を轟かすことになる子・義元の影に隠れがちである。しかし、その功績を丹念に検証する時、彼こそが今川家の最盛期を準備した、比類なき国家建設者であったことが明らかになる。
彼は、父の戦死とそれに続く内乱という、一歩間違えれば家門が断絶しかねない危機から出発した。しかし、叔父・盛時との戦略的提携を軸に家督を奪還し、領国を安定させると、父祖の代からの悲願であった遠江平定を、二十年以上の歳月をかけて成し遂げた。それは単なる軍事的な勝利に留まらない。検地による領国の実態把握、金山開発による財政基盤の確立、そして「今川仮名目録」の制定による法治国家の建設という、一連の革新的な統治システムを構築する過程そのものであった 1 。
氏親が築いたこの強固な基盤は、全て次代の今川義元へと引き継がれた。義元が安定した領国を背景に三河を平定し、武田・北条と「甲相駿三国同盟」を主導して「海道一の弓取り」と称されるほどの権勢を誇ることができたのは、まさしく氏親が遺したこの偉大な政治的・経済的遺産があったからに他ならない 2 。
今川氏親は、派手な合戦の勝利者として歴史に名を刻んだわけではない。しかし彼は、応仁の乱後の無秩序の中から、法と経済と文化を駆使して新たな「国家」の形を構想し、それを東国において先駆けて実践した統治者であった。戦国大名という新しい時代の支配者が如何にあるべきか、その一つの理想像を、彼はその生涯をもって示したのである。今川氏親は、戦国史における卓越した創業者として、再評価されるべき人物である。