伊丹屋清兵衛は博多の商人。豊臣秀吉の朝鮮出兵で小西行長軍の兵站を担い、釜山で軍需物資調達に奔走。その功績は歴史に埋もれた。
戦国時代から安土桃山時代にかけての日本史において、数多の武将がその名を馳せる一方で、彼らの活動を経済的に支えた商人たちの実像は、しばしば歴史の影に埋もれている。本報告書が主題とする「伊丹屋清兵衛」もまた、そうした人物の一人である。彼に関する直接的な史料は極めて乏しく、現存する記録からは「博多を拠点とした商人であり、朝鮮の釜山に在住し、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際には、豊永別四郎らと共に豊臣軍の御用商人として軍需物資の調達に奔走した」という、断片的な情報が得られるに過ぎない 1 。この記述だけでは、彼の出自、活動の具体的内容、そして歴史における役割の重要性を深く理解することは極めて困難である。
この歴史研究上の課題に対し、本報告書は、伊丹屋清兵衛という一個人を点として追う従来のアプローチから脱却し、彼を取り巻く人間関係(線)と、彼が活動した時代の社会的・経済的構造(面)からその実像に迫ることを目的とする。具体的には、第一に、彼が姻戚関係にあったと見られる武将・小西行長との強固な繋がりを解明する。第二に、彼の主たる活動拠点であった博多と、戦時下における最前線基地・釜山倭館の機能を詳細に分析する。そして第三に、彼がその一翼を担った文禄・慶長の役における、日本史上類を見ない大規模な兵站システムを解剖する。これら三つの異なる文脈を深く掘り下げ、それらを交差させることで、史料の狭間に消えた一人の商人の姿を、可能な限り立体的に再構築することを目指すものである。
伊丹屋清兵衛という人物を理解するためには、まず彼が属したであろう「伊丹屋」という商人一族の全体像を把握する必要がある。断片的な史料を繋ぎ合わせることで、この一族が畿内と九州にまたがる広大なネットワークを有し、豊臣政権の中枢と密接な関係を築いていた可能性が浮かび上がる。
屋号である「伊丹屋」は、その名の通り、摂津国伊丹(現在の兵庫県伊丹市)に由来する可能性が高い。伊丹は戦国時代から良質な清酒「伊丹諸白」の産地として全国に名を馳せ、豊臣秀吉の時代には重要な経済都市として繁栄していた 2 。この地名を冠した商人が、経済の中心地で活動していたことは想像に難くない。
実際に、同時代の史料には二人の「伊丹屋」が登場する。一人は、自由都市・堺を拠点とした茶人であり商人でもあった「伊丹屋宗不(宗付)」である 4 。そしてもう一人が、本報告書の主題である、対外貿易の玄関口・博多を拠点とした「伊丹屋清兵衛」である 1 。当時の二大経済都市と言える堺と博多に、同じ屋号を持つ有力な商人が存在したという事実は、単なる偶然とは考え難い。むしろ、伊丹屋一族が、中央の政治・経済動向を司る堺と、対朝鮮・明貿易の最前線である博多という、戦略的に重要な二つの拠点に支店網を築き、広域な商業・情報ネットワークを形成していたことを強く示唆している。この配置は、国内の物資を効率的に集積し、それを海外貿易へと繋げるという、極めて高度な商業戦略に基づいていたと推察される。
伊丹屋一族と豊臣政権との関係性を解き明かす上で、決定的な意味を持つのが、武将・小西行長との姻戚関係である。小西行長の兄弟姉妹に関する記録の中に、「伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)」という一文が存在する 8 。これは、堺の商人・伊丹屋宗付(宗不)が、小西行長の姉妹を娶り、義兄弟の関係にあったことを示す動かぬ証拠である。
この事実は、伊丹屋清兵衛を考察する上で極めて重要である。小西行長は、父・隆佐が堺の薬種商であったことからも分かるように、商人出身の大名であり、商業ネットワークの重要性を誰よりも熟知していた 9 。彼が、豊臣政権内で船奉行を務め、文禄・慶長の役では第一軍の先鋒を任されるという中枢的な役割を担っていたことを考え合わせると、自身の軍事活動を支える経済的パートナーとして、姻戚関係という最も信頼のおける繋がりを持つ伊丹屋一族を抜擢したことは、極めて合理的かつ必然的な選択であったと言える。博多の伊丹屋清兵衛が、釜山という小西軍の最前線拠点において兵站を担った背景には、この強固な血縁的・信頼関係が存在したのである。
近世の有力な商家においては、当主が代々同じ通称を襲名する「世襲名(しゅうめい)」の慣行が広く見られた。例えば、信濃国の小山久左衛門家では、当主が代々「久左衛門」を名乗っている 12 。この慣行に鑑みれば、「伊丹屋清兵衛」という名もまた、特定の個人名ではなく、伊丹屋一族における博多拠点の代表者が、代々襲名していた役職名であった可能性が考えられる。
もしこの仮説が正しいとすれば、我々が追うべき「伊丹屋清兵衛」とは、文禄・慶長の役という特定の時代に、その名を名乗って活動していた当主個人を指すことになる。これにより、彼の活動は一個人の才覚によるものに留まらず、「伊丹屋」という組織が持つネットワークとノウハウを背景にした、組織的なものであったという側面がより一層強まる。
以上の考察から、伊丹屋清兵衛を取り巻く相関関係を整理すると、以下の表のようにまとめることができる。このネットワークの中心に彼を位置づけることで、その役割と重要性がより明確になる。
人物/組織 |
拠点/所属 |
清兵衛との関係性(推定を含む) |
関連史料 |
伊丹屋清兵衛 |
釜山倭館・博多 |
本報告書の主題。豊臣軍御用商人。小西行長軍の兵站を担う。 |
1 |
小西行長 |
肥後宇土城・第一軍大将 |
義兄の可能性。軍司令官であり、清兵衛の活動の直接の庇護者。 |
8 |
伊丹屋宗付/宗不 |
堺 |
一族の可能性。小西行長の義弟であり、畿内における一族の拠点。 |
4 |
豊永別四郎 |
不明(釜山か) |
協働者。同じく釜山で活動した御用商人。 |
1 |
島井宗室・神屋宗湛 |
博多 |
協力関係にあった大商人。博多における兵站ネットワークの中核。 |
14 |
宗義智(対馬藩主) |
対馬 |
釜山倭館の管理者。日朝間の兵站・外交ルートの責任者。 |
17 |
豊臣秀吉 |
中央政権 |
役務の最高任命者。文禄・慶長の役の最高指導者。 |
20 |
この複雑な関係性の網の目の中で、伊丹屋清兵衛は単なる一御用商人ではなく、小西行長という特定の権力者と深く結びついた、極めて重要な役割を担う存在であった。彼の活動は、公的な任務であると同時に、姻戚関係にある小西家の軍事的成功に直結する、半ば私的なミッションでもあったと言えよう。彼は政権から一方的に業務を請け負う「業者」というよりも、行長の個人的な信頼に基づき、軍団の生命線である兵站を任された、腹心に近い「エージェント」としての性格を色濃く帯びていたと結論づけることができる。
伊丹屋清兵衛が「御用商人」として活動した歴史的背景を理解するためには、豊臣政権が構築した特異な経済政策と、商人との関係性を把握することが不可欠である。秀吉は商人を保護・活用する一方で、戦時には国家事業へ積極的に動員する体制を築き上げた。
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、経済の活性化を国力増強の根幹と捉えていた。楽市・楽座の推進や関所の撤廃といった政策は、商工業の自由な発展を促すものであった 22 。しかし、その一方で、秀吉は有力な商人たちを政権の構造に巧みに組み込み、自身の経済的・政治的基盤として活用した。朝尾直弘氏が指摘するように、秀吉の商人保護は単なる利潤追求の奨励ではなく、天下人が商人に恩寵を与えるという側面も持ち合わせていた 23 。
この関係性を象徴するのが「御用商人」制度である。「御用達」や「御用聞き」とも呼ばれるこれらの商人は、政権の庇護のもと、物資の調達や金融といった御用を務める見返りとして、様々な特権を与えられた 24 。特に、国際貿易港である博多の商人たちは、秀吉にとって極めて重要な存在であった。神屋宗湛や島井宗室に代表される「博多三傑」は、秀吉の九州平定や、戦乱で荒廃した博多の復興事業「太閤町割」に深く関与し、政商として絶大な影響力を行使した 14 。彼らは単なる御用聞きに留まらず、都市計画や対外政策にまで影響を及ぼす、政権のパートナーとも言うべき存在だったのである。
文禄・慶長の役という、16世紀における世界最大規模ともされる国際戦争 26 の勃発は、商人の役割を飛躍的に増大させた。彼らの活動は、単なる物資調達の域をはるかに超え、戦争の遂行そのものを左右する多岐な分野に及んだ。
第一に、最も重要な役割は兵站活動であった。島井宗室らが兵糧米や、火薬の原料となる硝石の調達・斡旋を担ったように、膨大な軍勢を異国の地で維持するための物資供給は、商人たちの手腕に大きく依存していた 16 。
第二に、金融面での支援も不可欠であった。島井宗室は九州の諸大名に資金を貸し付ける「銀主(金主)」としても活動しており、その財力は出兵に参加する大名たちの軍備を支えた 14 。また、遠隔地間の資金移動を可能にする為替業務なども、商人の重要な機能であったと考えられる。
第三に、情報収集の役割も看過できない。対外貿易を通じて海外の情勢に精通している商人は、貴重な情報源であった。特に、商人出身であり、自らも対朝鮮交渉の最前線に立った小西行長は、商人が持つ情報ネットワークの価値を深く理解し、それを戦略的に活用していたと推察される 8 。
このように、豊臣政権下の御用商人は、戦争という国家の非常時において、兵站・金融・情報という三つの側面から、政権を支える重要な柱となっていたのである。
しかし、「御用商人」と一括りに言っても、その内部には明確な階層構造が存在したと考えられる。神屋宗湛や島井宗室は、秀吉個人と茶会で席を同じくするなど直接的な関係を持ち、博多という一大拠点を基盤に、豊臣軍全体の兵站を統括する国家レベルの政策に関与していた 15 。彼らは、現代で言うところの「元請け」に近い、トップクラスの政商であった。これに対し、伊丹屋清兵衛の活動は、小西行長という特定の軍団に随行し、釜山という特定の最前線拠点で、軍需物資の調達という具体的な実務に特化している 1 。彼の立場は、特定の軍団に所属する「下請け」、あるいは高度な専門性を持つ「兵站部隊」と位置づけるのがより実態に近いだろう。この階層構造を認識することは、清兵衛の役割を歴史の中に正確に位置づける上で不可欠である。
さらに、商人たちが戦争に協力することは、一族の運命を賭けたハイリスク・ハイリターンな政治的投機でもあった。豊臣政権は、堺や博多の商人と結びつき、彼らにビジネスとして物資調達をさせた記録があり、戦争協力は莫大な利益(チャンス)を生む源泉であった 29 。しかし、それは同時に巨大なリスクを伴った。例えば、島井宗室は朝鮮出兵に批判的な立場を取ったため、秀吉から一時遠ざけられたとされており、政治的判断の誤りが即座に一族の没落に繋がりかねない、厳しい現実があった 30 。こうした状況下で、伊丹屋一族は、小西行長との姻戚関係という強力な「保険」を掛けることで、このリスクを可能な限り軽減し、戦争がもたらすビジネスチャンスを最大化しようとしたと見ることができる。しかし、この選択は、庇護者である小西行長の運命と一族の運命を一体化させることでもあった。最終的に行長が和平工作に失敗し、関ヶ原の戦いで西軍に与して敗死した 8 ことは、彼を支えた伊丹屋一族にとっても、破滅的な結末をもたらした可能性が極めて高い。伊丹屋清兵衛の釜山での奔走の裏には、常にこうした一族の存亡を賭けた緊張感が存在していたのである。
伊丹屋清兵衛が担った任務の重要性と、その困難さを理解するためには、彼の活動の舞台となった文禄・慶長の役における兵站システム、すなわち補給作戦の全体像を把握する必要がある。この戦争は、豊臣政権がその総力を挙げて挑んだ、前代未聞の大規模なロジスティクス・プロジェクトであった。
豊臣秀吉は、朝鮮半島への出兵を決定するにあたり、その兵站網を周到に構築した。その中核を成したのが、国際貿易港・博多と、前線基地として新たに築かれた肥前名護屋城である。博多は、その地理的条件から古来より大陸との交流拠点であり、この大戦役においては、全国から集積される兵員、兵糧、武具、弾薬などを一手に引き受ける巨大な兵站基地(デポ)としての役割を担った 20 。
一方、現在の佐賀県唐津市に築かれた名護屋城は、文字通り出兵の最前線司令部であった。全国から15万人以上とも言われる大名・兵士がここに集結し、対岸の朝鮮半島へと渡る一大拠点となった。博多の商人たちは、この名護屋城の膨大な需要を支え、兵站ネットワークの維持に奔走したのである 20 。
名護屋から朝鮮半島への輸送ルートは、壱岐・対馬という二つの島を経由し、対馬東水道を横切って釜山に至る航路が主軸であった 31 。この海上補給路の維持は、戦争の生命線そのものであった。
兵糧米の確保は、豊臣政権にとって最重要課題であった。秀吉は、九州や四国に設置した蔵入地(天領)から30万石もの蔵米を兵糧として拠出させ 31 、さらに、博多に米相場を設けるなどして商人米の買い付けを促進し、名護屋へ集積させた 29 。こうして集められた膨大な兵糧米は、船団によって釜山へと輸送され、一旦現地の蔵に集積された後、朝鮮各地に築かれた倭城(日本式の城郭)へと分配される計画であった 34 。この兵站の流れにおいて、釜山に設けられた蔵は、補給物資の受け入れ、保管、そして再分配を担う、兵站の結節点(ハブ)として決定的に重要な役割を果たした。
この前代未聞の兵站プロジェクトを統括したのは、石田三成、大谷吉継、長束正家といった、秀吉子飼いの優秀な文治派の奉行たちであった 35 。彼らは、現代で言うところの兵站監として、中央で兵糧の計算、輸送計画の立案、各部隊への割り当てといったマネジメント業務を担当した。しかし、彼らの計画を実地に動かすのは、伊丹屋清兵衛のような御用商人たちの役割であった。奉行たちが立てた綿密な計画に基づき、商人たちがそのネットワークと商才を駆使して実際に物資を調達・輸送するという、官民が連携した高度な兵站システムが構築されていたのである 29 。
この豊臣政権による兵站システムは、日本の戦争史における一つの「マネジメント革命」であったと言える。それまでの戦国時代の合戦における兵站(荷駄)は、基本的に各大名が自らの領国から物資を調達し、輸送する「自前主義」が原則であった 37 。しかし秀吉は、中央政権が各地の直轄地や商人ネットワークを通じて物資を調達・備蓄し、それを計画的に前線へ供給するという、全く新しい中央集権的な兵站システムを導入した 29 。これは、個々の武将の能力に依存するのではなく、システムとして戦争を遂行しようとする、近代的な「ロジスティクス・マネジメント」の思想の萌芽と見ることができる 38 。伊丹屋清兵衛の活動は、単なる一商人の奮闘に留まらず、この巨大なシステムを末端で支える重要な歯車としての役割を担っていた。
しかし、この壮大な兵站計画には、当初から構造的な脆弱性が内包されていた。秀吉は、朝鮮を容易に制圧し、現地の米を接収する「現地調達」を楽観視していた節がある 33 。だが、李舜臣率いる朝鮮水軍の予想外の活躍により、制海権を脅かされた日本軍の海上補給路は度々寸断され、前線の兵糧不足は極めて深刻な問題となった 40 。この事実は、日本からの海上輸送に依存せざるを得ない兵站システムの脆弱性を露呈させた。このような状況下において、釜山に常駐し、日本からの数少ない輸送船が運んでくる兵糧を確実に受け入れ、保管・管理し、さらには可能な限りの現地調達を試みる伊丹屋清兵衛のような存在は、前線部隊の生命線を文字通り維持する上で、戦略的に決定的な重要性を持っていた。彼の働きが少しでも滞れば、小西行長率いる第一軍は、即座に飢餓と弾薬不足に直面する危険と隣り合わせだったのである。
伊丹屋清兵衛が軍需物資調達のために奔走した主たる舞台は、朝鮮半島南端の港・釜山に設置されていた「倭館」であった。この倭館は、平時と戦時でその性格を劇的に変貌させた施設であり、その機能の変遷を理解することは、清兵衛が置かれた活動環境を具体的に描き出す上で不可欠である。
文禄・慶長の役以前の倭館は、朝鮮半島内に設けられた、一種の治外法権的な日本人居留地であった。その管理・運営は、対馬藩主である宗氏が一手に担っていた 18 。対馬は山がちで耕作地が少なく、米の生産力が極めて低かったため、藩の財政は朝鮮との貿易によって得られる利益に大きく依存していた 17 。そのため、宗氏は室町時代から徐々に朝鮮貿易における独占的地位を確立し、倭館をその拠点としていたのである 44 。
平時における倭館には、対馬藩から派遣された外交実務を担う役人や、貿易に従事する商人(興利倭人と呼ばれた)、さらには通訳、医師、大工といった様々な職能を持つ人々が、常時数百人規模で滞在していた 18 。倭館は、公式な使節を接待する「客館」、商人同士が取引を行う「商館」、そして外交実務を行う「在外公館」という、三つの機能を併せ持つ、日朝関係の結節点であった 47 。
天正20年(1592年)に文禄の役が勃発すると、釜山は日本軍の最初の上陸地点となり、倭館の機能は一変した。倭館、およびその周辺に日本軍が新たに築いた日本式の城郭(釜山倭城)は、平時の外交・貿易拠点から、日本軍の軍事司令部、そして最前線の兵站基地へと、その性格を完全に変貌させたのである 19 。
日本各地から海上輸送されてきた膨大な兵糧米、武具、弾薬といった軍需物資は、まずこの釜山の拠点に陸揚げされ、集積・管理された 34 。平時には対馬の商人と朝鮮の商人が綿花や人参を取引していた場所が、戦時には兵站の最重要ハブとなり、情報収集の拠点、さらには負傷兵の後送基地といった、多岐にわたる軍事的中枢としての役割を担うことになった。伊丹屋清兵衛の活動は、まさにこの変貌した倭館の中心で行われていた。
このような環境下で、釜山に駐在した伊丹屋清兵衛は、極めて複雑な立場に置かれていたと推察される。倭館は、形式上は長年にわたりこの地を管理してきた対馬宗氏の管轄下にある 18 。しかし、戦時下においては、豊臣政権から派遣された小西行長をはじめとする諸大名が、実質的な支配権を掌握していたことは間違いない。したがって清兵衛は、倭館の旧来の管理者である対馬藩の役人たちと協力・交渉しつつ、自身の直接の庇護者である小西行長の軍団兵站担当者としての任務を遂行するという、二重の権力構造の中で活動する必要があった。これは、高度な調整能力と政治的センスが求められる、非常に困難な立場であったと言えよう。
さらに、清兵衛の役割は、単なる物資の管理者(ロジスティシャン)に留まらなかった可能性が高い。倭館は、平時から朝鮮側の役人や商人も出入りする「情報の交差点」であった 46 。戦時下においても、様々なルートを通じて敵味方の情報が錯綜する場所であったはずである。商人、とりわけ国境を越えて活動する貿易商人は、物だけでなく情報を扱うプロフェッショナルである。和平交渉を重視し、常に朝鮮側や明側の内部情報を必要としていた小西行長が 13 、義弟である清兵衛を単なる倉庫番としてのみ使ったとは考えにくい。清兵衛は、釜山倭館という情報の集積地で、様々な人々との接触を通じて得られる生きた情報を収集・分析し、それを戦略的に価値のあるインテリジェンスとして義兄・小西行長に報告する、情報分析官(インテリジェンス・オフィサー)としての側面も持っていたのではないだろうか。彼が調達し、管理する「物資」の中には、目に見えない「情報」という、極めて重要な戦略物資も含まれていたと考えるのが自然である。
これまでの各章で詳述してきた歴史的文脈――伊丹屋一族のネットワーク、豊臣政権下の御用商人制度、大規模な兵站システム、そして釜山倭館の機能――を踏まえ、本章では伊丹屋清兵衛の具体的な活動内容を再構築し、その歴史的役割を最終的に評価する。
現存する数少ない史料は、伊丹屋清兵衛が「豊永別四郎らとともに」軍需物資の調達に奔走したと記録している 1 。この豊永別四郎という人物に関する情報は、清兵衛以上に乏しく、その出自や経歴は全くの謎に包まれている。しかし、この記述から、清兵衛が単独で活動していたのではなく、同じく釜山に駐在する御用商人とチームを組んで、小西軍の兵站という巨大な任務にあたっていたことがわかる。彼らは、兵糧米の管理、武器・弾薬の調達、その他の雑多な物資の確保といった業務を分担、あるいは協力しながら遂行していたと考えられる。この協働体制は、一個人の能力を超えた大規模な兵站業務を円滑に進める上で不可欠であっただろう。
釜山倭館という最前線の兵站基地において、伊丹屋清兵衛が担ったであろう具体的な任務は、多岐にわたっていたと推察される。
これらの任務は、単なる商才だけでは到底務まらない。在庫管理、輸送計画、会計処理、そして異文化間での交渉術といった、多岐にわたる専門的なスキルが要求される。伊丹屋清兵衛は、単に「博多の商人」というだけでなく、現代の言葉で言うならば、高度な専門性を持った「ロジスティクス・スペシャリスト」であった。彼の活動は、戦国時代から近世へと移行する中で、商人がより高度な専門知識をもって国家の巨大事業に関与していく姿を象徴している。
文禄の役の緒戦において、小西行長率いる第一軍は、釜山上陸後わずか20日足らずで首都・漢城を陥落させるという、破竹の進撃を見せた 32 。この驚異的な進軍速度は、前線の兵士たちの奮戦もさることながら、その後方を支える安定した兵站供給なくしては絶対に不可能であった。伊丹屋清兵衛と豊永別四郎らが釜山で展開した地道かつ専門的な兵站活動こそが、この小西軍の華々しい軍事的成功を根底から支えた、紛れもない功績であったと評価できる。
にもかかわらず、なぜ伊丹屋清兵衛の名は、同じ博多商人である神屋宗湛や島井宗室のように、後世に大きく伝わらなかったのか。この問いに対する答えは、彼の活動の特性と、その後の政治的変転の中に見出すことができる。第一に、彼の活動はあくまで小西行長という一個人の麾下に密着したものであり、その運命は行長と共にあるものであった。その最大の庇護者であった小西行長が、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦い、敗れて処刑され、小西家そのものが断絶してしまった 8 。徳川の世が到来すると、豊臣恩顧、とりわけ西軍に与した武将の功績や、その腹心であった人物の働きが、新たな支配者によって編纂される公式の歴史記録から意図的に削除されたり、あるいは語り継がれなくなったりした可能性は極めて高い。
第二に、彼の任務が、戦場で手柄を立てる武将とは異なり、あくまで「裏方」であったという性質的な要因も大きい。兵站という活動は、成功して当たり前と見なされ、失敗した時のみが責めを負う、地味で目立たない役割である。歴史の記録は、どうしても華々しい戦功物語に光を当てがちであり、それを支えた無数の裏方たちの労苦は、記録に残りにくい宿命を持つ。伊丹屋清兵衛が歴史の表舞台からその姿を消したのは、この政治的要因と任務の性質的要因が複合した結果であると考えられる。彼の存在は、勝者によって語られる歴史の潮流の中で、いかに多くの重要な役割を果たした人物が忘却の彼方へと追いやられていくかを示す、一つの悲劇的な事例と言えるのかもしれない。
本報告書は、史料に乏しい商人「伊丹屋清兵衛」について、彼を取り巻く人間関係、時代の経済構造、そして活動の舞台となった戦争の特質という三つの文脈から、その実像を再構築する試みであった。
分析の結果、伊丹屋清兵衛は、単なる一介の商人ではなく、畿内の堺と九州の博多にまたがる広域商業ネットワークを持つ「伊丹屋」一族の一員であり、豊臣政権の中枢にいた武将・小西行長と姻戚関係を結ぶことで、その腹心として活動した、高度な専門性を有する兵站管理者(ロジスティクス・スペシャリスト)であったと結論づけることができる。さらに、釜山倭館という情報の交差点で活動したことから、物資のみならず、戦略的に価値のある情報を扱う情報分析官(インテリジェンス・オフィサー)としての役割も担っていた可能性が極めて高い。
彼の生涯は、戦国末期から安土桃山時代にかけての商人が、いかに深く政治・軍事と結びつき、国家の命運を左右する巨大事業に関与していたかを示す、格好の事例である。彼は、中世的な独立商人から、権力と一体化して活動する近世的な「政商」へと、商人のあり方が大きく変容していく、まさにその過渡期を体現した人物であったと言えよう。そして、庇護者であった小西家の滅亡と共に歴史の記録からその名が薄れていった事実は、当時の商人たちがいかに不安定で危険な政治的立場に置かれていたかを物語っている。
本報告は、現存する間接的な史料からの論理的推察に基づく再構築である。今後の研究においては、未だ全容の解明が進んでいない膨大な『対馬宗家文書』 17 や、朝鮮側で編纂された『朝鮮王朝実録』 52 などの史料群を丹念に調査することで、彼の活動を示す新たな断片的な記録が発見される可能性に期待したい。歴史の主舞台に登場しない「裏方」の人物を地道に掘り起こし、その役割を正当に評価していく作業は、歴史の全体像をより深く、そしてより正確に理解するために不可欠な営為であることを、最後に改めて強調したい。