仙石忠政(せんごく ただまさ)は、日本の歴史において、戦国時代の動乱が終焉し、徳川幕藩体制という新たな秩序が確立される過渡期を生きた大名である。彼の名は、破天荒な生涯を送った父・仙石秀久や、彼が最終的に治めた信濃国上田が「真田の郷」としてあまりに高名であるため、その影に隠れがちであった。一般的には、秀久の嫡男として家を継ぎ、関ヶ原の合戦や大坂の陣で功を立てて上田藩へ移封された、という略歴で語られることが多い。
しかし、その生涯を丹念に追うとき、忠政が単なる二代目の世襲大名に留まらない、卓越した統治者であったことが明らかになる。彼は、父が残した負の遺産を清算し、戦国の遺風が色濃く残る領地において近世的な支配体制を確立し、そして徳川幕府の信頼篤い譜代格の大名として、藩政の礎を盤石なものとした。その治世は、武力による立身出世が過去のものとなり、安定した統治と経済的繁栄が求められるようになった時代の要請に見事に応えたものであった。
本報告書は、仙石忠政の出自からその最期に至るまで、彼の生涯の全貌を詳細に解明することを目的とする。戦歴、小諸・上田両藩における藩主としての治績、人物像、そして関連する逸話の批判的検証を通じて、彼が時代の転換期において果たした役割を多角的に分析する。これにより、忠政が戦国の価値観を乗り越え、近世大名としての新たな統治モデルを創造した「創造的統治者」であったことを論証する。彼の生涯は、激動の時代を堅実に生き抜き、次代の平和の礎を築いた一人の大名の、知られざる格闘の記録である。
仙石忠政は、天正6年(1578年)に生まれ、寛永5年(1628年)4月20日に51歳でその生涯を閉じた 1 。幼名は左門、初めは久政と名乗った 3 。官位は従五位下、兵部大輔に叙任されている 3 。
彼の生涯を理解する上で、父・仙石秀久の存在は欠かすことができない。秀久は美濃国の土豪の家に生まれ、豊臣秀吉に最も古くから仕えた家臣の一人であった 4 。その功績により淡路国洲本城主、さらには讃岐一国を領する大大名へと異例の出世を遂げる 4 。しかし、九州平定の前哨戦である戸次川の戦いにおいて、軍監でありながら命令違反を犯して大敗し、秀吉の怒りを買って改易、高野山へ追放されるという転落を経験する 4 。その後、浪人の身でありながら徳川家康の取りなしで小田原征伐に「陣借り」の形で参陣し、鬼神の如き働きを見せたことで秀吉に許され、信濃国小諸5万石の大名として奇跡的な復活を遂げた 7 。この「一度死んで蘇った」父の波乱万丈の経歴は、仙石家が徳川の世を生き抜く上で、その忠誠を常に証明し続けなければならないという重い宿命を背負っていたことを示唆している。
忠政は、この秀久の三男として生まれた 2 。母は秀吉の黄母衣衆であった野々村幸成の娘、本陽院である 3 。彼が仙石家の家督を継いだのは、生まれ順による既定路線ではなく、二人の兄が相次いで継承権を失ったためであった。長兄の久忠は生来盲目であったため家督を継ぐことができず、検校(盲官の最高位)となった 3 。そして次兄の秀範は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、父や弟が徳川方の東軍に属したにもかかわらず独断で西軍に与したため、戦後、父・秀久から勘当され廃嫡されたのである 3 。
父の改易と大名復帰、そして兄の政治的判断の誤りによる廃嫡という、仙石家が二度にわたって経験した存亡の危機は、三男から突如として嫡子の座に就いた忠政の精神に、計り知れない影響を与えたと考えられる。父・秀久が武功によって栄達と転落を繰り返したのに対し、忠政の行動原理は、家の安泰こそが至上命題となった。徳川家への絶対的な忠誠を尽くし、領国経営を安定させること。それこそが、不安定な立場にあった仙石家が、新たな時代を生き抜く唯一の道であると彼は深く認識していたであろう。彼の後の治世に見られる安定志向と堅実さは、この特異な出自にその源流を求めることができる。
忠政の武将としての初陣は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに付随して起こった第二次上田合戦であった。彼は父・秀久と共に、徳川家康の嫡男・秀忠が率いる3万8千の主力部隊に加わり、西軍に与した真田昌幸・信繁(幸村)親子が籠城する信濃上田城の攻略に参加した 10 。
しかし、わずか2,500の兵で守る真田勢の巧みな戦術の前に、徳川軍は足止めを食らい、上田城を攻めあぐねる 12 。結果として、秀忠軍は9月15日の関ヶ原における本戦に間に合わないという、徳川家にとって最大の失態を犯してしまう 12 。この報に接した家康は激怒したが、その際に身を挺して秀忠を庇い、家康への弁明と謝罪に奔走したのが、父・仙石秀久であったと伝えられる 7 。
軍事的には目的を果たせなかった上田攻めであったが、この戦いは仙石家にとって極めて重要な転機となった。戦後、忠政は秀忠からその忠勤を賞され、偏諱(名前の一字を与えること)を賜り、名を「久政」から「忠政」へと改めたのである 3 。これは単なる論功行賞以上の意味を持っていた。総大将であった秀忠の失態という危機的状況において、仙石父子が示した政治的な忠義が、秀忠個人の極めて深い信頼を勝ち得たことの証左に他ならない。この主従関係を超えた個人的な恩義と信頼の絆は、外様大名である仙石家にとって、後の徳川政権下での地位を保証する強力な政治的資産となった。忠政のキャリアは、この「失敗」から生まれた将軍との強固な関係性を抜きにしては語れない。
慶長19年(1614年)、父・秀久が江戸からの帰途、武蔵国鴻巣で病没すると、忠政は37歳で信濃小諸藩5万石の第二代藩主として家督を相続した 6 。彼が引き継いだ小諸藩は、決して安泰な状態ではなかった。父・秀久は、大名としての威光を示すべく小諸城の大規模な改修普請などを精力的に行ったが、その負担は領民に重くのしかかり、苛政に耐えかねた農民が土地を捨てて逃げ出す「逃散(ちょうさん)」が頻発していたのである。慶長15年(1610年)頃には、佐久郡の農民が一斉に逃散する事態にまで発展し、田地は荒廃、藩の経済基盤は大きく揺らいでいた 6 。
藩主となった忠政が最初に取り組んだのは、この父が残した負の遺産の清算であった。彼は直ちに父の苛政を是正し、逃散した農民たちを村に呼び戻す「帰村事業」に尽力し、民心の安定と領内の復興を最優先課題とした 3 。この一点だけでも、彼の統治者としての資質が父・秀久とは明確に異なっていたことがわかる。秀久が戦国武将として城郭という軍事拠点の整備を優先したのに対し、忠政は近世大名として民政の安定と経済基盤の再建を第一義としたのである。
さらに忠政は、藩の財政と統治の近代化にも着手する。元和3年(1617年)、彼は領内の土地の生産力表示を、中世以来の複雑な慣習に基づいた「貫高制」から、米の収穫量を基準とする近世的な「石高制」へと改めた 6 。これは単なる税制の変更ではない。藩の財政を客観的かつ合理的な指標に基づいて管理し、全国統一基準を志向する幕府の体制に自らを整合させようとする、近世的統治者としての明確な意識の表れであった。
一方で、父が着手した小諸城の整備事業も引き継ぎ、三の門や足柄門などを建造して城郭の完成度を高めている 11 。しかし彼の主眼は、あくまで領国の安定にあった。父の政策の後始末から始まった彼の治世は、仙石家が武断の時代から文治の時代へと、その価値観を転換させたことを象徴する出来事であった。
忠政が家督を継いだ慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の対立は決定的となり、大坂の陣が勃発する。仙石家は迷うことなく徳川方として参陣した 3 。
同年冬の「大坂冬の陣」において、忠政は松下重綱、酒井家次らと共に、大坂城の東に位置する「黒門口」の守備を担当し、包囲網の一翼を担った 3 。
翌慶長20年(元和元年、1615年)の「大坂夏の陣」では、豊臣方の最後の決戦となった「天王寺・岡山の戦い」に参戦する。この戦いで忠政が布陣したのは、豊臣方の猛将・毛利勝永や、あの真田信繁(幸村)らが布陣する正面であり、徳川方にとって最も苛烈な戦場の一つであった。榊原康勝や諏訪忠澄らと共に二番手として戦った忠政の部隊は、毛利隊の凄まじい突撃を受けて苦戦を強いられた。しかし、この激戦の最中にあって忠政は自らも奮戦し、敵兵の首を11挙げるという具体的な武功を立てたのである 3 。
関ヶ原の戦いで示した忠勤に加え、この大坂の陣、特に夏の陣での具体的な戦功は、仙石家が徳川家にとって単に忠実なだけでなく、実戦においても「使える」存在であることを改めて証明するものであった。豊臣方の最強部隊と直接干戈を交え、首級を挙げるという客観的な戦果は、彼の武人としての能力を幕府首脳に強く印象付けた。この「証明された実力」こそが、後の信濃上田6万石への加増転封という破格の待遇に対する、誰もが納得する論功行賞の直接的な根拠となった。忠誠心と実力という両輪が、忠政のキャリアを大きく飛躍させたのである。
元和8年(1622年)9月25日、幕府は仙石忠政のこれまでの忠義と、特に関ヶ原・大坂両陣における軍功を高く評価し、1万石を加増の上、信濃小諸5万石から同国上田6万石への移封を命じた 2 。この石高には、上田周辺の5万石に加え、川中島に1万石余の飛び地が含まれていた 2 。
この転封は、単なる栄転以上の極めて象徴的な意味を持っていた。上田城は、かつて父・秀久と共に二度にわたって攻めあぐね、徳川秀忠に天下分け目の決戦への遅参という屈辱を味わわせた因縁の地である。その城の新たな主として仙石忠政を送り込むことは、徳川幕府による「真田」という信濃の旧勢力の影響力を完全に払拭し、幕府に絶対の忠誠を誓う信頼できる大名による支配体制を確立するという、強い政治的意志の表れであった。
興味深いことに、この上田への転封は、忠政自らが幕府に願い出て実現したものであるという逸話が伝わっている 3 。もしこれが事実であるとすれば、父の代からの因縁を乗り越え、徳川の忠臣としてこの地を治めてみせるという、彼の並々ならぬ自信と気概を示すものと言えよう。
忠政の上田入封に際しては、一つの有名な逸話が語り継がれている。それは、上田から松代への転封を命じられた前領主・真田信之が、この幕命を不服とし、腹いせに上田藩の統治に関わる検地帳などの重要書類をことごとく焼き捨ててしまったため、後任の忠政は領内の実情報把握に大変な苦労を強いられた、というものである 3 。
この「書類焼却」の逸話は、物語としては非常に劇的であるが、史実として鵜呑みにするにはいくつかの疑問点が残る。第一に、真田信之は徳川への忠誠を貫き、93歳という長寿を全うした極めて慎重かつ理知的な人物として知られており、幕府の命令に対してこのような幼稚な反抗を行うとは考えにくい。第二に、そのような行為が露見すれば、真田家そのものが改易の危機に瀕する可能性すらあり、リスクがあまりに大きい。実際、信之がこの加増を伴う転封を喜んだとする内容の書状も残されていると指摘されている 25 。
では、なぜこのような逸話が生まれたのか。その背景には、新領主・忠政が直面したであろう統治の「困難さ」が、現実として存在したことが推察される。その困難さの原因は、信之による個人的な妨害工作ではなく、より構造的な問題、すなわち統治システムの根本的な違いにあったと考えられる。真田氏は長年にわたり、貫高制をはじめとする独自の支配体制を領内に深く根付かせていた。外部から入ってきた仙石氏が、この特殊でローカルな慣習を把握し、自らの新しいシステムへと移行させる作業は、たとえ引き継ぎ書類が完璧に残っていたとしても、極めて困難であったはずだ。この複雑な行政上の困難や、新旧の制度がぶつかり合う中で生じたであろう現場の混乱が、後世、「前任者の嫌がらせ」という個人間の対立という、より分かりやすい物語として記憶され、語り継がれていったのではないだろうか。この逸話は、史実ではない可能性が高いが、それ自体が、忠政が直面した統治の厳しさを物語る一つの歴史資料となりうるのである。
信濃上田の新たな領主となった仙石忠政は、直ちに領国経営の近代化に着手した。彼が目指したのは、真田氏時代から続く中世的な支配のあり方を刷新し、徳川幕府が志向する全国標準の統治システムを導入することであった。
その象徴的な政策の一つが、村の代表者の呼称変更である。真田氏の時代、村の代表は「肝煎(きもいり)」と呼ばれていたが、忠政はこれを全国で一般的に用いられていた「庄屋」へと改めさせた 10 。これは単なる名称の変更に留まらず、地域独自の慣習を排し、上田藩を幕藩体制下の標準的な支配構造へと組み込むという、彼の強い意志の表れであった。
さらに、武士を城下町に集住させて農村から切り離す「兵農分離」を徹底すると同時に、広大な領内を統治しやすくするため、行政区画として8つの「組」を設置した 3 。これにより、藩が一元的に村々を把握し、命令を伝達する近世的な支配体制が確立された。
一方で、土地制度の改革は困難を極めた。忠政は小諸藩で石高制への移行を断行したが、上田領内では真田氏以来の貫高制が深く根付いており、彼の代では完全な移行には至らなかった。この改革は息子・政俊の代に引き継がれ、検地が試みられたものの、これも結果として失敗に終わり、上田藩では貫高を基準とした年貢徴収が長く続くこととなる 22 。この事実は、前任者から引き継いだ土地制度の改革がいかに困難な事業であったかを物語っている。忠政は、その長く困難な改革への第一歩を、確かに踏み出したのである。
忠政が上田藩主として最も精力を注いだ事業が、上田城の再建であった。関ヶ原の合戦後、徳川の命により徹底的に破却され、堀は埋められ、建物はすべて取り壊されて廃城同然となっていた上田城 27 。忠政は元和8年(1622年)に入封すると、直ちにこの城の復興を計画し、将軍・徳川秀忠から銀子を下賜され、寛永3年(1626年)に幕府の正式な許可を得て、大規模な普請(土木建築工事)に着手した 8 。
その進捗は驚異的であった。わずか2年余りの間に、埋められていた広大な堀を再び掘り起こして元通りに復元し、城の中核である本丸には、7棟の隅櫓とそれらを繋ぐ土塀、そして東西の虎口(出入り口)に2棟の壮麗な櫓門を完成させた 10 。さらに二の丸においても、堀と土塁、各虎口の石垣などが整備された。近年の発掘調査では、二の丸の虎口にも櫓門の礎石が確認されており、忠政が二の丸にも櫓や門といった建物を建てる壮大な計画を抱いていたことが窺われる 10 。
しかし、この壮大なグランドデザインは、寛永5年(1628年)の忠政の急死によって突如として中断される 8 。彼の死後、後継者を巡る家中の混乱などもあって普請は再開されず、二の丸の建物などが築かれることはなかった。
この上田城再建は、単なるインフラ整備事業ではなかった。それは、①かつて徳川の軍勢を二度も退けた「不屈の城」を、②徳川の武威によって一度完全に破壊し、③徳川の許可のもと、④徳川の忠臣である仙石氏が新たな「泰平の城」として再建するという、幕府の絶対的な支配権を天下に可視化する、極めて政治的かつ象徴的な意味を持つ一大事業であった。忠政は、真田氏が築いた輝かしい記憶を、徳川体制下の新たな記憶で上書きするという、歴史的な役割を担ったのである。事業が彼の死と共に未完に終わったことは、この壮大な計画がいかに彼個人の強力なリーダーシップと幕府からの信頼に依存していたかを逆説的に物語っている。それでもなお、彼が築いた本丸と二の丸の骨格は、今日の「上田城」の姿そのものであり、上田市のシンボルとして、400年の時を超えて受け継がれている 8 。
城郭の再建と並行して、忠政は藩の経済基盤を強化するための領内開発にも力を注いだ。特に重要視されたのが、農業振興である。上田藩の穀倉地帯であった塩田平(しおだだいら)は、年間降水量が1000ミリに満たない全国有数の少雨地域であり、農業用水の確保が常に最大の課題であった 32 。
この課題を克服するため、忠政とその後の仙石氏の藩主たちは、塩田平において溜池の築造・改修を積極的に推進し、安定的な用水供給による新田開発を進めた 28 。この政策は、藩の財政を豊かにするための最重要課題と位置付けられていた。また、農業だけでなく、上田特産の絹織物である「上田縞(紬)」などの地場産業の育成にも力を注ぎ、藩経済の多角化を図った 28 。
仙石氏の治世下で行われた溜池事業は、彼らの長期的かつ体系的な開発への取り組みを具体的に示している。以下の表は、仙石氏の治世(忠政、政俊、政明の三代、1622年~1706年)に築造または改修されたと伝わる塩田平の主要な溜池をまとめたものである。
池の名称 |
築造/改修年 |
関連する藩主・時代 |
備考 |
典拠 |
中池 (なかいけ) |
寛永2年 (1625) 築造 |
仙石忠政 |
忠政の治世下で築造された記録が残る初期の例。 |
34 |
鳥居上池 (とりいかみいけ) |
寛永7年 (1630) 築造 |
仙石政俊 |
忠政の子、政俊の代に築造。 |
34 |
居守沢大池 (いもりざわおおいけ) |
寛永7年 (1630) 築造 |
仙石政俊 |
同上。 |
34 |
下之郷新池 (しものごうしんいけ) |
寛永18年 (1641) 築造 |
仙石政俊 |
同上。 |
34 |
山田池 (やまだいけ) |
慶安3年 (1650) 改修 |
仙石政俊 |
既存の池を統合し、塩田平で最大級の溜池に改修。 |
32 |
手洗池 (てあらいいけ) |
承応3年 (1654) 頃 築造 |
仙石政俊 |
藩の財政再建策として、水田開発のために築造されたと伝わる。 |
36 |
北ノ入池 (きたのいりいけ) |
寛文3年 (1663) 築造 |
仙石政俊 |
仙石氏時代に築造された大規模な池の一つ。 |
34 |
塩吹池 (しおふきいけ) |
元禄12年 (1699) 大改修 |
仙石政明 |
忠政の孫、政明の代に藩の事業として大規模な拡張工事が行われた。 |
37 |
これらの事業は、忠政から始まった仙石家の藩政が、一貫した方針のもとに長期的視点で行われていたことを示す強力な証拠である。
仙石忠政の生涯を俯瞰するとき、そこには二つの異なる、しかし補完しあう人物像が浮かび上がる。一つは「忠実な武人」としての姿であり、もう一つは「堅実な統治者」としての姿である。
関ヶ原や大坂の陣における彼の働きは、徳川家への揺るぎない忠誠心と、激戦の中で武功を挙げるだけの武人としての確かな能力を示している。一方で、小諸藩主として父の苛政の後始末に奔走し、上田藩主として新たな統治システムの導入や大規模な開発事業を推進した姿は、泰平の世における藩の礎を築いた、優れた統治者としての側面を浮き彫りにする。
彼の人物像は、父・秀久との対比によって一層鮮明になる。秀久は、派手な出で立ちから「鈴鳴り武者」と称され、戦場での武功によって目立つことを選び、その生涯は栄光と挫折を繰り返す浮沈の激しいものであった 7 。対照的に、忠政は溜池普請や制度改革といった地道な事業を着実に積み重ねることで、藩の足元を固めることを選んだ。彼は、戦国の価値観を体現した「武将」である父とは異なり、新たな時代が求める「近世大名」の典型であったと言える。
その一方で、彼の人柄を伝える温かい逸話も残されている。小諸藩主時代、病に苦しむ娘を菱野温泉で湯治させたところ、快癒したという伝承は 38 、彼の家族を深く思う父親としての一面を垣間見せる。
寛永5年(1628年)4月20日、忠政は上田城の再建事業半ばにして、病によりこの世を去った。享年51であった 1 。その亡骸は、上田市中央にある本陽寺に葬られた。この寺はもともと小諸にあったが、文禄5年(1596年)に亡くなった母・本陽院の菩提を弔うため、忠政が上田藩主となった際に自ら移築したものであり、彼の孝心の深さを示すエピソードとして知られている 39 。
忠政の死後、仙石家は長男の政俊、その孫の政明と三代、84年間にわたって上田を治めた 22 。その後、宝永3年(1706年)、幕府の命により但馬国出石(いずし)藩(現在の兵庫県豊岡市)へ5万8千石で移封となった 4 。
この移封は、意外な形で後世に文化的な遺産を残すことになった。仙石氏が信州からそば職人を伴って出石へ移ったことが、現在、兵庫県の名物として知られる「出石皿そば」の起源になったとされているのである 45 。大名の国替えが、地域の食文化の伝播という形で結実した興味深い事例である。
また、忠政が生きた証は、現代にも物理的な形で遺されている。彼の死後、承応3年(1654年)に子の政勝が幕府御用絵師の狩野常信に描かせた忠政夫妻の肖像画や、彼が戦場で用いたと伝わる金色の御幣をかたどった馬印などが、現在も上田市立博物館に大切に収蔵されており、その姿を今に伝えている 46 。
仙石忠政の生涯は、父から家督と領地を「継承」するだけでなく、時代の要請に応えて新たな藩の統治の形を「創造」する過程そのものであった。彼は、戦国の動乱を乗り越え、徳川将軍家の個人的な信頼を勝ち取り、父が疲弊させた小諸藩を立て直し、そして信濃上田藩の揺るぎない基礎を築き上げた。
彼の功績は、今日我々が目にすることができる上田城の壮麗な石垣や櫓、そして塩田平に水を湛える数多の溜池といった物理的な遺産に留まらない。村役人の制度改革や行政区画の整備といった、近世上田藩の行政・経済システムという無形の遺産の中にも、彼の先見性を見出すことができる。
仙石忠政は、偉大な父・秀久や、あまりに有名な真田氏という、二つの大きな物語の陰に隠れ、これまで正当な評価を受けてきたとは言い難い。しかし、彼は泰平の世の到来という歴史の大きな転換点において、統治者として為すべきことを的確に見極め、地道で堅実な努力を積み重ねることで、確かな足跡を残した。彼こそ、再評価されるべき優れた大名である。彼が築いた盤石な礎があったからこそ、その後の上田の地の繁栄があったと言っても過言ではないだろう。